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                                現在のカリャオ特別市の街の夕日(Cortesía Juan Goicochea)


まず写真のご紹介から。

日本語の生徒で空手道場のオ-ナ-であり師範でもある、フアン・ゴイコチェアさんが撮られたものをfacebookで見つけて、
許可を頂いて掲載しました。

奥が海岸です。左手、沖のサン・ロレンソ島のシルエットの形と、前回[その2]の写真の島の形を比べてみて下さい。
偶々、同じ方向から撮られたために、形が同じです。


さて、今回[その3]では、リマ・カリャオ港から直接マカオへ船を送った第8代ペル-副王とその仲間が自分たちの財産を委ねた、副王の甥ロドリゴ・デ・コルドバと二人のイエズス会士の、マカオに着いてからの行方を追ってみたいと思います。


マカオで船と積んできた銀を差し押さえられた後、現地ポルトガル法廷の決定によって、ロドリゴ・デ・コルドバと二人のイエズス会士は、インド・ゴアに送られます。


〈インド副王の対応〉


・ロドリゴはポルトガルへ

インド副王は、二人の聖職者たちに対してはイエメンで監禁されるように命じ、船長ロドリゴ・デ・コルドバについては、その場で提訴に対する結論を出すことを避け、国王への申し立てを継続させるべく、ポルトガルに向けて出航させることを決定します。


・イエズス会士二人はイエメンへ

レアンドロ・フェリペとゴンサロ・ベルモンテは、イエメンの拘置所へ送られましたが、1592年、ゴアのコレジオ(神学校)を叙階(おそらくは、司祭の資格授与)式の祝賀会のために訪れ、同僚たちのために余興としてケチュア語で説教を行ったという記録があります。
(ということは、監禁が命じられたと言っても、「実際は、それほど厳しい拘束は受けていなかった」ということかも知れません。)


〈戦死したロドリゴ〉


英国人歴史家チャ-ルズ・ラルフ・ボクサ-(C.R.Boxer)によると、1593年、ロドリゴ・デ・コルドバを乗せたポルトガルのガレオン船は、大西洋上のアゾレス諸島沖(リスボンの西約1500キロ)で、英国のカムバ-ランド艦隊によって炎上させられ、ロドリゴは戦死したとのことです。

彼の、死の知らせは、ゴアよりもリスボンに先に届けられ、ポルトガル当局は、ペル-の銀を全てリスボンへ転送することを命じたということですが、ペル-船の金銭はイエズス会士レアンドロ・フェリペによって、既に一文残らず然るべく処理されていた筈です。


〈ペル-副王の復讐〉


絶妙とも言える偶然の一致ですが、戦死したロドリゴ・デ・コルドバの叔父であり例の船の船長として彼を送り出した張本人である副王ガルシア・デ・メンド-サは、1593年頃アタカマ湾(現在のチリ)で、英国の海賊リチャ-ド・ホ-キンスの艦隊に対し、圧倒的な攻撃を行ったということです。ポルトガル沖で惨殺された甥の仇(かたき)をチリ沿岸で討った、というわけです。



次に、イエズス会士二人の、その後の行方を追う前に、マカオ行の船に乗る前の二人の経歴を確認しておきたいと思います。


〈イエズス会士たちの経歴〉


・レアンドロ・フェリペ神父

1544年頃、スペイン・セビリャ生まれ
1565年、(21歳)ペル-へ渡航した際の乗船客名簿によれば、職業は商人
1568年、(24歳)イエズス会に入会
       その後、パナマの上長を勤めた。

・ゴンサロ・デ・ベルモンテ修道士

1540年頃、スペイン・セビリャ司教区内モゲ-ル村生まれ
1577年、(37歳)イエズス会に入会
       助修士で、ペル-管区のプロクラド-ル(財務担当者)であった。


(その他)

・フェリペとベルモンテは、リマとラ・パス(現ボリヴィア)で共に過ごしたことがある。

・会の厳格な評価では、両名とも「従順である」とされている。

マカオ行きの船に乗船した経緯

事務長(副王の甥ロドリゴ・デ・コルドバを指すと思われます)が、イエズス会ペル-管区長フアン・デ・アティエンサに対し、乗組員を霊的に援助するための神父・修道士各1名を航海に同行させることを要請し、二人が指名された。


〈レアンドロ神父入会の頃のイエズス会の状況〉


参考のために、レアンドロ・フェリペ神父が入会した当時の、ペル-・イエズス会の状況を概観してみました。


1567年、スペインから8名の会士が初めてペル-へ派遣される。

1568年、イエズス会ペル-管区が創設される。
      リマに、サン・パブロ学院が開設され、スペイン領アメリカ最古の学院となる。

1570年、ホセ・デ・アコスタを含む第三次宣教団が派遣される。
      アコスタは、南米大陸カトリック教会史上の重要人物の一人と目され、
      『インディオ救霊論』『新大陸自然文化史』の著者として知られる。


アコスタらの第三次宣教団は、リマ大司教区内のクリオ-リョやメスティ-ソ、スペイン本国生まれの入会志願者を養成する人材として派遣されたとされています。

クリオ-リョとは、通常、ヨ-ロッパ人を両親とする植民地生まれの人を指しますが、この場合、特に南米生まれのスペイン人(白人)という意味でしょう。メスティ-ソとは、先住民と白人の混血の人を指します。

レアンドロ・フェリペは、スペイン本国生まれの入会志願者に該当します。

イエズス会は、ペル-での布教を進めるに当たり、先住民でなく、現地在住のスペイン人または混血の者を、聖職者として養成しようと考え、レアンドロは、その方針に沿って司祭を目指し入会した志願者だったということになります。



〈その後、ペル-副王の船が各方面に惹き起こした波紋〉


スペイン
では、
1594年の初め、国王フィリップ2世は、インド副王マティアス・デ・アルブケルケに手紙を送り、スペイン人密輸業者の船のマカオ到着を知らせています。

ペル-では、
船をマカオに送った第8代副王は、1594年頃には、自分のかねを取り戻すことの希望を全く失っており、またペル-・イエズス会は、中国に向けて出発した会士たちは、もう死んだものとみなしていたようです。

東洋の地でのペル-商人の運の強さや、取引の実行・管理を委ねられていたレアンドロ・フェリペの商売上の駆け引きの腕を知らなかったのでしょう。実際には、そのときレアンドロは、商取引のやりとりのまっただ中に居たと考えられるのですが。


〈混乱収拾のために、総巡察師ピメンタ神父が派遣された〉


総巡察師の提案は、二人が、ペル-のかねを放棄してインド管区に残るか、それとも、フィリピンに向けて直ちに出発し、マニラ経由リマに戻るか、でした。

レアンドロ・フェリペは、当然、第二案を選びました。それは、1597年の4月頃のことですから、二人が初めてアジアの地を踏んでから7年が過ぎていました。


〈ゴアからマラッカまで〉


航海は、先ず、インド・ゴアからマラッカ(シンガポ-ル)に向けて行われたと考えられますが、それは、カリカット、コチン、コロンボというポルトガルの貿易拠点を経由するものだったでしょう。


〈マラッカからは、8人の黒人奴隷を連れて〉


ゴンサロ・デ・ベルモンテが、後にリマから総会長に宛てた報告によると、やっとマラッカ(シンガポ-ル)へ着いたのち、フィリピン諸島行きの船を1年間待たねばならず、その間、彼はコレジオ(神学校)で働いていました。

そこへ、運良くフィリピン諸島の船が来て、レアンドロと8人の黒人奴隷と共に、そこから出発することが出来たということです。

イワサキ氏は、「二人のイエズス会士たちが、絹や香辛料や銀を抱えていなかったとしたら、8人の黒人奴隷というのは、多過ぎるのではないか」と指摘しています。


〈マニラにて〉


マニラでは、イエズス会コレジオの仕事に従事しながら、1年間、アカプルコ行きのガレオン船を待ちます。

例によって、野心的なゴンサロ・デ・ベルモンテは、従兄弟である聴訴官アルバロ・ロドリゲス・サムブラノに働きかけ、入手した商品と8人の黒人奴隷をメキシコへ運ぼうとしたようです。

フィリピン総督は、1598年6月、「富裕なペル-商人」に関する不平を述べた書簡を国王に送っています。


〈メキシコからペル-へ〉


二人は、1600年の初めにメキシコに着きましたが、メキシコ・アカプルコ⇒ペル-・カリャオ間の航路が海賊に制圧されていたため、それが解放されるまでに4か月待たねばなりませんでした。


〈ようやく、リマへ〉


二人の到着は、リマにおいて、特に遠征に参加した者たちの家族や出資者たちの間に、大きな衝撃を起こしたに違いありません。

けれども、アジアへ送った銀に関わる訴訟や申し立てなどがあった形跡はないのです。
かろうじて、イエズス会自体が、彼らの同僚を受け入れ歓迎したことを示す資料があるだけです。


〈二人の、その後〉


レアンドロ・フェリペは、サン・パブロ学院に閉じこもったまま祈りの年月を過ごした後に、1613年頃亡くなりました。

(ちなみに、その年リマで行われた人口調査に日本人20人が記録されています。)(http://iwahanjiro.exblog.jp/20544054/

20人の日本人が住んでいたと考えられる旧市街は、レアンドロ神父のいたサン・パブロ学院や、ゴンサロ修道士が幽閉されていた修練院のすぐ近くです。日本人たちが、日曜日の教会のミサやその他何かの機会に、神父や修道士をみかけることがあったかも知れません。

しかし、その神父や修道士が管理責任者として乗り組んだ船によってマカオへ運ばれたペル-銀が、自分たちが遥かな故郷として意識している日本のキリシタン教会の財政難を救ったり、マカオに計画されていた聖職者養成機関の建設に役立った可能性があるなどということは、20人の日本人にとって思いもかけないことだったでしょう。



ゴンサロ・デ・ベルモンテは、幽閉されていた修練院から脱出するべく、総会長クラウディオ・アクアヴィヴァに働きかけたようです。ベルモンテは、最後の年月を家族と過ごすために、スペインへ戻ることを望んでいたのです。

そして彼の望みを叶えようと、彼の家族も良く結束していました。セビリャ出身の甥が彼を救うためにインドへ赴き、マニラでは従兄弟である聴訴官が彼を支援したことは、既に書いた通りです。今回は、修道女である妹が、彼のために総会長に働きかけました。

しかし、結局、彼とその家族の望みが叶えられることはなかったようです。



イエズス会は、自らのイメ-ジを傷付けるような噂を打ち消す浄化キャンペ-ンを始め、それによって、次期副王ルイス・デ・ヴェラスコの好意を得ることに成功します。




[マカオに行った船と二人のイエズス会士について、私が考えること]



1.「密輸船」と呼ばれると


16世紀の末、ペル-銀を満載してマカオへ直行した船は、当時植民地に派遣されたスペイン人官僚が、その立場を利用して、いかに個人の蓄財に励んだか、その涙ぐましい努力のひとつの現れではないか、と書きました。

けれども、その船が「密輸船」と呼ばれると、私は少し抵抗を感じます。

確かに、その船は、ペル-・マカオ間の航行を禁止した国王勅令という法令に違反して送られたものではありますが、「密輸」という言葉の、後ろ暗く重大な犯罪というイメ-ジとは、ちょっと違う印象を持っているからです。

そもそも、ペル-・マカオ間の航行を禁止した国王勅令が発せられた理由ですが、

ひとつは、ペル-船が積載して行く銀が、マカオで中国商品購入の対価として支払われ、これが現地の価格上昇を招き、マカオのポルトガル商人の利幅を縮小させた、つまりあまり儲からなくなったということがあります。

もうひとつは、ペル-船が持ち帰る中国商品の圧倒的な低価格が、従来ペル-で独占的に販売されてきたスペイン本国の商品や、マニラ・アカプルコ経由輸入される中国商品の販売を脅かした、つまりあまり売れなくさせたから、ということだったのでしょう。

要するに、マカオのポルトガル人商人や、スペイン本国の商人やヌエヴァ・エスパニャ(メキシコ)のスペイン人商人たちが、従来享受してきた既得権が失われる危険が生じたために王室に圧力をかけた結果が、国王勅令なのです。

これら商人の既得権は、不利な交易条件に甘んずるという、植民地側の犠牲の上に成り立っていたものです。

植民地官僚の私利私欲の行動が、「植民地からの収奪⇒本国側の利益独占」という構造を脅かしたというところが、皮肉でもあり、また面白いところではないかと思います。

その点を考慮すると、この船に「密輸船」というレッテルは似合わない感じがします。


2.二人のイエズス会士について


〈消極的だった?イエズス会〉

そもそもは、(おそらくは)第8代副王の甥から、管区長が強引に派遣を要請され、不承不承引き受けた、という話があります。

その船がマカオ・イエズス会の協力を見込んで送られたと考え、イエズス会側も積極的だったのではないかという推測もあります。

けれども、副王ガルシアが弟である司祭エルナンド・デ・メンド-サのペル-転任を要請したときの総会長の反応は、金儲け主義にイエズス会士を巻き込みかねない副王の性向を警戒している様子でしたから、ペル-管区長も副王とは距離を保つ方針だったのだろうと、思いますが、結局は現地当局との関係を考慮して、要請を呑まざるを得なかったのでしょう。

本部方針では否決されていることを、出先機関は現地当局との関係上受け容れざるをえず、受け容れ決定については出先機関の責任とされたということです。大きな組織では、よくありがちなことです。


〈「従順」という評価〉


その結果選ばれた二人の評価は、「従順」ということでした。

中世以降の、修道会士の行動基準が「清貧・貞潔・従順」であったことは、世界史の教科書に出ていたような気がします。つまり、「従順」は修道会士として当然の条件であり、それだけでは、「特に言うべきことがない、何の取り柄もない人」という意味になるでしょう。

特に、イエズス会内で、有能と認められるためには、例えば学問や芸術(美術・音楽)や技術的知識(建築や財務会計など)や語学(布教地の言語)や政治力などで、他に秀でた才能を見せることが必要だったようです。

そういう組織の中で、「従順」という評価は、レアンドロとゴンサロが船に乗った時点ではそれぞれ、もう46歳、50歳であったことも考えると、かなり辛く厳しいものだと考えられます。


〈二人の経歴と性格〉

・神父レアンドロ・フェリペ
には、先に書いたこと以外に、特に記録はありません。

・修道士ゴンサロ・デ・ベルモンテは、37歳で入会し、プロクラド-ル(財務担当者)だったということですから、入会前に商人としての経験があったのかも知れません。

この人に関しては、メンデス・ピントを思い出します。
ピントは、「インドで最も金を蓄えた者の一人である」と言われたほどの有力な商人でしたが、インドで「日本宣教団」に出資すると同時に参加しイエズス会にも入会しましたが、4年後に退会しています。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21876411/

私は、ピントは宗教的情熱以外の動機で入会したのではないか、と思っています。そして、ゴンサロにも、似たような要素を感じます。

ゴンサロも「従順」であった筈ですが、マカオ・ゴアで時間が経過するに従って本性が出てきたのでしょう。資金の運用方法を巡ってレアンドロと衝突したようです。

レアンドロは司祭ですから、修道士であるゴンサロより権限があった筈です。
ところが、年齢はゴンサロの方が4歳上で、またゴンサロの出身の家柄のほうが有力だったというような要素からゴンサロがレアンドロを甘く見たのかも知れない、と私は思っています。上司を甘く見たツケは、後で廻ってきます。


〈二人の衝突〉


既に、書きましたように、二人は差し押さえを免れた分の資金の運用方法を巡って対立します。

ゴンサロ修道士は、リスクの高い運用方法を主張したと言われています。ゴンサロは、何故この期に及んで、出資者という他人の資金をわざわざリスクの高い方法で運用しようなどと考えたのでしょうか。

私は、彼はもうペル-には戻らず別の仕事に就くことを考え、自分のこれからにとって有利な条件を提供してくれる相手に貸し付けようとしていたのではないかと考えています。

ゴンサロが貸し付けようとした相手は、インド副王―ポルトガル商人、つまりバリニャ-ノに対立するライン、の人物だったかも知れません。

一方、レアンドロ神父は、ペル-に戻ることを前提としていたのでしょう、極力早期にペル-副王を含む出資者に返金しようと考えます。その方法は、ヴァリニャ-ノかそのグル-プの誰かが、自分たちにとって都合の良い方法をアドバイスしたのでしょう。

結局、レアンドロ神父の方が権限がありますから、レアンドロはヴァリニャ-ノ・グル-プのアドバイスに従い、そのグル-プに、インド向け輸出のメリットを提供する手法でゴアに送金し、またゴアからペル-の出資者に送金しました。

ヴァリニャ-ノは盛んに、レアンドロが有能だったことを強調する報告をしていますが、それは、「レアンドロは、自身の知識と判断で我々のアドバイスも受けずに処理を行ったのであって、決して自分たちが彼を誘導したわけではない。」と、言いたいがためのものであることは言うまでもありません。


〈10年かけて、ペル-に戻ってから〉


10年かけて、ペル-に戻ってから、二人は、それぞれコレジオと修練院で、長い年月を外界と接触せずに過ごすことを余儀なくされたようです。

特に、ゴンサロ修道士には、レアンドロ神父に反抗し「従順の掟」を破ったこと、に対する厳しい処分が待っていたことでしょう。再三にわたる、本人及び家族からのスペインへの帰国許可申請は、当然聞き容れられませんでした。


二人とも、別に自分自身が望んであの船に乗ったわけでは、ありません。もし、船や積み込まれた銀が、マカオで差し押さえられることがなければ、また、その後、マカオやゴアで起きたような混乱や騒動が起きなければ、このような扱いは受けずに済んだのかも知れません。

「結果責任」です。それが、この組織の厳しいところです。


私は、1613年に伊達政宗が派遣したとされる「慶長遣欧使節」支倉常長をモデルとした、遠藤周作の小説「侍」の主人公 六衛門を思い出しました。そういえば、リマのコレジオでレアンドロ神父が亡くなったのも、1613年頃でした。

六衛門は、7年をかけてようやく帰国し、キリシタンに改宗したことを責められながら、「(使節には)どこで朽ち果てようと一向に構わない、身分の低い者が選ばれたことを」聞かされます。

ところが、その絶望の淵で、「人間のこころのどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを、求める願いがあること」に気付きます。使節としての使命を果たすために便宜的にキリシタンになったはずの彼が、ときおり、キリストのことを考えるようになるのです。(http://iwahanjiro.exblog.jp/20581302/


レアンドロ神父とゴンサロ修道士は、コレジオと修練院で、一体、何を誰のことを思っていたのだろうと、私は考えます。
 



〈あと二枚の写真のこと〉


終わりに、あと二枚写真を見て頂きたいと思います。


一枚目は、リマのセントロ(旧市街)にあるペル-国立図書館(BIBLIOTECA NACIONAL)の正面です。

1568年(レアンドロ・フェリペが入会した年)、イエズス会が現地聖職者養成のために、サン・パブロ学院(正式には、El Colegio Máximo de San Pablo)を設立したことと、レアンドロがペル-に戻ってから亡くなるまで、その学院で過ごしたことは先に書きました。

200年後の1767年、スペイン王カルロス3世によりイエズス会が追放され、翌68年サン・パブロ学院の図書館はサン・マルコス大学に移管されます。さらに、1821年の独立直後に創設された国立図書館にそれが引き継がれたのです。その関係で、この国立図書館の建物は旧市街のサン・パブロ学院跡にあるのです。

ゴンサロ・デ・ベルモンテが入っていた(入れられていた?)修練院があったというセルカドというのも同じ地区です。今でもこのあたりに、イエズス会の施設が散在しています。

この建物の前に立ってじっと目をつぶり、四百年前の彼らを思い浮かべました、と言いたいところですが、車も人も往来の激しい所で、そんな雰囲気ではありませんでした。



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二枚目は、この国立図書館と同じブロックの反対側にある,ひじょうに綺麗なイエズス会の聖堂です。
外観はあまり目立ちませんが、内部の装飾は見事です。

正面玄関の上部にある、[IHS]のシンボルが読み取れるでしょうか。これは、いわばイエズス会のロゴです。

その意味は、In Hoc Signo vinces.(この印のもと、汝は勝利するであろう)とも、
Iesus Hominum Salvador.(イエズス、人々の救済者)とも言われています。



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〈完〉



[参考図書]

Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI, Fernando Iwasaki Cauti, Pontfica Universidad Católica del Perú

「キリシタン時代対外関係の研究」  高瀬弘一郎著   吉川弘文館

スペイン帝国と中華帝国の邂逅 十六・十七世紀のマニラ 平山篤子著 法政大学出版局






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by GFauree | 2016-01-28 14:36 | リマからマカオへ行った船 | Comments(1)

     
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                     〈リマ・カリャオ港沖のサン・ロレンソ島〉





〈スペイン植民地ペル-側の事情〉



前回[その1]では、1591年に(現在のボリヴィア)ポトシ産の銀を満載した船のペル-からマカオへの航海を、それがキリシタン時代のマカオと日本にどんな波紋を惹き起こしたかという観点から眺めることになったように思います。

今回は、この船に関するスペイン植民地・ペル-側の事情を知ることで、その航海の背景をより深く探ってみようと考えました。

参照したのは、「1592年、豊臣秀吉に会った『ペル-商人』フアン・デ・ソリス」の記事を書いた時にお世話になった「Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI(16世紀の極東とペル-)」という本です。これは、日系ペル-人作家 Fernando Iwasaki Cauti(フェルナンド・イワサキ・カウティ)氏によって、1992年に大学院修士課程の論文として書かれ、2005年にペル-・カトリカ大学から出版されたものです。



〈銅の調達は口実だった〉



前回の記事に、例の船がペル-からマカオへ直行した事情に関して、船が送られた目的は「大砲製造のための資材である銅を求めること」、とされているのは実は口実で、本当は「ペル-副王の儲け仕事として、中国商品を仕入れること」であった、とイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが総会長に報告していることを書きました。

また、背景として、この時代のスペイン植民地官僚には、在任期間中にその地位と機会を精一杯利用して、私的財産の蓄積に励む人が少なくなかったらしいということを挙げました。

上記のイワサキ氏の著書は、世界中に展開して「日の沈むことなき帝国」と呼ばれたスペイン植民地各地に派遣され、それを統治する立場にあった官僚たちの実態や体質をよく伝えてくれていると思います。


そこで、マカオへ船を送ったペル-副王や同時代のフィリピン総督の行動について、その本に書かれてある内容を以下にご紹介します。



ところで、これまでは、南米ペル-とアジアとの間を太平洋を超えて直接航海した船として、1588年にペル-からパナマ経由マカオに行ったフアン・デ・ソリスの船と、1591年ペル-・カリャオからマカオに行った第8代副王ガルシア・デ・メンド-サの船を話題にしてきました。

けれども、実はと言うか、当然と言うか、アジアとペル-の間を直接航行した船は他にもあるのです。



〈フィリピン総督の船とガレオン船〉


それは、1581年フィリピン総督ゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサが、フィリピン・マニラからペル-・リマに送った船です。

ついでに、フィリピンとメキシコの間について言えば、ガレオン船の航行がありました。

フィリピン諸島は、1565年にミゲル・ロペス・デ・レガスピの遠征隊がセブ島に根拠地を築き、また太平洋横断帰路を発見して、ヌエヴァ・エスパ-ニャ(メキシコ)のアカプルコに帰着したことにより、スペイン植民地とされます。その後、フィリピン・マニラとメキシコ・アカプルコ間の船の往来と交易(マニラ・ガレオン船貿易)が常軌化されたのです。


〈リマの街では、400年以上前から安い中国製品が売られていた〉


従って、この時代、中国商品は通常アカプルコ経由でペル-へも運ばれていたのです。
1590年代のペル-では、中国製の絹織物はスペイン製の約1/9の値段で販売されていたということですが、それは絹織物だけではなかったでしょう。リマの街に安い中国製品があふれているというのは、昨日今日の話ではなく、400年以上前からのことだったのです。



さて、ここからは、16世紀後半のスペイン植民地官僚たちが、その在任期間に如何に個人の蓄財のために涙ぐましい努力を払っていたかのお話です。



〈スペイン植民地官僚たちの涙ぐましい蓄財努力〉


1.フィリピン総督ゴンサロ・ロンキリョのケース


・新任ペル-副王の手数料稼ぎの話


まず、第4代ペル-副王の話です。第4代ペル-副王ディエゴ・ロペス・デ・ズニガ・イ・ヴェラスコ(ニエヴァ伯爵)は、1561年の着任時、50人の使用人を同行する許可を受けていましたが、実際は118人を同行しています。

当時、スペイン本国から南米植民地への渡航は制限されていました。スペイン本国の窮迫した経済状況を反映し、新世界に活路を求めた人々が殺到したのでしょう。ところが、その多くは植民地で生活する技術も資材も持たない人たちであったため、当然、現地で浮浪者化し、それが治安悪化の一因となったのです。

そこで、新任副王が赴任するにあたっても、渡航させる随員には許可を必要とすることとなっていました。しかし、それにしても、一人の副王の使用人の数として、118人は多過ぎます。

恐らく、副王は、赴任の際に渡航希望者を募り、渡航を許可されている者に加えて自分の使用人として随行させ、その人たちから手数料を徴収していたのでしょう。

つまり、植民地の統治者である副王自らが、着任時からそれも規定破りをしてちゃっかり手数料稼ぎをしていたということです。


・将来のフィリピン総督がペル-副王の使用人?


第4代副王ヴェラスコが、着任時に手数料稼ぎをした相手の中には、国王審議官メルカド・デ・ペニャロサの息子たち、ドン・ペドロ・デ・メルカドとゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサ(後のフィリピン総督)も含まれていました。

しかし、この高級官僚の息子たちが、新副王の使用人であるわけがありません。この息子たちは、新副王へ支払う手数料を負担してくれた父親のおかげで、いわば研修生として、植民地政府の役人の手口を実地で学んだのでしょう。

彼らが、父親である国王審議官や第4代ペル-副王からも多くを学んだことは、あとではっきり分ります。

ゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサは、1561年のペル-研修旅行の翌年、スペインへ戻り、1567年、親の七光りで、メキシコ知事となって赴任します。そして、その10年後、フィリピン総督に指名されます。



・フィリピン総督がキャリアの中で見聞したこと



(1)1561~62年、ペル-研修旅行の間に

首都リマの治安を脅かすスペイン人浮浪者問題
ペル-市場に中国製品に対する強い需要があること


(2)1567~77年、メキシコ知事時代

・1573年、マニラからの最初のガレオン船到着時、中国製品によってアカプルコに生じた衝撃


(3)1577年~80年、フィリピン総督指名から現地赴任までの間に

・1578年、ペル-沿岸が英国の海賊フランシス・ドレイクの攻撃をうけたことから、防衛のための大砲他兵器の需要がペル-にあること



・フィリピン総督に指名されたとき、最初に考えたこと、そしてその障害は


ゴンサロ・ロンキリョが、フィリピン総督に指名されたとき、最初に考えたことは、おそらく、その新しいポストで如何に金儲けをするか、ということだったでしょう。

そのとき、まず頭に浮かんだのは、ペル-市場の中国製品に対する需要だった筈です。そのため、フィリピンから中国製品を満載した船をペル-へ送ることを考えます。

ところが、スペイン王室は、1573年にガレオン船によってマニラからアカプルコへ運ばれた中国製品の一部が積み換えられ、ペル-に向けて送られ、最終、リマの店舗に陳列されていたことはしっかり認識していたようです。

そして、もしマニラからの中国製品が恒常的に直接ペル-へ送られるようになると、アカプルコ(メキシコ)の御用商人は商売の機会を失い、スペイン王室は関税収入を確保するためにまた別の手段を講じなければならないことになります。そこで、中国製品の流通はあくまで従来のマニラ-アカプルコ経由に限定することが考えられたのでしょう。

1579年4月、「本国独占」の方針に反するものとして、ペル-・フィリピン間の直接貿易を禁止する勅令が発布されます。


・金儲けのための船を送る口実


それに対し、ゴンサロ・ロンキリョは、ペル-へ船を送る口実を考えます。
直ぐに思い付いたことは、「浮浪者問題」「海賊対策としての大砲の需要」だったのでしょう。

そこで、ゴンサロ・ロンキリョはフィリピン赴任前の1580年2月、手回しよくパナマから国王へ書簡を送り次のことを伝えます。

・フィリピンでは、より多くの植民者を必要としているので、ペル-の浮浪者をフィリピンへ船で移送したい。ついては、国王からペル-副王に対し、フィリピンへ送るべき浮浪者集めに協力するよう要請してほしい。

更に、1580年6月、今度はマニラから国王へ書簡を送り、ペル-第5代副王フランシスコ・アルヴァレス・デ・トレドの任期中に英国海賊ドレ-クが襲来したことから、ペル-副王には英国海賊と交戦するための大砲の需要がある筈だとして、「当地には、大量の良質な大砲があるので、容易かつ低価格で提供できる」旨、申し出ています。


・限りなく疑わしい船は、確かに送られたが


1580年7月に2隻の船がマニラからペル-・カリャオ港に向かったようですが、その2隻は3カ月後にフィリピンに戻ってしまい、1581年6月再度、船が送られたようです。

最終的には、1582年6月、メキシコで最初の捜査がおこなわれ、1583年1月、航海士や乗船者が陳述のために召喚されました。

その結果、途方もなく疑わしい商取引の内容が明らかにされました。可笑しなことに、わずか1/2トンの大砲とともに、300トンの絹・胡椒・陶磁器が送られて来ていたということです。(大砲のためでなく、商品搬送のために船を送ったことは、誰が見ても明らかです。)


2.ペル-第8代副王ガルシア・ウルタ-ド・デ・メンド-サのケ-ス


・着任早々から、中国との直接取引の許可を国王にはたらきかける


第8代副王は、着任早々の1590年2月、国王に書簡を送り、中国との商売を直ぐに始めたいとの願望を表明しています。

その内容は、まず、防衛のための要塞構築と艦隊船舶保有の必要性から始まります。
その費用は、防衛によって恒常的な中国商品の輸入が可能となるので、それに関税を課することによる莫大な関税収入によって賄うことができるだけでなく、余剰さえ生ずるというのです。また、その船によって、艦隊に必要な大砲を全てもって来ることも可能だ、としています。

また、どこかで 聞いたことのある「大砲の口実」が使われていますが、副王が本気で大砲を持って来ようとしていたとは考えられません。

1591年1月に受け取った、評議会の回答は否定的なものでしたが、そんなことにはお構いもなく、副王は中国へ船を送る準備を進めたようです。


・お決まり通り、自分の周囲を縁戚者で固める


1.イエズス会司祭である弟のペル-転任

1588年、ペル-副王に指名された直後、ガルシア・メンド-サは、自分の弟であるイエズス会司祭エルナンド・デ・メンド-サが、ペル-へ転任するようにイエズス会総会長クラウディオ・アクアヴィヴァに圧力をかけます。

アクアヴィヴァはガルシア・メンド-サに対し、会士に対しては商取引に関与しないように指示がされており、またその旨副王に伝えられている筈だ、との手紙を送りましたが、どうやら、副王は総会長の警告を無視したようです。

弟エルナンド・デ・メンド-サは、兄である副王の権威に従わねばならず、二人の会士を中国向けの船に乗せるために尽力したようです。


2.甥を中国向けの船の船長に起用


翻訳語では、甥ということになりますが、実際は従兄弟(いとこ)の息子である(日本語では正確にはどう呼んだら良いのでしょうか)ロドリゴ・デ・コルドバ・イ・メンド-サを、中国・マカオに向けて送った船の船長に起用しています。



「スペイン植民地官僚が如何に任期中に個人財産の蓄積に励んだか」という話を長々と書いてしまいました。日本でも、最近でこそ「インサイダ-取引」などと言って、厳しく監視されるようになりましたが、一昔前までは日銀総裁でも株式投資をしていたように記憶しています。あまり、よその国や過去の時代のことを笑えません。

それと、どうも権力志向の強い人は、お金への執着も人一倍だと考えて間違いはないようです。



副王の甥(とされている)ロドリゴ・デ・コルドバと、同じく中国向けの船に乗った二人のイエズス会士のマカオ到着後の行方については、次回に致します。


〈つづく〉


[参考図書]

Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI, Fernando Iwasaki Cauti, Pontfica Universidad Católica del Perú

「キリシタン時代対外関係の研究」  高瀬弘一郎著   吉川弘文館

講座/世界史 1 世界史とは何か 2 フィリピンとメキシコ 菅谷成子 東京大学出版会


























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by GFauree | 2016-01-23 13:12 | リマからマカオへ行った船 | Comments(0)

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                                           マカオ・聖パウロ天主堂跡 前面壁の彫刻




およそ1年前、「ペル-から、パナマ・マカオ経由日本へ行き、秀吉に会った男がいた?」という記事を2回にわたって書きました。

http://iwahanjiro.exblog.jp/20646027/
http://iwahanjiro.exblog.jp/20683315/

それは、中国製品を買い付けるために、ペル-(現在のボリビア・ポトシ)の銀を積んでパナマからマカオに向けて航行した船を率いた、スペイン出身の「ペル-商人」フアン・デ・ソリスという男の話です。

繰り返しになりますが、マカオに着いたフアン・デ・ソリスの船は、東西インド間(当時、マカオはポルトガル領東インド、ペル-はスペイン領西インドに属していました)の直接取引を禁じた王室勅令によって差し押さえられ、船も積んできた銀も取り上げられ、乗組員はインドのゴアに送られました。

ところが、このようにマカオの当局に差し押さえられ、船も積んで来た銀も取り上げられたのは、上記の記事にも書きましたが、フアン・デ・ソリスの船だけではなかったのです。


[他にも、ペル-からマカオへ銀を積んでいった船があった]

1591年、スペイン領ペル-から20万ドゥカド以上の銀を積んだスペイン船がマカオに来航しているのです。

20万ドゥカドという金額ですが、当時20~30万人の信者を抱えていたと言われるキリシタン教会の年間経費の約20倍にあたります。

また、前々回のルイス・デ・アルメイダとメンデス・ピントに関する記事(http://iwahanjiro.exblog.jp/21914656/)の中で、「インドで最も金を蓄えた者の一人である」とされたピントのイエズス会入会時の個人資産7千ドゥカドは、現在の貨幣価値にして17億円ぐらいになるのではないかと推定しました。

1590年はそれから約35年後ですが、20万ドゥカドは7千ドゥカドの30倍ですから、500億円ということになります。少し過大な推定かも知れませんが、いずれにしても、20万ドゥカドが莫大な金額であったことは確かでしょう。


[多難な航海]

マカオは、香港の南西約70kmの位置にあって、歴史的建造物とカジノで有名な観光地ですので、ご存知の方は少なくないのではと思います。

私は約30年前、出張で4回も香港へ行ったのですが、当時はこういう方面の興味も知識も全くありませんでしたので、マカオ見物など思い付きもしませんでした。もっとも、自分の至らなさで気の狂うようなだけの仕事をさせられていましたので、たとえ見物を思い付いたとしても、それを実行する気持ちの余裕など全くなかったのですが。


マカオまでペル-のリマから、直線距離でも約1万8千kmあります。東京・大阪間の距離が約4百kmですから、リマ・マカオ間はその45倍の距離です。4百年以上前のことですから、船の大きさもたかが知れています。そのうえ、潮の流れと風力以外にその船を運ぶ動力はありません。

莫大な価値の銀を積載した、その小さなペル-船は、気の遠くなるような膨大な距離を風と潮の流れだけを頼りに、広大な太平洋の荒波に揉まれながら、常に遭難の危険と背中合わせの、一度も陸地に着くことのない航海を続けたことになります。

この船の経緯については、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」(岩波書店)p.84~85に簡潔に説明されていますので、その内容を以下に書き出してみます。


[ペル-船のマカオ来航の経緯]

1.このペル-からマカオに直行した船の、航海の目的は「武器製造の資材である銅を求める」こととされていた。
2.船には、イエズス会士であるレアンドロ神父とベルモンテ修道士が乗っており、この二人には、諸取引の執行と管理まで委ねられていた。
3.本来なら、この船の積載銀は全てマカオ当局に没収されるところであったが、マカオのイエズス会施設(カ-ザ)を利用してその半分は没収を免れた。
4.日本イエズス会は、このカ-ザに預けられた銀のうち、6万ドゥカドほどをレアンドロから借り入れ、生糸・金・真珠を仕入れてインド・ゴアに輸出して売却し、利益率50パーセントの所得を上げた。
5.この時の臨時収入は、日本・中国向け聖職者養成を目的としてマカオに設置したコレジオの経費に充てられた。


さて、このペル-船が積載してきた銀に係わる処理やインド向け輸出などを巡っては、インドやマカオのポルトガル人社会やイエズス会内部にも様々な波紋を引き起こしたようです。


[このペル-船が引き起こした波紋]


その詳しい内容は、高瀬弘一郎著「キリシタン時代対外関係の研究」(吉川弘文館)第三章 キリシタン教会の貿易活動-マカオ=長崎間以外の貿易について-、に説明されています。

そこには、東インド巡察師として、日本のキリシタン布教に尽力したアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノとインド管区長フランシスコ・カブラルの各々からイエズス会総会長へ送られた諸報告の内容を通して、イエズス会内部でどのような議論があったのかが示されています。

フランシスコ・カブラルと言えば、ザビエルと共に来日し日本へのキリスト教布教を開始したコスメ・デ・ト-レスの後任者として、1570年から日本のキリシタン教会の布教長を勤めたものの、布教方針を巡って巡察師ヴァリニャ-ノと対立し、1580年自ら解職を申し出たとされている人物です。

従って、教会の経済活動に対する二人の考えも全く異なりますから、当然、各々が総会長に対する報告の中で述べている事実関係も一致しません。

その相違点を網羅しようとすれば、諸報告の内容を全て挙げなければならない程ですので、詳細については上記「キリシタン時代対外関係の研究」を参照して頂きたいと思います。そこで、ここでは両者の報告内容のうち「ペル-船及びそれに関連するインド貿易」に関する主要な相違点だけを挙げておきたいと思います。

それは、次の2点です。

1.カブラルが、「1593年以来、マカオからインド(コチン・ゴア)への輸出が日本イエズス会によって行われ、それがゴア市において大きな不満・非難・混乱を起こしていることが副王に知られてしまった」としているのに対し、
ヴァリニャ-ノは、「1592年、マカオ=日本の定航船が欠航したために日本向けに仕入れた生糸と金をインドに送らせたことは、あった(が、それ以外に日本イエズス会としてのインド貿易は行っていない)」としていること。

2.カブラルが、「日本イエズス会は、マカオのイエズス会カ-ザに預けられていたペル-商人のかねを、レアンドロから借り入れ、5万パルダオずつ2年にわたり商品を仕入れ、インド・ゴアへ輸出した。ゴアにおいて、輸入された商品の販売代金のうちから、10万パルダオはレアンドロに返済され、残りの利益金はイエズス会の収入とされた。なお、レアンドロはこのかねを本国にいるそのかねの持ち主の人々に手形で送った。」としているのに対し、

ヴァリニャ-ノは、「レアンドロは、マカオでイエズス会カ-ザに保管されているかねが、(インド)副王によって没収されるのを免れるため、ゴアにおいて日本教会名義のかねを受け取る一方、マカオにあるかねから、それだけの額を支払う旨の手形を振り出した。レアンドロはその金を、商人を介してポルトガルに送り、その所有主に返した。」としていること。

つまり、カブラルは「日本イエズス会は、マカオでペル-船のかねを借り入れ、インド向けの輸出をして、ゴアでレアンドロに返済することによって、レアンドロの本国への返金を可能にするとともに、自らも利益を上げた」としているのに対し、
ヴァリニャ-ノは「マカオにある金をレアンドロがゴアで受け取れるよう便宜を図っただけだ。」としているのです。

なぜ、これほど主張が食い違っているのかといえば、それは「キリシタン教会の商業活動として公認されていたのは、マカオ=長崎間の生糸貿易のみであった」からです。

カブラルは、ここ数年来、ヴァリニャ-ノ率いる日本イエズス会が公認されていないインド貿易を行っており、さらにペル-船のかねをマカオからゴアへ移動する機会を利用してインド向け輸出を行ったと主張し、ヴァリニャ-ノはそれを否定しているのです。


[宗教団体の経済活動は単純には割り切れない]


ザビエルの日本への布教開始の経緯を見て、私が改めて気付かせられたことは、布教活動というものは実にお金のかかるものだということです。ですが、考えてみれば宗教団体と言っても社会的存在なのですから、その活動にお金がかかることは当然のことです。

また、ある宗教団体の活動を支える経済基盤と経済活動をみれば、その組織の性格はある程度解るのではないかとも思います。

ただ、その経済基盤と活動の是非は、とても複雑で容易に答えの出る問題ではありません。そこで、今回はその問題は措いておくことにして、「銀を積載したペル-船のマカオ来航の経緯」と「カブラル・ヴァリニャ-ノの報告」に関し、私が気付いたことと、考えたことを、書いてみるに留めることにします。


[気付いたこと]


1.あの時代の海外送金の方法


ペル-・イエズス会のレアンドロ神父は、マカオからインドのゴアに送られそこに滞在していましたが、マカオのイエズス会施設に預けたかねをゴアにもって来る必要に迫られていました。ペル-で船に積んだ銀を出資した人たちに、たとえ全額でなくても可及的速やかに返済するためです。元々、こういう緊急時の対応を出資者から指示されていたのかも知れません。

マカオからゴアにかねをもって来る二つの方法を、カブラルとヴァリニャ-ノは総会長宛てのそれぞれの報告に書いています。

(1)カブラル(が日本イエズス会によってなされたと主張している)方式

・在マカオの日本イエズス会がマカオ施設に預かっている(レアンドロ名義の)かねを借りる。
・その資金で輸出商品を仕入れ、インドへ送る。
・日本イエズス会の代理人はインドへ到着した商品を販売しその代金を受け取る。
・受け取った代金から、ゴアでレアンドロに返済し、残りを利益として留保する。
・レアンドロは受け取ったかねを、リスボン経由本国(ペル-)へ送る。

(カブラルが日本イエズス会が行ったと主張する行動は、まさに輸出業者の行動で、輸出商品の仕入れのために借入をして、輸出販売代金で返済するということは、現在でも行われています。金融機関からみたそのための貸付は、「輸出前貸し」と呼ばれる一般的な取引です。)

(2)ヴァリニャ-ノ方式

・先ず、ゴアにおいて、日本イエズス会はレアンドロに、彼がマカオ施設に預けているかねのうち、引き出す必要のある額をわたす。
・レアンドロは、マカオ施設に預けているかねから、受け取るかねと同額を引き落とすための手形を日本イエズス会に渡す。
・レアンドロは(1)と同様に本国へかねをおくる。


このように、書き出してみるとカブラル方式もヴァリニャ-ノ方式も、要するにイエズス会マカオ施設に預かったかねを引き落とし、ゴアに送る方法である点で同じことです。ただ、カブラル方式は、かねが一旦、輸出商品に変わり、また後でかねに戻ります。

ヴァリニャ-ノ方式は、プロセスが単純ですっきりしていますが、これでは日本イエズス会にメリットが発生する余地がありません。これに対して、カブラル(が、なされたと主張する)方式では、日本イエズス会にメリットが落ちます。それを考えると、実際には、どちらの方式が実行されたかが想像できます。

いずれにしても、これは、現在のように銀行を利用するということが一般的ではなかった四百年以上前に、金や銀の現物をやり取りする以外にどういう形で海外送金や国際間の資金決済を行うことができたのか、を示す興味深い事例だと思います。


2.手形も使われていた

カブラルは「レアンドロが、かねを、本国にいるそのかねの持ち主たちに手形で送った。」、ヴァリニャ-ノは「レアンドロが、マカオにあるかねから、支払う旨の手形を振り出した。」と書いています。

カブラルの記載については、「レアンドロが、ゴアでイエズス会と取引のある両替商(シャラフォ)にかねを渡し送金を依頼するとともに、その両替商が指定する者を支払人とする手形(書面)を受取人に送った」という意味だろうと思われます。

また、ヴァリニャ-ノの書いている「手形」は、もっと単純なものでマカオのイエズス会施設にある預け金口座に対して振り出された小切手と考えればよいのでしょう。


以上1、2から、手形・小切手の振り出しや海外送金などの国際間資金決済の手法や資金調達・運用などのノウハウを、財務担当者(プロクラド-ル)を中心に当時のイエズス会が組織として、既に充分蓄積していたことが推察されます。そして、それらの金融的な手法を駆使出来たことが、世界的な事業展開をさらに有利に進める要因となったのではないか、と私は考えます。


[考えたこと]


1.なんと厳しい人事


このペル-船と、それが積んできた銀のマカオでの処理をめぐって行われた議論に、ヴァリニャ-ノとともに、カブラルの名前が出てきたのを見て、私は感心してしまいました。

それは、イエズス会内において、なんと厳しい人事が行われていたのだろう、ということです。

カブラルは、布教方針を巡って、日本の布教長の職からの解任を自ら申し出たと言われていますが、実質はヴァリニャ-ノによって解任されたということでしょう。その人物が、巡察師としてヴァリニャ-ノが監督・指導すべき最大の教区の最高責任者である管区長の地位に就いているのです。

カブラルにとっては、悉く厳しく管理されることを、ヴァリニャ-ノとっては、常に自分が与える指示に抵抗されることを、覚悟しなければならなかっただろうと思います。これは、上司・部下双方にとって、たいへん厳しい人事です。

このような人事が行われるということは、本部の中で、それぞれの考え方を支持する勢力が拮抗していたということを意味しているのかも知れません。

ともかく、ペル-船に関するそれぞれの総会長への諸報告を読むと、結果として二人は本部の狙い通り、相互監視と牽制の機能を見事に果たしていたように見えます。息苦しい話です。

さらに、この組織の厳しさは、銀を満載したペル-船に乗ってきた二人の聖職者に対しても、容赦なく発揮されたように見えます。それは、次回お話します。


2.どうしてヴァリニャ-ノは、あんなにも大胆だったか


それにしても、もしヴァリニャ-ノが、カブラルの主張している通りの行動をとっていたとしたら、彼はポルトガル(スペイン)王室の現地出先機関のトップである副王や、教区教会のトップである大司教、イエズス会現地トップである管区長を敵に回していたことになります。

私は、そんな大胆な行動がよくとれたものだと思ったのですが、そのうち、そんな行動がとれた理由として、いくつか思いあたることが浮かんできました。


〈ヴァリニャ-ノが大胆だった理由〉


第一に
、カブラルはひたすら、王室の出先である副王の意向を気にかけていたようですが、ヴァリニャ-ノは、場合によっては副王の意向などは無視しても構わないと考えていたのではないか、ということです。

そこで、思い出すのは、ザビエルが、マラッカ長官アタイ-デの妨害に抗して中国行を決行したことです。私は、それを、場合によっては国王権力と教会による「教俗一体」の海外事業展開の原則を逸脱しても、主導権を握ってより強力に布教を推進するとの考え方にイエズス会が至ったことの現れと考えました。ヴァリニャ-ノもこの考え方に従っていたということではないかと思うのです。

第二に、ヴァリニャ-ノは、このペル-船は、ペル-副王が中国製品を買い入れる商売のために送って来たもので、大砲製造のための銅を求めるためというのは口実であることを知っていました。


1591年10月27日付長崎発、総会長宛て書簡に次のように記しています。

・レアンドロ神父とベルモンテ修道士は、ペル-副王の求めに応じて、(イエズス会)ペル-管区長によって派遣されてきた。
・ペル-副王は、有利な取引を行わせるために、レアンドロ神父を送ってきた。また、大砲を鋳造するための銅を調達するというのは口実で、20万ドゥカド以上のかねは、シナで商取引をするためのものだった。
・この船がマカオに到来することは、(シナから買い入れる商品の価格を上昇させ)ポルトガル人の利益を損なうため、イエズス会に対する反感を招いた。
・従って、ペル-、ヌエバ・エスパ-ニャの管区長、さらにルソンの院長に対し、(今後は)各地の副王からいかに求められても、決してイエズス会士をナウ船でシナ(マカオ)に派遣しないように命じて頂きたい。


つまり、ペル-船に積まれてきたかねは、元々ペル-副王が自分の金儲けのために送ってきたものであり、その意味でイエズス会もペル-副王の自己の利益のための行動に強制的に協力させられている被害者である。

従って、ペル-・イエズス会士の立場を守るために、極力それが奪われないように努め(実際に、ゴア副王が没収しようとする動きを拒否している。)、また銀の出資者に戻すように協力をする以上、それを日本イエズス会の収益機会としても良いのではないか、と考えたのではないかということです。


第三に、これは次回の記事にもう少し詳しく書こうと思っていることですが、この時代のポルトガル・スペイン植民地の副王という官職の性格です。

副王とは、国王の代理人として植民地を統治した官吏ですが、在任期間中にその地位を利用して精一杯、私的財産の蓄積に励んだ、つまり“金儲け主義”に徹した人が多かった(もしくは、殆どがそうだった)と言われています。

私が読んだことがあるのは、フィリピン総督とペル-副王のケ-スだけですが、おそらく、それらの地域だけの話ではないでしょう。インドにもポルトガル副王がいましたが、その副王が自己の蓄財に走るようなことがなかったのかどうか、調べてみる必要があると思うのです。

フィリピンやペル-はスペインの、インドはポルトガルの植民地だったという違いはあります。両国は元々隣国同士ですが、1580年から1640年までの60年間、ポルトガルはスペインに併合されており、同一の君主を冠する関係にありました。従って、副王という存在が似たような性格をもっていたのではないか、という推測は可能です。

もし、インド副王が、フィリピン総督やペル-副王と変わらない性格を持っていたのであれば、ひたすら(インド)副王の意向に服従しなければならないとする、カブラルの主張なども余り説得力を持たないことになります。

その時代のインド副王がどうであったかを知ることが必要ですが、ヴァリニャ-ノの行動は、そういう周囲の状況を睨んでのことだったのではないかと、私は考えます。



以上、今回は、銀を満載してマカオへ航行したペル-船を、マカオ・日本のキリシタン教会の視点から眺めてみたことになると思います。

次回は、このペル-船がマカオへ行ったことの背景と、その船に乗っていた二人のイエズス会士のその後の行方を、ペル-の視点から眺めてみたいと思っています。


〈つづく〉


[参考図書]

キリシタンの世紀-ザビエル渡日から「鎖国」まで-  高瀬弘一郎著   岩波書店
キリシタン時代対外関係の研究            高瀬弘一郎著  吉川弘文館



























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by GFauree | 2016-01-15 14:22 | リマからマカオへ行った船 | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。