a0326062_04310277.jpg
                                           ロ-マ教皇庁布教聖省本部



1.フェレイラが乗ってきた船


クリストヴァン・フェレイラが初めて日本の土を踏んだのは、1609年6月29日のことである。
カピタンモ-ルであるアンドレ・ペッソア率いるマカオからの定航船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号で長崎に着いたのである。

ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号という船の名前で思い出された方も多いだろう。

その船の長崎入港後、アンドレ・ペッソアと長崎奉行長谷川左兵衛との間に、取引を巡る争いが発生した。

この時、前年自分の朱印船がマカオでトラブルを起こし、その処理に関してペッソアに恨みを抱いていた「キリシタン大名」有馬晴信も奉行に加担、家康の承認を得て有馬軍がその船を攻撃し、1610年1月長崎湾にて遂にペッソアもろとも自爆させるに至った。

これが、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」であり、その事件については、2015年6月8日付の記事に書かせて頂いたのでご参照頂きたい。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21320097/

この事件について注目すべき点は、この事件ほどキリシタン教会に大きな打撃を与えたものは他になかったのではと考えられることである。

上記の記事に書いたために繰り返しになってしまうが、念のためにそのキリシタン教会が受けた打撃の内容を以下に書き出してみよう。


(1)「キリシタン大名」がポルトガル船に攻撃を加えたことによって、従来、少なくとも建前上は一枚岩となってキリシタン教会を支えていた筈の「ポルトガル商人・イエズス会・キリシタン大名」勢力の分裂が露呈した。


(2)沈没船には相当量のイエズス会の船荷が積載されており、それを喪失した結果、イエズス会は甚大な損害を蒙り、従来から窮迫していた財務状況はさらに悪化し大幅な債務を負うこととなった。


(3)この船には、マカオのポルトガル商人から日本で「銀」に替えることを委託された「金」が積まれていて、日本に到着した時点で「金」から「銀」に交換された。

ところが、日本側のイエズス会士は、マカオに送り返すべき「銀」を船に積み込まず、結果的に船が沈み、マカオの委託者は「銀」の支払いを求め、イエズス会側は「海損の慣行」をたてに支払いを拒んだ。

イエズス会側の主張は理論的には、一応筋が通っているが、対価である「金」は受け取ったのだから、「銀」の支払いをしなければ「ただどり」である。それでも、イエズス会側は譲らず論争は10年以上に及んだ。

いずれにしても、この件によって、マカオのポルトガル人のイエズス会に対する不信感が一挙に増大したと考えられている。


(4)イエズス会内のヨーロッパ人会士と日本人会士との間の亀裂が顕在化した。

「日本人の修道士はペッソア司令官が逮捕されるように、教会へ祈りに行く始末で、爆発が起きたためにその大船が沈没すると、ヨ-ロッパ人は嘆き悲しんだが、日本人は喜びに湧き立った。」(「通辞ロドリゲス」マイケル・ク-パ-著)


(5)さらに、1614年の全国的な禁教令発布の決定的な契機となったと言われる1612年の「岡本大八事件」は、この「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」に起因している。



〈この事件による打撃の意味するところ〉

「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」によってキリシタン教会が受けた打撃は、次のような意味を持つものと考えられる。

キリシタン大名のポルトガル船攻撃・イエズス会の貿易商品の喪失・マカオ商人とイエズス会の対立、はどれもキリシタン教会を支え布教を推進してきたイエズス会の活動の基本構造に係わることである。ということは、この時点で既にイエズス会は活動の基本構造(いわば、ビジネス・モデル)の一部に破綻を来していたということである。

イエズス会内のヨ-ロッパ人会士と日本人会士の敵対関係が露呈したということは、未解決のまま燻(くすぶ)ってきた組織内の問題が覆い隠せなくなってきたということでもある。


なお、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」・「岡本大八事件」が、全国的な禁教令発布に繋がって行った過程については、「キリシタンの浸透ぶりに家康が驚愕して」というような説明を見掛けることが多い。しかし、「岡本大八事件」は、長期安定政権樹立と貿易独占という喫緊の課題を抱えていた幕府が、豊臣勢力との決戦に向けて課題消化のために意図的・計画的に起こしたものだったと考えるべきではないか、と私は考えている。その点については、2015年6月20日付の記事をご参照頂きたい。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/


以上の意味から、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」はキリシタン教会の内部組織にとっても、またそれを取り巻く周囲の政治状況にとっても、非常に重大な出来事であったと考えられる。そして、そういう船にフェレイラが乗船して来日したということについては、感情的な表現と受け取られてしまうかも知れないが、“彼の宿命”とでもいうものを感ぜざるを得ない。


2.カトリック教会の海外布教体制も大きく転換しつつあった


ここまで、フェレイラの日本到着とほぼ時を同じくして、日本のキリシタン教会の内外の局面が激しく変化していったことを示す事件が起きていたことを述べてきたが、実はフェレイラが来日した後、逮捕される遥か以前から、海外のカトリック教会全体としての布教体制も大きく転換しつつあったのである。

それは、1622年、[その2]の記事でご紹介したイエズス会総会長宛書翰をフェレイラが書いた翌年、ということは来日から13年後、逮捕・棄教の11年前のことである。その年、ロ-マ教皇庁内に、海外布教地の問題を管轄する布教聖省が設置され、その初代書記官にフランチェスコ・インゴリが就任する。インゴリは反イエズス会の立場で27年間布教聖省を動かしたと言われている。

ところが、布教聖省設置時の教皇は、イエズス会で育成された初の教皇グレゴリウス15世であり、イグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルを列聖させたことでは知られているが、布教聖省に関しては反イエズス会の書記官を任命して、率直なところ一体どのような方針を以て臨んだのだろうか。

イエズス会で育てられた教皇は、大航海時代の海外布教を支えてきたイベリア両国の国力に頼った布教の在り方の見直しを迫る声に押されて、布教聖省を設置し反イエズス会の書記官を任命したものの、強固な植民地統治に守られた布教地の教会組織に介入することはできず、結局は、為す術がないことを知っていたのではないかとも思える。


〈従来の布教体制の問題点〉

それでも、従来の布教体制の問題点についての、新設の布教聖省の公表された認識は、概略以下のようなものだったらしい。

(1)宣教師が教会保護者である各国王室の意を迎えようと、国家の政治的・経済的利害に沿った行動を取りがちだった。
(2)ポルトガル・スペインをはじめ、国家間の対立抗争が教会に持ち込まれ、教会活動の純粋性を損なってきた。
(3)布教保護権制度上の、保護者(各国・国王)の義務(経済的負担)が履行されず、教会は常に収入不足に悩まされてきた。
(4)原住民聖職者の養成が軽視され、布教の現地適応が進められなかった。


〈布教聖省の対処方針〉

以上の問題点は、日本のキリシタン教会にもそのまま当てはまるものである。
教皇庁は以上の問題点を認め、その対策として次の方針を立てたとされている。

(1)布教と政治・植民とを分離する。
(2)原住民聖職者を養成し、布教政策を現地の事情に適応させる。

しかし、布教聖省が如何に立派な方針をたてようと、海外布教地で働く宣教師自身の考えが変わらない限り改革は進まない。そのうえ、宣教師たちの(人種差別を含む)意識を変えることは容易ではないし時間もかかる。

特に日本の場合、キリシタン布教については、秀吉以来の為政者から侵略的性格を疑われてきたのだから、まずは布教と政治の分離を明確に立証し示すことが必要だったが、それはどこまでなされたのだろう。教会側に言わせれば、その機会を与えられなかったということだろうか。

布教聖省設置の同年(1622年)には、長崎で55名の殉教があり、その翌年には江戸・芝で50名が処刑されている。キリシタン取締りは日増しに強化され、やがてはフェレイラ逮捕に至る流れは変わらないにせよ、カトリック教会側の方針は転換されていたのである。


〈取り残されたフェレイラ〉

布教聖省が設置されたことをフェレイラが何時知ったかは分らない。しかし、彼が祖国ポルトガルから船出した1600年にも、マカオを発ち日本に着いた1609年にも、国王権力と教会が一体となって海外布教を進める“教俗一体”の体制を否定する組織が教皇庁の中にできようとは、想像すらできなかったのではないか。

さらに、彼が所属していた組織のことを考えると、世界的にも歴史的にも様々な面で、その組織の優秀さには抜群の定評がある。そういう組織が、教皇庁が代表するカトリック教会指導部の傾向を感知しないわけがない。当然、日本の布教の将来性を検討したであろう。そして、出した答えは撤退であるはずだ。もちろん、軍隊の撤退と同様に内部に対しても、それを公表する訳にはいかない。

そんな中、組織のエリ-トとして育てられてきたフェレイラは、順当に次々と重責を担わされていく。もう、行き先には「殉教」しか残されていないのに、その「殉教」の原動力となる筈の組織特有の精神鍛錬法が、冷静な判断力を持つ彼の中で次第に効能を失っていったとすれば、彼は「棄教」へと追い詰められるだけだったということではないだろうか。


3.分からず屋たち


〈部下に去られた者の腹立ち〉

「私は日本人ほど傲慢・貪欲・、不安定で偽装的な国民を見たことがない。彼等が共同の、そして従順な生活ができるとすれば、それは、他になんらの生活手段がない場合においてのみである。ひとたび生計が成立つようになると、たちまち彼等はまるで主人のように振舞うに至る。・・・・・・
彼等は土着民であり、彼等には血族的な繋(つな)がりがあるが、日本におけるヨ-ロッパ人には、一人の親族があるわけでもない。

彼等はラテン語の知識もなしに、私達の指示に基いて異教徒たちに説教する資格を獲得しているが、これがために我等を見下げたことは一再に留まらない。日本人修道士は、研学を終えてヨ-ロッパ人と同じ知識をもつようになると、何をするであろうか。・・・・・・

日本で修道会に入って来る者は、通常世間では生計が立たぬものであり、生計が立つ者が修道士になることは考えられない。」
(日本巡察記 東洋文庫 229 解題Ⅱ 1.布教長カブラルと日本の情勢より)


読んでいると腹の立って来る言葉の連続だが、これは、イエズス会にあって現地適応主義のフランシスコ・ザビエルや巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの対極に位置付けられている、原理原則主義のフランシスコ・カブラルのものである。

カブラルは、1570年コスメ・デ・ト-レスの後任として日本イエズス会の布教長に就任したが、布教方針をめぐって巡察師ヴァリニャ-ノと対立し、1580年に布教長を解任されたが、その後もインド管区長の地位に在って、終始ヴァリニャ-ノを攻撃し続けた人物である。

カブラルは布教長時代、何人もの部下から離反され、分派を作られ、彼等の連れ戻しに相当苦労したことが知られている。イエズス会は上意下達の明確な組織だったと考えられるが、日本語能力のない外国人宣教師は説教すらまともにできなかったのだから、部下に去られてしまえば活動が立ちいかなくなり、彼等の連れ戻しに必死にならなければならなかっただろう。

従って、この言葉は、自分をそのような苦境に追い込む日本人たちが、如何に性格が悪く、修道者に適さないかを腹立ちまぎれに書きなぐったものと考えられる。そんなに、日本人が嫌ならさっさと日本を去り素晴らしいキリスト教国へ帰ってもらいたいところだが、本人としては、「キリスト教布教の使命感でいてやっている」ぐらいの気持ちだったのだろう。そういう宣教師もいたというより、少なくなかったと考えるべきだろう。


〈異教徒のことが本当に解からない〉

私がこのカブラルの言辞について気が付くことは、日本のような異教の土地に暮らす異教徒に異教の地で布教するということが、この人は本当に解かっていなかったらしい、ということだ。そうでなければ、このような言葉は吐けない。

日本は、ヨ-ロッパのように千年以上かけて社会の隅々にキリスト教が染み渡っているところではなかった。南米のように、短期間のうちに社会の仕組みとともにキリスト教を無理やり呑み込まされたというのでもなかった。従って、普段は従順に振舞っている部下たちも、ひとたび教会から出ていく覚悟ができれば、上司だった者のいうことなど聴くわけがない。

ヨ-ロッパや南米であれば、教会の影響力は社会全体に行き渡っているから、仮に教会を出て行くことになった者も、後々のことを考えて、出来るだけ穏便な態度をとっただろうが、日本人で教会を辞めていく者は、別に後々まで教会関係者の影響を受ける心配はないから態度を一転させたのだろう。だからこそ、武力による強制を伴わない布教地での活動は難しいのである。

そういうことを解っていなかったカブラルは、辞めることを決心した部下の態度の豹変に、さぞかし驚き、慌てまた憤慨したことだろう。

〈ザビエルやヴァリニャ-ノだって本当に解かっていたかは疑わしいが〉

けれども、カブラルがそうだったからと言って、現地適応主義であったとされるザビエルやヴァリニャ-ノが、本当に異郷の地である日本や異教徒である日本人を理解していたかというと、そういう訳でもない、と私は思っている。

ただ、彼等は抜群に出来のいい営業マンだったから、顧客の扱い方や組織への報告の仕方や評価の得方を知っていたということなのだろう。
教会の聖職者と信者の関係は、営業マンと顧客の関係に似ている。自分の顧客を悪く言う人は、営業マンとして既に失格である。

有能な営業マンは自分の顧客が良質であり、その顧客との取引が将来性のあるものであることを組織に知らしめることによって、組織の眼を自分に向けさせる。また、良質であり将来性のある顧客であるからこそ、その取扱いは難しいし、そのために自分が如何に能力を発揮しながら細心の注意を払い、その扱いに努力しているかを組織に訴え続ける。

無論、彼は実績を上げるべく最善の努力をし顧客にさえ自分の能力を認めさせる位だから成功する可能性は高い。そして、その成果は予め経緯を充分に知らしめておいた組織によって何倍にも評価される。つまり、彼は教会が自分の方から努力して何かを認識したり理解したりなぞはなかなかしようとしない普通の怠惰な人間の集団に過ぎないことをよく解かっていたのである。ザビエルやヴァリニャ-ノの行動と報告の内容と彼らに対する組織の高い評価はこれで概ね説明がつくと思う。

ザビエルやヴァリニャ-ノの諸報告は、日本人にとっては耳触りの良いものが多いが、その内容によって彼ら自身も組織の中で良い評価を得ているのだから、自分たちと布教地日本の信者とは、もちつもたれつ、共存・共栄の関係であることを彼らはよく心得ていたということなのだろう。


〈棄教後のフェレイラに接触した人たちも〉

それはさておき、私はクリストヴァン・フェレイラの棄教後、彼に接触したとする教会関係者の姿勢・対応にも、「本当にこの人たちは、分っていないなあ」と感じるのである。

彼らによって、フェレイラが貧しい生活を送っているとか、涙を流したとか、惨めな生活を印象付けるような型通りの報告がなされている。外国人の元神父が日本女性と結婚して一緒に住んでいることが、カトリック信者にとって興味を引くことであるのは分るが、何人もの人に似たような報告をさせる程のことでもあるまい。

考えてみれば、カトリック教会の影響力が隅々まで染み渡っているような社会から来た人が、日本という異教の地でフェレイラの置かれた状況や、彼の気持ちや考えを余程のことがない限り直ぐに理解できるわけがないのである。

加えて、フェレイラとの接触によって何かを掴んだにしても、へたにマカオに戻ってからフェレイラに同情的なことを言えば、今度は自分が背教者の味方をする異端者として非難されかねなかったのだから、通り一遍のありふれたことを報告として述べるしかなかったのだろう。

どうせ、自分の状況を理解できず、またその努力をしようともせず、ただ押しつけがましく「立ち返り」つまり「殉教」すなわち「自殺行為」を勧めるだけの人たちと会うことが無意味であることは、フェレイラにとっても次第に明確になっていったことだろう。



4.
棄教した後の境遇


クリストヴァン・フェレイラは、捕縛・拷問・棄教の前に、それ以降のことを、どこまで考えていたのだろう。
キリシタン教会を統率・牽引する立場にある者としては、もし棄教の可能性を考えていても、それを口にする訳にもいかず、そもそも、上に述べた多くの外国人宣教師と同じように、それを具体的に想像できるほどには、日本の一般社会を知らなかったかも知れない。

だから、棄教後の境遇には戸惑うことの連続だったのではないか、と私は想像する。

〈老境に差し掛かっていた〉

その時、彼は53歳になっていた。現代の日本企業では、そのくらいの年齢で親会社から子会社に転籍させられ、それ以降は“第2の人生”などと呼ばれている。ただ、彼の場合は、「人生五十年」と言われていた時代の53歳である。もう老境に入っていたと言ってもおかしくない。当然、経済的にも困窮したはずである。

〈尊敬の代りに軽蔑〉

彼にとって、何よりもつらかっただろうと思われることは、若い時からエリ-ト集団の中の選り抜きの聖職者として育成され、黙っていても司祭として尊敬され、またそれにふさわしい役割が常に与えられていたのに対し、そういうことが全く無くなってしまったことだろう。代わりに、“転びバテレン”、“キリシタン目明し”などの呼び名に表れているような蔑みの眼が、周囲の日本人から浴びせられたであろうことは想像に難くない。

〈永遠に故郷を失う〉

また、これも当然のことだけれど、生まれ育ったキリスト教社会と永遠に訣別し、二度と後戻りのできない立場に追い込まれたことである。

宣教師として、海外布教に献身する以上は、布教地日本に骨を埋める覚悟はできていただろうけれど、気持ちはむしろ故郷のキリスト教社会と強く結びついていた筈である。棄教を選んだために、故郷の側から自分に手が差し伸べられることは永遠に無くなってしまったことの孤立感を彼はどのように克服したのだろうか。

こういう困難な境遇の中で、フェレイラは残りの17年間を生き抜いた。その困難さや苦痛は、激情にかられた殉教に優るとも劣らないものだったのではないか、と私は思う。

〈フェレイラを支えたもの〉

彼の業績は、[その4]で挙げた彼の著作や医学流派の始祖たちへの教育という形で残されている。そういう業績を生み出したフェレイラの情熱は、まず医学を勉強しようとした日本人の弟子たちに支えられるところがあったのではないか、と私は思う。真面目で熱心で優秀な生徒を教えることほど、生きていく力を与えられることはないことを私自身経験しているからである。

また、刑死した中国人の妻だったと言われる日本人の女性や、杉本忠恵の妻となった彼らの娘を含む子供達との生活によっても、彼は生き抜く力を与えられたのかも知れない。

それらのことが、東京、谷中の瑞輪寺にある杉本家の墓に「忠庵浄光先生」の名前と死亡の日付が刻まれ、フェレイラの娘婿であった医家杉本流始祖杉本忠恵の師として祀られていることに表れているのではないだろうか。

言うまでもなく、幕府の禁教・鎖国政策は、ポルトガルからオランダへの世界的な勢力交代という背景のもとに進められたものである。その政策によって棄教を強いられ、キリスト教社会からも絶縁され全てを失ったかに見えたフェレイラが、南蛮(ポルトガル)・紅毛(オランダ)両国系の学問・知識の吸収・普及に貢献することに活路を見い出した、と考えることも出来る。


そのように、いわば時代の要請に応じる確かな生き甲斐を見つけたフェレイラの晩年は決して惨めなものなどではなかったのではないかと思えてくる。彼が死の直前に、棄教を後悔し「立ち返り」をして殉教したなどということも、考える必要のないことになる。


5.おわりに


以上、クリストヴァン・フェレイラの生涯を総括すると、「大航海時代」の歴史の浮き沈みに翻弄されながらも、自分なりの人生を生き通した人、と言えそうである。けれども、考えてみれば人は誰でも皆、歴史の奔流に巻き込まれ翻弄されているのである。だから、フェレイラは必至で生き抜こうとした彼の一生を通じて、彼の生きた時代とその時代の人々の生き方を示してくれる「大航海時代」の代表的人物と考えればそれでよいのであって、それ以上に持ち上げる必要もそれ以下に貶める必要もないと私は思う。

しかし、それにしても感ずることは、人にとって大事なことは、成功することなどではない。まず生き延びようとすることだ。
人間は、成功しようがしまいが、あくまで生き続けるべきなのだ。そして、そこにこそ人生のより本物の喜びも在り得るようだ。

また、それを否定する考え方は、宗教とは呼べない。なぜなら、宗教は先ず生きるためのものだからだ。
だから、殉教者を賛美することも、殉教しなかった者を蔑んだり哀れんだりすることも、ともに浅慮の為せる業と言う他はないのである。


〈完〉



[参考文献]

「キリシタン研究」 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」Hubert Cieslik S.J. 吉川弘文館

「キリシタンの世紀」 ザビエル渡日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著 岩波書店


















[PR]
by GFauree | 2016-04-07 12:57 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(2)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。