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                                         (写真撮影 三上信一氏)
                                            


今回は、帰国してからのトマス・アラキの行動を追って行こうと思う。
ついては、気を付けなければならないことがある。

それは、その情報源の殆どが、彼を目の敵にしていたイエズス会士たちが書いた総会長や本部の担当者宛ての報告である、ということだ。しかし、彼について知りたければ、それらの報告に頼らなければならないのだから致し方ない。せめて、彼らにとって都合の良いことは強調され、都合の悪いことは無視されるか、隠蔽されている可能性があることは忘れないようにしよう。


1615年8月に帰国したアラキが直ぐに直面した最大の問題は、長崎“教会分裂(シスマ)”であったと思われるが、長崎シスマについては後で述べることにして、その時期の彼について報告されている他の事項を先に述べよう。


それは、ロザリオの「祝別」に関して彼がイエズス会士たちの怒りを買ったとの話である。


〈「祝別」のこと〉


ロザリオは、よく「キリシタンもの」のドラマなどで着物を着た女性がネックレスのように首に掛けたりしているが、本当は首に掛けるものではなく、唱えた「聖母マリアの祈り」や「主の祈り」の数を数えるための数珠として使うものである。そのロザリオを司祭などの聖職者によって、聖なるものにしてもらうための祈りというか儀式を「祝別」という。

「祝別」は、現在については定かではないが、過去には聖職者の権限と考えられていた。

そのロザリオの「祝別」について、その頃イエズス会と他の修道会との間に悶着があり、イエズス会内でも、地位によって祝別する数に限度を設けるべきだとかの議論があったらしい。

そこに現われたアラキが、自分は教皇から一定数のロザリオを祝別する権能を与えられたと称して、方々で祝別をして回ったらしい。そのために、「祝別」に関するイエズス会の方針を蔑(ないがしろ)にしたとしてイエズス会士たちの怒りを買ったというのである。



〈原住民教区司祭の分際で〉


ここで、前々回[その2]で、教区司祭と修道会司祭の格付けの順位について触れた際、あまりにくどくなると思って取り立てて書かなかったことを書いておく必要が出てきた。それは、トマス・アラキが、「修道会司祭」よりも格付けの低い「教区司祭」の中でも、特に格付けが低いと見られていた筈の「原住民教区司祭」だったということである。


アラキが、マカオで日本人修道士や同宿に、独自にロ-マに行き司祭となる方法や宣教師たちの日本に対する武力征服論といったヨーロッパ人宣教師たちにとって日本人には知られたくないことを語ったことは、既に日本のイエズス会士たちの間にも知られていただろう。そのアラキが、帰国してから、あろうことか、せっかく自分たちの特権としてきた霊験あらたかなロザリオの「祝別」を蹂躙したのである。それも、「原住民教区司祭」の分際で、である。アラキに対する彼らの憎悪がいっきにに膨らんだとしてもおかしくはない。


〈教会分裂〉


さて、長崎“教会分裂(シスマ)”とは、以下のような事態である。


長崎外町の小教区と村山等安


1610年頃から、ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスチノ会が長崎に常駐するようになり、長崎はイエズス会を含む四修道会の日本布教本部の所在地となった。

1614年2月、長崎に駐在していた2代目司教であるルイス・セルケイラ(イエズス会士)が死去した。その時点で、長崎には四つの小教区が設けられ、教区司祭は七人いた。そして、四つの小教区教会のうち、少なくとも三つは外町に在ったことが分っている。

その外町を統治していたのが、ドミニコ会士の長崎進出を支援しイエズス会と敵対することになる代官 村山等安である。彼の息子フランシスコ・アントニオ・村山は、小教区主任司祭の一人であり、等安は小教区教会の建築費や維持費を負担するなどもしていた。

イエズス会にとって、長崎の外町が他の修道会に侵蝕され、小教区主任司祭たちが概ね他修道会に与するようになってきたことは憂慮すべき事態であり、その趨勢の陰には村山等安の影響力が認められたことは言うまでもない。


二人の司教総代理が並び立つ異常事態


司教セルケイラの死亡の同月、七人の教区司祭は次の司教が着任するまでの司教総代理として、イエズス会管区長ヴァレンティン・カルヴァ-リョを選出した。

ところが、同年10月、フランシスコ会遣外管区長ディエゴ・チンチョがカルヴァ-リョを総代理に選出した選挙は無効であるとして、適切な善後措置をとるよう要求した。そこで、同月、教区司祭たちは、総代理カルヴァ-リョを罷免したが、罷免に同意したのは五人である。これによって、教区司祭は、スペイン系托鉢修道会に同調する五人とポルトガル系イエズス会に与する二人の二派に分かれたことになる。

教区司祭たちは、イエズス会のカルヴァ-リョに代わり、フランシスコ会のペドロ・バウティスタを司教総代理に選出したから、ここに府内(実質は長崎)司教区の司教総代理として、二人の人物が並び立つという異常事態が生じたことになる。これが、長崎“教会分裂(シスマ)”である。


禁教令で壊滅的な打撃を受けたはずのこの時期に


1614年10月と言えば、キリシタン教会に壊滅的打撃を与えたとされている前年1月の全国的禁教令を受けて、多くの宣教師や高山右近などの主だったキリスト教徒がマカオやマニラに追放される僅か1カ月前である。危機に瀕していた筈のこの時期に、キリシタン教会内部ではこのような紛争が進行していたのである。

カルヴァ-リョとチンチョは1614年11月に、バウティスタも1616年に、日本から退去し、村山等安も宿敵末次平蔵との抗争に敗れて失脚し、1619年に処刑された。“教会分裂”は、こうしてあっけなく消滅したが、その紛争が信者や聖職者に「相互の不信感」という修復困難な傷を与えたことは確かである。


アラキはどう対応したか


トマス・アラキは、1615年8月に帰国し直ちに教区司祭に加わったと推測されているから、この“教会分裂”にもろに直面せざるを得なかったはずであるが、彼がどのように対応したかは分っていない。


ただ、トマス・アラキは、1611年にローマから日本へ出発する際、教皇宛てに送った書翰の中で、「日本の教会は異教徒の王侯の迫害よりも、むしろ托鉢修道会とイエズス会との間の紛争による内部分裂ににより攪乱されている」と既に記している。さらに、1615年、マカオからも総会長宛てに書翰を送り、「日本で激しい迫害が行われている中で、修道会間の紛争が信者を混乱させていること」を伝えていたのである。


アラキにとっては、この“教会分裂”は、まさに自分が海外に在って懸念し警鐘を鳴らしていた通りの事態だった。だから、危機のさなかに自己の属する集団の利害に狂奔する諸修道会士たちと、その混乱の中で主体性もなくひたすら右往左往するだけの日本人司祭である同僚たちには、改めて深い失望を感ぜざるを得なかっただろう。そして、その絶望的な状況から脱け出るにはどうすれば良いかをその時から具体的に考え始めたのではないだろうか。



〈逮捕・棄教〉


1619年8月、長崎奉行長谷川権六によって捕えられたが、直ぐに奉行所から脱走する。そして、その2日後、ロ-マ・セミナリオの服を着て出頭し、大村の牢に送られ、牢に20日いて棄教したと言われている。

その後、アラキは背教者として長崎奉行に協力しながら生きる。奉行は、彼を監視下に置きながら、次のような面で徹底的に利用する。


〈背教者として〉


1.ヨーロッパの事情や、主要な信者・宣教師に関する情報提供


(1)奉行長谷川権六はアラキに、ポルトガル人とスペイン人が日本征服を企てたら、オランダ人は彼らと連合するであろうか、と尋ねた。
それに対して、アラキは「皆一軒の家の中の犬のようなものだ。はたがこれを守ってやらないと、互いにけんかをして咬み合いをするが、見知らぬ者から身を守ったり、これを襲ったりするためには、皆力をあわせる」と答えた。


(2)長崎代官村山等安は、末次平蔵との争論に敗れ、1619年に処刑されたことを、先に述べた。等安が大坂の陣に際して豊臣秀頼を支援し、彼の息子である教区司祭フランシスコが大坂城内で活動していたことを、アラキが長谷川権六に通報した、と言われている。

ところが、アラキがその情報を奉行の権六に密告したのは、まだ逮捕される以前であったらしい。つまり、アラキは逮捕される以前から、等安を陥れるべく奉行に通じていたらしい。そして、このアラキの密告によって、奉行権六は等安と競合していた末次平蔵と手を結び、キリシタン弾圧を進め、教会勢力の一掃を図ったようだ。


(3)奉行権六は、アラキを将軍に謁見させるなどして連れ回し、周囲に寵愛ぶりを見せつけた。アラキは、幕府に対し、日本にいるパ-ドレの名簿を提出し、彼らの所在地を知らせることまでした。


2.外国人・日本人宣教師対する取り調べへの協力


(1)1620年から22年にかけての「平山常陳事件」に関するスペイン人宣教師等に対する詮議において、語学力を活かし、証人・通訳、さらには棄教を勧める役を勤めている。

「平山常陳事件」とは、
1620年、日本人船長平山常陳が、マニラからドミニコ会士ルイス・フロ-レスとアウグスチノ会士ペドロ・デ・ズニガを乗せ日本へ向かっていたところ、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕された事件である。フロ-レス、ズニガ、常陳を含む15人が処刑された。

この事件は、その後、大村、長崎の牢に収容されていた55人が処刑されるという激しい弾圧「元和大殉教」の引き金となった。


(2)1622年に再入国したフランシスコ会士ルイス・ソテロ(伊達政宗の送った慶長遣欧使節の引率者)の取り調べに関わった。

彼が聴き出したことの中には、将軍に伝われば主だった大名たちの立場を危うくするような話もあったらしい。


(3)1633年、イエズス会日本人パ-ドレパウロ・サイト-に対し、その最後の場面で相対している。
パウロ・サイト-はアラキについて、「彼とは一緒にいたくない。立ち去ってほしい。何故なら、彼は神の教会の腐った肢体だからだ。自分は今天国にいるから、このままここに居させてほしい」と言ったという。


(4)1636年、ドミニコ会管区長代理アントニオ・ゴンサレスを含む四人の司祭と二人の従者が、マニラを出港し琉球に到着して捕えられた。翌1637年、一行は琉球から薩摩に連行され、長崎に護送された。

取り調べの場に、背教者クリストヴァン・フェレイラとトマス・アラキがいた。
アラキが、司祭ミゲル・デ・オサラサに向かってラテン語で棄教を勧めたのに対し、オサラサは「あなたはラテン語を話すのだから、それが理解できるに相違ない。また、あなたは背教者に違いない。あなたはラテン語で話したが、その内容は大変に悪い」と答えたことが記録されている。


3.長崎奉行によるポルトガル船取り調べに対する協力


1620年代半ばから、幕府はポルトガル船に対し人と物の両方から、厳重な取り調べを行うようになり、長崎奉行自らがポルトガル船に乗り込んで取り調べを行うこともあり、その際にアラキを伴った。



〈西勝寺文書「きりしたんころび証文」への署名〉


この「ころび証文」は、キリシタン信者の夫婦がキリシタン弾圧に堪えかねて改宗を誓い、このことを奉行所へとどけるために書いたものであるが、書き損じたため、西勝寺に残ったものであると裏書にある。(長崎県指定有形文化財)

この証文には以下の署名がある。

南蛮ころひ伴天連  中庵(沢野忠庵 クリストヴァン・フェレイラ)
日本ころひ伴天連  了順
日本ころひ伴天連  了伯

論文「クリストヴァン・フェレイラの研究」を書いたフ-ベルト・チ-スリク氏は、了伯はトマス・アラキ、了順は教区司祭ミゲル後藤(長崎頭人総代後藤宗印の次男、1632年頃棄教)であるとしている。



〈オランダ商館との関係〉


アラキは、長谷川権六藤正(在任1614-1626)、水野守信(1626-1629)と二代の長崎奉行に目明しとして仕えたが、次の竹中采女正重義(1629-1634)の代になると、何故か理由は不明だが、奉行との間に距離を置くようになる。

そして、立場を活かしてオランダ商館に近づき、情報を提供して信頼を得、個人的にも商品を購入するなど取引関係を持ち、経済的にも裕福であったようだ。

平戸オランダ商館員ク-ンラ-ト・クラ-メルは、1630年3月12日、長崎でアラキに出逢い、その場に居合わせたポルトガル人がアラキを尊重している様子をかいま見たことや、彼から情報提供を受けたことなど、アラキとの交流を記している。



次回は、トマス・アラキの生涯について私の考えていることを書いてみようと思う。


〈つづく〉


[参考文献]



「キリシタン時代対外関係の研究」 第十三章 転び伴天連トマス・アラキ        高瀬弘一郎著 岩波書店                            
「キリシタンの世紀」-ザビエル渡日から「鎖国」までー 第十六章 長崎教会 他    高瀬弘一郎著 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について                     五野井隆史
キリシタン司祭後藤ミゲルのラテン語の詩とその印刷者税所ミゲルをめぐって       原田 裕司著 近代文芸社
オランダ人の描いたトマス荒木 永積洋子 (岡田章雄著作集Ⅲ 日欧交渉と南蛮貿易 栞)       


























                                             




                                              

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by GFauree | 2016-12-29 13:49 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(2)

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                                          (写真撮影 三上信一氏)





キリシタン宣教師による武力行使の指示・要請・提言について



〈アラキの発言〉


ロ-マで司祭となったトマス・アラキは、1615年頃マカオに現われた。

その頃、マカオには幕府の全国的な禁教令によって日本を追放されたヨ-ロッパ人宣教師と行動を共にする形で出国したイエズス会の日本人修道士や日本人伝道師(同宿)たちが多数滞在していた。

彼らの多くは、イエズス会に入会しやがては司祭になるために哲学や神学を学びたいという願望を持ちながら、日本では会の方針によってそれが受け容れられなかった者たちである。そのため、日本を出たその機会にこそ外地で学べるのではとの期待を抱いていたのだろう。実は、その期待故に彼らは出国したのかも知れない。ところが、いざマカオに着いてみると、日本国内と同様に入会も勉学も許されないことが明らかになり、憤慨した彼らとヨ-ロッパ人宣教師との間が険悪なものとなっていた。

処遇を巡っての日本人修道士の強い不満は、1609年、ポルトガル船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号が長崎湾内で有馬軍の攻撃を受け自爆した際に、彼らがあからさまに歓喜したことや、その前年の日本人修道士不干斎ファビアンの離脱・棄教で既に露呈していた。

そんな中に現われたアラキは、自分と同様にイエズス会を離れ独自のル-トでロ-マへ行き教区司祭となることを勧めただけでなく、托鉢修道会士たちが日本征服を企てスペイン国王に働きかけたことを、マドリ-ドで聞いたと彼らに語った



〈イスパニアによる征服の進め方〉


1596年10月
、フィリピン・ルソン島からメキシコへ向かっていたイスパニアのガレオン船サン・フェリペ号が土佐の浦戸沖に漂着した。

「(その船の)水先案内フランシスコ・ダ・サンダが、浦戸に滞在中であった増田長盛に世界地図を見せて、イスパニア領の広大なことを自慢した。そして、どうしてそんなに領土を拡大したかと尋ねられると、わが国ではまず宣教師を派遣してその国の人にキリスト教を伝えておき、信者が相応の数になったとき軍隊をさしむけ、信者の内応をえて、たやすく目ざす国土を征服すると答えた
これが、長盛から秀吉に報ぜられたと、イエズス会の宣教師ルイス・デ・セルケラが伝えている。」
(岩生成一著「日本の歴史」14鎖国 中央公論社)

長盛からの報告を受けた秀吉は、このイスパニアの征服の進め方を聞いて、キリシタンの伝道はもはや見過ごすことはできないと判断した、とされている。



〈江戸幕府が抱いたとされる疑惑と現代の常識〉



将軍をはじめとする日本の為政者は、キリシタン布教は国土征服を目的としたものだという疑惑を抱いており、このような疑惑にもとづく危惧の念がキリシタン迫害の原因である、と記述している宣教師は少なくなかった。(高瀬弘一郎「キリシタン宣教師の軍事計画」)

また、現在インタ-ネット情報を検索してみると、キリシタン宣教師はポルトガル・スペインの侵略の尖兵や道具であったとか、イエズス会は世界支配を狙う秘密結社的組織であったかのように書かれているものが目に付く。さらに、フランシスコ・ザビエルは日本占領を目的として渡来したかのように書かれているものまである。世間の常識というものは、意外な事に、現代も江戸時代もあまり変わらないもののようである。

それでは、実際に、キリシタン宣教師によって唱えられた武力行使論はどのようなものだったのか。
いつものことながら、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」と「キリシタン時代の研究」(第三章 キリシタン宣教師の軍事計画)を参照しながら見ていくことにしたい。



〈キリシタン宣教師の武力行使論〉



ただし、日本に対する武力行使論は中国征服論と関連づけて論ぜられたものが多い(イベリア両国とカトリック教会にとって、中国はそれだけ魅力ある標的だったということを意味しているのだろう)ということだが、話が広がり過ぎるので、ここでは「キリシタンの世紀」に従って、日本を対象とするものに限定することにする。



1.イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノ


(1)1580年
、『日本の布教長のための規則』の中で、長崎・茂木についてポルトガル人を中心とした武装・要塞化を指示した。

これについては、大村純忠・喜前父子から寄進された長崎・茂木を“迫害時の避難所”にしようとしたとして、防衛的意味が強調されることが少なくない。しかし、日本国内の一地域が、外国勢力の指示によって武装・要塞化されれば、どのような結果が生じ得るかを考えれば、そのような主張の無意味さが理解されるだろう。


(2)
この規則を作成した頃に、有馬晴信に対する軍事的てこ入れを行っている。
この時期、大村氏も有馬氏も、反キリシタン勢力である竜造寺氏と争い窮地に陥っていた。
(イエズス会日本布教長であったフランシスコ・カブラルも、大村純忠に対し、複数回にわたり金銭的援助を行っている。)




2.イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョ


(1)1585年
、フィリピン、イエズス会布教長アントニオ・セデ-ニョに宛て書翰を送り、キリシタン大名を支援するための武装艦隊及び弾薬・大砲・食糧・資金を送るよう、フィリピン総督へ取り次ぐことを要請した。

この要請は、フリピン側に日本に向けて割くだけの軍事力の余裕がないという理由で拒否された。


(2)1587年
、秀吉のキリシタン禁令(伴天連追放令)発布に対し、コエリョを中心に、内外呼応して武力により抵抗することが計画された。当時、既に前述のバリニャ-ノの指示により、教会領長崎は要塞化され、火器等により武装化されており、軍艦も建造・配備されていた。

ところが、国内のキリシタン大名と結託して行動を起こすことを企画したにもかかわらず、有馬晴信・小西行長等がこれに応じなかった。


(3)
そこで、コエリョは援軍派遣を求め、フィリピンの各方面に書簡を送った。

さらに、イエズス会司祭ベルチョ-ル・デ・モ-ラをマカオに送り、ヴァリニャ-ノに会って軍隊・食糧・弾薬を持って日本へ渡るよう説得させることとした。また、もしヴァリニャ-ノに会えなければ、フィリピンからヨ-ロッパに赴き、スペイン国王やイエズス会総会長と会い理解と協力を求めることとした。

ヴァリニャ-ノは、マカオで事の次第を知り、1590年7月来日し、長崎に貯えられていた武器・弾薬を秘かに処分した。そして、コエリョは死亡したとだけされているが、自然死ではなかった可能性も示唆されている。(安野眞幸著 教会領長崎 イエズス会と日本 講談社メチエ)

このイエズス会の方向転換は、教会に対し厳しい姿勢を取る強力な統一政権が成立したという日本の国内政治情勢の変化に対応してなされたものとして、さらに、「現地適応」というイエズス会の布教政策の機動性・柔軟性を物語るものとして考えられている。



3.イエズス会司祭ペドロ・デ・ラ・クルス


・1599年
イエズス会総会長宛てに送られた書翰において、日本はスペイン国王によって武力征服されるべきであると強く主張した。

また、武力征服を完成するまでの当面の施策として、スペイン、ポルトガルが、日本で別々にどこかの港を基地として手に入れ、武力をもってその都市を確保すべきことを主張している。

ペドロ・デ・ラ・クルスは、1601年に盛式四誓願司祭となり、順調にイエズス会幹部パ-ドレとなっている。



4.フランシスコ会司祭マルティン・デ・ラ・アセンシオン



・アセンシオンは長崎で殉教した26聖人の一人であるが、彼も次のように武力行使を論じている。

・スペイン国王は、日本に対して支配権を有する以上は、日本教会の保護者としての義務を果たさなければならない。
同国王は、その任務遂行のため、日本において、貿易船の入港と交易に適したいくつかの港を取得して要塞化し、艦隊を配備する必要がある。そして、日本において暴君たちの支配下にある多くの国々を武力によって奪い、最後には日本全土を我がものにする(べきである)。



5.アウグスチノ会士マテウス・デ・メンド-サ


・スペイン国王による日本侵攻は容易であることを論じている。



6.フランシスコ会士ディエゴ・デ・サンタ・カタリ-ナ


・1615年、スペイン国王の命を受けたメキシコ副王によって日本へ派遣され、将軍に対して日本国内に要塞を作るための土地を求め、日本側の疑惑を掻き立てた。



7.その他


・1611年
フランシスコ会士アロンソ・ムニョスは、徳川家康の使者としてマドリ-ドに着いたが、その際、スペイン政府内で日本を武力征服する件が話題となった。

・1614年11月フランシスコ会士ルイス・ソテロは、伊達政宗の遣欧使節を引率してマドリ-ドに到着したが、その時も政府内で日本の武力征服の件が採り上げられたという。



〈私の考えるところ〉


1.
キリスト教布教の目的が日本の国土征服にあったという話や、宣教師が日本に対する武力行使までを考えたり提案していたという話は、よく出て来る古くて新しい話題である。

従って、実際になされた宣教師の武力行使の要請や提言はかなりの数に昇ったと考えられるから、今回列挙したものはその一部に過ぎないだろうと思う。それでも、件数は当初私が想像していたものより多いし、イエズス会以外の修道会士による提言の多さも意外である。


2.
その理由として、一般には次のような事項が挙げられる。

・大航海時代のカトリック布教は、イベリア両国の王室が布教事業に対して経済援助をする代わりに、教会聖職者の人事等に介入しうる(patronato real-王室の聖職者推挙権)、という布教保護権制度の下に進められたものであるから、両国王室による武力征服事業と並行して進められていく性格のものであったこと。

・当時は、ロ-マ教皇の権威のもとに太平洋上にデマルカシオン(教皇子午線)を引き、世界中の異教の国々を両国の間で二分割することができるという観念があったこと。



布教保護権制度では、王室は聖職推挙権を得る代わりに、教会に対し経済的なものを含め全面的な援助をする義務を負うこととなっている。そのため、一見、王室と教会の間の相互的な権利・義務関係であるかのような印象を与える制度である。しかし、実際はこれによって教会は金と人事権をパトロンである王室に握られてしまったと考えるべきではないか、と私は思う。

金と人事を握るパトロンに逆らってでも、思うが儘に行動できる人間は極めて稀であることは、我々自身の経験が教えてくれる。そのうち、上昇志向の強い者は、それまでの倫理規範を踏み外してでも、競ってパトロンの気に入るような行動に走ったり計画や提言をひねり出して見せたりするようになる。

パトロンの気に入るような行動に走ったり計画や提言をひねり出したりする者は、自身の属する組織(修道会)内でも積極性や企画力があるとして高く評価されたに違いない。なぜなら、彼らを評価する立場にある修道会の上長自身も、パトロンである王室から高く評価されることを望んでいた筈だからである。


それを考えると、布教を成功させるためには武力に頼らなければならないというような考え方に反対する宣教師は、いたとしても少数であったと考える方が自然である。

イエズス会準管区長コエリョが秀吉のキリシタン禁令発布に、武力で抵抗するべく、モ-ラをマカオに送ったことを上に述べたが、それはコエリョの独断によるものではなかった。1589年2月、高来(現在の長崎県諫早市の一部)においてコエリョを含む7人の司祭たちによって協議会を開き決定されたことなのである。その際、コエリョの独断どころか、オルガンティノを除く残りの6人全員が、軍隊派遣を要請するために使者を派遣することに合意したという。


3.
トマス・アラキが、マカオで落胆し憤慨していた日本人修道士や同宿たちに語った、托鉢修道会士による日本征服の企てというのは、上記のうちのどれに当たるのだろうか。


日本を武力征服する件は、1611年にも1614年にもスペイン政府内で話題になっていたというから、いつ誰の提言によるものであったか特定できないほど、ある程度の期間にわたって多くの提言がなされていたのかも知れない。

それは、ちょうど幕府が大坂の陣という豊臣方との決戦を控え、国内政情の安定化を狙いとして全国的な禁教令発布を準備していた時期であろうことが興味深い。




次回は、日本に帰国してからのトマス・アラキの行動を追うこととしたい。



〈つづく〉







































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by GFauree | 2016-12-21 09:06 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(2)

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                                          (写真撮影 三上信一氏)





「教区司祭」と「修道会司祭」について


・トマス・アラキは司祭になることを志したが、何らかの理由で日本のイエズス会経営のセミナリオで学ばずに、フィリピン、メキシコ経由でロ-マに渡った。そして、イエズス会士たちが教師をしていたローマの“教皇のセミナリオ”で、6年以上神学を学び、司祭の叙品を受け「教区司祭」となった。

そこで、ペトロ・カスイ・岐部のことを思い出す。

・通常、司祭に叙階されるためには、一定の教区に属し、その教区の司教の聖職任命許可状が必要である。岐部の場合、ローマ教区の異例な措置によって司教の許可状なしで、「教区司祭」となることが出来た、とされている。(大分県先哲叢書 「ペトロ岐部カスイ」 五野井隆史著)



「教区司祭」と「修道会司祭」の並存は教会組織の特徴


カトリック教会の組織の特徴的な点は、教皇を頂点として、各地に設けられた教区と修道会が並存していることである。教区は教皇によって任命された司教が統轄する各地域の教会であり、修道会は各々の総(会)長によって統率され、教皇庁の認可を受けた組織である。

このため、カトリック教会には、司教の管理下で働く「教区司祭」と、修道会に所属する「修道会司祭」がいることになる。



コスメ・デ・ト-レス神父のこと


フランシスコ・ザビエルと共に日本へ渡来したコスメ・デ・ト-レス神父は、24歳のときスペインのバレンシアで「教区司祭」として司祭職を授けられている。私はその記事(http://iwahanjiro.exblog.jp/21628296/を書いた時、ト-レスは比較的若くして司祭になっているようだがそれは何故か、などと思いながら疑問を解消する手立ても思い付かないまま、そのままにしてしまった。

ところが、暫く経ってからその疑問への答えを提供してくれそうな本に出会った。



C.R.Boxer著 The Church Militant and Iberian Expansionのこと


C.R.Boxer(チャ-ルズ・ラルフ・ボクサ-)の著書、The Church Militant and Iberian Expansion(闘う教会とイベリア両国の海外発展)である。この本の第3章に教会が抱えていた組織上の問題の一つとして、「修道会司祭と教区司祭(の違い)」が挙げられている。


以下、「教区司祭」に関してそこに書かれてある事柄に私の解釈や参考事項を交えてまとめてみよう。



中世から、「修道会司祭」の方が格上と見られていたらしい


私は、子供の頃通っていた地域の教会の「教区司祭」である神父さんたちの印象から、地域の教会で担当教区と信者という地盤を持っている「教区司祭」の方が、修道院でひたすら祈りと労働の日々を送っていると言われている「修道会司祭」より格が上なのだろうと漠然と思っていた。ところが、教会内の位置付けとしては、中世以来どうも逆だったようだ。

教皇は、禁欲的、修道院的な規則正しい生活を送っているという面で、「修道会司祭」の方が「教区司祭」より倫理的に優れていると認める傾向があった、ということである。


英語で、「教区司祭」は secular clergy 、直訳すれば「世俗司祭」である。「教区司祭」は町や村の教区に所属するというだけで、別に俗人の生活を送っていたという訳でもないのに、妙な言葉だなと思って、過去の記事にそう書いたことがある。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21759248/)しかし、人里離れた修道院に籠もって祈りと労働に明け暮れる「修道会司祭」に比べれば、「教区司祭」は世俗に近い所で働いていたことは確かである。

それに対して、「修道会司祭」は monastic clergy とでも言うのかと思っていたのだが、正しくは regular clergy である。「修道会司祭」のほうが、より通常だとか、より正規だとかいう意味がそこに込められているような気がするが、どうなのだろうか。



大航海時代、「修道会司祭」はさらに重んじられるようになった


さらに、大航海時代にポルトガル・スペイン両国の海外展開と連携して布教事業が進められるようになると、教区と信者という地盤を持たない「修道会司祭」は一層重んじられることとなった。1522年、修道会の上長には、教皇によって先住民改宗の開拓事業と新たな教区の統治を行うための全面的権限が与えられた。

ヨ-ロッパから遠く離れたアフリカや南米の奥地の、それも不健康地として名高かった諸地方に、「修道会司祭」は果敢に出掛け、伝道改宗事業を積極的に進めた。

一方、ヨ-ロッパ以外の海外布教地においても、「教区司祭」(大半が現地生まれの白人だったが)たちは、ジャングルやブッシュの中で宣教師として活動するよりは、都市や町で親類、知己である信者たちを世話する方を好んだ。その結果、「教区司祭」が先住民の改宗事業に携わることは、殆ど起こり得ず、そのことが、また「修道会司祭」の優越意識をさらに膨らませることとなった。


先住民の「教区司祭」誕生が、「教区司祭」の格を引き下げた


また、どこの海外布教地でも先住民司祭の養成が積極的に奨励されることは殆どなかった。仮に、「教区司祭」として先住民司祭が生まれても、先住民司祭は一段下に位置付けられたから、それがまた「教区司祭」の格を引き下げる要因となった。


本来、海外の布教地の布教・改宗事業が進んで、ある段階に至れば教区が設定され、ヨ-ロッパの本国から司教が派遣され、教区民は司教が任命する「教区司祭」によって治められねばならない、というのがカトリック教会の原則だった筈である。



「修道会司祭」は自分たちが開拓した教区を「教区司祭」に譲ることに抵抗した


ところが、上述の通り「教区司祭」に対する優越感が膨張していったために、「修道会司祭」は新たに出来上がった教区を「教区司祭」に引き渡すことに抵抗するようになった。

加えて、一旦手に入れた利益や権力、つまり利権にしがみ付きたいというまさに人間的な欲求が、「修道会司祭」をして彼らの地位と特権を譲ることを拒ませたという面もあっただろう。


しかし、「修道会司祭」が新たに育てた教区を手離したがらなかった理由は、優越感や人間的欲求ばかりではないのである。



王権が統轄の容易な「教区司祭」に加担したので


「ボリビアを知るための73章」[第2版]明石書房 [コラム9]〈チキトスのイエズス会ミッション〉谷口智子

「チキトスはイエズス会が17世紀末にこの土地に入植した当時、未開の僻地であった。(植民地)教会の組織化がある程度進むと、独立性の強い修道会を敬遠する王権が人事権をはじめ統轄のより容易な教区付聖職者(教区司祭)に加担したため、修道会は都市部での司牧職から追われ、辺境や奥地での宣教にあらためて取り組まねばならなかった。」
(括弧内は、原文に追記させて頂いた。)


このコラムから読み取れることは、新たに作られた教区が「修道会司祭」から「教区司祭」へ移譲されたというのは、単に教会の組織原則だけによるものではなかったということである。

そもそも、「修道会司祭」と「教区司祭」の対立には、王権ナショナリズムとロ-マ教皇支配との対立が背景にあったのである。そのため、ロ-マ教皇と関係の深い諸修道会(特にイエズス会は、教皇への絶対服従を特色としている)は、王権(及びその出先である現地政庁)にとって統御し難いことから敬遠され、辺境や奥地での宣教という、より困難な課題が与えられたということのようだ。

「修道会司祭」にしてみれば、自分たちが折角苦労して育てた教区を自分が優越感を抱いている(つまり自分より劣る)相手に譲らねばならないことに加え、自分たちには王権によっていっそう困難な課題が押し付けられ、さらに僻地に追いやられるということは、たとえそれが自分たちの使命(ミッション)の一環であるとしても、さぞかし我慢のならないことだっただろう。


修道会の拡大していく特権と、司教たちの管轄権的な要求の間に生まれた、「修道会司祭」と「教区司祭」の間の緊張関係は、植民地時代を通じて解消されることはなかった。



「修道会司祭」の活動に対する妨害・抑圧と「教区司祭」活用の事例



「幻の帝国-南米イエズス会士の夢と挫折」 伊藤滋子著 同成社


・1650年頃、南米パラグアイのアスンシオン市議会は、現在のボリビア・チャルカスの行政院(アウディエンシア)に代表を送り、イエズス会の活動を禁止し、「教化村」の先住民をスペイン人入植者の間で分配することを申し入れた。

・同じ頃、パラグアイのイタティン地方へ侵入してきたブラジルの奴隷狩り部隊(バンデイランテ)に対抗するという名目で、アスンシオン市民(スペイン人入植者)が援軍を送った。ところが、その援軍の標的は、実はイエズス会の「教化村」だったのである。
送られた援軍は、「教化村」からイエズス会士を追い出し、「教区司祭」を後釜にすえ、村民を自分たちの間で分配し、強制労働に就かせるためのものだったのだ。



緊張・対立関係は18世紀後半まで続き、その後は「教区司祭」に有利な展開となる



18世紀後半、ヨ-ロッパ・カトリック諸国では王権擁護主義の高まりによってロ-マ教皇の支配が次第に弱まり、局面は「教区司祭」と司教たちの側に有利なものとなっていった。「修道会司祭」と「教区司祭」との間の緊張・対立関係は、その頃まで続いたのである。




修道会同士の競合


大航海時代のカトリック教会が抱えていた組織上のもう一つの問題は、修道会同士の競合である。

例えば、フランシスコ会士とイエズス会士の競合関係は、様々な時期や場所において、特に17世紀の日本と南米・パラグアイにおいて、もはや危険な領域に到達していた。また、ドミニコ会士とイエズス会士との関係は、イベリア半島でもその他の地域でも、しばしば親愛とは程遠いものとなっていたようだ。

パラグアイのケースは、フランシスコ会士である司教とイエズス会との抗争という側面もあった。
日本への帰国後、トマス・アラキが「教区司祭」として巻き込まれた紛争、長崎“教会分裂”(シスマ)は、「修道会司祭」と「教区司祭」との関係に加えて、修道会同士の抗争という要素をはらんだ動きである。これについては、帰国後のアラキの行動をたどる中で見直したい。


教皇も国王もしばしば仲裁に入った


内輪同士の競合関係を最小限に食い止めようと、教皇も国王もしばしば仲裁に入り、各修道会の活動地域の範囲を限定しようとした。

例えば、1594年フィリプ2世は、フィリピン諸島を宣教区に分けて各修道会に与え、そこでアウグスチノ会、フランシスコ会、イエズス会、ドミニコ会は、それぞれの独立した地域で活動することとなった。



内部抗争は人間的組織の証


「慢心は諸悪の根元、謙遜は諸善の基礎であるから謙遜を専らとせよと、人には勧めるけれども、生まれつきの国の風習なのであろうか、彼ら(伴天連:バテレン)の高慢は天魔も及ぶことができない。この高慢のため他の門派の伴天連と勢力争いをして喧嘩口論に及ぶことは、俗人そこのけのありさまであって、見苦しいことはご推察のほかだとお考え下さい。・・・」
(海老沢有道訳『南蛮興廃記・・・破堤宇子』)

これは、1608年イエズス会を離脱し、かつ棄教した日本人修道士不干斎ファビアンが、後に著した反キリシタン書『破堤宇子』の中の一文である。

ファビアンは建前を遥か遠くに忘れてきたような内部抗争の様を、苦々しくかつ滑稽なものとして捉えているようだ。確かに、一日本人としてヨ-ロッパ人の組織に飛び込んだ挙げ句にその実態を知って、あきれるというか落胆させらる思いがしていたのであろう。その気持ちは分らないものでもない気がする。

しかし、冷静に考えれば、異なる属性を持ちながら同等と見られる資格を有する者同士の競合というのは、昔も今も多くの組織内にあるものであり、またその競争が生易しいものでないというのは普通のことではないか。

これも教会という組織が、あくまで人間的な組織であることの証であると考えるべきなのだ、と私は思う。そういう考え方で、これからもキリシタン時代以降の歴史を追って行こう思っている。



体調やインタ-ネットの具合が良くなくて、予想以上に手こずってしまったので、今回はここまでとして、「日本征服の策動」については次回とさせて頂きます。


〈つづく〉
















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by GFauree | 2016-12-05 11:05 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。