日本語個人教授のその後

                                    
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                                          (写真撮影 三上信一氏)



私が日本語を教えるようになってから、もう5年が経った。
ある国立大学の経済学部にアジア諸国研究のグル-プがあって、そのグル-プの学生たちが主催する日本語講座をやらせてもらったのがきっかけだった。講座は週1回(4時間)で6か月間、と言っても大学のストライキなどもあったから20回ほどである。


物珍しさで生徒が集まった


この国に暮らす日本人は、たいてい官公庁・大企業の駐在員か、考古学研究者か、ジャ-ナリストか、若い頃から当地で仕事をしてきた方である。私のように、定年まで日本で働いていたような者はまず居ない。

ずっとサラリ-マンをやっていた普通の日本人から日本語を、それも無料で教えて貰える機会というのが珍しかったからだろう。学生グル-プがfacebookで募集すると150人以上の応募があり、それを40人に絞って貰った。自分がやる以上、6か月間の最後には出席者はほとんどいない、なんていうことになって欲しくなかったからだ。


「日本語を教えてくれ」というのは、「友達になりたい」ということ


この国に来て意外だったのは、よく日本語を教えて欲しいと 言われることだった。ところが、こっちがその気になってもなかなか具体的にならない、始めてもすぐにやめられてしまうのがほとんどである。そのうち、「日本語を教えてくれ」というのは「日本人であるあなたと友達になりたい」という意味の挨拶代わりの言葉だということが分かってきた。

そもそも、私自身、日本語教育を正式に勉強したこともないのだから、それを教えるなどということはおこがましい。それに、変に期待させ責任を負わされるのも嫌だったから、そういう話は断っていた。が、その日本語講座の話は期間限定で責任もなさそうだし、アジアに興味を持っている学生たちというのが面白そうなので引き受けた。

講座の方は結果として、約半分の生徒は最後まで残ってくれたので、私としてはそれで充分だった。初歩的な事しか教えられなかったが、私にとっては、学生たちを通してこの国の一面に触れることのできる新鮮で楽しい経験だった。



ここから先は、今はもう教えていない二人の生徒Aさん、Bさんのことをお話ししようと思う。
二人とも上に述べた講座の参加者であり、女子であり、日系人ではない。



Aさんのこと


Aさんは、大学での講座に参加していたある日、思いつめたような表情(後で分ったことだが、この人は緊張するとそういう表情になる)で、その講座以外にも教えて欲しいと言ってきた。彼女が予習をしてきて、教えたことは完全に覚えていて、答えられるような生徒だということは感付いていたから、講座の内容にあき足らないのだなと私は思った。

彼女はその時点でもう読み書きもかなりできていた。彼女が幼い頃、ペル-人男性と結婚した若い日本人女性が家の近くに住んでいて、近所の子供たちを集めてボランティアで日本語を教えてくれたのだそうだ。その先生は、予習・復習とかを含めて勉強の仕方もきっちり教えたらしい。そういう教え方をしたという先生にも、またその教えを身につけた彼女にも私は感動した。先生と彼女の努力が無駄にならないようにしなければと思って、講座以外に教えることにした。

講座が終わった後も、彼女は大学での専門を生かした勤めをしながら、3年間私の家に通って来て日本語の勉強を続けた。
一年前日本に行き、高校時代から付き合っていた日系人の男性と結婚して、日本に住んでいる。
よほど以前から、それを決めていたのだろう。だから、日本語学習もあんなに一生懸命だったのだろう。
そう言えば、日本語能力試験の準備としてやらせたテストの結果に悔しがって泣き出して、私を慌てさせたことがある。

Aさんは、時々私とか妻に連絡をくれる。引っ越しをしたとか、正社員になったとか、日本語の勉強をまた始めたとかである。
私も妻も彼女に日本で幸せになってもらいたいと思っている。だから、少し心配になることもあるし、連絡を貰うととても嬉しい。


Bさんのこと


Bさんは、大学の日本語講座を主催したグル-プの幹事で運営責任者の一人だった。冒頭に書いたように大学のストライキで講座が急に潰れることもあって、運営責任者の学生に頼らねばならないこともあったのだが、いざとなると「そんなこと、私は知らない」などと平然と答える責任者もいた。(そういうことは、この国では普通なのだが)そんな中で、彼女はいつも最後まで責任を果たしてくれた文字通り有難い(つまり、なかなかいない)存在だった。

だから、講座が終わって何か月か経ってから、また日本語を習いたいと言って来た時は私も妻も喜んだ。というのは、講座を終始手伝っていてくれた妻も、Bさんの責任感のある態度に感心していたからだ。そしてBさんも、3年間、週2回私の家に通ってきた。

時間に遅れてはいけないし、早く来ては迷惑だと思ったのか、いつも少し早く来てアパ-トの建物の前で待っていて時間通りに現われたのも彼女である。質問されて、私が明確に答えられないときに彼女は「これが試験に出たらどうするのですか」と言って怒った。

よく予習をしているからなのか、注意深いのか、習った表現の例文をつくるのがうまい。すぐに、上手な例文を作って笑わせる。例えば、「~は、まだまだです」という表現の例文を作れと言ったら、すぐに「あなたのスペイン語は、まだまだですね。」と返された。

私に日本語を習っていた間も、より良い条件の仕事を狙って何度か転職し、経済関係の官庁に勤めるようになってからは、さすがに日本語を習っている時間も体力もなくなって、習いに来ることも出来なくなった。聞いていると、その官庁勤めはかなりハ-ドである。

それでも、時々挨拶代わりに連絡してくる。そして、妻と私に食事を奢ってくれる。それは、言いようもなく嬉しい。
就職した子供に奢ってもらう親はこんな気持ちなのかとも思う。


私が学んだこと


Aさんも、Bさんも本当によく勉強してくれた。そして、今でも何かと連絡をくれる。
そういう経験を通して、私も色々と学ばせてもらった。
そのひとつに、若い人に何かを教えると、教えた事柄だけでなく相手のその後が気になり、心配になるということがある。
だから、どんなことでも時々連絡してくれると、それだけで嬉しくなるのだ。

そこで、私は自分の小学校・中学校時代の先生たちも同じように考えていたのかも知れないということに気が付いた。それなのに、私はつい最近までそのことに全く思い及ばず、先生たちには失礼のし通しだった。そのことが今更ながら悔やまれる。全く、後悔の種は尽きない。

今教えている生徒は二人だけだ。その二人については、またの機会にお話したい。


〈おわり〉














                                                    

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by GFauree | 2017-02-26 14:25 | 日本語個人教授 | Comments(0)


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1月にマ-チン・スコセッシ監督の映画『沈黙』が日本で封切りされ、事前の予想以上に話題になっているようである。
そのせいか、原作の小説『沈黙』についても、その作者遠藤周作についても、また小説の陰の主役であるクリストヴァン・フェレイラについても、最近になって初めて知ったり、思い出したり、考えたり、教えて頂いたりしたことが色々あった。

そこで、それらの事どもをここに書き留めておこうと思い付いた。


1.講演「『沈黙』について」


小説『沈黙』を発表した1966年の遠藤自身による講演の録音を聴いた。結構語り口がうまいというか心地よく、適度に面白い。
40分間笑わせながら飽きさせず、小説『沈黙』のポイントを要領よく語ってくれている。

「遠藤周作の小説『沈黙』の題名には二つの理由があったということである。ひとつは、人間の苦しみに対する『神の沈黙』への疑問である。そして、もうひとつは、棄教者の苦悩に対する、後世の人々の蔑視や黙殺に対する批判である。」
ということを前回の記事に書いたが、それは、この講演でも語られている。


この記事の冒頭に掲載させて頂いた写真は、『沈黙』の草稿の翻刻が収められた本の表紙である。その本には、原稿用紙の裏側に鉛筆で書き込んでいた遠藤自筆の草稿の写真版も収録されているが、それを見ているとこの小説の執筆が彼にとって如何に体力・精神力を消耗させるものであったかが少し痛々しいまでに感じられる。

それだけにこの講演をした時期の遠藤は、作品を書き上げた後の達成感、虚脱感とともに反響への期待や満足感に浸っていただろうと想像できるから、講演の語り口を聞いて感ずる心地よさはそのせいかも知れない。


「2017年3月末まで期間限定無料公開」なんだそうだ。ということは、4月になったらお金を払わないと聴けなくなる、ということらしい。https://www.youtube.com/watch?v=ykJKaM3lfys



2.小説『沈黙』の内容は、キリシタン史研究の発展とはあまり関係が無い



私は過去の記事の中で、「遠藤周作の『沈黙』も『侍』もこの(高瀬弘一郎氏の「キリシタン時代の研究」という論文集が刊行された)頃に発表された作品であり、キリシタン史の研究の発展はそういう面にも影響を与えているようだ」などと書いてしまった(http://iwahanjiro.exblog.jp/23274041/)が、それは誤りなので訂正させて頂きたい。



『沈黙』が発表されたのは1966年、「キリシタン時代の研究」に収められた諸論文は1971年から1977年に発表されたものである。内容的にも、『沈黙』では「キリシタン時代の研究」に書かれているような、「キリシタン布教とスペイン・ポルトガルの国家政策の関係」や「キリシタン布教の実態」や「宣教師の軍事計画」などといったことは一切触れられていない。

『沈黙』で描かれているのは、迫害・拷問によって棄教を迫られひたすら苦しむ信者と宣教師であり、それは「キリシタン時代の研究」以前に描かれていたある意味で清く美しい「キリシタン史」の世界である。だから、『沈黙』を今読むとどこか古臭く感じられるのは、そのせいかも知れない。

しかし、そもそも作者遠藤周作は歴史研究者ではないのだから、史実を書かねばならないということはないし、小説なのだから史実の一部を改変したり省略したり強調したりして如何なる状況を設定しようと自由なのである。したがって、小説『沈黙』には歴史研究の成果である史実が盛り込まれていないから価値が無いなどと言うつもりは私にはない。むしろ、50年前のあの時代によくぞここまで書けたものだと感嘆し、その勇気を讃えたいと思っているくらいなのである。


それは、上に述べたこの小説の題名を『沈黙』とした二つの理由、「神の沈黙」と「棄教者の苦悩に対する後世の人々(教会と言って良いかも知れない)の沈黙」は、どちらも教会の中ではタブ-とされてきたことだと私は思うからである。そのタブ-をこの小説はテーマとして採り上げ、答えを探ろうとした。作者が探り当てた答えが、納得いくものであるかどうかの判断は人によって様々だろう。

ある人々は、作者が提示した答えがあるまじき考えであり異端であると決めつけている。私は、「踏むがいい」と言われたとする話の筋は、棄教者に光を当てたいと願いながら彼らが弱者であるとの考えから結局脱けきれなかった作者の及び腰の産物だと考えてきた。


しかし、なぜ遠藤周作は信者でありながら教会のタブ-に挑戦するようなことができたのだろうか。それは、彼自身の信者としてのある意味で特異な経験が可能にしたことではないか、と私は考えている。



3.教会に帰属意識をもてず、聖職者の人間的側面をみせつけられるような経験までしていたからこそ



遠藤周作は、日本では珍しくカトリック信者であることを自認し、それが広く知られ作品にもそれを反映させていた作家だった。それで、カトリック作家の代表であるかのようにみなされ、本人も彼に対するそういう世の中の位置付けを了解して対応しているように見えた。しかし、遠藤の生い立ちをよく観てみると、彼が育った環境は決して典型的なカトリック信者のそれではない。


彼は、両親の離別により満州から母親とともに帰国し、母親の姉の下に身を寄せていたという。そして、その叔母の影響で洗礼を受けた母親の指示に従って、彼も12歳の時に受洗した。カトリック信者は生後すぐに洗礼を受けるのが一般的である。また、私が子供の頃通っていた教会の熱心な信者の中には大学生ぐらいの年齢になってから、いわば生き方の選択の一つとして洗礼を受けたというような人も結構いた。しかし、遠藤はそのどちらでもない。


教会というところは、信者の子供にとって生活の場だから友達もいて学校の次に多くの時間を過ごす場所である。そういう場所では、何と言っても赤ん坊の頃からそこで育ったような子が幅を効かせる。私の周囲にも、小学校の高学年になって洗礼を受けた子がいたが、皆がその子を、まるでお客さんのように扱っていたような気がする。


さらに、今はそんなことは無いかも知れないが、昔はカトリック教会では離婚などあり得ない事だった。だから、両親が離別したという事情があれば、またそれだけ教会の中に溶け込むのは難しかっただろうと私は推測する。そんなことから、遠藤は子供の頃、教会の雰囲気に溶け込めず教会に帰属意識のようなものは持てなかったのではないか、と私は思っている。


次に、遠藤の母親は、あるドイツ人のイエズス会司祭に深く傾倒していた。その司祭は学識豊かで教会の中の誰からもエリ-トと仰ぎ見られるような存在だったらしい。彼は大学教授となり遠藤の母親によって翻訳された彼の著書が出版されたこともある。ところが、彼は遠藤の結婚式を司式した2年後、突如失踪し司祭職を辞して日本人女性と結婚、日本に帰化した。遠藤が『沈黙』を発表する9年前のことである。遠藤は『沈黙』を発表した2年後、この人物をモデルに小説『影法師』を書いている。


以上から言えることは、遠藤周作が幼い頃は教会の雰囲気に溶け込めない事情を抱え、長じては聖職者や教会について醒めた目で見つめざるをえないような経験をしていたということである。それゆえに、遠藤にとって、多くの信者のように教会という場で信者同士の繋がりや聖職者との関係を手に入れそれを享受するようなことは難しかったのではないか、と私は考える。しかしまたそういう人間関係のしがらみのない立場にいたからこそ、他の人々が人間関係を崩したくないがために出来れば避けて通ろうとするタブ-にも立ち向かうことが出来たのではないかとも思っている。

そして、そう思うようになったとき、主人公ロドリゴが「踏絵を踏むがいい」という声を聞いたという『沈黙』の筋が作者の「及び腰」の産物だとばかり考えてきた私は、それが子供の頃から教会の中で遠藤が感じ続けていたであろう「孤独」の産物でもあることに初めて気が付いた。




4.井上筑後守(ちくごのかみ)政重について



トマス・アラキに関する記事に対し、osakadaさんと仰る方から、井上筑後守は興味深い人物なので調べてみてはどうか、とのアドバイスを頂いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/23554978/


井上筑後守は、どこまでが本心か分らないような複雑な性格を持った元キリシタン信者の老獪な奉行として小説『沈黙』に登場する。映画『沈黙』では、イッセ-尾形が演じてリアルで怖いとかで評判になっているようであるが、井上筑後守政重は実在の人物である。


元キリシタン信徒であった井上は幕府の大目付となった後、宗門改役を兼ね、島原の乱に上使として赴きキリシタン禁教政策の中心人物となった。文京区小日向にあった彼の下屋敷は、宣教師や信者が収容されたことから「切支丹屋敷」と呼ばれ、『沈黙』の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルであるジュゼッペ・キアラが終生幽閉されていた場所である。


さて、osakadaさんが下さったアドバイスの中で私が興味を引かれたのは、井上が「キリシタン取締り」の知識や経験を自己の職務遂行の引いては出世の切り札として活用したと考えられる点であった。(考えてみれば、出世のためなら何でも使おうというのは当然なのだが)
そこで、少し調べてみると「政治的には『オランダ人の保護者』と評され、当代一流の諸科学の受容者でもあった」〈世界大百科事典〉とされている。西欧の科学的知識の吸収に非常に努力し貢献した人らしいのである。


私は、棄教した後のクリストヴァン・フェレイラが、南蛮(ポルトガル)・紅毛(オランダ)両国系の学問・知識の吸収・普及に活路を見い出したのではないか、と考え、そう書いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)棄教者の苦悩に光を当てることを標榜しながら、小説『沈黙』の中に「『私はこの国で役に立っている』と語るフェレイラが、ロドリゴには、他人に自分が有益でありたいという昔の思い出にすがりついているように見えた。」などと書いている作者の「及び腰」に反発を感じたからだ。しかし、フェレイラがどういう経緯で西欧の学問・知識の吸収・普及に貢献しようとするようになったのかは、想像が付かなかった。


フェレイラは、西欧の学問・知識に強い関心を持つ井上筑後守から、その吸収・普及に貢献するという役割を示唆されたのでは、ないだろうか。それとも、学問・知識の吸収・普及の必要性やその進め方を提案したのは、フェレイラの方だったのかも知れない。

いずれにしても、「キリシタン取締りの元締め」と「棄教したポルトガル人司祭」との間に、西欧の学問・知識の吸収・普及に関して交流があり、両者ともがそれによってその後の人生を切り開いていったと考えると何だか楽しい。


osakadaさん、有難うございました。


〈おわり〉










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by GFauree | 2017-02-21 10:42 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(0)

                           
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典厩(てんきゅう)五郎作 NAGASAKI 長崎 夢の王国




「すすむA」さんという方が、図書新聞やamzon.co.jpにこの小説に対する書評を投稿されていて、その中で「『清くも正しくもなかったけれど本物の臭いがする』というタイトルは、彼(村山等安)に最もふさわしいと感じる」とコメントして下さったのを見つけた。


http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/dokusya_display.php?toukouno=415
https://www.amazon.co.jp/NAGASAKI-%E5%A4%A2%E3%81%AE%E7%8E%8B%E5%9B%BD-%E5%85%B8%E5%8E%A9-%E4%BA%94%E9%83%8E/dp/4620107921


細々と書き綴っているようなブログだからそういうコメントを頂くことは滅多にないので、嬉しかったし励まして頂いている気がした。直ぐにでもその小説を読んでみたかったのだが、諸般の事情により半年近く過ぎてやっと入手した。


お蔭で気が長くなった


ブログを書き始めて約2年が経って大分気が長くなったようだ。(年寄の短気は年甲斐がなくてみっともないと思っているので、本当に気が長くなったとすれば嬉しい。)というのは、私のブログ記事に反響を頂くには、なぜか投稿してから半年から1年半の期間が必要なことが分ってきたからだ。ということは、仮に投稿して直ぐには何も反響がなくても、1年半ぐらい経つと何処かの誰かが反応して下さる可能性があるということだ。(と、私は考えることにしている。)

最近、約1年前に書いた「背教者クリストヴァン・フェレイラ」に関する記事を多くの方が読んで下さるようになった。遠藤周作の小説「沈黙」が映画化され先月封切りされたからだろう。「すすむA」さんがコメントして下さったのも、「長崎代官 村山等安」に関する記事を投稿してから1年半後だ。この数日、なぜか1年半前に書いた「天正遣欧使節 千々石ミゲル」に関する記事を読んで頂いているようだが、何か理由があるのだろう。他にも、似たようなことがあった。

とにかく、今書いている記事に関して1年半ぐらい経てば何かが起きるだろうと思えるのは楽しいことだ。記事を書くことが、先々の楽しみの仕込みをすることになるからだ。それで、気が長くなってきたのだろう。こんなことは、ついせっかちに目先の結果ばかりを気にして生きて来てしまった私にとって、人生で初めての経験である。



「NAGASAKI 夢の王国」について



さて、肝心の「NAGASAKI 夢の王国」だが、とても読みやすい小説なのでお勧めしたい。

作者は、30年前にサントリ-ミステリ-大賞を受賞した後、多数のミステリ-や歴史小説を書き続けてきた人だというので、文章の読みやすさと内容の分りやすさを期待したが、その期待通りだった。


文章が分りやすい


まず、文章について言えば、私は多くのキリシタン小説に出てくる恭(うやうや)しい言葉の羅列と気取ったような文体が苦手である。そういう表現が、舶来の宗教に関する内容にふさわしいと考えてされているのかも知れないけれど、そういうのを読むと気恥ずかしいというか、背筋がゾクゾクしてそのうち腹が立ってきて投げ出したくなる。

若い頃、仕事の仲間で英語で話すと声まで変わってしまう人がいたが、それを聞いた時の気恥ずかしさに似ている。恥じらいを忘れたら日本人じゃないよ、と言いたくなる。

この小説は、普通のまともな日本人の言葉と文体で書かれているから、読んで恥ずかしくなる心配はない。


内容も分りやすい


次に、内容であるが、例えばイエズス会というと、今でも秘密結社とかスパイ組織のように書かれてしまうことが少なくない。そんな地下に潜っているような組織でなく、五百年近く表に出て堂々と活動してきた組織であるからこそ問題なのに、どうもそこが理解されにくい様だ。

その点、この小説は歴史研究に基く文献を参考にしているので、書かれていることが全て史実だなどとは言えないが、荒唐無稽なことは書かれていない。したがって、上滑りな空想や妄想に付き合う必要はないので面倒でないし分りやすい。


作者の創作部分について


もちろん、小説だから作者が創作した部分はある。特に、秀吉によって長崎代官に取り立てられるまでの等安については、分っている事柄は殆どないから、僅かな手掛かりを膨らませて、彼が生きてきた環境や人柄が語られている。

一方、話の展開上、代官村山等安と奉行長谷川左兵衛とが幼い頃から親密であったことが軸になっているのだが、左兵衛個人については妹の於奈津が家康の側室だったことぐらいしか書かれていない。おそらく、左兵衛について分っていることは更に極めて少ないのだろう。


なぜこの小説は面白いか


先ず、等安が1594年に長崎代官に任ぜられてから、1618年に失脚するまでの25年間は、キリシタン教会と長崎とが一体になって発展を遂げ、衰退を辿って行った時期である。それはまた、90年にわたる日本のキリシタン時代のうち、最も華やかでまた深刻な多くの問題が露わになった時期でもあった。その舞台の上で、等安は商人、武士、宣教師、背教者といった日本人だけでない、それも一筋縄ではいかない強(したたか)な人々と交錯する。

しかも、等安自身も代官職を梃子に危ない“顔役”として実力を蓄え、イエズス会すら敵に回し、ついには幕府にとってさえ邪魔な存在となってしまったのだから、その一代記が面白くなかろうはずがない。

しかし、この小説の作者は、そんな等安に意外に静かな終焉を迎えさせる。そこが、渋くまたリアルであっていいと私は思うが、どうだろうか。


残念なこと


ところで、この小説の中で「岡本大八事件」(幕府の禁教政策の切っ掛けとなったと一般にされている、「キリシタン大名」有馬晴信と本多正純の家臣岡本大八の間に起きた増収相事件。この事件については記事を書いたことがあるので、ご参照頂きたい。http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)に関連して、正史(国家等の権力が編集し、事実を正確に記したとされている歴史書)について言及した部分がある。


「正史とは、あるいは歴史とは、つねに時の勝者のご都合主義か、もしくは死人に口なしで、生き残った者が歴史の証人面をして書き継いできたものと疑ってかかるべきだろう。」

「『岡本大八事件』は、岡本大八という品性下劣にして邪悪な男が強欲さから起こした単純な事件として正史に定着している。しかし、等安(へ)のいわれなき誹謗や中傷とおなじく、歴史の表側だけを見て裏側への想像力を欠いては、なにも見ていないと言い切ってよいのではないか。歴史とは複雑怪奇であり、つねに裏の顔を持つ生きものなのである。」

こう書いている作者の、この小説の中での元天正少年使節千々石ミゲル(清左衛門)と元日本人司祭トマス・アラキの採り上げ方が私には納得し難い。(トマス・アラキについては、153ページに「トマス・アキラ」と表記されているが、誤植だろうか、それとも何か意味があるのだろうか。)

加えて、「トマス・アラキと千々石ミゲルがよく似ていると等安が思った」とのくだりまであるのである。


棄教者についてどう考えるか


遠藤周作の小説「沈黙」の題名には二つの理由があったということである。ひとつは、人間の苦しみに対する「神の沈黙」への疑問である。そして、もうひとつは、棄教者の苦悩に対する、後世の人々の蔑視や黙殺に対する批判である。


千々石ミゲルに関しては、キリスト教社会的価値判断を脱却せずそのまま引き摺ってしまった日本社会の精神的怠惰を私は感じている。
http://iwahanjiro.exblog.jp/21418363/
トマス・アラキについては、幕府権力と教会権力に利用され尽くした存在と考えている。
http://iwahanjiro.exblog.jp/23554978/


ここまで、大衆の心理が読めているのであれば


この小説の中に、「罪人引きまわし」について次のように述べられている箇所がある。

「しかも町なかでの罪人引きまわしは、見物するだけでなく、石つぶてを投げ、唾を吐きかけて参加してしまう人々が大勢いた。
罪人へのこうした行為は、絶対封建主義社会で息苦しい庶民たちにとっての、鬱屈した感情の捌け口であり、権力側もそれを意識しての引きまわしなのだった。さらには庶民たちの意識は高いとはいえず、罪人を積極的に痛めつけることによって権力側に阿諛追従し、あるいは権力側の一員になったような錯覚も持てたのであろう。」


棄教者を十羽ひとからげに扱い、からかい蔑(さげす)んできた人々の意識は、罪人引きまわしで権力側に阿諛追従し、権力側の一員になったような錯覚を楽しんだ庶民のそれと変わらないものだと私は思う。

ここまで、大衆の心理を読めている作者なのだから、棄教者についてもユニ-クな捉え方、採り上げ方出来たであろうにと思うと残念である。私はこの小説を単に面白おかしいだけのものとは考えたくなかった。



〈おわり〉







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by GFauree | 2017-02-14 13:47 | 村山等安 | Comments(0)

南米ペル-の首都リマに暮らす団塊世代男が、「大航海時代」とそれ以降に展開された歴史について、思うところを綴っています。カテゴリ-の欄に、過去の記事を、テ-マや人物ごとに分類しています。ご自分の興味のあるカテゴリ-を選んで読んで頂ければ幸いです。