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ブログ・タイトル「大航海時代のおと」を「大航海時代から」へ

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                             (Wikipediaより)


このブログを書き始めてから今年で10年目である。書いた記事の数は120を少し超える程度だから、平均して月1回のペースで書いて来たことになる。

このブログを書き始めた目的は物忘れと気力低下を防止すること
そもそも、このブログを書き始めた目的は、まず第一に2000年頃から手を付けた「キリシタン時代史探究」のための読書の跡を残すことだった。それまでに折角読んだ本の内容を忘れないように記しておこうと思ったのである。それと、これから読む本についても、その内容を書き記すことを自分に課せば、たとえ読書を続けようという気力が低下してきても自分を励ますことができるのではないかと期待したのだ。


「キリシタン時代史探究」はペトロ・カスイ・岐部から
「キリシタン時代史探究」を始めたのは、50歳台の初めの頃のことである。なぜそんな年齢になって、そんなことを始めたのかと言えば、17世紀の初め、江戸時代の初期にカトリック司祭になりたくてローマに単独行したイエズス会のペトロ・カスイ・岐部の生涯を知ろうと思ったからである。

私は今になってみれば残念なことに、学生時代から歴史が面白いなどと感じたことは全くなかったし、カトリック信者の家庭に育ったけれど、教会に対する信頼や篤い信仰心があったかと言えば正直なところそのようなものは全く持ったことがなかった。そして、普通のサラリ-マンであった私にとって、50歳というのは、有無を言わせず子会社に転籍させられる時期であった。(退職すべき定年は60歳だったのだが。)

このままでは死んでも何も残らない
子会社への転籍とは、中高年社員への人件費支払負担を軽減するために、従業員の所属を親会社から子会社に変更することである。私の場合、それをされることによって職種や仕事の内容はあまり変わらないのに給料は以前の6割程度となった。(4割減である。)そんな処遇をされても、特に意欲と能力のない私を含む普通のサラリ-マン達は職を失うよりはましだから、会社から指図された転籍に唯々諾々と従う。そのような意味合いのある子会社勤めは、イメ-ジを和らげるためか(生ぬるく)「第2の人生」などと呼ばれていた。

その「第2の人生」に入った時期に私は気が付いた。親会社に入社してからの約25年間、色々苦労はしたけれど、仕事についてこれが「俺の人生」だと言えるようなものは何も残らなかった。この先、子会社でそれなりに苦労したところで、同じ様なものだろう。そうなると、「俺の人生」は子会社退職時まで、それどころか死ぬまで掴めないことになりはしないか。会社の仕事に「俺の人生」が見いだせないとしたら、何か他の事の中に見つけるしかない。そう思った時、中学生時代に父親から聞いたペトロ・カスイ・岐部のことが頭に浮かび、それを自分なりに調べてみようと思ったのである。

「キリシタン時代の群像」
ペトロ・カスイ・岐部の後には、拷問により棄教したイエズス会日本の管区長代理クリストヴァン・フェレイラ、棄教してキリシタン探索に協力した元司祭トマス・アラキ、ヨーロッパからの帰国後脱会した少年使節千々和ミゲルなど、若い頃から興味を感じたことのある人物について本を読み進めて行った。幸い、このブログには「カテゴリ」という記事を分類するための機能があるので、記事を人物毎に分類することができた。

それまでに僅かながらキリシタン時代の人物の伝記的な本を読んだことはあったが、どれも模範的で善良な信者が気の毒にも迫害されるというような話ばかりで、その時代の社会や人間を私にリアルに感じさせるものは無かった。それでブログを書き始めたときに模範的信者伝を超えるようなものはできないかと思っていたので、記事には出来るだけ現実的な人物と彼を取り巻く社会を書くようにした。こうして、様々な人物像を「カテゴリ」として積み上げて行くことで、リアルで立体感のある人物像群が浮かび上がってくるような「キリシタン時代の群像」とでも言えるものが出来ることを期待したのだ。

ペル-に来たから
その後の私の生活の変化がこのブログに反映されている。それは、2008年に60歳でサラリ-マン生活を止めペル-に来たことである。ペル-に来てから4年後に、日系人作家フェルナンド・イワサキの存在を知り彼の著作を読んで以下の事象を知った。

・1613年のリマの住民台帳に20人の日本人が記録されていること。
・ペル-商人(スペイン人)フアン・デ・ソリスが秀吉に会見していること。
・2人のイエズス会士がペル-銀をマカオに搬送していること。

これらは全て16~17世紀の大航海時代を象徴する興味を引く事象であり、これらを知ることによって私は日本の「キリシタン時代」を遠く離れたペル-から観ることが出来た感じがした。そしてそれぞれの事象を「カテゴリ」分けして幾つかの記事を書いた。

その記事を書きながら思ったことは、「キリシタン時代」とは戦国末期・江戸初期の日本が、ヨーロッパのキリスト教と奴隷制と彼らが掠奪した南米の銀の流れに浸った時期であった、ということである。それに気が付いたことは、ペル-に移り住んだお陰である。

「キリシタン時代史探究」は宝の山
(1)「キリシタン時代史探究」を続けるうちに、意外な効用が現われた。まず、若い頃からあれ程自分とは無縁だった歴史というものが、面白くなってきたことだ。「キリシタン時代」の最高権力者であった信長・秀吉・家康という名前を聞くと、何か興味深い話でもあるのかと耳を傾けるようになった。安土桃山・江戸時代初期と聞くと、その時代を理解するために参考になることがありはしないかと注視するようになった。また、興味の対象はその時代の日本だけでなく、スペイン・ポルトガルのイベリア両国さらにはイタリア・フランス・イギリス・オランダと彼らが進出して行った南北アメリカの歴史へと広がった。

(2)「キリシタン時代史探究」のもう一つの効用は、子供の頃から引きずってきた問題について改めて考えることが出来たということである。「探究」を続ける中で、日本のキリシタン布教はイエズス会が独占的に主導して進めた事業であると考えるようになった。それで、「キリシタン時代史探究」を進めることはイエズス会の性格を深く知る機会になるはずだということに気が付いた。カトリック教会とイエズス会の影響の中で育ってきた私にとってそれは必要なことだったのだ。カトリック教会やイエズス会の性格を知りたいなどと言っても、自分の周りには本当のことを教えてくれる人は誰もいないことは、子供の時からの経験で分かっていた。

父親の母の父(私にとって曾祖父に当たる人)が、明治の初期に長崎に遊学し、そこでカトリックの洗礼を受けたために、私はカトリック四代目である。そんな関係もあって私の父親はイエズス会経営の大学に勤めていた。

(ここで少し脱線するが、長崎で受洗した曾祖父の苗字は「岩井」と言い、彼の出身は奈良の柳生である。岩井家は代々柳生藩の藩医であったため、曽祖父は長崎に遊学したのだと聞いたことがある。実は50年以上前の学生時代、私は旅行して奈良の柳生に立ち寄った。その時、「岩井家跡」という看板が立っている井戸のある敷地があったような気がするが定かではない。当時はそういうことに殆ど興味を持っていなかったので、そのままにしてしまったが、今になって見るとその曽祖父についてもっと何かわからないものかと思う。奈良・柳生の岩井家について何かご存知の方がおられてご教示頂ければと思っております。実に勝手なお願いですが、この場を借りてお願いする次第です。)

ちなみに、私が子供時代に父から聞かされた(戦後の昭和30年代の)イエズス会士達の思想や行動は一般的に聖職者について想定されるものよりは遥かに世俗的または通俗的なものだった。

だから、戦後GHQが進めようとした昭和天皇のキリスト教化計画にイエズス会のハイドリヒ神父が参画していたという話(『天皇のロザリオ 日本キリスト教国化の策謀』 鬼塚英明著 成甲書房 2006年)にも私は驚かなかった。私は小学生の時(昭和30年代の前半)に、四谷のイグナチオ教会のミサで確かにハイドリヒという名の神父を見た覚えがある。具体的な職名は不詳だがハイドリヒ神父はイエズス会日本の要職を勤めていた筈である。

ブログ・タイトルを変える理由
これから私が進めたいと思っていることを羅列しておきたい。
1.禁教・鎖国政策によって日本から追放された後のイエズス会の解散から復興までの経緯(フランス革命・アメリカ独立・ナポレオンとの関係)を知る
2.ラテンアメリカ諸国の独立から現在にいたるまでの歴史(特にアメリカ合衆国との関係で)を知る

これまでのタイトル「大航海時代のおと」は、大航海時代に関し自分が勉強したことの覚え書きの意味だったが、これから知り書いて行きたいことは、日本から閉め出されたイエズス会はその後どうなったか、また大航海時代以降のラテンアメリカの国々の変遷と現在の状況であり、それを表わす意味でタイトルを「大航海時代から」としたいと考えたのだ。

〈以上〉






# by GFauree | 2024-02-15 11:38 | Comments(2)  

思い切って「パンドラの箱」を開けてみよう


光陰矢の如し
今年もあと2カ月足らずを残すのみとなった。歳をとって老い先が短いと思うせいか、毎日が凄い速度で過ぎて行く。今では1週間を若い頃の3,4日と同じぐらいの長さに感ずるようになっている。

おまけに、楽しいと感じている時間は速く過ぎて去ってしまうものらしい。私の場合、今年めでたく後期高齢者になり、かつ毎日若い頃の何倍も楽しく過ごしているから、なおさら一日が、一週間が、ひと月が瞬く間に過ぎ去ってゆく。

やるべきことをしていないと楽しめなくなってくる
楽しく遊んでいるのは結構なことだが、やるべきだと思ったことをしていないと、楽しかったことも次第にそう感じられなってくるようだ。つまり、隠居生活とは言えやっぱり成果は必要なのだ。例えば、今年に入ってからの10カ月間にこのブログの記事は4本しか書けていない。去年は17本だから、明らかに大幅なペースダウンだ。

元々、高齢者の認知症対策というのがこのブログを書き始めた目的のひとつだったから、それ程記事を書けなくても気にする必要はないはずだ。ところが、記事を書けないということは読むべき本を読んだりその内容をまとめたりすることが出来ていないことを意味するから、どうしてもどこかで引け目を感じてしまい、次第にその引け目が蓄積してきたようだ。

去年は、ほぼ一年かけて、Robert Bontine Cunningham著『A VANISHED ARCADIA』について記事を書いた。日本のキリシタン教会を主導したイエズス会が、江戸幕府の禁教・鎖国によってほぼ完全に日本から閉め出された後、17世紀初めから現在のパラグアイ等の南米各地に建設・運営し、18世紀末に忽然と姿を消した教化村群の歴史である。



イエズス会解散・復活の背景となったその時代のヨ-ロッパ史を知ろうとしたが
それで、今年の正月、その後のイエズス会解散・復活の歴史について書かれた本「Tempestad en el tiempo de las luces」(啓蒙主義時代の騒乱)に関する記事を書き、今年中にその本を少しでも読んで、パラグアイ等の国への旅行を計画し、その時代のヨーロッパの歴史についても学習してなどと考えていた。その時代の歴史といえば、アメリカの独立・フランス革命・ナポレオンという有名な大事件の塊(かたまり)のようなものだから、少し意気込んでそれらに関係する本も若干入手した。ところが、それらの本を読み始めたものの、どうも範囲が広過ぎるのかテーマが大き過ぎるのか、書かれていることがすっきり頭に入って来ず、まるで中学・高校時代の歴史の勉強のように面白くも何ともないものになってくるような気がしてきた。

歴史より犬の世話に気を取られて
そんな状況の中で、7月中旬によく考えもせず犬を飼い始めるという(私にとっては)暴挙に出てしまった。私の役目は、一日2~3回犬を散歩に連れ出すことで2~3時間を使うということだけなのだが、まず早起きをしなければならなくなった。何しろ、定年退職後のこの15年間ほとんど朝起きるのは9時過ぎだったのが、6時半を過ぎると散歩に連れて行けと犬が騒ぎ出す。可愛くなければ無視することもできるが、可愛いいからつい言う通りになり、それが犬にも私にも癖になり習慣になってしまった。

犬は散歩したり遊んだり食べたりするのに飽きたり疲れたりすればすぐに寝てしまうが、こちらは一日中それに付き合って喜んだり心配したりしている。だから、疲労困憊である。でも、何しろ可愛いから仕方がない、とこんな状態が続いていた8月の下旬、日系ペル-人の友人がある新聞記事を送ってくれた。



ペル-日刊紙「Peru21」の記事から

1.元首オルテガ、イエズス会を解散させる(2023年8月24日付)
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教皇フランシスコに帰属するカトリック修道会であるイエズス会のニカラグア支部は、昨日ダニエル・オルテガ政権によって解散させられた。ダニエル・オルテガ政権は更に、その中央アメリカ国家における彼らの財産を収用することを命じた。つまり、世界的に著名なイエズス会はニカラグアにおいて機能し続けることが出来なくなり、彼らの教育機関は(その中には、既に差し押さえられた中央アメリカ大学が含まれるが)、ニカラグア国々家の管理下に置かれることとなる。

イエズス会は、16千人以上の人員を有するカトリック教会最大の男子修道会である。その決定は、中央アメリカ大学に命令された1週間後に公表された。中央アメリカ大学は、ニカラグアにおける思想的自由の最後の砦と考えられており、命令は大学がテロリズムの嫌疑で告発された後に、その資産と銀行口座を国家に譲渡させるという内容のものである。


2.ニカラグア独裁政権、国内最高権威の教育機関を奪う(2023年8月19日付)
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ニカラグアのダニエル・オルテガ政権は昨日、最近時の蛮行のひとつ、1960年に設立された当国最高の権威を有する私的研究機関の一つであるイエズス会の中央アメリカ大学の閉鎖を公式に認めた。

公的日刊紙ガセタ(官報)の中で内務省の通達が公表され、その中で1960年8月13日以来与えられてきたUCA(中央アメリカ大学)の法人格の取り消しが認められている。政府は、この研究機関が2020,2021,2022年度の決算期の財務状況を報告すべきこと、及び2022年3月18日以降役員会が期限切れとなっていること、という点で法律に適合する義務の不履行に陥っていることを確認した。

サンディニスタにより統制されているニカラグア司法当局は、銀行口座のような動産及び不動産を国家に引き渡すことを命じた。


補足すると
以上の新聞記事は、ニカラグアにおいて1985年から1990年及び2007年から現在までの通算21年間にわたり政権を維持し、更に独裁色を強めつつある反米左派のダニエル・ホセ・オルテガ・サアベドラ大統領が、イエズス会によって経営されてきた主要な教育機関である中央アメリカ大学を閉鎖したことを報じたものである。

1.ダニエル・オルテガは、反米左翼ゲリラであるサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)を率いて、1979年親米ソモサ一族による独裁政権を打倒し、ニカラグア(サンディニスタ)革命を成功させたことで英雄視され、1984年に大統領となった人物である。

2018年4月、オルテガ大統領が憲法上の手続を経ずに社会保険法改正(年金減額や保険料の値上げといった社会保険制度改革)を実施したため、大学生を中心とする抗議デモが各地で発生し暴動に発展、その後事態は一旦沈静化したものの反政府派の大学生への弾圧を機に暴動が再燃した経緯がある。

2.1979年のサンディニスタ革命には、困窮する人々の救済と社会正義を実現しようとする聖職者(解放の神学)グル-プが現われ、政権には4人の神父が入閣し外相や教育相などの重要ポストに就いた。但し、これらの閣僚はヨハネ・パウロ教皇がニカラグアを訪れた際には教皇に(面会を)拒否されている。


Robert Bontine Cunninghame Graham著『A VANISHED ARCADIA』にPhilip Healyが書いた序論によると
17~18世紀のイエズス会は、スペイン・ポルトガルの植民者に抗して、グアラニ族の権利を擁護し、先住民の半自治国家を設立・運営することにより、彼らの社会秩序を構築することを求めた。

1758年ポルトガルから、1764年フランスから、1767年スペイン及びその海外領土から、イエズス会は追放された。そして、その200年後、イエズス会は南米で再び国家と衝突している。今回は、「解放の神学」の出現である。それは、イエズス会単独の企てという訳ではないが、イエズス会はそれに多大に関与している。


イラン・コントラ事件のこと
私は中米諸国の政治状況などについては正直言って殆ど無知なのだが、ニカラグアという国名でひとつ思い出したことがある。それは、「イラン・コントラ事件」である。

アメリカは、親米であった旧ソモサ軍の兵士やサンディニスタの反主流派、ミスキ-ト族(カリブ海モスキ-ト海岸の先住民)などを反政府勢力「コントラ」として組織し、第2次ニカラグア内戦を起こした。1986年11月、アメリカのイランへの武器売却代金がその「コントラ」に流れていたことが発覚した。

偶々その月ニュ-ヨ-クへ出張していた私は、テレビのニュースが「ニカラグア」とか「コントラ」とか「イラン」との言葉を繰り返すのを聞いて、何のことかさっぱり判らないながらも、何かスキャンダラスな事件が起きたらしいと思ったことだけが記憶に残った。


アメリカという国の本当の姿
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ニカラグアでイエズス会が関与していると見られる(解放の神学の)聖職者グル-プの動向を追っているうちに、アメリカの影に遭遇してしまった。このアメリカの介入は、隣国のエルサルバドルのみならず、グアテマラ、ホンジュラス、コスタリカ、パナマ、キュ-バ、ドミニカなど中央アメリカ及びカリブ諸島全体に及んでいる。メキシコに至っては、1846~48年のアメリカとの戦争(米墨戦争)で国土の3分の1を失った歴史を持つ。

1823年の大統領教書で発表されたモンロ-主義は、「南北アメリカは将来ヨ-ロッパ諸国に植民地化されず、主権国家としてヨーロッパの干渉を受けるべきでない」旨の宣言であった。だから、アメリカはそのモンロ-主義に基き欧州諸国の介入を受けずに中米及びカリブ諸島に、積極的に介入し「棍棒外交」を展開したということになる。「棍棒外交」とは、『棍棒をちらつかせながら、穏やかに話す』というセオドア・ローズヴェルト大統領の外交政策を表わす彼自身の言葉である。暴力団の手口に似ている。


敗戦のわずか15年後だったから仕方ないのか
1960年に『遥かなるアラモ』という映画が公開され、フォーク歌手グル-プであるブラザ-ス・フォ-が歌った「The green leaves of summer」という題名の主題歌は、日本でも大ヒットした。私はその年12歳で、6歳上の姉がそのブラザ-ス・フォ-の歌を感激して聴いていたのを覚えている。私が幼かったからか、歌われている悲劇が後に『棍棒外交』と呼ばれた外交政策を賛美する意味を持つことなどは、全く聞こえて来なかった。

https://youtu.be/rMd_qi9gDc8?si=TIxBhgZkHXt98khC
 
あの映画は、テキサス独立戦争(テキサス革命とも呼ばれる)の中で、少数のテキサス分離独立派(アメリカ側)が絶対多数のメキシコ共和国軍の前に全滅したとされる「アラモの戦い」と呼ばれる戦闘を描いたもの。しかし、その後テキサスがメキシコから独立し、さらにメキシコ国土の3分の1がアメリカに割譲されることの契機となる戦いでもあった。

Remember the Alamo! と Remember Pearl Harbor!
アメリカのその後の領土拡大の戦を鼓舞するスロ-ガンとして Remember the Alamo!という言葉が使われた。「メキシコ軍の総攻撃を受け壊滅したアラモ砦の守備隊の悲劇を忘れるな」という意味である。 

「日本による真珠湾攻撃によって受けた屈辱を忘れるな」という意味の Remember Pearl Harbor! は、その言葉から連想されたものだ、とも言われている。

Remember the Alamo! も Remember Pearl Harbor! も、戦線の兵士の士気を盛り上げるためのアメリカ流の表現なのだろう。アメリカがそういう風にして拡大してきた国であることは、忘れないようにした方が良いようだ。


むすび
約200年間にわたり、南米の広大な地域に教化村群という理想郷を建設・運営しながら突如姿を消したイエズス会の現在の存在や活動を示す出来事を追っていると、アメリカという超大国の影がちらつき出した。それは、ニカラグアの隣国エルサルバドルやホンジュラスだけでなく、メキシコからパナマまでの中米とキュ-バを含むカリブ諸島の諸国全体についても言えることのようだ。それらの国に対する外交政策の実態を知れば、我が日本に対するアメリカの本音も見えてくるのではないか。

そういう意味で、恐らくは「パンドラの箱」を開けるようなことになりそうだが、暫くは先に挙げた諸国の複雑な歴史をじっくり観て行くことにしたい。ヨーロッパ近代の歴史については、その後でイメ-ジを持つことが出来るかもしれない。

実は、25年ぐらい前にラテンアメリカ史も知っておかねばと思って、関係する本を何冊か買ったのだが、内容が全くピンと来なくて棄てるに捨てられずここまで持って来てしまったのだ。それが、今になって役に立ちそうだなんて、なんだか嬉しくなる。


〈以上〉

























# by GFauree | 2023-11-18 06:07 | アメリカの裏庭 ラテンアメリカ | Comments(0)  

立花隆による解説付きのイエズス会教化村写真集

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   「インディオの聖像 写真●佐々木芳郎 文●立花隆」 (文藝春秋)の裏表紙



2年前(2021年)の4月末に亡くなったノンフィクション作家立花隆が解説を書いた南米パラグアイ、ブラジル、アルゼンチンにまたがる地域のイエズス会教化村群の写真集「インディオの聖像」が、昨年(2022年)5月に発刊されていたのを最近知った。

南米のイエズス会教化村(その写真集では「伝道村」と呼んでいるので、以下この記事ではそれに倣って「伝道村」とする。)について、私は20年ぐらい前から興味を抱き、偶々昨年2月から12月にかけて、イギリス人左派作家ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム(Robert Bontine Cunninghame Graham)の『消えて行った或る理想郷』(A VANISHED ARCADIA)の内容を紹介する記事をこのブログに書いているので、あの立花隆がどんなことを書いているのか当然知りたくなって入手した。


(次の写真をクリックしてください。)


きっかけは、1986年に公開されカンヌ映画祭でグランプリを獲得したローランド・ジョフィ監督の映画『ミッション』であった、ということである。立花は、その映画の配給会社から試写を見せられ、ヨーロッパでもアメリカでもヒットしたこの映画が日本でも当たると思うかどうかを尋ねられた。立花の答えは否であった。先ず、この映画は娯楽大作ではなく、「力と正義」という重いテーマを追ったものだ。それに、日本ではキリスト教の宗教世界をテーマにした作品は、大抵当たらないというのがその理由だった。

しかし、映画配給会社から示された伝道村の写真を見て立花は動かされた。元々宗教美術に強い関心を持っていた彼は、その写真の持つ不思議な魅力に強く心魅かれたのだろう。こうして、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン三国、計9か所のイエズス会伝道村遺跡をカメラマンの佐々木芳郎と回ることとなり、1986年の暮れから87年にかけて二人は3週間にわたり南米を旅する。

「『ミッション』の上映が決まったとき、映画会社から宣伝策の一環として、パラグアイの遺跡を見に行って、その見聞記を雑誌に書いてくれないかというオファ-がありました。その話に乗ってパラグアイを訪れたのが、一連のラテンアメリカものの取材を始めたきっかけです。」(『立花隆の書棚』 中央公論新社 2013年)


ところが、帰国後、佐々木自身は自分の撮った写真が満足すべき水準に達していないと判断せざるを得なくなった。そこで、半年後に彼は単独かつ自費で、120キロの機材を抱えて再び撮影の旅を敢行した。すると、出来上がった写真に対する立花の反応は、「前回、佐々木クンの腕前はあの程度かと思っていたけど、安心したよ。」というものだった。つまり、撮り直された写真を高く評価して、佐々木に対する自分の見立てが間違っていなかったことを喜んだということだろう。

『インディオの聖像』秘史(全編)より



1.立花隆とキリスト教

(1)そもそも、立花は両親ともクリスチャンの家庭に育った。自著『「戦争」を語る』によると、父親は学生時代に洗礼を受け、メソジスト系のミッションスク-ルの教師となり、その後両親とも内村鑑三が提唱した無教会主義の信者になったと言われている。

(2)立花隆と言えば、何よりも『田中角栄の研究~その金脈と人脈』、『日本共産党の研究』、『脳死』、『臨死体験』で地歩を築いた作家だ、と私は思ってきた。だから、彼が南米におけるキリスト教布教、それもイエズス会伝道村について取材しているなどということは、思ってもみないことだったのだ。

ただ一つ思い出したことがある。それは、2000年頃の事だが、週刊誌の書評欄に、近世(16世紀)のスコラ倫理学者ガブリエル・バスケスが「結婚に関する日本の風習とキリスト教倫理の抵触について」論じていることを、立花が採り上げていたことである。それは、確か、中世思想原典集成20 近世のスコラ学(平凡社2000年8月発行)に関するコメントであったように思う。(私も、偶々その本を入手したところだったので、目に留まったのだ。)

今にして気付くことは、その書評は、その頃の立花がヨーロッパから海外へのキリスト教布教に関するそんな専門的な本にまで目を配っていた、ということである。

(3)2011年に出版された本の中で、立花は「9冊揚げた未発表本リストの後半に『インディオの聖像』『キリスト教批判』『形而上学』などをあげている。つまり、『形而上学』を自分のいちばん最後の本とし、『インディオの聖像』と共に『キリスト教批判』というものを本にしようと考えていたらしい。

立花は、一体キリスト教の何を批判しようとしていたのだろうか。両親の信じていた無教会主義等のプロテスタント系の信仰に関してか?この写真集の解説に書いたような、植民者による暴虐と搾取による征服と支配に教会がお墨付きを与えていたことか?教会が、スペイン・ポルトガルという国家と一体となって海外布教を進めようとしたことについてか?今となっては、それを確かめる術はないのだが。

2.立花の解説の内容について

(1)解説の最後にアントニオ・ルイス・デ・モント-ヤ神父の話が出て来る。本書には、ルイス・デ・モント-カとされているが、正しくはアントニオ・ルイス・デ・モント-ヤである。彼は、スペイン人の父親と、先住民とスペイン人の混血の母親との間にリマで生まれた典型的なクリオ-ジョ(植民地生まれのスペイン人)であり、グアラニ語の研究書の学問的業績も残している。現在リマに、彼の名前を冠した大学もある重要人物だから正確を期した方が良いと思う。

解説にも書かれているように、彼はブラジルの奴隷狩り軍団パウリスタの襲撃を逃れるべく12,000人の先住民を率いて600キロ(これも本文には1,600キロとされているが、東京から1,600キロは沖縄あたりだから、それではちょっと遠過ぎる。)下流の地域への『大脱出』を敢行したことで知られているが、それは1631年のことである。イエズス会が最初の伝道村サン・イグナシオ・グアスを開設してから、わずか約20年後のことである。イエズス会の伝道村群の歴史は約150年間だったのだから、立花の解説は時間的には、伝道村の歴史の3割程度しかカバ-していないのだ。何故そうなったか。

立花は解説の大半を、スペインによる征服・支配における先住民に対する収奪・虐待・搾取の歴史を説明することに費やさざるを得なかったのだ。国家も軍隊も官僚もその他の植民者も果てはその他の修道会の聖職者までもが、征服者・支配者としてどのように振舞ったかかを知らなければ、イエズス会伝道村の存在と活動の意義は理解できないからである。

立花は、それらに関する資料として、ラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』や『コロンブス航海誌』や『大航海時代叢書』などの必須と思われる膨大な基本的文献を読み込んでいったことが窺われる。これでは、時間が足りなくなるのも当然である。

(2)結果として、イエズス会について、伝道村について調べ、検討し書くべきことがたっぷり残された。何よりも、なぜ伝道村の事業が成功したか、である。牛の牧畜やマテ茶の栽培等の農業経営がどのようになされ成功したのか。最盛時30を数えた伝道村相互間及び外部への輸出等の交易は如何に行われたか。

そもそも、「カネの流れ」の追求は、立花が得意としたところではないか。それに、イエズス会伝道村に関して終始取り沙汰されてきた「金鉱保有の疑惑」のについて、立花ならどのように解明して見せてくれるか、私には期待があった。

建築や絵画・彫刻等の美術や音楽はどのように探究・教育され、楽器の製造は如何に進められ輸出されるまでに至ったか。写真に撮られた建築物や美術品を深く理解するためには、これらを知る必要があるだろう。

更に、イエズス会士たちの伝道村からの追放は1767年のことだが、その前に、1750年スペイン・ポルトガル間に結ばれたマドリ-ド条約によって、最も豊かな7カ村のポルトガル側への引き渡しが要求された。これに先住民が強く抵抗(奴隷狩りの発祥地ブラジルはポルトガルの植民地であり、伝道村の先住民にとってポルトガル人は長年の外敵だったのである。)したために、スペイン・ポルトガル連合軍による『グアラニ討伐』(1754~55年)が2度にわたって行われた。(ところが、とどのつまり、マドリ-ド条約は1761年に廃棄されてしまい、「7カ村からの撤退」も「グアラニ討伐」も何の意味も無かったこととなった。)

加えて、1773年には、教皇クレメンス14世の回勅によって、イエズス会の解体が命ぜられる。ところが、その40年後、ウイーン会議の年1814年に教皇ピウス7世によって今度はイエズス会復興が命ぜられた。

その流れを客観的に総括してしまえば、「イエズス会と伝道村は歴史の流れに翻弄され数奇な運命をたどった。」ということになるのだろうが、立花は次のような指摘をしている。

「当時、ヨ-ロッパにおいても、イエズス会に対する風あたりが強かった。急速に宗教界でその勢力を伸ばしたイエズス会は、その絶対服従の一枚岩的組織があまりに強固であるが故に、敵が多く、常に警戒感を持たれていた。‘’イエズス会の陰謀‘’という言葉がよく聞かれた。」

イエズス会を理解するためには、少なくともこれらの事は知っておく必要があると私は思っている。


(3)立花は日本でのキリスト教布教については、この解説では「それが上からのつまり権力者である大名からの布教であったこと」にしか言及していない。しかし、1549年のフランシスコ・ザビエル渡来から1639年(「島原の乱」の2年後)の「禁教・鎖国完成」までの90年間、イエズス会は日本でのキリスト教布教をほぼ独占していた。ということは、「日本のキリシタン」は「キリスト教」ではなく殆ど「ローマ・カトリックの日本イエズス会教」と考えるべきなのだ、と私は思う。

それくらい、日本でのキリスト教布教には特徴的なことが多い。そして逆に、イエズス会を知る手掛かりは、日本での「キリシタン布教」が如何に行われたかを知ることによっても得られる、と私は考えてきた。また、そういう見方が不足していた故に、「キリシタン布教」やイエズス会に関する議論や研究が地に足の付かないものとなって来た面があるのではないか、と思っているのである。

例えば、日本のキリシタン教会の大きな特徴は、その活動が経済的にも精神的にもマカオー長崎間のポルトガル船貿易に支えられていたということである。その魅力にひかれた大名や商人の有力者がキリシタンとなり、貿易の権益を確保したい権力者によって布教活動が擁護され、30万人とも50万人とも言われる信者を抱える大教団の台所が支えられたのである。これは、パラグアイ・ブラジル・アルゼンチンでの先住民布教が伝道村の繁栄に支えられていたことと何だか似ているのではないか?「イエズス会は商売上手」とか「だから、余計に妬まれる」とかの評判はどこの国でも囁かれてきたものらしい。


立花が、インプットとアウトプットの比率は100:1、つまり1冊のまともな本を書くには100冊の本を読むことが必要だと言い、自分の職業は「勉強屋」だと嬉しそうに語っている映像を見たことがあるが、イエズス会については、いくら時間を使っても調べきれないと思ったのではないか。それで、ひとまず筆をおき、いつかは必ず書くことを自分に課して、『インディオの聖像』を未発表本リストのラストスリ-にランクしたのだろう、と私は思う。


3.写真について

これまで、イエズス会伝道村に関する数多くの写真にインタ-ネットで接し、中でもボリビアの伝道村については、BBVAという銀行が支援し作られた写真集を入手したが、『インディオの聖像』ほど詳細かつみごとに撮られた聖像、板絵、建築物の写真は見たことがなかった。これらの写真はわずか32ペ-ジの口絵に収めるため、サイズを小さくされたのが、実に勿体ない。せめて、1枚の写真に1ペ-ジを使った写真集を、勿論できれば他の写真も掲載して作って頂けないだろうか。



上掲のブログ記事に書いたことだが、1986年11月、無能なサラリーマンであった私はやたら辛いだけの仕事でニュ-ヨ-クに出張し、そこで封切り直後の映画『ミッション』を上映していた映画館を取り巻いた人々の長蛇の列を見た。それから、40年近くが経った今、この写真集に出会えて感慨ひとしおである。良い仕事をされた写真家佐々木芳郎氏の執念に心から拍手を送りたい。それから、文藝春秋はこんなに意義深い仕事もしていたのか、と改めて見直す思いだ。


以上




# by GFauree | 2023-06-30 02:22 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

今も生き続ける「解放の神学」者たち

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17世紀初めから南米に建設・運営され約170年後忽然と姿を消したイエズス会教化村群について書かれた、Robert Bontine Cunninghame Graham(ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)著『A VANISHED ARCARDE』(消えて行った或る理想郷)から読み取った内容を、昨年14回にわたってこのブログに書いた。




その第一回目の記事で紹介したその本の序論に、現代の「解放の神学」へのイエズス会の関与について触れられた以下の一節がある。


イエズス会追放の200年後、教会と国家は南米で再び衝突している。今回の状況は、「解放の神学」の出現である。イエズス会単独の企てという訳ではないが、イエズス会はそれに多大に関与している。

17~18世紀のイエズス会は、スペイン・ポルトガルの植民者に抗して、グアラニ族の権利を擁護し、先住民の半自治国家を設立・運営することにより、彼らの社会秩序を構築することを求めた。現代の「解放の神学」者たちは、批判的哲学と政治活動の非常に異なる手法を採ってはいるが、同じ目標を追求している。

カニンガム・グレアムであれば、その理論には疑いを持っであろうが、その理想は支持するのではないか。



私と「解放の神学」
「解放の神学」という言葉を見聞きしたのは、25年ぐらい前、ちょうど21世紀になった頃、スペイン語や南米に関心を持ち始めたときである。「解放」とは民衆の貧困や抑圧からの解放の意味であり、貧困や抑圧からの解放を目指して敢えて政治活動に踏み込んでいったカトリックの神父たちがいたことを知った。ただ、その頃は彼らを取り巻く状況や活動について探求しようなどとは正直なところ考えてもみなかった。しかし、その後、日本のキリシタン時代の群像とその後の展開を追っているうちに、ついに「解放の神学」者たちにたどり着いてしまった、という感じである。


先ずは、「解放の神学」者たちの活動の痕跡をインタ-ネットの記事から拾ってみることにした。


エルサルバドル
サンサルバドル教区大司教オスカル・アルヌルフォ・ロメロ・イ・ガルダメスは、大多数の人権侵害を証言しながら貧困層の人々の側に立ち、『エルサルバドル内戦』の犠牲者を代表して世界に訴えることに力を尽くしたことで知られている人物。その取組は政治的・行動主義的であるとして、カトリック教会の上層部とエルサルバドル政府から非難を受け、1980年、ミサの司式の最中に狙撃を受けて暗殺された。

エルサルバドルでは、1977年から1980年にかけて、10人の司祭と4人の修道士が暗殺されている。1989年11月には、サンサルバドルで6人のイエズス会士と2人の女性が殺害された。冒頭に掲載したのは、その事件について書かれた本の表紙である。

ニカラグア
1979年蜂起したサンディニスタ民族解放戦線(FSLN)による中道左派政権に、「解放の神学」の立場に立つ4人の聖職者が入閣し、外相や教育相などの重要ポストに就いた。(ただし、この閣僚たちは教皇ヨハネ・パウロ2世がニカラグアを訪れた時には、教皇に会見を拒絶されている。)

次第にアメリカ合衆国やソ連やサンディニスタや国内保守派の思惑が入り乱れ、これが第2次ニカラグア内戦へと繋がっていった。このとき、バチカンはアメリカ合衆国とともに「解放の神学」を激しく攻撃し、カトリックの革新的潮流と鋭く対立することとなったと言われている。

アメリカ合衆国は、経済援助を停止し、反政府勢力コントラを組織し、第2次ニカラグア内戦を強いた。1986年11月には、アメリカ合衆国のイランへの武器売却代金がニカラグアのコントラ・グル-プに流れていた事が発覚した。(イラン・コントラ事件)

アルゼンチンの「汚い戦争」をめぐる論争
アルゼンチンでは1970年代から80年代にかけて、軍事政権の支配下にあり「汚い戦争」と呼ばれる権力側による大規模なテロによって多くの犠牲者が発生した。

軍事政権により拉致、拷問された2人の司祭に関して、当時イエズス会のアルゼンチン管区長であったベルゴリオ枢機卿(現在の教皇フランシスコ)の責任を問う声がアルゼンチン国内に存在する。

イエズス会の司祭で「解放の神学」に賛同していたオルランド・ジョリオとヤーリチ・フェレンツは、1976年5月、ブエノスアイレスのスラムから当時収容所として利用されていた海軍施設に連行された。この施設では政治犯5,000人が殺害されている。2人はこの施設で5カ月間拷問などを受け、10月にブエノスアイレス郊外で半裸かつ薬で朦朧とした状態で解放された。

ベルゴリオ(教皇フランシスコ)は、2人の貧者支援活動を後援してはいたが、2人を保護したり声を上げることも無かったと指摘するジャ-ナリストがいる。


「解放の神学」の定義
「解放の神学」とは、主に20世紀中葉のラテン・アメリカで誕生した、貧困や抑圧からの解放によって、全人的発展を目指す神学であると定義されている。その背景となったのは、開発政策の破綻によって深刻化した貧困の拡大であり、キュ-バ革命が惹起した広汎な革命運動のインパクトであり、更にその反革命として起きた権威主義的軍事政権による暴力的政治と激しい人権抑圧の状況である。

これまで、体制維持的役割を果たしてきたカトリック教会は、この様な状況に積極的に対応して自ら改革の主体に変貌する必要に迫られた。

第2バチカン公会議とコロンビア・メデジン司教会議
カトリック教会は、以後の刷新の原動力とするべく、第2バチカン公会議(1962年10月~1965年12月)において、教会の一致(エキュメニズム)や現代化(アジョルナメント)等のテーマで議論を行った。

更にこの公会議の後押しを受けて1968年、コロンビア・メデジンで開催された第2回ラテン・アメリカ司教会議において、基本的人権・社会正義・民主主義を推進する方針は確認されている。

「解放の神学」の減退
1980年代になると、階級闘争を是認し教会組織の軽視にも繋がりかねない急進的な立場はローマ教会内部からも批判され、教会の保守化傾向とともに、「解放の神学」は全般的に減退していくが、今日でもカトリック教会の社会活動にその影響を残している。(遅野井茂雄)
尚、2005年4月に就任した教皇ベネディクト16世は教理省長官時代から、「解放の神学」の反対者として知られていた。


[私が考えること]
1.第2バチカン公会議が開かれた1962年から1965年には、私は中学2年から高校2年だったから、その後急に、ミサや祈りの仕方が変わったことはよく覚えている。

それまで、世界中のミサで使われる言葉はラテン語に統一されていたのだが、各国語を使うことになり、日本では日本語が使われるようになったのだ。そして、祈りの言葉は文語体(というか旧い時代の言葉)だったのが、口語体(というか現代語)に変えられた。これには、正直なところ、面喰い付いて行けない感じがつきまとった。

違和感を持ったのは私だけではないだろうが、冗談にも不平を聞くことはなかった。後に、フランスだったかラテン語によるミサや典礼の継続を主張している人々がいるという話を聞いた。(歴史を探索するようになって、子羊のように扱いやすい日本人信者の従順さは、どうもキリシタン時代からの伝統らしいことも知った。)

それから、50歳近くになってスペイン語を知り気が付いたことは、スペイン語やポルトガル語やイタリア語は、ラテン語とあまり違わないということだ。「我らの父」は、スペイン語では padre nuestro だが、ラテン語では pater noster なのである。

教会の指示だから、従順な日本人は不自然な日本語の表現に慣れるためにひたすら苦心せざるを得なかったが、ヨーロッパ人たちにとっては、祈りがラテン語であろうと自国語であろうと、どっちでも余り変わらない、どうでも良いことだったのではないか、と私は思う。が、とにかく、自国語使用は第2バチカン公会議の主要なテーマである教会の現代化(アジョルナメント)に沿った重要施策だと受け取ったような覚えがある。しかし、この公会議開催が決定された当時のラテン・アメリカの教会が置かれた状況は相当に深刻なものであったようであり、そのような実情が日本で語られることは無かったようだ。


2.何故、公会議に3年もの年月をかけなければならなかったか。それは、この公会議を通して、教会を基本的人権、社会正義、民主主義を推進する主体に変化させるための努力がなされたためと言われている。そして、この会議の影響は、1968年、コロンビア・メデジンにおける第2回ラテン・アメリカ司教会議において確認されることになる。


3.現在、ラテン・アメリカでは、メキシコ、ブラジル、コロンビア、ボリビアそしてペル-と左翼政権が続々と誕生している。ということは、経済運営が順調になされず、貧困や抑圧からの解放が進んでおらず「解放の神学」が出現した時代と状況はさして変わりがないということである。左翼政権と言っても、以前と変わらぬ汚職の露見で落胆させられることも少なくない。

しかし、グスタボ・グティエレスと共に「解放の神学」の提唱者の一人として知られるペル-人のアレハンドロ・クシアノビッチは、「働くこどもたちの活動」に尽力されて健在である。「教化村」とそこに住む先住民のために献身した聖職者の精神は今も生き続けている、ということだろう。


以上






# by GFauree | 2023-04-18 01:05 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

スペイン古文書を通じて見たる 日本とフィリピン


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この本を読んだきっかけ
Webを見ていた時にこの本の広告が目に付いた。まず、タイトルがやや長く古めかしい。そして、「経営科学出版」というビジネス・ノウハウ書でも出していそうで、歴史書とはあまり関係のなさそうな名前の会社から出版されている。それに、正確には憶えていないが価格が予期したものより随分低く設定されていて、不思議な感じがした。


著者について
由緒のある歴史書であれば著者は著名な人物では、と思って検索してみたが当初は何も出て来なかった。しかし、現在では「多磨霊園著名人リスト」というサイトの中に同名の人物の経歴が表示されている。

そこには、「1886年生まれ、大分県出身、1916年30歳前後でハワイに渡り、その3年後からアメリカ各地で日本語学校校長などを勤め、帰国後出版界で活動した。」とされているから、著者はおそらくこの人だろうと判断した。


日米開戦直後に出版され、戦後「GHQ焚書」の対象となった
本書の刊行は、「序」の日付けが「昭和17年(1942年)1月」だから、まさに、太平洋戦争開戦・真珠湾攻撃の直後であり、戦意高揚の盛んであった頃のはずである。そして、戦後、本書はGHQによる指令によって行われた「焚書」の対象となった約8000点の刊行物の一つとして没収・廃棄されたそうである。

因みに、「序」には本書執筆の動機が語られており、以下のような一節がある。

「アメリカ人は海洋民族たる日本人の古来からの活動を知らない。まして広遠雄大なる天皇の統治についてはなおさらのことで、彼らの大部分は、わが国民を狭小なる本土にのみ満足する仙人隠者か、さもなければ他から不当なる圧迫を受けても何ら反発する気力のない国民と考えていたのである。かかるアメリカ人の日本民族に対する無知と、自らの国力に対する過信とが、ついにかくのごとき威嚇、恫喝なる態度に出て、さらに、現在の日本に対すると同様、過去の日本民族の活動発展をも無視し、抹殺せんとするに至らしめたのである。されば、当時、現地にあった私は、この際、彼らの日本に対する間違った考えを痛感し、これがためにはアメリカ人自身の読み得る資料をもって、古来日本人の海外活動の功績と、日本人の実際の活動を知らしめる必要があると考えた。」



フィリピン・インドネシアについて
私が若かった頃と言えば、今から50年ぐらい前の1970年頃(戦後の高度経済成長の真っ只中)のことだが、ベトナムでアメリカが苦戦し、周りには中国の紅衛兵運動にかぶれた人たちもいる時勢だったが、フィリピンやインドネシアなどアジアの国々への関心など周囲も自分も殆ど持ち合わせなかったのが正直なところだ。大学でも就職した企業でも、外国と言えば大半の人にとっては、欧米を意味したはずだ。フィリピンについては、スペイン語の地名が多く、英語を使える人が多いことが不思議だったが、無論その理由を追求するまでには至らなかった。

フィリピンやインドネシアについて身近に感ずるようになったのは、50歳のころ「キリシタン時代史」に興味を持ち始めてからである。フィリピンについては、秀吉の「脅迫外交」や高山右近の追放先としてである。

インドネシアについは、1546年フランシスコ・ザビエルが、その3年後に日本に来る際に同道したコスメ・デ・トーレスとアンボン島で出会ったことを知った。

イエズス会の創設者の一人であったザビエルは、ポルトガル王の要請を受けた会の指示により、インドに派遣され伸び悩んでいた布教の実績を挙げるべくインドネシアの島々を巡回していた。一方、トーレスはスペイン・バレンシアで教区司祭となり、何故かメキシコに行った上に、ルイス・ロペス・ビリャロボスの艦隊付司祭としてメキシコ太平洋岸を出発する。艦隊は、3年間フィリピン・インドネシア諸島の海域を彷徨し、メキシコへの戻りの航路を捜索したが叶わず、結局ポルトガルに投降し、艦隊は離散した。その結果、トーレスはザビエルに遭遇することとなったのだ。

当時、カトリック教会と一体となって世界征服を進めようとしたポルトガル・スペインの両国は、実はフィリピン・インドネシア海域において、香料と領土を巡って血みどろの闘いを繰り広げており、その結果巡り合った二人のスペイン人が、日本へキリスト教を伝え布教体制を構築したことになるのであるが、宣教師たちはそんなことはおくびにも出さなかったはずである。



次にフィリピンを身近に感じるようになったのは、15年前にペル-に来てから、1613年のリマの住民台帳に20人の日本人が記載されていることを知ったときからである。その日本人と呼ばれる人たちが、一体どういう経路でリマにたどり着いたのだろうか、と思ったのだが手掛かりは何も無いようなのである。最も考えやすい経路は、当時定期航路船のあったフィリピン・マニラからメキシコ、そしてパナマ経由である。ただ、その住民台帳に記載された日本人の一部について「1607年までには、既にリマにいた。」というような記述があった。そこから、また然るべき時期(例えば、1600年代初期)に、フィリピンにいた日本人がまとまって移動しなければならなかったような事情は無かったのかを調べてみたいと思った。が、探索はそこまでで止まってしまった。

そんな経緯はあったものの、日本をフィリピン・インドネシアを含むアジアと同列に位置付けて考える気にはなかなかなれなかったのが、正直なところである。また、それは、おそらく多くの日本人がそうなのであって、私は決して例外ではないだろうとも思ってきた。だから、いざ口を開くと「アジアの盟主」などと口走ってしまうのではないか。どうしてそうなのかと考えている時にふと思い付いたのが、地図の所為である。日本は、北にあるからいつも彼の国々よりも上なのである。そこで、地図を逆にして見ることにした。それが、次の図である。

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圧倒的に広いのが黄色の中国と紺色のインド、日本は左の赤色、フィリピンは台湾の上の緑、左右に広く拡がる島々が青色のインドネシアである。こうしてみると、日本は、中国・インドを囲む複数の島国の一つであって、それを「アジアの盟主」などと呼ぶことはちょっと無理なような気がするが、どうだろう。

念のため、日本・フィリピン・インドネシアの現在の面積(万平方キロ)・人口(百万人)・島の数を比較してみる。

日本      38・124・ 6852
フィリピン   30・110・ 7461
インドネシア 192・270・13466


本書の内容
・フィリピンにおける日本人とスペイン人の接触
・秀吉の対フィリピン脅迫外交
・使節フアン・コボスの来日
・サン・フェリペ号の土佐沖漂着とフランシスコ会関係者処刑
・ロザリオ号土佐浦戸漂着と家康の商業政策
・サン・フランシスコ号房州海岸漂着
・支倉使節団
・秀忠、家光のキリスト教禁止政策など


ペル-に関係する人々の登場
フィリピンがスペインの植民地であったために当然のことながら、ペル-に関連して名前を見聞きしたことのある人々が本書に登場する。それは、既知の人物を別の側面から眺めるようで面白い。

1.マニラ総督ゴンサロ・ロンキロ・デ・ペニャロサ(在位1580~1583)
日本人の武勇に驚嘆している旨フリップ2世に報告したと書かれているこの総督は、以前読んだ日系人作家フェルナンド・イワサキの本には、総督着任時にせっせと蓄財を図った人物だとされていた。


2.ペル-商人フアン・デ・ソリス
本書では、マニラ総督の使節として派遣されたドミニコ会司祭フアン・コボスに遭い秀吉との謁見を補佐した人物としてスペイン人船大工フアン・デ・ソリスが記されている。確かに、フアン・デ・ソリスはスペイン人ではあるが、1569年第5代ペル-副王フランシスコ・トレドと共にペル-に渡航したことが分かっている船長または航海士または商人なのである。秀吉謁見後、ソリスがどうなったか知らなかったが、本書によればマニラに渡り政庁で証言を行ったことは確かなようである。


結論
1570年にフィリピンを植民地としたスペイン人と日本人との衝突は、1580年以降繰り返されていたということである。フィリピン諸島に居住した日本人にとって不安定な状態は恒常的なものであったことが推測され、そこから安住の地を求めて、更に太平洋を超えて移動しペル-まで達した人々がいたとしてもおかしくはない。

本書の巻末には「米国フィリピン強取の顛末」として、フィリピンが米西戦争の結果として米領となった経緯が述べられている。著者はそれを、「以来約半世紀後の今日、ようやくアメリカの足かせを脱し、大日本帝国指導の下、東亜共栄圏の一環として、力強い第一歩を踏み出すに至ったのも当然の帰結と言わねばならぬ」としている。

著者が本書を通じて最も伝えたかった部分がこれであろうし、この部分ゆえに本書はGHQ焚書の対象とされたのではと思う。


以上









# by GFauree | 2023-03-07 11:39 | Comments(0)