「インディオの聖像 写真●佐々木芳郎 文●立花隆」 (文藝春秋)の裏表紙
2年前(2021年)の4月末に亡くなったノンフィクション作家立花隆が解説を書いた南米パラグアイ、ブラジル、アルゼンチンにまたがる地域のイエズス会教化村群の写真集「インディオの聖像」が、昨年(2022年)5月に発刊されていたのを最近知った。
南米のイエズス会教化村(その写真集では「伝道村」と呼んでいるので、以下この記事ではそれに倣って「伝道村」とする。)について、私は20年ぐらい前から興味を抱き、偶々昨年2月から12月にかけて、イギリス人左派作家ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム(Robert Bontine Cunninghame Graham)の『消えて行った或る理想郷』(A VANISHED ARCADIA)の内容を紹介する記事をこのブログに書いているので、あの立花隆がどんなことを書いているのか当然知りたくなって入手した。
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きっかけは、1986年に公開されカンヌ映画祭でグランプリを獲得したローランド・ジョフィ監督の映画『ミッション』であった、ということである。立花は、その映画の配給会社から試写を見せられ、ヨーロッパでもアメリカでもヒットしたこの映画が日本でも当たると思うかどうかを尋ねられた。立花の答えは否であった。先ず、この映画は娯楽大作ではなく、「力と正義」という重いテーマを追ったものだ。それに、日本ではキリスト教の宗教世界をテーマにした作品は、大抵当たらないというのがその理由だった。
しかし、映画配給会社から示された伝道村の写真を見て立花は動かされた。元々宗教美術に強い関心を持っていた彼は、その写真の持つ不思議な魅力に強く心魅かれたのだろう。こうして、ブラジル、パラグアイ、アルゼンチン三国、計9か所のイエズス会伝道村遺跡をカメラマンの佐々木芳郎と回ることとなり、1986年の暮れから87年にかけて二人は3週間にわたり南米を旅する。
「『ミッション』の上映が決まったとき、映画会社から宣伝策の一環として、パラグアイの遺跡を見に行って、その見聞記を雑誌に書いてくれないかというオファ-がありました。その話に乗ってパラグアイを訪れたのが、一連のラテンアメリカものの取材を始めたきっかけです。」(『立花隆の書棚』 中央公論新社 2013年)
ところが、帰国後、佐々木自身は自分の撮った写真が満足すべき水準に達していないと判断せざるを得なくなった。そこで、半年後に彼は単独かつ自費で、120キロの機材を抱えて再び撮影の旅を敢行した。すると、出来上がった写真に対する立花の反応は、「前回、佐々木クンの腕前はあの程度かと思っていたけど、安心したよ。」というものだった。つまり、撮り直された写真を高く評価して、佐々木に対する自分の見立てが間違っていなかったことを喜んだということだろう。
『インディオの聖像』秘史(全編)より
1.立花隆とキリスト教
(1)そもそも、立花は両親ともクリスチャンの家庭に育った。自著『「戦争」を語る』によると、父親は学生時代に洗礼を受け、メソジスト系のミッションスク-ルの教師となり、その後両親とも内村鑑三が提唱した無教会主義の信者になったと言われている。
(2)立花隆と言えば、何よりも『田中角栄の研究~その金脈と人脈』、『日本共産党の研究』、『脳死』、『臨死体験』で地歩を築いた作家だ、と私は思ってきた。だから、彼が南米におけるキリスト教布教、それもイエズス会伝道村について取材しているなどということは、思ってもみないことだったのだ。
ただ一つ思い出したことがある。それは、2000年頃の事だが、週刊誌の書評欄に、近世(16世紀)のスコラ倫理学者ガブリエル・バスケスが「結婚に関する日本の風習とキリスト教倫理の抵触について」論じていることを、立花が採り上げていたことである。それは、確か、中世思想原典集成20 近世のスコラ学(平凡社2000年8月発行)に関するコメントであったように思う。(私も、偶々その本を入手したところだったので、目に留まったのだ。)
今にして気付くことは、その書評は、その頃の立花がヨーロッパから海外へのキリスト教布教に関するそんな専門的な本にまで目を配っていた、ということである。
(3)2011年に出版された本の中で、立花は「9冊揚げた未発表本リストの後半に『インディオの聖像』『キリスト教批判』『形而上学』などをあげている。つまり、『形而上学』を自分のいちばん最後の本とし、『インディオの聖像』と共に『キリスト教批判』というものを本にしようと考えていたらしい。
立花は、一体キリスト教の何を批判しようとしていたのだろうか。両親の信じていた無教会主義等のプロテスタント系の信仰に関してか?この写真集の解説に書いたような、植民者による暴虐と搾取による征服と支配に教会がお墨付きを与えていたことか?教会が、スペイン・ポルトガルという国家と一体となって海外布教を進めようとしたことについてか?今となっては、それを確かめる術はないのだが。
2.立花の解説の内容について
(1)解説の最後にアントニオ・ルイス・デ・モント-ヤ神父の話が出て来る。本書には、ルイス・デ・モント-カとされているが、正しくはアントニオ・ルイス・デ・モント-ヤである。彼は、スペイン人の父親と、先住民とスペイン人の混血の母親との間にリマで生まれた典型的なクリオ-ジョ(植民地生まれのスペイン人)であり、グアラニ語の研究書の学問的業績も残している。現在リマに、彼の名前を冠した大学もある重要人物だから正確を期した方が良いと思う。
解説にも書かれているように、彼はブラジルの奴隷狩り軍団パウリスタの襲撃を逃れるべく12,000人の先住民を率いて600キロ(これも本文には1,600キロとされているが、東京から1,600キロは沖縄あたりだから、それではちょっと遠過ぎる。)下流の地域への『大脱出』を敢行したことで知られているが、それは1631年のことである。イエズス会が最初の伝道村サン・イグナシオ・グアスを開設してから、わずか約20年後のことである。イエズス会の伝道村群の歴史は約150年間だったのだから、立花の解説は時間的には、伝道村の歴史の3割程度しかカバ-していないのだ。何故そうなったか。
立花は解説の大半を、スペインによる征服・支配における先住民に対する収奪・虐待・搾取の歴史を説明することに費やさざるを得なかったのだ。国家も軍隊も官僚もその他の植民者も果てはその他の修道会の聖職者までもが、征服者・支配者としてどのように振舞ったかかを知らなければ、イエズス会伝道村の存在と活動の意義は理解できないからである。
立花は、それらに関する資料として、ラス・カサスの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』や『コロンブス航海誌』や『大航海時代叢書』などの必須と思われる膨大な基本的文献を読み込んでいったことが窺われる。これでは、時間が足りなくなるのも当然である。
(2)結果として、イエズス会について、伝道村について調べ、検討し書くべきことがたっぷり残された。何よりも、なぜ伝道村の事業が成功したか、である。牛の牧畜やマテ茶の栽培等の農業経営がどのようになされ成功したのか。最盛時30を数えた伝道村相互間及び外部への輸出等の交易は如何に行われたか。
そもそも、「カネの流れ」の追求は、立花が得意としたところではないか。それに、イエズス会伝道村に関して終始取り沙汰されてきた「金鉱保有の疑惑」のについて、立花ならどのように解明して見せてくれるか、私には期待があった。
建築や絵画・彫刻等の美術や音楽はどのように探究・教育され、楽器の製造は如何に進められ輸出されるまでに至ったか。写真に撮られた建築物や美術品を深く理解するためには、これらを知る必要があるだろう。
更に、イエズス会士たちの伝道村からの追放は1767年のことだが、その前に、1750年スペイン・ポルトガル間に結ばれたマドリ-ド条約によって、最も豊かな7カ村のポルトガル側への引き渡しが要求された。これに先住民が強く抵抗(奴隷狩りの発祥地ブラジルはポルトガルの植民地であり、伝道村の先住民にとってポルトガル人は長年の外敵だったのである。)したために、スペイン・ポルトガル連合軍による『グアラニ討伐』(1754~55年)が2度にわたって行われた。(ところが、とどのつまり、マドリ-ド条約は1761年に廃棄されてしまい、「7カ村からの撤退」も「グアラニ討伐」も何の意味も無かったこととなった。)
加えて、1773年には、教皇クレメンス14世の回勅によって、イエズス会の解体が命ぜられる。ところが、その40年後、ウイーン会議の年1814年に教皇ピウス7世によって今度はイエズス会復興が命ぜられた。
その流れを客観的に総括してしまえば、「イエズス会と伝道村は歴史の流れに翻弄され数奇な運命をたどった。」ということになるのだろうが、立花は次のような指摘をしている。
「当時、ヨ-ロッパにおいても、イエズス会に対する風あたりが強かった。急速に宗教界でその勢力を伸ばしたイエズス会は、その絶対服従の一枚岩的組織があまりに強固であるが故に、敵が多く、常に警戒感を持たれていた。‘’イエズス会の陰謀‘’という言葉がよく聞かれた。」
イエズス会を理解するためには、少なくともこれらの事は知っておく必要があると私は思っている。
(3)立花は日本でのキリスト教布教については、この解説では「それが上からのつまり権力者である大名からの布教であったこと」にしか言及していない。しかし、1549年のフランシスコ・ザビエル渡来から1639年(「島原の乱」の2年後)の「禁教・鎖国完成」までの90年間、イエズス会は日本でのキリスト教布教をほぼ独占していた。ということは、「日本のキリシタン」は「キリスト教」ではなく殆ど「ローマ・カトリックの日本イエズス会教」と考えるべきなのだ、と私は思う。
それくらい、日本でのキリスト教布教には特徴的なことが多い。そして逆に、イエズス会を知る手掛かりは、日本での「キリシタン布教」が如何に行われたかを知ることによっても得られる、と私は考えてきた。また、そういう見方が不足していた故に、「キリシタン布教」やイエズス会に関する議論や研究が地に足の付かないものとなって来た面があるのではないか、と思っているのである。
例えば、日本のキリシタン教会の大きな特徴は、その活動が経済的にも精神的にもマカオー長崎間のポルトガル船貿易に支えられていたということである。その魅力にひかれた大名や商人の有力者がキリシタンとなり、貿易の権益を確保したい権力者によって布教活動が擁護され、30万人とも50万人とも言われる信者を抱える大教団の台所が支えられたのである。これは、パラグアイ・ブラジル・アルゼンチンでの先住民布教が伝道村の繁栄に支えられていたことと何だか似ているのではないか?「イエズス会は商売上手」とか「だから、余計に妬まれる」とかの評判はどこの国でも囁かれてきたものらしい。
立花が、インプットとアウトプットの比率は100:1、つまり1冊のまともな本を書くには100冊の本を読むことが必要だと言い、自分の職業は「勉強屋」だと嬉しそうに語っている映像を見たことがあるが、イエズス会については、いくら時間を使っても調べきれないと思ったのではないか。それで、ひとまず筆をおき、いつかは必ず書くことを自分に課して、『インディオの聖像』を未発表本リストのラストスリ-にランクしたのだろう、と私は思う。
3.写真について
これまで、イエズス会伝道村に関する数多くの写真にインタ-ネットで接し、中でもボリビアの伝道村については、BBVAという銀行が支援し作られた写真集を入手したが、『インディオの聖像』ほど詳細かつみごとに撮られた聖像、板絵、建築物の写真は見たことがなかった。これらの写真はわずか32ペ-ジの口絵に収めるため、サイズを小さくされたのが、実に勿体ない。せめて、1枚の写真に1ペ-ジを使った写真集を、勿論できれば他の写真も掲載して作って頂けないだろうか。
上掲のブログ記事に書いたことだが、1986年11月、無能なサラリーマンであった私はやたら辛いだけの仕事でニュ-ヨ-クに出張し、そこで封切り直後の映画『ミッション』を上映していた映画館を取り巻いた人々の長蛇の列を見た。それから、40年近くが経った今、この写真集に出会えて感慨ひとしおである。良い仕事をされた写真家佐々木芳郎氏の執念に心から拍手を送りたい。それから、文藝春秋はこんなに意義深い仕事もしていたのか、と改めて見直す思いだ。
以上