人気ブログランキング | 話題のタグを見る

棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その3]

棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その3]_a0326062_06174822.jpg
                                        (写真撮影 三上信一氏)





キリシタン宣教師による武力行使の指示・要請・提言について



〈アラキの発言〉


ロ-マで司祭となったトマス・アラキは、1615年頃マカオに現われた。

その頃、マカオには幕府の全国的な禁教令によって日本を追放されたヨ-ロッパ人宣教師と行動を共にする形で出国したイエズス会の日本人修道士や日本人伝道師(同宿)たちが多数滞在していた。

彼らの多くは、イエズス会に入会しやがては司祭になるために哲学や神学を学びたいという願望を持ちながら、日本では会の方針によってそれが受け容れられなかった者たちである。そのため、日本を出たその機会にこそ外地で学べるのではとの期待を抱いていたのだろう。実は、その期待故に彼らは出国したのかも知れない。ところが、いざマカオに着いてみると、日本国内と同様に入会も勉学も許されないことが明らかになり、憤慨した彼らとヨ-ロッパ人宣教師との間が険悪なものとなっていた。

処遇を巡っての日本人修道士の強い不満は、1609年、ポルトガル船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号が長崎湾内で有馬軍の攻撃を受け自爆した際に、彼らがあからさまに歓喜したことや、その前年の日本人修道士不干斎ファビアンの離脱・棄教で既に露呈していた。

そんな中に現われたアラキは、自分と同様にイエズス会を離れ独自のル-トでロ-マへ行き教区司祭となることを勧めただけでなく、托鉢修道会士たちが日本征服を企てスペイン国王に働きかけたことを、マドリ-ドで聞いたと彼らに語った



〈イスパニアによる征服の進め方〉


1596年10月
、フィリピン・ルソン島からメキシコへ向かっていたイスパニアのガレオン船サン・フェリペ号が土佐の浦戸沖に漂着した。

「(その船の)水先案内フランシスコ・ダ・サンダが、浦戸に滞在中であった増田長盛に世界地図を見せて、イスパニア領の広大なことを自慢した。そして、どうしてそんなに領土を拡大したかと尋ねられると、わが国ではまず宣教師を派遣してその国の人にキリスト教を伝えておき、信者が相応の数になったとき軍隊をさしむけ、信者の内応をえて、たやすく目ざす国土を征服すると答えた
これが、長盛から秀吉に報ぜられたと、イエズス会の宣教師ルイス・デ・セルケラが伝えている。」
(岩生成一著「日本の歴史」14鎖国 中央公論社)

長盛からの報告を受けた秀吉は、このイスパニアの征服の進め方を聞いて、キリシタンの伝道はもはや見過ごすことはできないと判断した、とされている。



〈江戸幕府が抱いたとされる疑惑と現代の常識〉



将軍をはじめとする日本の為政者は、キリシタン布教は国土征服を目的としたものだという疑惑を抱いており、このような疑惑にもとづく危惧の念がキリシタン迫害の原因である、と記述している宣教師は少なくなかった。(高瀬弘一郎「キリシタン宣教師の軍事計画」)

また、現在インタ-ネット情報を検索してみると、キリシタン宣教師はポルトガル・スペインの侵略の尖兵や道具であったとか、イエズス会は世界支配を狙う秘密結社的組織であったかのように書かれているものが目に付く。さらに、フランシスコ・ザビエルは日本占領を目的として渡来したかのように書かれているものまである。世間の常識というものは、意外な事に、現代も江戸時代もあまり変わらないもののようである。

それでは、実際に、キリシタン宣教師によって唱えられた武力行使論はどのようなものだったのか。いつものことながら、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」と「キリシタン時代の研究」(第三章 キリシタン宣教師の軍事計画)を参照しながら見ていくことにしたい。



〈キリシタン宣教師の武力行使論〉



ただし、日本に対する武力行使論は中国征服論と関連づけて論ぜられたものが多い(イベリア両国とカトリック教会にとって、中国はそれだけ魅力ある標的だったということを意味しているのだろう)ということだが、話が広がり過ぎるので、ここでは「キリシタンの世紀」に従って、日本を対象とするものに限定することにする。



1.イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノ


(1)1580年
、『日本の布教長のための規則』の中で、長崎・茂木についてポルトガル人を中心とした武装・要塞化を指示した。

これについては、大村純忠・喜前父子から寄進された長崎・茂木を“迫害時の避難所”にしようとしたとして、防衛的意味が強調されることが少なくない。しかし、日本国内の一地域が、外国勢力の指示によって武装・要塞化されれば、どのような結果が生じ得るかを考えれば、そのような主張の無意味さが理解されるだろう。


(2)
この規則を作成した頃に、有馬晴信に対する軍事的てこ入れを行っている。
この時期、大村氏も有馬氏も、反キリシタン勢力である竜造寺氏と争い窮地に陥っていた。
(イエズス会日本布教長であったフランシスコ・カブラルも、大村純忠に対し、複数回にわたり金銭的援助を行っている。)




2.イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョ


(1)1585年
、フィリピン、イエズス会布教長アントニオ・セデ-ニョに宛て書翰を送り、キリシタン大名を支援するための武装艦隊及び弾薬・大砲・食糧・資金を送るよう、フィリピン総督へ取り次ぐことを要請した。

この要請は、フリピン側に日本に向けて割くだけの軍事力の余裕がないという理由で拒否された。


(2)1587年
、秀吉のキリシタン禁令(伴天連追放令)発布に対し、コエリョを中心に、内外呼応して武力により抵抗することが計画された。当時、既に前述のバリニャ-ノの指示により、教会領長崎は要塞化され、火器等により武装化されており、軍艦も建造・配備されていた。

ところが、国内のキリシタン大名と結託して行動を起こすことを企画したにもかかわらず、有馬晴信・小西行長等がこれに応じなかった。


(3)
そこで、コエリョは援軍派遣を求め、フィリピンの各方面に書簡を送った。

さらに、イエズス会司祭ベルチョ-ル・デ・モ-ラをマカオに送り、ヴァリニャ-ノに会って軍隊・食糧・弾薬を持って日本へ渡るよう説得させることとした。また、もしヴァリニャ-ノに会えなければ、フィリピンからヨ-ロッパに赴き、スペイン国王やイエズス会総会長と会い理解と協力を求めることとした。

ヴァリニャ-ノは、マカオで事の次第を知り、1590年7月来日し、長崎に貯えられていた武器・弾薬を秘かに処分した。そして、コエリョは死亡したとだけされているが、自然死ではなかった可能性も示唆されている。(安野眞幸著 教会領長崎 イエズス会と日本 講談社メチエ)

このイエズス会の方向転換は、教会に対し厳しい姿勢を取る強力な統一政権が成立したという日本の国内政治情勢の変化に対応してなされたものとして、さらに、「現地適応」というイエズス会の布教政策の機動性・柔軟性を物語るものとして考えられている。



3.イエズス会司祭ペドロ・デ・ラ・クルス


・1599年
イエズス会総会長宛てに送られた書翰において、日本はスペイン国王によって武力征服されるべきであると強く主張した。

また、武力征服を完成するまでの当面の施策として、スペイン、ポルトガルが、日本で別々にどこかの港を基地として手に入れ、武力をもってその都市を確保すべきことを主張している。

ペドロ・デ・ラ・クルスは、1601年に盛式四誓願司祭となり、順調にイエズス会幹部パ-ドレとなっている。



4.フランシスコ会司祭マルティン・デ・ラ・アセンシオン



・アセンシオンは長崎で殉教した26聖人の一人であるが、彼も次のように武力行使を論じている。

・スペイン国王は、日本に対して支配権を有する以上は、日本教会の保護者としての義務を果たさなければならない。
同国王は、その任務遂行のため、日本において、貿易船の入港と交易に適したいくつかの港を取得して要塞化し、艦隊を配備する必要がある。そして、日本において暴君たちの支配下にある多くの国々を武力によって奪い、最後には日本全土を我がものにする(べきである)。



5.アウグスチノ会士マテウス・デ・メンド-サ


・スペイン国王による日本侵攻は容易であることを論じている。



6.フランシスコ会士ディエゴ・デ・サンタ・カタリ-ナ


・1615年、スペイン国王の命を受けたメキシコ副王によって日本へ派遣され、将軍に対して日本国内に要塞を作るための土地を求め、日本側の疑惑を掻き立てた。



7.その他


・1611年
フランシスコ会士アロンソ・ムニョスは、徳川家康の使者としてマドリ-ドに着いたが、その際、スペイン政府内で日本を武力征服する件が話題となった。

・1614年11月フランシスコ会士ルイス・ソテロは、伊達政宗の遣欧使節を引率してマドリ-ドに到着したが、その時も政府内で日本の武力征服の件が採り上げられたという。



〈私の考えるところ〉


1.
キリスト教布教の目的が日本の国土征服にあったという話や、宣教師が日本に対する武力行使までを考えたり提案していたという話は、よく出て来る古くて新しい話題である。

従って、実際になされた宣教師の武力行使の要請や提言はかなりの数に昇ったと考えられるから、今回列挙したものはその一部に過ぎないだろうと思う。それでも、件数は当初私が想像していたものより多いし、イエズス会以外の修道会士による提言の多さも意外である。


2.
その理由として、一般には次のような事項が挙げられる。

・大航海時代のカトリック布教は、イベリア両国の王室が布教事業に対して経済援助をする代わりに、教会聖職者の人事等に介入しうる(patronato real-王室の聖職者推挙権)、という布教保護権制度の下に進められたものであるから、両国王室による武力征服事業と並行して進められていく性格のものであったこと。

・当時は、ロ-マ教皇の権威のもとに大西洋上にデマルカシオン(教皇子午線)を引き、世界中の異教の国々を両国の間で二分割することができるという観念があったこと。



布教保護権制度では、王室は聖職推挙権を得る代わりに、教会に対し経済的なものを含め全面的な援助をする義務を負うこととなっている。そのため、一見、王室と教会の間の相互的な権利・義務関係であるかのような印象を与える制度である。しかし、実際はこれによって教会は金と人事権をパトロンである王室に握られてしまったと考えるべきではないか、と私は思う。

金と人事を握るパトロンに逆らってでも、思うが儘に行動できる人間は極めて稀であることは、我々自身の経験が教えてくれる。そのうち、上昇志向の強い者は、それまでの倫理規範を踏み外してでも、競ってパトロンの気に入るような行動に走ったり計画や提言をひねり出して見せたりするようになる。

パトロンの気に入るような行動に走ったり計画や提言をひねり出したりする者は、自身の属する組織(修道会)内でも積極性や企画力があるとして高く評価されたに違いない。なぜなら、彼らを評価する立場にある修道会の上長自身も、パトロンである王室から高く評価されることを望んでいた筈だからである。


それを考えると、布教を成功させるためには武力に頼らなければならないというような考え方に反対する宣教師は、いたとしても少数であったと考える方が自然である。

イエズス会準管区長コエリョが秀吉のキリシタン禁令発布に、武力で抵抗するべく、モ-ラをマカオに送ったことを上に述べたが、それはコエリョの独断によるものではなかった。1589年2月、高来(現在の長崎県諫早市の一部)においてコエリョを含む7人の司祭たちによって協議会を開き決定されたことなのである。その際、コエリョの独断どころか、オルガンティノを除く残りの6人全員が、軍隊派遣を要請するために使者を派遣することに合意したという。


3.
トマス・アラキが、マカオで落胆し憤慨していた日本人修道士や同宿たちに語った、托鉢修道会士による日本征服の企てというのは、上記のうちのどれに当たるのだろうか。


日本を武力征服する件は、1611年にも1614年にもスペイン政府内で話題になっていたというから、いつ誰の提言によるものであったか特定できないほど、ある程度の期間にわたって多くの提言がなされていたのかも知れない。

それは、ちょうど幕府が大坂の陣という豊臣方との決戦を控え、国内政情の安定化を狙いとして全国的な禁教令発布を準備していた時期であろうことが興味深い。




次回は、日本に帰国してからのトマス・アラキの行動を追うこととしたい。



〈つづく〉







































# by GFauree | 2016-12-21 09:06 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(2)  

棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その2]

棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その2]_a0326062_02541432.jpg

                                        (写真撮影 三上信一氏)





「教区司祭」と「修道会司祭」について


・トマス・アラキは司祭になることを志したが、何らかの理由で日本のイエズス会経営のセミナリオで学ばずに、フィリピン、メキシコ経由でロ-マに渡った。そして、イエズス会士たちが教師をしていたローマの“教皇のセミナリオ”で、6年以上神学を学び、司祭の叙品を受け「教区司祭」となった。

そこで、ペトロ・カスイ・岐部のことを思い出す。

・通常、司祭に叙階されるためには、一定の教区に属し、その教区の司教の聖職任命許可状が必要である。岐部の場合、ローマ教区の異例な措置によって司教の許可状なしで、「教区司祭」となることが出来た、とされている。(大分県先哲叢書 「ペトロ岐部カスイ」 五野井隆史著)



「教区司祭」と「修道会司祭」の並存は教会組織の特徴


カトリック教会の組織の特徴的な点は、教皇を頂点として、各地に設けられた教区と修道会が並存していることである。教区は教皇によって任命された司教が統轄する各地域の教会であり、修道会は各々の総(会)長によって統率され、教皇庁の認可を受けた組織である。

このため、カトリック教会には、司教の管理下で働く「教区司祭」と、修道会に所属する「修道会司祭」がいることになる。



コスメ・デ・ト-レス神父のこと


フランシスコ・ザビエルと共に日本へ渡来したコスメ・デ・ト-レス神父は、24歳のときスペインのバレンシアで「教区司祭」として司祭職を授けられている。私はその記事(http://iwahanjiro.exblog.jp/21628296/を書いた時、ト-レスは比較的若くして司祭になっているようだがそれは何故か、などと思いながら疑問を解消する手立ても思い付かないまま、そのままにしてしまった。

ところが、暫く経ってからその疑問への答えを提供してくれそうな本に出会った。



C.R.Boxer著 The Church Militant and Iberian Expansionのこと


C.R.Boxer(チャ-ルズ・ラルフ・ボクサ-)の著書、The Church Militant and Iberian Expansion(闘う教会とイベリア両国の海外発展)である。この本の第3章に教会が抱えていた組織上の問題の一つとして、「修道会司祭と教区司祭(の違い)」が挙げられている。


以下、「教区司祭」に関してそこに書かれてある事柄に私の解釈や参考事項を交えてまとめてみよう。



中世から、「修道会司祭」の方が格上と見られていたらしい


私は、子供の頃通っていた地域の教会の「教区司祭」である神父さんたちの印象から、地域の教会で担当教区と信者という地盤を持っている「教区司祭」の方が、修道院でひたすら祈りと労働の日々を送っていると言われている「修道会司祭」より格が上なのだろうと漠然と思っていた。ところが、教会内の位置付けとしては、中世以来どうも逆だったようだ。

教皇は、禁欲的、修道院的な規則正しい生活を送っているという面で、「修道会司祭」の方が「教区司祭」より倫理的に優れていると認める傾向があった、ということである。


英語で、「教区司祭」は secular clergy 、直訳すれば「世俗司祭」である。「教区司祭」は町や村の教区に所属するというだけで、別に俗人の生活を送っていたという訳でもないのに、妙な言葉だなと思って、過去の記事にそう書いたことがある。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21759248/)しかし、人里離れた修道院に籠もって祈りと労働に明け暮れる「修道会司祭」に比べれば、「教区司祭」は世俗に近い所で働いていたことは確かである。

それに対して、「修道会司祭」は monastic clergy とでも言うのかと思っていたのだが、正しくは regular clergy である。「修道会司祭」のほうが、より通常だとか、より正規だとかいう意味がそこに込められているような気がするが、どうなのだろうか。



大航海時代、「修道会司祭」はさらに重んじられるようになった


さらに、大航海時代にポルトガル・スペイン両国の海外展開と連携して布教事業が進められるようになると、教区と信者という地盤を持たない「修道会司祭」は一層重んじられることとなった。1522年、修道会の上長には、教皇によって先住民改宗の開拓事業と新たな教区の統治を行うための全面的権限が与えられた。

ヨ-ロッパから遠く離れたアフリカや南米の奥地の、それも不健康地として名高かった諸地方に、「修道会司祭」は果敢に出掛け、伝道改宗事業を積極的に進めた。

一方、ヨ-ロッパ以外の海外布教地においても、「教区司祭」(大半が現地生まれの白人だったが)たちは、ジャングルやブッシュの中で宣教師として活動するよりは、都市や町で親類、知己である信者たちを世話する方を好んだ。その結果、「教区司祭」が先住民の改宗事業に携わることは、殆ど起こり得ず、そのことが、また「修道会司祭」の優越意識をさらに膨らませることとなった。


先住民の「教区司祭」誕生が、「教区司祭」の格を引き下げた


また、どこの海外布教地でも先住民司祭の養成が積極的に奨励されることは殆どなかった。仮に、「教区司祭」として先住民司祭が生まれても、先住民司祭は一段下に位置付けられたから、それがまた「教区司祭」の格を引き下げる要因となった。


本来、海外の布教地の布教・改宗事業が進んで、ある段階に至れば教区が設定され、ヨ-ロッパの本国から司教が派遣され、教区民は司教が任命する「教区司祭」によって治められねばならない、というのがカトリック教会の原則だった筈である。



「修道会司祭」は自分たちが開拓した教区を「教区司祭」に譲ることに抵抗した


ところが、上述の通り「教区司祭」に対する優越感が膨張していったために、「修道会司祭」は新たに出来上がった教区を「教区司祭」に引き渡すことに抵抗するようになった。

加えて、一旦手に入れた利益や権力、つまり利権にしがみ付きたいというまさに人間的な欲求が、「修道会司祭」をして彼らの地位と特権を譲ることを拒ませたという面もあっただろう。


しかし、「修道会司祭」が新たに育てた教区を手離したがらなかった理由は、優越感や人間的欲求ばかりではないのである。



王権が統轄の容易な「教区司祭」に加担したので


「ボリビアを知るための73章」[第2版]明石書房 [コラム9]〈チキトスのイエズス会ミッション〉谷口智子

「チキトスはイエズス会が17世紀末にこの土地に入植した当時、未開の僻地であった。(植民地)教会の組織化がある程度進むと、独立性の強い修道会を敬遠する王権が人事権をはじめ統轄のより容易な教区付聖職者(教区司祭)に加担したため、修道会は都市部での司牧職から追われ、辺境や奥地での宣教にあらためて取り組まねばならなかった。」
(括弧内は、原文に追記させて頂いた。)


このコラムから読み取れることは、新たに作られた教区が「修道会司祭」から「教区司祭」へ移譲されたというのは、単に教会の組織原則だけによるものではなかったということである。

そもそも、「修道会司祭」と「教区司祭」の対立には、王権ナショナリズムとロ-マ教皇支配との対立が背景にあったのである。そのため、ロ-マ教皇と関係の深い諸修道会(特にイエズス会は、教皇への絶対服従を特色としている)は、王権(及びその出先である現地政庁)にとって統御し難いことから敬遠され、辺境や奥地での宣教という、より困難な課題が与えられたということのようだ。

「修道会司祭」にしてみれば、自分たちが折角苦労して育てた教区を自分が優越感を抱いている(つまり自分より劣る)相手に譲らねばならないことに加え、自分たちには王権によっていっそう困難な課題が押し付けられ、さらに僻地に追いやられるということは、たとえそれが自分たちの使命(ミッション)の一環であるとしても、さぞかし我慢のならないことだっただろう。


修道会の拡大していく特権と、司教たちの管轄権的な要求の間に生まれた、「修道会司祭」と「教区司祭」の間の緊張関係は、植民地時代を通じて解消されることはなかった。



「修道会司祭」の活動に対する妨害・抑圧と「教区司祭」活用の事例



「幻の帝国-南米イエズス会士の夢と挫折」 伊藤滋子著 同成社


・1650年頃、南米パラグアイのアスンシオン市議会は、現在のボリビア・チャルカスの行政院(アウディエンシア)に代表を送り、イエズス会の活動を禁止し、「教化村」の先住民をスペイン人入植者の間で分配することを申し入れた。

・同じ頃、パラグアイのイタティン地方へ侵入してきたブラジルの奴隷狩り部隊(バンデイランテ)に対抗するという名目で、アスンシオン市民(スペイン人入植者)が援軍を送った。ところが、その援軍の標的は、実はイエズス会の「教化村」だったのである。
送られた援軍は、「教化村」からイエズス会士を追い出し、「教区司祭」を後釜にすえ、村民を自分たちの間で分配し、強制労働に就かせるためのものだったのだ。



緊張・対立関係は18世紀後半まで続き、その後は「教区司祭」に有利な展開となる



18世紀後半、ヨ-ロッパ・カトリック諸国では王権擁護主義の高まりによってロ-マ教皇の支配が次第に弱まり、局面は「教区司祭」と司教たちの側に有利なものとなっていった。「修道会司祭」と「教区司祭」との間の緊張・対立関係は、その頃まで続いたのである。




修道会同士の競合


大航海時代のカトリック教会が抱えていた組織上のもう一つの問題は、修道会同士の競合である。

例えば、フランシスコ会士とイエズス会士の競合関係は、様々な時期や場所において、特に17世紀の日本と南米・パラグアイにおいて、もはや危険な領域に到達していた。また、ドミニコ会士とイエズス会士との関係は、イベリア半島でもその他の地域でも、しばしば親愛とは程遠いものとなっていたようだ。

パラグアイのケースは、フランシスコ会士である司教とイエズス会との抗争という側面もあった。
日本への帰国後、トマス・アラキが「教区司祭」として巻き込まれた紛争、長崎“教会分裂”(シスマ)は、「修道会司祭」と「教区司祭」との関係に加えて、修道会同士の抗争という要素をはらんだ動きである。これについては、帰国後のアラキの行動をたどる中で見直したい。


教皇も国王もしばしば仲裁に入った


内輪同士の競合関係を最小限に食い止めようと、教皇も国王もしばしば仲裁に入り、各修道会の活動地域の範囲を限定しようとした。

例えば、1594年フィリプ2世は、フィリピン諸島を宣教区に分けて各修道会に与え、そこでアウグスチノ会、フランシスコ会、イエズス会、ドミニコ会は、それぞれの独立した地域で活動することとなった。



内部抗争は人間的組織の証


「慢心は諸悪の根元、謙遜は諸善の基礎であるから謙遜を専らとせよと、人には勧めるけれども、生まれつきの国の風習なのであろうか、彼ら(伴天連:バテレン)の高慢は天魔も及ぶことができない。この高慢のため他の門派の伴天連と勢力争いをして喧嘩口論に及ぶことは、俗人そこのけのありさまであって、見苦しいことはご推察のほかだとお考え下さい。・・・」
(海老沢有道訳『南蛮興廃記・・・破堤宇子』)

これは、1608年イエズス会を離脱し、かつ棄教した日本人修道士不干斎ファビアンが、後に著した反キリシタン書『破堤宇子』の中の一文である。

ファビアンは建前を遥か遠くに忘れてきたような内部抗争の様を、苦々しくかつ滑稽なものとして捉えているようだ。確かに、一日本人としてヨ-ロッパ人の組織に飛び込んだ挙げ句にその実態を知って、あきれるというか落胆させらる思いがしていたのであろう。その気持ちは分らないものでもない気がする。

しかし、冷静に考えれば、異なる属性を持ちながら同等と見られる資格を有する者同士の競合というのは、昔も今も多くの組織内にあるものであり、またその競争が生易しいものでないというのは普通のことではないか。

これも教会という組織が、あくまで人間的な組織であることの証であると考えるべきなのだ、と私は思う。そういう考え方で、これからもキリシタン時代以降の歴史を追って行こう思っている。



体調やインタ-ネットの具合が良くなくて、予想以上に手こずってしまったので、今回はここまでとして、「日本征服の策動」については次回とさせて頂きます。


〈つづく〉
















# by GFauree | 2016-12-05 11:05 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(0)  

棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その1]

棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その1]_a0326062_02481141.jpg
                                        (写真撮影 三上信一氏)







〈トマス・アラキが登場した時期〉


戦国時代の末期から江戸時代初期にかけて、ザビエルの渡来直後の一時期を除いては、キリスト教布教が終始全国的に禁じられ、キリスト教信者となった人々が弾圧され続けていたと考えている人は少なくないようだ。

しかし、中央政権による全国的な禁令としては、ザビエルの渡来から約40年後の1587年になって秀吉によって出されたバテレン追放令が最初のものである。そして、江戸幕府の禁教令が出されるまでには、それから25年が経過している。

ただ、その江戸幕府の禁教令が日本のキリシタン教会を壊滅状態に追い込んだことは確かなことである。

まず、1612年3月キリシタン禁令が出され、駿府(静岡市)において14人の直臣が改易(士族の籍を除き、領地・家屋敷を没収)に処され、江戸においてはフランシスコ会の教会・修道院が破壊された。そして、同じ月、畿内・西国の幕府直轄領を対象に禁教令が出された。

この1612年の禁令発布の主要な契機として、「キリシタン大名」有馬晴信と家康の補佐役本多正純の家臣岡本大八との贈収賄事件「岡本大八事件」が挙げられることが多い。しかし、この事件はキリシタン禁令発布の契機というより、むしろ名目であり、有馬晴信潰しの謀略だったのではないか、と私は考えた。(同事件についての記事 http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/ をご参照頂きたい。)


さらに、1614年2月、全国的禁教令が公布され、これによって宣教師95名と高山右近等の一行がマカオ・マニラに追放された。

また、キリシタン禁教令というと、何か対外的な政策であったかのような印象を持ちがちである。

しかし、豊臣方との決戦大坂の陣を控えていた(1614年10月 大坂冬の陣)この時期の幕府が何よりも恐れたことは、キリシタン勢力が豊臣勢と結託することだったはずである。従って、1612年の駿府・直轄領の禁令も1614年の全国的禁教令も、対外的な政策というよりは、むしろ安定政権樹立という国内政治的課題への対応だったと考えたほうが納得がいくように思える。


こういう時期に、トマス・アラキは「キリシタン時代」史上に登場した。


トマス・アラキの生年も生地も不明である。





〈独自にロ-マへ行き司祭となったアラキ〉



まず、1612年10月10日付長崎発の司教ルイス・デ・セルケイラの書翰によって、トマス・アラキは、1610年4月から1611年6月までの期間には既にロ-マで司祭に叙品されていたことと、彼の司祭叙品が1612年10月には日本で知られていたことが分る。


次に、スペイン経由帰国するに当たり、スペイン国王宛に提出し1611年7月に審査された文書から次のことが分る。


1.
アラキは渡欧する際に、フィリピンを1602年頃、メキシコを1603年頃通過した。

このことから、彼がスペイン領経由ヨ-ロッパへ行ったことが分る。ということは、ロ-マへ行くまでは、スペインよりポルトガル国家と関係の深かった日本イエズス会からの支援を受けていた可能性は低い。

逆に、フィリピン、メキシコを通過する際にそれぞれの総督、副王からスペイン国王宛て紹介状をもらっているとのことから、スペインと関係の深いフランシスコ会・ドミニコ会等の托鉢修道会関係者の協力、援助を受けていた可能性がある。

2.彼は、スペイン上陸後ロ-マへ行き、教皇のセミナリオで6年以上にわたって神学を学び、司祭叙品を受けた。

3.スペインから日本へ帰国するに当たり、宣教師12、3人を連れて来ることになった。





〈アラキとイエズス会との関係〉


アラキはイエズス会に入会しなかったが、次のことからイエズス会とかなり交渉があったと考えられる。


1.アラキの消息が、ロ-マ在のイエズス会総会長補佐から長崎在のイエズス会士ルイス・デ・セルケイラ司教に知らされていること。

2.彼がロ-マ・セミナリオで学んだ形跡があること。
この、ロ-マ・セミナリオは、1565年にロ-マに開設され、当初はイエズス会士が教師を勤めていた。

3.ローマで彼を寵愛したと言われているベラルミノ枢機卿はイエズス会士であること。


それでは、何故アラキは日本でセミナリオ、コレジオで学ばずに、ロ-マへ行って司祭になることを志したのだろうか。

彼について、あるイエズス会士が書いた書翰によると、アラキが日本でイエズス会セミナリオに入ることが出来なかった理由は彼の生まれの貧しさ、身分の低さにあった、ということである。


ただ、アラキがヨーロッパへの往路フィリピンやメキシコで総督や副王の紹介状を入手したり、ローマでも教皇のセミナリオの過程を終了し枢機卿の寵愛を受けていたなどのことから、彼は日本を出る前に既にラテン語とスペイン語またはポルトガル語には習熟していたのではないかと私は思う。

だとすれば、彼は日本のイエズス会セミナリオで学んだ後、どの段階であったかは定かではないが、将来入会も出来ず司祭にもなれそうもない自分に対する処遇を知って、独自に司祭となる道を求め、托鉢修道会関係者の助力を得ることになったのではないか。もしそうであれば、「貧しく、身分の低い」生まれの彼を拾い上げ、セミナリオで学ばせてくれたイエズス会の温情を彼が裏切ったことになるのだから、上述のイエズス会士の書翰にある彼の出自に関する侮蔑的な表現の説明がつく。

それを立証する資料はないが、そもそも、この時代のキリシタン関係の資料の少なさには定評がある。加えて、「裏切者」の烙印を押されたものに関する記録は、何処の組織でも念入りに抹消されるものである。


トマス・アラキは、1611年6月にロ-マを発ち、1614年8月マカオに現われた。





〈マカオで、日本人同宿たちに独自にロ-マへ行くことを勧めたアラキ〉


その時、マカオには同年2月の禁教令で日本を追われたヨ-ロッパ人宣教師と共に、日本人の修道士や同宿たちが到着し滞在していた。
(「同宿」については「ペトロ・岐部・カスイに関する記事」[その5](http://iwahanjiro.exblog.jp/21105197/)をご参照頂きたい。)



日本人修道士や同宿たちは、禁教令によって日本を去ったその機会にマカオで勉学を積むことによって、司祭の資格を得ることや、イエズス会に入会することを望んでいた。ところが、マカオに来てみると、勉学を望んでもそれは許されず、入会の希望も実現される見込みはないことが明らかになった。そこで、彼らがヨーロッパ人司祭たちに対して反抗的な態度に出たため双方の間が険悪になっていた。

それは、「日本人は司祭にするより同宿として働かせる方が役に立つので、ラテン語などの学習をしたいなどという気持ちを起こさせてはならない。日本人のイエズス会入会と司祭叙品は、本部が許可するまで認めてはならない。」ということが総会長から日本管区長宛ての指令によって命じられていたためである。


(「イエズス会への入会問題」については、「ペトロ・岐部・カスイに関する記事」[その4](http://iwahanjiro.exblog.jp/21079249/)及び「通辞ジョアン・ロドリゲス」に関する記事[その4](http://iwahanjiro.exblog.jp/23172712/)をご参照頂きたい。)


そういう事態の中に、トマス・アラキが現われ、司祭となる道を殆ど絶たれて強い不満を抱いていた日本人同宿に対して、イエズス会を離れ独自にロ-マへ行き教区司祭となることを勧めたのである。何人かの同宿は、アラキの勧めに動かされてインドに行き、さらにヨ-ロッパまで渡った。その中にペトロ・カスイ・岐部がいた。もし、トマス・アラキからの勧めがなければ、岐部が独自にロ-マへ行き司祭になるという行動をとることはなかったかも知れない。

このようなアラキの言動は、大半のヨ-ロッパ人イエズス会士の目には、秩序を乱す危険な反逆として、また日本人の「尊大かつ傲慢」な国民性ゆえのものとして映っていただけで、彼らの日本布教に取り組む基本的姿勢を反省する契機とはならなかったようだ。


さらに、アラキがマカオで日本人修道士や同宿に語ったことは、司祭となるためにイエズス会を離れて独自にロ-マへ行き教区司祭となること、だけではなかった。




〈アラキは、托鉢修道会士による日本征服の策動があったことも語った〉


彼は、日本征服を企てるよう托鉢修道会士たちがスペイン国王に働きかけ、イエズス会士がそれに抵抗したことを、マドリ-ドで知ったと、日本人修道士たちに語った。

と書くと、托鉢修道会士の日本征服の策動に対し、イエズス会が抵抗したように取れる。しかし、その多くがポルトガル人であった日本に関係するイエズス会士が抵抗したのは、日本がスペイン勢力下に入ることであって、決して日本の国益を守ろうとしてでのことではなかった点に留意する必要がある。

アラキの発言は、托鉢修道会であれ、イエズス会であれ、それぞれの修道会が、スペイン、ポルトガルという国家の植民地主義的海外進出と一体となって布教事業を進めていることに、彼が強い疑問を抱いていたことを示していると思われる。

このことから、アラキは「修道会を離れて独自に教区司祭になる」ことを、単に「司祭になるための便法」としてではなく、「国家の海外進出事業と一体となって布教を進めようとする修道会に依存せずに司祭になる」という積極的な意味をもつ方法として語ったと考えられる。




〈イベリア両国の国力に頼った布教のあり方に対する疑問の声は既に挙がっていたが〉


アラキが、マカオにおいて日本人修道士や同宿たちに、これらのことを語ったのは1615年頃のことであったはずである。

その7年後の1622年に、ロ-マ教皇庁内に海外布教地の問題を管轄する布教聖省が設置されたことは、「背教者クリストヴァン・フェレイラに関する記事」[その5](http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)で述べた。

従って、既にこの時期、カトリック教会の中にイベリア両国の国力に頼った布教のあり方に対する疑問の声が挙がっていたと考えられる。だからこそ、教皇庁としても布教聖省設置に当たって「布教と政治・植民を分離する」との方針を打ち出したのであろう。




〈アラキの類まれな勇気〉


ところが、残念なことに、海外布教地という現場のヨ-ロッパ人宣教師たちの意識は、とてもそんな域に達してはいなかった。そのうえ、そのような状況の中でアラキの発言はヨ-ロッパ人宣教師の耳に筒抜けであったこと、そしてアラキが彼らの憎悪の的となったことは、彼らの多くの書翰が語っている。


このように、アラキの発言は、当時の海外布教体制とヨ-ロッパ人宣教師のあり方に係わる本質的な問題性を見透し、指摘するものであるゆえに彼らの激しい反発を生むことは当然予測できたであろう。それを考えると、私は改めてアラキの視野の広さ、思考の深さとともに類まれな勇気を感ずる。

そもそも、宗教団体において、客観的な思考や冷静な判断に基く言動がなされにくいことは、当然のこととして想定される。まして、世界的に展開する宗教団体の中で、それも外国の組織内のことであるゆえに、彼の言動に対するそれこそ「弾圧」の激しさは猶更であっただろうと私は想像する。



アラキは、1615年8月に帰国する。





次回は、帰国後のアラキについて述べる前に、今回触れた大航海時代の「教区司祭と修道会司祭」という組織上の問題と、よく話題にされる「宣教師が関わった日本征服の策動」について整理してみたい。




[参考文献]

「キリシタン時代対外関係の研究」 第十三章 転び伴天連トマス・アラキ          高瀬弘一郎著 岩波書店
「キリシタンの世紀」 第四章 キリシタン教会の布教政策(1)-原住民聖職者養成の問題- 高瀬弘一郎著 岩波書店






















# by GFauree | 2016-11-15 06:39 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(2)  

日本から、南米から、ついには世界中からも追放された、がその40年後に・・・

日本から、南米から、ついには世界中からも追放された、がその40年後に・・・_a0326062_01020099.jpg

                                        (写真撮影 三上信一氏)




1.「鎖国の完成」は「日本からのイエズス会追放」だった


1637年から38年にかけて発生した「島原の乱」の後、改めて全国的なキリシタン穿鑿(せんさく)が行われ、潜伏していた外国人宣教師が日本国内から一掃された。

1549年のザビエル渡来以来、90年間にわたって日本で活動した外国人宣教師の大半は、イエズス会の聖職者たちである。そのイエズス会士たちは、およそ1世紀にわたる活動によって、宗教的なものは勿論のこと政治、経済、その他様々な面で日本社会に少なからぬ影響を与えながら、追放され姿を消していったことになる。


2.その頃、南米では


ちょうどその頃、南米パラグアイの南部(現在のパラグアイ・アルゼンチン、アルゼンチン・ブラジル間の国境が交差するあたり)の地域では、先住民(主にグアラニ族)の定住とキリスト教化を目指したイエズス会による村落「教化村」建設が盛んに進められていた。

約10万平方キロメ-トル(北海道と四国を合わせたほど)の広さを有するその地域に、最盛期には10万人以上の先住民人口を抱えた30の「教化村」が建設された。そして、イエズス会士と先住民グアラニ族によって高度な自治が展開されたこともあって、その「教化村」群は「イエズス会国家」と呼ばれるようになる。


3.スペイン領南米では遅れを取っていたイエズス会


1532年11月、ペル-のインカ帝国を征服したスペイン人フランシスコ・ピサロは、インカ皇帝アタワルパを監禁し、身代金として莫大な金銀を強奪した後、翌年7月人質であるインカ皇帝を殺害した。

この時、ピサロによってアタワルパの下に送られ、彼を監禁する口実作りをしたのが、ドミニコ会の司祭ビセンテ・デ・バルベルデであることは、よく知られている。つまり、もうこの段階から、ドミニコ会司祭はペル-の征服者と行動を共にし征服・掠奪の片棒を担いでいたのである。(ただ、この時代の先住民擁護運動の旗手として有名なバルトロメ・デ・ラスカサスもドミニコ会司祭であるから、所属する修道会によって司祭を色付けしようとしても、あまり意味はないようである。)

ところで、イエズス会という修道会組織自体がロ-マ教皇から認可を受けたのは、1540年になってからである。そして、その年、ポルトガル国王ジョアン3世がイエズス会の創設者イグナティウス・ロヨラに対し海外布教のための宣教師供出を要請した。つまり、その時点からイエズス会は、アフリカ・インド・東アジアへの布教活動についてはポルトガル国家の支援を得られることになったのである。
(その提携関係があったからこそ、フランシスコ・ザビエルは1541年インドへ旅立ち、その8年後日本へ渡来したのだった。)

一方、従来南米における布教活動についてスペイン国は、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会、メルセス会の4修道会のみに限り、認可を与えていた。国王フェリペ2世によって、イエズス会に南米での布教活動の認可が与えられたのは、フランシスコ・ピサロによるペル-征服から30年以上後の、1565年になってからのことである。

そして、新興の修道会イエズス会がその特権的な認可を獲得するについては、その年、第三代総会長にフランシスコ・ボルハが就任していることが実に有効に作用したようなのである。


4.フランシスコ・ボルハについて


〈ボルハはロ-マ教皇の曾孫だった〉


フランシスコ・ボルハは、ポルトガルとスペインとで地球を二分割することを認める勅書を発したことで有名なロ-マ教皇アレクサンドル6世(在位1492年~1503年)の曾孫である。アレクサンドル6世には、六男三女計9人の子供がいたが、そのうち5番目の男子ホアンが、フランシスコ・ボルハの祖父となる。ちなみに、4番目の子が「ルネサンス王」として活躍し、マキアヴェリから理想の君主とされたチェ-ザレ・ボルジアである。


その時代の教皇については、例えば秀吉・家康のようなほぼ同時代の封建領主的権力者でかつ宗教的権威も有した存在であったと考えると納得できるような気もする。因みに、アレクサンドル6世の前任者インノケンティウス8世(在位1484年~1492年)には、数人の庶子(正式な妻以外から生まれた子)がいたし、後任者ユリウス2世(在位1503年~1513年)にも、フェリ-チェという名の認知された娘のほか、子供が何人かいたと言われている。


〈フランシスコ・ボルハという人物〉


さて、フランシスコ・ボルハは1510年に生まれ、12歳の時スペイン王(兼神聖ロ-マ皇帝)カルロス5世の妹カテリ-ナの小姓となって以来宮廷に仕え、国王カルロス1世の有力な側近となり宮廷内の実力者として認められていた。

妻のレオノ-ルの死から4年後の1550年、イエズス会に入会した。1561年ロ-マに行き、第二代総会長ディエゴ・ライネスの右腕となり、1565年から1572年に死去するまで第三代総会長を勤めた。

1671年「聖人」となっているから、きっと何か奇跡を行ったことになっている筈である。ペル-の首都リマ市には、サン・ボルハ区という名前の閑静な住宅地があるが、これは「聖フランシスコ・ボルハ」にちなんで名付けられたものだ。


〈フランシスコ・ボルハを取り立てたことの意義〉


フランシスコ・ボルハのイエズス会内での特権的な位置付けには、創立者イグナティウス・ロヨラの強力な後ろ盾があったと考えられている。1556年イグナティウスが死んだ後、フランシスコに対する敵意が会内で噴出し、ついに彼が異端審問所の監視下に置かれる事態に至ったことがそれを物語っていると言われているのである。

では、なぜ、イグナティウスは会内の不満や敵意を抑えてまで、フランシスコを取り立てたのか。

それは、創立後間もないイエズス会にとって、宮廷・王室との紐帯強化は言うまでもなく重要なことであり、また宮廷・王室の内情を熟知し影響力を持つ彼の存在は、会の活動の今後の展開上必須のものと考えられたからであろう。

実際に、フランシスコ・ボルハが総会長に就任するや、彼が有力な側近として仕えていたカルロス1世の息子である国王フェリペ2世から、おそらくは当時イエズス会にとって喫緊の課題であった南米布教への参入許可が狙い通り得られているのである。

そういう意味で、聖(サン)ボルハは、ペル-にとって現代に至ってもなお国教であり続けるカトリックの布教に貢献してくれた大恩人なのだから、リマ市の高級住宅地の一区を「サン・ボルハ」と名付けるくらいは当然のことなのかも知れない。



5.ペル-での活動開始


1565年、南米布教の活動に認可を得たイエズス会は、1568年に7名、1569年に30名の会士をペル-へ送った。同時期にペル-へ赴任した第5代副王フランシスコ・トレドは、ティティカカ湖畔のアイマラ族の村フリの教化をイエズス会に委託した。副王トレドがフリを直轄領とすることで、イエズス会の自由な行動を保証したこともあって、教化は成功した。また、後のパラグアイのグアラニ族教化村建設にあたっては、このフリの村落教化の経験が大いに生かされたようだ。

副王トレドには、本国宮廷での赴任準備期間中、イエズス会からの働きかけが当然あったであろうから、ここでも、フランシスコ・ボルハを会に取り込んだ戦略が、みごとに効果を発揮しているのである。

ただし、ペル-・イエズス会士の中には、スペインによる植民地支配そのものに疑問を呈して異端審問にかけられた者もいたということだから、副王とイエズス会が常に蜜月の関係を保っていたという訳でもなさそうである。


6.パラグアイ教化村の建設


パラグアイの教化村作りは1610年前後に開始され、1640年頃には、上記2.に述べたように、後に「イエズス会国家」と呼ばれるような村落群が形成されつつあったが、そこには以下のような克服すべき難問が常に横たわっていた。

・先住民グアラニ族を労働力・軍事力として利用しようとするスペイン人入植者との対立
・派遣される強硬なスペイン人監督官(コレヒド-ル)に対する住民の反発
・侵入するブラジルの奴隷狩り遠征隊(バンデイランテ)による住民の拉致
・司教ドン・ベルナルディノ・デ・カルデナス(フランシスコ会士)の妨害


7.グアラニ討伐


その後、パラグアイ教化村は、確固たる経済基盤を築きながら1世紀以上にわたって拡大・発展を遂げていくが、その進展は1750年にスペイン・ポルトガル間に結ばれたマドリ-ド条約によって水を差される。

マドリ-ド条約によって、教化村七ヵ村がスペインからポルトガルへ譲渡・引き渡されることとなり、これに抵抗するグアラニ族に対し、1754年と56年の2度にわたって両国連合軍による討伐が行われたのである。(「七ヵ村引き渡し」の経緯については9月30日付記事をご参照頂きたい。http://iwahanjiro.exblog.jp/23251800/


8.イエズス会の追放と解散、そして復興


1767年
、国王カルロス3世により、スペイン本国及び海外全領土からのイエズス会士追放が命じられた。
(ポルトガルからは1759年に、フランスからは1762年に、イエズス会は既に追放されていた。)

教化村にいたイエズス会士は全員逮捕され、ブエノスアイレスへ護送され、ヨ-ロッパへ送られた。このとき、村には約9万人の村人がいたが、その後徐々に村を離れてゆき、人口減少は年を追うごとに加速し村は崩壊していった。


1773年
、反イエズス会派として知られていたロ-マ教皇クレメンス14世によって、イエズス会に対する解散命令が出された。

1814年、教皇ピウス7世の小書簡『カトリケ・フィディ』によって、イエズス会の復興が許可されている。(Wikipedia)




[私の思うところ]


(1)冒頭に書いたように、日本の「鎖国」は見方によっては、「イエズス会の日本からの追放」であったと考えられる。

江戸時代の「鎖国」は、徳川幕藩体制確立のために、当初はキリスト教の禁教と貿易の管理・統制を目的として進められた政策だった、と考えてもあまり間違いではないだろう。そして、イエズス会の存在は次の二つの面で、「鎖国」政策を徹底しようとする幕府にとって、有害かつ無用なものとなっていったのだから、追放の処分を受けたのは当然だった。

・外国の国家権力の支援に支えられた宗教勢力であるゆえに、有害なものと考えられたこと。

・それまで、ポルトガル船貿易の管理・運営にはイエズス会の関与が必須と考えられ、そこに同会の存在価値があったが、ポルトガル船貿易の衰退とともに同会の存在価値も薄れ無用なものとなって行ったこと。

だから、有害であっても有用な存在であったり、無用となっても無害な存在であれば、完全に追放されることはなかったのかも知れない。



(2)だがイエズス会以外の例えば、ドミニコ会、フランシスコ会であったら追放されることなく徳川政権と融和しながら活動し得たように言う人がときどきいるが、それもおかしい。

何故なら、ドミニコ会、フランシスコ会が托鉢修道会として、いくら清廉潔白さを強調しようと、それらの修道会も、例えばスペイン国家の海外進出の尖兵として、教俗(教会と世俗権力)一体の体制の一翼を担っていたことは、先に述べたペル-征服の経緯を見ても明らかだからである。その点は、1597年托鉢修道会系の宣教師・信者を主に処刑した(26聖人殉教)秀吉の時代から、日本の統一政権の最高権力者には充分認識されていたと考えられる。

ただ、スペイン国との提携の下に活動していたドミニコ会、フランシスコ会は、当然ポルトガル船貿易には関わっていなかったから、それが衰退しても活動条件に生ずる変化は少なかったかも知れない。

ともかく、数多の修道会の中で日本に最初に到着し、ロ-マ教皇にも日本の権力者にも抜かりなく手をまわして、布教市場独占をほぼ維持してきたイエズス会は、彼らの本質的な進出戦略ゆえに有害かつ無用な存在とされ、日本から完全に追放されたことになる。



(3)もし、イエズス会がスペイン本国および海外領土からのみ、追放されたというのであれば、比較的単純にその理由を推測することが出来る。

それは、前述の「グアラニ討伐」(1754・56年)における先住民グアラニ側の「反乱」へのイエズス会士の関与について調査が行われ、イエズス会士にとって不利な結果が出ていたこと。さらに、急進的な政策を推し進めた大蔵大臣エスキラチェに対する暴動「エスキラチェの乱」(1766年)について、イエズス会が暴徒を扇動したとの報告がなされたことである。

しかし、イエズス会士はポルトガルからも、フランスからも既に追放されていたのである。そして、これらの国々からの追放の原因として一般的に挙げられているのは、この時期の各国での「王権擁護主義の高まり」である。

この当時、ヨ-ロッパ各王朝は王権ナショナリズムの昂揚とともに、ロ-マ教皇の支配を排除する方向に動いており、教皇への絶対服従を誓うイエズス会は、各王朝による攻撃の矢面に立たされていたことは間違いない。



(4)
イエズス会を弾圧するよう要求するヨ-ロッパ各国からの圧力に負けて、イエズス会が絶対服従を誓っていた相手である教皇クレメンス14世が「イエズス会解散」の勅書を発布したのが、アメリカ合衆国独立宣言の3年前、1773年である。

そして、イエズス会の復興が、教皇ピウス7世によって許可されたのが「ウィ-ン会議」の年1814年である。「ウィ-ン会議」と何か関係があるのかと思ったが、関係は大有りだった。

ナポレオンによって、ジェノヴァ近くのサヴォナに監禁されていたピウス7世は、ナポレオンが退位すると同時にロ-マへ帰還した。幽閉に耐え抜いたピウス7世への称賛の声が広まり、その結果、ウィ-ン会議での合意による教皇領の返還と共にイエズス会の再興などが認められ、ピウス7世は小書簡『カトリケ・フィディ』を発し、イエズス会復興を命じたとされているのである。


解散命令は政治的な背景の下に出されたものだったが、復興命令も十二分に政治的背景を感じさせるものである点が、組織の性格を物語っているようだ。また、その組織の極端な隆盛と衰退と復活が多くの国で長い間論争の的となってきた。


フランシスコ・ザビエルが日本に渡来した1549年は、イエズス会がロ-マ教皇から認可を受けてから僅か9年後である。したがって、彼らは会創設直後の90年間を、日本で活動し姿を消したことになる。

その後、彼らが世界のどこで、どのような活動を行っていたかを観ることで、その集団の本質により近付くことが出来るのではないか。また、それによって、彼らが主導した約1世紀にわたる日本の「キリシタン時代」を、より鮮明に捉え直すことができるのではないか、と私は考えるようになった。

そんな考えから、イエズス会の追放・解散・復興の過程を追及していきたいが、それには「近代史」の知識が不可欠である。「近代史」は、北米・南米の独立、フランス革命、ナポレオンと私のよく知らない話題満載である。そして、当然のことながら、それは「幕末・明治維新」に日本が置かれた国際環境に繋がっている。あの世に逝く前に知っておくべきことは、まだまだあるという感じである。





〈おわり〉



次回は、日本のキリシタン時代の代表的人物の一人と思われる「棄教者 トマス・アラキ」について書かせて頂こうと思っています。




〔参考文献〕

ボルジア家 悪徳と策謀の一族    マリオン・ジョンソン    海保真夫訳 中公文庫
ロ-マ教皇歴代誌          P.G.マックスウエル・スチュア-ト著  創元社
THE LOST PARADISE        PHILIP CARAMAN  [ Sidgwick & Jackson]
A vanished Arcadia Being Some Account of the Jesuit in Paraguay 1607-1767 R.B.Cunninghame Graham[CENTURY]
幻の帝国    南米イエズス会士の夢と挫折           伊藤滋子著  同成社
















# by GFauree | 2016-10-30 14:06 | イエズス会追放 | Comments(2)  

モノワスレの効用

モノワスレの効用_a0326062_08035173.jpg
                                         (写真撮影 三上信一氏)


物忘れ防止のために

ブログを書き始めて、もうすぐ2年になります。
50歳頃から興味を持つようになった歴史に関して、本で読んだことや感じたり考えたりしたことを忘れないように書き留めて置こうと思ったのがきっかけでした。実は、この数年物忘れを自覚することが増えてきて、それを少しでも防止したい気持ちもありました。

ですから、最初は自分が書いたものを誰かに読んでもらうことなどはあまり考えず、自分があとで読むために、知識や思考を整理し記録するつもりで書いていたのです。ちょうど、自分で観賞するために、家の庭で花を植え育てているような感じでした。


でも、読んで頂くと嬉しい

ところが、時間が経つにつれて、どなたかが読んで下さったことが分ることが何度かあって、それが嬉しくもありまた自分にとって励みにもなることを知りました。

どなたかに読んで頂いたことが分る方法はいくつかあります。


読んで頂いたのを知る方法

ひとつは、読んだ記事に直接コメントを頂くことです。コメントを頂いたことが分った瞬間は、書いていることが間違っているとか、分りにくいとかのお叱りではないかと不安になります。実際にそういうことが何度かありました。けれども、とにかく自分の書いたものに反応して頂くということは、製作者としてはそれだけで嬉しいものです。

もうひとつは、ご自分のブログや何かの媒体で、私のブログ記事について言及して頂くことです。去年に一度、今年も一度そういうことがありました。

去年の経験については、記事に書きました。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21857515/
今年のは、「図書新聞」に投稿された「NAGASAKI夢の王国」という小説に対する批評の中で、私のブログ記事のタイトルに触れて下さったのを偶々知ったのです。(http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/dokusya_display.php?toukouno=415)その記事のタイトルは、なぜ私がその人物に惹かれたのかが明示できるように考えたつもりのものでしたので、それを汲み取って頂いたことが感じられて私としてはとても嬉しい思いをしました。


読んで頂いたことを知るための、あとひとつの方法は、毎日表示される記事別のアクセス数です。その記事別アクセス数を見ていて、最近時に投稿した記事へのアクセス数が多いのは当然に思えるのですが、投稿してから半年以上、一年以上経ってからも相当数アクセスして頂いている記事があることに、ある時気が付いたのです。それは、例えば以下の人物に関する記事です。

背教者クリストヴァン・フェレイラ(http://iwahanjiro.exblog.jp/i15/
少年使節千々石ミゲル(http://iwahanjiro.exblog.jp/i11/
長崎代官村山等安(http://iwahanjiro.exblog.jp/i6/
殉教者ペトロ・カスイ・岐部(http://iwahanjiro.exblog.jp/i8/

これらの記事について共通して言えることは、私として特に強く言いたかったことがあることです。

・フェレイラについては、彼を棄教に追い込んだ日本の社会が、「転びバテレン」などと呼んで彼を蔑(さげす)んだのはおかしいのではないかということ。(遠藤周作でさえそういう見方を脱却していなかったように私には見えます。)
・千々石ミゲルの離脱は、巡察師ヴァリニャ-ノの指図で捏造された「遣欧使節記」と関係があるのではないか、ということ。
・村山等安こそ、日本のカトリック社会の成熟を示す人物だと考えるべきではないかということ。
・岐部の不屈の信念の源は、彼の周囲の人々の共感と支持だったのでは、等々。


こういうことを通して、私は二つのことを願い信ずるようになりました。
それは、自分がこれを言いたいと強く思って書いた文章は、きっとどなたかが読んでその気持ちを汲み取って下さるということ、また、そういう読み方をして頂くためには、なぜか少なくとも半年から1年以上待つことが必要だ、ということです。


この考え方にはなかなかの利点
があります。それは、きっとどなたかが自分の主旨を汲み取って下さると思えばより真剣に記事を書く気になれます。そして、そういう読み方をして頂くためには半年から1年以上必要だとすれば、当面その記事に反響が得られなくても落胆することは、ありません。

そのうえ、半年から1年以上経てば、記事を書いた時の気持ちの高揚などは自分でも忘れていますので、もう期待することもありませんから、たとえ放置されても精神衛生が保てるのです。「モノワスレ」もまんざら捨てたものでもないということです。


次回は、これからやっていこう考えていることについて、書いておきたいと思っています。















                                                  

# by GFauree | 2016-10-15 09:20 | 大航海時代 | Comments(0)