【大航海時代のおと】

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背教者 クリストヴァン・フェレイラ [その6]


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1月にマ-チン・スコセッシ監督の映画『沈黙』が日本で封切りされ、事前の予想以上に話題になっているようである。
そのせいか、原作の小説『沈黙』についても、その作者遠藤周作についても、また小説の陰の主役であるクリストヴァン・フェレイラについても、最近になって初めて知ったり、思い出したり、考えたり、教えて頂いたりしたことが色々あった。

そこで、それらの事どもをここに書き留めておこうと思い付いた。


1.講演「『沈黙』について」


小説『沈黙』を発表した1966年の遠藤自身による講演の録音を聴いた。結構語り口がうまいというか心地よく、適度に面白い。
40分間笑わせながら飽きさせず、小説『沈黙』のポイントを要領よく語ってくれている。

「遠藤周作の小説『沈黙』の題名には二つの理由があったということである。ひとつは、人間の苦しみに対する『神の沈黙』への疑問である。そして、もうひとつは、棄教者の苦悩に対する、後世の人々の蔑視や黙殺に対する批判である。」
ということを前回の記事に書いたが、それは、この講演でも語られている。


この記事の冒頭に掲載させて頂いた写真は、『沈黙』の草稿の翻刻が収められた本の表紙である。その本には、原稿用紙の裏側に鉛筆で書き込んでいた遠藤自筆の草稿の写真版も収録されているが、それを見ているとこの小説の執筆が彼にとって如何に体力・精神力を消耗させるものであったかが少し痛々しいまでに感じられる。

それだけにこの講演をした時期の遠藤は、作品を書き上げた後の達成感、虚脱感とともに反響への期待や満足感に浸っていただろうと想像できるから、講演の語り口を聞いて感ずる心地よさはそのせいかも知れない。


「2017年3月末まで期間限定無料公開」なんだそうだ。ということは、4月になったらお金を払わないと聴けなくなる、ということらしい。https://www.youtube.com/watch?v=ykJKaM3lfys



2.小説『沈黙』の内容は、キリシタン史研究の発展とはあまり関係が無い



私は過去の記事の中で、「遠藤周作の『沈黙』も『侍』もこの(高瀬弘一郎氏の「キリシタン時代の研究」という論文集が刊行された)頃に発表された作品であり、キリシタン史の研究の発展はそういう面にも影響を与えているようだ」などと書いてしまった(http://iwahanjiro.exblog.jp/23274041/)が、それは誤りなので訂正させて頂きたい。



『沈黙』が発表されたのは1966年、「キリシタン時代の研究」に収められた諸論文は1971年から1977年に発表されたものである。内容的にも、『沈黙』では「キリシタン時代の研究」に書かれているような、「キリシタン布教とスペイン・ポルトガルの国家政策の関係」や「キリシタン布教の実態」や「宣教師の軍事計画」などといったことは一切触れられていない。

『沈黙』で描かれているのは、迫害・拷問によって棄教を迫られひたすら苦しむ信者と宣教師であり、それは「キリシタン時代の研究」以前に描かれていたある意味で清く美しい「キリシタン史」の世界である。だから、『沈黙』を今読むとどこか古臭く感じられるのは、そのせいかも知れない。

しかし、そもそも作者遠藤周作は歴史研究者ではないのだから、史実を書かねばならないということはないし、小説なのだから史実の一部を改変したり省略したり強調したりして如何なる状況を設定しようと自由なのである。したがって、小説『沈黙』には歴史研究の成果である史実が盛り込まれていないから価値が無いなどと言うつもりは私にはない。むしろ、50年前のあの時代によくぞここまで書けたものだと感嘆し、その勇気を讃えたいと思っているくらいなのである。


それは、上に述べたこの小説の題名を『沈黙』とした二つの理由、「神の沈黙」と「棄教者の苦悩に対する後世の人々(教会と言って良いかも知れない)の沈黙」は、どちらも教会の中ではタブ-とされてきたことだと私は思うからである。そのタブ-をこの小説はテーマとして採り上げ、答えを探ろうとした。作者が探り当てた答えが、納得いくものであるかどうかの判断は人によって様々だろう。

ある人々は、作者が提示した答えがあるまじき考えであり異端であると決めつけている。私は、「踏むがいい」と言われたとする話の筋は、棄教者に光を当てたいと願いながら彼らが弱者であるとの考えから結局脱けきれなかった作者の及び腰の産物だと考えてきた。


しかし、なぜ遠藤周作は信者でありながら教会のタブ-に挑戦するようなことができたのだろうか。それは、彼自身の信者としてのある意味で特異な経験が可能にしたことではないか、と私は考えている。



3.教会に帰属意識をもてず、聖職者の人間的側面をみせつけられるような経験までしていたからこそ



遠藤周作は、日本では珍しくカトリック信者であることを自認し、それが広く知られ作品にもそれを反映させていた作家だった。それで、カトリック作家の代表であるかのようにみなされ、本人も彼に対するそういう世の中の位置付けを了解して対応しているように見えた。しかし、遠藤の生い立ちをよく観てみると、彼が育った環境は決して典型的なカトリック信者のそれではない。


彼は、両親の離別により満州から母親とともに帰国し、母親の姉の下に身を寄せていたという。そして、その叔母の影響で洗礼を受けた母親の指示に従って、彼も12歳の時に受洗した。カトリック信者は生後すぐに洗礼を受けるのが一般的である。また、私が子供の頃通っていた教会の熱心な信者の中には大学生ぐらいの年齢になってから、いわば生き方の選択の一つとして洗礼を受けたというような人も結構いた。しかし、遠藤はそのどちらでもない。


教会というところは、信者の子供にとって生活の場だから友達もいて学校の次に多くの時間を過ごす場所である。そういう場所では、何と言っても赤ん坊の頃からそこで育ったような子が幅を効かせる。私の周囲にも、小学校の高学年になって洗礼を受けた子がいたが、皆がその子を、まるでお客さんのように扱っていたような気がする。


さらに、今はそんなことは無いかも知れないが、昔はカトリック教会では離婚などあり得ない事だった。だから、両親が離別したという事情があれば、またそれだけ教会の中に溶け込むのは難しかっただろうと私は推測する。そんなことから、遠藤は子供の頃、教会の雰囲気に溶け込めず教会に帰属意識のようなものは持てなかったのではないか、と私は思っている。


次に、遠藤の母親は、あるドイツ人のイエズス会司祭に深く傾倒していた。その司祭は学識豊かで教会の中の誰からもエリ-トと仰ぎ見られるような存在だったらしい。彼は東京にあるカトリック系の大学の教授となり遠藤の母親によって翻訳された彼の著書が出版されたこともある。ところが、彼は遠藤の結婚式を司式した2年後、突如失踪し司祭職を辞して日本人女性と結婚、日本に帰化した。遠藤が『沈黙』を発表する9年前のことである。遠藤は『沈黙』を発表した2年後、この人物をモデルに小説『影法師』を書いている。


以上から言えることは、遠藤周作が幼い頃は教会の雰囲気に溶け込めない事情を抱え、長じては聖職者や教会について醒めた目で見つめざるをえないような経験をしていたということである。それゆえに、遠藤にとって、多くの信者のように教会という場で信者同士の繋がりや聖職者との関係を手に入れそれを享受するようなことは難しかったのではないか、と私は考える。しかしまたそういう人間関係のしがらみのない立場にいたからこそ、他の人々が人間関係を崩したくないがために出来れば避けて通ろうとするタブ-にも立ち向かうことが出来たのではないかとも思っている。

そして、そう思うようになったとき、主人公ロドリゴが「踏絵を踏むがいい」という声を聞いたという『沈黙』の筋が作者の「及び腰」の産物だとばかり考えてきた私は、それが子供の頃から教会の中で遠藤が感じ続けていたであろう「孤独」の産物でもあることに初めて気が付いた。




4.井上筑後守(ちくごのかみ)政重について



トマス・アラキに関する記事に対し、osakadaさんと仰る方から、井上筑後守は興味深い人物なので調べてみてはどうか、とのアドバイスを頂いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/23554978/


井上筑後守は、どこまでが本心か分らないような複雑な性格を持った元キリシタン信者の老獪な奉行として小説『沈黙』に登場する。映画『沈黙』では、イッセ-尾形が演じてリアルで怖いとかで評判になっているようであるが、井上筑後守政重は実在の人物である。


元キリシタン信徒であった井上は幕府の大目付となった後、宗門改役を兼ね、島原の乱に上使として赴きキリシタン禁教政策の中心人物となった。文京区小日向にあった彼の下屋敷は、宣教師や信者が収容されたことから「切支丹屋敷」と呼ばれ、『沈黙』の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルであるジュゼッペ・キアラが終生幽閉されていた場所である。


さて、osakadaさんが下さったアドバイスの中で私が興味を引かれたのは、井上が「キリシタン取締り」の知識や経験を自己の職務遂行の引いては出世の切り札として活用したと考えられる点であった。(考えてみれば、出世のためなら何でも使おうというのは当然なのだが)
そこで、少し調べてみると「政治的には『オランダ人の保護者』と評され、当代一流の諸科学の受容者でもあった」〈世界大百科事典〉とされている。西欧の科学的知識の吸収に非常に努力し貢献した人らしいのである。


私は、棄教した後のクリストヴァン・フェレイラが、南蛮(ポルトガル)・紅毛(オランダ)両国系の学問・知識の吸収・普及に活路を見い出したのではないか、と考え、そう書いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)棄教者の苦悩に光を当てることを標榜しながら、小説『沈黙』の中に「『私はこの国で役に立っている』と語るフェレイラが、ロドリゴには、他人に自分が有益でありたいという昔の思い出にすがりついているように見えた。」などと書いている作者の「及び腰」に反発を感じたからだ。しかし、フェレイラがどういう経緯で西欧の学問・知識の吸収・普及に貢献しようとするようになったのかは、想像が付かなかった。


フェレイラは、西欧の学問・知識に強い関心を持つ井上筑後守から、その吸収・普及に貢献するという役割を示唆されたのでは、ないだろうか。それとも、学問・知識の吸収・普及の必要性やその進め方を提案したのは、フェレイラの方だったのかも知れない。

いずれにしても、「キリシタン取締りの元締め」と「棄教したポルトガル人司祭」との間に、西欧の学問・知識の吸収・普及に関して交流があり、両者ともがそれによってその後の人生を切り開いていったと考えると何だか楽しい。


osakadaさん、有難うございました。


〈おわり〉










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# by GFauree | 2017-02-21 10:42 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(0)

清くも正しくもなかったけれど本物の臭いがする長崎代官 村山等安 [その5]

                           
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典厩(てんきゅう)五郎作 NAGASAKI 長崎 夢の王国




「すすむA」さんという方が、図書新聞やamzon.co.jpにこの小説に対する書評を投稿されていて、その中で「『清くも正しくもなかったけれど本物の臭いがする』というタイトルは、彼(村山等安)に最もふさわしいと感じる」とコメントして下さったのを見つけた。


http://toshoshimbun.jp/books_newspaper/dokusya_display.php?toukouno=415
https://www.amazon.co.jp/NAGASAKI-%E5%A4%A2%E3%81%AE%E7%8E%8B%E5%9B%BD-%E5%85%B8%E5%8E%A9-%E4%BA%94%E9%83%8E/dp/4620107921


細々と書き綴っているようなブログだからそういうコメントを頂くことは滅多にないので、嬉しかったし励まして頂いている気がした。直ぐにでもその小説を読んでみたかったのだが、諸般の事情により半年近く過ぎてやっと入手した。


お蔭で気が長くなった


ブログを書き始めて約2年が経って大分気が長くなったようだ。(年寄の短気は年甲斐がなくてみっともないと思っているので、本当に気が長くなったとすれば嬉しい。)というのは、私のブログ記事に反響を頂くには、なぜか投稿してから半年から1年半の期間が必要なことが分ってきたからだ。ということは、仮に投稿して直ぐには何も反響がなくても、1年半ぐらい経つと何処かの誰かが反応して下さる可能性があるということだ。(と、私は考えることにしている。)

最近、約1年前に書いた「背教者クリストヴァン・フェレイラ」に関する記事を多くの方が読んで下さるようになった。遠藤周作の小説「沈黙」が映画化され先月封切りされたからだろう。「すすむA」さんがコメントして下さったのも、「長崎代官 村山等安」に関する記事を投稿してから1年半後だ。この数日、なぜか1年半前に書いた「天正遣欧使節 千々石ミゲル」に関する記事を読んで頂いているようだが、何か理由があるのだろう。他にも、似たようなことがあった。

とにかく、今書いている記事に関して1年半ぐらい経てば何かが起きるだろうと思えるのは楽しいことだ。記事を書くことが、先々の楽しみの仕込みをすることになるからだ。それで、気が長くなってきたのだろう。こんなことは、ついせっかちに目先の結果ばかりを気にして生きて来てしまった私にとって、人生で初めての経験である。



「NAGASAKI 夢の王国」について



さて、肝心の「NAGASAKI 夢の王国」だが、とても読みやすい小説なのでお勧めしたい。

作者は、30年前にサントリ-ミステリ-大賞を受賞した後、多数のミステリ-や歴史小説を書き続けてきた人だというので、文章の読みやすさと内容の分りやすさを期待したが、その期待通りだった。


文章が分りやすい


まず、文章について言えば、私は多くのキリシタン小説に出てくる恭(うやうや)しい言葉の羅列と気取ったような文体が苦手である。そういう表現が、舶来の宗教に関する内容にふさわしいと考えてされているのかも知れないけれど、そういうのを読むと気恥ずかしいというか、背筋がゾクゾクしてそのうち腹が立ってきて投げ出したくなる。

若い頃、仕事の仲間で英語で話すと声まで変わってしまう人がいたが、それを聞いた時の気恥ずかしさに似ている。恥じらいを忘れたら日本人じゃないよ、と言いたくなる。

この小説は、普通のまともな日本人の言葉と文体で書かれているから、読んで恥ずかしくなる心配はない。


内容も分りやすい


次に、内容であるが、例えばイエズス会というと、今でも秘密結社とかスパイ組織のように書かれてしまうことが少なくない。そんな地下に潜っているような組織でなく、五百年近く表に出て堂々と活動してきた組織であるからこそ問題なのに、どうもそこが理解されにくい様だ。

その点、この小説は歴史研究に基く文献を参考にしているので、書かれていることが全て史実だなどとは言えないが、荒唐無稽なことは書かれていない。したがって、上滑りな空想や妄想に付き合う必要はないので面倒でないし分りやすい。


作者の創作部分について


もちろん、小説だから作者が創作した部分はある。特に、秀吉によって長崎代官に取り立てられるまでの等安については、分っている事柄は殆どないから、僅かな手掛かりを膨らませて、彼が生きてきた環境や人柄が語られている。

一方、話の展開上、代官村山等安と奉行長谷川左兵衛とが幼い頃から親密であったことが軸になっているのだが、左兵衛個人については妹の於奈津が家康の側室だったことぐらいしか書かれていない。おそらく、左兵衛について分っていることは更に極めて少ないのだろう。


なぜこの小説は面白いか


先ず、等安が1594年に長崎代官に任ぜられてから、1618年に失脚するまでの25年間は、キリシタン教会と長崎とが一体になって発展を遂げ、衰退を辿って行った時期である。それはまた、90年にわたる日本のキリシタン時代のうち、最も華やかでまた深刻な多くの問題が露わになった時期でもあった。その舞台の上で、等安は商人、武士、宣教師、背教者といった日本人だけでない、それも一筋縄ではいかない強(したたか)な人々と交錯する。

しかも、等安自身も代官職を梃子に危ない“顔役”として実力を蓄え、イエズス会すら敵に回し、ついには幕府にとってさえ邪魔な存在となってしまったのだから、その一代記が面白くなかろうはずがない。

しかし、この小説の作者は、そんな等安に意外に静かな終焉を迎えさせる。そこが、渋くまたリアルであっていいと私は思うが、どうだろうか。


残念なこと


ところで、この小説の中で「岡本大八事件」(幕府の禁教政策の切っ掛けとなったと一般にされている、「キリシタン大名」有馬晴信と本多正純の家臣岡本大八の間に起きた増収相事件。この事件については記事を書いたことがあるので、ご参照頂きたい。http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)に関連して、正史(国家等の権力が編集し、事実を正確に記したとされている歴史書)について言及した部分がある。


「正史とは、あるいは歴史とは、つねに時の勝者のご都合主義か、もしくは死人に口なしで、生き残った者が歴史の証人面をして書き継いできたものと疑ってかかるべきだろう。」

「『岡本大八事件』は、岡本大八という品性下劣にして邪悪な男が強欲さから起こした単純な事件として正史に定着している。しかし、等安(へ)のいわれなき誹謗や中傷とおなじく、歴史の表側だけを見て裏側への想像力を欠いては、なにも見ていないと言い切ってよいのではないか。歴史とは複雑怪奇であり、つねに裏の顔を持つ生きものなのである。」

こう書いている作者の、この小説の中での元天正少年使節千々石ミゲル(清左衛門)と元日本人司祭トマス・アラキの採り上げ方が私には納得し難い。(トマス・アラキについては、153ページに「トマス・アキラ」と表記されているが、誤植だろうか、それとも何か意味があるのだろうか。)

加えて、「トマス・アラキと千々石ミゲルがよく似ていると等安が思った」とのくだりまであるのである。


棄教者についてどう考えるか


遠藤周作の小説「沈黙」の題名には二つの理由があったということである。ひとつは、人間の苦しみに対する「神の沈黙」への疑問である。そして、もうひとつは、棄教者の苦悩に対する、後世の人々の蔑視や黙殺に対する批判である。


千々石ミゲルに関しては、キリスト教社会的価値判断を脱却せずそのまま引き摺ってしまった日本社会の精神的怠惰を私は感じている。
http://iwahanjiro.exblog.jp/21418363/
トマス・アラキについては、幕府権力と教会権力に利用され尽くした存在と考えている。
http://iwahanjiro.exblog.jp/23554978/


ここまで、大衆の心理が読めているのであれば


この小説の中に、「罪人引きまわし」について次のように述べられている箇所がある。

「しかも町なかでの罪人引きまわしは、見物するだけでなく、石つぶてを投げ、唾を吐きかけて参加してしまう人々が大勢いた。
罪人へのこうした行為は、絶対封建主義社会で息苦しい庶民たちにとっての、鬱屈した感情の捌け口であり、権力側もそれを意識しての引きまわしなのだった。さらには庶民たちの意識は高いとはいえず、罪人を積極的に痛めつけることによって権力側に阿諛追従し、あるいは権力側の一員になったような錯覚も持てたのであろう。」


棄教者を十羽ひとからげに扱い、からかい蔑(さげす)んできた人々の意識は、罪人引きまわしで権力側に阿諛追従し、権力側の一員になったような錯覚を楽しんだ庶民のそれと変わらないものだと私は思う。

ここまで、大衆の心理を読めている作者なのだから、棄教者についてもユニ-クな捉え方、採り上げ方出来たであろうにと思うと残念である。私はこの小説を単に面白おかしいだけのものとは考えたくなかった。



〈おわり〉







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# by GFauree | 2017-02-14 13:47 | 村山等安 | Comments(0)

棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その5]

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                                         (写真撮影 三上信一氏)





今回は、トマス・アラキの生涯全般について私の考えるところを書いてみよう。




1.まず、なぜアラキはイエズス会の枠を外れてまで、独自のル-トでロ-マへ行ったのか、である。


アラキは渡欧する際、1602年頃フィリピンを、1603年頃メキシコを通過した。ということは、彼が日本を発ったのは1601~2年頃のはずである。


1601年、司教ルイス・デ・セルケイラは長崎に司祭養成のための神学校を開校した。
その神学校には、当初ポルトガル人2名と日本人6名が選ばれ入学したが、彼らは皆、多年セミナリオで教育され最優秀とされた者だったとのことである。また、日本人たちは、既に経験を積んだ伝道士(同宿)から選ばれたともされている。


私は[その1]に書いたように、その頃までに、アラキはイエズス会のセミナリオの課程を順当に修了し、既に同宿として働いていたのではないかと思う。司祭となることを希望していたアラキは当然必要な学力も有し神学校入学を強く希望したが、その希望は何らかの理由によって受け容れられなかった。その理由の一つとしては、イエズス会内に「日本人司祭登用制限の方針」があったことが当然考えられるが、ともかく結果としてアラキは日本での神学校入りをあきらめ、他の修道会関係者のつてを頼ってロ-マで学ぶべく出国したのだろうと、私は考える。


それでは、なぜアラキは同宿の仕事を棄てて司祭になることに、それほどまでに執着したと考えられるのか。

同宿については、ペトロ・カスイ・岐部に関する記事の中で述べたので、ご参照頂きたい(http://iwahanjiro.exblog.jp/21105197/)が、ただその中で充分に言及していないことがある。

それは、キリシタン教会の運営の重要な部分を担っていた同宿に対する処遇、いわば身分制度についてである。
「同宿はパ-ドレ(司祭)、ついでイルマン(修道士)を敬意をもって遇しなければならなかった。物をかぶって長上と話すことはできないし、道で会ったら下駄や草履を脱いで膝に手をつけて応対しなければならなかった。」(キリシタニズムの比較研究 古野清人)

司祭や修道士は正式なイエズス会士である。教会の運営に欠かせない存在であったはずの同宿は、会士たちの家来か使用人のような処遇に甘んじさせられていたのである。こんな身分制度があったのだから、イエズス会の枠を超えて何が何でも司祭になりたいとしてアラキが行動したとしても、不思議ではないと私には思える。

そのアラキの願望を、何かよほど悪辣な手段に訴えてまで妨害しようとした宣教師がいたようであることは次に述べるが、概して従順な日本人信者や同宿たちに比べ、アラキはもうこの段階からヨ-ロッパ人宣教師たちにとって要注意の厄介な存在となっていたことは想像できる。



2.アラキはどのような境遇に育ったのか


1613年10月4日付け京都発、チェルソ・コンファロニエリの総会長補佐宛て書翰

「・・・、彼は身分低い生まれで、母親は自分の労働で自らを養っていた。またこのピエトロ・アントニオ(アラキ)は、能力が示されなかったためにセミナリオに入ることが許されなかったか、または入学は許されたがそこに留まることが出来なかったかのいずれかである。・・・。したがって、われわれは彼がこの地にもどってくることを恐れている。・・・。」

主旨のはっきりしない奇妙な書翰であるが、次のようなことを言いたいようだ。
「アラキは、身分の低い貧しい生まれの人物(だから、配慮するに値しない存在)である。彼がセミナリオで学べなかった理由が分らないぐらい、自分は彼と関係がない。しかし、彼が日本に戻って来ると何を言われるか分らないという恐れがあるので、決して帰国させないようにして欲しい。」

このような報告がなされる修道会では、「清貧の美徳」や「金持ちが天国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがずっとやさしい」というイエスの言葉などは、何の意味も持たず誰も顧みることがなかったのだろう。報告者は自分とアラキの関係が露わになることを恐れ、また、アラキが日本へ戻ることつまりアラキの報復を異常に恐れているようだ。


この書翰を書いたチェルソ・コンファロニエリは、1590年代から1600年代初めにかけて、コレジオとノビシアド(修練院)の教育に関わったことがあるイタリア人司祭であるという。私は、コンファロニエリこそ、アラキが独自にロ-マへ行くこととなった理由を作った張本人だったのではないかと思う。

神学校へ行き司祭になりたいというアラキの希望を何か余程悪辣なことをして妨害したのだろう。そうでなければ、これほどまでにアラキの帰国と報復を恐れる必要はないはずである。それが分ったところで今さら何ができる訳でもないが、四百年も経っているのにここまで分ってしまうとは、悪いことはできないものである。



話が逸れてしまったが、アラキの育った境遇についてに戻る。

コンファロニエリの書翰の日付けの5年前、1608年10月10日付けイエズス会準管区長フランシスコ・パシオのトマス・アラキ宛て書翰では、アラキの母モニカは志岐(熊本県天草郡)の教会の近くに健在であるとされている。そのことから、アラキが志岐に生まれ育った可能性は高いと言われている。

また、1615年1月3日付けトマス・アラキの総会長宛て書翰によると、アラキはマカオで、幼少時から接触していた彼の師である神父達や修道士達、そして信仰のために日本から追放された縁戚の者数人に偶然にも出会った、ということである。

このことから、アラキの幼少時、彼の家庭が裕福であったか否かは別として、神父や修道士たちと親しく接する宗教的に恵まれた環境に育ったことは分る。また、彼の縁戚者達がマカオに追放されていたということは、彼等がある程度社会的地位の有る者だったことを想定させ、アラキの出自も決して軽視されるものではなかったと推測されている。



3.アラキが語り、警鐘を鳴らした事柄について


・マカオで司祭になるための勉学を希望しながら、イエズス会の方針でそれが叶わぬことが分り不満を募らせていた日本人伝道師(同宿)たちに、以下の事項を語った。

(1)イエズス会を去って教区司祭になる道に進むべきこと。
(2)托鉢修道会士がスペイン国王に日本征服を企てるよう働きかけたことをマドリ-ドで知ったこと。

・1611年ロ-マで教皇宛てに書いた書翰に、また1615年マカオでイエズス会総会長宛てに書いた書翰に、次のことを記した。
(3)日本で激しい迫害が行われているさ中に、修道会間の紛争が信者に混乱を与えていること。




(1)
については、まず勉学の機会を求め日本を出たにもかかわらず、マカオでもその機会が与えられないことが分り落胆する同宿たちを見かねて、自分の経験を語って励まそうとしたのではないかと私は思う。やり過ごすことも出来ただろうが、自分の辛かった経験からも理不尽な扱いに途方に暮れている者たちを見て黙っていられなかったのだろう。もともと、そういう性分だったのかも知れない。

修道会司祭でなく教区司祭をめざせとの忠告には、イエズス会の「日本人司祭登用抑制の方針」への対抗策という意味以外にも、[その1]に書いたように、修道会主導の教会運営から脱却するという積極的な意味を持たせていたのかも知れない。また、[その2]で述べたように、修道会司祭よりも教区司祭の方が叙階されやすいという事情を含んでの忠告だったのかも知れない。


(2)については、托鉢修道会士のその働きかけに対しイエズス会士が反対したと、アラキが語ったとのことであるが、イエズス会士が反対したのはスペインが征服することにであって、ポルトガルならイエズス会士も反対しなかっただろうという意味らしい。

秀吉以降の日本の為政者がキリシタン宣教師を国家征服の尖兵と考えたことが当たっていたことを裏付けるようなことを、アラキは知り語っていたことになるが、それはその頃、ヨ-ロッパの一部の人々の間では、いわば常識となっていたことなのではないかとも私は考える。


(3)の修道会間の紛争については、[その2]に書いたように、世界の各地で起きていた問題なのだから、ロ-マで6年以上学び生活していたアラキは、それが日本だけの問題でないことは知っていただろう。ただ、日本の場合は迫害がまさに風雲急を告げていた時期であったために、なおさら、その近親憎悪的な抗争の弊害を教皇にも総会長にも明確に知らしめておく必要を感じたのではないだろうか。


アラキの勇気


以上(1)、(2)、(3)とも、その内容は、まずアラキの見識の広さ、深さを感じさせるが、同時に、どれもマカオや日本にいたヨ-ロッパ人宣教師にとっては触れられたくない話であったはずである。その宣教師たちが主導権を握っていた日本への帰国を控えての言動であったことを考えると、一般に従順で当たらず障らずの行動を執っていた印象のある日本人聖職者の中に在って、アラキの勇気を感じざるを得ない。

しかし、司祭になりたいという願望を果たすために、多くの困難・障害を乗り越えて単独でロ-マに渡り学んだアラキであれば、これしきの勇気は当然のことだったのかも知れない。

加えて彼の言動は、苦境にある日本人同宿たち、征服の対象として議論されている祖国日本、自己中心的なヨーロッパ人修道会士たちに振り回される日本の信者たち、を見るに見かねてというような心情から発したものであると私は思う。

海外で暮らすと、日本や日本人の素晴らしさに改めて気付かされ、その日本や日本人のためになりたいと思うようになるものである。アラキの日本、日本人信者に対する思いやりは、そういうところから生じた自然なものだったような気がする。


ロザリオの「祝別」



帰国後のアラキが、当時イエズス会が仕切っていたロザリオの「祝別」に関し、自分は教皇から「祝別」をする権能を与えられたと称してロザリオを「祝別」して回り、イエズス会士たちの怒りを買ったという逸話を[その4]に書いた。

実は、1615年マカオでイエズス会総会長宛てに書いた書翰の中で、迫害の不安の中にいる日本の信者を慰めるためとして、メダルを送ってくれるよう総会長に依頼しているのである。帰国したアラキは、ロザリオを「祝別」することも、信者を力付けるものとなると考えそれを進めようとしたところ、イエズス会から横やりが入り、その妨害を無視する行動に出たのではないかと私は思う。

信者が何よりも力付けられることを必要としている時に、ロザリオの「祝別」についてまで他修道会を抑え自分たちのいわば利権を確保しようとするイエズス会士にはあきれる思いであっただろう。純真に救いを求める日本人信者を有難味で釣って勝手な規則を押し付け平然としているヨ-ロッパ人宣教師たちの姿勢は、彼らが日本人同宿を自分たちの使用人であるかのように扱っていた姿と重なったことだろう。


アラキにとって、幼いころから自分が信じ、その為に行動し生きてきたことの中で、何が間違っているのか、何を自分は大切にしていかなければならないのかが次第に明確になっていった過程だったのではないかと私は思う。



4.長崎代官 村山等安とのこと



村山等安については、前回[その4]で“教会分裂”に関して採り上げた他に、過去に記事を書いたことがあるので、ご参照頂きたい。(http://iwahanjiro.exblog.jp/20869393/)(http://iwahanjiro.exblog.jp/20887207/


長崎外町を差配していた等安は、内町の商人を代表する末次平蔵と敵対し、奉行長谷川権六と手を結んだ平蔵によって、1618年1月、代官の座を罷免された。更に、ドミニコ会司祭であった等安の息子が大坂の陣に際して大坂城内におり、等安が大坂方を支援したことが露見したために、等安の罪科が決定的となり、その一族が処刑されるに至ったとされている。


アラキの密告


その、等安一族の破滅を決定づけるような情報を奉行の権六に密告したのが、アラキだと言われているのである。しかも、密告した時期は、まだ逮捕される以前のことだったらしい。

wikipediaでは、等安が大坂方と通じていたとの嫌疑は、娘を等安に手打ちにされたことを恨んだ料理人三九郎が平蔵に告げたことによるとしており、情報源はアラキだけではなかったのだろう。しかし、アラキが奉行の権六にそのことを告げた可能性は充分ある。

まず、等安の息子フランシスコ・アントニオ・村山は、アラキと同じ教区司祭だったのだから、アラキがこの息子から情報を得ていたことが考えられる。しかも、アラキが村山父子とかなり交渉を持ち、布教事業に関して相当深い議論が交わされていたことを窺わせる記録もあるのである。


ただ、仮にアラキが等安一族に関する情報を奉行に提供していたとしても、私にはそれは致し方のないことと思われ、そのアラキの行動にあまり後ろ暗い印象は持っていない。等安は、ひたすら“清く正しく美しく”語られるキリシタン信者たちの中で珍しく“顔役”・”悪代官”の貌を覗かせ、キリシタン社会の成熟を感じさせる魅力的人物である。

しかし、スペイン系托鉢修道会に密着し、それを利用して自己の利権の確保・拡大を図った等安の生き方は、キリスト教布教を純粋な宗教的要素だけから考えていたと思われるアラキの考え方とは、全くかけ離れたものだった。そういう意味で、イエズス会より遠い存在だった等安をアラキが敵対視したとしても、それは致し方ないと思われるからである。


ところで、等安の息子アントニオは、アラキが入学させて貰えなかった(と私が考える)司教セルケイラが設立したイエズス会の神学校で学び叙品を受けた教区司祭である。


日本人司祭は養成しないと言っていながら有力者の子弟は受けいれるイエズス会と親馬鹿


そうであれば、イエズス会は、「日本人司祭登用制限の方針」を盾に多くの勉学志望者の受け入れを拒否しながら、こういう有力者の子弟はしっかり入学させていたことになる。それに、こんな時代にも、情実入学に教会内での自分の影響力を行使した親馬鹿な有力者がいたらしいことが、私には興味深い。

そして、若い時から自分の実力で勝負しロ-マまで行ったアラキがそんなことに引っ掛かりを感じ、それが村山父子に対する反感に繋がったなどということはなかったのかなどと考える。



5.アラキを利用した人たち


長崎奉行 長谷川権六が、ヨ-ロッパの事情やキリスト教についての情報提供者として、また国内のキリスト教徒に対する穿鑿の協力者として、アラキを利用したことについては、妙に詳細に語られている。

しかし例えば、アラキが「日本いる凡てのパ-ドレの名簿を提出し、どこの国のどこの家にいるかを明らかにした」とか、長崎のキリシタン捜索において、アラキが「今一人のユダであるかのように、スパイや司直たちの頭目になっている」とかの報告には、いかにもありそうな話ではあるが首をかしげざるを得ない。

一教区司祭に過ぎなかったアラキが、日本いる全てのパ-ドレの所在を知っていたなどということは、よく考えれば殆どあり得ないことだ。また、外国帰りの神父にキリシタン捜索を頼らなければならないほど、幕府の官憲は無能ではなかったはずだ。また、一介のカトリック神父の意見で、幕府の対外政策が左右されたはずもない。

では、なぜこのような言辞が弄されたのだろうか。


アラキを利用し尽くした長崎奉行


それには、実際にアラキが提供した情報がある程度役立った面もあっただろうが、奉行としてはアラキを取り込み活用するという手法が成功しているとして、自己の存在や能力を幕府上層に対し強力にアピ-ルしようとしたことが当然考えられる。また、キリシタン信徒への警告として、意図的に捜索の経緯を多少の作文を交えながら開示していたことも考えられる。

もうひとつは、後になって、残虐な「弱い者虐(いじ)め」のイメ-ジを持たれがちなキリシタン取締りが、元信者の「裏切者」の協力によって進められたということにできれば、幕府にとってイメ-ジダウンを軽減できるという考えもあったのではないだろうか。


他にも、アラキを利用した意外な人たち


そして、キリシタン弾圧がアラキの協力で進められたことが強調されれば好都合な人々が他にもいた。それは、教会である。

アラキが教区司祭として行ったキリシタン教会運営の問題の指摘・警告は的確だった。布教地先住民司祭登用の制限、宣教師の他国征服への関与、修道会間の競合といった問題は、日本のキリシタン教会のみならず、その時代の世界の教会全体の問題でもあったのだ。

アラキの裏切りで弾圧が進み、清く正しい宣教師たちは処刑されるか追放され、キリシタン禁教は徹底されたことになった。自分たちは沈黙していれば、全ては卑怯(ひきょう)な裏切者と残酷な幕府の仕業であると官憲自身が宣伝してくれる。教会には何の問題も責任もなかったことに出来るのだから、こんなに楽なことはない。

こうしてアラキは、その後も幕府権力と教会に存分に利用されてしまったと私は思う。



6.アラキの最期について



アラキは、キリシタン布教は植民列強の国策ではないかという強い疑問を持っていた、と一般に考えられているようだが、私は少し違う考え方をしている。


アラキはこう考えていたのでは


アラキと等安のやり取りに関し、次のような事が言われている。

・[トマス・アラキは]等安の長子に対して、「パ-ドレたちが説教している法は良いが、彼等の意図はこのような手段で日本を自国の国王に従わせることにある。」と語った。

・また、[トマス・アラキは]等安の家で-(その場にいたある重要人物の言う所によれば)-「キリストの法は真実であるにしても、これを日本で広めようとするパ-ドレたちの意図は、日本を自分たちの国王に従わせようというものである。」と語った。


これらのアラキの発言から、彼の考え方は以下のようであったと推測する。

・教会は植民列強の国策に乗って海外布教を進める方針を採ってきた。
・また、その方針が宣教師たちの姿勢を歪めており、多くの宣教師の意図は日本を自国に従わせようというものだ。
・ただ、本来のキリスト教の教えはそのようなものではないはずだ。

つまり、植民列強の国策に乗らない本来のキリスト教布教があるはずであり、教会はそこへ戻るべきだとアラキは考えていたのではないか、と私は思う。


ここでも、アラキの洞察力と先見性が


上記のアラキの発言は、1615年にアラキが帰国してから1618年に等安が失脚するまでの期間になされたものと考えられる。それから数年後の1622年、[その1]で述べたことだが、ローマ教皇庁内に布教聖省が設置され、アラキが提起した諸問題は、従来の布教体制の問題点として認識され、実効性は兎も角として対処方針が立てられている。

布教聖省の問題認識と対処方針の内容については、クリストヴァン・フェレイラに関する記事をご参照頂きたい。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)それを見ると、アラキの問題認識の的確性を改めて感じさせられるが、彼がそういう洞察力や先見性を持ち得たのも、10年近くヨ-ロッパで学んだことに加え、指導者に恵まれたという面もあったのではとも私は考える。




彼の死亡の年は、1646年または49年とされている。
彼は、1601年ごろ日本を出国したときに既にセミナリオを修了し20歳を超えていたと私は考えるので、亡くなったのは、65歳から68歳を超える年齢、つまり70歳前後だったということになる。

彼が、信仰を取戻し殉教者として死んだとする記録は、オランダ史料と教会史料の双方に見られる。


アラキは信仰を取り戻して死んだ


クリストヴァン・フェレイラ(沢野忠庵)の場合は、棄教時に実質日本管区長という重要人物だった為、教会は面子にかけても彼が殉教したことにする必要があったはずだから、殉教したと言われてそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。


逆に、アラキは教会の不倶戴天の敵であったはずであり、彼が信仰を取り戻したなどと考えたくないはずの教会が信仰を取り戻したと言っているのだから、それは信憑性があるのかも知れない。私は、アラキが殉教と言える死に方を本当にしたのかどうかは分らないが、信仰を抱いて死んだのではないかとは考えている。

ひとつは、既に述べたように、国策に乗って海外布教を進めた教会の方針は間違っていたけれど、教えそのものは間違えではないと彼が考えていたと思うこと。

もうひとつは、幼少時の彼が宗教的に恵まれた環境に育ったと考えられると先に書いたが、幼い時のそういう経験は、老い先短くなってきた時にこそ甦ってくるものではないかと私自身が最近思うようになっているからである。


アラキの生き方・逝き方は一貫していた


こうして、アラキの一生を振り返ってみて気付くことは、彼が若い時から、自分がなすべきだと考えたことは、多くの困難を乗り越えながらもあくまで成し遂げ、語るべきだと考えたことは勇気をもって発言していたということである。おそらく、それは教会を離れる時もそれ以降も変わらなかったのではないか、と私は思う。そして、最期も、幼い時からの信仰を素直に抱いて、安らかに旅立つことが出来たのではないか、と思えるのである。

そう考えると、アラキの生き方・逝き方は幼いころから最期まで一貫しており、彼について「変節漢」というイメ-ジは私には湧いて来ない。



〈おわり〉




[参考文献]


「キリシタン時代対外関係の研究」 第十三章 転び伴天連トマス・アラキ        高瀬弘一郎著 岩波書店                            
「キリシタンの世紀」-ザビエル渡日から「鎖国」までー 第十六章 長崎教会 他    高瀬弘一郎著 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について                     五野井隆史
キリシタン研究 第十輯 日本における最初の神学校(1601年-16014年)Hubert Cieslik S.J.  吉川弘文館

















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# by GFauree | 2017-01-17 11:46 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(5)

棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その4]

                   
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                                         (写真撮影 三上信一氏)
                                            


今回は、帰国してからのトマス・アラキの行動を追って行こうと思う。
ついては、気を付けなければならないことがある。

それは、その情報源の殆どが、彼を目の敵にしていたイエズス会士たちが書いた総会長や本部の担当者宛ての報告である、ということだ。しかし、彼について知りたければ、それらの報告に頼らなければならないのだから致し方ない。せめて、彼らにとって都合の良いことは強調され、都合の悪いことは無視されるか、隠蔽されている可能性があることは忘れないようにしよう。


1615年8月に帰国したアラキが直ぐに直面した最大の問題は、長崎“教会分裂(シスマ)”であったと思われるが、長崎シスマについては後で述べることにして、その時期の彼について報告されている他の事項を先に述べよう。


それは、ロザリオの「祝別」に関して彼がイエズス会士たちの怒りを買ったとの話である。


〈「祝別」のこと〉


ロザリオは、よく「キリシタンもの」のドラマなどで着物を着た女性がネックレスのように首に掛けたりしているが、本当は首に掛けるものではなく、唱えた「聖母マリアの祈り」や「主の祈り」の数を数えるための数珠として使うものである。そのロザリオを司祭などの聖職者によって、聖なるものにしてもらうための祈りというか儀式を「祝別」という。

「祝別」は、現在については定かではないが、過去には聖職者の権限と考えられていた。

そのロザリオの「祝別」について、その頃イエズス会と他の修道会との間に悶着があり、イエズス会内でも、地位によって祝別する数に限度を設けるべきだとかの議論があったらしい。

そこに現われたアラキが、自分は教皇から一定数のロザリオを祝別する権能を与えられたと称して、方々で祝別をして回ったらしい。そのために、「祝別」に関するイエズス会の方針を蔑(ないがしろ)にしたとしてイエズス会士たちの怒りを買ったというのである。



〈原住民教区司祭の分際で〉


ここで、前々回[その2]で、教区司祭と修道会司祭の格付けの順位について触れた際、あまりにくどくなると思って取り立てて書かなかったことを書いておく必要が出てきた。それは、トマス・アラキが、「修道会司祭」よりも格付けの低い「教区司祭」の中でも、特に格付けが低いと見られていた筈の「原住民教区司祭」だったということである。


アラキが、マカオで日本人修道士や同宿に、独自にロ-マに行き司祭となる方法や宣教師たちの日本に対する武力征服論といったヨーロッパ人宣教師たちにとって日本人には知られたくないことを語ったことは、既に日本のイエズス会士たちの間にも知られていただろう。そのアラキが、帰国してから、あろうことか、せっかく自分たちの特権としてきた霊験あらたかなロザリオの「祝別」を蹂躙したのである。それも、「原住民教区司祭」の分際で、である。アラキに対する彼らの憎悪がいっきにに膨らんだとしてもおかしくはない。


〈教会分裂〉


さて、長崎“教会分裂(シスマ)”とは、以下のような事態である。


長崎外町の小教区と村山等安


1610年頃から、ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスチノ会が長崎に常駐するようになり、長崎はイエズス会を含む四修道会の日本布教本部の所在地となった。

1614年2月、長崎に駐在していた2代目司教であるルイス・セルケイラ(イエズス会士)が死去した。その時点で、長崎には四つの小教区が設けられ、教区司祭は七人いた。そして、四つの小教区教会のうち、少なくとも三つは外町に在ったことが分っている。

その外町を統治していたのが、ドミニコ会士の長崎進出を支援しイエズス会と敵対することになる代官 村山等安である。彼の息子フランシスコ・アントニオ・村山は、小教区主任司祭の一人であり、等安は小教区教会の建築費や維持費を負担するなどもしていた。

イエズス会にとって、長崎の外町が他の修道会に侵蝕され、小教区主任司祭たちが概ね他修道会に与するようになってきたことは憂慮すべき事態であり、その趨勢の陰には村山等安の影響力が認められたことは言うまでもない。


二人の司教総代理が並び立つ異常事態


司教セルケイラの死亡の同月、七人の教区司祭は次の司教が着任するまでの司教総代理として、イエズス会管区長ヴァレンティン・カルヴァ-リョを選出した。

ところが、同年10月、フランシスコ会遣外管区長ディエゴ・チンチョがカルヴァ-リョを総代理に選出した選挙は無効であるとして、適切な善後措置をとるよう要求した。そこで、同月、教区司祭たちは、総代理カルヴァ-リョを罷免したが、罷免に同意したのは五人である。これによって、教区司祭は、スペイン系托鉢修道会に同調する五人とポルトガル系イエズス会に与する二人の二派に分かれたことになる。

教区司祭たちは、イエズス会のカルヴァ-リョに代わり、フランシスコ会のペドロ・バウティスタを司教総代理に選出したから、ここに府内(実質は長崎)司教区の司教総代理として、二人の人物が並び立つという異常事態が生じたことになる。これが、長崎“教会分裂(シスマ)”である。


禁教令で壊滅的な打撃を受けたはずのこの時期に


1614年10月と言えば、キリシタン教会に壊滅的打撃を与えたとされている前年1月の全国的禁教令を受けて、多くの宣教師や高山右近などの主だったキリスト教徒がマカオやマニラに追放される僅か1カ月前である。危機に瀕していた筈のこの時期に、キリシタン教会内部ではこのような紛争が進行していたのである。

カルヴァ-リョとチンチョは1614年11月に、バウティスタも1616年に、日本から退去し、村山等安も宿敵末次平蔵との抗争に敗れて失脚し、1619年に処刑された。“教会分裂”は、こうしてあっけなく消滅したが、その紛争が信者や聖職者に「相互の不信感」という修復困難な傷を与えたことは確かである。


アラキはどう対応したか


トマス・アラキは、1615年8月に帰国し直ちに教区司祭に加わったと推測されているから、この“教会分裂”にもろに直面せざるを得なかったはずであるが、彼がどのように対応したかは分っていない。


ただ、彼は、1611年にローマから日本へ出発する際、教皇宛てに送った書翰の中で、「日本の教会は異教徒の王侯の迫害よりも、むしろ托鉢修道会とイエズス会との間の紛争による内部分裂ににより攪乱されている」と既に記している。さらに、1615年、マカオからも総会長宛てに書翰を送り、「日本で激しい迫害が行われている中で、修道会間の紛争が信者を混乱させていること」を伝えていたのである。


アラキにとっては、この“教会分裂”は、まさに自分が海外に在って懸念し警鐘を鳴らしていた通りの事態だった。だから、危機のさなかに自己の属する集団の利害に狂奔する諸修道会士たちと、その混乱の中で主体性もなくひたすら右往左往するだけの日本人司祭である同僚たちには、改めて深い失望を感ぜざるを得なかっただろう。そして、その絶望的な状況から脱け出るにはどうすれば良いかをその時から具体的に考え始めたのではないだろうか。



〈逮捕・棄教〉


1619年8月、長崎奉行長谷川権六によって捕えられたが、直ぐに奉行所から脱走する。そして、その2日後、ロ-マ・セミナリオの服を着て出頭し、大村の牢に送られ、牢に20日いて棄教したと言われている。

その後、アラキは背教者として長崎奉行に協力しながら生きる。奉行は、彼を監視下に置きながら、次のような面で徹底的に利用する。


〈背教者として〉


1.ヨーロッパの事情や、主要な信者・宣教師に関する情報提供


(1)奉行長谷川権六はアラキに、ポルトガル人とスペイン人が日本征服を企てたら、オランダ人は彼らと連合するであろうか、と尋ねた。
それに対して、アラキは「皆一軒の家の中の犬のようなものだ。はたがこれを守ってやらないと、互いにけんかをして咬み合いをするが、見知らぬ者から身を守ったり、これを襲ったりするためには、皆力をあわせる」と答えた。


(2)長崎代官村山等安は、末次平蔵との争論に敗れ、1619年に処刑されたことを、先に述べた。等安が大坂の陣に際して豊臣秀頼を支援し、彼の息子である教区司祭フランシスコが大坂城内で活動していたことを、アラキが長谷川権六に通報した、と言われている。

ところが、アラキがその情報を奉行の権六に密告したのは、まだ逮捕される以前であったらしい。つまり、アラキは逮捕される以前から、等安を陥れるべく奉行に通じていたらしい。そして、このアラキの密告によって、奉行権六は等安と競合していた末次平蔵と手を結び、キリシタン弾圧を進め、教会勢力の一掃を図ったようだ。


(3)奉行権六は、アラキを将軍に謁見させるなどして連れ回し、周囲に寵愛ぶりを見せつけた。アラキは、幕府に対し、日本にいるパ-ドレの名簿を提出し、彼らの所在地を知らせることまでした。


2.外国人・日本人宣教師対する取り調べへの協力


(1)1620年から22年にかけての「平山常陳事件」に関するスペイン人宣教師等に対する詮議において、語学力を活かし、証人・通訳、さらには棄教を勧める役を勤めている。

「平山常陳事件」とは、
1620年、日本人船長平山常陳が、マニラからドミニコ会士ルイス・フロ-レスとアウグスチノ会士ペドロ・デ・ズニガを乗せ日本へ向かっていたところ、台湾近海でイギリスおよびオランダの船隊によって拿捕された事件である。フロ-レス、ズニガ、常陳を含む15人が処刑された。

この事件は、その後、大村、長崎の牢に収容されていた55人が処刑されるという激しい弾圧「元和大殉教」の引き金となった。


(2)1622年に再入国したフランシスコ会士ルイス・ソテロ(伊達政宗の送った慶長遣欧使節の引率者)の取り調べに関わった。

彼が聴き出したことの中には、将軍に伝われば主だった大名たちの立場を危うくするような話もあったらしい。


(3)1633年、イエズス会日本人パ-ドレパウロ・サイト-に対し、その最後の場面で相対している。
パウロ・サイト-はアラキについて、「彼とは一緒にいたくない。立ち去ってほしい。何故なら、彼は神の教会の腐った肢体だからだ。自分は今天国にいるから、このままここに居させてほしい」と言ったという。


(4)1636年、ドミニコ会管区長代理アントニオ・ゴンサレスを含む四人の司祭と二人の従者が、マニラを出港し琉球に到着して捕えられた。翌1637年、一行は琉球から薩摩に連行され、長崎に護送された。

取り調べの場に、背教者クリストヴァン・フェレイラとトマス・アラキがいた。
アラキが、司祭ミゲル・デ・オサラサに向かってラテン語で棄教を勧めたのに対し、オサラサは「あなたはラテン語を話すのだから、それが理解できるに相違ない。また、あなたは背教者に違いない。あなたはラテン語で話したが、その内容は大変に悪い」と答えたことが記録されている。


3.長崎奉行によるポルトガル船取り調べに対する協力


1620年代半ばから、幕府はポルトガル船に対し人と物の両方から、厳重な取り調べを行うようになり、長崎奉行自らがポルトガル船に乗り込んで取り調べを行うこともあり、その際にアラキを伴った。



〈西勝寺文書「きりしたんころび証文」への署名〉


この「ころび証文」は、キリシタン信者の夫婦がキリシタン弾圧に堪えかねて改宗を誓い、このことを奉行所へとどけるために書いたものであるが、書き損じたため、西勝寺に残ったものであると裏書にある。(長崎県指定有形文化財)

この証文には以下の署名がある。

南蛮ころひ伴天連  中庵(沢野忠庵 クリストヴァン・フェレイラ)
日本ころひ伴天連  了順
日本ころひ伴天連  了伯

論文「クリストヴァン・フェレイラの研究」を書いたフ-ベルト・チ-スリク氏は、了伯はトマス・アラキ、了順は教区司祭ミゲル後藤(長崎頭人総代後藤宗印の次男、1632年頃棄教)であるとしている。



〈オランダ商館との関係〉


アラキは、長谷川権六藤正(在任1614-1626)、水野守信(1626-1629)と二代の長崎奉行に目明しとして仕えたが、次の竹中采女正重義(1629-1634)の代になると、何故か理由は不明だが、奉行との間に距離を置くようになる。

そして、立場を活かしてオランダ商館に近づき、情報を提供して信頼を得、個人的にも商品を購入するなど取引関係を持ち、経済的にも裕福であったようだ。

平戸オランダ商館員ク-ンラ-ト・クラ-メルは、1630年3月12日、長崎でアラキに出逢い、その場に居合わせたポルトガル人がアラキを尊重している様子をかいま見たことや、彼から情報提供を受けたことなど、アラキとの交流を記している。



次回は、トマス・アラキの生涯について私の考えていることを書いてみようと思う。


〈つづく〉


[参考文献]



「キリシタン時代対外関係の研究」 第十三章 転び伴天連トマス・アラキ        高瀬弘一郎著 岩波書店                            
「キリシタンの世紀」-ザビエル渡日から「鎖国」までー 第十六章 長崎教会 他    高瀬弘一郎著 岩波書店
教区司祭荒木トマスに関する未刊書翰について                     五野井隆史
キリシタン司祭後藤ミゲルのラテン語の詩とその印刷者税所ミゲルをめぐって       原田 裕司著 近代文芸社
オランダ人の描いたトマス荒木 永積洋子 (岡田章雄著作集Ⅲ 日欧交渉と南蛮貿易 栞)       


























                                             




                                              

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# by GFauree | 2016-12-29 13:49 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(2)

棄教者トマス・アラキの生き方・逝き方は一貫していた [その3]

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                                        (写真撮影 三上信一氏)





キリシタン宣教師による武力行使の指示・要請・提言について



〈アラキの発言〉


ロ-マで司祭となったトマス・アラキは、1615年頃マカオに現われた。

その頃、マカオには幕府の全国的な禁教令によって日本を追放されたヨ-ロッパ人宣教師と行動を共にする形で出国したイエズス会の日本人修道士や日本人伝道師(同宿)たちが多数滞在していた。

彼らの多くは、イエズス会に入会しやがては司祭になるために哲学や神学を学びたいという願望を持ちながら、日本では会の方針によってそれが受け容れられなかった者たちである。そのため、日本を出たその機会にこそ外地で学べるのではとの期待を抱いていたのだろう。実は、その期待故に彼らは出国したのかも知れない。ところが、いざマカオに着いてみると、日本国内と同様に入会も勉学も許されないことが明らかになり、憤慨した彼らとヨ-ロッパ人宣教師との間が険悪なものとなっていた。

処遇を巡っての日本人修道士の強い不満は、1609年、ポルトガル船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号が長崎湾内で有馬軍の攻撃を受け自爆した際に、彼らがあからさまに歓喜したことや、その前年の日本人修道士不干斎ファビアンの離脱・棄教で既に露呈していた。

そんな中に現われたアラキは、自分と同様にイエズス会を離れ独自のル-トでロ-マへ行き教区司祭となることを勧めただけでなく、托鉢修道会士たちが日本征服を企てスペイン国王に働きかけたことを、マドリ-ドで聞いたと彼らに語った



〈イスパニアによる征服の進め方〉


1596年10月
、フィリピン・ルソン島からメキシコへ向かっていたイスパニアのガレオン船サン・フェリペ号が土佐の浦戸沖に漂着した。

「(その船の)水先案内フランシスコ・ダ・サンダが、浦戸に滞在中であった増田長盛に世界地図を見せて、イスパニア領の広大なことを自慢した。そして、どうしてそんなに領土を拡大したかと尋ねられると、わが国ではまず宣教師を派遣してその国の人にキリスト教を伝えておき、信者が相応の数になったとき軍隊をさしむけ、信者の内応をえて、たやすく目ざす国土を征服すると答えた
これが、長盛から秀吉に報ぜられたと、イエズス会の宣教師ルイス・デ・セルケラが伝えている。」
(岩生成一著「日本の歴史」14鎖国 中央公論社)

長盛からの報告を受けた秀吉は、このイスパニアの征服の進め方を聞いて、キリシタンの伝道はもはや見過ごすことはできないと判断した、とされている。



〈江戸幕府が抱いたとされる疑惑と現代の常識〉



将軍をはじめとする日本の為政者は、キリシタン布教は国土征服を目的としたものだという疑惑を抱いており、このような疑惑にもとづく危惧の念がキリシタン迫害の原因である、と記述している宣教師は少なくなかった。(高瀬弘一郎「キリシタン宣教師の軍事計画」)

また、現在インタ-ネット情報を検索してみると、キリシタン宣教師はポルトガル・スペインの侵略の尖兵や道具であったとか、イエズス会は世界支配を狙う秘密結社的組織であったかのように書かれているものが目に付く。さらに、フランシスコ・ザビエルは日本占領を目的として渡来したかのように書かれているものまである。世間の常識というものは、意外な事に、現代も江戸時代もあまり変わらないもののようである。

それでは、実際に、キリシタン宣教師によって唱えられた武力行使論はどのようなものだったのか。
いつものことながら、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」と「キリシタン時代の研究」(第三章 キリシタン宣教師の軍事計画)を参照しながら見ていくことにしたい。



〈キリシタン宣教師の武力行使論〉



ただし、日本に対する武力行使論は中国征服論と関連づけて論ぜられたものが多い(イベリア両国とカトリック教会にとって、中国はそれだけ魅力ある標的だったということを意味しているのだろう)ということだが、話が広がり過ぎるので、ここでは「キリシタンの世紀」に従って、日本を対象とするものに限定することにする。



1.イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノ


(1)1580年
、『日本の布教長のための規則』の中で、長崎・茂木についてポルトガル人を中心とした武装・要塞化を指示した。

これについては、大村純忠・喜前父子から寄進された長崎・茂木を“迫害時の避難所”にしようとしたとして、防衛的意味が強調されることが少なくない。しかし、日本国内の一地域が、外国勢力の指示によって武装・要塞化されれば、どのような結果が生じ得るかを考えれば、そのような主張の無意味さが理解されるだろう。


(2)
この規則を作成した頃に、有馬晴信に対する軍事的てこ入れを行っている。
この時期、大村氏も有馬氏も、反キリシタン勢力である竜造寺氏と争い窮地に陥っていた。
(イエズス会日本布教長であったフランシスコ・カブラルも、大村純忠に対し、複数回にわたり金銭的援助を行っている。)




2.イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョ


(1)1585年
、フィリピン、イエズス会布教長アントニオ・セデ-ニョに宛て書翰を送り、キリシタン大名を支援するための武装艦隊及び弾薬・大砲・食糧・資金を送るよう、フィリピン総督へ取り次ぐことを要請した。

この要請は、フリピン側に日本に向けて割くだけの軍事力の余裕がないという理由で拒否された。


(2)1587年
、秀吉のキリシタン禁令(伴天連追放令)発布に対し、コエリョを中心に、内外呼応して武力により抵抗することが計画された。当時、既に前述のバリニャ-ノの指示により、教会領長崎は要塞化され、火器等により武装化されており、軍艦も建造・配備されていた。

ところが、国内のキリシタン大名と結託して行動を起こすことを企画したにもかかわらず、有馬晴信・小西行長等がこれに応じなかった。


(3)
そこで、コエリョは援軍派遣を求め、フィリピンの各方面に書簡を送った。

さらに、イエズス会司祭ベルチョ-ル・デ・モ-ラをマカオに送り、ヴァリニャ-ノに会って軍隊・食糧・弾薬を持って日本へ渡るよう説得させることとした。また、もしヴァリニャ-ノに会えなければ、フィリピンからヨ-ロッパに赴き、スペイン国王やイエズス会総会長と会い理解と協力を求めることとした。

ヴァリニャ-ノは、マカオで事の次第を知り、1590年7月来日し、長崎に貯えられていた武器・弾薬を秘かに処分した。そして、コエリョは死亡したとだけされているが、自然死ではなかった可能性も示唆されている。(安野眞幸著 教会領長崎 イエズス会と日本 講談社メチエ)

このイエズス会の方向転換は、教会に対し厳しい姿勢を取る強力な統一政権が成立したという日本の国内政治情勢の変化に対応してなされたものとして、さらに、「現地適応」というイエズス会の布教政策の機動性・柔軟性を物語るものとして考えられている。



3.イエズス会司祭ペドロ・デ・ラ・クルス


・1599年
イエズス会総会長宛てに送られた書翰において、日本はスペイン国王によって武力征服されるべきであると強く主張した。

また、武力征服を完成するまでの当面の施策として、スペイン、ポルトガルが、日本で別々にどこかの港を基地として手に入れ、武力をもってその都市を確保すべきことを主張している。

ペドロ・デ・ラ・クルスは、1601年に盛式四誓願司祭となり、順調にイエズス会幹部パ-ドレとなっている。



4.フランシスコ会司祭マルティン・デ・ラ・アセンシオン



・アセンシオンは長崎で殉教した26聖人の一人であるが、彼も次のように武力行使を論じている。

・スペイン国王は、日本に対して支配権を有する以上は、日本教会の保護者としての義務を果たさなければならない。
同国王は、その任務遂行のため、日本において、貿易船の入港と交易に適したいくつかの港を取得して要塞化し、艦隊を配備する必要がある。そして、日本において暴君たちの支配下にある多くの国々を武力によって奪い、最後には日本全土を我がものにする(べきである)。



5.アウグスチノ会士マテウス・デ・メンド-サ


・スペイン国王による日本侵攻は容易であることを論じている。



6.フランシスコ会士ディエゴ・デ・サンタ・カタリ-ナ


・1615年、スペイン国王の命を受けたメキシコ副王によって日本へ派遣され、将軍に対して日本国内に要塞を作るための土地を求め、日本側の疑惑を掻き立てた。



7.その他


・1611年
フランシスコ会士アロンソ・ムニョスは、徳川家康の使者としてマドリ-ドに着いたが、その際、スペイン政府内で日本を武力征服する件が話題となった。

・1614年11月フランシスコ会士ルイス・ソテロは、伊達政宗の遣欧使節を引率してマドリ-ドに到着したが、その時も政府内で日本の武力征服の件が採り上げられたという。



〈私の考えるところ〉


1.
キリスト教布教の目的が日本の国土征服にあったという話や、宣教師が日本に対する武力行使までを考えたり提案していたという話は、よく出て来る古くて新しい話題である。

従って、実際になされた宣教師の武力行使の要請や提言はかなりの数に昇ったと考えられるから、今回列挙したものはその一部に過ぎないだろうと思う。それでも、件数は当初私が想像していたものより多いし、イエズス会以外の修道会士による提言の多さも意外である。


2.
その理由として、一般には次のような事項が挙げられる。

・大航海時代のカトリック布教は、イベリア両国の王室が布教事業に対して経済援助をする代わりに、教会聖職者の人事等に介入しうる(patronato real-王室の聖職者推挙権)、という布教保護権制度の下に進められたものであるから、両国王室による武力征服事業と並行して進められていく性格のものであったこと。

・当時は、ロ-マ教皇の権威のもとに太平洋上にデマルカシオン(教皇子午線)を引き、世界中の異教の国々を両国の間で二分割することができるという観念があったこと。



布教保護権制度では、王室は聖職推挙権を得る代わりに、教会に対し経済的なものを含め全面的な援助をする義務を負うこととなっている。そのため、一見、王室と教会の間の相互的な権利・義務関係であるかのような印象を与える制度である。しかし、実際はこれによって教会は金と人事権をパトロンである王室に握られてしまったと考えるべきではないか、と私は思う。

金と人事を握るパトロンに逆らってでも、思うが儘に行動できる人間は極めて稀であることは、我々自身の経験が教えてくれる。そのうち、上昇志向の強い者は、それまでの倫理規範を踏み外してでも、競ってパトロンの気に入るような行動に走ったり計画や提言をひねり出して見せたりするようになる。

パトロンの気に入るような行動に走ったり計画や提言をひねり出したりする者は、自身の属する組織(修道会)内でも積極性や企画力があるとして高く評価されたに違いない。なぜなら、彼らを評価する立場にある修道会の上長自身も、パトロンである王室から高く評価されることを望んでいた筈だからである。


それを考えると、布教を成功させるためには武力に頼らなければならないというような考え方に反対する宣教師は、いたとしても少数であったと考える方が自然である。

イエズス会準管区長コエリョが秀吉のキリシタン禁令発布に、武力で抵抗するべく、モ-ラをマカオに送ったことを上に述べたが、それはコエリョの独断によるものではなかった。1589年2月、高来(現在の長崎県諫早市の一部)においてコエリョを含む7人の司祭たちによって協議会を開き決定されたことなのである。その際、コエリョの独断どころか、オルガンティノを除く残りの6人全員が、軍隊派遣を要請するために使者を派遣することに合意したという。


3.
トマス・アラキが、マカオで落胆し憤慨していた日本人修道士や同宿たちに語った、托鉢修道会士による日本征服の企てというのは、上記のうちのどれに当たるのだろうか。


日本を武力征服する件は、1611年にも1614年にもスペイン政府内で話題になっていたというから、いつ誰の提言によるものであったか特定できないほど、ある程度の期間にわたって多くの提言がなされていたのかも知れない。

それは、ちょうど幕府が大坂の陣という豊臣方との決戦を控え、国内政情の安定化を狙いとして全国的な禁教令発布を準備していた時期であろうことが興味深い。




次回は、日本に帰国してからのトマス・アラキの行動を追うこととしたい。



〈つづく〉







































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# by GFauree | 2016-12-21 09:06 | 棄教者トマス・アラキ | Comments(2)