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啓蒙主義時代の騒乱

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前回までの『A VANISHED ARDCADIA』(消えて行った或る理想郷―イエズス会教化村)に関する記事は、2月から14回書いたことになる。とにかく、最後までたどり着いてほっとすると、次は何を読もうか考え始めた。

結構、ある程度の期間をかけて、毎日少しずつ読んだり書いたり、若い時には出来なかったことが出来るのが嬉しい。若い頃は仕事が忙しくて、出来なかったというのではない。そういう精神状態ではなかったのだ、と思っている。

またそれには、時間をかけて読むのに相応しいそれなりの内容がある本が必要である。それに、次はどうしようかと考えている時が、一番楽しいのかも知れない。

そんな時、「こんな本があるよ」と若い友人がこの本を紹介してくれた。歴史や音楽や宗教について、色々話を、それも日本語でしてくれる有難くも貴重な存在だ。日本語で意思疎通が出来て、そういう文化的なことに造詣が深い人は当地では珍しい。日本人の研究者で彼女のお世話になった人は少なくないはずだと思う。

時々、その前を通る本屋に入って訊くと、すぐ目の前の棚から取り出して渡してくれた。評判になっている本らしい。裏表紙に、次のように梗概(あらすじ)が書いてある。


梗概
18世紀の出来事で、フランス革命を例外とすれば、イエズス会の終焉ほど、ヨーロッパ、南北アメリカ人を動揺させたことは、他には決して無かった。1534年の創設以来、その修道会は、政治情勢に、プロテスタンティズムに対抗するロ-マ・カトリック教会の防衛に、文化に、エリ-ト教育に、そして新世界及びアジアの宣教に影響を与えてきた。

1773年7月21日、教皇クレメンス14世がイエズス会を教会法に則って消滅させた「神への贖罪を求めて」と題する「小勅書」を公布するに至った過程と、スペイン、フランス、ポルトガル、ナポリ、プロシアの王権とオ-ストリアとロシアの皇后たちが巻き込まれたその後の結果と、を本書は分析している。

その過程と結果は、ローマ・カトリック教会とヨーロッパ諸国との間の関係にけりが付けられたことの背景となった複雑な国際的環境である。イエズス会士を追放することのみならず、イエズス会主義そのものを断ち切ることは、カトリック諸強国だけでなく、司教達と多くの修道会が懸命になって没頭した苦役であった。

しかし、イエズス会はプロシアやロシアで生き続けることができた。というのは、それらの国の君主はカトリック教徒ではなく、教皇の「追放の小勅書」を承諾しなかったのだ。

創設者イグナチオの修道会(イエズス会)の消滅を、「旧体制の危機」に結びつける陰謀論に信憑性を与えるフランス革命の勃発で、イエズス会の存続(復活)は、より確かなものとなった。ナポレオンの敗北の後、イエズス会は1814年、王権と政界の随意となるイデオロギ-的武器として、教皇ピオ7世によって再興された。


本文の前に、ことわざが書いてある。
La muerte para los jóvenes es naufragio y para los viejos es llegar a puerto.

「死は、若者にとっては遭難だが、年寄りにとっては港への到着だ。」という意味だろうか。若い時に死ねばそれは災難だが、年を取れば死はやっと取れた休息ということになる。あと4カ月で75歳になる私には、よく分かる。この本の著者も75歳だ。


500ページ余の、私にとっては大冊である。全部読むには何年かかるか分からないが、計画しつつある旅行などもしながら少しずつ読んで行こうと思う。


以上

# by GFauree | 2023-01-01 01:12 | イエズス会追放 | Comments(0)  

消えていった或る理想郷 そのXIV 第11章          約200年間の血と汗の結晶が、たった2年の間に廃墟と化した


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『A VANISHED ARCADIA』(消えて行った或る理想郷)
Robert Bontine Cunninghame Graham
(ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)著

今回は、その第11章、最終章である。

前回の記事に書いたように、パラグアイのイエズス会追放は、ブエノス・アイレス総督ブカレリによって1767年7月22日に実行されたが、その後イエズス会教化村はどうなったのか、第11章には主にそれが書かれてある。

その中で、特に目を引いたのは、国家が進めた実質的奴隷制度に反対したイエズス会を敵視したスペイン人移民者は、「故郷での奴隷制から逃れて海を越えた新たな楽園で、新たな奴隷制が彼らを待っているのを見つけることとなった。」という記述である。

旧大陸で奴隷制の被害者であった人々が、新大陸に渡り今度は新たな奴隷制を利用しようとした、という見方である。そうであれば、スペイン人移民者の奴隷制への執着は尚更強く、イエズス会への敵視もそれだけ強まったことも推察出来るのである。

FINIS NON CORONAT OPUS
これが、「結びの言葉」として書かれてある。

直訳すると、「結末が作品を花冠で飾ることはない」(結末が花冠で飾られるとは限らない)となる。しかし、「人の人生は最後まで生きてみなければ、幸・不幸は分からない」という意味だと、どこかで読んだ覚えがある。後の解釈は一見随分飛躍しているように見えるが、確かにそう取れないこともないし、「人生諦めてはいけないよ」と言ってくれているようにも感ずる。

実は、それはこの2~3年私が特に強く感じていることだ。しかし、本文には、「格言とは偽りであり、もともと愚かなものだ」と書いてあるのだから、その意味をむきになって考えることもないのかも知れない。



それでは、以下第11章の内容をご紹介しよう。


歴史を冷静に描くには、時間が必要というのは本当か
「どんな種類の歴史も、それが取り扱う出来事から充分に離れて、熱情が蒸発してしまう時期になって、初めて冷静に描くことが出来る」と言うことが、ある種の人々の間に流行している。

格言は最初は愚かなもの
これは、人々が鵜呑みにする他の殆ど全ての格言と同様に偽りであり、人々はそれを鵜呑みにするとき、次の事を忘れているのである。それは、格言の段階に達したということは、大部分の人に好印象を持たれたのだから、最初は愚かなものであったに違いないということである。

それに、起こった時代に大論争を起こす出来事に関しては、熱情の興奮は決して蒸発して消えてしまうものではない。冷静な頭脳は、人々が、彼らの友人たちに無意識に病原菌を伝搬するのと同じやり方で、同時代の書き物から偏見を取り出しているのである。

公文書の類の書かれ方
宮廷の財産目録や名簿からだけで、公文書やその類は事態を偏見なく表わすことが可能であるが、その時でさえ、人類の主要なペテン師である人物たちは、それら文書を作成する人の偏見によって、味方または反対者として、うまくでっち上げられるのである。

敵によって作られた公文書が真実を証明した例
敵によってそれらが作成される場合でも、彼らはしばしば、全く意識せずに、真実を証明することがある。

〈イエズス会士の個人資産のリスト〉
1768年10月30日の日付の書簡の中で、ブカレリはアランダ伯爵に、彼によってパラグアイで捕らえられスペインに送られたイエズス会士の多くの個人資産のリストを送っている。

リスト自体の内容は、パラグアイにおけるイエズス会を明白に擁護していて、総督自身は(国王カルロス3世でさえ)、彼らの教化村生活の間に膨大な資産の蓄積を共有していたということで捕らえられた司祭達に罪を負わせることは、出来なかった。それ程、所有物の内容は貧しいものだったのだ。

パラグアイのイエズス会士たちは、彼らの個人資産の持ち出しを許可され、彼らはそれをしたようだ。リストの最初は、ペドロ・サバレタ神父であり、彼は10枚のシャツ、2個の箱枕、2枚のシ-ツ、3枚のハンカチ、2足の靴、2足の靴下、そして1ポンド半の嗅ぎタバコを持ち出した。他の者たちは、一般にシャツを充分には支給されていなかった。

カジェタノ・イバルゲンは2枚だけ、ロレンソ・バルダ神父は3枚、など。(ブラボ-『文書集』p.388)
僅か数人だけがマントを持っていて、一名(シギスムンド・グリエラ神父)は、寝室用帽子を持っていたが、全ての者が嗅ぎタバコを持っていた。それが、彼らの贅沢な教化村生活の唯一の遺物である。

マヌエル・ヴェルガラ管区長は、リストと共に送られた書面の中で、衣服の大部分及び全ての嗅ぎタバコは、共有の在庫品から取り出されていたと証言している。

護送中のイエズス会士の扱い
2隻のフリゲ-ト艦サン・フェルナンド号とサン・ニコラス号での航海の間、彼らがどんな類の扱いに耐えていたかは全く知られていない。しかし、彼らの手荷物が運送途上にあったということがあり得ないことは確かである。そして、彼らの嗅ぎタバコについては、彼らは疑いもなく、長い2カ月の間、注意して大切に扱っていた。

イエズス会士の追放直後、教化村はどうなったか
彼らが長い年月、自分の楽しみも贅沢も考えることなく先住民に尽くし、教化村内では先住民に充分に考慮した愛情を注いでいたからこそ、僅か6カ月の間に全ては混乱に陥ってしまったのだ。


記録を残した二人の同時代人について
ディ-ン・フュネスとドン・フェリス・デ・アサラは、パラグアイから外側の公的世界へのイエズス会士の追放を扱ったわずか二人の同時代の筆者である。

コルドバ大学教師であったディ-ン・フュネスは、古風な男で親切で思いやりがあり、充分な教養があった。そして、トゥクマンで先住民の民衆の中で育てられ、先住民を好意的に同胞とみなし、彼らは数世紀にわたり文明とその影響に晒されてきたヨーロッパ人種とは非常に重要な点で違う人々であると考えていた。

彼の先住民についての描写は、正確性と観察力という点で、なかなか超えられるものではない。


ディ-ン・フュネスが描いた先住民像
彼の言うところでは、「それら先住民は、薄い色の有色で、がっしりとして均整がとれている。

彼らの才能や能力は、大いなる進歩を可能にする。彼らは彼ら自身の創意に欠けるが、模倣に優れている。怠惰は、気性の影響よりは習慣の影響であるようだが、彼らにとって生来のものである。

知識獲得に向ける彼らの傾向は、確固としたものであり、『目新しさ』は彼らの心情に充分な効果を与える。支配に野心的であり、獲得するであろう地位においては、名誉を以て振る舞う。能弁さは彼らの間では、第一に尊ばれ、如何なる点においても、貪欲さによって理性の品位を落とすことはしない。

無礼な言葉は、処罰されるよりも、彼の心を傷付ける。彼らは、前者(無礼な言葉)の侮辱を受けるよりは、処罰を求めるのである。

女性の淫乱さは、傍観するが、しかし冷淡にである。そして、彼女らの不貞行為に対しては、夫たちさえ殆ど拘泥しない。夫婦愛は、彼らが妻たちに与える処遇に、ほんの僅かしか、影響しない。家族の中の父親は、彼らの子供の世話を焼くが、ほんの少しだけのことである。

非常に重大な問題のさなかで、これら先住民全ての精神的平静さは、世界中に匹敵するものがない。彼らはため息一つつくことなく、苦しみの苦さから抜け出て行くのだ。」

他に先住民を知っている者は誰もいなかったが、ディ-ン・フュネスは自分自身の性格より深く彼らの性格を研究していたことを認めねばならない。


スペインの軍人ドン・フェリス・デ・アサラについて
一方、アサラは科学的な男であった。パラグアイの鳥類や四足獣についての彼の本は、未だに他を圧倒し、科学的事実に関する興味深く綿密な観察や正確さで高い評価を受けている。

彼は、極めて有能な著述家であり、スペイン海軍の大佐であり教養も深かった。20年間、彼は、彼自身の名声のためにも、そして奉仕する国の利益のためにも、パラグアイで、またラプラタ地方で勤務した。

百科全書派で、リベラリズムの最も厳格な独善主義者たちの中で教育を受けたために、イエズス会という名そのものが嫌忌の的であった、彼の部類の流儀に従って、ヨーロッパの宮廷で策略を企むイエズス会士と、純朴で懸命に働くパラグアイの宣教師との区別が付けられなかったようだ。

全てが、嫌忌の的であった、そして、それ故、彼らイエズス会の組織の全てが彼に嫌悪感を引き起こした。また、彼の全ての仕事の中に、彼の思いやりは豊かに発揮されているが、彼は、彼が理想とする自由でリベラルな市民と、パラグアイの森の素朴な先住民との違いがあると考えることを、決してやめなかった。(常に、自由でリベラルな市民と先住民は違う種類の人たちである、と考え続けた。)

彼が理想とする自由でリベラルな市民は、空気ポンプ容器の中で、自然の機能を自由に働かせているヤマネの流儀にならって(?)、自由な民主国家の中で、全ての彼の権利に投票し、それを行使しているのだ。

アサラは、教化村の先住民が、周囲のスペイン人入植者たちの「聡明さ」(鋭敏さ、狡猾さ?)との自由競争の下で、彼ら自身を保持することが出来るかどうかを問うことを決して止めなかった。(常に疑っていた。)ブカレリでさえ、先住民が自らを保持することが出来ると考えていたのに。

それ故、アサラは、リベラル派が、イエズス会の制度に反対して常に引き合いに出す権威である。

ディ-ン・フュネスが言っているように、先住民の間では所有の執着が非常に弱く、彼らの心は貪欲の欠陥によって品位が落ちることは無かったということをアサラはすっかり忘れている。また、アサラは誠実な男であり、彼が若い時に吸収した教育や思想が、彼にそうであることを許す限りにおいて偏見なく公平であった。

南北両アメリカにおいて、先住民に向かってスペイン人たちが実行した欠陥の多い制度を責めるべく、頑強に立ち上がった者は、イエズス会以外には殆どいなかったのだが、そのイエズス会に対し彼は全面的に偏見を持ち不公平であった。

彼の政治的な傾向のせいで、イエズス会が追放されてしまった後に教化村群が陥った状況について、アサラは非常に寡黙である。ひとたび、彼らの欠陥の多い(統治)制度が取り除かれると、先住民はすぐに彼が文明化されたと判断するものになり、彼らの周りの他の種族や血統の近い者と共に彼ら自身を保持するようになるだろう、と彼が考えたことは間違いない。

ただし、フュネスは、イエズス会の羊であった先住民を見張るために総督ブカレリが残した、新たな羊飼いである他の修道会司祭や教区司祭の強欲さや無能力さを精一杯暴露した。「グアラニ族についての無知と知識を獲得するための忍耐の無さのために、教化村をバベルの塔の中のような混乱が支配した。」そして、彼は続ける。「イエズス会士の父親のような言い方が、指図のような命令的な口調に変わった。そして、聴く能力のない聾者が殴られて教育されるように、彼ら先住民は殴られてされる教育に耐えねばならなかった。」

つまり、彼は言う、「憎しみと軽蔑の壁が、先住民と彼らの主人との間に生じ始めた。そして、司祭たちは、自分たちの役目のお陰で平和な聖職者となれるところを、命令するための影響力なしでは………。また、彼らは、その聖職においても、全く非難の余地がないという訳でもなく………。起こった不和や論争に、彼ら自身も加わった。


イエズス会追放後の教化村の状況
ブカレリは何が進行しているか知るや否や、彼自身が任命した全ての司祭たちを他の者に代えるべしと通知した。これは、然るべく実行されたが、その時にはもう遅過ぎた。教化村の事態は悪化し、膨大な数の畜牛のうち僅かしか残らなかった。

それ故、200年以上にわたり存続したユートピア生活は、僅か2年の短い期間のうちに消失することになる。広大な牧場には、イエズス会士の追放時には、100万頭以上の畜牛が放牧されていたのだが、そこはただの原野となってしまい、残った畜牛は野生となるか放置されて死んでいった。野獣が、半分砂漠化した街の周辺をうろつき回った。

濃密で低いヤタイヤシとパルメットの雑木林が放牧地全体に侵入し、かつての耕作地には繁茂した雑草が突如現われ、作物を枯らした。

その耕作地のおかげで、かつてイエズス会時代には、教化村の領地はスペイン王権の全アメリカ領土の中で最も生産性が高かったのだ。教会は使われておらず、夕方の空気の中で、もはや聖歌は響いて来ないし、十字架を先頭にし司祭たちに先導された長いローブで覆われた行列も通らない。

教化村の周りの果物の木々は、焚き木にするために切り倒されるか、枯れてしまっている。そして、イレックス・パラグアイエンシスの農園は、そこでジェルバ(マテ茶の葉)を作った所であり、そのジェルバの葉は大変な苦労をして奥地の森林から持って来られたものだが、その農園は衰退してしまい、今では全く耕作されていない。住んでいた先住民は、28年の間に殆ど消えてしまった。

振り返れば、多大な努力によって森林から集められたグアラニ族が、その後彼ら司祭のうちで最も高貴で自己犠牲的であったルイス・モントヤによってパラナ川下りを導かれ、ブラジルの獰猛な奴隷狩り集団マメルコスから血の代償を払って逃れたが、文明化を迫る白人たちとの不慣れな接触の「危険な気配」の前にひるむこととなった。

単純で儀式的な、もしかして面白くないかもしれない教化村生活は、生活を活性化する「競争」との初めての接触でしおれてしまった。というのは、その「競争」というのは、世界全体を灰色に変えてしまい、全ての事物と全ての人を最も低俗で俗悪な要素に変えてしまうものなのである。

自己創造の女神である「進歩」は、「事業」というものによって正当化され、全ての土地は不毛なままに残されて、工場群が空を汚染してしまう時を待ち、ヨーロッパから移住した者たちを悲惨な境遇に陥らせたのだ。彼らは、故郷での奴隷制から逃れて海を越えた新たな楽園で、新たな奴隷制が彼らを待っているのを見つけることとなった。

世界は広大な教室のように見える。そして、その「創造主」は政治・経済学の教授に過ぎなくて、彼の理論を有効に実行することが出来ないことは明らかなのだ。それ故、我々西欧人に向かって振り返って助けを求め、彼が自分の「未熟な手」を試した全ての人々を根絶する「事業」を我々に譲り渡したのだ。

「創造主」は我々に、故国で繁殖せよとの命令を下し、また、世界のより幸福であった部分(新世界)では、我々がその内部に広がった土地の持ち主の人々(先住民)に、ふさわしくない人生(奴隷制に従わない生活)を理由に死をもたらせとの命令を下した。

最小の動物の絶滅は、ギリシア時代の全作品が消滅したかどうかより、はるかに大きな損失だ、ということが高らかに言われては来た。だとすれば、先住民のような種類の人間を絶滅させることは、如何により大きな損失だろうか。それを、反共産主義的イエズス会統治が、我々の冷たい北の生活、そしてその目一杯の何とも恐ろしい結果である「致死の気配」から首尾よく保護したのだ。

熱帯からもたらされる木は、厳しい冬の中で、灰とオークとの神聖な競争の中で、生きるチャンスを得るために、故郷に移植すべきだと考える人たちが間違いなくいる。そして、もしそれが死ねば、まだマツが充分に、ハナミズキの貯えが、ニワトヨの低木の茂みが、そしてネズの荒れ地があるのだ。

彼らは、正しいだろう、しかし、結局、熱帯の太陽が感ずることは、熱帯地方のためということであり、そして結局、北の肩透かしを喰らわすような太陽の下で育つことになるのだが、その光は、しかし暖めてはくれず、寒さから身を守るガラスや小屋がなければならないのだ。

しかし、我がヨーロッパの霧と凍えるような環境を、慎重に移植することを、そしてそのために、生きるために太陽だけを切望する植物を枯らし殺してしまうことを計画することについては、それは人間性に反する罪であり、この嫌悪を伴う後世まで残る罪によって、何時の日か、そのことで我々は責め嘲笑われるが、それは、今日、我々が偽善性ゆえに、ピサロとコルテスの記憶に対し、悪態をつくのと同様のことなのだ。

市電や電灯を意味する「進歩」の方が、心のつまらない幸せがある静かな生活より望ましい、と考える人とは永遠に闘わねばならず休戦の暇はほとんどない。だから、私の読者は、パラグアイにおけるイエズス会統治について判定するにあたって、フュネスかアサラのどちらの見方をするかを選択しなければならない。

「旧」と「新」の間に中間はない。休む場所はないのだ。時間の車輪を止めるクサビの中に、想像が飛ぶように動くことが出来るすき間はない。それ故、疑いもなく、イエズス会共和国は消える運命にあったのだ。

私に関する限り、夕方のお告げの祈りが、侵食している森の反響を呼び起こす時、まだうろついていた先住民たちが片言の祈りをつぶやいているのを見たことが嬉しい。その時、甲高い声で鳴くオウムやコンゴウインコの群れが、広場で細い頭を上げたナツメヤシの周りで、じっと空中に浮いている。それが、過ぎ去ったイエズス会統治の物言わぬ記念物なのであった。

先住民とイエズス会士たちは、パラグアイから去った。

先住民は、彼らの約束された土地であるトラパンダへ。
そして、イエズス会士については、彼らは一般に忘れられている。彼らを忘れていないのは、古い年代記録にに没頭する人々や、何かを提示するが何も結論づけずに本を書く人々や、旅行者たちだけである。

旅行者たちは、タルメンシアンの森を歩き回り、オレンジの木立ちに出会い、ウルンディの木の間を走り回る。


〈完〉


江戸時代初期、それまで日本のキリシタン宣教を独占的に主導してきたイエズス会が徳川幕府の禁教政策によって排除されようとした時期に、南米パラグアイで設立された「イエズス会国家」とも呼ばれる教化村活動について書かれたこの本を約1年かけて読みながら、理解したところを記してきた。もし、ご感想を聞かせて頂ければ幸いである。













# by GFauree | 2022-12-28 04:01 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

消えていった或る理想郷 そのXIII 第10章          どうしても分からない人たち

消えていった或る理想郷 そのXIII 第10章          どうしても分からない人たち_a0326062_10372336.jpg

『A VANISHED ARCADIA』(消えて行った或る理想郷)
Robert Bontine Cunninghame Graham (ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)著

今回は、その第10章である。

第10章では、主にパラグアイからの、つまりは教化村群からのイエズス会士追放の任を担ったブエノス・アイレスのスペイン総督ブカレリの行動を通して、イエズス会教化村の消滅が考察されている。

ブカレリは、教化村の先住民による武力的抵抗を恐れて大袈裟な軍事行動を準備したが、イエズス会士は全く抵抗せず捕縛され連行されて、ヨーロッパへ送られて行くという馬鹿々々しい結果となった。さらに、小心な官僚らしく事後の責任追及を恐れ自己の保身のため種々小細工を弄したが、彼が後継者に指示した統治方法は実はイエズス会のものと生き写しであったこと、が指摘されている。

その中で、ブカレリが「イエズス会が金鉱を保有している」との疑惑から脱け出せなかったのは、彼が「金持ちになること以外の目的で、パラグアイの森の奥で死んでいこうと考えられる人」の考えを理解できない人々の一人だったから、という一節がある。

私はそれを読んで、殆ど関係のないことかも知れないが、今年の7月から話題になっている宗教団体に関係した国会議員たちについて、私が感じたことを思い出した。ただし、私はその宗教が正しいなどとは全く思っていない。しかし、銃撃された元首相も含めてそこに群がった議員たちは、その宗教に救いを求めた人々やその家族の気持ちなど考えたことがないか、考えても殆ど理解できなかったのだろう、ということだ。それと、政治が精神的に目指すものを、その宗教から借りてしまおうという軽率さにも唖然とした。加えて、その宗教団体との関係による汚染浄化に率先して当たるべき現首相も、どうも何もわかっていないのではないかということ。だから、彼はひたすらその宗教団体を怖がり、その宗教団体の窮地は自分の所為ではないということにしたがっているようだ。こんなことでは、何時まで経っても問題が解決するはずがない。


閑話休題、以下に第10章の内容をご紹介しよう。


第10章の内容

・1761年のイエズス会を取り巻く情勢
・スペインから送られた彼らの追放のための布告
・彼らは抵抗することなく服従する
・南米大陸での活動開始から200年後に、彼らはパラグアイから追放された
・新たな統治下の国
・統治体制は実際には変わらなかった


イエズス会を取り巻く情勢
聖イグナチオは言った。「完全な快晴ほど危険な嵐はない。敵が全くいないというほど危険な敵はいないのだ。」(完全な快晴にも必ず嵐の兆候が隠れている。敵がいないということは、全ての敵がその場に見えないというだけのことでかえって危険なのだ。)明らかに見える敵がいないという快晴のこの危険な状態が、1761年のパラグアイにおけるイエズス会を取り巻く情勢であった。

彼らは、スペインでの成功する見込みの薄い謀りごとや策略によって彼らの30カ村が台なしにされることがないように努めていたが、彼らの先住民に対する影響力は何よりも完全なものとなっていた。ブエノス・アイレスやパラグアイの総督や知事は、イエズス会と一勝負を試みたが、闘いの栄誉はイエズス会のものとなった。

イエズス会は「インディオ法」の条項を施行させることに成功し、それによってスペイン人は先住民居住地から排除された。イエズス会を抑えるべく派遣されたものでさえ、パラグアイでイエズス会が役に立っていることを証言せざるを得なかった。


パラグアイに派遣されたブエノス・アイレス総督すらイエズス会の存在は有用だと報告している
ブエノス・アイレス総督ドン・ペドロ・セバ-ジョスは、1755年、パラグアイに居た。彼はニコラス王(伝説の先住民軍の王)の軍団と戦うためということで、そこへ送られたのだった。彼が言うところでは、王も軍団もおらず、中途半端に武装した先住民が居るだけだ、ということである。彼は、スペイン国王に宛て、イエズス会はパラグアイでは有用である、と述べている。


しかし、教区聖職者との敵対関係と、奴隷制に反対したゆえの不人気は続いていた
しかし、スペイン本国とそのアメリカ及び東方における巨大な帝国全体を通して、イエズス会士と教区聖職者との間の永続的な敵対関係は、数年にわたり続いていた。また、アメリカ大陸の全ての地域で、イエズス会は不人気であり、その理由は彼らが不相応に富と力を有していることだとされていたが、真の理由は彼らが奴隷制に反対していることであった。


パラグアイでイエズス会が富裕であったか否かについて
第7章の数字は、少なくとも、彼らは必ずしも億万長者ではなかったことを示すのに役立っている。
(第7章に「金銭・物品の配分」と「教化村は儲かっていたか」とについて書かれた部分がある。)

メキシコでは、聖人のように気高いプエブラ司教パラフォクス(パラフォクスは徹底的にイエズス会を非難したことで知られており、この「気高い」との表現は皮肉である)が、イエズス会の富裕さに関するあらゆる類の物語を作ろうとした。ある時、イエズス会と彼らの富の問題を調べるためにヘロニモ・テレニチという聖職者が送られ、1年間の滞在の後に明確に述べたことは、「彼らは非常に貧困である。そして、負債を負っている。」ということであった。―カルロス3世治世の歴史に関するエスペランサ紙の記事集(p.435.マドリード、1859年)

遠い雷鳴が何度も轟いた後に、ついに暴風雨が起きスペイン及びその外国領土からのイエズス会追放の布告が下され、1767年6月、ブエノス・アイレス総督ブカレリに対し、その布告を施行するよう命令が発せられた。


国王カルロス3世がイエズス会追放を決定した理由について
国王カルロス3世にイエズス会を追放する気にさせた理由は、国王の胸の内に完全な秘密として、しっかり仕舞い込まれていた謎ではあるし、スペインでは充分尤もであるとも、そうでもないとも言えるものであったが、パラグアイにとっては、如何なる面でも有効とは成り得ないものであった。というのは、パラグアイには「宮廷の陰謀」などというものの余地は殆どなく、またパラグアイでは、イエズス会士はスペイン人臣下仲間から遥かに除外されて、彼らの教化村事業に完全に専念していたからである。

それらは、明確に隠され留保されていると言明されていた。カルロス3世は、彼の隠され留保された理由を弁解して、私の理由は神と私だけが知るべきものだ、と言った。『カルロス3世の治世の歴史』第3巻p.120.(フェレル・デル・リオ、マドリード、1856年)

カルロス3世は、間違いなく、この命令で自分の道義心を満足させた、がしかし、そのような仲間内でのやり方で国王によってほのめかされた権力が等しく満足されたかどうかは、疑っても良いのである。

歴史家たちが、この布告に提示した解説は、数多く多彩である。確かにスペインでは、この修道会は、相当な権力を獲得していたし、ローマでは、彼らの会の総長たちの有能さが、しばしば教皇たちを彼らの精神的な隷属下に置いた。

或る者は、カルロス3世の行動を、エスキランス内閣の下での「アランフェス騒動」への復讐に過ぎないと説明している。


アランフェス騒動」について
この有名な騒動は、スペインでは「アランフェス暴動」、そしてある時には「エスキランス暴動」として、一般に知られ、1766年の復活祭の直前に発生したものである。

表向きの理由は、永い間スペインで人気のあった長いマントとつばの広い帽子の使用を禁止する国王の勅令である。騒動が、手に負えない様相を呈したので、ワロン護衛隊はそれを鎮圧することが出来なかったが、二人の托鉢修道会士オスマ神父とクエバ神父が、何とか混乱を抑えることが出来た。国王も宮廷も非常に動揺し、マドリードを去ってアランフェスに移動した。イエズス会が事件に何か関係したという証拠は全くない。

ところが、托鉢修道会士たちはイエズス会がその騒動の張本人であり、また騒動は、国王が思想的にそれ程リベラルでなかった(それ故に、自分たちに同調してくれなかった?)ために、国王を追い落とし、国王の弟ドン・ルイスを王位に就けようというイエズス会の陰謀の前兆に過ぎなかったと主張したのだ。

他の者たちは、イエズス会が、カルロス3世は女王の夫の子ではなく、彼女の愛人(がいて、その男)との間の子であるという中傷を広めようとした、と再々述べていた。―『カルロス3世の治世の歴史』フェレル・デル・リオ


騒動の理由は、国王のイエズス会に対する恐れ
唯一、ありそうな理由は、イエズス会が余りに強い力を発揮してきたことを、国王が恐れ、もし直ちに措置を講じないと、王権はイエズス会総長の単なる所有物になってしまうことを恐れたからということである。

そのようなことは、少なくとも国王の教皇クレメンス12世への書簡のいくつかが示しているようだ。異端審問所にイエズス会が行った精力的な抵抗が、彼らの追放に何らかの関係があったかも知れない、ということも可能性がないわけではない。(その可能性がある。)彼らのうち何人かは、攻撃においてどんなことでもしたのだ。


異端審問所を徹底的に非難したイエズス会士もいた
有名なポルトガル人イエズス会士アントニオ・ヴィエイラ神父は、彼の『非常に精確で為になり、興味深く、真実でポルトガルの異端審問所の訴訟手続に熟知した極めて正確な報告』(於ヴェニス、1750年)の中で、異端審問所に対して、殆どプロテスタント論者のように厳しく、特に宗教裁判所の収監制度に対し痛烈に非難している。

最後の章で、ヴィエイラはポルトガル異端審問所の創設者サアヴェドゥラを暴君と呼び、彼の行為を列挙する中で、彼を残酷な暴君、嘘つき、異端者そして泥棒と呼び、そして、そのような男によって考案された裁判所は、地獄に根差しており、その聖職者たちは天国へ行けなかったと断言して終えている。


イエズス会の追放自体は果たして有効なことだったのか
時代の即時の必要性が何を必要としているかに関わりなく、ある人種や党派や修道会を、その領土から追放することが、政府の何らかの堅実な政策であると言えるかどうかは、論争の余地のある問題点である。

ユダヤ人やモーロ人やユグノ-教徒の追放と、常に敬虔であったという評判の真の新教徒ヘンリ-8世の時代の修道院の解散は、それらが起きた国家に対して、最初に扇動者が期待したような影響を必ずしも、与えなかったようである。

イエズス会は、カルロス3世によって追放されたが、今日スペインでは、彼らの影響力を回復している。だから、迫害というものが効果的であるためには、根絶を徹底し過ぎて対象者の存続が停止するということがあってはならないようであり、これを我らが護民官クロムウェルは、充分に深く理解していたのだ。


イエズス会追放を委ねられたブエノス・アイレス総督ブカレリ
ブエノス・アイレスとパラグアイの総督権限において、イエズス会追放の任務を委ねられた総督ブカレリは、決して凡庸な男ではなかった。彼のフル・ネームは、ドン・フランシスコ・デ・パウラ・ブカレリ・イ・ウルスラである。

ブラボ-は、『記録集』等の中で、彼に関して追放の布告が引き起こした、つまらない怨恨や策略について次のように語っている。

「多くの災難や犯罪や悲惨の真っ只中で、ブカレリの姿は清々しく際立っていた。疲れを知らない熱意で任務を遂行するだけでなく、宗教的・知的かつ世俗的な組織の中で、専制的・決定的なイエズス会の影響力の不足した数多くの空白を補って彼は対応していた。

公的任務の抜群の経歴の後に、気付けば殆ど何の予告もなしに、自由に使える充分な兵力もなく、(南)アメリカのあらゆるスペイン人総督に実行するべく下されたものの内で最も重要で遠大な任務をずっと遂行せざるを得ない立場に置かれていたのだ。」


ブカレリが持っていたイエズス会に対する先入観
それまでの彼の任務は、主にアメリカにおけるものではなかったので、彼は当時ヨーロッパで一般的に受け入れられていた考えを持っていた。それは、「イエズス会は、巨大な富と訓練された軍隊組織を所有しており、またそれ故、追放に当たって、全てに耐える努力をして抵抗するだろう」というものであった。

ブカレリはこれらの見方を充分に持っていたから、スペインから彼に伝えられた命令は重大な軍事上のリスクを含んでいると考え、全てのイエズス会教化村を明らかに強力な武力拠点とみなしたようである、とディ-ン・フュネスは述べている。(ディ-ン・フュネス『パラグアイ国内史随筆』)


ブカレリの計画
1767年7月22日が彼が選択した日である。計画を秘密に保ち、コリエンテス、コルドバ、モンテ・ヴィデオ、サンタ・フェへ、同日というよりむしろ夜のうちに踏み込む準備をした。なぜなら、イエズス会に対する脅威は非常に大きく、彼は彼らを夜陰に乗じて、一度に全て追放することを計画したのである。

7月2日、2隻の船がブエノス・アイレスに到着し、イエズス会追放の布告はスペインでは既に4月2日に、成功裏に執行された旨の連絡がもたらされた。どちらの船の乗組員についても、全員がスペインで何が起きたかを知っており、彼の計画を隠しておくことはもはや不可能となった。

それ故、もしイエズス会士が武力的抵抗を行なうことの欲求または方法のどちらかを持っていて、防御をしようという考えがあれば、時間は十二分にあったのだ。ところが、彼らはフランスと同じ広さを持ち、15万人の人口を抱えた領地を完全に支配していたのだが、それ以上何をしようという考えもなかったのだ。(ディ-ン・フュネス『パラグアイ国内史随筆』)

武器については、彼らは主に防御用に非常に長い英国製の銃を数丁、彼らが使いたいときのために持っていた。それらはさほど重くなく、一応の射程距離も持っていた。

パラグアイだけでなく、スペイン王権の(カリフォルニアから南米最南端のホーン岬まで広がる)全てのアメリカ領土において、イエズス会士たちは様々な装備品を製造しているが、それらはパラグアイの教化村だけで見出されたものである。というのは、教化村では、スペイン国王の特別許可によって、武器保有がポルトガル人に対する防御のために許されていたからである。


イエズス会の事業規模
1759年には、世界全体で271のイエズス会教化村があり、修道院は1542、畜牛場61、寄宿舎340、セミナリオ171、教会1542、イエズス会士22,589名、そのうち司祭11,293名、大半は南北アメリカにあった。
―フェレル・デル・リオ『カルロス3世の治世の歴史』(マドリ-ド、1856年)


「貧しい下働き」の優れた人々
ラ・プラタ及びパラグアイ地方には、イバニェスによると、約400名のイエズス会士がおり、うち約300名が司祭だった。イバニェスの『イエズス会共和国』によると、残りの100名は、大部分が貧しい下働きで、食べるに事欠いて、食べるためにイエズス会に来た者たちである。

イバニェスは滅多に本当のことを言わなかった。それは、たとえそうすることが妥当である時もである。そして、これらの「貧しい下働き」の中に、アスペルガ-(先住民の薬の研究・記録者として著名)やその他、平修道士としてパラグアイ教化村に住んでいた優れた人々のことは、イバニェスの頭の中には無かったのである。


ブカレリは清廉潔白な男だったようであるが、被征服者からの物質的な見返りへの期待は持っていたようだ
ブカレリは臆病だが正直で清廉潔白な男だったようであり、ブエノス・アイレス、コルドバ、サンタ・フェのイエズス会に対し最初の試みをし、これら全ての場所のコレジオは同日の晩、居住者から何の抵抗もなく鎮圧された。宗教的修道会を鎮圧する者は、普通、都市や国家を奪取し、実際には、法的または軍事的な何らかの権力を行使する。そして、最初の彼の動機がいかに高尚なものであろうとも、被征服者の富から埋め合わせされることを常に期待するものである。


会士の追放が進められても隠されていると言われていた財宝はなかなか出て来なかった
敗者の悲哀は、教会の祭服、グレゴリオ聖歌、聖人たちと共に、異教の伝統として新しい信仰となり、コンスタンティヌス大帝が空を見上げて十字架を見たと思って以来、教会法として守られてきたのだ。(イエズス会の降伏の悲哀は、ローマ時代の異教徒が力によって征服され、様々な風俗・様式とともに、異教の伝統として新しい信仰に組み入れられていったものと同じものである。)

取るに足りない戦利品であっても折角それを見つけたのに、イエズス会士は彼らの金を全て隠してしまったなどと言うことで満足できなかった総督のうんざりした気持ちは、次第に膨れ上がっていったに違いない。というのは、彼自身が秘かに判断していたところでは、そもそも彼らは何が起こりかけているのかについて全く知らなかったのである。

富の宝庫であると考えられていたコルドバのコレジオでは、僅かに9000ドルしか見つからなかった。その金額は、コルドバのイエズス会の動産を引き継ぐために、ブカレリが派遣した管財人フェランド・ファブロが彼の報告に確かに記録しているものである。

ただし、もしコルドバのコレジオが哀れな餌食に過ぎないと分かっても、肥沃な領地の豊かさと全てのスペイン人がイエズス会が手に入れていると固く信じていた巨大な財宝を抱えた筈のウルグアイとパラナ地方の教化村群が未だ残っていた。


蔵書はどうなったか
立派な蔵書が散逸し、発見や征服と、現在では絶滅した先住民部族へのイエズス会士による遠征を扱った多くの大変貴重な手書き写本が失われた。散逸させてしまった者たちが、イエズス会に罪を負わせるための証拠になりそうだと考えたものを除いては、何も保存されなかったらしい。これは、ある人を裁き有罪を宣告するための、そして、彼に不利な証拠を探すための良く知られた原則である。

書籍は、ラ・グランハ・デ・サンタ・カタリナとして知られた場所に保管され、著述家ドン・アントニオ・アルダオに、カタログを作りそれらを首府に送ることが委ねられた。ディ-ン・フュネスは、彼がアルダオの指図に従ったと述べているが、とにかく書籍の大部分は失われた。

医者の間の決まり文句に、「手術は完全に成功だったが、患者は不幸にも死んだ。」というのがある。

その書籍の中の、有名な(イエズス会の)「Monta Secreta(秘密指示)」は、イバニェスによって、追放後、イエズス会に対する彼の非難に使われた。

ブエノス・アイレスでも、コルドバでも、サンタ・フェでも、コリエンテスでも、モンテ・ヴィデオでも、イエズス会士で少しでも抵抗した者は誰もおらず、兵士たちに広くドアを開けていた。兵士たちは、全ての町で、同じ日の午前2時に、彼らの追放を知らせるために彼らの所へ来た。

同一の行動がパラグアイで見られると考えることは当然である。総督も総督府も、常識というものを少しも理解していなかったようである。彼が、彼の危険な任務のために勇気を奮い起す(そんな必要はまったく無かったのだが)までに、約1年が経っていた。

ディ-ン・フュネス(『国内史随筆』)は、総督の感情を推測したようで、次のように言っている。
「ブカレリは、彼の栄光と幸運を増すに違いない、ひとつの征服のリスクを考慮して、驚き震えた。彼の幸運は美味で我らが真の征服者の憂鬱を示している。」


総督ブカレリの大袈裟な準備
彼は、コルテスとピサロのそれぞれが、メキシコとペル-の征服のためにした準備以上のものをして、その任務に取り掛かった。スペインに向けて、コルドバ、ブエノス・アイレス、モンテ・ヴィデオ、サンタ・フェからのイエズス会士150人が、フリゲ-ト艦エスメラルダ号で船出しており、彼は教化村への行軍を準備したが、それは抵抗の疑いが彼に警戒心を起こさせたためである。しかし、実はそんな大袈裟な動きは必要なく、その結果は非常に馬鹿々々しいものになったのだ。

彼は、テビクアリ川の浅瀬を占領するために、アスンシオン最良の市民軍200人を送り、サン・ミゲル港を占領するために同等の強度の一団を送った。テビクアリ川は、教化村群の地域とパラグアイの残りの地域との間の北の境界線となっている。それは大きな川で、私の時代(1872~1875)には橋が無くカヌ-で引っ張らねばならず、馬は泳ぐか、カヌ-の後にロープで引っ張られるかしていた。


ブカレリ軍の展開
征服者は、選抜歩兵の3中隊と60名の騎馬兵を連れて、5月24日に出航した。彼は、ウルグアイ側のサルトの町で下船し、そこからパラナ地方の村々を占領するために、ドン・フアン・フランシスコ・デ・ラ・リヴァエレラ大佐を派遣した。また、ドン・フランシスコ・デ・サバラは、ウルグアイ地方の村々のうち6カ村を押さえるべく送られた。ブカレリ、彼自身は数百人の兵と共に、全ての教化村の最南端の村ヤペユに進軍した。ヤペユは、全ての教化村の中で最大の村であったが、その名前は、グアラニ語で「のみ」という意味である。


静かに降伏し連行されていった司祭たち
イエズス会士は、しかし、如何なる軍団にも手数を掛けることは無く、また、どんな萎んだ月桂冠であっても、自分の腕を飾るためにそれを巻いて、勝利を誇ることを総督にさせなかった。彼が、村から村へと進んだとき、それぞれの場所に彼が到着すると、司祭たちは先住民たちと一緒に暮らしていた。その先住民のうち、幾人かは武装していて、彼らの多くは既に幾つかの戦いでスペイン国王のために従軍し、また彼らの全てがイエズス会士を殆ど神とみなしていたのだ。司祭たちは、出て来て平和的に彼らの全ての家の鍵を引き渡し、静かに降伏し捕虜となり鎖で繋がれて、彼らと彼らの修道会が殆ど200年以上にわたって教化し、統治してきた領地から連行されて行ったのだ。

78人のイエズス会士と彼らの管区長は、捕らわれの身で、ブエノス・アイレスに送られ、彼らが占めていた位置は全て、他の修道会から送られてきた司祭たちによって満たされたが、その中に宣教の仕事に何らかの経験のある者は全くいなかった。


イエズス会司祭が示した従順さは、国王への忠誠を立証した
ディ-ン・フュネスが辛辣に書いているように、ブカレリが願ってはいたが敢えて望むほどではなかった奇跡が起きていた。パラグアイのイエズス会は、少なくとも彼らの最後の公的な活動における振る舞いによって、スペイン王権に対する彼らの忠誠心を十二分に立証した。

軍隊が活動した(1754年と1756年のスペイン・ポルトガル連合軍によるグアラニ征討のための戦いの)時期に、総督職の権限によって使える資源は枯渇していたから、ブカレリが随意に使うべく持っていた武力に逆らったり、イエズス会国家を立ち上げ、その国家がスペイン王権が支配する資源に最大限の課税(つまり税金の横取り)をしたりすることは、実は極めて容易なことだったのである。


ブカレリ軍の惨めな実態
ブカレリは、アランダ伯爵への書簡(ブラボ著『イエズス会追放に関する記録集』―マドリード、1872年)の中で、彼が取り囲まれていると感じていた危険に関して、「軍隊の不備で惨めな状態は、支払いの遅延や資金の流れについて私が発見した不足によるもので、緊急を要するものであるため私を悩ませていた。」と述べている。


ブカレリは計画が簡単に実行できたので、正しかったと考えた
おそらく、ブカレリは、彼の計画を実行した際に、それが容易であったために、計画が適切であったと思い込んだのであろう。なぜなら、人は一般的に、うまく成功したことは正しいと考える傾向があるからである。しかしながら、それはともかく、彼は4カ月弱を遠征に費やして、9月16日に、ブエノス・アイレスに意気揚々と戻って来た。だから、イエズス会は200年以上の統治の後、わずか1年の1/4ほどの間に、全てパラグアイから追放されてしまったことになる。


イエズス会士たちが連行されて行った様子
彼らは一切戦わず、如何なる抵抗もせず、羊が屠殺人に捕らえられるように、自分たちを捕らえさせた、それまで彼らは15万人以上の先住民に囲まれ、外界からは数えきれない程の距離を隔てて遮断され、ヨ-ロッパの軍隊には殆ど通ることのできない原始林と沼地によって三方を防御されていたのに。

管区長の一言があれば、教化村群は一面火の海となったであろう。また、管区長の一言は、騎手の大群をもたらしたであろう。彼らは、実際、充分には武装していなかった。しかし、沼地と森、人気のない平原や水路や泉や自然の要塞を横切る赤土の曲がりくねった、深く踏み固められた道の全てを彼らは知り尽くし、地域に関する様々な知識を持っていたのだ。


パラグアイ先住民の戦いぶり
容易にへこたれないパラグアイ先住民は、後にロペス(フランシスコ・ソラ-ノ・ロペス 第2代大統領―任期1862~1869)の下で、ブラジルの銃下に勇敢に死んだ歩兵の祖先であり、赤いマントと薄い麻の衣服を着て、司祭・神父の敵に向かって、小さな村や教化村から進軍した。

この、ロペスの戦は、巨大な変人(ブラジル)に対し「ばか者」ロペスによって戦われたものだが、間違った、良くない理由であっても、国家の自由のために戦っていると信ずる時には、人は何が出来るかをよく示している。実際、当時パラグアイの自由は、暫くは脅かされなかった。そして、ロペスは、第二のナポレオンになる野心だけから、ブラジルとアルゼンチン共和国に対し宣戦布告を行った。

性格的な彼の唯一の適性は、彼の模範であるナポレオンと同様、彼が太っていて女性を愛したことだった。戦は、1868年に始まり、1870年に終わって、国土を殆ど砂漠に変えた。非常に寂しかったことは、その頃、昼日中、道を横切って静かに歩く虎をしばしば見たことだった。ただし、大声で叫んでも、ピストルで撃っても、虎の動きを速めることは出来なかった。


ヨ-ロッパへ送られた会士たち
78人のイエズス会士は、まずブエノス・アイレスへ連行され、それから彼らの同僚と合流するべく、ヨーロッパに向けて出航した。彼らの同僚は、スペイン国王の地位にかつて就いた中で最も自由な(皮肉)国王の大臣たちによって、世界の全ての地域から呼び集められていたのだ。


ブカレリは、イエズス会士を追放した後、彼らを中傷し始めた
イエズス会士たちを追放すると、ブカレリは彼の地位の必要性から彼らを中傷せねばならなかった。おそらく、役人として不公正を犯す統治機関の不変の権利に対する信念に凝り固まっていたので、自分が書くことは全て信じていたのだろう。人が幸福になるためには、人は自分が書くことは全て嘘であることを望んでもよいのだ。

受け取る命令がどんなものであろうと、その命令の中に、混乱した頭の正直な男が正義以外のものは何も見ないとしたら、人間にはどんな希望が残されるのだろうか。(如何なる命令を受け取る場合も、その命令が完璧な正義だと考えてしまうならば、希望の余地はなくなってしまう。)

自分が悪漢だと知っている悪漢の方が、善良で善意を持ち、不器用な癖に自分が馬鹿だとは全く自覚していない男よりは千倍もましだ。


ブカレリは自分を正当化するために、先住民に国王宛の書簡を書かせた
彼は、自分自身のためにか、または非常に多くの公的人間たちが真実をごまかした後世の人たちを手なずけるべく人たちの利益のために、彼自身を正当化せねばならなかった。

だから、彼の第一の関心事は、彼が30カ村の村長の肩書によって威厳を付けるべく選んだ30人の先住民から書簡を引き出すことであった。そして、カルロス3世の大臣アランダ伯爵への書簡の中で彼自身が述べているように、最初に彼らをスペイン風に装わせ、彼らの運命が如何に改善されたかを理解するように、彼らを扱ったのである。

元々は、グアラニ語で書かれたその書簡には、各行ごとに総督の書き取りが付いていた。立派な挨拶の言葉の後には、国王に対する盛りだくさんな感謝の言葉が繰り返して書き続けられている。なぜなら、その書簡は、総司令官ドン・フランシスコ・ブカレリ閣下が送ったものであり、閣下は神への愛と国王陛下への愛にあふれ、陛下が彼の責務に下した正にその命令は、我々の貧しさを助け、我々を紳士のように装わせることだったからである。

殆どの人々は、異教徒でさえも、彼らの貧しさを助け、紳士の服装で彼らを装わせる人々を好むのである。ただし、立派な服が揃いの制服になるなどということまでは起きていなかった。村長たちは皆、先住民名を署名しているが、それは、イエズス会は彼らを無知にしておいたという非難が偽りであるこを証明している。

1768年3月10日、ブエノス・アイレスの日付けの書簡は、もし彼らが、推測されるような状態であったなら、彼らが書いた時点では自由な身分ではなかったことを示しているようである。


ブカレリは、先駆者カルデナス司教の尻馬に乗ってイエズス会に対する非難を書いた
先住民の書簡は確かに発送され、総督は報告を書いたが、その中で彼はかなり詳細に、パラグアイのイエズス会に対する古くからの非難の全てを繰り返している。それは、カルデナス司教の創意に富んだ頭脳が最初に思いついたものだった。しかし、ブカレリはそれらの非難に僅かだが、いくらかの彼自身の筆を加えており、それらは、彼が観察力と想像力を伴った考えを持っていたことを示している。


ブカレリは暇に任せて大臣や国王に書簡を書きまくった
アランダ伯爵や国王に対する彼の多数の書簡の中で、ブエノス・アイレス1768年10月14付けのものは、教化村での彼の処置についての、また彼が従事していた任務についての彼の見解(または、彼が自分の見解であると考えていたこと)に関しての非常に詳細な解説を含んでいる。

1768年には、パラグアイでもマドリードでも、時間はそれ程貴重ではなかった。だから、ブカレリは幾分長々と彼がした全てを、解説や軍隊の動きや残念な出来事(と言うのは、彼の部下の兵隊たちが驚き慌てて、馬を見失ってしまったことがあったので、それを書いた)を、道徳と神学の断片とと共に報告している。そして、それは、だらだらとした公文書を書く技術は楽天主義者が思うほど新しいものではないことを示しているのである。


ブカレリの書簡の身勝手な内容
まさに、近代の特別な書簡の書き方で、天候で苦しんだことを全て書き留めている。つまり、絶え間なく雨が降り、驚くべき事として、雨の後には、川の水位が上がり、渡ることが難しくなると伝えている。道は悪く、糧食は僅かで貴重であり、現在と変わりなく、野蛮な先住民が彼の部下の前哨部隊を虐殺した。その一方で、彼の勇敢な仲間は、神がそれを望めば、時折異教徒を懲らしめ、神の慈悲により、先住民の少なからずの人数を殺した。

およそ16ページに達する活字のぎっしり詰まった印刷の言葉の膨大な寄せ集めで、彼は自分がひとかどの能力を持った男であることを、我々に知らしめるが、彼が高貴な仕事に従事していると本当に考えていたのかどうか、または彼が皮肉の意味で書いたのか、または、彼の唯一の目的は、彼の良心と彼の国王を満足させることだったのか、は疑わしい。


何故難しくもないことを大げさに言い立てたのか
さして難しくないことを大げさに言い立てることは、遠征の統率者から、または戦場の司令官から期待されるはずである。それなしでは、どうして彼らの存在を正当化し得ようか、または広い世間に彼らが必要とされていることや、単なる儀式より重要であることを証明できようか。儀式が人を奴隷化するのに役立つことは間違いない。かつて、ある廷臣がスペイン国王に言った。「陛下、あなた自身が儀式です。」と。

領土問題が片付いた時、ブカレリはヤペユに到着し、川で出航したが、肝心の風が逆だと分かり、カンデラリアに着くのに多くの日数を要した。カンデラリアに着いたのは、1768年8月27日の事である。

ヤペユを去る前、総督は公式の祝宴を催し、選抜歩兵の前で彼は乗馬し、その歩兵たちの帽子が、彼に言わせれば、大いなる驚異を起こした。先住民たちは、生涯そのようなかぶり物を見たことが無かったのだ。

彼の旅の困難さは終了し、イエズス会士は追い出され、故郷に護送されるべく下流に送られた。ブカレリは、次の書簡で宗教問題を扱っている。


ブカレリの道徳観は女性の衣服の小ささにこだわること
宗教問題については、彼自身全てのスペイン人征服者たちがそうであったように、よく分かっていると見せかけているのである。信仰の教義に関しては、彼は鉄の棒だった。(固かった?)スコットランドの熱狂的なタイプの説教者がかつてそれを語ったように、彼は非常に鋭敏だった。

先住民の衣服、特に女性が着る優美なトゥポイは、彼に過度の衝撃を与えた。節度を踏みにじることなしに、それに触れることは不可能だった。男子の美徳は、ほんのわずかで不安定なことではあるが、それでも女性という相方よりは安定的なものである。

それ故、おそらく総督は、兵士たちを誘惑に晒さないということでは、正しかった。だから、彼が我々に語るように、先住民の女性の魅力を覆い隠すか、またはまさに視線から彼女らを隠す衣服を配給したという点で成功したことになる。


恥ずかしいブカレリの感じ 過ぎ、考え過ぎ
総督ブカレリから、大臣であるアランダ伯爵への書簡(ブラボ著『文書集』より)。「そのように極端な場合、女性がそれを示すならば必ず慎みに欠けることとなる……。」また、「そのような刺激は、多くの神に対する罪と頻繁な病や疫病を生じさせる」と慎み深い総督は言う。

その文章は、その意味において少し疑わしい。なぜなら、もし女性の衣装の小ささが、村の住民の中に頻繁な病や疫病を生じさせるなら、ベルグラヴィアやメイフェア(ロンドンの高級住宅街)は、きっと地球上で最も不健康な地点であることになる。しかし、そこでさえも、傷つき易い男たちの委縮した凝視に対して、女性たちが目だけを見せているムーア人(イスラム教徒)の間よりは、神に対する罪は決して起きていないと、私は真底信じるのである。


イエズス会に対する非難の蒸し返し
決められた任務の中で、ブカレリは、彼の報告の目的として、イエズス会に対してなされた古くからの非難の全ての蒸し返しを行った。「彼らは先住民に、決してスペイン語を学ばせなかった。そして、彼ら自身が過度に富裕であった。」という非難である。

上述の二つの非難のうち「スペイン語を学ばせなかった」ということについては、ホセ・カルディエル神父が彼の『真実の証明』の中で、充分にその誤りを立証している。

「これら先住民は生来の言語のみを話す」という情報の結果として、このように記憶しているのだろうが、それは、イエズス会神父の禁止によるものではなく、彼らが土着言語に対して抱いている愛着によるものなのである。また、それだからこそ、各村にスペイン語の読み書きの学校を設けたのだ。そして、この理由で、書くことが非常に上手な先住民がたくさん居るし、今もそのうちの2人が私が書くものを写しているが、その字は私の字より上手だ。」


「イエズス会が過度に富裕である」という非難については、総督自身がその誤りを立証してしまった。なぜなら、もし彼がたくさんの財宝を見つけたのであれば、彼は最も確実に迅速にそれを国王に送ったはずだが、もちろん彼はそれをしていない。イエズス会の財宝など、何も見つけられなかったのだから、国王へも何も送れるはずがなかった。

彼が見出したものは、後にブラボの『資産台帳』で示されることになる。そして、同じ出所から、彼らの敵によると世界で最も豊かな修道会がスペインへの不本意な旅で持ち帰った全ての富(実は皆無)が明らかにされる。


イエズス会による統治に代わるものとしてブカレリが考えた制度について
教化村では全てが終わり、イエズス会士は追放され、ブカレリは、彼が精神的な導きと世俗の導きの両方を奪ってしまった全住民を統治していくためには何らかの制度を設けざるを得なくなっていることに気付いた。

ブカレリ自身の報告によれば、イエズス会の統治は非常に悪かったから、先住民はそのような悲惨な状態に置かれ、彼らの教育は全く無視され、なかんずく、女性たちは非常に薄い衣服を着ていたから、節度を持っては彼女らの衣装を描写することができない程だったのである。従って、彼が破棄してしまった制度とあらゆる点で異なる何らかの統治の制度を彼が創設すべきであることは、全く当然であることになるのである。


ブカレリが書いた後継者への指示の中の、方針はイエズス会のものの引き写しであり、「先住民の仕事」の概念は、後年アフリカ住民を奴隷化する際に使われたものと同じものである
更に眼を引くことは、彼の書いた後継者への暫定的な指示(1768年8月23日於カンデラリア)の中で、彼は卑屈にもイエズス会士が遂行した全ての方針に実際は従っているのである。彼は、解決を託されたリバ・エレラとグルノ・デ・サバラの両大尉に、先住民が聖なる信仰の真の知識を教えられていたかどうかを確かめるよう命じた。

その仕事は、イエズス会士たちが、彼らの誤りが何であったにせよ疎かにせず確実に遂行したことである。自由な公開の交易を活性化する効果についてのいくつかの決まり文句の後に、また彼の部下である大尉たちに対する、先住民女性が上品にまた高潔に装うようにとの指示の後に、彼は「正直な仕事」についての説教を熱心に始めたが、その「仕事」は、彼に言わせれば、先住民を豊かに幸せに高潔にし、それだけで王国を繫栄させるはずのものであった。

実際、彼は、今日、アフリカでヨーロッパ人の総督によって、人々を奴隷にしようとする際に使われているものと殆どちょうど似た言葉を使っているのだ。しかしながら、全体として彼の指示は「賢明で自由なもの」で、もしそれらが同じ精神で忠実に実行されたならば、先住民は永く、同様の半ユ-トピア人、半キリスト教徒の状態にあり続けたであろう。それは、イエズス会士たちが彼らに残したものなのである。

そしてまた、その状態は彼らイエズス会士が獲得することが出来たものと同様なものであるが、その状態を更に進めるためには、国家が繫栄するために必須の通商を活性化するものに晒されることが必要であり、またそれによって、彼らの住民のさらに大きな部分が、そのままずっと奴隷でなければならないようなものなのである。


ブカレリは、将来の責任追及におびえ総督職にうんざりしていた
指示を与え、彼は教化村を離れ二度と戻らず、教化村の領地に滞在する金儲けは一切しない(そのように見える)正直な男であるとの評判を後に残した。

1768年10月20日、彼はブエノス・アイレスからアランタ伯爵に書簡を送り、彼の任務は終わったと伝え、特別な頼み事として、アメリカ以外の、そして特に、秘書職ともインディアス諮問会議とも関係しない何らかの仕事を彼に与えるよう、国王に懇願することを依頼した。それ故、彼が従事していた仕事は、彼の性分に合わなかったか、または、イエズス会士の保護の手が引き揚げられてしまった時、彼は自分の将来や先住民を信じられず、きっと起こるであろうことについて国王が彼を責めるのではないかと懸念していたようである。


ブカレリはイエズス会士の純粋な志をどうしても理解できない人々の一人だったから、金鉱伝説の影響を受け続けた
彼の指図書の中の一節は、「たとえそれが想像上ののものであっても、金鉱が存在する国を手に入れるためには何でもする」というような古くしかし未だに存在する考え方は、ブカレリののような正直な男にさえ影響を与えていたことを示している。

彼は特に、責任者として残した役人たちに。「どの地域から、それらの町の先住民が、彼らの司祭のところに持って行く貴金属を引き出しているのか」を突き止めるよう命じている。だから、カルデナスによって始められた偽りの鉱山の作り話は、何千回もその誤りが立証されたが、金持ちになるという以外のどんな目的が、イエズス会士をして、パラグアイの森の奥に自分を埋めさせ得たのかを理解できない人々の心の中に、その後も残ったということが分かるのである。

約2年の間、ブカレリが、(南)アメリカやインディアス諮問会議の管轄下の案件から、解放されることは無く、その期間、彼はイエズス会教化村に関する事柄に断固として奮闘し、一面でチャコ地方の先住民と戦い、他の面では、異端である英国に抗しチロエ島を防衛するために軍隊を要請したりした。英国はその時、彼らの帝国の南米最南端の地域への進出を企てていたようである。


ブカレリが書いたパラグアイ・コンセプシオンの村長ニコラス・ネエンギル
ブカレリがブエノス・アイレスを離れる前、最後に書いて保管された書簡がある。

ブカレリは、1770年1月15日、有名なニコラス・ネエンギルと他の先住民たちによって署名された長い宣言文を送った。それは、ネエンギルが7カ村の引き渡しに抗して行ったが、水泡に帰した抵抗において彼が果たした役割について説明したものである。

これは、「パラグアイの王」、「マメルコスの皇帝」ニコラスが、何らかの文書に現われている、私が知る限り最後のものである。

彼の名前は、パラグアイやラ・プラタ地方やスペインで、一度によく知られるようになり、多くの更なる嘘が蒸し返され、そして最後にイエズス会が去り、ネエンギルは、イエズス会に背いてしまったようで、ブカレリが彼の主張を見栄えよくするために、必要とすることは何でも語った。

ブカレリの書簡から見ると、ネエンギルの家族は、カルデナスの時代から、教化村ではよく知られた存在だったようだが、1770年には、ネエンギルは堂々とした威厳を奪われたことも知られている。

彼は、パラグアイのコンセプシオンの村長であり、背が高く無口で、長い縮れていない髪を持っていて、彼が乗馬するときは彼の鐙(あぶみ)を同胞先住民が支え、彼らから大いに尊敬されていた。


ネエンギルがイエズス会士について語ったことが、ブカレリの手の内の切り札となった
上機嫌でイエズス会士について語るネエンギルに気付いたことが、ブカレリにとって手の内の切り札となった。何故なら、もし1750年にイエズス会士たちが、スペイン王権の軍隊に抵抗していたことが証明できれば、常に嘘を信じたがっている大衆は、スペイン国王権の国内外の領土からの彼らの追放について、国王の行動にもちろん拍手したであろうからだ。

ニコラスは、高々ただの貧しい輩に過ぎなかったようだから、先住民の司令官として彼が行った全ての事は、リムプとエニ両神父の命令によるものであったこと、また彼は、言われたことだけをする哀れな先住民であったことを証言した。彼は、彼をイエズス会の権力の外に救い出し、彼をコンセプシオン村の村長にしてくれたことについて、善良な国王に感謝して証言を終了させた。実際、彼が村長の杖を持ち続けられるのであれば、全ては彼にとってどうでも良い、同じことだったのである。


1778年、ブカレリはスペインに戻る
1778年8月14日、ブカレリはラ・プラタ地方の総督職の後継者として、ドン・ホセ・ヴェルティスを残してスペインに向けて出航した。教化村は全て托鉢修道会、主にフランシスコ会の神父たちの管理下に置かれ、イエズス会の統治の制度は不変のままにされていた。


1771年に、ブカレリは教化村30カ村のための法令を書いていた
元々、ブカレリはパラグアイの事柄から決して逃れられない運命を背負った人だったのだろう。彼は、1771年、スペインのサン・ロレンソ(エスコリアル宮廷)から書簡を書いて、ごくわずかな方針に至るまで、全てイエズス会の統治方法に沿った30カ村のための長い法令を送っていたのだった。

ブラボーは、その文書を保管していたが、それは全体として活字がびっしり詰まった印刷の47ページにわたるものであった。

非常に確かなことは、それは注意深く考察され、充分に検討された法令の要約であり、さらにイエズス会が定めた方針に極めて特別な細部まで従っていることである。ディ-ン・フュネスは、ニコラス・ネエンギルやその他の先住民首長のお世辞(嬉しがらせ)は全くの術策的な事であり、それは犠牲になることを運命づけられた被害者(イエズス会)を単に栄誉で飾るだけのことだと見ていたようだ。

『パラグアイ国内史の随筆』ディ-ン・フュネス著によると、ブカレリに随いていた首長や王室代理菅(代官)たちは、人を意のままに操る、あらゆる策略によって金持ちになった人たちであった。それは、実のところ、元々犠牲になることを運命づけられていた犠牲者(イエズス会士)を賞賛する以上の事ではなかったのだ。

ブカレリがエスコリアル宮で作った法令は、総督府が楽に先住民を搾取できるよう時間稼ぎをしている間に、先住民をおとなしくさせておくための単なる目隠しのようなものであったようである。それでも、ブカレリは、彼の全ての行動において、正直な男であったようであった。ノアの洪水以来の全ての悪漢より、世の中にあるもっと悲惨なことの種をまいた正直で心の狭い男のひとりなのである。


ブカレリが宮廷で作った法令は、イエズス会の敵の主張に逆行する
せいぜいが、そんなことだったから、彼の法令は千通りの意味で、イエズス会統治の時代の彼らの政治形態を思い出させた。第9章で、イエズス会の排他的(独占的)政策は、「彼ら自身のためのものであり、イエズス会が主張しているような先住民の保護のためのものではない」という彼らの敵によってなされた主張に、この法令が完全に逆行するという興味深い例を指摘した。


ブカレリの法令は、反イエズス会派の教条主義者がイエズス会の統治方法の有効性を認めていた証である
まさに、注目すべき例は他にもある。それは、イエズス会が彼らの課題として最良の対処法はどんなものがあるかを、完全に把握していただけでなく、最も厳格な(教条主義者である)パリサイ派でいわゆる訓練を受け、全ての点で反イエズス会に偏(かたよ)っていたブカレリの公式見解が、「イエズス会の立てた計画は、将来の統治者が遂行するのに最も適している」ことを、正直な男として明確に判別していることである。

彼が法令を作成したのは、ブエノス・アイレスに行ってしまうほんの1年ほど前のことであるが、彼はパラグアイの教化村群で何が起きているかについて苦々しく非難して書いている。彼は、もし総督と副官が、神と国王に貢献することに、それも誰もが自分の任務に注ぐべき熱心さを以て、献身しなければ、彼の懸念は全て無駄になってしまうだろうと指摘している。それから、人間的、神的、自由の美しさに軽く触れた後で、将来、先住民は如何に統治されるべきかを提案している。


ブカレリが提案した統治方法
最初に、お決まりの義務として、共産主義の味のするものは何でも神や人間の掟に反していること、半共産主義の中にいる先住民は偶像などのために勤勉に働く真の奴隷であること、彼らの衣服は薄いこと、彼らはスペイン人と自由に交わることを許されず人種によって分離されていること、を指摘している。

それから、用心深い政治家のように、‘’自分の存在価値のため‘’に弁明をして、非常に高徳なうっぷん晴らしをして、通商というものについて論じ始める。通商というものは我々も知っているように、理論家がどちらの側に立っているかに関わりなく、彼を目覚めさせる偉大な存在である。


イエズス会は先住民を教化村に閉じ込めているとのブカレリの非難は、情勢の進展にそぐわなくなった
私が、第9章で言及した「教化村へのスペイン人の立ち入りを排除する」条項の後に、この非常に興味深い文節が来る。それは、彼によれば、先住民が外界との意思疎通に関して持つ譲ることのできない権利に関して書かれたものである。

「(私が承知していることは)ポルトガル軍到来時に居合わせず、リオ・パルド、ヴィアモントその他の地域に居住し、その居住が延長されていた多くの先住民が、彼らの村に帰ったことが知らされたが、これらの人々は全て彼らの家族と共に、内陸かそれらの境界線から遠く離れた村に移動しなければならないことに、注意すべきである。というのは、彼らがそこ(境界線近く)に残ったり近付いたりすることは、不都合だからである。そして、それ故、最も有害なものとなりかねない外界との意思疎通の機会を避けるために、先住民は一人も残らず戻って行かなければならないし、軍は先住民と共に継続的に進むべきである。」

教化村を取り巻く情勢の変化によって、先住民はそれまで住んでいた村を離れ、外界との意思疎通の機会を持たないようにしなければならないことになった。「イエズス会は先住民を教化村に閉じ込め、外界との交流をさせていない。(教化村の先住民には外界との交流を刺せるべきなのに)」という、彼自身のイエズス会批判にとって確かに皮肉な結果となったのだ。

実は、彼は先住民が自分達自身を持することに適していないことに気付いていたのだろう。実際、彼がそれに気付いていたことは確かなことだ。何故なら、326ペ-ジに、彼は「先住民に完全な自由を与えることは、極端な場合は、彼らの利益にとって致命的であり有害である。なぜなら、スペイン人の明敏さや聡明さが、彼らの粗雑さに簡単に打ち勝ってしまいかねないからである。」と書いている。聡明さは巧妙な美辞麗句であり、同様な環境では、場合が今日に適えば、使われて良い効果が出ることもあるのである。

政府によって提示される何らかの文書の条項も、その目的によって単純にたった一つではあり得ない、そして、全ての法律は現在、力のある何らかの党派にたいする配慮から作られるので、先ほど引用した文節にならって、次のページに、「スペイン人との通商は自由であるべし」との見出しの下、次の文章が浮かんでくる。「先住民とスペイン人の間の通商は、相互の取引が彼らを友好的に結び付けるように、自由であるべきだ。」

それ故、普通の考え方では、何が本当に意図されているのか、通商は自由であるべきなのか、そうではないのかが分からなくなってくるのである。

しかし、それらの僅かな食い違いは、別にして、法令は、完全にイエズス会路線上を進んだ。イエズス会統治の間、非常に毛嫌いされていた半共産主義は、彼らの力が他の支配者の手に置き換えられると、法令の第4章(p.343)で、正式に改めて組み入れられた。

イエズス会教化村に入ることと、そこに居住することのスペイン人に対する禁止は、充分に明定され長々と示された一定の条件の下に、年に3か月間、スペイン人は先住民の中に居住して良いとの唯一の修正と共に、第3章に盛り込まれたのだ。

だから、次のようなことが分かる。

それは、もしイエズス会がいつもの通り悪事をしたということならば、彼らがした悪事が何であれ、それは彼らの後継者によって注意深く継続されたし、そして極めて当然ながら、彼らが先住民のためにしようと努力した全ての事は、非常に注意深く後継者によってやり直されたということだ。


〈つづく〉




































# by GFauree | 2022-12-22 11:36 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

消えていった或る理想郷 そのXII                第9章 本当の二枚舌は誰だったか       

消えていった或る理想郷 そのXII                第9章 本当の二枚舌は誰だったか              _a0326062_09302141.jpg

『A VANISHED ARCADIA』(消えて行った或る理想郷)
Robert Bontine Cunninghame Graham (ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)著

今回は、その第9章である。この本は第10章までだから残りはあと2回だなどと一旦書いてしまったが、よく見てみたら11章まであるので、残りは今回も入れてあと3回である。でも、これで今年中にはなんとか終わらせそうだ。


第9章に関する私見

ポルトガルにやられ続けたスペイン
1750年にスペイン・ポルトガル間で結ばれたマドリ-ド条約によって、1494年のトルデシリャス条約で規定された両国領土間の境界線を西に移動させる代わりに、アジアにおいてフィリピン諸島を、南米ラプラタ地方においてコロニア・デル・サクラメントを、ポルトガルはスペインに譲渡することとなった。

しかし、狭小なフィリピン諸島とコロニア・デル・サクラメントを供出し、南米の広大な面積の領土を獲得したのだから、この条約はポルトガルにとって明らかに有利なものだった。

ポルトガルは、国土の面積と人口について言えば、スペインの1/5から1/4程度で、歴史的にも1580年から1640年まで実質的に隣国スペインに併合されていたから、つい弱小国と思いがちだが、実は油断できない、かなり強かな国であったようだ。

長崎が、キリスト教伝来の時代に、そのポルトガルの海外発展のルート(ゴア-マラッカ-マカオ)に組み入れられていたことを考えると、日本のその時代のリスクを改めて感じざるを得ない。

教化村の先住民が最後まで退去に抵抗したのは、100年以上にわたって彼らを苦しませ続けたのは、ポルトガル人の奴隷狩り集団であり、そのポルトガル人に折角育てた村と領地を明け渡すことに我慢がならなかったからであった。


怪しい存在アルタミラノ
マドリ-ド条約の履行のための国境設置委員会に、イエズス会士が含まれていたことは、当然と言えば当然のことだろう。司教代理ルイス・デ・アルタミラノと彼の秘書ラファエル・デ・コルドバである。

アルタミラノは司教代理という肩書が付いているから、現地パラグアイ・イエズス会の最高責任者である管区長より権限が強いということなのだろう。ということは、アルタミラノは、教化村の現場の神父たちの意見を抑えることが出来るということを意味する。嫌な人事だと私は感ずる。案の定、当然彼は、先住民や現場の神父たちの願いに反しても条約の履行を進めようとしたらしい。

伊藤滋子著『幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折』(同成社)には、次のようなことも書かれている。

「アルタミラノの兄でやはりイエズス会士のペドロはインディアス特使(プロクラド-ル)として、マドリ-ドの宮廷におり、カルバハル(条約締結の当事者・国務大臣)とは親しく、また兄弟の叔父エスカンドンがパラグアイ・イエズス会の副管区長(1747-1757)であったことも、この人選とは無関係ではなさそうである。しかし、この叔父と甥は、立場の違いから激しいやり取りを交わすことになった。

アルタミラノは、立ち退きの対象となった7カ村のうち、サント・トメ教化村に居を定め、住民に移動を急き立てた。そのため、サン・フアン村では村人が『アルタミラノは、イエズス会士に化けたポルトガル人だ。』と言い立て、サン・ミゲル村では暗殺計画が練られた。」


伝説
パラグアイ国王ニコラス・ネエンギルの伝説が語られている。

スペイン・アンダルシア生まれのニコラス・ルビオニという男が、冒険の後イエズス会に入り、美人と恋に落ち、ブエノスアイレスに逃げ、先住民の王となる、という話である。

どうも、この時代には、この類の荒唐無稽の少し色気も混じった話が少なくないようである。

国家や教会のでたらめな支配の下で、潰されかけた人々にとって、辛うじて一瞬、息の付けるおとぎ話だったのかも知れない。


本当の二枚舌は誰だったか
イエズス会上層部は、司教代理アルタミラノのように、国家の要求を当然の事として先住民に押し付けようと考え、現場の神父たちは、何とか教化村を存続させたいと考えそれを先住民に話すから、イエズス会は組織として「二枚舌を使った」ことになった。

しかし、この第9章の殆ど最後の部分の、先住民がグアラニ語で書いた手紙を読んでいるうちに、本当の二枚舌は誰だったのかがはっきりしてきた。

先住民を保護するからと言って、自分の臣民として税金を取った人だ。



それでは、以下第9章の内容をご紹介しよう。


第9章の内容
・スペインとポルトガルは先住民に対する新たな法令の強制を企てる
・先住民は両国に対し反乱を起こす
・絶望的な闘いが8年間続く
・教化村の荒廃


教化村設立初期の純粋な情熱は次第に衰えていったという批判は誤りである
チャコとタルマ地方の教化村は、全て1700年から1760年の間に設立され、最後のベレンはアメリカ大陸からのイエズス会追放のわずか7年前に設立されたものだ。この事実は、「設立初期の伝道的情熱が衰退してしまって、単に前世紀初期(1600年代初め)の当初の設立の良い評判で食っているだけだ。」という、幾人かの論者(とくにアサラ)の主張の誤りを充分に立証している。(このような後の時期にも、まだ積極的に開設を進めていたではないか、という意味。)


奴隷制に反対したことで運命は決められた
その設立・運営に携わった人々がどのような情熱を抱いていたかに関わりなく、彼らが奴隷制に反対していたという理由だけで、豊かな土地と金の鉱山を所有していると決めつけられ、彼らが山師であるという見方を断固排除しようとしても、彼らの運命は決められてしまったのだ。豊かな土地保有と金の鉱山保有のどちらについても、イエズス会は有罪であると認定されてしまったのだ。


教化村の先住民は国王に服属しただけで、スペイン人入植者の私的奴隷とはならなかった
1784年、イエズス会追放の20年後、ドブリゾファ神父は、教化村の先住民について、カトリック王と国王の臣である総督にだけ服従し、他の先住民のように私的スペイン人の忌まわしい奴隷制度には服していなかった、と述べた。そして、モントヤやルサノそしてデル・テチョ等は、全て早い時期から書面で陳述を認め、その陳述はまた、その件に関する国王勅令によって、二重に確認されている。

以上は、フィリップ5世の1743年12月28日付ブエン・レティロ宮殿からのもの、及びパラグアイ・イエズス会に対する2通の書簡、またフィリップ2世からモントヤが得た以前の勅令と、「インディオ法」として知られている法令に常に付けられる同様の標題への様々な追記による。


金鉱保有の疑惑がイエズス会追放に繋がった
金鉱の報道は、それが誤りであることを繰り返し証明されたが、決して絶えることがなかった。そして、それらの報道は、先住民の自由に対する支持とともに、非常に長い間働いて来た領地からのイエズス会の追放を引き起こすという結果に至った。


リオ・デ・ジャネイロ総督の悪だくみ
1740年、ポルトガル国王のリオ・デ・ジャネイロ総督ゴメス・デ・アンドゥラデは、何故イエズス会が彼らの領地をそれ程本気で守っているのかの理由は、彼らが鉱山を保有していることだ、と確信する一人だったので、ひとつの計画を思いついた。

彼の計画は、「国家的な」と呼ばれる夢想的な理由に基いて思いつかれたものの大部分と同様、心情というものを無視したものであったから成功の見込みは怪しいものであった。加えて、元々人間というものは、現在も将来も、強固な理由付けよりは心情によって千倍も影響され易いものである。それ故に、その計画は最初から本質的に失敗するに違いないものであったのだ。


両国間の争奪の的となって来たコロニアル・デル・サクラメントという所
ラ・プラタ地方のコロニア・デル・サクラメントは、100年の間、スペイン人とポルトガル人との間の衝突の原因となってきた。そもそも、「アメリカ発見」以来、スペイン人とポルトガル人は、南東部にわたって、常に競合関係にあった。現在のブラジルとアルゼンチンの間の境界は明定されたことがなかったのだ。

1494年、カスティリャの国王フアン2世は、ポルトガル国王とのトルデシリャスでの条約調印を決定し、両国間の分割線を、教皇アレクサンドロ6世の有名な大勅書の線より200リーグ(約1000㎞)西側に設定した。教皇アレクサンドロ6世の大勅書の線とは、1493年5月3日付でヴェルデ岬の西100リーグ(約500㎞)に設定し、世界を北極から南極までポルトガル・スペイン両国間で2分割したものである。

南アメリカでのポルトガルとスペインの間の紛争は、このトルデシリャス条約の締結から始まった。

コロニア・デル・サクラメントは、ブエノス・アイレスの殆ど正面に位置していたから、密輸業者のための倉庫としての役目を果たしていたし、さらに要塞化されていたから、パラナ川とパラグアイ川双方の航行に脅威を与えていた。イギリス、オランダそしてドイツの港からの奴隷商人たちが港に群がっていた。

あらゆる種類の武器がそこに貯蔵され、スペイン王に対する攻撃を企てる傭兵たちに配られた。再三、それらは持ち出された上返却され、教化村の先住民は常に最も効果的な軍事的な援助を提供した。

今話題にしている時期(1740年頃)には、ポルトガル人の支配の下条約が無視され、そのことがスペイン人にとって永続的な脅威となっていた。


コロニア・デル・サクラメントをウルグアイ地方の教化村7カ村と交換することの提案
ポルトガル領ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ総督ゴメス・アンドゥラデは、コロニア・デル・サクラメントをウルグアイの教化村7カ村と交換することを、そして、それによって直ちに金鉱を確保し、また両国領土の境界をウルグアイ川とするよう調整することを、リスボン宮廷へ提案した。

政治家にとって、一片の領土を他の領土と交換することほど簡単に見えることはないらしい。彼らにとっては、何らかの国際的な交渉の後に、羊皮紙に署名がされれば、全てが完了したことになるのだ。

しかし、このケースで起きたように領土の一つに、ウルグアイ地方の7カ村に住んでいたような住民が含まれていれば、そしてその領土は住民が移り住んでいる地方を領土化(征服)したものであり、あらゆる来訪者に対して防衛してきたものであるとき、道理を受け入れない住民が、彼らの家に執着して、政治家の案を撃退するということも、しばしば起きるのだ。

しかし、政治家というものは、如何なる計画であっても、一度その計画に乗り出すと、人々の家に対する愛着のような些細なことにはこだわらず、一国の大臣が考えることは、結局は人類にとって有益であるに違いないと考えることにして、ただ静かに(何も考えずに)自分にとって安易な道を進むのだ。如何なる政治家も、もしそのような感情を真に愛国的な観点から放棄するのでなければ、政治家の名に値しないのだが。他人の感情への無関心はおそらく、公人が彼の国家への忠誠に関して、与えることのできる最大の証である。(彼の国家に対する忠誠心は、他人の感情への無関心さの度合いによって測られるのだ。)


1750年、スペインはポルトガルに7カ村を譲渡することに合意して条約を締結した
数年にわたって継続した交渉の後、1750年1月13日ポルトガルとスペインの間でマドリード条約が締結され、前者(ポルトガル)はコロニア・デル・サクラメントをウルグアイ地方のイエズス会教化村7カ村と交換にスペインに譲渡し、両国はウルグアイにおける二国の境界を確定するための委員会を設けることに合意した。

1750年2月15日、スペイン王室は、7カ村のイエズス会士に対し使者を送り、先住民に彼らの住居から去って森へ行くよう準備させ、そこには新たな村を建設しないよう伝えさせた。その時の、イエズス会総会長はフランティシェク・レッツであり、ウルグアイの教化村のイエズス会士にスペイン・ポルトガル両王室の命令を伝える義務は、そのレッツ総会長に委ねられた。


先住民は退去要請を信じず、離村よりむしろ死を選ぶと宣言した
ベルナルド・ネイデルドルファ神父はパラグアイ管区長バレダから、両王室の要請を先住民に伝える任務を課せられた。彼は、教化村に既に35年間住んでいたし、先住民を良く知り、彼らから父親のように尊敬されていたから、最初はそのような任務に尻込みしたようである。

その知らせがウルグアイの教化村にもたらされた時、最初は先住民の誰一人として、それを信じなかった。7カ村の首長は、彼らの生まれ育った土地から離れるよりはむしろ死ぬと宣言した。


先住民はイエズス会に対しても非難の声を上げ、反乱を起こすに至った
悲嘆とポルトガル人に対する憎しみの表現以外に何も聞こえず、それらに、当然ながらイエズス会がスペインと結託して彼らをポルトガルへ売ろうとしていると哀れな先住民が信じているゆえの非難が混じっていた。直に、抗議の声が上がり、両王室の勅令に従うことを拒否するだけでは満足できず、先住民は反乱を起こした。

この反乱について、二つの重要な物語が存在する。一つはカルディエル神父によるもの、もう一つはエニス神父によるものであり、どちらも出来事の当事者であり証人である。

1753年まで続いた相当な交渉の後、ポルトガルとスペインの連合軍は割譲された村の占領を手配するために教化村領地に進軍した。


イエズス会は、会として先住民の反乱を扇動したのか
ウルグアイの教化村7カ村の割譲以降の出来事の日付の大部分は、イバニェスによって書かれた『イエズス会事件』(マドリ-ド、1768年)から取っている。イバニェスは元イエズス会士であるが、イエズス会の大いなる敵に転じた人物である。その中で、1750年から1756年の間のパラグアイでの出来事の説明は、「ウルグアイとパラナ地方でのスペインとポルトガル軍に抗して、イエズス会が支援した戦争の報告」と呼ばれている。

イエズス会が組織的に、先住民の反乱を扇動したということの証拠は、これまで全く提出されていない。ただし、血気にはやる神父タデオ・エニスが、彼自身が担当する教化村に関しては、先住民が抵抗するように駆り立てたことはたしかである。しかし、スペイン・ポルトガルに対し、成功するような戦いを進めることが可能であるとイエズス会自体が考えたことは、ありそうもない。

イバニェスが書いている日付は、スペイン側委員代表ヴァルデリリオス侯爵からの書簡と一致する。その書簡は、シマンカスのスペイン国立公文書館に保管されている。


国境設置委員会の両国の代表は、南アメリカに来る前からイエズス会に偏見を抱いていた
両国の代表委員は、スペイン側はヴァルデリリオス侯爵、ポルトガル側はゴメス・フレイレ・デ・アンドゥラデ司令官であり、どちらも南アメリカへ来た時には、既にイエズス会に偏見を抱いていたようである。

1752年6月28日、ヴァルデリリオス侯爵は、モンテ・ヴィデオからドン・ホセ・デ・カルヴァハルへの書簡に次のように書いた。「神父たちは、条約は必ず履行されねばならぬ、と既に確信している。」(ドン・ホセ・デ・カルヴァハルは、マドリード条約締結時のポルトガル側当事者である国務大臣)

もしこの通りなら、侯爵はこの書簡を書いた時には、イエズス会は条約の履行に反対はしないだろうという見通しを持っていたのだ。「そして、この覚醒で、彼らの村の移転に真剣に取り組んでくれるだろう。」とまで続いて書いている。


1753年3月24日、教化村領地について何か確定的なことを聞く少し前に、アンドゥラデはヴァルデリリオスに書いている。彼らは、教化村領地に関してはどちらも部外者であったにも拘わらず、アンドゥラデはヴァルデリリオスに、抵抗が予想されること、そしてイエズス会が先住民を抵抗するように駆り立てていると伝えている。「通知とともにアルタミラノ神父から私が受け取った書簡によって、イエズス会の神父たちは反乱者であることを納得し終えたと理解する。彼らを村から追い出さないと、聖なる神父様(彼らはそう呼ばれている)は無礼で侮蔑的な反乱以上のものは経験しないであろう。」
―イバネスによって引用され、シマンカス文書館に保管されている書簡『イエズス会事件』より)

なお、アルタミラノ神父とは、国境設置委員会に委員として加わった(加わされた?)イエズス会士で、管区長より高位の聖職者であり、以下「司教代理」の肩書で呼ばれている。


両国代表委員は先住民の抵抗を予期していた
ここから理解できることは、この時点で既に、二人の両国代表委員が先住民の抵抗を極めて確信的に予期していたということである。その抵抗とは、「無知であった先住民が、定住し、およそ100年間にわたり保有した土地を勝手に取り上げられることによって絶望的になったことによるもの」として、同時代の論客たちが、いみじくも説明したものである。その抵抗は実行され、パラグアイのイエズス会にとってだけでなく、広く世界中のイエズス会にとって、その結果は深刻なものとなったのだ。


先住民をスペイン人入植者の毒牙から保護しようとした故に、何か秘密を隠しているように見えてしまった
数年にわたって、彼らの敵は、イエズス会がスペイン国王権から極めて独立した国家を教化村群の中に樹立しようとしていると言っていた。しかし、それにはイエズス会が彼ら自身の振る舞いによって、それらの報道をもっともらしく見せてしまった面があったことは否めない。というのは、先住民の利益のために、教化村から全てのスペイン人を排除することによって、あたかも彼らが秘密にしておきたい何かに取り掛かっているかのように見えてしまったのである。なぜなら、スペイン人入植者が普通は獣とみなしていた先住民の幸福のために、自分たちの振る舞いを変えるまでして、実質的な奴隷制に対し真剣に抗弁するなどということは、当時彼ら以外には誰も考えていなかったのだから。


先住民のスペイン人入植者からの隔離政策について
教化村の先住民をスペイン人入植者から隔離することは、彼らイエズス会が遂行することのできる最善の策であったことは、ブエノス・アイレス総督ドン・フランシスコ・ブカレリによって施行された指導規則により充分に証明されている。ただ、その総督の主導の下、1760年のイエズス会追放は実行されたのだ。その規則には、次の条項が含まれている。

「如何なる身分、性質、条件のものであろうと部外者には、村(教化村のこと)に居住することを許容しないこと。たとえその者が機械職人であろうと、ましてや彼らが、彼ら自身または他の者のために取引又は契約する者であろうと。そして、インディアス法が順守されるよう特別に注意しなければならないし、特に第9巻の27条に含まれている者及び如何なるポルトガル人脱走兵、または如何なる条件を持ち村に来る他の人々も、彼らの逃亡を防ぐためにあらゆる予防措置を取って直ちに市に導くこと。」

これは、同一のテーマについて言及しており、如何なるスペイン人に対しても、アメリカの如何なる部分においても、先住民の村に定住することを禁じている。

なお、インディアス法とは、スペイン国王が西インド諸島、アメリカ大陸、フィリピン諸島の領地に対して公布した、一連の法律集を指す。対象地域の社会的、政治的、宗教的、経済的な生活を規定する、ブルゴス法(1512年)やインディアス新法など、入植者と原住民の間の交流を規制しようとする16世紀の重要な法律が含まれている。


教化村の先住民の保護・隔離政策に対する非難は止まなかった
彼らはあくまでも方針を遂行した。しかし、7カ村の引き渡しと修道会のアメリカからの追放の後も、それによってイエズス会の敵に先住民の保護・隔離政策そのものを非難することを止めさせることはできなかった。

膨大な遅延の後、1753年、国境設置委員会はサンタ・テクラのウルグアイ川近くに自ら新たな村を建設した。そして、そのために、イエズス会は彼ら自身何をしていたのか、また君主や修道会や彼らが統治していた先住民に対して彼らは何を責務として考え、如何にそれを果たそうとしていたのかを考慮することが必要となった。

それは、修道会の上層部が、ポルトガルとスペインに対して戦うことの無意味さを直ちに認めた一方で、下級の会士のうちの何人かは、愚かな法令に対する武力的抵抗を先住民に起こさせた流れに似ていた。


チャルカス高等裁判所への請願書提出
マササ、ホロス、カバジェロ、ロペスそしてロサノの神父達で構成されるパラグアイ地方の評議会がコルドバのイエズス会コレジオに招集され、ペル-副王とチャルカス高等裁判所に対する請願書を作成し、送付した。

ディ-ン・フュネスは、散漫な請願だと言っている。しかし同時に、好意的にではあるが、「教会人も猫も、めったにひっかき傷以上のものは作れない。」と言っている。それは、「聖人の言葉には、猫の爪ぐらいの効きめしかない」という意味だろう。

請願書の中で、彼らは最初に忠誠を申し出、それからスペインとポルトガルの大臣たちが、(南)アメリカにおいて助言者たちから言われたままに従わさせられてきた虚偽を暴露した。彼らは、条約が関係両国に損害を与え、7カ村の先住民に関しては特に不当であることを非常に的確に指摘した。

イバネスは(『イエズス会共和国』の第1巻第1章で)、この条約は、それによって商業があおりを受けることを恐れる英国とイエズス会を除く全世界に、全般的な満足をもたらした、と言っている。(英国が受ける「あおり」とは、密輸商品の入り口であったコロニア・デル・サクラメントの閉鎖である。)


条約に対するポルトガル側での悪評とスペイン側の警戒
また、元イエズス会士であるが、イバネスより遥かに人格高尚な男レイナルは言っている。

「この条約は両側で非難に遭った。リスボンでは、大臣達自身が、コロニア・デル・サクラメントを犠牲にすることは誤った政策であると主張していた。それは、コロニア・デル・サクラメントでの密輸取引が年間2百万ドルに達していたからである。領土というものは、その有利さは不確かであり、その位置は遥か遠いものである。抗議はマドリードでは、さらに強硬だった。そこでは、人々はポルトガル人は直にウルグアイ辺りを全て支配し、そこから川を逆上って、トゥクマン、チリそしてポトシへと侵入するだろうと想像した。」

チャルカス(高等裁判所)とリマ(副王庁)の両方で、請願書は冗漫であるとされたが、好意的に受け取られ、その写しはマドリ-ドの国王と審議会へ送られた。


上層部は両国の決定に従うと言い、現場の神父達は先住民の抵抗を扇動したとして、イエズス会は「二枚舌」だと非難されたが
イバニェスは、彼の著書『イエズス会共和国』の中で、この点に関するイエズス会の活動を「大罪」とみなした。ディ-ン・フュネスは「二枚舌」と見ているだけだが、イエズス会が置かれた状況の中では、それを容赦しているようである。

確かに、約200年を越える努力の末に、彼らの最も繁栄した教化村のうちの7カ村が強制的に解体された。そして、先住民は彼らの家から追い出され、彼らの領地が200年の間彼らを迫害してきた張本人であるポルトガル人に占領されるのを見ることは、彼らにとって何よりも辛いことだった筈である。

対応についての彼らの意見が現代の眼には如何に間違って映ろうと、イエズス会士だけが、「先住民は単なる羊の群れであり、如何なる口実でも、または一万マイル離れた所に住み地域的状況には完全に無知な宮廷の大臣たちの要求で、自分たちの家から追い出しても構わない」という考え方に対して屈しなかったことを思い出すとき、「二枚舌」についてさえ弁解理由として言うことはたくさんあった。


両国の新たな境界線確定を促進するための執行委員として、イエズス会士アルタミラノ神父が派遣される
請願書がスペイン宮廷に影響を及ぼしたか否かを言うことは難しい。しかし、確かなことは、1752年、スペイン側代表委員ヴァルデリリオス侯爵がブエノス・アイレスに到着したとき、彼とともに、国境設置委員会の執行委員として、ルイス・デ・アルタミラノ神父と彼の秘書ラファエル・デ・コルドバ(両名ともイエズス会士である。特に、繰り返しになるが、アルタミラノは司教代理の肩書を持っていたから、イエズス会内での彼の地位は、現地の総責任者である管区長より高かったことになる。)も到来し、ヴァルデリリオス侯爵は、イエズス会コレジオでの宿泊を承諾した。

報告書と請願書が侯爵に降りしきる雨のように寄せられた。ひとつは、トゥクマン司教から、またもうひとつは、パラグアイ総督ドン・ハイメ・デ・サン・フストから、重要性の低い人々からの多くのものも、全てイエズス会に味方するものであった。

ヴァルデリリオス侯爵は、これらの請願はあたかも言わされたもののように受け取ったようである。というのは、彼の最初の行動は、7カ村の司祭たちに、先住民による領地の明け渡しに関する、彼の要望を公表することだったからである。彼は、これを、スペイン宮廷の命令を実行しようという彼の熱意に真面目に対応してくれそうに見えた教化村の知事を通じて行った。


イエズス会パラグアイ管区長バレダの忠告
ちょうどその頃、パラグアイ管区長バレダがブエノス・アイレスに到着し、ヴァルデリリオスは、条約が粛々と履行されることを確かなものとするための最適な措置について彼の意見を求めた。

バレダは、彼の関心の全ては条約の実行に反対することであったが、真摯に行動したようである。彼は、「条約は、それを実行することの難しさを全く考慮することなくなされたものなので、いくらかの遅延を国王に要請しても罪とは成り得ないでしょう。」という賢明な忠告をした。

ちなみに、その昔、先住民をキリスト教に改宗させるための初めての英国への派遣に際して、聖アウグスティヌスに忠告した教皇の言葉は「ゆっくりと進め。」だった、と言われている。

実は、バレダはヴァルデリリオスに忠告するにあたって、偶々ブエノス・アイレスに居た3人の元パラグアイ総督に相談していたのだ。彼らの忠告は、「非常に急ぐことなど、先住民を刺激しやすいような如何なることも避けるべきである。」ということであった。先住民は自分たちの数や地域に関する知識に基いて、両国連合軍に対してさえ大きな問題を引き起こしかねないことが懸念されたためであろう。

管区長はヴァルデリリオスに、教化村の土地は肥沃であり、よく耕作されており、そのこと自体が先住民を彼らの土地から移住することに反対させるであろうことを伝えることで、教化村の状況を示した。

最後に、彼は、司祭の中で最も経験のある者として、「先住民は議論や理由付けに譲ろうとはしないだろう。なぜなら、自分の土地を手離すことを考えるときの憤怒で、ポルトガル人に対する憎悪が先住民にまさに我を忘れさせてしまうからである。」と言った。


ヴァルデリリオスはイエズス会コレジオにおいて協議会を招集した
ヴァルデリリオスは、それ程良い気分ではなかったに違いない。彼は、イエズス会コレジオに宿泊していたから、かなり自由に彼に提供される忠告の大部分は偏向がかかっていると感じたに違いなく、気分をほぐすために、彼は協議会を招集し、そこに管区長のバレダ、フアン・エスカドン(アルタミラノの叔父、パラグアイ・イエズス会副管区長)、彼の秘書、アルタミラノそしてラファエル・デ・コルドバが現われた。

協議会は「慎重さ」を勧告し、それも大多数がイエズス会士だったので、極端な「慎重さ」を推奨した。というのは、彼らは審議会を組織することを提案したのだが、その審議会は3年間の調査の後に、ブエノス・アイレスで判明した事柄を報告するというのである。審議会というものは、王室のものであるか否かを問わず、常に政府の掌のうちのトランプ・カードである。顔見世のような見世物付きのくだらないデモクラシ-の古き良き手法の一つに過ぎないのだ。

ヴァルデリリオスは、馬鹿ではなかったから彼らの意図を察知した。そして、国境設置委員会の執行委員のひとりであるアルタミラノを直ちにカスティ-ジョスに送り(1752年)、フレイレ・デ・アンドゥラデとポルトガル人に会わせ、すぐに新境界線を引くことに取り掛からせた。

アルタミラノは、イエズス会士であるが、とにかく最初は、条約が履行されることを切望しているようであった。1752年9月22日、彼はサン・ボルハ村から、マティアス・ストロナ-神父に充てて書き、全てのイエズス会士に7カ村の引き渡しを実行することを支援するよう指示した。

彼の忠告によって、フレイレ・デ・アンドゥラデとヴァルデリリオスは、カスティ-ジョスで会い、約20リーグ(約100km)の境界線を引いた後、各々、コロニア・デル・サクラメントとブエノス・アイレスへ戻った。


教化村・先住民の反応
教化村では、事態は殆ど革命の様相を呈していた。ヴァルデリリオスが、ブエノス・アイレスに到着して最初に実行したことは、教化村先住民による領地の明け渡しに関する彼の要望を、教化村の知事を通じて公表することだった。

そして、その教化村の知事からの手紙がサン・ミゲル村に着いたときには、先住民は教会の外に集まり、彼らが移転しなければならない土地の状況を知って、彼らの憤怒は限りなかった。彼らは皆、彼らは彼らの土地を祖先から、または神の恩寵により相続したのだ、と言って移転することを拒否したのだった。

また、彼らは、バレダ管区長によってヴァルデリリオス侯爵に提出された請願書(シマンカス国立公文書館保管)の中で、言っている。「我らはキリスト教徒になった後、国王の権力で身を守り我々の敬虔なキリスト教信仰が強まるように、自発的にスペイン国王の臣民となったのだ。それ故、我らは我らの最も残酷な迫害者であるポルトガル人に自発的に服することは、あり得ない。」

彼らの模範に、さらに3カ村が直ぐに続いた。そして、事実上、スペイン王権の秩序に対する完全な反逆的状態が続いて起こった。ちょうどこの頃、司教代理であるアルタミラが到着し、非常に深刻な状況を目にした。


管区長バレダからヴァルデリリオス侯爵への書簡
教化村群の管区長司祭ホセ・バレダは、1753年8月2日付の興味深い書簡の中で、ヴァルデリリオス侯爵に、7カ村の先住民居住者3万人が騒ぐことのみならず、彼らが他の教化村の先住民と連携すること、また彼らが皆、棄教し森へ還っていくことがあり得ることを恐れる、と伝えている。

ブラボ神父は、彼の『南米諸国の地図帳』(マドリ-ド、1872年)の覚え書きの中に、この書簡の大意を記している。『南米諸国の地図帳』は彼のコレクションの一部をなし、今までに集められたパラグアイとボリビアのイエズス会についての興味深い膨大な量の記録書類を含んでいる。

1872年、彼の『地図帳』、彼の『書類のコレクション』と彼の『在庫台帳』を刊行した後、彼は数にして3万を超える書面をマドリ-ド国立歴史文書館へ提出した。それらの書類はそこに残り、根気強い学者たちのための豊かな鉱床となっている。彼らは、手に投げ縄を持って馬の背で若い時代を過ごしてしまうようなことはなかった人たちだ。


アルタミラノが到着後に直ちに行ったこと
司教代理アルタミラノは、7カ村のイエズス会士たちに、もし彼らが王令を実行することについて、彼を支援しないならば彼らが危険に晒されることを示すことに着手した。彼は到着してすぐに、ドン・ホセ・デ・カルヴァハル・イ・ランカスタ-(国務大臣・マドリ-ド条約に関する責任者)へ更なる軍隊を送ることを要請し、何人かの司祭たちには、火薬を破棄しこれ以上の製造を止めるよう書き送った。

「司祭、宣教師が保有する火薬は全て焼却し使用不能にし、(武器である)石は川に捨てること。また、製造していた村では、今後その作業を停止すること。」
ただし、シマンカス文書館に保管されているヤペユの日付のある他の手紙では、彼は旅行の苦痛について酷く不平を言っている。「荷馬車は、二度と乗れない程がたつきが酷く死にそうだった。」教化村への道は、歴史的絶叫を起こすもの程に悪かったようだ。

極めてあり得ることは、もしアルタミラノが同僚の会士たちと秘密の合意をしていなかったなら、彼の手紙は彼らを非常に驚かせたに違いないし、彼らはきっと先住民たちを怒らせたであろうということだ。というのは、先住民たちは、アルタミラノはイエズス会士では決してあり得ないと明言していたのである。

アルタミラノの行動の別の側面
確かに、イバニェスが彼の『イエズス会国家』(マドリ-ド、1768年)の中で、アルタミラノの行動の非常に異なる側面を記してしている。というのは、アルタミラノの秘書であるラファエル・デ・コルドバが、ラ・レアルという名の帆船に大量の銃と弾丸のための鉛を全て箱詰めにして積み込み、帆船は「敬虔な性質のもの」で一杯になった、とイバニェスは書いているのである。イバニェスは、これは、帆船の船長イギリス人ホセ(信用に値する人物)が自分に言ったことだ、と述べている。


アルタミラノは先住民からイエズス会士であることを疑われていた
セペ・トゥヤラグという名の先住民首長の下、600人の先住民が、サント・トメ村に入ったが、そこはアルタミラノが、自分がイエズス会士であるか否かを明らかにする目的を認めたたうえで、住居を定めた所で、もし後者の想定(彼がイエズス会士でないこと)が正しいことが証明されれば、ウルグアイ川に投げ込まれることも承諾していたのだ。しかし、アルタミラノは、彼が来るのを待たずに、突然ブエノス・アイレスへ戻ってしまった。

非常に興味深い書簡(シマンカス公文書館保管の)中で、サン・フアン教化村の村長と自治会が、彼らの敵であるとしてアルタミラノを酷く非難し、彼に対して次のように言った。
「神が送った聖ミカエルは、自分たちの気の毒な祖先に、十字架を埋める所を示し、十字架から真南に進め、そうすれば、イエズス会の神聖な神父さんを見つけるだろうと言った。これは、もちろん、聖人が予言した通りだったのだ。そして、長い行程の後、我々の祖先はイエズス会士に出会い、キリスト教徒になったのだ。」


先住民の大群に包囲された連合軍の報告に現れるタデウス・エニス神父
両国領土の境界を設置しようとしていた委員会は、森に埋もれ、または川に沿って進み、1753年2月26日にサンタ・テクラに着くまで、先住民の間に何が進行しているのかを全く知らなかった。先住民の動向に関して、彼らが最初の知らせを受けたのは、彼らが先住民の強力な軍隊に包囲されていることに気付いた時であった。

将校の一人、ドン・フアン・デ・エチェヴァリアは、進軍について興味深い報告を残したことで知られ、ディ-ン・フュネスやイバニェスと大部分の筆者は、その話題については、その報告から写したに違いないのである。

この報告は、失われたようである。そして、綿密な探究が行われたが「シマンカスの大渦巻」(シマンカス国立公文書館の膨大な記録書類の蓄積)からは発掘されていない。その「大渦巻」は、非常に多くの書類の監獄であり、その助けなしには、スペインの歴史の多くを描くことは出来ないのだが。

確かに、エチェヴァリアは、最も近くのイエズス会司祭に仲裁(調停)をしてもらうために、彼を呼びにやった。そして、その彼が幸か不幸か、あのタデウス・エニス神父だったのだ。エニス神父は、イエズス会の敵が「イエズス会戦争」という仰々しいタイトルで、威厳を付けることに決めたが不首尾に終わった蜂起で目立った役割を果たすことになる。


エニス神父の真意は
エニス神父が本当に、先住民はスペイン人とポルトガル人の双方に強い態度に出ることが出来ると考えていたのかどうか、または、蜂起によって条約の不当性に注意を引くことが出来ると考えていたのかどうかを、言うことは難しい。本当に彼自身が先頭に立ったのか、それとも、彼は単に先住民の精神的指導者として、今もその時も全ての時代の野心的な教会人のやり方に習い、世俗的な事柄に関する忠告によって、彼らに利益を与えながら寄り添っていただけなのか、今となっては分からない。

エニス神父の日記は印刷され、イバニェスによって削られ台無しにされたが、彼の『パラグアイ共和国』によって、「短い戦争」の最良の報告が我々に伝えられている。それは、カルディエル神父の『真実の言明』によって補足され、イバニェスその他の反イエズス会の人々が誤って述べたことについて記されている。戦争におけるエニス神父自身の役割について、彼は「そして、軍隊は祈祷師と一緒に行く必要がある。(祈祷師は)精神的な医者である。」と述べている。

この件に関するエニス神父自身の意見がどうであろうと、彼は殆ど最初から妥協するということの出来ない人と見られていた。彼は、国境設置委員会の代表委員たちに会うことも拒否し、自分の側からは先住民の首長を送った。その首長の一人が、セペ・ティヤラグであり、彼はサン・ミゲル村の役員であった。

この首長は、委員会の護衛が見たところでは、やや小柄で、長靴を履き、高所に立って、人権について愛国について大胆に語り、自由は彼の財産を平和に享受することが許容されるところに存在すると言い、その感覚は白人の言葉としては充分立派なものだったが、有色人にとっては写本にふさわしい(陳腐なだけの)ものだった。

エニス神父の日記は印刷され、イバニェスによって削られ台無しにされたが、彼の『パラグアイ共和国』によって、「短い戦争」の最良の報告が我々に伝えられている。それは、カルディエル神父の『真実の言明』によって補足され、イバニェスその他の反イエズス会の人々が誤って述べたことについて記されている。戦争におけるエニス神父自身の役割について、彼は「そして、軍隊は祈祷師と一緒に行く必要がある。(祈祷師は)精神的な医者である。」と述べている。

これらのような議論は、首長のおそらく攻撃的な口調とともに、国境設置委員会の代表委員たちに影響を及ぼし、彼らは復讐すると彼を脅かした後、その時点では彼らには実行する力が無かったので、両国の代表委員とも領地から引き揚げて行った。


スペイン・ポルトガル連合軍の戦いの進め方
フュネスが、よく観察しているように、スペイン軍は、ラプラタ及びパラグアイ地方で、先住民から無条件降伏を得るべく、自己の立場を確立した。(ディ-ン・フュネス『パラグアイ国内史の随筆』)どのような抵抗も、彼らを激怒させ、彼らを復讐へと駆り立てた。

先住民の罪は、彼らが生まれた土地を進んで手放そうとしないことだけなのだから、たとえ国王への彼らの請願が拒絶されてしまう前であっても、彼らを虐殺したりすることは(余りにも残酷で)、いささか困難であるように見えた。(「普通に考えると、7カ村の引き渡しの決定を取り消して欲しいという、先住民の国王に対する請願が拒絶された後に先住民を虐殺することはあまりにも残酷でやり難いだろうが」という意味だと思われる。)

非常に可能性の高いことは、全てが準備されていたことだ。なぜなら、スペイン側のヴァルデリリオス侯爵は直ちに命令を発したのだ。その命令については、スペイン国王からブエノス・アイレス総督アンドナエギへの戦争に備えるための書簡によって、ヴァルデリリオス侯爵は既に権限を与えられていたのだ。


エニス神父の日誌
積極的な戦争行為は、1754年にはじまった。そしてエニス神父は、起きた事柄について司祭らしくラテン語で日次の報告を書いていた。

幸いにも、イバニェスの『パラグアイのイエズス会共和国』は、エニス神父が犯した多くのスペルやラテン語法の間違いを修正していない。イバニェスは、イエズス会に対する厳しい敵であったから、彼が書く時の癖に人間性がよく現われている。しかし、イバニェスが、日誌の文章をかなり削って骨抜きにしたので、時折意味が不明瞭になっている。

いくつかの小戦闘の後で、その小戦闘は最初は先住民に有利だったので、先住民はそれらから大いに勇気を出したのだが、最初の重大な交戦は1754年2月24日に起きた。


戦況
極めて当然ながら、勝利はより充分に武装した大隊の側にあり、先住民は多くの最良の人々と、彼らの最大の大砲・武器を失った。様々な成功とともに、戦争は、20年前によく起きたラ・プラタ地方でのガウチョの戦の型や、ヴェネズエラでのものや、今でも進行中のものなどに習って、数年間だらだらと長引いた。

それぞれの側が、交互に相手の馬をさらって行き、お互いの牛に乗り、または、もし敗残兵を捕らえれば、彼の手を縛り、喉を掻き切って槍を刺し、人員を失った側は、彼が虐殺されたと抗議した。その「虐殺」という言葉は、今日でも敗北した側によって使われている。

最初の2年間は、何故なら南米での戦争は、20年前まで、トロイ戦争のように目一杯長々と続いたから、タデウス・エニス神父は、自分の日誌に彼の見たもの全てをまじめに記録し続けた。

タデウス・エニス神父の記録
彼は、時折はおざなりの言い方で、反乱を起こした先住民に関する彼の使命は、信者の精神と肉体にとっての司祭であり内科医としてのものだと言っている。しかし、彼は、約30台の荷馬車軍団の捕獲や、管区長からの通信を運ぶ使者の妨害について、今日も明日も書き記すのだ。

この中で、彼は、イエズス会を助けるために差し出される神の手を見る。先住民が折角得た何らかの成功を引き起こすことに怠慢であると、今日も明日も文句を言い続けるのだが。最初の出会い以降、先住民は戦場を征服した連合軍の強さの全てをかなり頻繁に浪費させるための太古からのゲリラ戦術を採っていたようだ。


先住民軍の実態
カルディエル神父は、先住民に抗して従軍したスペイン人将校の書いたものを引用して、先住民軍を非常に軽蔑に値するものとして描いている。

彼らの大砲は、ただの空洞の鉛で、皮でぐるりと縛られ、重さ1ポンド(約500グラム)の砲弾を発射する。彼らが持っていた、いくつかの槍と弓矢は、彼には、さらにどうしようもないもののように見えていた。

彼らの大部分は、聖人の姿を描いた旗を携行し、その聖人の盾によって砲弾から守られるのだ、と彼らは考えていたのだ。彼らの塹壕は、ほんの浅い溝で、そこに隠れるための2,3のより深い穴が付いていたが、カルディエルが観ていたところでは、軍事技術のかけらもなく作られて、大砲に対して開かれていたので、それらの多くは墓として役立ってしまった。

スペイン人将校が付言するところでは、先住民は大砲の音を聞くや否や、900人に近い者を戦場に残し、6分の1の捕虜を失って逃げ出した。(これは、1756年の戦闘でのことである。)

将校がついには、うんざりしながら述べていることは、事件の公式記録者は、先住民は訓練された軍隊に対し如何なる抵抗も出来たと言明するとき、最初から最後まで嘘をついている、と言うことである。運に左右されて、軍事行動は、1756年までだらだらと長引き、全くまずいラテン語で書かれたエニス神父の日誌は、サン・ロレンソ村の奪取で急に結末を迎え、そこで心の頑丈な司祭が捕虜に捕られる。


エニス神父の記録の使われ方
彼の書類は、友好的でない者の手に落ち、イバニェスによって様々な文節でしっかり歪曲化された文脈で利用され、カルロス3世の下でのイエズス会の追放において、イエズス会に対する最も恐るべき告発状のひとつとして役立つこととなる。

タデウス・エニスと他のイエズス会士が軍隊に付き添い、彼らの忠告によって間違いなく大いに助けられていたのだが、先住民は、当時の官報でパラグアイ国王と呼ばれたニコラス・ネエンギルという者を司令官としていた。


パラグアイ国王ニコラス・ネエンギル
この男については、あらゆる種類の途方もない伝説がすぐに湧き起こる。ひとつの小さな寝そべって読むような本『ニコラス1世物語 パラグアイ王にしてママルスの皇帝』は、標題ページに「聖パウロ出版」(1756年)とあり、特に優れている。

マメルコスまたはパウリスタ(ブラジルの奴隷狩りポルトガル人集団)は、もちろん、全てのパラグアイ人の敵であることから、国王は、同時に「アイスランドとパラグアイの」と呼ばれた。黄色っぽい紙に印刷された、人が見たくなりそうな標題ページの上に、果物と花かごのとても上品な小さな装飾模様の付いた僅か170ページのその短い作品に、12折り判のスペインの悪漢小説のパロディ-の一種が、雰囲気とともに提供されている。


スペイン・アンダルシア生まれのニコラス・ルビオニの伝記
ニコラス・ルビオニは、確かに1710年、タラトスという名のアンダルシアの村で生まれている。名前は初めから、確信に満ちている。そして、フランス語では、全ての音節に等しいアクセントを置いて発音され、喜歌劇に非常にうるさい人が願望しかねない程に、極めてスペイン的である。

彼の父親は、「昔の軍人」で、彼が最も望むように自分を自身で教育するように放って置いた。18歳になって、彼は家出してセヴィリャへ行き、ミゲル・セルヴァンテスの青春小説に出てくるような何度かの冒険の後、ラバ追い人になり、メディナ・シドニアで人を殺して逃げざるを得なくなり、マラガに戻り、そこで10年間平和に暮らす。

やがて、そこでの生活を退屈に感じ、アラゴンに旅をし、イエズス会に入り、それから彼の生活は確かなものとなる。ある程度の時間の後、彼はウエスカに再び現われ、すぐに美しいスペイン人ドンナ・ヴィクトリア・フォルティミとの恋に落ちる。彼は、セヴィリャの紳士のふりをして彼女に言い寄り、毎晩イエズス会の修道院に戻り、服装を変えていたのだ。


聖職者の植民地でのいつもの無軌道ぶり
厚かましさが、余りに膨大なものになって、彼は「その美人」と公式に結婚したが、イエズス会は了解していたのか、それとも、余りにびっくり仰天して口出し出来なかったのかは不明である。

ウエスカでは、事態が沸騰し、彼は宣教師として、ブエノス・アイレスへ船出し、気の毒なドナ・デ・ラ・ヴィクトリアは取り残され、死ぬほど心配した。そうするしかなかったのだ。

ブエノス・アイレスに着くと、それはちょうど7カ村のイエズス会教化村譲渡の時で、彼は好機と見て、ほんの6~7週間の短い間、グアラニ語を習い先住民軍に加わった。

先住民は、当然イエズス会の外部の全ての外国人を敵として見るように訓練されていたが、彼のことは彼らの王として受け容れた。「自由の太陽と星の子」という肩書で、かれは神とみなされ、彼らを支配する。パラグアイのマメルコス帝国への参加の直後に、世界を手に入れたときには世界に彼の歴史を加えることを約束して、彼は王位に着き、短い偽りの歴史記録を残す。

聖パウロ出版で印刷された偽りの小さな本に含まれているもののような物語によって、簡単にものごとを考える大衆は、その頃も今も、いつも真実よりは偽りによって、より簡単に印象づけられるから、パラグアイのイエズス会に対し偏った見方を持った。


ドブリゾファ神父が語る「先住民」ニコラス・ネエンギル
ドブリゾファ神父は、「ニコラス王」を若い頃から知っていたから、彼の経歴の全く別の版を残したが、その中には、「愛の女神の婦人」も「ドンナ・ヴィクトリア」さえも遠く離れて在世してはいない。

ニコラス・ネエンギルはラ・コンセプシオンの教化村に生まれ、そこで後年、村長になった。。彼は、「アンダルシアの美人」ではなく先住民と結婚し、ドブリゾファ神父が言うところでは、ジールハイム神父という彼の友人が、ネエンギルが若かった時、ささいな盗みで、公開で彼を鞭打ったことがあるそうである。

彼は、1753年、サン・ミゲル教化村の村長であるホセというもう一人の先住民とともに、先住民の反乱を率いたが、中年で背が高く無口で威厳があり、頬を横切る醜い傷跡はあるが容貌悪からぬ男であった。

パラグアイでは規則によって、先住民は司祭どころか修道士にさえ決してしてもらえなかったから、彼はいつになってもイエズス会の修道士にはなれなかったのだ。

その男は当局から殆ど恐れられていなかったから、先住民の抵抗が一旦終われば、スペイン軍のキャンプへ行き、静かに除隊し、それから、自分の生まれた土地の村長としての官職に就いたのだ。


グアラニ語の間違いから生まれた伝説
伝説は、グアラニ語の間違いから生まれた小さな悪意が、その巧妙な魅力を間違いに与えたのだろう。

グアラニ語では、「ルビチャ」という言葉は首長を意味するが、「ンフラビチャ」は国王を意味する。この二つの言葉は、言語をよく知らない者によって発音されると、同じ音に聞こえる。最もあり得ることは、先住民が、彼らの大将を「首長」と呼んだことである。

もし、彼らが本当に国王を押し立てようと考えたのであれば、きっと彼らは誰かよく知っている首長の家族のひとりを選んだであろう。そして、それは、イエズス会士によって指名されただけの村長である先住民ではなかった筈である。しかし、それはともかく、ネエンギル大将はいくつかの興味深い手紙を残していて、それはシマンカス公文書館に保管されているが、彼には指揮権限が無かったことを示している。

ちなみに、先住民が指導者としての何らかの適性を示したとしている唯一の男は、セペ・ティヤラグと呼ばれる酋長である。1756年、活動中の彼の死に際し、ニコラス・ネエンギルが彼の地位を継いだのだ。

軍事行動の間中、ネエンギルは自分の技術不足を、策略や陰謀で埋めることに努めたが、それは非常に役立たずな性質のものだったので、それらは旨くゆかず、すぐに無駄になったということだ。


ネエンギルとブエノス・アイレス総督の戦い
彼が、銃で充分に武装した約200人の部隊を持つブエノス・アイレス総督アンド・ナエギに対し、自分は1700人の兵隊と共にいることに気付いたとき、彼の最初の努力は時間を稼ぐことだった。

ネエンギルはアンド・ナエギに手紙を送り、先住民は服従する用意があると伝え、答えを待つ間、彼の保持していた要塞を強化することに取り掛かった。スパイから警告を受け、アンド・ナエギは直ちに攻撃した。そして、先住民を羊の群れのように塹壕から追い払い、彼らの木製の大砲、槍、旗を取り上げ、1300人を殺した。


栄誉も価値もない連合軍の勝利
連合軍の栄誉に満ちた勝利、それはエニス神父が言うように、予期された、そしてもし偶然そのようにいかなければ、スペイン人とポルトガル人を恥辱で覆ったに違いないものであった。

事実、その時以来、充分に武装したヨーロッパの軍隊が半裸で充分に武装していない未開人と対面したときの同種の勝利は、極めてありふれたものとなった。もちろん、それは勝利者に何の名誉ももたらさず、その名誉は、食肉処理業者が牛を処分した時に、当然のこととして受け取るものと、ちょうど同じ程度のものだったのである。


スペイン・ポルトガル両国間の紛争
ニコラス・ネエンギルに対する勝利の後でさえ、同盟の関係はしっくり行っていなかった。互いに憎みあっていた同盟の間のいつもの紛争は、今にも勃発しかねず、ポルトガル軍司令官ゴメス・フレイレは相当に機転を利かせて、スペイン人との衝突を避けることに腐心していた。


7カ村の平定
2~3カ月間の短期の軍事行動の後、連合軍は、反抗的な教化村群に入り、サン・ロレンソ村の例外を除き、それら全てを占領した。サン・ロレンソ村は、未だ耐え忍んでいたのだ。それを、鎮圧するためには、更に1~2カ月を要した。

そして、7カ村全体の領地は、ポルトガルとスペインの連合軍の力に屈した。戦闘は終わり、ネエンギルは平穏にコンセプシオン村の村長に復帰した。傷付いた木製の大砲は、遺物としてしっかりと据え付けられ、死者たちは、原野や低湿地にチマンゴスやカランチョスが腹一杯に食べられるように放置され、然るべき法の権威が再度主張され、征服者たちは、1757年、両キリスト教国王の領土の間の境界線を引くことに取り掛かった。

7カ村は廃村と化した
7カ村の大部分は廃村と化して、先住民は森へ避難し逃げてしまい、国境設置委員会は自分たちが作った砂漠の中で、自らの仕事に取り掛かった。

ウルグアイ地方の繁栄した7カ村に住んでいた1万4千人の先住民のうち残った者は、ほんの僅かである。未だ平定の任務と境界線の作業がのろのろと続き、1753年から1759年までの間、全く重要性のないことが行われていた。

カルディエル『真実の証明』
村々からの逃亡の後、そこに着き……、
孤独と混乱に非常にさいなまれた二人の神父を連れ出す……。


7カ村のスペイン領への返還・復帰
1760年、フェルディナンド6世が死去し、彼の息子カルロス3世が後を継いだが、国境設置委員会はパラグアイで夢も希望もなく作業を続けていた。

イエズス会は、それまでの8年間、ポルトガルに7カ村を譲渡する条約を無効にするために、休むことなく働きかけ続けてきたが、漸く1761年に、カルロス3世から、なされていたこと全てを帳消しにし7カ村はスペイン国王の領土の一部に残るべきことを規定する、条約を獲得した。


7カ村はスペインに返還されたが、イエズス会は勝利から一転、破滅に向かう
イエズス会は勝利した、しかし彼らの勝利は、彼らが破滅に向かってもう一歩踏み出すことを意味した。というのは、彼らが粘り強い闘いによって呼び起こしてしまった妬みが、スペインにおいて彼らに対する多くの敵意を育てたからである。

先住民の抵抗の中で、彼らの占めた部分がどれだけの大きさであったかを、正確に知ることはできない。シマンカス公文書館に保管された書類は、先住民が抵抗するよう煽動したとして、イエズス会を非難している。それらは、主にヴァルデリリオスなどからのもので、彼らが抵抗というものを見ると、何でもすぐにイエズス会のせいにした故のもので、イエズス会を虐待することは、今と同様、当時も「はやり」だったのである。

書簡(シマンカス公文書館保管)の中で、ヴァルデリリオスは、ブエノス・アイレス総督ドン・ホセ・デ・カラヴァハル・イ・ランカスタ-に以下を述べている。
「条約を遅らせ、批准させないために使われる神父たちの体力は限りない。」

しかし、彼は、イエズス会が国王に請願書を送ったこと以外に何かをしたということについての根拠は何も示してはいない。それに、請願書を国王に送ることは、イエズス会士にとって、なすべき極めて合憲的なことであったのだ。


イエズス会が先住民に降伏を勧めることは、先住民にとっては、逆に励ましになった
先住民、彼ら自身は当惑したようではあるが、一方で彼らの司祭たちによって、また他方で司教代理アルタミラノ(彼自身もイエズス会士である)が司祭たちに降伏することを求めるのを見て、勇気付けられていたのである。


先住民が、ブエノス・アイレス総督宛てにグアラニ語で書いた手紙
1756年2月28日、サン・ルイス村に滞在中のプリモ・イバレンダがブエノス・アイレス総督宛てに書いた悲壮な手紙に次のようにある。

「あなたは我々に、最後に我々の運命はどんなものになるかを言うだろう、ということと、あなたは何をするかを決断すべきであること、を私はこの手紙であなたに書き送る。

去年、司教代理神父(アルタミラノ)が、我々のこの地に来て、ここから去るように言って我々を悩ませたことが、どのような(辛い)ことだったかをあなたは知っている。

我々の村や我々の全ての領地から去ることが、我々の君主である王の意思だと言って。

それ以外に、あなたは我々に厳格な書簡を送り、我々の村を焼き、畑を破壊し、とても美しい我々の教会を引き倒すと我々に伝え、あなたは我々を殺すだろう、と述べた。

あなたは、また言う。そして、それ故、我々はあなたに、それが真実か否かを尋ねる。もし、それが真実なら、我々は皆、聖体の前に死ぬだろう。

しかし、教会を助けよ。なぜなら、それは神のものだからである。そして、異教徒でさえ、教会に害を与えることは、ないのだから。」

この手紙は、元々はグアラニ語で書かれ、その公認の翻訳はシマンカス(国立公文書館)にある。


彼らは言い続ける、彼らは常に国王の従順な臣下であった、そして、国王の願望が彼らを傷付けることはあり得ないと。事実、半文明化され、公正さと、寛容さと、正しい行いを考える罪なき男の手紙は、総督や国王の存在と共に知られるべきものである。


村落が荒廃して初めて、7カ村の割譲の見直しがなされた
もし、多くのイエズス会士が、戦うつもりになれば、その地方についての彼らの知識と、先住民に対して彼らが持っていた広汎な影響力は、ポルトガルとスペインが連合した軍事力にとってさえも、軍事活動を充分に危険なものとしたであろう。

そうであったために、悲惨な戦争は8年の長きにわたってだらだらと続き、以前は先住民が幸せに暮らしていた7カ村を、結果として徹底的に荒廃させたのである。

それから、田畑は荒廃し、村落はさびれ、先住民が殆ど離散した時になってやっと、スペインやポルトガルの政治家たちは、条約を破棄し、自分たちが起こした荒廃と悲惨を拭い去るための外交的措置を講ずることが妥当という方向に考えを改めたのであった。



〈つづく〉





























# by GFauree | 2022-11-30 13:08 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

消えていった或る理想郷 そのXI 第8章            果たして海外宣教は意味があったのか


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『A VANISHED ARCADIA』(消えて行った或る理想郷)
Robert Bontine Cunninghame Graham (ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)著

その第8章である。

この章の初めの部分は、イエズス会出身者で無理やり総督になった末に、そこから引きずり降ろされ、ついには処刑されてしまったホセ・デ・アンテケラの話である。

彼が総督職に就いたせいで、イエズス会がアスンシオンから追放されてしまうという影響を受けたという意味で、我らが教化村事業にも波風は立ったのだが、既にフランシスコ会出身のカルデナスの前例があるのでそんな話にも別に驚かない。カルデナスは、司教という宗教的権威の座にあったから、その彼が総督の座という世俗権力を狙ったという野心には凄みがあるが、アンテケラは、元々官僚でその男がもっと出世しようとしたという話だから、不思議でも何でもない。とにかく、イエズス会の周囲にはこういう人物が多く棲息していた、ということなのだろう。

その後に、色々と教化村事業の実態を示す話が出て来る。

筆者は、教化村事業が進められる中で、先住民に殺された神父たちが少なくなかったことに、自分が正しいと考えたことに対する、ひたむきさ、忠実さと、聖書の教えを正しく理解する考え方に通ずるものを見る。しかし、同時に「果たして、海外宣教は意味があったのか」と考えざるを得ない。

先住民は、彼ら自身の運命を、他人のお節介な干渉なしに自分自身で追求させる方が良いのではないか。役に立たず有害な「犠牲に関する思想」などというものがあるために、パラグアイのイエズス会士に高い評価が与えられるのであろうが、もしそんな思想が無ければ、彼らの活動は無意味と見られるのではないか、と考えるのである。

ある神父は、先住民のために涙を流し、彼らを救いたいとの熱意に燃えていた。しかし、一人の老齢の先住民から、「神父の存在は有用だが、農作物の収穫を豊かにする肥料としてだけのことだ。」と言われた。

しかし、彼は野菜と果物に溢れた森での自由な生活に先住民が満足しているとは、どうしても思えなかった。彼にとって満足を感ずるには、先ずキリスト教の信仰が必要であり、ヨーロッパ的な教養は自由以上に価値があり必要なものだったからである。これは、言うまでもなく、南米での布教だけでなく、日本のキリシタン宣教も当然抱えていたはずの問題である。


さて、以下に第8章の内容をご紹介しよう。


第8章の内容
・ドン・ホセ・デ・アンテケラは、自分をアスンシオン総督に任命した
・町の不安定な情勢
・アンテケラは不法に入手した権力を棄てるよう命じられる
・彼は拒否し、武力に訴える
・ある程度の成功の後、彼は敗北し死刑の宣告を受ける
・断頭台に向かう途上、彼は撃たれる
・イエズス会に対する憎悪が再発する
・チャコの先住民の中での彼らの苦闘

1650年のカルデナスの死去から1720年頃までが、パラグアイのイエズス会教化村群にとって平和な時期であった。その間、教化村の中では、事態は私が描こうとしてきたように、進行していた。人々は、絶やすことのない祈りと反共産主義的な労働の中で、時間を過ごしていた。彼らの牧者が、その時代の科学によって可能となったこと全てを、彼らに教えていたか、そうでなかったかは明白ではない。しかし、教化村の先住民の人口は、南米の他国で年々、そしてパラグアイのスペイン居留地で見られたようには、まだ減少していなかった。


激減した先住民の人口
カルディエル神父は、彼の『真実の証明』(p.449)で、以下のように述べている。

「スペイン統治下の先住民の減少について、次のことを考慮すると、神が如何に正しいかがよく分かる。
前世紀(1600~1700年)の人口調査によれば、サンチャゴ・デル・エステロの市と管区には、先住民が8万人いたが、現在では、やっと80人である。トゥクマンのコルドバの管区には4万人がいたが、今はやっと40人である。ブエノス・アイレス市の管区と近辺には3万人がいたが、現在では、やっと30人である。」


この期間に、イエズス会は絶えず努力を払ってはいたが、パラグアイ川西岸上のグラン・チャコ平原の未開の騎馬部族の中に教化村を建設するについては、実際に成功が得られていたという訳ではなかった。

1721年に始まって、最後は彼らの追放に至る出来事を暗示するような、または、国王カルロス3世にスペイン国王の領土からの全般的追放に、パラグアイのイエズス会を含ませる理由を追加的に与えるような明白なものは何も無かった。


パラグアイ総督にアンテケラが任命される
その年、1721年にドン・ホセ・デ・アンテケラは任期が終了したパラグアイ総督ドン・ディエゴ・デ・ロス・レイエス・バルマセダを継承するべく、任命された。スペイン植民地で頻繁に起きるように、チャルカス高等裁判所での審理の継続中、総督バルマセダの行動に対する調査によって、状況は混乱した。というのは、その法廷は、カルデナスの事件と同様に、パラグアイから遠く離れた位置のせいと、スペインの法律に関係する全ての過度の遅延のせいとの両方で、非常に緩慢に活動したからである。

もし、バルマセダが有罪と判決されれば、そのときアンテケラは直ちに後釜に座っただろう。一方、もし彼に無罪が宣告されれば、法定の任務の期間が成り行き通りに過ぎるまで、アンテケラは待たねばならなかったのだ。


前任総督バルマセダに対する調査が長引いたので
それまでのところ、全ては正常だった。しかし、高等裁判所は自身の賢明さについて、または明確に判決を宣告する能力について、のどちらかに疑いがあったため、バルマセダを彼の職務から休職させる命令を発していたが、彼に対しては、有罪とも無罪とも宣告してはいなかった。

また、彼らは3年以上かけて証拠を厳密に調べ証人を喚問した後に、バルマセダに対する休職命令を行った。証人たちは飢餓や先住民や、ブエノス・アイレスへ向かってラ・プラタ川を下ること(その旅は、往々にして1カ月はかかった)による差し迫る死の危険を冒して、ロバに乗って国を横断せねばならないか、(南米最南端の)ホーン岬を迂回してリマに向かう船を待ち、それからインカ街道の一つを辿って旅をするか、しなければならなかったのである。


アンテケラは待ちきれず任地パラグアイに向かう
ドン・ホセ・デ・アンテケラ・イ・カストロはリマで生まれ、シャルルボア神父によれば、有能で能弁であったが空疎で非常に野心的であり、生まれつき想像力が豊かで、何らかの才能はあったが、安定性はほんの僅かしか持ち合わせていなかったから、時間が経てば総督職に就けるのに、それを待つことが出来なかったのだ。

だから、裁判所審問官が事件について取り調べるべくパラグアイへ送られることになったと聞き、学位を得てチャルカス高等裁判所の検察官の地位を掴み、その職を申請し何らかの間違いで任命されたのだ。任命書に署名すると直ぐ、彼はパラグアイへ向かった。

彼はラ・プラタのイエズス会コレジオで学んでいたので、彼が最初に訪れたのはイエズス会教化村群であった。宣教師たちは彼を歓迎し、彼が何をしようとしているかを全く疑うこともなく、彼を彼らの領地の境界線まで送り届けるべく、先住民の一隊を送った。

総督バルマセダがパラナ川上の遠隔の港に居ると聞いて、アンテケラはアスンシオンに急いだ。そこに着くと、50年か60年前にカルデナスに到来したものと同様な権力者の狂気が、彼に到来したようである。司教座大聖堂に彼のために用意された特別席がないのを見て、彼は公衆の面前で司教代理を叱責したので、礼拝者たちは大いに憤慨した。


アスンシオン市民の反応
ただし、これによって、彼がアスンシオン市民の尊敬を失うことは無かったようである。というのは、彼らは、統治者と精神的指導者の両方のあらゆる種類の気まぐれにも慣れていたのだ。

法や習慣に対する如何なる種類の暴力も、その暴力が人々を利するためになされないのであれば、人々の心を動かすことは決してないようである。一方、それが人々に重くのしかかるようであれば、法を破る者に対し人々は直ぐに立ち上がるのだ。

アスンシオンの忠実な市民は、永続的な混乱に非常に慣れていたので、ディ-ン・フュネスが『パラグアイ国内史に関する随筆』で述べているように、彼らは休息することが必要な時に、ただ立ち止まっただけのことであった。

べた褒めされているアテネ市民でさえ、ペリクレスの時代には、全ての点において今日のアテネ市民のように、そうであったに違いないのだが、アスンシオンの砂だらけの街にかつて扇動され集まり、民主国家の完璧な絵を世の中に見せるために、力の限り全ての事をした混血愛国者の騒々しい民衆より、もっと集会場でいら立ち騒いだり、牡蠣の貝殻に愛国者の名前を書くのに熱心だ、ということはなかったはずだ。

1870年のブエノス・アイレスとブラジルとの戦争の終了の後、偉大な独裁者ドクトル・フランシアを国民は、もの凄く早い喋りで(今でも、アルゼンチン人の早い喋りは通説)「今は亡き人」と呼んだのだが、その彼に、あたかも未だに圧迫されているように、国民が無気力に虐げられていたのを私は見た。そのような人々があの騒々しく愛国的な国民の子孫だとは、何とも奇妙な事である。


アスンシオンの反応に落ち込んだが挫けないアンテケラ
アスンシオンの不穏な温床にアンテケラは落ち込んだ。彼は、ペル-のクレオ-ル(白人と先住民との混血児)の一人だが、彼らは生まれつき才能が有り、良い教育も受けた。生まれた環境からか、若い時に通過した境遇からか、先住民であって白人の血を引くクレオ-ルではないかのように、スペイン人とは完全に違っていたようだ。

カルデナスのように、アンテケラは生まれながらの能弁であった。しかし、カルデナスとは違って、天賦の能弁さを頼りにしていたというわけではなく、世の中で出世するために単にそれを利用しただけのことだったようだ。

総督がアスンシオンには不在であることに気付き、法令に基き嘘の陳述をして、バルマセダ総督の全ての職能を停止させ彼の地位を手に入れることが、アンテケラの頭に直ぐに浮かんだようだ。このため、バルマセダに反対する人々の数人に取り入って、軍隊を招集し彼を捕らえるべく送った。しかし、総督は陰謀に気付きコリエンテスへ逃げた。そして、アンテケラは直ちに彼の地位を横取りした。


ペル-副王は総督職を返すようアンテケラに命じた
これは。ペル-副王から見るとやり過ぎだった。彼は、過去には友人としてアンテケラに力を貸したのだが、法を尊重する考えをいくらかは持っていたのだ。直ちに、バルマセダを総督職に戻し、アンテケラに彼が強奪した権力をバルマセダに返すよう命ずる布告を発した。

こういうアンテケラだから、どうすべきかの考えがなかった。そして、彼が独立した王であると宣言していると何人かの人には信じさせるような暴力の経歴に船出したのだった。


コレジオ卒業生アンテケラを支持しなかったとばっちりで、イエズス会が追放される
このためであるかどうかは不明だが、パラグアイでは、カルデナスの時代よりも事態がより修羅場的になった。イエズス会は、彼らの元生徒であるアンテケラの目標を支えようとはしなかったために追放され、以前と同じように人々の涙の中をコリエンテスに向かって出航して行った。歓喜の中で歴史家は語り、イバニェスやイエズス会を批判してきた人々は納得した。

確かに、アスンシオンでは、教化村の領地内で彼らが果たしたものとは違う役割を彼らは演じた。そして、他の修道会がしたように、パラグアイの絶えず変化していく首都で決して途絶えることがないように見える陰謀事件に疑いようもなく関わって行った。

アンテケラは、イエズス会士たちの追放だけでは満足せず、ペル-副王によって彼に対し送られた数人の将官を打ち負かし、コリエンテスの邸宅にいた前総督バルマセダを急襲して捕虜に捕り、厳重な警護の下アスンシオンに連れ戻した。

よくある恐怖政治がその時始まり、全てが混乱に陥った。その混乱は、イエズス会をアスンシオンのコレジオに復帰させ、教化村群をパラグアイ総督の管轄から外し、ウルグアイ川を越える他のイエズス会教化村群のようにラ・プラタの総督の支配下に置くことを、国王フィリップ5世が命令するまで続いた。


イエズス会の復帰
スペインは遥か彼方であった。そして、あれやこれやの言い訳によって多くの遅延が生じ、イエズス会がアスンシオンのコレジオに復帰させられたのは1728年3月18日のことであった。それによって、狭い場所ではあったが彼らはそれを保有することをやっと運命づけられたのである。


アンテケラの逮捕
ついに、ペル-副王カステル・フエルテ侯爵は、ドン・ブルノ・デ・サバラに充分な軍隊と教化村からの6000人の先住民を付けて、強奪者アンテケラに対して送った。アンテケラは、コルドバのフランシスコ会修道院へ避難のため逃れ、そこに留まっていたが、自分の立場が非常に不安定なことに気付き、チャルカスへ逃れた。しかし、チャルカスで逮捕され、裁判を待つために、リマへ送られた。

4年間、彼は完全に自由な身分で待っていた。高等裁判所が証拠を調べ、マドリッドへ報告し、国王からの指示を受け取るなどをして、全ての時代に全ての法廷の主要な特徴であった無能力を広く露呈している間に、彼は心ゆくまで街を行き来していたのだった。


アンテケラの処刑
1731年、彼を処刑せよとの命令がマドリッドから来て、彼は遅滞なく黒で完全に覆われた馬に据え付けられ、お触れ役に先導され、衛兵の一団に護衛されて、打ち首にされるべく公共の広場へ連れ出された。

首都の善良な人々は、世の中の流儀に従って大抵は聖人を救うために歩を進めたりはしないのだが、悪漢が当然の報いを受ける姿はぜひ見たかったのだ。街路は、数千の「赦して!」の叫びにあふれ、石が飛び落ち、事態はとても恐ろしいことになってきたので、副官は馬の背に乗り群衆の中を歩いて、騒ぎを静めなければならなかった。

人々は石の飛礫(つぶて)で副官を迎え、副官は衛兵たちを呼んで、アンテケラに発砲するよう命じた。4発の弾丸がアンテケラを貫き、彼は死んで、馬から付き添った2名の司祭の腕に崩れ落ちた。
このようにして、パラグアイの全ての総督のうち最も荒れ狂った男は、苦しむのを止め、死刑執行人は彼の頭を切り取ったあと、断頭台から人々にそれを見せ、裏切り者の運命に関するいつもの道徳的格言を叫んだ。


イエズス会の凱旋パレード
アスンシオンでのイエズス会の凱旋祝いは、勝利の一般法則に従い、ほんのつかの間のことであった。それは、群衆の歓呼の中、トランペットとドラムを伴い街路を進むというものである。見世物が終わると、主要な演者たちは、日常生活の苦闘と平凡さの中に再び埋もれていった。


市民の自由の追求と中傷
1728年から1730年までの間、アスンシオンの人々は、彼らのいつもの習慣より熱心に自由を追求した。

自由は、普通、血によって獲得される。自由ゲームをするとき、あなたの仲間に合わない人は全て殺すこと、または彼らを追放することは、極めて筋の通ったことだと私は考える。これらの退化の時代に、自由を愛する者は、まるでちょうど、彼らが単なる独裁者であるかのように、中傷すること(悪口を言うこと)は思いとどまらなければならない。


離反する部族もいた中で、イエズス会士に従順な先住民がいたのは何故か
近時に改宗した先住民の全諸部族が森へ還って行き、土地は耕作されないままに放置され、教化村領地の周辺ではまだ征服されていない好戦的な先住民の部族が、牛を柵で囲み、既に改宗している先住民を殺し、彼らの妻たちを奴隷として連れ去った。

しかし、それら全てにも拘わらず、先住民は、司祭たちにしがみついていた。それは、イエズス会士が言うように、イエズス会士が与えてきた「宗教的介護に対する愛着」から、かも知れない。

けれども、その先住民の愛着は、奴隷を狙いに襲来する、ブラジルのポルトガル人と、アスンシオンの愛国主義者であるスペイン人との双方の「奴隷制に抗する唯一の自衛手段」はイエズス会にあるとの直感的認識から来るものであった可能性のほうがむしろ高いのだ。(簡単に言えば、先住民にとって、イエズス会士の「宗教的介護」よりは「奴隷制からの庇護」の方が、重要だったのではないか、ということだ。)


ラ・プラタ総督ドン・ブルノ・デ・サバラの着任
1734年という時期のパラグアイにとって、非常に幸運だったことは、恐らくは、南米における国王軍のスペイン人の中で最も精力的な男、ドン・ブルノ・デ・サバラがラ・プラタの総督となったことだ。アスンシオンの紛争を平定せよとの命令を受けて、70歳近くの年齢とイタリア戦争で片腕を失っていた不自由さにも拘わらず、自分の隊のわずか40人の兵士を連れて、彼は直ちに出発した。ポルトガルとの戦いが差し迫っており、ラ・プラタ地方の微弱な兵力を激減させることは危険だったからである。


サバラへの先住民軍大隊の提供
パラグアイに着くと、彼は、サン・イグナシオ・グアスのイエズス会教化村に入り、修道会の管区長に助力を求めて訴え、速やかに先住民軍大隊の提供を受けた。(グアスは、グアラニ語で偉大の意味。パラグアイとコリエンテスの地名には、よく出てくる。)


イエズス会の帰還
いくつかの小戦闘の後、彼はアスンシオンに入り、彼を総督として受け入れさせる体制を整えた。道理をわきまえた多数の人々の非常に頻繁なそれらの激変の一つによって、人々はイエズス会を戻すよう彼に請願した。イエズス会は、1753年に戻り、正式に受け入れられた。総督、司教、主任司祭およびその他の役人たちは、手に点火した蝋燭(ろうそく)を持ち、司教座大聖堂でのミサに出席した。


サバラの死
ドン・ブルノ・デ・サバラの任務は終了し、彼はチリに向けて出発した。彼はチリの総督に任命されていたのだ。そして、旅の途上、サンタ・フェの町で突然死去した。戦闘に、前進や後退に、反乱や先住民の襲撃や、町々の人々の騒乱や、18世紀半ばの南アメリカのスペイン人武官の日常的な任務を形成するその他の気苦労に疲れ果てていたのだろう。

ディ-ン・フュネスはサバラについて、次のように述べている。性格的には温和な男だった。しかし、何度かは厳格さを示した。なぜなら、人々に役立つには、時々嫌われる勇気を持つことが重要だからだ。

ある人が、永年の支配の後に死んで貧しさが残れば、それは、アメリカ大陸で統治する人々に共通する弱点(貪欲さ)に感染していなかったことの、伝統的な証拠である。


先住民はスペイン軍を支援するためにしばしば派遣された
次の10年間は、教化村の先住民たちにとって、またイエズス会士たちにとって、概して平和で実り豊かな年月であった。先住民は、彼らの「理想郷」生活を静かに送ったが、例外としては、依然として彼らの分遣隊が如何なる戦いをも支援することが必要とされていたことを挙げねばならない。その頃、それは南米の東部全体にわたって絶えることがなかったのである。


チャコ平原に逃げた先住民
イエズス会は、彼らの精神的境界を押し広げ、森林地帯のトバティン族がいた東部に進み、西部は、チリグアナ族と他のチャコ平原の部族へと彼らの拠点を広げようとしていた。ペル-の征服時からほんの少し前に、インカ帝国の下に平定された先住民たちは、チャコ平原に撤退した。チャコ平原は、最も獰猛で、最も不屈な部族の避難所になったのだ。

スペイン人入植者たちは、征服初期の情熱も尽き、主に農業に落ち着いてしまった。有効な武器を所有している人々はわずかで、彼らの中では騒がしかったが、全体としては厭戦的になっていた。


逃げた先住民を追いかけながら、先住民に恐怖を抱くスペイン人
イエズス会パラグアイ管区長ハイメ・アギラ-ルのスペイン王への興味深い書簡(1737年)には、次の一節がある。
「それ程頻繁にではないが、何度かはスペイン人が先住民を迫害し酷使しようとしたため、多くがこの地から逃げ隠れて自分の家の入り口に至らず………。他の場合にはそこに着いたのだが、敵は彼らから馬を取り上げ、歩かせたので、どのようにして家へ戻ったのか。」
これは、30年も前でなく、アルゼンチン共和国の国境で私自身が見たことでもある。

人気のあるアルゼンチンの詩集『マルティン・フィエロの帰還』ホセ・エルナンデス(ブエノス・アイレス、1880年)には、先住民の帰還に対する遠征を描いた挿絵が付いている。人々の何人かは、徒歩で、他の者は同じ馬に二人で乗っている。そして、武官が部下の戦意を剣の音で鼓舞している。

未開の先住民の名前「ブラボ-族」こそが、境界に沿って恐怖を広げて行った。この恐怖は、メキシコやアルゼンチン共和国の平原で、25年以上前までではなく未だに流布し記憶されている。そして、チャコ平原の辺境では、おそらくチリのアラウカニアの境界は例外として、南米のどこよりも、その恐怖は鋭いものだったのだ。


困難な先住民への布教
トバ族、マタグアジョ族、ルクレ族、アギロタ族、アビポン族、及び他の部族は、好戦的なヴィレラ族、グアイクル族と共に最初からキリスト教を拒否していた。もちろん、彼らの中に居留地を設けようとの試みは何度もなされてきた。しかし、全ての部族の獰猛さ(それは、彼らの通常の習慣である。なぜなら、彼らの多くは、馬の背で生きてきたのだから)と、彼らの地方の特徴的な自然(スペイン人入植者には全く未知の大河に貫かれた湿地の広大な領地であること)とが、結合し、これまで全ての努力を無駄なものとしてきた。


チャコ平原の部族に働きかけるイエズス会士
それにも拘わらず、イエズス会士は、絶え間なく尽力し、最も未開なチャコ平原部族の中で、成功することなきにしもあらずの段階まで達しつつあったのである。紳士的で風変わりなマルティン・ドブリゾファ神父は、アビポン族の中で多年を過ごし、彼らについて魅力的な本を書いた。彼は、多くの部族を数え上げ、彼らについて「彼らの大部分は私によって改宗し、村に定着した。」と述べている。

チャコ平原でのイエズス会士たちの努力以上に、彼らを素晴らしく見せるものはおそらくないであろう。広大な領域に約70の部族がまばらに居住していたが、そのうち相当の大きさの部族は15~16あった。それらのうち、どれか二つの部族が互いに意思疎通のできる方言を話すということも殆どなく、全ての部族が、スペイン人とだけでなく、隣人である他部族とも戦争状態で暮らしていたのだ。


村の様子と司祭の生活
ブラボ神父によって保管されていた在庫台帳は、パイサネス(スペイン語で「いなか」という意味)村の様子を示している。(フランシスコ・ハビエル・ブラボ『イエズス会士追放の際に発見された資産台帳』マドリッド、1872年)

加工されていない木で造られた家々、地所の中心にあるイエズス会士の住居(それは柵で囲われ、扉がなく、壁にほんの狭い入り口が付いており、そこを通じて宣教師たちは出入りしたようだ。)

ブラボにより保管されていたチャコ教化村の在庫台帳に記載された、大砲、銃及びあらゆる種類の武器のリストは、イエズス会士が晒されていた危険のみならず、彼らと共に生活した人々の気まぐれな性格を、イエズス会士たちが如何に徹底的に理解していたかを示している。

彼らのベッドはニス塗りをしていない木造りで、先住民が紡いだ粗い木綿のカーテンが付いていた。時には、4本の杭に支えられた革製のソファーや、薬瓶やミサ用のワインのための棚があった。


ある神父は、セルバンテスやケベドの小説のコピ-を持っていた
最後に、ひとりの司祭が、トキティスティン族の居留地で、彼の本の中に、セルバンテスとケベドの本の写しを持っていた。彼は、それらを、半分笑いながら、半分目に涙をためて読んでいたのだろう、と私は思う。なぜなら、彼の真の人生は、その涙のようであったのだろうと思うからだ。

おそらく、『ドン・キホーテ』や『エル・グラン・タカ-ニョ』を読んで、気の毒な司祭は、彼の厄介ごとを忘れ、ラ・マンチャのオークの樹の森を、またカスティ-リャの台地の上を、従者サンチョとさまよいながら、スペインにいるような気分だったのだろう。


チャコ平原の諸部族と教化村7カ村
チャコ平原の全地域の中に、イエズス会によって建設された村は、僅かに7か村である。これらは、ペタカスの小さな町のあるヴィレラ族サン・ホセ、同じ名の小さな町のあるイリティン族サン・フアン・バウティスタ、ミラ・フロ-レスの町のあるルル族サン・エステバン、オルテガの首府にあるオマラパ族ヌエストラ・セニョ-ラ・デ・ブエン・コンセホ、中心となる町であるマカピ-ジョのあるパイサン族ヌエストラ・セニョ-ラ・デ・ピラ-ル、サン・ルカスと呼ばれる主要な場所のあるトバ族ヌエストラ・セニョ-ル・デル・ロサリオ、そして最後に、ラ・コンセプシオンとして知られている、アビポン族の村である。


先住民に殺された神父達
これら全ての教化村で、イエズス会士たちは、彼らの生命についての絶え間ない危険の中で暮らしていた。彼らの古い記録を読むと、世に知られず半ば忘れられた殉教の記録が目に付く。彼らの苦しみや、弓矢や棍棒による死の簡潔な記録である。


1711年、カバジェロ神父は、彼の従者の全てと蛮族ピンソカスによって殺された。
1717年、ロメロ神父は、イエズス会筆者の述べるところによれば、彼の背後に道徳的強制力以外の何物も持っていなかったため、パラグアイのグアラニ族の12人の仲間と共に殺された。
1718年、アルゴ、ブレンデ、シルバとマセオの神父たちは、埃まみれの「殉教の王冠」を授かった。

パラグアイ川の西岸の辺りに、古い地図では十字架でイエズス会士が殺された場所が示されている。彼ら全てが、もっとずる賢い策略でまたはマキュアベリ的な性格の何らかの隠された目的で殺されたとは、あのドミニコ会士でさえ主張することは殆どないであろう。(彼らが生きたのは、そんな陰謀などとは無縁の世界だったのだ。)

彼らが善をなしたかどうか、そして同じ気質を持ったプロテスタントの狂信者がしたであろうことより多少は良いことだったかどうか、それを尋ねるのは不快なことだけれど。確かなことは、彼らが、ひたむきな、正しいと考えたことに最後まで忠実で、それも自身の血を流すほどに忠実な人たちであったことだ。そして、そのひたむきさ、忠実さこそ、聖書の教えを正しく理解するための方法に通ずると人が信じても良いものなのだ。

クレティノ-・ジョリ-(歴史家・随筆家)
「道徳的な力は、文明の開けた国では素晴らしいとされる。しかし、現代の宣教師は、普通、もっと時代の精神に合致した何かの方を好む。」


果たして、海外宣教は意味があったのか
はっきりはしないが、未来には、良識の影がいくらかは現われ始め、出来るだけ人々を満足させるように、彼ら自身の運命を、彼らの仲間のお節介な干渉なしに、彼ら自身に追求させる方がより良いのだ、と人々が認めるようになるのだろう。如何なる教派や聖省の宣教師も、自国に留まるべきであったし、彼らの尽力によって、神の誤りを償うことを求めて、世界の不毛な土地をほっつき歩くべきではなかった、と人々は言うようになるのだ。

しかし、犠牲についての理想(それは、私の知る限りでは、それ自体、役に立たないか有害なものだ)が残れば、人々は必然的に、パラグアイのイエズス会士に高い評価を与えるだろうが、さもなくば、彼らの活動を無意味と見るに違いない。


チャコ平原の教化村
チャコ平原では、イエズス会士は、ウルグアイ川とパラナ川の間の教化村群にあるものと非常に異なる条件に出会った。

その異なる条件とは、開けた原野の代わりの広大な湿地であり、グアラニ族のように従順な半ユートピア人(彼らは殆どイエズス会士を崇拝していた)の代わりの、獰猛な遊牧の騎馬人(彼らは100人程度の少数の部族に分かれており、常に戦争状態にあって、如何なる種類の宗教も殆ど気に掛けなかった)であった。

さらに、チャコ平原には、富を蓄積するための如何なる方法も無いようであった。地域全体が全く耕作されておらず、未着手の状態だった。しかし、入植地では牛を増やそうとして、長い年月が経っていた。そして、最後に、野蛮な部族の襲撃が、イエズス会士と新改宗者の双方にとって、絶え間ない脅威となった。

牛の数は、グアラニ族の教化村が、698,353頭であるのに対し、わずかに78,171頭であった。(ブラボ-の『在庫台帳』による)

しかし、疲れを知らない怒涛の流儀で、イエズス会士は、ドブリゾファ神父の『アビポン族の歴史』やブラボ-神父の『在庫台帳』が証明するような目覚ましい発展を遂げることになる。


教化村にも黒人奴隷が
『アビポン族の歴史』マルティン・ドブリゾファ著によれば、興味深い事実として、パラグアイの教化村については不明だが、チャコ平原の教化村には、黒人の奴隷がいた、とされている。

サン・ルカス教化村の在庫台帳には、「黒人奴隷」の標題で次の記載がある。
「畑の監督として役に立てるに適している。外見から見て、年齢は27歳前後のようだ。
項目 ペドロ、推定17歳、半馬鹿である
項目 ホセ・フェリックス 推定1カ月半


最後の作品である教化村3カ村
チャコ平原の7カ村の教化村群の他に、ムバラカユ山脈として知られる中央山岳地域を縁取る大森林の中の北パラグアイに3つの教化村が建設された。

サン・ホアキン・デル・タルマ、サン・エスタニスラオ、ベレンと呼ばれる3つの教化村は、グアラニ族の他の教化村とは全く別に、チャコ平原から遥かに離れ、モホやチキ-ト地方の教化村から、遠大な距離を超えて移転されたもので、タルメシアンの森の奥まった所に、いわばオアシスを形成していた。これら3つの教化村は、各々、1747年、1747年、1760年に設立され、それらの日付けが示すように、パラグアイにおけるイエズス会の最後の作品であった。

1747年は、これらの教化村の最後の設立年であるが、早くも1697年に、約400人の先住民が、タルマの森林で、ロブレス、ヒメネス両神父によって発見され、ヌエストラ・セニョ-ラ・デ・フェ教化村に定着させられている。しかし、1721年に、飢饉と天然痘の発生によって、彼らは全て森へ還って行った。そして、再び教化村に定着した後、そこを去ったが、1746年、サン・ホアキン教化村にしっかりと定着した。


最も原始的だったトバティン族の半理想郷サン・ホアキン教化村
教化村がスペイン人居留地から遠く離れた地に建設されたため、先住民はスペイン人入植者の策謀や干渉から隔離されることとなった。その策謀や干渉は、パラナ地区の教化村にとって災いのもとだったのだ。

先住民トバティン族は、元々はおそらくグアラニ族と同じ民族であったと思われるが、近時は異なる部類の種族となり、スペイン人とは近年まで接触がなく、最も近くの居留地と激しく長い戦いをして、イエズス会がアメリカにおける全ての事業の中で出会ったどの先住民よりも、原始的な状態にあった。

1746年から1767年のトバティン族へのイエズス会統治の短い期間に、事態はまるで半理想郷のように進行した。サン・ホアキンでは、ドブリゾファ神父自身が語っているところによれば、彼は先住民に対する悔いなき8年間の労働に専念していた。彼が、先住民を最もよく理解しているイエズス会士の一人であることは、非常に確かなことであったし、彼と彼らの生活を彼が描いたものは、保存されてきたもののうち、最も楽しいものの一つとなっている。


森林に隠れた先住民の捜索の後に
ヌエストラ・セニョ-ラ・デ・サンタ・フェ教化村を去って、森林に隠れたイタティン族を追った、ジェグロ、エスカンドン、ヴィジャ・ガルシアとロドリゲスの4人の神父たちによる、タルマの森林を巡る18か月間のロマンチックだが実りの少ない捜索について、ドブリゾファは語っている。それから、現世の全ての出来事の不思議について語り、偶然というものが、ついには人がなし得ないことを結果としてもたらす、ということを述べている。

1746年、セバスティアン・デ・ジェグロス神父は40日の捜索の後、先住民と出会った。いわば、神の摂理に導かれて、あるいは、現在我々がいうように、偶然によって。

彼は、彼らのために教化村を建設した。そして、ドブリゾファが言うように、キリスト教的政治形態の下に彼らを集めた。新たに建設された村にあらゆる種類の牛が送られた、衣服と共に。(衣服は、一度もそれを着たことがない人々にとって、もちろん有用なものだった。)そして、斧、家具、又最後には2~3人の音楽教師たちも。音楽教師の助けなしには、教化村を建設する者が、いくら苦労して働いても、それが無駄になってしまうからであった。


よく考えると恐ろしい話
純朴な心の持ち主であるドブリゾファ神父が8年間居た、新しい村サン・ホアキン・デル・タルマに、1753年、ドン・カルロス・モルフィというアイルランド生まれで、後にパラグアイ総督(在任1766~1772年)となった男が来た。そして、ドブリゾファと共に5日間を過ごし、新改宗者である先住民たちがコントラ・バスやフラシオレットやヴァイオリンと一般に全ての道具を、楽器であろうと武器であろうと見事に使いこなすことに驚いて出発して行った。

謙遜に、しかし冗長に、神を恐れる高徳な者にふさわしく、純朴なイエズス会士は、彼自身の栄光と神の利益との両方のために働くことが出来た、その方法の特別な事例を詳細に説明したのだろう。

モルフィは、1768年スペイン王室によりイエズス会追放が決定された際のパラグアイ総督である。追放決定に、その15年前教化村に滞在し、ドブリゾファから、先住民の高度な武器使用技術について懇切丁寧な説明を受けたモルフィの見解が反映された可能性があるのではないか。


主要な産品の一つであるマテ茶の葉を採集するためには
サン・エスタニスラオの教化村からさほど遠くないところに、ムバエヴェラの森は位置していた、その中にジェルバ・マテ(パラグアイ茶)が作られる沢山の木が茂っていた。ただ、そこに到達することは、苦痛と困難を伴う仕事だった。というのは、森を通るピカ-ダと呼ばれる小道は途中で途切れてしまうのだ。川は深く、橋は無いから、小道に沿って枝をばらまかなければ進めない。積み荷と格闘しているラバに、足場を与えるためである。

1873年、私がこの森の周辺を訪れた時も、条件はドブリゾファが描いているものと似たようなものだった。


スペイン人植民者が遭遇した小屋に住むはずの先住民を捜しに出たドブリゾファ
ヴィジャルバと呼ばれるあるスペイン人の下、ジェルバ(マテ茶の葉)を収集するための遠征隊がスペイン人居留地から送られ、彼らは突然先住民の無人の小屋に遭遇した。ナイフと大枝を切り落とすための斧以外には何の武器も持たずに、極めて無防備であることに気付いた故の恐怖が彼らを取り巻き、何の葉も収集することなく、サン・エスタニスラオ村にあわてて戻って行った。

ドブリゾファは、そのニュ-スを聞くとすぐに数人の新改宗者である先住民とともに、その小屋に住んでいるはずの先住民を捜しに出た。


パラグアイ(マテ)茶の葉の収集作業
パラグアイ茶の葉を収集し加工する作業は、とても興味深い。男たちの集団が、牛舎で陸伝いに、平底船で川を逆上る6カ月の旅に出かけるのだ。船は、6人から12人の乗組員によって、棒で支えられながら急流を逆上る。ジェルバル(森はそう呼ばれた)に着くと、より大きな類人猿に使われていた方法に習って、雨露をしのぐ小屋を作る。

何人かは、適当な木を捜して森を歩き回り、その木の大枝をなたで切り落とし、その間他の者たちは残って、バルバコアと呼ばれるサトウキビの大きな小屋を建てるのである。

この小屋に、森から持って来た大枝の束を収め、下で大きな火が燃やされる。48時間(私の記憶が正しいなら)、トーストは続いた。それから、充分に乾燥されると、葉っぱは小枝からはがされ、固い土の一種の開けた空間に置かれるが、そこはスペインの脱穀場のような所となる。

ここで、葉っぱは、細かく粉々にされ、粉は生皮のバッグに詰め込まれる。これで、作業は終了し、その時、ジェルバ(マテ茶の葉)は、「市場の値切り」に向けて準備万端となる。


先住民捜索のための苦難の旅
ドブリゾファ神父は、あのまま18日間、悲しみに沈む孤独な旅を続けたが、先住民がいる気配は全く無く、靴ずれの痛さと空腹が絶えず彼を襲ってきた。忍耐するうちに事態が改善してくれることだけが唯一の望みだった。彼自身が全行程を歩いていた、しかも裸足で。私が描ききれず、読者も信じられないような苦しみである。

宣教師職というものに、1750年以降、相当大きな変化があったのだ。前世紀の宣教師たちが、より大きな信仰や強い性格によって耐えていた困難は、今や大きく時代遅れのものとなり、我らが宣教師は、森の中でさえ裸足で歩くことは滅多になくなった。なぜなら、そんなことをすることは攻撃的であり、彼が働く社会に不信をもたらすからである。

その年、捜索は不成功に終わったが、ドブリゾファは、裸足の行脚によって気力をくじかれることもなく、次の春、福音の試練に再び出発した。


ついに先住民に出会う
約20日間のもう一つの旅の後には、その全体の行程の間中、雨が絶えまなく降りしきっていたが、見たところは、極めて幸福そうな森の住人の共同体に出会い、彼はさっそく改宗にとりかかった。

彼が見つけた最初の小屋には、8つの扉があり、その中に約60人の先住民が住んでいた。小屋はヤシで造られた草葺きの集合住宅で、加工されていない梁にハンモックがつるされて、その中にその先住民たちは寝ていたのだ。個々の家族は、各々が自分たちの囲炉裏を持ち、炉辺には粗作りの土器の大型コップや水差しや壺が置かれてあった。

これらの未開人は裸でも恥ずかしがらず、男たちは頭にオウムの羽でできた丈の高い王冠をかぶっていた。武器としては、弓矢を携え、ドブリゾファが最初に見た男は、一方の手に死んだキジを掴み、他方の手には短い弓を持っていた。

集合住宅の周りの森では、驚くほどの量のトウモロコシや様々な種類の果物やたばこがあった。野生のハチが空洞の木に作る巣から、彼らは大量のハチミツを採集するが、少なくともドブリゾファの言によれば、それを肉や飲み物のようなものとして彼らは役立てていたのだ。


特異な考え方を持ち特異に行動し、とても幸せに暮らしていた人々
彼らが崇拝する神の名前は「トゥパ」である。しかし、神とその掟については、彼らは殆ど知りたがらない。これは、曖昧なもののようで、創造者たちと彼らの神の間の(秘密)関係は、最初現われたときから殆ど知られていなかったようだ。

曖昧さの原因は、おそらく翻訳にあるようであり、その翻訳は最初にメモを取った時に使ったラテン語を、俗語言語(通常のヨーロッパ諸国語)に翻訳してなされるのだ。「翻訳するとは、嘘をつくこと」との格言通りだ。

人間というものは、如何にそれぞれが特異に(その人独自に)行動しがちなものであるか、を考えるとき、充分に注目すべきことは、イタティン族がアナという名の悪霊を知ってはいたが、彼を殆ど崇拝せず、彼らは彼らの神を知っている程度にしか、この悪霊と掟について殆ど何も知らないで満足していたことである。

それらの、不運かも知れないが無害な人たちは、神も悪魔も、正も邪も、そして本来知るべきであった全ての他の事柄とも無縁であった。如何に無縁であったかは、人の心に彼らの事情と関係なく、それらのもの(神も悪魔も、正も邪も)が植え込まれたと言われている程なのである。それら、不運で無害な人たちは、罪というものを意識せずに、とても幸せに暮らしているようなのであった。


ヨ-ロッパ人の押し付けについてのシャルルボア神父の考え方
シャルルボアは、先住民一般について、彼の著書の中で次のように述べている。
「もし、より多くの人が、私と共に考えてくれていれば、そして、もし議論の余地なく我々の礼儀や生き方に未開人をやたらに引き入れたがったりしなければ、そして、もっと時間を与えていたなら、如何に多くの悲惨さを防ぐことができたか、また、どれだけ沢山の興味深い人々を保護することが出来ただろうか、と考えざるを得ない。それは、もし我々の優越性を我々に思い起こさせるためだけのことであれば、アングロ・サクソン族の支配の下であっても、他のタイプの種族を残す方が賢明だったのではないか、と思うからだ、」


ドブリゾファ神父と出会った先住民との会話
ドブリゾファ神父は、彼が正しいと考えることへの素朴な信仰と熱意の中にいたから、彼らの救われない状況について考えたとき、苦い涙に泣いた。すると、教化村から来た、一人のおべっか使いのグアラニ族の男が、彼のたとえ話を採り上げて言った。

「神は汝ら兄弟を救う。我々は、友人としてあなた方を訪ね、あなた方の土地のために祈るべく来ることを決められた。この神父さんは、神が選んだ本当の聖職者で、あなた方を訪ね、あなた方の土地のために祈るべく来たのだ。」


神父さんの存在は、実りをもたらす単なる肥料
一人の歳を取った先住民が彼をさえぎった、そして言った。
「私は、神父さんに来て欲しいとは思っていなかった。昔、聖トマスは良く祈ってくれた。だから、全ての種類の果物が土地に満ちていたのだ。」その歳取った先住民は、周りの雰囲気に流されず、司祭の存在は有用だ、しかし、彼が住む土地の上の単なる肥料としてだけだ、と考えたようだ。

しかし、イエズス会士は、その年寄りと同様に純朴な考えの持ち主で、彼の考えを思いやりを持って受取り、約3日の距離にある大きな村へ向かって、先住民と共に旅した。そして、そこに到着すると、全ての住民は宣教師の周りに輪になって座った。


キリスト教徒だけが幸せであると考える神父には、森の自由な生活での人々の満足が見えなかった
ドブリゾファ神父が言うには、「彼らはとても控えめで静かな様子で、私は生きた先住民でなく、彫像をじっと見守っているいるような気がした。」そうだ。彼らの注意を目覚めさせるために、彼はヴィオラを弾いて彼らの耳を捕らえ、説教を始めた。良き司祭ならば、おそらく、彼が言うこと全てを信じただろう。なぜなら、街道の危険について長々と話した後、「友よ、私の任務はあなた方を幸せにすることだ。」と彼は言ったのだ。

彼らの森での自由な生活には、トウモロコシと果物とタバコが、あらゆる種類の遊びと共にあふれ、それがおそらく満足を引き起こし得るものであるとは、彼には思えなかったのだ。

キリスト教徒なら、満足は信仰と共にのみ到来するものであり、教養の真の知識は自由以上のもである、と考えるのだ。誠実に、しかし、混乱した頭で、ドブリゾファ神父は、彼らの運命を、彼らの衣服の不足を、彼らの神に対する関心の不足を、そして神の支配に対する知識が欠けていることを、残念に思ったのである。


教義を説明した時の反応
それから、彼は要点に触れ、地獄について話し、驚いた先住民は、「司祭に教えてもらい、神の掟を知るようにならねば、その炎を避けることは不可能だ。」と言った。それから、彼は(彼の言うところでは)我々の信仰の神秘を簡単に説明した。

彼が地獄について話した時に、少年たちが少し笑ったことを除いては、彼らは夢中になって聴いていた。地獄は、往々にして、先住民の心に冗談として浮かんだようだ。というのは、シャルルボア神父は次のようなことを報告しているからだ。


地獄について語った時の意外な反応について
初期の宣教師が、チリグアノ族に、地獄の炎について説明したときに、彼らは「もし。地獄に火があるなら、我々は、それを消すに充分な水をすぐに手に入れることができるだろう。」と言った。その返答は良き司祭を驚かせた。

というのは、良き司祭は、地獄の炎が無関心という水以外の水で、消えるなどということは、全く考えたこともなかったからである。(良き司祭は、地獄の炎は、無関心という水で消すことが出来ると実は信じていた、ということになる。)

混雑した通りの交通(世間というものの危険)を意識せずに笑う子供たちを見ることより心痛むことはない。そして、暖かい心根の持ち主であるドブリゾファ神父が、もし自分が沼地を横断したり森の中を進んでいた時に誤った進路を取って笑えば、それは地獄行きを宣告されるに等しかったことを思い返して、これらの子供たちの笑いに身震いしたと考えてもおかしくはないのである。


贈り物付きの説教
彼は、彼らに消耗させる地獄について、さらに多くを話し、彼の祈りに重みを持たせるために、彼らのひとりひとりに、はさみやナイフやガラス・ビーズや斧や手鏡や釣り針を贈った。なぜなら、「何かをくれ」で終わる説教は、ほんの少ししか効果がないことを、彼はよく知っていたからだ。

彼自身極めて率直に述べている。「私は自分の前に、全てを制圧したようであった。何故なら、私は説教に豊富な贈り物を混ぜたからだ。グラス・ビーズや手鏡は、初期のキリスト教宣教師が、先住民に説教をしたときから、改宗の有力な要素であったし、今日までも、神の精神をもたらす偉大な業において見事な功績を挙げている。」


首長の申し出
焚火の周りに座って、葦のパイプを通してタバコを吸い、新たに詳しく説かれた信仰の神秘についてあれやこれや考え、イタティン族の首長は考えていたことを話した。
「私は、神父さんに対し、愛情を抱いて、生涯の付き合いを享受したいと思っている。私の娘は、世界中で一番可愛い。だから、神父さんが、いつも私や私の家族と森の中のここで、一緒に居てくれますように、私は娘を神父さんに捧げることを決心した。」

教化村から行った先住民は笑い出した。僅かの事しか知らなくて、自分たちは賢いと考える人たちの流儀に習ってである。首長は、何も知らなかったから、誰でも、職業に関わりなく、妻帯せずに生きられることに驚いた。そして、イエズス会士にその奇妙な事が本当かどうかを尋ねた。


交わされた信仰問答
彼の疑問は満たされ、彼らは造物主の性格について議論することとなったが、話題は究明するのに簡単ではなく、通訳の仲介によることからも、困難なものとなった。

首長は「我々は、天国に誰かが住んでいることは知っている。」と言った。このあいまいさが宣教師を奮起させ、彼はすぐに神の属性について詳細に話し始めた。その説明は首長を満足させ、さらに彼は「それでは、天上に住む者を、不快にするものは何か」と尋ねた。嘘や中傷や不定や窃盗などは、全て数え上げられ、先住民の同意を得た。


宗教的な正邪の議論も出て来た
しかし、殺すなという命令で、ある人の命を狙った人々を殺すことが認められないのかどうかを尋ねた者がいた。彼は、「自分は武器を持った最初の日以来、そうしようと思って来た。」と付け加えた。

狂信的な決議論は、スアレスとモリナの上に育った者の口の中の強い議論である。(決議論とは、社会の慣行や教会などの律法に照らして、行為の正邪を決めようとする考え方である。)
しかし、それは確かに有効な考え方であった。だから、ドブリゾファは、(組織の)長というものについて語るとき、それを使っている。


洗礼と婚姻の秘跡を順調に受けさせることが出来た例
しかし、ドブリゾファは、単なる神学論争よりはよい仕事をしている。なぜなら、彼は18人の先住民に、サン・ホアキンの教化村に彼と一緒に行くように説得しているのである。そして、数カ月間アラポティユという名の若者の忠実さを試した後で、洗礼の秘跡を彼に許し、そしてそれ程遅くならないうちに、キリスト教の典礼によって結婚させた。

洗礼が結婚に先んじるべきことは明らかである。しかし、二つの儀式の間隔については、簡単に答えの出ない問題である。そして、結局、両方が都合で同時に実施されても構わないのかどうか、迷っても良いようなのである。

アラポティユの場合、仕組みが充分に機能した。というのは、彼は全ての道徳的美点に優れ、キリスト教の旧来の信者と見られる程、であったのである。旧来のキリスト教徒でさえ、しばしば、自分の信仰の儀式や習慣についての修養がより困難であったにも拘わらず、おそらくは二つの儀式の間の期間の酷く不当な延長によって、(宗教上の罪を犯すことになり)神の恩寵から外れてしまったのだ。


もう一人の若者の場合
もう一人の(ガトという名の)若者の場合は、そう円滑には事は運ばなかった。というのは、彼もまた良い品行によって、洗礼とキリスト教の婚姻の秘跡を獲得したのだが、ドブリゾファは「それ程の月日が経たないうちに、彼は緩慢な病で死んだ。」と付け加えている。

「緩慢な病」とは、森に対する郷愁であった可能性がある。良き宣教師の努力によって、その病気の名目で、彼をうまく森へ撤退させたのであろう。

テチョ神父は、彼の『パラグアイの歴史』の中で、森林の先住民について、「彼らは、日陰で成長し、日射しを浴びない植物のように死んだ。」と述べている。


チャコ平原の部族は難しかった
パラグアイ北部における三つの隔離された教化村(サン・ホアキン、サン・エスタニスラオ、ベレン)でのイエズス会の事業は、チャコ地方の教化村が不運であった一方で、成功していたように見える。グラン・チャコの未開の騎馬部族では、イエズス会統治の仕組みが、平和的なグアラニ族におけるほど、成功を収めやすくはなかったのだろう。

スペイン人入植者の仕組みは全く効果が上がらなかったし、今日までずっとそのままでである。

今日、ルル族、レングア族、モコビオ族とその他の粉々になった残存者たちは、馬やカヌ-で、チャコやその辺りの河川を放浪し、ヨーロッパ人種との接触からは、火薬とジン酒を除いては他に何の利益も受けていない。


〈つづく〉








# by GFauree | 2022-11-13 03:33 | イエズス会教化村 | Comments(0)