『A VANISHED ARCADIA』(消えて行った或る理想郷)
Robert Bontine Cunninghame Graham (ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)著
今回は、その第9章である。この本は第10章までだから残りはあと2回だなどと一旦書いてしまったが、よく見てみたら11章まであるので、残りは今回も入れてあと3回である。でも、これで今年中にはなんとか終わらせそうだ。
[第9章に関する私見]
ポルトガルにやられ続けたスペイン
1750年にスペイン・ポルトガル間で結ばれたマドリ-ド条約によって、1494年のトルデシリャス条約で規定された両国領土間の境界線を西に移動させる代わりに、アジアにおいてフィリピン諸島を、南米ラプラタ地方においてコロニア・デル・サクラメントを、ポルトガルはスペインに譲渡することとなった。
しかし、狭小なフィリピン諸島とコロニア・デル・サクラメントを供出し、南米の広大な面積の領土を獲得したのだから、この条約はポルトガルにとって明らかに有利なものだった。
ポルトガルは、国土の面積と人口について言えば、スペインの1/5から1/4程度で、歴史的にも1580年から1640年まで実質的に隣国スペインに併合されていたから、つい弱小国と思いがちだが、実は油断できない、かなり強かな国であったようだ。
長崎が、キリスト教伝来の時代に、そのポルトガルの海外発展のルート(ゴア-マラッカ-マカオ)に組み入れられていたことを考えると、日本のその時代のリスクを改めて感じざるを得ない。
教化村の先住民が最後まで退去に抵抗したのは、100年以上にわたって彼らを苦しませ続けたのは、ポルトガル人の奴隷狩り集団であり、そのポルトガル人に折角育てた村と領地を明け渡すことに我慢がならなかったからであった。
怪しい存在アルタミラノ
マドリ-ド条約の履行のための国境設置委員会に、イエズス会士が含まれていたことは、当然と言えば当然のことだろう。司教代理ルイス・デ・アルタミラノと彼の秘書ラファエル・デ・コルドバである。
アルタミラノは司教代理という肩書が付いているから、現地パラグアイ・イエズス会の最高責任者である管区長より権限が強いということなのだろう。ということは、アルタミラノは、教化村の現場の神父たちの意見を抑えることが出来るということを意味する。嫌な人事だと私は感ずる。案の定、当然彼は、先住民や現場の神父たちの願いに反しても条約の履行を進めようとしたらしい。
伊藤滋子著『幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折』(同成社)には、次のようなことも書かれている。
「アルタミラノの兄でやはりイエズス会士のペドロはインディアス特使(プロクラド-ル)として、マドリ-ドの宮廷におり、カルバハル(条約締結の当事者・国務大臣)とは親しく、また兄弟の叔父エスカンドンがパラグアイ・イエズス会の副管区長(1747-1757)であったことも、この人選とは無関係ではなさそうである。しかし、この叔父と甥は、立場の違いから激しいやり取りを交わすことになった。
アルタミラノは、立ち退きの対象となった7カ村のうち、サント・トメ教化村に居を定め、住民に移動を急き立てた。そのため、サン・フアン村では村人が『アルタミラノは、イエズス会士に化けたポルトガル人だ。』と言い立て、サン・ミゲル村では暗殺計画が練られた。」
伝説
パラグアイ国王ニコラス・ネエンギルの伝説が語られている。
スペイン・アンダルシア生まれのニコラス・ルビオニという男が、冒険の後イエズス会に入り、美人と恋に落ち、ブエノスアイレスに逃げ、先住民の王となる、という話である。
どうも、この時代には、この類の荒唐無稽の少し色気も混じった話が少なくないようである。
国家や教会のでたらめな支配の下で、潰されかけた人々にとって、辛うじて一瞬、息の付けるおとぎ話だったのかも知れない。
本当の二枚舌は誰だったか
イエズス会上層部は、司教代理アルタミラノのように、国家の要求を当然の事として先住民に押し付けようと考え、現場の神父たちは、何とか教化村を存続させたいと考えそれを先住民に話すから、イエズス会は組織として「二枚舌を使った」ことになった。
しかし、この第9章の殆ど最後の部分の、先住民がグアラニ語で書いた手紙を読んでいるうちに、本当の二枚舌は誰だったのかがはっきりしてきた。
先住民を保護するからと言って、自分の臣民として税金を取った人だ。
それでは、以下第9章の内容をご紹介しよう。
第9章の内容
・スペインとポルトガルは先住民に対する新たな法令の強制を企てる
・先住民は両国に対し反乱を起こす
・絶望的な闘いが8年間続く
・教化村の荒廃
教化村設立初期の純粋な情熱は次第に衰えていったという批判は誤りである
チャコとタルマ地方の教化村は、全て1700年から1760年の間に設立され、最後のベレンはアメリカ大陸からのイエズス会追放のわずか7年前に設立されたものだ。この事実は、「設立初期の伝道的情熱が衰退してしまって、単に前世紀初期(1600年代初め)の当初の設立の良い評判で食っているだけだ。」という、幾人かの論者(とくにアサラ)の主張の誤りを充分に立証している。(このような後の時期にも、まだ積極的に開設を進めていたではないか、という意味。)
奴隷制に反対したことで運命は決められた
その設立・運営に携わった人々がどのような情熱を抱いていたかに関わりなく、彼らが奴隷制に反対していたという理由だけで、豊かな土地と金の鉱山を所有していると決めつけられ、彼らが山師であるという見方を断固排除しようとしても、彼らの運命は決められてしまったのだ。豊かな土地保有と金の鉱山保有のどちらについても、イエズス会は有罪であると認定されてしまったのだ。
教化村の先住民は国王に服属しただけで、スペイン人入植者の私的奴隷とはならなかった
1784年、イエズス会追放の20年後、ドブリゾファ神父は、教化村の先住民について、カトリック王と国王の臣である総督にだけ服従し、他の先住民のように私的スペイン人の忌まわしい奴隷制度には服していなかった、と述べた。そして、モントヤやルサノそしてデル・テチョ等は、全て早い時期から書面で陳述を認め、その陳述はまた、その件に関する国王勅令によって、二重に確認されている。
以上は、フィリップ5世の1743年12月28日付ブエン・レティロ宮殿からのもの、及びパラグアイ・イエズス会に対する2通の書簡、またフィリップ2世からモントヤが得た以前の勅令と、「インディオ法」として知られている法令に常に付けられる同様の標題への様々な追記による。
金鉱保有の疑惑がイエズス会追放に繋がった
金鉱の報道は、それが誤りであることを繰り返し証明されたが、決して絶えることがなかった。そして、それらの報道は、先住民の自由に対する支持とともに、非常に長い間働いて来た領地からのイエズス会の追放を引き起こすという結果に至った。
リオ・デ・ジャネイロ総督の悪だくみ
1740年、ポルトガル国王のリオ・デ・ジャネイロ総督ゴメス・デ・アンドゥラデは、何故イエズス会が彼らの領地をそれ程本気で守っているのかの理由は、彼らが鉱山を保有していることだ、と確信する一人だったので、ひとつの計画を思いついた。
彼の計画は、「国家的な」と呼ばれる夢想的な理由に基いて思いつかれたものの大部分と同様、心情というものを無視したものであったから成功の見込みは怪しいものであった。加えて、元々人間というものは、現在も将来も、強固な理由付けよりは心情によって千倍も影響され易いものである。それ故に、その計画は最初から本質的に失敗するに違いないものであったのだ。
両国間の争奪の的となって来たコロニアル・デル・サクラメントという所
ラ・プラタ地方のコロニア・デル・サクラメントは、100年の間、スペイン人とポルトガル人との間の衝突の原因となってきた。そもそも、「アメリカ発見」以来、スペイン人とポルトガル人は、南東部にわたって、常に競合関係にあった。現在のブラジルとアルゼンチンの間の境界は明定されたことがなかったのだ。
1494年、カスティリャの国王フアン2世は、ポルトガル国王とのトルデシリャスでの条約調印を決定し、両国間の分割線を、教皇アレクサンドロ6世の有名な大勅書の線より200リーグ(約1000㎞)西側に設定した。教皇アレクサンドロ6世の大勅書の線とは、1493年5月3日付でヴェルデ岬の西100リーグ(約500㎞)に設定し、世界を北極から南極までポルトガル・スペイン両国間で2分割したものである。
南アメリカでのポルトガルとスペインの間の紛争は、このトルデシリャス条約の締結から始まった。
コロニア・デル・サクラメントは、ブエノス・アイレスの殆ど正面に位置していたから、密輸業者のための倉庫としての役目を果たしていたし、さらに要塞化されていたから、パラナ川とパラグアイ川双方の航行に脅威を与えていた。イギリス、オランダそしてドイツの港からの奴隷商人たちが港に群がっていた。
あらゆる種類の武器がそこに貯蔵され、スペイン王に対する攻撃を企てる傭兵たちに配られた。再三、それらは持ち出された上返却され、教化村の先住民は常に最も効果的な軍事的な援助を提供した。
今話題にしている時期(1740年頃)には、ポルトガル人の支配の下条約が無視され、そのことがスペイン人にとって永続的な脅威となっていた。
コロニア・デル・サクラメントをウルグアイ地方の教化村7カ村と交換することの提案
ポルトガル領ブラジルのリオ・デ・ジャネイロ総督ゴメス・アンドゥラデは、コロニア・デル・サクラメントをウルグアイの教化村7カ村と交換することを、そして、それによって直ちに金鉱を確保し、また両国領土の境界をウルグアイ川とするよう調整することを、リスボン宮廷へ提案した。
政治家にとって、一片の領土を他の領土と交換することほど簡単に見えることはないらしい。彼らにとっては、何らかの国際的な交渉の後に、羊皮紙に署名がされれば、全てが完了したことになるのだ。
しかし、このケースで起きたように領土の一つに、ウルグアイ地方の7カ村に住んでいたような住民が含まれていれば、そしてその領土は住民が移り住んでいる地方を領土化(征服)したものであり、あらゆる来訪者に対して防衛してきたものであるとき、道理を受け入れない住民が、彼らの家に執着して、政治家の案を撃退するということも、しばしば起きるのだ。
しかし、政治家というものは、如何なる計画であっても、一度その計画に乗り出すと、人々の家に対する愛着のような些細なことにはこだわらず、一国の大臣が考えることは、結局は人類にとって有益であるに違いないと考えることにして、ただ静かに(何も考えずに)自分にとって安易な道を進むのだ。如何なる政治家も、もしそのような感情を真に愛国的な観点から放棄するのでなければ、政治家の名に値しないのだが。他人の感情への無関心はおそらく、公人が彼の国家への忠誠に関して、与えることのできる最大の証である。(彼の国家に対する忠誠心は、他人の感情への無関心さの度合いによって測られるのだ。)
1750年、スペインはポルトガルに7カ村を譲渡することに合意して条約を締結した
数年にわたって継続した交渉の後、1750年1月13日ポルトガルとスペインの間でマドリード条約が締結され、前者(ポルトガル)はコロニア・デル・サクラメントをウルグアイ地方のイエズス会教化村7カ村と交換にスペインに譲渡し、両国はウルグアイにおける二国の境界を確定するための委員会を設けることに合意した。
1750年2月15日、スペイン王室は、7カ村のイエズス会士に対し使者を送り、先住民に彼らの住居から去って森へ行くよう準備させ、そこには新たな村を建設しないよう伝えさせた。その時の、イエズス会総会長はフランティシェク・レッツであり、ウルグアイの教化村のイエズス会士にスペイン・ポルトガル両王室の命令を伝える義務は、そのレッツ総会長に委ねられた。
先住民は退去要請を信じず、離村よりむしろ死を選ぶと宣言した
ベルナルド・ネイデルドルファ神父はパラグアイ管区長バレダから、両王室の要請を先住民に伝える任務を課せられた。彼は、教化村に既に35年間住んでいたし、先住民を良く知り、彼らから父親のように尊敬されていたから、最初はそのような任務に尻込みしたようである。
その知らせがウルグアイの教化村にもたらされた時、最初は先住民の誰一人として、それを信じなかった。7カ村の首長は、彼らの生まれ育った土地から離れるよりはむしろ死ぬと宣言した。
先住民はイエズス会に対しても非難の声を上げ、反乱を起こすに至った
悲嘆とポルトガル人に対する憎しみの表現以外に何も聞こえず、それらに、当然ながらイエズス会がスペインと結託して彼らをポルトガルへ売ろうとしていると哀れな先住民が信じているゆえの非難が混じっていた。直に、抗議の声が上がり、両王室の勅令に従うことを拒否するだけでは満足できず、先住民は反乱を起こした。
この反乱について、二つの重要な物語が存在する。一つはカルディエル神父によるもの、もう一つはエニス神父によるものであり、どちらも出来事の当事者であり証人である。
1753年まで続いた相当な交渉の後、ポルトガルとスペインの連合軍は割譲された村の占領を手配するために教化村領地に進軍した。
イエズス会は、会として先住民の反乱を扇動したのか
ウルグアイの教化村7カ村の割譲以降の出来事の日付の大部分は、イバニェスによって書かれた『イエズス会事件』(マドリ-ド、1768年)から取っている。イバニェスは元イエズス会士であるが、イエズス会の大いなる敵に転じた人物である。その中で、1750年から1756年の間のパラグアイでの出来事の説明は、「ウルグアイとパラナ地方でのスペインとポルトガル軍に抗して、イエズス会が支援した戦争の報告」と呼ばれている。
イエズス会が組織的に、先住民の反乱を扇動したということの証拠は、これまで全く提出されていない。ただし、血気にはやる神父タデオ・エニスが、彼自身が担当する教化村に関しては、先住民が抵抗するように駆り立てたことはたしかである。しかし、スペイン・ポルトガルに対し、成功するような戦いを進めることが可能であるとイエズス会自体が考えたことは、ありそうもない。
イバニェスが書いている日付は、スペイン側委員代表ヴァルデリリオス侯爵からの書簡と一致する。その書簡は、シマンカスのスペイン国立公文書館に保管されている。
国境設置委員会の両国の代表は、南アメリカに来る前からイエズス会に偏見を抱いていた
両国の代表委員は、スペイン側はヴァルデリリオス侯爵、ポルトガル側はゴメス・フレイレ・デ・アンドゥラデ司令官であり、どちらも南アメリカへ来た時には、既にイエズス会に偏見を抱いていたようである。
1752年6月28日、ヴァルデリリオス侯爵は、モンテ・ヴィデオからドン・ホセ・デ・カルヴァハルへの書簡に次のように書いた。「神父たちは、条約は必ず履行されねばならぬ、と既に確信している。」(ドン・ホセ・デ・カルヴァハルは、マドリード条約締結時のポルトガル側当事者である国務大臣)
もしこの通りなら、侯爵はこの書簡を書いた時には、イエズス会は条約の履行に反対はしないだろうという見通しを持っていたのだ。「そして、この覚醒で、彼らの村の移転に真剣に取り組んでくれるだろう。」とまで続いて書いている。
1753年3月24日、教化村領地について何か確定的なことを聞く少し前に、アンドゥラデはヴァルデリリオスに書いている。彼らは、教化村領地に関してはどちらも部外者であったにも拘わらず、アンドゥラデはヴァルデリリオスに、抵抗が予想されること、そしてイエズス会が先住民を抵抗するように駆り立てていると伝えている。「通知とともにアルタミラノ神父から私が受け取った書簡によって、イエズス会の神父たちは反乱者であることを納得し終えたと理解する。彼らを村から追い出さないと、聖なる神父様(彼らはそう呼ばれている)は無礼で侮蔑的な反乱以上のものは経験しないであろう。」
―イバネスによって引用され、シマンカス文書館に保管されている書簡『イエズス会事件』より)
なお、アルタミラノ神父とは、国境設置委員会に委員として加わった(加わされた?)イエズス会士で、管区長より高位の聖職者であり、以下「司教代理」の肩書で呼ばれている。
両国代表委員は先住民の抵抗を予期していた
ここから理解できることは、この時点で既に、二人の両国代表委員が先住民の抵抗を極めて確信的に予期していたということである。その抵抗とは、「無知であった先住民が、定住し、およそ100年間にわたり保有した土地を勝手に取り上げられることによって絶望的になったことによるもの」として、同時代の論客たちが、いみじくも説明したものである。その抵抗は実行され、パラグアイのイエズス会にとってだけでなく、広く世界中のイエズス会にとって、その結果は深刻なものとなったのだ。
先住民をスペイン人入植者の毒牙から保護しようとした故に、何か秘密を隠しているように見えてしまった
数年にわたって、彼らの敵は、イエズス会がスペイン国王権から極めて独立した国家を教化村群の中に樹立しようとしていると言っていた。しかし、それにはイエズス会が彼ら自身の振る舞いによって、それらの報道をもっともらしく見せてしまった面があったことは否めない。というのは、先住民の利益のために、教化村から全てのスペイン人を排除することによって、あたかも彼らが秘密にしておきたい何かに取り掛かっているかのように見えてしまったのである。なぜなら、スペイン人入植者が普通は獣とみなしていた先住民の幸福のために、自分たちの振る舞いを変えるまでして、実質的な奴隷制に対し真剣に抗弁するなどということは、当時彼ら以外には誰も考えていなかったのだから。
先住民のスペイン人入植者からの隔離政策について
教化村の先住民をスペイン人入植者から隔離することは、彼らイエズス会が遂行することのできる最善の策であったことは、ブエノス・アイレス総督ドン・フランシスコ・ブカレリによって施行された指導規則により充分に証明されている。ただ、その総督の主導の下、1760年のイエズス会追放は実行されたのだ。その規則には、次の条項が含まれている。
「如何なる身分、性質、条件のものであろうと部外者には、村(教化村のこと)に居住することを許容しないこと。たとえその者が機械職人であろうと、ましてや彼らが、彼ら自身または他の者のために取引又は契約する者であろうと。そして、インディアス法が順守されるよう特別に注意しなければならないし、特に第9巻の27条に含まれている者及び如何なるポルトガル人脱走兵、または如何なる条件を持ち村に来る他の人々も、彼らの逃亡を防ぐためにあらゆる予防措置を取って直ちに市に導くこと。」
これは、同一のテーマについて言及しており、如何なるスペイン人に対しても、アメリカの如何なる部分においても、先住民の村に定住することを禁じている。
なお、インディアス法とは、スペイン国王が西インド諸島、アメリカ大陸、フィリピン諸島の領地に対して公布した、一連の法律集を指す。対象地域の社会的、政治的、宗教的、経済的な生活を規定する、ブルゴス法(1512年)やインディアス新法など、入植者と原住民の間の交流を規制しようとする16世紀の重要な法律が含まれている。
教化村の先住民の保護・隔離政策に対する非難は止まなかった
彼らはあくまでも方針を遂行した。しかし、7カ村の引き渡しと修道会のアメリカからの追放の後も、それによってイエズス会の敵に先住民の保護・隔離政策そのものを非難することを止めさせることはできなかった。
膨大な遅延の後、1753年、国境設置委員会はサンタ・テクラのウルグアイ川近くに自ら新たな村を建設した。そして、そのために、イエズス会は彼ら自身何をしていたのか、また君主や修道会や彼らが統治していた先住民に対して彼らは何を責務として考え、如何にそれを果たそうとしていたのかを考慮することが必要となった。
それは、修道会の上層部が、ポルトガルとスペインに対して戦うことの無意味さを直ちに認めた一方で、下級の会士のうちの何人かは、愚かな法令に対する武力的抵抗を先住民に起こさせた流れに似ていた。
チャルカス高等裁判所への請願書提出
マササ、ホロス、カバジェロ、ロペスそしてロサノの神父達で構成されるパラグアイ地方の評議会がコルドバのイエズス会コレジオに招集され、ペル-副王とチャルカス高等裁判所に対する請願書を作成し、送付した。
ディ-ン・フュネスは、散漫な請願だと言っている。しかし同時に、好意的にではあるが、「教会人も猫も、めったにひっかき傷以上のものは作れない。」と言っている。それは、「聖人の言葉には、猫の爪ぐらいの効きめしかない」という意味だろう。
請願書の中で、彼らは最初に忠誠を申し出、それからスペインとポルトガルの大臣たちが、(南)アメリカにおいて助言者たちから言われたままに従わさせられてきた虚偽を暴露した。彼らは、条約が関係両国に損害を与え、7カ村の先住民に関しては特に不当であることを非常に的確に指摘した。
イバネスは(『イエズス会共和国』の第1巻第1章で)、この条約は、それによって商業があおりを受けることを恐れる英国とイエズス会を除く全世界に、全般的な満足をもたらした、と言っている。(英国が受ける「あおり」とは、密輸商品の入り口であったコロニア・デル・サクラメントの閉鎖である。)
条約に対するポルトガル側での悪評とスペイン側の警戒
また、元イエズス会士であるが、イバネスより遥かに人格高尚な男レイナルは言っている。
「この条約は両側で非難に遭った。リスボンでは、大臣達自身が、コロニア・デル・サクラメントを犠牲にすることは誤った政策であると主張していた。それは、コロニア・デル・サクラメントでの密輸取引が年間2百万ドルに達していたからである。領土というものは、その有利さは不確かであり、その位置は遥か遠いものである。抗議はマドリードでは、さらに強硬だった。そこでは、人々はポルトガル人は直にウルグアイ辺りを全て支配し、そこから川を逆上って、トゥクマン、チリそしてポトシへと侵入するだろうと想像した。」
チャルカス(高等裁判所)とリマ(副王庁)の両方で、請願書は冗漫であるとされたが、好意的に受け取られ、その写しはマドリ-ドの国王と審議会へ送られた。
上層部は両国の決定に従うと言い、現場の神父達は先住民の抵抗を扇動したとして、イエズス会は「二枚舌」だと非難されたが
イバニェスは、彼の著書『イエズス会共和国』の中で、この点に関するイエズス会の活動を「大罪」とみなした。ディ-ン・フュネスは「二枚舌」と見ているだけだが、イエズス会が置かれた状況の中では、それを容赦しているようである。
確かに、約200年を越える努力の末に、彼らの最も繁栄した教化村のうちの7カ村が強制的に解体された。そして、先住民は彼らの家から追い出され、彼らの領地が200年の間彼らを迫害してきた張本人であるポルトガル人に占領されるのを見ることは、彼らにとって何よりも辛いことだった筈である。
対応についての彼らの意見が現代の眼には如何に間違って映ろうと、イエズス会士だけが、「先住民は単なる羊の群れであり、如何なる口実でも、または一万マイル離れた所に住み地域的状況には完全に無知な宮廷の大臣たちの要求で、自分たちの家から追い出しても構わない」という考え方に対して屈しなかったことを思い出すとき、「二枚舌」についてさえ弁解理由として言うことはたくさんあった。
両国の新たな境界線確定を促進するための執行委員として、イエズス会士アルタミラノ神父が派遣される
請願書がスペイン宮廷に影響を及ぼしたか否かを言うことは難しい。しかし、確かなことは、1752年、スペイン側代表委員ヴァルデリリオス侯爵がブエノス・アイレスに到着したとき、彼とともに、国境設置委員会の執行委員として、ルイス・デ・アルタミラノ神父と彼の秘書ラファエル・デ・コルドバ(両名ともイエズス会士である。特に、繰り返しになるが、アルタミラノは司教代理の肩書を持っていたから、イエズス会内での彼の地位は、現地の総責任者である管区長より高かったことになる。)も到来し、ヴァルデリリオス侯爵は、イエズス会コレジオでの宿泊を承諾した。
報告書と請願書が侯爵に降りしきる雨のように寄せられた。ひとつは、トゥクマン司教から、またもうひとつは、パラグアイ総督ドン・ハイメ・デ・サン・フストから、重要性の低い人々からの多くのものも、全てイエズス会に味方するものであった。
ヴァルデリリオス侯爵は、これらの請願はあたかも言わされたもののように受け取ったようである。というのは、彼の最初の行動は、7カ村の司祭たちに、先住民による領地の明け渡しに関する、彼の要望を公表することだったからである。彼は、これを、スペイン宮廷の命令を実行しようという彼の熱意に真面目に対応してくれそうに見えた教化村の知事を通じて行った。
イエズス会パラグアイ管区長バレダの忠告
ちょうどその頃、パラグアイ管区長バレダがブエノス・アイレスに到着し、ヴァルデリリオスは、条約が粛々と履行されることを確かなものとするための最適な措置について彼の意見を求めた。
バレダは、彼の関心の全ては条約の実行に反対することであったが、真摯に行動したようである。彼は、「条約は、それを実行することの難しさを全く考慮することなくなされたものなので、いくらかの遅延を国王に要請しても罪とは成り得ないでしょう。」という賢明な忠告をした。
ちなみに、その昔、先住民をキリスト教に改宗させるための初めての英国への派遣に際して、聖アウグスティヌスに忠告した教皇の言葉は「ゆっくりと進め。」だった、と言われている。
実は、バレダはヴァルデリリオスに忠告するにあたって、偶々ブエノス・アイレスに居た3人の元パラグアイ総督に相談していたのだ。彼らの忠告は、「非常に急ぐことなど、先住民を刺激しやすいような如何なることも避けるべきである。」ということであった。先住民は自分たちの数や地域に関する知識に基いて、両国連合軍に対してさえ大きな問題を引き起こしかねないことが懸念されたためであろう。
管区長はヴァルデリリオスに、教化村の土地は肥沃であり、よく耕作されており、そのこと自体が先住民を彼らの土地から移住することに反対させるであろうことを伝えることで、教化村の状況を示した。
最後に、彼は、司祭の中で最も経験のある者として、「先住民は議論や理由付けに譲ろうとはしないだろう。なぜなら、自分の土地を手離すことを考えるときの憤怒で、ポルトガル人に対する憎悪が先住民にまさに我を忘れさせてしまうからである。」と言った。
ヴァルデリリオスはイエズス会コレジオにおいて協議会を招集した
ヴァルデリリオスは、それ程良い気分ではなかったに違いない。彼は、イエズス会コレジオに宿泊していたから、かなり自由に彼に提供される忠告の大部分は偏向がかかっていると感じたに違いなく、気分をほぐすために、彼は協議会を招集し、そこに管区長のバレダ、フアン・エスカドン(アルタミラノの叔父、パラグアイ・イエズス会副管区長)、彼の秘書、アルタミラノそしてラファエル・デ・コルドバが現われた。
協議会は「慎重さ」を勧告し、それも大多数がイエズス会士だったので、極端な「慎重さ」を推奨した。というのは、彼らは審議会を組織することを提案したのだが、その審議会は3年間の調査の後に、ブエノス・アイレスで判明した事柄を報告するというのである。審議会というものは、王室のものであるか否かを問わず、常に政府の掌のうちのトランプ・カードである。顔見世のような見世物付きのくだらないデモクラシ-の古き良き手法の一つに過ぎないのだ。
ヴァルデリリオスは、馬鹿ではなかったから彼らの意図を察知した。そして、国境設置委員会の執行委員のひとりであるアルタミラノを直ちにカスティ-ジョスに送り(1752年)、フレイレ・デ・アンドゥラデとポルトガル人に会わせ、すぐに新境界線を引くことに取り掛からせた。
アルタミラノは、イエズス会士であるが、とにかく最初は、条約が履行されることを切望しているようであった。1752年9月22日、彼はサン・ボルハ村から、マティアス・ストロナ-神父に充てて書き、全てのイエズス会士に7カ村の引き渡しを実行することを支援するよう指示した。
彼の忠告によって、フレイレ・デ・アンドゥラデとヴァルデリリオスは、カスティ-ジョスで会い、約20リーグ(約100km)の境界線を引いた後、各々、コロニア・デル・サクラメントとブエノス・アイレスへ戻った。
教化村・先住民の反応
教化村では、事態は殆ど革命の様相を呈していた。ヴァルデリリオスが、ブエノス・アイレスに到着して最初に実行したことは、教化村先住民による領地の明け渡しに関する彼の要望を、教化村の知事を通じて公表することだった。
そして、その教化村の知事からの手紙がサン・ミゲル村に着いたときには、先住民は教会の外に集まり、彼らが移転しなければならない土地の状況を知って、彼らの憤怒は限りなかった。彼らは皆、彼らは彼らの土地を祖先から、または神の恩寵により相続したのだ、と言って移転することを拒否したのだった。
また、彼らは、バレダ管区長によってヴァルデリリオス侯爵に提出された請願書(シマンカス国立公文書館保管)の中で、言っている。「我らはキリスト教徒になった後、国王の権力で身を守り我々の敬虔なキリスト教信仰が強まるように、自発的にスペイン国王の臣民となったのだ。それ故、我らは我らの最も残酷な迫害者であるポルトガル人に自発的に服することは、あり得ない。」
彼らの模範に、さらに3カ村が直ぐに続いた。そして、事実上、スペイン王権の秩序に対する完全な反逆的状態が続いて起こった。ちょうどこの頃、司教代理であるアルタミラが到着し、非常に深刻な状況を目にした。
管区長バレダからヴァルデリリオス侯爵への書簡
教化村群の管区長司祭ホセ・バレダは、1753年8月2日付の興味深い書簡の中で、ヴァルデリリオス侯爵に、7カ村の先住民居住者3万人が騒ぐことのみならず、彼らが他の教化村の先住民と連携すること、また彼らが皆、棄教し森へ還っていくことがあり得ることを恐れる、と伝えている。
ブラボ神父は、彼の『南米諸国の地図帳』(マドリ-ド、1872年)の覚え書きの中に、この書簡の大意を記している。『南米諸国の地図帳』は彼のコレクションの一部をなし、今までに集められたパラグアイとボリビアのイエズス会についての興味深い膨大な量の記録書類を含んでいる。
1872年、彼の『地図帳』、彼の『書類のコレクション』と彼の『在庫台帳』を刊行した後、彼は数にして3万を超える書面をマドリ-ド国立歴史文書館へ提出した。それらの書類はそこに残り、根気強い学者たちのための豊かな鉱床となっている。彼らは、手に投げ縄を持って馬の背で若い時代を過ごしてしまうようなことはなかった人たちだ。
アルタミラノが到着後に直ちに行ったこと
司教代理アルタミラノは、7カ村のイエズス会士たちに、もし彼らが王令を実行することについて、彼を支援しないならば彼らが危険に晒されることを示すことに着手した。彼は到着してすぐに、ドン・ホセ・デ・カルヴァハル・イ・ランカスタ-(国務大臣・マドリ-ド条約に関する責任者)へ更なる軍隊を送ることを要請し、何人かの司祭たちには、火薬を破棄しこれ以上の製造を止めるよう書き送った。
「司祭、宣教師が保有する火薬は全て焼却し使用不能にし、(武器である)石は川に捨てること。また、製造していた村では、今後その作業を停止すること。」
ただし、シマンカス文書館に保管されているヤペユの日付のある他の手紙では、彼は旅行の苦痛について酷く不平を言っている。「荷馬車は、二度と乗れない程がたつきが酷く死にそうだった。」教化村への道は、歴史的絶叫を起こすもの程に悪かったようだ。
極めてあり得ることは、もしアルタミラノが同僚の会士たちと秘密の合意をしていなかったなら、彼の手紙は彼らを非常に驚かせたに違いないし、彼らはきっと先住民たちを怒らせたであろうということだ。というのは、先住民たちは、アルタミラノはイエズス会士では決してあり得ないと明言していたのである。
アルタミラノの行動の別の側面
確かに、イバニェスが彼の『イエズス会国家』(マドリ-ド、1768年)の中で、アルタミラノの行動の非常に異なる側面を記してしている。というのは、アルタミラノの秘書であるラファエル・デ・コルドバが、ラ・レアルという名の帆船に大量の銃と弾丸のための鉛を全て箱詰めにして積み込み、帆船は「敬虔な性質のもの」で一杯になった、とイバニェスは書いているのである。イバニェスは、これは、帆船の船長イギリス人ホセ(信用に値する人物)が自分に言ったことだ、と述べている。
アルタミラノは先住民からイエズス会士であることを疑われていた
セペ・トゥヤラグという名の先住民首長の下、600人の先住民が、サント・トメ村に入ったが、そこはアルタミラノが、自分がイエズス会士であるか否かを明らかにする目的を認めたたうえで、住居を定めた所で、もし後者の想定(彼がイエズス会士でないこと)が正しいことが証明されれば、ウルグアイ川に投げ込まれることも承諾していたのだ。しかし、アルタミラノは、彼が来るのを待たずに、突然ブエノス・アイレスへ戻ってしまった。
非常に興味深い書簡(シマンカス公文書館保管の)中で、サン・フアン教化村の村長と自治会が、彼らの敵であるとしてアルタミラノを酷く非難し、彼に対して次のように言った。
「神が送った聖ミカエルは、自分たちの気の毒な祖先に、十字架を埋める所を示し、十字架から真南に進め、そうすれば、イエズス会の神聖な神父さんを見つけるだろうと言った。これは、もちろん、聖人が予言した通りだったのだ。そして、長い行程の後、我々の祖先はイエズス会士に出会い、キリスト教徒になったのだ。」
先住民の大群に包囲された連合軍の報告に現れるタデウス・エニス神父
両国領土の境界を設置しようとしていた委員会は、森に埋もれ、または川に沿って進み、1753年2月26日にサンタ・テクラに着くまで、先住民の間に何が進行しているのかを全く知らなかった。先住民の動向に関して、彼らが最初の知らせを受けたのは、彼らが先住民の強力な軍隊に包囲されていることに気付いた時であった。
将校の一人、ドン・フアン・デ・エチェヴァリアは、進軍について興味深い報告を残したことで知られ、ディ-ン・フュネスやイバニェスと大部分の筆者は、その話題については、その報告から写したに違いないのである。
この報告は、失われたようである。そして、綿密な探究が行われたが「シマンカスの大渦巻」(シマンカス国立公文書館の膨大な記録書類の蓄積)からは発掘されていない。その「大渦巻」は、非常に多くの書類の監獄であり、その助けなしには、スペインの歴史の多くを描くことは出来ないのだが。
確かに、エチェヴァリアは、最も近くのイエズス会司祭に仲裁(調停)をしてもらうために、彼を呼びにやった。そして、その彼が幸か不幸か、あのタデウス・エニス神父だったのだ。エニス神父は、イエズス会の敵が「イエズス会戦争」という仰々しいタイトルで、威厳を付けることに決めたが不首尾に終わった蜂起で目立った役割を果たすことになる。
エニス神父の真意は
エニス神父が本当に、先住民はスペイン人とポルトガル人の双方に強い態度に出ることが出来ると考えていたのかどうか、または、蜂起によって条約の不当性に注意を引くことが出来ると考えていたのかどうかを、言うことは難しい。本当に彼自身が先頭に立ったのか、それとも、彼は単に先住民の精神的指導者として、今もその時も全ての時代の野心的な教会人のやり方に習い、世俗的な事柄に関する忠告によって、彼らに利益を与えながら寄り添っていただけなのか、今となっては分からない。
エニス神父の日記は印刷され、イバニェスによって削られ台無しにされたが、彼の『パラグアイ共和国』によって、「短い戦争」の最良の報告が我々に伝えられている。それは、カルディエル神父の『真実の言明』によって補足され、イバニェスその他の反イエズス会の人々が誤って述べたことについて記されている。戦争におけるエニス神父自身の役割について、彼は「そして、軍隊は祈祷師と一緒に行く必要がある。(祈祷師は)精神的な医者である。」と述べている。
この件に関するエニス神父自身の意見がどうであろうと、彼は殆ど最初から妥協するということの出来ない人と見られていた。彼は、国境設置委員会の代表委員たちに会うことも拒否し、自分の側からは先住民の首長を送った。その首長の一人が、セペ・ティヤラグであり、彼はサン・ミゲル村の役員であった。
この首長は、委員会の護衛が見たところでは、やや小柄で、長靴を履き、高所に立って、人権について愛国について大胆に語り、自由は彼の財産を平和に享受することが許容されるところに存在すると言い、その感覚は白人の言葉としては充分立派なものだったが、有色人にとっては写本にふさわしい(陳腐なだけの)ものだった。
エニス神父の日記は印刷され、イバニェスによって削られ台無しにされたが、彼の『パラグアイ共和国』によって、「短い戦争」の最良の報告が我々に伝えられている。それは、カルディエル神父の『真実の言明』によって補足され、イバニェスその他の反イエズス会の人々が誤って述べたことについて記されている。戦争におけるエニス神父自身の役割について、彼は「そして、軍隊は祈祷師と一緒に行く必要がある。(祈祷師は)精神的な医者である。」と述べている。
これらのような議論は、首長のおそらく攻撃的な口調とともに、国境設置委員会の代表委員たちに影響を及ぼし、彼らは復讐すると彼を脅かした後、その時点では彼らには実行する力が無かったので、両国の代表委員とも領地から引き揚げて行った。
スペイン・ポルトガル連合軍の戦いの進め方
フュネスが、よく観察しているように、スペイン軍は、ラプラタ及びパラグアイ地方で、先住民から無条件降伏を得るべく、自己の立場を確立した。(ディ-ン・フュネス『パラグアイ国内史の随筆』)どのような抵抗も、彼らを激怒させ、彼らを復讐へと駆り立てた。
先住民の罪は、彼らが生まれた土地を進んで手放そうとしないことだけなのだから、たとえ国王への彼らの請願が拒絶されてしまう前であっても、彼らを虐殺したりすることは(余りにも残酷で)、いささか困難であるように見えた。(「普通に考えると、7カ村の引き渡しの決定を取り消して欲しいという、先住民の国王に対する請願が拒絶された後に先住民を虐殺することはあまりにも残酷でやり難いだろうが」という意味だと思われる。)
非常に可能性の高いことは、全てが準備されていたことだ。なぜなら、スペイン側のヴァルデリリオス侯爵は直ちに命令を発したのだ。その命令については、スペイン国王からブエノス・アイレス総督アンドナエギへの戦争に備えるための書簡によって、ヴァルデリリオス侯爵は既に権限を与えられていたのだ。
エニス神父の日誌
積極的な戦争行為は、1754年にはじまった。そしてエニス神父は、起きた事柄について司祭らしくラテン語で日次の報告を書いていた。
幸いにも、イバニェスの『パラグアイのイエズス会共和国』は、エニス神父が犯した多くのスペルやラテン語法の間違いを修正していない。イバニェスは、イエズス会に対する厳しい敵であったから、彼が書く時の癖に人間性がよく現われている。しかし、イバニェスが、日誌の文章をかなり削って骨抜きにしたので、時折意味が不明瞭になっている。
いくつかの小戦闘の後で、その小戦闘は最初は先住民に有利だったので、先住民はそれらから大いに勇気を出したのだが、最初の重大な交戦は1754年2月24日に起きた。
戦況
極めて当然ながら、勝利はより充分に武装した大隊の側にあり、先住民は多くの最良の人々と、彼らの最大の大砲・武器を失った。様々な成功とともに、戦争は、20年前によく起きたラ・プラタ地方でのガウチョの戦の型や、ヴェネズエラでのものや、今でも進行中のものなどに習って、数年間だらだらと長引いた。
それぞれの側が、交互に相手の馬をさらって行き、お互いの牛に乗り、または、もし敗残兵を捕らえれば、彼の手を縛り、喉を掻き切って槍を刺し、人員を失った側は、彼が虐殺されたと抗議した。その「虐殺」という言葉は、今日でも敗北した側によって使われている。
最初の2年間は、何故なら南米での戦争は、20年前まで、トロイ戦争のように目一杯長々と続いたから、タデウス・エニス神父は、自分の日誌に彼の見たもの全てをまじめに記録し続けた。
タデウス・エニス神父の記録
彼は、時折はおざなりの言い方で、反乱を起こした先住民に関する彼の使命は、信者の精神と肉体にとっての司祭であり内科医としてのものだと言っている。しかし、彼は、約30台の荷馬車軍団の捕獲や、管区長からの通信を運ぶ使者の妨害について、今日も明日も書き記すのだ。
この中で、彼は、イエズス会を助けるために差し出される神の手を見る。先住民が折角得た何らかの成功を引き起こすことに怠慢であると、今日も明日も文句を言い続けるのだが。最初の出会い以降、先住民は戦場を征服した連合軍の強さの全てをかなり頻繁に浪費させるための太古からのゲリラ戦術を採っていたようだ。
先住民軍の実態
カルディエル神父は、先住民に抗して従軍したスペイン人将校の書いたものを引用して、先住民軍を非常に軽蔑に値するものとして描いている。
彼らの大砲は、ただの空洞の鉛で、皮でぐるりと縛られ、重さ1ポンド(約500グラム)の砲弾を発射する。彼らが持っていた、いくつかの槍と弓矢は、彼には、さらにどうしようもないもののように見えていた。
彼らの大部分は、聖人の姿を描いた旗を携行し、その聖人の盾によって砲弾から守られるのだ、と彼らは考えていたのだ。彼らの塹壕は、ほんの浅い溝で、そこに隠れるための2,3のより深い穴が付いていたが、カルディエルが観ていたところでは、軍事技術のかけらもなく作られて、大砲に対して開かれていたので、それらの多くは墓として役立ってしまった。
スペイン人将校が付言するところでは、先住民は大砲の音を聞くや否や、900人に近い者を戦場に残し、6分の1の捕虜を失って逃げ出した。(これは、1756年の戦闘でのことである。)
将校がついには、うんざりしながら述べていることは、事件の公式記録者は、先住民は訓練された軍隊に対し如何なる抵抗も出来たと言明するとき、最初から最後まで嘘をついている、と言うことである。運に左右されて、軍事行動は、1756年までだらだらと長引き、全くまずいラテン語で書かれたエニス神父の日誌は、サン・ロレンソ村の奪取で急に結末を迎え、そこで心の頑丈な司祭が捕虜に捕られる。
エニス神父の記録の使われ方
彼の書類は、友好的でない者の手に落ち、イバニェスによって様々な文節でしっかり歪曲化された文脈で利用され、カルロス3世の下でのイエズス会の追放において、イエズス会に対する最も恐るべき告発状のひとつとして役立つこととなる。
タデウス・エニスと他のイエズス会士が軍隊に付き添い、彼らの忠告によって間違いなく大いに助けられていたのだが、先住民は、当時の官報でパラグアイ国王と呼ばれたニコラス・ネエンギルという者を司令官としていた。
パラグアイ国王ニコラス・ネエンギル
この男については、あらゆる種類の途方もない伝説がすぐに湧き起こる。ひとつの小さな寝そべって読むような本『ニコラス1世物語 パラグアイ王にしてママルスの皇帝』は、標題ページに「聖パウロ出版」(1756年)とあり、特に優れている。
マメルコスまたはパウリスタ(ブラジルの奴隷狩りポルトガル人集団)は、もちろん、全てのパラグアイ人の敵であることから、国王は、同時に「アイスランドとパラグアイの」と呼ばれた。黄色っぽい紙に印刷された、人が見たくなりそうな標題ページの上に、果物と花かごのとても上品な小さな装飾模様の付いた僅か170ページのその短い作品に、12折り判のスペインの悪漢小説のパロディ-の一種が、雰囲気とともに提供されている。
スペイン・アンダルシア生まれのニコラス・ルビオニの伝記
ニコラス・ルビオニは、確かに1710年、タラトスという名のアンダルシアの村で生まれている。名前は初めから、確信に満ちている。そして、フランス語では、全ての音節に等しいアクセントを置いて発音され、喜歌劇に非常にうるさい人が願望しかねない程に、極めてスペイン的である。
彼の父親は、「昔の軍人」で、彼が最も望むように自分を自身で教育するように放って置いた。18歳になって、彼は家出してセヴィリャへ行き、ミゲル・セルヴァンテスの青春小説に出てくるような何度かの冒険の後、ラバ追い人になり、メディナ・シドニアで人を殺して逃げざるを得なくなり、マラガに戻り、そこで10年間平和に暮らす。
やがて、そこでの生活を退屈に感じ、アラゴンに旅をし、イエズス会に入り、それから彼の生活は確かなものとなる。ある程度の時間の後、彼はウエスカに再び現われ、すぐに美しいスペイン人ドンナ・ヴィクトリア・フォルティミとの恋に落ちる。彼は、セヴィリャの紳士のふりをして彼女に言い寄り、毎晩イエズス会の修道院に戻り、服装を変えていたのだ。
聖職者の植民地でのいつもの無軌道ぶり
厚かましさが、余りに膨大なものになって、彼は「その美人」と公式に結婚したが、イエズス会は了解していたのか、それとも、余りにびっくり仰天して口出し出来なかったのかは不明である。
ウエスカでは、事態が沸騰し、彼は宣教師として、ブエノス・アイレスへ船出し、気の毒なドナ・デ・ラ・ヴィクトリアは取り残され、死ぬほど心配した。そうするしかなかったのだ。
ブエノス・アイレスに着くと、それはちょうど7カ村のイエズス会教化村譲渡の時で、彼は好機と見て、ほんの6~7週間の短い間、グアラニ語を習い先住民軍に加わった。
先住民は、当然イエズス会の外部の全ての外国人を敵として見るように訓練されていたが、彼のことは彼らの王として受け容れた。「自由の太陽と星の子」という肩書で、かれは神とみなされ、彼らを支配する。パラグアイのマメルコス帝国への参加の直後に、世界を手に入れたときには世界に彼の歴史を加えることを約束して、彼は王位に着き、短い偽りの歴史記録を残す。
聖パウロ出版で印刷された偽りの小さな本に含まれているもののような物語によって、簡単にものごとを考える大衆は、その頃も今も、いつも真実よりは偽りによって、より簡単に印象づけられるから、パラグアイのイエズス会に対し偏った見方を持った。
ドブリゾファ神父が語る「先住民」ニコラス・ネエンギル
ドブリゾファ神父は、「ニコラス王」を若い頃から知っていたから、彼の経歴の全く別の版を残したが、その中には、「愛の女神の婦人」も「ドンナ・ヴィクトリア」さえも遠く離れて在世してはいない。
ニコラス・ネエンギルはラ・コンセプシオンの教化村に生まれ、そこで後年、村長になった。。彼は、「アンダルシアの美人」ではなく先住民と結婚し、ドブリゾファ神父が言うところでは、ジールハイム神父という彼の友人が、ネエンギルが若かった時、ささいな盗みで、公開で彼を鞭打ったことがあるそうである。
彼は、1753年、サン・ミゲル教化村の村長であるホセというもう一人の先住民とともに、先住民の反乱を率いたが、中年で背が高く無口で威厳があり、頬を横切る醜い傷跡はあるが容貌悪からぬ男であった。
パラグアイでは規則によって、先住民は司祭どころか修道士にさえ決してしてもらえなかったから、彼はいつになってもイエズス会の修道士にはなれなかったのだ。
その男は当局から殆ど恐れられていなかったから、先住民の抵抗が一旦終われば、スペイン軍のキャンプへ行き、静かに除隊し、それから、自分の生まれた土地の村長としての官職に就いたのだ。
グアラニ語の間違いから生まれた伝説
伝説は、グアラニ語の間違いから生まれた小さな悪意が、その巧妙な魅力を間違いに与えたのだろう。
グアラニ語では、「ルビチャ」という言葉は首長を意味するが、「ンフラビチャ」は国王を意味する。この二つの言葉は、言語をよく知らない者によって発音されると、同じ音に聞こえる。最もあり得ることは、先住民が、彼らの大将を「首長」と呼んだことである。
もし、彼らが本当に国王を押し立てようと考えたのであれば、きっと彼らは誰かよく知っている首長の家族のひとりを選んだであろう。そして、それは、イエズス会士によって指名されただけの村長である先住民ではなかった筈である。しかし、それはともかく、ネエンギル大将はいくつかの興味深い手紙を残していて、それはシマンカス公文書館に保管されているが、彼には指揮権限が無かったことを示している。
ちなみに、先住民が指導者としての何らかの適性を示したとしている唯一の男は、セペ・ティヤラグと呼ばれる酋長である。1756年、活動中の彼の死に際し、ニコラス・ネエンギルが彼の地位を継いだのだ。
軍事行動の間中、ネエンギルは自分の技術不足を、策略や陰謀で埋めることに努めたが、それは非常に役立たずな性質のものだったので、それらは旨くゆかず、すぐに無駄になったということだ。
ネエンギルとブエノス・アイレス総督の戦い
彼が、銃で充分に武装した約200人の部隊を持つブエノス・アイレス総督アンド・ナエギに対し、自分は1700人の兵隊と共にいることに気付いたとき、彼の最初の努力は時間を稼ぐことだった。
ネエンギルはアンド・ナエギに手紙を送り、先住民は服従する用意があると伝え、答えを待つ間、彼の保持していた要塞を強化することに取り掛かった。スパイから警告を受け、アンド・ナエギは直ちに攻撃した。そして、先住民を羊の群れのように塹壕から追い払い、彼らの木製の大砲、槍、旗を取り上げ、1300人を殺した。
栄誉も価値もない連合軍の勝利
連合軍の栄誉に満ちた勝利、それはエニス神父が言うように、予期された、そしてもし偶然そのようにいかなければ、スペイン人とポルトガル人を恥辱で覆ったに違いないものであった。
事実、その時以来、充分に武装したヨーロッパの軍隊が半裸で充分に武装していない未開人と対面したときの同種の勝利は、極めてありふれたものとなった。もちろん、それは勝利者に何の名誉ももたらさず、その名誉は、食肉処理業者が牛を処分した時に、当然のこととして受け取るものと、ちょうど同じ程度のものだったのである。
スペイン・ポルトガル両国間の紛争
ニコラス・ネエンギルに対する勝利の後でさえ、同盟の関係はしっくり行っていなかった。互いに憎みあっていた同盟の間のいつもの紛争は、今にも勃発しかねず、ポルトガル軍司令官ゴメス・フレイレは相当に機転を利かせて、スペイン人との衝突を避けることに腐心していた。
7カ村の平定
2~3カ月間の短期の軍事行動の後、連合軍は、反抗的な教化村群に入り、サン・ロレンソ村の例外を除き、それら全てを占領した。サン・ロレンソ村は、未だ耐え忍んでいたのだ。それを、鎮圧するためには、更に1~2カ月を要した。
そして、7カ村全体の領地は、ポルトガルとスペインの連合軍の力に屈した。戦闘は終わり、ネエンギルは平穏にコンセプシオン村の村長に復帰した。傷付いた木製の大砲は、遺物としてしっかりと据え付けられ、死者たちは、原野や低湿地にチマンゴスやカランチョスが腹一杯に食べられるように放置され、然るべき法の権威が再度主張され、征服者たちは、1757年、両キリスト教国王の領土の間の境界線を引くことに取り掛かった。
7カ村は廃村と化した
7カ村の大部分は廃村と化して、先住民は森へ避難し逃げてしまい、国境設置委員会は自分たちが作った砂漠の中で、自らの仕事に取り掛かった。
ウルグアイ地方の繁栄した7カ村に住んでいた1万4千人の先住民のうち残った者は、ほんの僅かである。未だ平定の任務と境界線の作業がのろのろと続き、1753年から1759年までの間、全く重要性のないことが行われていた。
カルディエル『真実の証明』
村々からの逃亡の後、そこに着き……、
孤独と混乱に非常にさいなまれた二人の神父を連れ出す……。
7カ村のスペイン領への返還・復帰
1760年、フェルディナンド6世が死去し、彼の息子カルロス3世が後を継いだが、国境設置委員会はパラグアイで夢も希望もなく作業を続けていた。
イエズス会は、それまでの8年間、ポルトガルに7カ村を譲渡する条約を無効にするために、休むことなく働きかけ続けてきたが、漸く1761年に、カルロス3世から、なされていたこと全てを帳消しにし7カ村はスペイン国王の領土の一部に残るべきことを規定する、条約を獲得した。
7カ村はスペインに返還されたが、イエズス会は勝利から一転、破滅に向かう
イエズス会は勝利した、しかし彼らの勝利は、彼らが破滅に向かってもう一歩踏み出すことを意味した。というのは、彼らが粘り強い闘いによって呼び起こしてしまった妬みが、スペインにおいて彼らに対する多くの敵意を育てたからである。
先住民の抵抗の中で、彼らの占めた部分がどれだけの大きさであったかを、正確に知ることはできない。シマンカス公文書館に保管された書類は、先住民が抵抗するよう煽動したとして、イエズス会を非難している。それらは、主にヴァルデリリオスなどからのもので、彼らが抵抗というものを見ると、何でもすぐにイエズス会のせいにした故のもので、イエズス会を虐待することは、今と同様、当時も「はやり」だったのである。
書簡(シマンカス公文書館保管)の中で、ヴァルデリリオスは、ブエノス・アイレス総督ドン・ホセ・デ・カラヴァハル・イ・ランカスタ-に以下を述べている。
「条約を遅らせ、批准させないために使われる神父たちの体力は限りない。」
しかし、彼は、イエズス会が国王に請願書を送ったこと以外に何かをしたということについての根拠は何も示してはいない。それに、請願書を国王に送ることは、イエズス会士にとって、なすべき極めて合憲的なことであったのだ。
イエズス会が先住民に降伏を勧めることは、先住民にとっては、逆に励ましになった
先住民、彼ら自身は当惑したようではあるが、一方で彼らの司祭たちによって、また他方で司教代理アルタミラノ(彼自身もイエズス会士である)が司祭たちに降伏することを求めるのを見て、勇気付けられていたのである。
先住民が、ブエノス・アイレス総督宛てにグアラニ語で書いた手紙
1756年2月28日、サン・ルイス村に滞在中のプリモ・イバレンダがブエノス・アイレス総督宛てに書いた悲壮な手紙に次のようにある。
「あなたは我々に、最後に我々の運命はどんなものになるかを言うだろう、ということと、あなたは何をするかを決断すべきであること、を私はこの手紙であなたに書き送る。
去年、司教代理神父(アルタミラノ)が、我々のこの地に来て、ここから去るように言って我々を悩ませたことが、どのような(辛い)ことだったかをあなたは知っている。
我々の村や我々の全ての領地から去ることが、我々の君主である王の意思だと言って。
それ以外に、あなたは我々に厳格な書簡を送り、我々の村を焼き、畑を破壊し、とても美しい我々の教会を引き倒すと我々に伝え、あなたは我々を殺すだろう、と述べた。
あなたは、また言う。そして、それ故、我々はあなたに、それが真実か否かを尋ねる。もし、それが真実なら、我々は皆、聖体の前に死ぬだろう。
しかし、教会を助けよ。なぜなら、それは神のものだからである。そして、異教徒でさえ、教会に害を与えることは、ないのだから。」
この手紙は、元々はグアラニ語で書かれ、その公認の翻訳はシマンカス(国立公文書館)にある。
彼らは言い続ける、彼らは常に国王の従順な臣下であった、そして、国王の願望が彼らを傷付けることはあり得ないと。事実、半文明化され、公正さと、寛容さと、正しい行いを考える罪なき男の手紙は、総督や国王の存在と共に知られるべきものである。
村落が荒廃して初めて、7カ村の割譲の見直しがなされた
もし、多くのイエズス会士が、戦うつもりになれば、その地方についての彼らの知識と、先住民に対して彼らが持っていた広汎な影響力は、ポルトガルとスペインが連合した軍事力にとってさえも、軍事活動を充分に危険なものとしたであろう。
そうであったために、悲惨な戦争は8年の長きにわたってだらだらと続き、以前は先住民が幸せに暮らしていた7カ村を、結果として徹底的に荒廃させたのである。
それから、田畑は荒廃し、村落はさびれ、先住民が殆ど離散した時になってやっと、スペインやポルトガルの政治家たちは、条約を破棄し、自分たちが起こした荒廃と悲惨を拭い去るための外交的措置を講ずることが妥当という方向に考えを改めたのであった。
〈つづく〉