人気ブログランキング | 話題のタグを見る

消えていった或る理想郷 そのX 第7章                                植民地支配の根幹「奴隷制」に触れてしまったので

消えていった或る理想郷 そのX 第7章                                    植民地支配の根幹「奴隷制」に触れてしまったので_a0326062_01461442.jpg


『A VANISHED ARCADIA』(消えて行った或る理想郷)
Robert Bontine Cunninghame Graham (ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)著


その第7章である。


過去に、イエズス会教化村について書いた記事があるので、先ずそれに目を通して頂きたく。

イエズス会教化村の建設と経営は、南米のパラグアイを中心とする約10万平方キロメートル(北海道と四国を合わせたほど)の広さを有する地域の30カ村に最盛期には10万人以上の先住民人口を抱えた一大事業であった。

スペイン国家は、先住民に対するエンコミエンダ制・ミタ制によって植民地経営を進めようとしたが、先住民の抵抗・離散さらには人口激減によって、進展は捗々しくなかった。エンコミエンダ制とは、スペイン国家が先住民のキリスト教化を口実に、スペイン人征服者や入植者に先住民を統治する権限を与えた制度であり、それによって、統治者は先住民に貢納、賦役労働を課す権利を得るという恐るべき内容のものである。ミタ制とは、交代制の強制労働のことである。スペインが導入したこれらの制度は実質「奴隷制」であり、それが旨く機能しなかったのである。

これに対して、イエズス会教化村の成功は明らかであった。働いたのは先住民である。先住民が壮大な事業を成し遂げたのである。エンコミエンダ制・ミタ制によるスペイン人植民者による支配下の労働とは何が違ったのか。

イエズス会士が、遊牧民である先住民を教化村に誘導するに際し、訴えたことが二つある。第一に、領地は先住民のものであること、第二に、先住民は自由であり、奴隷ではあり得ない、ことである。

奴隷状態の本質は、他人のために無償で働かされることである。イエズス会が教化村の組織を通じて、その条件を取り除いたからこそ、先住民は存分に働き、教化村は空前の成功を収めることになったのではないか。

それにしても、僅か2名のイエズス会士が数千人の先住民を統治するようなことが、なぜ可能になったのかという疑問が起きる。イエズス会士が立てた秩序に服することを強制する武力等の手段なしに、どのようにして、絶対的な統治することができたのか、という疑問である。

それは、先住民を奴隷として獲得しようと狙うパウリスタ(ブラジルのポルトガル人奴隷狩り集団)とスペイン人入植者(スペイン人居留地に住む)の双方から、先住民を保護するべくイエズス会士と教化村が中に立った、つまり先住民を保護する役目を担ったからであると考えられている。

教化村の繁栄は当然の事として周囲の羨望・嫉妬を買うこととなる。その結果、様々な非難を受け続けた。先住民の人口増加が殆どないことは、国庫に納めるべき人頭税の抑制のためだと言われた。教化村の先住民をスペイン人の悪弊に汚染させないようにするための隔離政策は、先住民の囚人化であると攻撃された。そのような攻撃をする人々の語る「自由」は単なる絵空事なのだ。

イエズス会教化村に対する誹謗中傷は、「鉱山保有の伝説」として膨れ上がり永く生き続けることとなる。全ては、彼らが「奴隷制」という国家による犯罪的な制度を公然と否定したからなのか。


以下に、第7章の内容をご紹介したい。


主な内容は、
・イエズス会が不人気な理由
・司祭たちの生活と習慣
・教化村に有利な証言
・奴隷制に対する彼らの反対
・彼らの統率の仕組み

イエズス会による教化村の内部統制について、多くのことが書かれてきた。しかし、それらは賛成・反対それぞれの立場に立つ強力な支持者によるものであり、彼らの唯一の目的は、彼らが書くことで味方した人々の偏見に合わせるように事態を説明することであった。


グアラニ族を理想化して描いたアッベ・ムラトリ
イエズス会側に立つものとして、アッベ・ムラトリの著書『パラグアイにおけるイエズス会教化村の幸せなキリスト教徒』が描いているのは、まるで天国である。教化村に彼とずっと一緒にいたような人たちの中にいれば、人の心は病み「幸せな信仰」の中でむかついてくるだろう。

500ページにわたって、不適当なことは何もない。ベリアル(悪魔)である人々は、イエズス会の聖人たちを迫害する。というのは、イエズス会士は常に、彼らの修道会の仕方に従って、打つ人に両頬を向ける。そして、もし彼らの財布が取られれば、急いでマントまで渡してしまう。先住民は全て、愛と感謝の塊(かたまり)である。

アッベの本によれば、12組の足枷の必要はない。(「12組の足枷」は、ブラボ神父が作りイエズス会追放の際に発見された在庫台帳の中に極めて残酷にも書き記されていたもの。)その本に書かれた彼らは、イエズス会士が課した「大酒は飲むな」という道徳律から逸脱することは決してなく、重婚に遭遇することも極めて稀であったはずだから、ヘンリ-・フィールディングの小説『ジョセフ・アンドリュス』の奔放な主人公は、グアラニ族の道徳の規準で判断すれば随分人間的な人ということになる。(そのくらい、アッベはグアラニを理想化して描いているのだ。)

元イエズス会士イバニェスは先住民は無知なまま放置されたと批判する
お次は、もう一方の立場の元イエズス会士、イバニェスである。瞬く間に風景は変えられる。

なぜなら、彼は教化村を画家ホガ-スの気分で、フィンチュレイの永続的な行進(騒々しく、混とんとした滑稽な出来事)として描いている。そして、我々に、先住民は野蛮人であり、イエズス会の統率の下でも、原始的な性癖の全てにおいて全く変化がなかった、と告げている。

彼は、イエズス会自体に対し、全世界に対する裏切り者がそうであるように、胸に応える辛苦を伴った知られたくない事実を抱えていた。というのは、彼は自分が知っている世間には、何も良いことは見ていなかったのだ。彼は、イエズス会士は怠け者だと激しく言い、自分たちの目的のために、先住民を無知なままに放置しているとイエズス会を糾弾し、かのアッベ・ムラトリが彼らをバラ色に描いたのに対し、彼らをまさに黒で拙劣に描くのだ。

このように、全ての論争家の書き物には、彼らがどちらの立場に立って書くかには関わりなく、いつも、そこにはほんの僅かしか情報が無く、彼らが評価するものは全て、信じ難いほどに歪められたものなのだ。

イエズス会の敵はカトリック教徒、彼らの味方はプロテスタント
一般には奇妙に見えるかも知れないが、イエズス会の最も厳しい敵はカトリック教徒であり、プロテスタントはしばしば擁護論者であった。バフォン、レイナル、モンテスキュは、ボルテ-ル、ロバ-トソンそしてサウジィと共に、教化村の内部統制とそれが生み出した効果について好意的に書いてきた。

同等の権威を持った他の人物の名前をカトリック側で挙げることはできない。しかし、パラグアイのイエズス会は、彼らがそこに行った最初の日から、同修道会の最後のメンバ-が大陸を去るまで絶え間ない中傷に晒されていたという事実は未だに残っている。



私の目指すところ
彼らの統治の状況が実際にどのようなものであったのか、また、不人気の理由が何であったのか、そして何故それ程多くのそのような執拗な中傷が彼らの評価の障害となったのか、を明確にすることが、先ず私の目標である。


教化村群の地理
パラナ川とウルグアイ川の両岸の河岸の上下に伸びて、教化村は、パラグアイのヌエストラ・セニョ-ラ・デ・フェ(またサンタ・マリア)から現在のブラジルのリオ・グランデ・ド・スル地方のサン・ミゲルまで、そしてパラナ川東岸のコルプス教化村からウルグアイ川岸のヤペユまで広がった。

イエズス会布教長の権威・権力
正式な首府は、パラナ川東岸のカンデラリアに置かれた。その町には、教化村群のイエズス会布教長が正式な住居を持ち、そこから彼は宗教的権威のみならず世俗的権力も持って、領地全体を統治した。彼が置かれた位置は、どのスペイン総督所在地からも数百マイル(500~1000キロ)離れており、世俗的権力はその地理的距離から次第に彼の手に入ったものである。

カンデラリアの町
カンデラリアの小さな町は、私がそれを知った時には、既に見捨てられた状態にあった。イエズス会の建物は、教会を例外として全て廃墟となっていた。道路は砂地で砂漠化し、堅い木の柱の線によって道路から分離された歩道は、言い伝えが語っているように、イエズス会によってそこに残されたものだ。パラグアイの堅い樹木は殆ど鉄のように不滅だったのである。

渡し舟、それは太い綱で動く漂う橋のようなもので、パラナ川を渡ってイタプアへ気まぐれに往復した。イタプアは川の反対側にある小さな旧イエズス会村である。各店は、100年前の英国のように外側に看板を付けていた。

住民は、果物や花や甘い芋を積んだカヌ-で川を下って、野菜をそこに供給し、空にして家へ戻るか、荷物として3~4個のブリキのバケツや鏡や、ヨーロッパから小さな辺境の町へ製品のサンプルとして送られて来た大理石で作られたものを運んだ。

昼には全裸のゴダイヴァ夫人が馬に乗って通るほど静かな町
全てが静かであり、またおそらく、イエズス会の布教長が邸宅にいる時には、もっとずっと静かだった。そして、もしそれが必要ならば、そして、もし乗馬するのに充分静かな馬を見つけることが出来るならば、昼の暑い時間に全裸のゴダイヴァ夫人が何人も馬に乗って街を行くことだろう。
(ゴダイヴァ夫人は、夫の圧政を諫めるため街を裸で馬に乗って行進した美しく聖い心もちの伝説の女性。ベルギーのチョコレ-トメ-カ-「ゴディバ」のブランド名はその伝説に由来する。)
けれど、確かなことは、その馬を見ようとして昼食後のうたた寝の機会を逃がす者は町には決して居なかった(誰もが、裸のゴダイヴァ夫人を覗き見するより昼寝の方が好き、そのくらい住民は品行方正だった)、だろうということだ。

教化村毎の2人のイエズス会士
全ての教化村には、2人の選ばれた会士が生活した。年長の者は、この国での経験と言語の知識によって、コレジオの校長や修道院長だったものから選ばれ、内部的な権限を与えられ、布教長に対し直接の責任を負った。もう一人は、一般に「戦友」と呼ばれ、副官として行動し、全ての精神的事柄について全面的な責任を負った。だから、彼らは相互に牽制し、彼らの義務が衝突することも無かった。

意思・命令伝達の仕組み
困難に当たっては、布教長が、戦場における将官のように馬に乗った伝達係を通じて命令を発し、伝達係は頻繁に一日当たり100マイル(160キロ)を馬で走り、馬の乗り継ぎは街道3リーグ(15㎞)毎に緊急時に備えて、常に準備されていた。

内部交通手段としての街道と河川
ラ・カンデラリアから、街道は領地の各部分へ枝分かれして、それらの大部分は荷馬車に適しており、そして全てが、僅か20年前に単なる通り抜け道の小道だった頃よりは立派になった。街道は、コリエンテス、アスンシオンへ、またヤペユからサルト・グランデへパラナ川に沿って走っていた。ウルグアイ川の上流には、約8地点があり全て防御され、伝達係を装備した馬が配置されていた。パラナ川上流地区には、また街道があり、そこは横断されたことのない踏破不能な荒野として私自身記憶している。また、虎がうろつき、先住民は、森林の奥まった所では見られたことが無いのだが、珍しい旅行者には吹き管から毒矢を放つのだ。

ウルグアイ川とパラナ川の上流地区には、街道と早馬の乗り継ぎ以外に、ジェルバ(マテ茶の葉)や土地の他の産物を運ぶカヌ-とボ-トの船隊があった。それ故、ボートとカヌ-の船隊と共に、あらゆる方向に枝分かれする主要道路と間隔を置いた早馬の乗り継ぎがあったことになるが、当時のアメリカ諸国には、そのような政庁所在地との内部交通手段はほとんど無かったのである。

あるイエズス会士(名前は不明であるが1715年付)の手紙は、パラナ川では、少なくとも2000隻のカヌ-が常時使用され、そして、殆ど同数またはそれ以上のカヌ-がウルグアイ川で使用されている、と述べている。(ブラボ『在庫台帳』等)

インカ帝国にもアステカ帝国にも、通信を伝達し沿岸から非常に迅速に魚を運ぶための宿駅は確かにあった。しかし、パラグアイのイエズス会教化村と同時代の全てのスペイン植民地は、昏睡または内部衰退の状態に陥っていたのだ。ペル-におけるインカ帝国の道路は早期に廃止に陥っており、ブエノス・アイレスから太平洋沿岸に手紙を送るのに数週間を要した。


教化村の内部統制の仕組み
王室代理菅(代官)、参事会議員、村長など、この種の考案され示唆された代表制は、当時の先住民には最も適していた。今日の国会の機能ぶりを観る人々は、時々、議員の大半は選挙民が何らかの誘導的な力を利用していればもっと適正に選ばれたのでは、と考えざるを得ない。もっとも、どういう観点から観るかが難しいところではあるが…。

イエズス会に関して、大半の論者が間違えた答を出しがちな疑問は、如何にしてわずか2人のイエズス会士が数千人の先住民の教化村の秩序を保つことが出来たのか、武力または彼らの力を感じさせる、または彼らの法令に服することを強制する、何らかの方法もなしに、どのようにして絶対的な支配をすることが出来たのか、ということである。

先住民が、無知な状態に置かれた、とは考えられない。カルディエル神父は(『真実の証明』p.222)1743年の勅令を引用して、全ての村には、スペイン語の読み書きを教えるために建てられた学校があること、そして、そのために、良く書くことが出来る多数の先住民がいる、と述べている。カルディエルは、同ペ-ジに、「彼らのうち2人は、私が書いているこれを今、写しており、それも私より旨い字で」と付け加えている。

教化村の内部統制の仕組みは、外観上は民主的であった。つまり、首長と議員のような代表者がいたのだ。しかし、彼らの大部分はイエズス会士に指名され、たとえ彼らの全てが選ばれていようと、彼らの選出は完全に司祭たちに委ねられていたのだ。


先住民をパウリスタとスペイン人入植者から保護したイエズス会
先住民が立っていた間違いなく危険な立場は、一面でパウリスタに晒され、もう一つの面で、スペイン人入植者に晒されていた。どちらも、彼らを奴隷として入手することを望んでいたのだ。そして、そういう先住民の立場があったからこそ、イエズス会の手に権力がもたらされることとなった。何故なら、先住民は、イエズス会だけが、彼らと差し迫った奴隷制との間に立ってくれていると、明らかに考えていたからである。

イエズス会に反対する大部分の論争者は、教化村の先住民は実態的には、半奴隷であると言い張る。もし同時代の記録を調べ、イエズス会士の数の少なさを思い出せば、事実は明白である。

教化村の先住民は、何故壮大な事業を成し遂げられたか
先住民が行った働きは計り知れない、そしてそれは、当時の彼らの如何なる仕事にも付随した(他人のために働いている以上は、いくら働いても自分のためにはならないという)つらさを、そこから取り除くという条件があったからこそ成し遂げられたものであったのだ。奴隷状態の正に本質は、他の別の人のために、報酬なく働かざるを得ないということである。先住民は、まさにそういう状況にあったのである。

金銭・物品の配分
彼らの働きは共同体のためになされ、イエズス会士は疑いもなく、商業で得た全ての金銭や商品の分配についての全面的な処分権を持ち、金銭・物品のどちらも共同体の拡大のためには使われなかったが、共同体全体としての利益のためには使われた。

ディ-ン・フュネスは、『批判的随筆』等の中で、30カ村の商業所得は、10万ドルとし、そこから国王税を引いた後に、教会の維持や他の必要な支出に充てられ、年末にはそれらのうち僅かしか残らなかった、と述べている。


増えなかった先住民の人口
30カ村全体の人口は、14万人から18万人と様々に推定されているが、非常に奇妙なことに、イエズス会統治の期間全体を通じて、殆ど同じ数字であり続けた。

ドン・マルティン・デ・バルアは、国王に対する覚え書き(1736年)の中で、イエズス会について批判し、課税可能な先住民の数を4万人としている。1736年に問題を調査するよう指名された委員会は、1745年に(なんとリーズナブルな間隔)報告したが、課税可能な先住民は、19,116人だけであると認めた。各先住民は、国王に対し年1ドルの人頭税を払っていた。それに加えて、各教化村は、年100ドルを払った。司祭たちの給料は、年600ドルだった。(アサラ『南米の旅』)

納税額を抑えるために人口が過少に申告されているのではとの疑惑が絶えなかったが
この事実は、イエズス会に逆行して挙げられてきた。そして、彼らは良い統治者ではあり得ないとか、人口は増加していたに違いない、ということが言われてきた。しかし、そういうことを言う人々は、パラグアイの先住民は決して大人数ではなく、蛮族についての大部分の論者がドブリゾファやアサラのように、先住民が決して増加する傾向にはなかったことを指摘していることを、忘れているのである。
(アサラ『南米への旅』、またフュネス『パラグアイ史批判の随筆』、そしてゲバラ神父『パラグアイ史、ラ・プラタ川とトゥクマン』)

先住民のこの比較的大きな人口が、我々がこれまで見てきたように統治されたのである。それも、わずかな人数の司祭によって。彼らは如何なるヨーロッパの力も行使せず、先住民の奴隷化に反対して彼らが採った明確な立場のせいで、パラグアイに居たスペイン人入植者とほとんど常に悪い関係にありながら、その司祭たちは、自由に使える強制の方法を持っていなかったのだ。

それ故、先住民は、彼らの統治に満足していたに違いない。なぜなら、もし彼らが満足していなかったら、イエズス会士は彼らが野蛮な生活に戻ることを止めることは決して出来なかっただろうからだ。

今日の「善良なリベラル」が社会主義的傾向に何でも反対するのと同様に、アサラは概してイエズス会の反対者であるが、彼の『南米の旅』の中には、彼らに味方する意味を持つ一節がある。国王に、教化村によって支払われた税金の金額を数え上げた後、彼は言っているのだ。
「如何なる国においても、為政者と納税者との間で妥協点を見出そうとするとき、そのような結果が生ずる(両社が妥協に達する)ことは滅多にない。」

教化村は儲かっていたか
ペトゥルス・ジョアネス・アンドレアは「彼らの追放の後、残された書類から、コルドバのイエズス会コレジオの収入はちょうど管理費を払っている(収入は経費に等しく殆ど差が無い)。」と述べている。

『ブエノス・アイレスの一般資料』に『イエズス会』というファイルがあり、カルディエル神父の報告の紹介文にエルナンデス神父によって言及された書類がある。そこでは、追放された年の30カ村の収入は、経費に対し僅かな不足に陥った、とされている。

外界との隔離政策は、先住民の囚人化であると非難されたが、それはスペイン人締め出しの有効な方法だった
世間からの完全な隔離政策に従って、その理論的な結果として、イエズス会は彼らの個々の村々の全ての領域を、壁と水路で取り囲んだ。そして、教化村と外界との間の出入りを防ぐため、門に守衛を配置した。このことは、イエズス会の統治政策に対する攻撃材料として随分使われてきた。というのは、それによって、先住民が自分たち自身の領地で囚人として扱われているように言われたのだ。しかし、もし、水路や柵や衛兵所が先住民を閉じ込めたと言うなら、逆にそれらは、スペイン人を効果的に締め出すのに役立ったということを意味しているのだ。

先住民を奴隷化する人が自由を語るのは、よくある空疎な形式主義
先住民を理性のない人間とみなし、可能なときには先住民を奴隷として捕らえた人々が、「自由」について話し始めるのは、あたかも、「自由」という神聖化された名目が、単なる「見せかけ馬」として使われるようなものである。また、それは、油に汚れた聖書が、警察の法廷でその上に手を置いて宣誓するために使われるようなものであり、証人が自分の舌で自分の頬に、目を空に向けて上げ、そしてそれから熱意を込めて親指にキスするのと同じように空疎で、単に形式的なことなのだ。

教化村の共産主義は限定的なもの
教化村の共産主義は限定的な性格のものであり、土地は共同体の労働力によって耕されるという思想に基き生産物はイエズス会によってのみ管理されていたことが見えてくる。


イエズス会の巨大な富
イバニェスやアサラ、そしてより最近にはウオッシュバ-ンのような(ウオッシュバ-ンは、ブラジルとアルゼンチン共和国との戦い⦅1866-70⦆の間、米国公使だった)多くの論争的な筆者によって、イエズス会は巨大な富をパラグアイに蓄積してきたということが、語られてきたが、そのような非難について、未だかつて如何なる証拠も提出されてはいない。

確かにカルデナスは同様の陳述をしたが、彼が言った事に何らかの確認・保証を与えることは、彼の権限にはなかった。この権限はブエノス・アイレス総督ブカレリ(1767年)の手にのみあり、彼の支援の下、イエズス会の追放は行われたのだ。ブラボの在庫台帳からのいくつかの抜粋によって、またブカレリによって送られた管財人の陳述によって、教化村領地には如何なる時も巨大な富はなかったこと、そして収入は領地自体の中で費消されたことを示したいと思う。


イエズス会士は教化村を理想郷のように経営した
教会への出費は過度であり、宗教的儀式に費やされた金銭は、生産的なものではなかったようだ。しかし、奇妙に見えるかもしれないが、イエズス会士たちは企業経営に習って教化村を経営したのではなく、むしろ何らかの理想郷の支配者のように経営したのだ。それらの愚か者たちは、幸福は富より望ましいと考えたのだ。


先住民の書いた司祭たちの日常
イエズス会の司祭たちの生き方や彼らの日常の労働を、ニコラス・ネエンギルの興味深い書簡以上に分からせてくれるものはない。それは、元はグアラニ語で書かれ、その翻訳がシマンカスにあるスペイン国立公文書館に現存している。


神父の生活の仕方は、全ての扉を閉めることである。そして、召使いと料理人(彼らは、相当歳をとった先住民)とだけが残り、彼らは彼を世話するだけである。彼らは、朝だけ中に居て、12時になると外出する。

別の老人が門番の小屋を掃除し、神父が眠るとき、または神父が彼の耕作地を見に出掛けるときに、門を閉めるのは彼である。そして、そのときも、召使いと料理人は彼らだけで居るか、そうでなければ老人の先住民と一緒にいるが、老人は彼らの相談に乗ったり、馬の世話をしたりする。

この後、午後には鐘の音で我々を呼んで、ミサか聖母マリアのロザリオの祈りに行き、その前に少年、少女を小さな鈴で呼ぶ。その後、熱心な神父は、彼らに教義と、自分で十字を切って祈る仕方を教え始める。

同じように祝日毎に、彼は我々に聖書を説き、同様に告解や聖体拝領の秘蹟を教える。良き神父は、これらのことに専念しているのだ。そして、毎晩、雑役夫の小屋は閉じられ、そして鍵は神父の部屋に持って行かれる。その部屋は、聖具保管係と料理人が入れるように朝にのみ開けられるのだ。

神父は、毎朝、我々のためにミサを挙げ、ミサの後に彼らは自分の部屋に行き、それから、暖かいお湯とジェルバ(マテ茶の葉)だけを、持って行く。その後、彼は自分の部屋の扉の所へ居る。そして、ミサに与った者が皆、来て彼の掌に接吻し、彼は外に出て、先住民たちが自分の仕事に就いているかどうかを視る。そして、それから、自分の部屋に行き、祈祷書の中のその日の政務日祷を唱える。神が、自分の事柄全てにおいて、彼を成功させるように祈る。

11時に、彼らは行って少し食べるが、たくさんは食べない。なぜなら、彼らには、5つの料理があるだけで、小さなグラスに満たないワインを一杯飲むだけなのだ。そして、蒸留酒は決して飲まない。カンデラリアから持って来るものを除いては、我々の村にはワインがない。布教長が送ってくれるものがあって、ブエノス・アイレスの近くのどこかから、それを持って来るのだ。

食事を終えた後に、少し休むために神父は教会に入る。後で、彼が休んでいる間は、神父館で働く者たちは外へ出る。そして、屋内の何らかの仕事をしている者や聖具保管係や料理人は、皆外に出る。そして、鐘が鳴るまでの間、ドアは閉まっており、老人だけが門を守る。そして、再び鐘が鳴ると、屋内で働く者が中に入れるように彼はドアを開け、神父は彼の聖務日祷書を取りだし、何処へも行かない。

夕方には、子供たちが家に帰るよう、彼らは鐘を鳴らす。そして、神父は彼らにキリスト教の教義を教えるために、入って来る。


筆者ニコラス・ネエンギルについて
おそらく、グアラニ族の先住民によって書かれ、グアラニ語の興味深い全ての語順転換をスペイン語で保った誰かによって翻訳された、前述の単純な描写は、私自身やネエンギルよりももっと遥かに野心的な翻訳者によって、公に発表されてきたどれとも同程度に、パラグアイでの教化村司祭の日常を良く写したものを提供している。

ニコラス・ネエンギルは、後にポルトガル人に対する戦いに登場し、彼の多くの書簡はシマンカスの公文書館に保管されているが、私が書き換えたものが一番面白く単純なようだ。

ドブリゾファは、彼の『アビポン族の歴史』の中で、ネエンギルについて、彼は素朴な先住民で、取るに足りない欠陥によって評価されているのを度々見たことがある、と述べている。とにかく、ネエンギルは、イエズス会が、彼ら自身採用した仕組によって少なくとも好意的に印象づけた先住民のひとりだったようである。彼が書いたような考え方で、数百人の先住民が考えていたに違いない。さもなければ、全ての面で敵に囲まれる立場に置かれていた教化村は、一日たりとも持ちこたえられなかった筈なのだから。


何がイエズス会に手強い敵を生じさせたのか
それでは、パラグアイで、それ程多くの手強い敵をイエズス会に引き起こしたものは何であったのか。ちょうど、その頃、(現在のボリビアの)モホやチキ-ト地区では、先住民の中でのイエズス会の力は充分に強大で、彼らが追放される日まで、スペイン人とも決して争ってはいなかったのである。多数の様々な原因が、彼らの経験した全てに働いたが、最も確かな二つの要因が、彼らの凋落をもたらしたことは間違いない。


イエズス会鉱山の伝説
カルデナスの時代以来、イエズス会が豊かな鉱山を持っており、彼らはそれを秘かに稼働しているという報告が永続的に増大していた。それは、千回も誤りであることを立証されたのだが、そのまま残っていたのだ。今日でさえ、「科学」とその目覚ましい発見にもかかわらず、パラグアイにはイエズス会鉱山を発見する夢を抱く人が数多くいるのだ。

騙(だま)し騙されるのは人の常、またそれを喜びとする人もいる
人というものは、騙されたがるものだ。そして人を騙そうと手ぐすね引いている人もたくさんいる。また、もし人々が自分のために作り話を捏造して、そうすることで自分の隣人に害を与えることが出来れば、彼らの喜びは激烈なものとなる。

他人のために僻地で暮らそうなどとする人がいるとは信じられない多くの人たち
私が思うのは、多くの人は、自分を富ませる以外の理由で世間から遠く離れて先住民だけに囲まれて暮らしていこうとする人がいるなどと言うことが信じられないために、鉱山の物語を本当に信じてしまったのではないか、ということだ。

だから、イエズス会士に対する嫌悪を引き起こした要因のひとつは、「彼らは巨大な鉱山という富を所有しており、それ故に、彼らは働かないか、さもなければ彼らの会のために密かに働いているのだ」という考えだと思われるのだ。そして、もうひとつの要因は、「奴隷制の問題」だ。

奴隷制の問題
「自分と自分の仲間は、理知のある人間だ」ということと、「全ての有色人種の人々は非理知的である」ということが、頭にしっかり入ると、そこに奴隷制は自然の結果としてついてくる。なぜなら、理知のある人は、銃を作る知能を持っており、彼らの全ての道理は銃に立脚しているからだ。

イエズス会の奴隷制に対する姿勢
彼らのアメリカ大陸への到着の最初の瞬間から、イエズス会は先住民の奴隷化に対し確固たる対決姿勢を堅持してきた。彼らは、ヨーロッパやアメリカ大陸の諸都市で確かに誤りを犯してきた。しかし、荒野で先住民と接触するようになって、彼らは保護者となった。

1593年、ペル-からパラグアイ布教長として送られたフアン・ロメロ神父は、到着すると直ぐに、彼の前任者が保有していたエンコミエンダ制に基く先住民のいた大農園を放棄した。先住民の無報酬の労働から利益を上げることの事例を作ることを望まず、彼らの働きなしには大農園は無価値であるとフアン・ロメロは断言したのだ。

カルデナスの時代にも、多くの機会に、明らかにイエズス会は公然と奴隷制に反逆していたし、ルイス・モント-ヤがスペイン国王から得た認可の中には、全ての先住民は自由であると宣言しているものがある。

もし、彼らの奴隷制に対する姿勢が呼び起こした嫌悪の例が足りないのであれば、1640年にモント-ヤとターニョがスペインから戻って、ピリティナンガにある教会の扉に教皇勅令を貼り出して、全ての奴隷保有者を破門で脅した時、「泥棒!」と叫ぶ声が上がり、イエズス会士は町から追い出されたことを思い出すべきであろう。


奴隷制に関してその時代の各個人がどんな見解を持っていたかは不明ではあるが
この奴隷制の件に関しては、イエズス会士がパラグアイに居た頃の(南)アメリカ諸国のような国にいる誰か特定の人が、それについて実はどんな見解を持っっていたかを言い当てることは不可能である。

ドン・フェリックス・アサラは、自由主義者であり哲学者で科学者であった。そして、パラグアイとラ・プラタ川について18世紀に書かれたおそらく最高の描写を我々に残した。しかし、彼は奴隷制の支持者であった。

自由主義哲学者として、最も興味深い一節で彼は次のように述べている。
法廷は、チャルカス最高裁判所判事ドン・フランシスコ・デ・アルファロに、巡察師の資格でペル-へ行けと命じた。1612年、彼が採った最初の措置は、何者も先住民の家へ、彼らを教化(文明化)するという口実で行ってはならないということ、また規定した類の、つまり先住民の私役を伴うエンコミエンダ(征服領地)は決して与えてはならないということを命令することだった。

私が理解できないことは、彼ドン・フランシスコ・デ・アルファロは何に基いて、この様に政治的な理屈に(定められた奴隷制に)反する措置を打ち出すことが出来たのか、ということである。しかし、その判事はとにかくイエズス会に味方したのだから、イエズス会が彼にそのように行動しろと指図した可能性があるのだ。

しかし、そのような男によって、より強い証言がなされ得る可能性などは殆どないのではないか。だから、イエズス会が先住民の奴隷化に反対したことや、彼らの反対が彼らを不人気にしたことなどが証言される可能性は殆どないのである。


正に同様に、近代のブラッセルの何人かの賢明でない哲学者たちは、ベルギ-・アフリカでの奴隷制と大量虐殺を、目的が手段を正当化するという理屈で支持したようである。将来、進歩が実りを迎えたときには、コンゴのあちこちに点々と救貧院があることになる。そして、全ての原住民は、ベルギ-でのコストを僅かに上回る値段で、快適で徹底的に乾燥された充分な木靴を供給することを強制されることとなる。


イエズス会と他の修道会の紛争
イエズス会士をパラグアイのスペイン人入植者に不人気にさせた2つの主な理由(根拠のない鉱山所有の噂と奴隷制の否定)について、上に述べた。しかし、加えて思い出すべきことは、その国には殆ど全ての他の修道会の会士たちがいて、それらの修道会の全てが、ヨーロッパでイエズス会と争っていたことだ。

少なくとも、イエズス会の力は妬まれていて、ヨーロッパで始まった敵対感情は新世界に伝えられ、紛争の報告にによって広がった。そして、紛争は様々な修道会との間に、ヨーロッパ全体で、特にローマで進行していた。もし、イエズス会士が彼らの隣人の憎悪の感情を掻き立てたというのであれば、彼らはきっと、先住民の心を彼らになつかせる才能があった、ということにもなる。

こういう事情がなかったならば、長く働いてきた国で屈辱的な追放の責めを負わされたイエズス会が、実は秘かに豊かな鉱山を保有していたなどということはあり得ないし、また何か悪事を働いていたのであれば、追放から100年以上経った後にも、先住民の間で人気を保っているということもあり得ないのだ。

理論とか、政治家や神学者のあれやこれやの信条とかは、全く私の好みではない。そうではなくて、私は、パラグアイの、今は廃墟となったイエズス会教化村を訪ねた間に、私自身が聞いたことに基いて考えようと思う。

騎手は言う。「馬はどんな形であれ進む。だから、素晴らしくみえるのだろう。」と。それと同じで、政治・経済についての論者が、人間にふさわしいと認めないような条件の下でも、人は幸福であり得るのだ。

一度ならず何度も、歳取った先住民が、イエズス会士について、彼らの父親が言っていたことを私に語り、彼ら自身常に尊敬と親愛を以てイエズス会士について話したし、出来る限りイエズス会士が教え込んだ教会の儀式の伝統の全てと祈りの時間を維持することに努めていたのだ。

彼らの統治の内部の仕組が完全であったとか、今日文明化されたと言われる人々に適している程度のものであったとか、いうことではない。

適していたということだけでなく、250年前の、そしてちょうどそのとき遊牧生活から生まれてきた先住民部族のために、あらゆる環境の下で工夫され得るものでおそらく最良のものは、エンコミエンダとミタの制度の下での先住民たちの状況が如何に悲惨で絶望的なものであったかを思い出せば、明らかであると私は思う。

管理的な事柄において、制御する手を持った反共産主義が多くのすぐれた人を生むとか、または、そのような人が現代における頂点にそびえ立つというようなことを私は考えないが、しかし、もしそうなるとすれば、そういう人間とは誰なのか、そしてどのような美徳を行使して彼らは現代の社会でそびえ立つのだろうか、とは思う。

イエズス会士が目指したことは、彼らの統制の下にある大部分の先住民を満足させることであり、彼らが目的を達して、奴隷の保有者や奴隷を狙うハンタ-である周囲の民衆の彼らに対する不平の真偽が明らかになることであった。

イエズス会が先住民に訴えた2つのこと
彼らの統治の仕方の問題や、彼らが終始根気強かったことから一旦離れて、イエズス会士が先住民に訴えた2つのことについて考える。

それら2つのことを、彼らは、彼らの人間についてのまさに本質的な性格によって、他の如何なる人々に対するのと同様に非常に強く先住民に訴えかけることが出来たのである。

第一は、領地は先住民のものであること
第一に、この点についてはイエズス会に反対するブラボ-やアサラのような筆者も認めていることだが、イエズス会士たちは先住民に、彼らが住んでいる土地は、教化村や教会や牛馬の群れとその他とともに、彼ら自身の所有物であると教え込んでいたのだ。

第二は、先住民は自由であり、奴隷ではあり得ないこと
そして、第二に、彼らは先住民に、先住民は自由であり、先住民の自由を確認するスペイン国王自身の勅令を持っており、そのため先住民は決して奴隷ではあり得ないと、伝えていたのだ。

これら2つの主張のどちらも、パラグアイのイエズス会に関する多くの筆者に好印象を与えていない。しかし、それにもかかわらず、それらは新改宗者である先住民にイエズス会士が有した強固な影響力の理由を充分に説明するものである。

イエズス会の統治の下、先住民が享受した自由は、近代的精神やアフリカにおける今日のヨーロッパ人の博愛主義的支配に同調するものを超えていなかったように見えるかも知れない。しかし、それにもかかわらず、グアラニ族には充分であったように見える。限定的な程度ではあったが、殆どの場合、奴隷制の中で人生を送ったスペイン人居留地の先住民に対するそれよりも、ましなものだったのだから。



〈つづく〉













# by GFauree | 2022-10-29 12:21 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

消えて行った或る理想郷 そのIX 第6章 独り勝ちしてしまうので 

消えて行った或る理想郷 そのIX 第6章 独り勝ちしてしまうので _a0326062_01011389.jpg




『A VANISHED ARCADIA』(消えて行った或る理想郷)
Robert Bontine Cunninghame Graham (ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)著

今回は、その第6章である。

「やっと」と言うか、「いよいよ」と言うか、主題である教化村の環境や組織やそこでの生活が、語られている部分に入った。私がこの本を読んだ理由は、要するに、イエズス会教化村について知りたかったからであるが、それを知りたかった理由は、色々ある。その中に、イエズス会教化村を知れば、日本のキリシタン教会がより鮮明に見えるようになるのでは、という期待があった。


南米(主に、パラグアイ)のイエズス会教化村は、1610年頃日本での禁教・迫害が本格化した頃からその建設が進められたのだから、日本のキリシタン布教と教化村活動に共通する点があるのは当然であるが、本書の内容からイエズス会の活動の特徴が浮かび上がり、それが同会の成功とまたそれに対する羨望や憎悪や警戒心を生んだ事情を理解出来るのでは、と思ったのである。どうやら、その期待は当たっていたようだ。


本書の内容から浮かび上がる教化村活動と日本でのキリシタン布教との共通点

・人材活用の成功 各業種の専門知識・技術保有者の活用、特に先住民軍の指導における軍人出身者
・産品の販売・輸出の進展 これも知識を持った会士の存在が推測できるが、日本のキリシタン布教もポルトガル船貿易に支えられていた。

専門知識・技術保有者の絶対的不足は、南米へのスペイン人移民全般に言えることで、これが植民地でのイエズス会の活動全般に有利に働き、同時にそれが、他の修道会のみならず入植者全般からのイエズス会への羨望・嫉妬・憎悪の要因になった、と私は考える。




この第6章の内容は以下の通りである。

・イエズス会によって建設された教化村領地と町
・先住民を引き付けるためイエズス会の努力
・宗教的祝祭の儀式と行列
・農業と商業のための組織(仕組み)


カルデナスがばら撒いた中傷は根絶できなかったが
カルデナスの死によって、パラグアイでのイエズス会の最も危険な敵は消滅した。彼らは、彼を打ち破り、司教職から追いやった。しかし、彼によって目論まれた展開と彼が彼らの修道会に向けた中傷は、未だに残ってはびこっており、結局は彼らに逆行して流布し、彼らを地上から追いやることとなる。

中傷を根絶やしにすることは困難なことである。人というものは一般にそれを大切に心に抱くものである。彼らは、決してそれらを死なせはしない。それは、たとえ萎(しぼ)むことはあっても、別の形で蘇(よみがえ)るものだからである。人々は、悪い評判と良い評判という形でそれに拘(こだわ)り、それは一旦根付くと、森の樹木のように数世紀にわたって成長し続けるのである。

パラグアイにおけるイエズス会に対する誹謗中傷は、当初カルデナスが始めたものだが、それ故未だに続いており、パラナやウルグアイの教化村におけるイエズス会の活動についての評価を、今日までさえ、歪(ゆが)め続けているのである。


教化村の拡大と畜産業の発展
しかし、中傷もパウリスタの襲撃も、パラグアイのスペイン人植民者の妬みでさえ、イエズス会士の任務遂行を押し留めることはなかった。そして、教化村は次第に拡大し、パラグアイのサンタ・マリア・マヨ-ルから現在のブラジルにあるサン・ミゲルへ、そしてパラナ川流域のヘススからウルグアイ川流域のヤペユにまで及ぶこととなった。

ヘススとトリニダの教化村を例外として、パラナ川流域の大部分の地域は、今日、原始林の中の開拓地であるが、支流の河岸上の森を伴ったゆるやかな起伏の開けた平原で全て構成されている。そこは過去にも現在にも、美しく短い草に覆われていて、牛を育てるのに適した素晴らしい地域である。そして、それ故に、家畜の世話が教化村の先住民に壮大な産業をもたらすことになる。

その地域は、牧牛に非常に有利だったから、牛は急激に増え、フランシスコ・ハビエル・ブラボ神父によって公表された在庫台帳によれば、牛の数は膨大なものとなったのである。


教化村の赤い土
これら開けたゆるやかな起伏の原野は、先住民には「起伏の多い原野」と呼ばれ、そこに普通はヤタイスという名の生育不全のヤシが密集して生えるが、春や初夏に原野を覆う草を損なうほどには密集せず、冬でさえ、そこは良好で肥沃な土壌となるのだ。そして、堅い木の密集した木立ちが、あちこちで半島や島の形に大草原を分けている。窪地や岩の多い谷では、小型ヤシが馬の膝の上にまで立ち上がっている。

普通、土壌は豊かで明るい赤色であり、それは木々を通して微かに光り、地面に特徴的な暖かい色を与えている。フランス人イエズス会士である記録者たちが、それを「教化村の赤い土」と呼んだ。イエズス会士たちは、教化村領地内の彼らの教会と家々を塗装するのに、その土ともうひとつ別の黄色の蔭を持った土を使った。その組み合わせは、むしろ黄土色で、雨の後には、濃い泥色となったが、それは移動を非常に厄介なものにするものでもあった。


植物学者であった会士たち
その地域の花や灌木は、非常に興味深く樹木よりもさらに多様である。イエズス会士の多くは植物学者であり、モンテネグロ、ジギスムンド・アスペルガ-、ロサノ等の神父達は強い関心を持って、今日でさえ未だ分類されていない植物の多くを記述し、リストを作った。

有名なフランス人植物学者ボンプランは長い間、パラグアイで執政官フランシアに捕らえられていたが、不運にも何も公表する機会が無かった。現代の筆者たちは、多くの記録を残したが、国全体の植物相は不完全にしか知られていない。


教化村のある地方の地理・自然
湖や川の逆流した淀みは、先住民が総称してカマロトと呼ぶ無数の水百合に覆われ、森林地帯の水溜まりでは、ヴィクトリア・レヒアが巨大な葉っぱで水を覆っている。 全ての樹林にはオレンジとレモンがスウィ-ト・ライムと共に自然のままに成熟し、壮大な藪を形成している。

個々の農園や果樹園には、オレンジの森があり、その木陰の下で、私はしばしば野営した。 だから、オレンジの花の香りは、濃密な原始林や沈黙した平原や静かな先住民たちや、ワニたちが寝そべる誰も足を踏み入れたことのない水路を、いつも思い出させるのだ。

東北地域の教化村領地を貫く、ムバラカユ連山を除いては、それ程の高さを持った山々はなく、その地方の中部を通ってパラナ川とウルグアイ川が走っており、後者は東南の境界を形成している。


ジェルバ・マテ(パラグアイ茶)の葉っぱ
イエズス会士が教化村に植えることになるイレックス・パラグエンシスの種を手に入れたのが、それらの山々である。 潰(つぶ)されてきめ細かい粉となる葉っぱは、スペイン人によってジェルバ・マテと呼ばれ、また先住民からキャドと呼ばれるパラグアイ茶となり、イエズス会士はそれからかなりの収入を引き出したのだ。 イエズス会追放の後、その木が野生のものになってしまった北部の森から、パラグアイは2~3年前まで全てのジェルバを収穫していた。


ゆるやかな起伏の平原と森林はエステロスと呼ばれる壮大な沼沢地に変わる。 それは、いくつかの地域では広大な地域を覆って、冬には殆ど侵入不可能な沼地となり、春や初夏には素晴らしい牧草地となる。 地域を通じて、樹木の生い茂った北部の山岳地方を除いては、気候は健康的である。


ここにもまた、イエズス会嫌悪の種が
この豊かな地域と鉱山についての虚偽の報告は、不成功に終わった探検でさえ一掃することは出来なかったのだから、イエズス会士が何処においても嫌われたことは、極めて当然のことであった。(探検が中途半端に終わったために、イエズス会が鉱山を持っているという噂が否定されず、彼らに対する反感が消えなかった。)


先住民狩りの禁止は多くのスペイン人植民者にとって我慢ならないこと
ドミンゴ・デ・ベタンソスとドミンゴ・デ・ミナヤの二人の修道会司祭の求めに応じたパウロ3世の教皇教書によって、先住民はサンタ・マルタの司教フアン・オルティスが望んだような無分別な存在としてでなく、理性的な人間として、初めて考えられるようになったとされている。

それは、複合社会にとっては面倒なことであったに違いない。 パラグアイのスペイン人居留地のより大きな部分がそうであったように、先住民はまず冒険者たちのものであったし、彼らは先住民を獣とみなしていたのだから、その自分たちを超える力で、壮大な自然という障害も無いのに、遥か遠隔地の先住民狩りが禁止されるなどということは、我慢ならないことであったに違いないのだ。


スペイン人入植者の悪質さ
イエズス会の偉大なる敵対者イバニェスは、ヨーロッパ人犯罪者と教化村の反抗的な先住民がスペイン人居留地に、最後の手段として送られた、と言っている。(スペイン人居留地は、手に負えないヨーロッパ人犯罪者と反抗的な先住民を最後に投げ込む場所だった、という意味か。)


ブエノス・アイレス司教の言葉
シャルルボア神父が保管していた、ドン・ペドロ・ファリサルド(ブエノス・アイレス司教)の好奇心をそそる書簡(1721年、スペイン王に宛てて書かれたもの)を思い出すと、驚くことではないのだ。というのは、そこに彼は「教化村では、1年に1つの大罪も犯されることがない、と思う。」と書いているのだ。彼は、さらに「もし、イエズス会がそれ程豊かなら、なぜ彼らのコレジオはそれ程、貧しいのだろう。」と付け加えている。


様々な人の語る印象
フランス人植物学者ボンプランは、その地方について語るとき、「その土地全体が、言葉で表現できるものを超えており、全ての段階で、人は自然史において役に立つ新しい事柄に出会う。」と言っている。

フランス人旅行者デメルセイとドルビグニ(グラティの大佐)の『パラグアイ共和国』(1862年グラッセル発刊)という興味深い作品は、この国について書かれた最良のもののひとつであるが、最近のフランス人探検家ブルゲイドゥ・ラ・ダルディ、そしてパラグアイの教化村をかつて訪れたことがある人々全ての意見もまた、そのようなものである。


30カ村は一つの計画に基いたものだった
イエズス会教化村30カ村のうち、8カ村だけがパラグアイにあったこと、そして残りは、今日のブラジルとアルゼンチンの、エントレリオスとコリエンテスとミシオネスの地方にあったことは、記憶されるべきことである。これらの肥沃な平原に、イエズス会士たちは、際限のない問題の後、充分な数の先住民を結び付け、彼らを村に統合したが、その殆ど全てはひとつの計画に基いて建てられたものである。


突如、森に姿を消した人々と行動を共にした神父
彼らは集められた後、時には、トバティネス族のように突然全員が逃亡してしまうことがあった。彼らは1740年、突如サンタ・フェ教化村を去った。そして、イエグロス神父が彼らを見つけるまで、11年の間、森の中に姿を消した。そして、彼らが戻ろうとしないため、神父は彼らの中に定住した。(クレティノオ・ジオリイ『イエズス会の歴史』より)


教化村を再現してみると
教化村跡は、パラグアイ自体の中には、僅か3または4カ村のものが残るだけである。しかし、とても良く保存されているので、同時代の記録の助けを借りれば、イエズス会統治の間に、教化村がそうであったに違いないものと殆ど同様なものを再構築することは容易である。

四角い広場を囲んで建てられた教会と倉庫が一角を占め、日干しレンガまたは編んだサトウキビで、3軒の長い差し掛け小屋(三軒長屋)に造られた先住民の住居が三方を占めている。一般に、家々はサンタ・シモニアンの兵舎またはランカシャ-の鉱夫の街のように非常に長いものである。そして、個々の世帯は自分のアパ-トを持つが、それは「仕切り壁」と呼ばれる小幅の石膏壁によって隣のアパ-トと隔てられているだけのものだ。一つの縁と一つの屋根を100またはそれ以上の世帯が共有したのだ。

四角い広場の中心の空間には、見事な芝が敷き詰められ、その芝は飼われた羊によって食われて、短く保たれているのであった。

全ての町が、直線状の街路で形成されている。先住民の家は、ある町では正方形の石で、他では材木や石で作られ、全て瓦で覆われ、そして全ての家に石または木の柱が付いたアーケ-ドまたは廊下があった。


教化村の教会
教会は、時には石で、また時には、その地方に豊富にある堅い木で建てられ、イエズス会の町が外の世界から遠く隔たっていたことを考えると、どのように描写されても、実際はそれより素晴らしいものであったろう。例えば、ロス・アポストレスの教化村では、教会は3つの通路を持っており、非常に高い塔、祭壇、特別祭壇、そして高い費用をかけてイタリアやスペインから運ばれて来た彫像で飾られていた。

1750年の「7カ村の戦い」に従軍した騎兵連帯の隊長であったドン・フランシスコ・グラエルは、サン・ミゲル教化村の教会について、次のように描写している。
「教会は非常に広く、全て切り石造りで、三つの外陣とドーム付きである。きれいに塗装され、ドームは木製であり、主祭壇は木彫りで、金箔は被されておらず、遺体はない。(当時、ヨーロッパでは教会に遺体を安置するスペ-スが通常あったのだろう。)」

教会はしばしば石造りであったが、先住民の家は普通石造りではなかった。しかし、サン・ボルハ村のように、石が豊富にある場合には、イエズス会の家々は、柱に支えられたベランダ付きで、彫刻された石の手摺り欄干が付いた階段のある、石造り建築のものであった。―彫刻された石の柱や手摺りや階段付きの廊下(ドン・フランシスコ・グラエル)

カルディエル神父『真実の言明』によれば
全ての村には日時計があった。カルディエル神父の1750年パラグアイ教化村でのこの報告『真実の言明』(これは1800年まで刊行されなかったが)は、おそらくルイス・モントヤ神父の『精神的征服』以降のパラグアイにおけるイエズス会政策についての最も強力な同時代の弁明である。それは、強力にしかし素朴に書かれており、世界の始まり以来、愚かな者たちにとっては障害物であったユーモアの長所を保つものをそこに含んでいる。


司祭館とイエズス会住居のある内町
司祭館の一般的な平面図は、スペイン・ムーア風住居のそれであり、その詳細において、ポムペイまたはヘラクラネウムのローマ風の家に似ていた。四角い中庭の周りに建てられ、中心には泉があり、イエズス会住居は、少なくとも一種の内町の一部を形成していた。その内町は壁に囲まれ、その中でボーイ小屋によって閉じられる門が外側の世界に通じているのである。

壁の内側には、教会があり、広場に向かって入口、下級司祭の部屋、庭、客間、倉庫があり、そこには村に属する武器、トウモロコシ、小麦粉、羊毛と、遠隔のしかも危険な場所での生活に必要な食糧が保管されていた。

全ての場合に、家々は平屋で、家具は控えめで一般的に自家製であった。全ての部屋に彫像や宗教画が飾られ、宗教画はしばしば先住民自身によって描かれたものだった。比較的小さな村では、二人のイエズス会士が全先住民を統率した。

サン・ミゲルの教化村には、1,353世帯6,635人が、サン・フランシスコ・デ・ボルハには650世帯2,793人が居住していた。マヌエル・ケリ-ニによる国王への報告(1750年8月1日、トゥクマン・デ・コルドバ)


最大の困難は先住民の生来の怠惰
イエズス会士達が直面せねばならなかった最大の困難は新改宗者(先住民)たちの生来の怠惰であった。あらゆる種類の規則的な仕事に、彼らは極めて不慣れであったから、スペイン人居留地で実践されるような通常のヨーロッパ的仕組みは、直ぐに彼らを絶望するはめに陥らせ、しばしば数百人を皆殺しにした。


農業と公共事業の原始共産制の導入
それ故、イエズス会士たちは、農業と公共事業の原始共産制を制度化し、それによって、彼らの名前はアメリカ大陸において永遠に忘れられないものとなるのである。


ボリビア領内(チキ-トスとモホスの教化村)
彼らの広大な教化村の中で、チキ-トスとモホスの地方(現在のボリビア領内)で、彼らは同様の仕組みを推し進めた。パラグアイにおけるよりもそれらの地方では、彼らは遥かにより孤立化していたので、そして結果的に、より干渉されなかったために、彼らの特有な仕組みが最も花開いたのは、その地方だったのである。

1767年、イエズス会がアメリカ大陸から追放された後、ペル-高原のスペイン人たち、後のボリビア人たちは、イエズス会の計画に総合的に従ってみようと考えた。一方、ブエノス・アイレスの総督であったブカレリは、パラグアイのイエズス会による統治方法を完全に変更した。

結果として、ボリビアでは先住民はパラグアイでしたように離散する代わりに教化村に残った。そして、ドルビグニは、チキ-ト地方のサンティアゴとエル・サント・コラソンの教化村でイエズス会国家の残存を見た。教化村は、チキ-トには10カ村、モホには15カ村あった。現時点では、ボリビアにはフランシスコ会がいくつかの小さな施設を持っている。


イエズス会士は「狡猾な悪漢」
パラグアイの独裁者として有名なドクトル・フランシアは、かつてイエズス会士たちを「狡猾な悪漢」と呼んでいた。そして、彼は確かに彼自身があらゆる面での悪漢ぶりに精通していたのだから、おそらく彼の評価は彼自身の観点からは正当なものではあろう。
狡猾な悪漢;非常に抜け目なくずる賢い人(ロバ-トソン「パラグアイからの手紙」より)


「狡猾な悪漢」でないにしても、少なくとも人間性についてのかなりの知識は必要
政治における悪漢というのは、自分と意見が合わない者という意味に過ぎない。しかし、たとえそうだとしても、満足感というものの性質からして、どんな種類の労働にも精通していない者に日常的な仕事を提示するためには、人間についてのかなりの知識が必要だったようだ。

困難は膨大であった、が、それは先住民が原始的な呪いに支配されていたからではなく、自分たちの必要性に充分なだけ、たまに耕作して、放浪しながら生活するからであった。


自分がうぬぼれていることを知らないことも必要だが、少なくとも悲惨は拡大しなかった
イエズス会士、ジャンセニスト、プロテスタント、カトリックや回教徒などの宣教師が、自分自身の生き方や信仰を、指導者の誰よりも幸福で自由な生活を送っている者に対し、提供することが出来るかどうかは、議論の余地のある問題である。未来のみが、その問題を解決することができ、今日我々がすることについて判断できるのである。疑いもなく、善意が必要であっただろう。しかし、また自分のうぬぼれについての生まれつきの無知も必要だった、のではないだろうか。

世界の悲惨の多くは、善意によって引き起こされたものだ。しかし、少なくともイエズス会士については、彼らがパラグアイでしたことは、彼らが関わった部族の死や消滅を広げはしなかった、とは言い得る。


人類史上最も不幸だった筈の彼らが祈りと労働とともに生活した
歴史家アントニオ・フェレル・デル・リオは、「カルロス3世に関する期待の論文集」において次のように述べている。
「特に、パラグアイでのイエズス会教化村群を除いては、先住民というものは、世界史上の人類のうち最も不幸であったと考えられる。」

ホルヘ・フアンとアントニオ・デ・ウジョアは、著名な『秘密報告』の中で、語っている。
「イエズス会は、特にスペインから運んだ宣教師たちによって、彼らの目標に取り組んだ、しかし、その全てによっても、先住民の改宗を忘れていないし、また他の修道会では試みられないことであり、またほんの僅かしか前進しないにしても、この件をなおざりにしていない。」

農作業にについて、イエズス会士は、新改宗者たちを音楽で統率しさえした。そして、畑へ向かう行進の際に、高く掲げた聖人とともに、毎日、日の出と共に共同体はその行動をとる。軌道に沿って、決められた間隔で、聖人の廟(びょう)がある。それらの前で彼らは祈り、個々の廟の間では、聖歌を唄う。


グアラニ族は音楽好き
アサラ、デメルセイ、ドゥ・グラティ、ドルビグニのような多くの旅人たちは、如何にグアラニ族が音楽好きであったか、そして如何にすぐに彼らがヨーロッパの楽器の使い方を習得したか、を述べている。

ドルビグニは、チキ-トス地方のエル・サントス・コラソン教化村についての興味深い解説の中で、次のように述べている。「私は、演奏を聴いて驚いた。先住民のダンスの後のロッシ-ニやウェーバ-の作品、音楽で歌われる主要なミサは、非常に素晴らしく演奏されている。」

ヴァルガス・マチュカは、彼の最も興味深く珍しい『先住民の軍隊と表現』の中で、「先住民の音楽」の標題で、「彼らは、彼らの祭りの中の古い音楽を使い、その節は非常に悲しいものだ。」と述べている。今日、パラグアイの先住民には、「悲しみ」として知られる歌がある。

ドン・ディエゴ・デ・アルベアル准将は、彼の『教化村報告』の中で、「グアラニ族に、ヨーロッパ音楽を最初に教えたのは、フランドル人イエズス会士フアン・バスコ神父であり、彼はアルバ-ト大公の音楽教師だった。」と述べている。

聖歌を唱い続ける毎日
行列が進むと、先住民の集団は様々な集団で働くために脱けて行くから、それは次第に小さくなり、最後は司祭と侍者だけが、楽師と共に戻ってくる。

カルディエル神父の『真実の言明』によると、「それが終わると、皆が出席するミサの番である。聖歌を、自分たちの言葉か、スペイン語で唱うが、それらは彼らが知っている二つの言語なのだ。」

昼には食べる前に、彼らは皆一緒になって聖歌を唱う、そしてそれから食事と昼寝の後、日没までの仕事に戻る。日没になると、行列が再び編成され、労働者たちは歌いながら彼らの住居に戻って行く。

半理想郷的・半共産主義的労働
楽しく「理想郷」風の、より北方の国での「骨折って働く」労働者の仕組みと違う耕作。しかし、その頃でさえ、歌っているだけの「聖歌の日」が決められているわけではなかった。なぜなら、短い休息の後、彼らは皆教会へ行って、ロザリオの祈りを唱え、それから夕食を取り就寝するのだった。雨の日には、彼らは同様の半理想郷的、半共産主義的な仕方で、他の労働にいそしみ、畑での代わりに教会で聖歌を唱うだけのことである。

エンコミエンダやミタの強制労働とも違うので
仕組みは、スペイン人居留地でエンコミエンダ制やミタ労役の下で先住民が耐えさせられていたものとは、大いに違うものだったから、その事実だけでもイエズス会が被った憎悪の多くを説明するに充分である。

南アフリカ・ローデシアの共同体でも計画発案者に中傷が
ロ-デシア国境に近接した半共産主義的な入植地を想像せよ。そこでは、カフィル人が共同体によって世話され養われて、教化村の先住民が送っていたものと類似した生活を送っていた。彼らの生活は極めて細部の特殊性の全てにまで配慮され、その結果、どんな中傷の嵐が、その計画の不運な発案者の上に降り注ぐことになったか。

先住民のスペイン人入植地からの引き揚げ・スペイン人からの分離に対するスペイン人の抵抗
第一に、労働市場からの数千人の先住民の引き揚げが、全ての進展に逆行する罪になったであろう。そして、彼らを手厚く処遇することは異端である、ということになったであろう。また、スペイン人入植地でヨーロッパの屑(くず)である人々の汚染から彼らを引き離すことは、不自然だとされたであろう。なぜなら、先住民は、我々(ヨーロッパ人)の中で最も教育し甲斐のない人々と自由競争すれば(勝利して)最大の利益を引き出すことを我々には分かっているからである。しかし、農業以外に、教化村領地内の巨大な畜牛農場が、新改宗者先住民の多くに仕事を与えたのだ。

ディ-ン・フュネスは、『パラグアイ史随筆』等に、パラグアイ教化村群の中のサンタ・テクラ農場には、5万頭の牛がいた、と書いている。

ガウチョに似てきた先住民牛飼い
畜牛農場での生活によって、管理すべき範囲は狭くなったし、牛飼いたちはガウチョ(パンパ平原のカウボ-イ)に似てきた。しかし、宗教的修養を身に付けたガウチョは原野では半分ケンタウロス(半人半馬の怪獣)であって、半野性の子馬は彼の一部分であるかのように飛びかかって彼らに座るのだ。そして、家で足で歩いているときには、イエズス会士に従順であり、常に教会へ行き、彼らの子孫が教化村の統治の撤退後に、すぐにそうなった程には、残虐でも血に飢えてもいなかった。



農業と牧場の生活と同様に、イエズス会士たちは先住民の間にヨ-ロッパの芸術と商売の大部分を導入した。

財産目録によって分かること
イエズス会追放時に、ブエノス・アイレス総督ブカレリが入手した財産目録によって、彼らが綿を大規模に織っていたことが分かる。時には、一つの村で2~3か月間に8,500ヤードもの布を生産していた。

『イエズス会追放時に発見された財産目録』序論XXVII,フランシスコ・ハビエル・ブラボ

・機織(はたおり)に加え、皮なめし工場、大工道具屋、仕立て屋、帽子メーカ-、たる製造業者、縄類製造業者、船大工、車大工、建具屋、その他生活に役立ち必要なもの殆ど全ての製造業者がいた。
・彼らはまた、武器・火薬・楽器を作り、銀細工師、音楽家、塗装屋、もいた。

また、印刷機を使う印刷屋がいた。というのは、教化村では多くの本が印刷されていたし、ヨーロッパの修道院の修道士たちによってなされたように、立派な手書き写本が生産されていたのだ。

稀少価値のある本が印刷された
先ず、パラグアイの教化村に貢献したイエズス会の神父たちのための手引書がある。
これは、『ローマ・カトリック教会典礼』からトレドにて選択され、ロレト教化村にて印刷されたもの。
これには、ラテン語の祈りと同時に、グアラニ語での祈りが含まれている。

ロレト教化村では、他に、ニコラス・ヤプグアイによるグアラニ語による説教とグアラニ語の多くの語彙と、ルイス・モントヤのグアラニ語文法に関するものなど稀少な本が印刷された。


教化村の半共産主義
全ての農園、農地と作業場はいわば共同体の財産であった。つまり共同体が、共同でそれらを運営し、生産物によって養われ、維持された。全体が、各村に住む2人のイエズス会士の指示の下にあった。
グアラニ語でトゥピナムバルと呼ばれる部分は、孤児と未亡人の生活維持のため取っておかれた。
牛と馬は(村祭りの見世物のために使われることになっている「祝日のための馬」を例外として)、共同で使用された。

資本の余剰は、ブエノス・アイレスから、またスペインから必要物資を購入するために留保され、個々の世帯は、良好に運営されている間は、その維持のために必要なものを在庫から受け取った。なぜなら、イエズス会は、もし人が働かないならば、その時彼は食うべきでない、というパウロの格言をそっくりそのまま支持したからである。しかし、彼らは、それを支持したので、彼ら自身もそれを充分に実践した。それ故、彼らの人生は、最も骨の折れるものとなり、教え、説教をし、先住民に対する彼らの労働における監督者として、教化村への到着の最初の瞬間から死に至るまで継続的に活動した。

それ故、もし首長が誰かについて、仕事における職務怠慢を訴えれば、彼は改善するまで全く割り当てを受け取ることが出来なかった。


週一度だけの食糧支給
与えられたものは何でも直ぐに消費してしまい、後で断食に走る傾向のあった先住民に、節約の習慣を植え付けるために、彼らには週一度だけ食糧を支給した。

そして、彼らの雄牛を殺すときは、1週間ずっと持ちこたえるように、一定量の牛肉を干し肉にするよう先住民に強制した。この干し牛肉は、南米ではチャルキと呼ばれている。

野菜
野菜は、個々の世帯が、彼らの庭と共有の畑の両方に植える義務を負った。そして、実のところ、消費されないものは全て、共同作業所の働き手に分配するか、販売のために保管された。

生産物は共有
先住民のある者は、自分自身の牛や馬を所有し、彼らが働く庭を持っていた。しかし、生産物は全て共有の物資として、イエズス会士に引き渡すことが義務とされた。そして、それらと交換にイエズス会士は、ナイフ、はさみ、布、鏡など、外の世界で作られた他の物品を与えた。

男女の服装・装身具
衣服は、全ての住民に支給されたが、男については、それはズボン、きめの粗いポンチョ、麦わら帽子とシャツで構成されている。しかし、男も女も靴は履いていなかった。そして、女性の服装は、グアラニ族のティポイという丈の長い袖なしのスリップであり、それは肩回りに粗い刺繍が付いていて、粗い木綿の布でできている。パラグアイでは、貧しい階級の人々は皆、ティポイを着ていた。彼らは、寒い時は、白い綿のシーツを何重にも重ねて巻いて、身体を覆っていた。

装身具としては、彼らは銀の輪が付いたガラス・ビ-ズと真鍮または銀のロザリオ、そして、ガラス又は角製のネックレスで、それから十字架が吊るされているものである。


イエズス会士の服装は贅沢なものだったか
イエズス会士自身は、手織りの服を着ていた。
1900年、ブエノス・アイレス発刊のカルディエル神父の『真実の言明』の前書きに引用されていることだが(前書きはパブロ・エルナンデス神父によるもの)、マティアス・アングルスは、次のように述べている。

「神父達の衣装は、黒く染められた綿布で出来ており、これは村の先住民自身により紡がれ、織られたものだ。もし、神父がカスティ-リャ製の毛織物の袖付きマントまたは長マントを持っていれば、それは一人、二人と引き継がれ、丸々1世紀はもつものである。」

それ故、食物と衣服はイエズス会士や共同体には、殆ど負担にならなかったのだ。一方、先住民の最大のぜいたくは、マテ茶だった。それを生産するために、彼らは野良仕事をするのと同じように、マテ茶畑で働いた。集団で、行列になって、聖歌の声にあわせて、司祭を先頭にして。


イエズス会士の統制の半原始共産制的性格は反感を受けているが
これが、そのときのイエズス会士が、如何なる強制力も行使せずに成功するための手法だった。先住民の群れの中で、グアラニ族の人々を苦役の束縛に耐えさせようとしても、殆ど途方に暮れる他はなく、彼らの場合それは不可能だったのだから。

彼らの統制の半原始共産制的性格は、自由主義者の反感の原因となっている。というのは、自由主義者たちは、18世紀スペインの博物学者フェリックス・アサラのように、競争の中に進歩への最良の道を見ているのである。しかし自由主義者は、アサラ同様、進歩を渇望するあまりに、幸福(の追求)を忘れているのだ。


宗教的祝祭の活用
既に描いたような方法に加え、イエズス会士たちは、「頻繁な宗教的祝祭」を活用した。というのは、暦は、彼らに全面的な能力を与えたのだ。そのため、イエズス会教化村での生活は、非常に多様化し、先住民にとって楽しいものとなった。先住民は、表現に対する強い愛着を持っていたのだ。


「守護聖人の祝日」の様子
各教化村には、もちろん、それぞれの守護の聖人がいた。そして、その聖人の日には、誰も働かず、全てが喜びにあふれ、ひたすら浮かれ騒いだ。

夜明けには、打ち上げ花火や、小火器が発射され、鐘の響きが楽しい朝を告げる。住民全員が早朝のミサに与るために、教会に集まる。

1788年から1801年の間に書かれた『天使たちの集まり』に収められたブリガディエル・ドン・ディエゴ・デ・アルベアルの『教化村報告』には、イエズス会教化村の守護聖人の祝日についての次のような興味深い描写がある。

彼らは織り合わせた籐(トウ)の長い小道を作る。そのアーチは、気品と風味で(大いなる優美さと均整で)、ヤシやその他の木の枝で飾られている。
ア-チの下には、聖人の像や衣服や初物(トウモロコシやサトウキビのような)やトウモロコシ・ビール(チチャ)で一杯のひょうたん、肉やパン、生きているのと死んでいる動物など、彼らが手に入れることが出来るものを吊るしてある。(それは、彼らの熱中ぶりを示すようだ。)
それから、輪になって踊り、叫ぶ。「王様、ばんざい!」「守護聖人、ばんざい!」

教会の内部に席を見つけられなかった者は、扉の外に長い列を作って並び、扉は式の間、開けられてあった。
ミサが終わると、儀式(祭典)での自分の役割の準備をするために、各自が駆け出した。
イエズス会士たちは、役目や仕事を増やすことによって、他の者たちがすること全てにおいて明確な分担を持たないために放置される者が無いように、既に配慮してあった。


公務員の名称
数が多く、そして興味深いのは、公務員が名乗った名称である。全ての官職は、それをめぐって激しく争われる。そして、コレヒド-ル(王室代理菅)とアルカルデ(市長・村長などの首長)は、特に、非常に高く評価されたから、品行の悪さや不注意によって降格させられた先住民は、悲嘆して死んで行くことになる。

最も低い地位にも、最も高い地位にも、それぞれの役割があった。そして、最も重い負担は疑いもなく、二人のイエズス会士が担った。彼らは全てに責任を負っていたのだ。(各教化村には2名の司祭がいた。パラグアイ全体では、1767年のイエズス会追放時にいたのは、僅かに78名である。)

第一の任務は行列に行進の準備につかせることであり、祝祭のために特に保管されていた豪華な衣装を身に着けた先住民が乗る「聖人の馬」を護衛任務に就かせるべく、鞍を付けることである。(ブラボ神父によって保管された財産目録によれば、ロス・アポストレス教化村には、これら「聖人の馬」は599頭いた。)


「守護聖人の祝日」の行列の様子
ロス・アポストレス教化村の財産目録によって、やや正確を期した試みをしてみると、行列が如何に形成されたか、それが如何に行われたかを再現することが出来る。この財産目録は、追放の際に、ブカレリ(ブエノス・アイレス総督)が入手し、ブラボ神父によって初めて印刷されたものである。(イエズス会追放の際、発見された財産目録)

村の全市民軍は、彼らの最上の馬に乗って、そして槍と投げ縄と球といくらかの銃で武装して、付き添った。
先住民の将校たちは、先頭に乗り、豪華な衣装を身に着け、舞踊団は決められた間隔で、騎兵隊の中で、一種のピリック(古代ギリシャ風)ダンスを演じた。

先住民の舞踊について
イエズス会士は、先住民の未開な段階での舞踊に対する強い愛着を活用して、舞踊で大いに訓練した。
ドルビグニとデメルセイは、1830年から1855年の間に、モホとチキ-トスの先住民が、イエズス会時代に彼らがしていたような踊りを、未だに踊っているのを見出した。

私は、1873年、パラナ川の河岸の巨大な森林に埋もれたイエズス会教化村の廃墟となった教会の外で、先住民が奇妙な半分未開人のようなダンスを踊っているのを見たことがある。

「聖人の馬」に乗った「国王旗手」
皆の前に、金で豪華に縁取った青いビロ-ドのダブレットを着た「国王旗手」が白馬に乗り、錦織りのベストを着て、銀のひもでとめた短いビロ-ドの半ズボンをはいて、足には銀の締め金で飾られた靴を履き、そして全体の装いは、金の縁取りをした帽子で完成させていた。

彼の右手は、銀の取っ手につながる長い籐製の杖にしっかり固定された王旗を掲げていた。
この様な場合にだけ彼は剣を付けることが出来たのであろうが、それは彼の脇にあった。
そして、「聖人の馬」は、エントレ・リオスとコリエンテスの大草原の大部分の馬ほどには扱いにくかったわけではなくても、「国王旗手」を相当にまごつかせたに違いない。


オウムのような「気取り屋」たちの行列
彼の後は、黄色のサテンの服で盛装し、絹のベストに金バッジを付けた王室代理菅(代官)であった。
黄色のビロ-ドの半ズボンをはき、彼の大胆な同志のものと同程度の豪華さの帽子をかぶっていた。

2人の首長は、それ程目立つ服装はしておらず、藁色の絹の上着と、同じ色のサテンのベストを身に付け、帽子は金色である。他の役人たち、警察署長、歩兵連隊長、そして上級曹長は、銀色のレースで縁取りした深紅色のダマスク織ベストを着て、緋色のコートで華やかに装い、重いレースで飾った黒い帽子を被っていた。

パラグアイの輝く日光の中で原始林を背景として、またはパラナ川の傍らの広大な原野の中のいくつかの教化村で近隣の森林から飛翔するオウムのように、彼らは豪華に見えたに違いない。また、彼らは、燃えるような色彩と共に練り歩き、あたかも虹が彼らに、また彼らの跡取り息子たちに溶け込んだように、華美な服装にまさに自己満足して、ターナ-効果を生んでいたに違いない。

極めて可能性の高いことは、彼らの広く平らな鼻、長く真っ直ぐな髪、彼らの硬直した顔はあたかもダチョウに刻み込まれたように、固く固定していただろう。それは、彼らの華やかな服装とは奇妙にも対照的だった。

しかしながら、判断する余地はなく意見を言う者もいなかった。最も有り得ることは、皆が良心と優しい心を持っていて、彼らの最も手厳しい敵でも、イエズス会士の話を人間性の評価で罪に問うことは無かった、ということだ。

30カ村の在庫目録の中に、「王国旗手」の付けた靴下とバックルを例外とすると、先住民のための靴下や靴の記載を見ていない。豪華な衣装は膝までで終わり、これらのオウムのような「気取り屋」たちは、裸足で、おそらくは足首の周りにロバ皮の靴紐で固定した長い鉄のガウチョの拍車を付けて、乗馬したのだろう。

子供と猛獣
オウムの衣装の年長者たちの行列に満足せず、「幼児の参事会員」には「もじりのもじり」があったのだろう。それは、子供の集団で出来ており、年長者と同じ標題が付けられ、彼らにサイズを合わせた衣服を着て、彼らのすぐ後に続いて乗馬したのだ。最後に、シャルルボアが語っているように、ライオンと虎が、しかし祝宴を邪魔することが無いように、しっかり鎖に繋がれて行き、行列の全体は聖堂に向かった。


教会堂の中で
教会には全て、ビロ-ドと錦織りの布が掛けられ、光り輝いていた。そして、香の煙(間違いなく必要な)が一般会衆席を覆い隠していた。左右の聖歌隊席(それは、スペインで普通であるように、聖堂の中央であるが)には、若手の先住民が皆、列になって座り、少年少女達は分かれていたが、それは全てのイエズス会教化村での習慣であり、疑いもなく、イエズス会士たちは「聖なる女性と男性の間には、堅牢な壁がある。」と述べることの妥当性を確信していたのだ。

何らかの官職を持ち、私が描いた衣服を着た先住民は、並んで腰かけるか跪(ひざまず)いていた。そして外では、町の人々が白い綿の服を着て立っていた。彼らのシンプルな衣服は、正面に跪いている、もっと多彩な色の服を着た信者仲間に対して、疑いもなく効果的な背景となっていた。

教会全体を通じて、男性と女性は別れていた。そして、もしパウリスタ侵入の噂が取り沙汰されれば、先住民は聖なる建物の中に、そして荘厳な祝宴に武器を運び入れた。

ミサは、オーボエ、ファゴット、リュ-ト、ハープ、コルネット、クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラとその他の30カ村の財産目録が示している全ての楽器勢揃いの楽団付きで行われた。実際、財産目録のうち2つに「サンチアゴ」というオペラ名が述べられており、そこには、舞台で使われる特別な衣装と小道具が記載されていた。

ミサが終わり、行列は教会の外で再編成され、もう一度町中を練り歩いた後、解散した。それから、先住民は夜を徹して祝い、夜明けまで踊ることも稀ではなかった。

それが、素朴な人々にイエズス会士が与えようとした、目に見える芸術であり、先住民に対しイエズス会士は、牧者や教師として両方を兼ねるだけの立場のみならず、一面でパウリスタから、また一方でスペイン人入植者からの保護者の立場に立っていたのである。スペイン人入植者が、エンコミエンダ制(という実質奴隷制)と、ヨーロッパの人と人との間の自由競争システムをもたらし、おそらくは知らぬ間に、全先住民にとって最も恐ろしい敵になっていたからである。


一旦失われた美徳を回復することは難しい
殆ど全ての未開の人々の心の中には、グアラニ族のように、連帯感や相互の密接な関係が植え付けられているのだが、それらは、我々ヨーロッパ人の近代的な流儀に従った、なりふり構わぬ競争によって一旦衰えると、必ず衰退に至ってしまうのだ。

それゆえに、カリフォルニアやオーストラリアで、中国人に対する激しい嫌悪が発生したのだ。もちろん、当然の事に、我々が嫌う人そしてある程度恐れる人を、我々は非難する。そして、これによって「東洋の悪徳」というものに対する全ての非難が引き起こされた。如何なる「東洋の悪徳」も、それが如何に邪悪なことであろうと、パリやロンドンの市民のそれと同様であるはずであるのに。それは、野蛮さ及び同種のことについてであったが、全く抑制されることなく、不運な中国人に向けられた。


安売りしないことが誇り
パラグアイで最も目立つことは、国内市場において人々が決して安売りをしないことである。彼らが妥当と考える価格よりわずかに安く商品を手放すことさえ、拒否するのである。

(1898年11月 月刊コスメ)パラグアイの小新聞の興味深い一節
『パラグアイ市場』
グアラニ族はグアラニの習慣を頑固に守っている。これは、ヨ-ロッパ人にとってはいら立つことであるが、グアラニ族は正しくないと誰が言えるだろうか?

自由である故に貧しい人々と賢明なイエズス会士だからこそ
ヨ-ロッパによる植民地化は、グアラニ族にとって、致命的なもの以外ではありえなかった。しかしながら、地主や商人階級にとっては、利益となったようである。

パラグアイ市場は、女性のクラブである。彼らは30~40マイル(50~60キロ)を地方の白クルド・チ-ズの服を着て、狭い道を歩いて満足そうにやって来る。彼らは、キャベツを16等分し、チ-ズは市場価格で売るよりは自分で食べてしまう。長い間、そうしてきたのだろう。なぜなら、長い間彼らは自由だったからであり、おそらくは貧しかった。そのころ、パラグアイのような国では、自由と貧しさは同じことだったのだ。

こういうことのようだ。イエズス会士は、新改宗者(先住民)に現世での戦いで自分たちの場所を獲得させるために、彼らにより充分な素養を身に付けさせようと考えた。彼らが送っていた素朴で幸福な人生は、外の世界の人生の一般的仕組に対し余りに反していたために、それを受容することや、我々の宇宙起源論の中に場所を見つけることが困難だったということだろう。

一つ、私が確かだと思うことは、自分の馬に乗って、まだらの服を着て、裸足で、金モ-ル飾りの帽子を被り、自分の影を薄くしてしまった貧しい先住民の「行列旗手」の罪のない歓喜が、あたかも彼がその時代の知識の全ての樹木の全ての果実を食べ尽くしたように完全であり、そして、そのくらいイエズス会士たちは賢明であった、ということである。

非常に奇妙なことに、しかし、それにしても何と奇妙にも、全ての危機は人間性の中に集結する。イエズス会士だけが(少なくともパラグアイでは)、アラブ人が太古の時代からそうであったように、「人の第一の義務は自分の人生を楽しむことである」ことを理解していたようだ。

芸術、科学、文学、夢など、人が専念する全ての楽しみには、あるべき場所がある。しかし、生活が第一である。そして、いくらか奇妙で不思議な方法で、イエズス会士はそれを感じたが、疑いもなく彼らは、無数の誓願によって、最もそれを否定する可能性のあった人たちである。


教化村の軍隊
イエズス会教化村では、全ての人が祝宴を催したり、行列をしたりしているわけではなかった。なぜなら、マメルコスのような隣人に彼らは備えていなければならなかったからだ。

ガウチョのことわざに、「武器は必要だが、何時だかは誰にも分からない。」とある。
統率の良し悪しに関する内部事情について言えば、個々の教化村には先住民の間からイエズス会士によって選ばれた役人による警察があった。

イエズス会に入る前に軍人だった司祭たち
同様に、内部の防衛のために市民軍を持っており、その中で様々な部族の首長が主要な指揮権を持っていた。おそらく、彼らの上または彼らの手近に、イエズス会に入る前に軍人であった司祭が配置されていた。なぜなら、イエズス会の中には、そのような者が数多くいたからである。彼ら自体の創設者が、かつて軍人であったから、会は、剣を十字架に持ち換えキリストの軍隊に仕えた軍人の間で人気があったのだ。

スペインの水兵の墓に、「海軍最高幹部キリストのとりなしにより、魂が救済されるように」との願望が刻まれていたのを憶えている。スペインの習慣に従って、将校はしばしば、海・陸の将官になった。それは、軍人が最高幹部のとりなし(つまり特別な処遇)から除外されないように、との願望が叶えられたということなのだろう。

教化村市民軍の組織
防衛上も政策上も首長を満足させていることは、最も重要であったから、彼らは多数の異なる点において、他の人々より良い処遇を受けていた。

彼らの食べ物はより豊富であった。そして、先住民の護衛は永続的な義務として、彼らの住んでいる家の周りに配置された。これらを、彼らは使用人としてまた伝達係として雇い、遠く離れた先住民仲間を畑に招集した。

彼らの組織の仕方は、ボーア人やアラブ人のそれのようであったに違いない。なぜなら、全ての先住民は会に所属したが、それは今も当時も戦場の移動ごとに、または訓練の期間に、英国の市民軍やドイツの義勇軍の方法に習って呼び集められたのだ。

教化村市民軍が何故存在したか
おそらく、常に戦場に備え武装した市民軍のこの制度は、他の全ての理由以上に、彼らを中傷する人々に、イエズス会士は恐れられ人気が無いと述べさせるものであった。何故、この聖職者の共同体が、その地域で軍隊を維持するのか、が問題になったのだ。

パウリスタの侵入・国王からの武器保有許可
もし、そうしなければ教化村は、パウリスタから彼らの境界線を守る力が無く、「たとえ1年といえども存在することは出来なかった」ということを誰も憶えていなかった。皆が、モントヤとデル・ターニョの両神父が、教化村の先住民が武器を保有するための特別許可を、国王から得ていたことを忘れた。

スペイン人入植地の防衛
人は無礼な取扱以外の事には何でも感謝するという訳ではないのだから、(人にしてもらったことを感謝しない人は珍しくはないのだから)、スペイン人入植者はイエズス会軍が何度彼らの窮地を救ったかを自分の都合で忘れたのである。

対ポルトガル戦でスペイン軍を支援
1678年、ラ・プラタ川上のサクラメント植民地での攻撃において、ポルトガル軍に抗するスペイン軍を支援するために、イエズス会の協力によって送られた3000人のグアラニ族のことは、すっかり忘れられている。

他の先住民に対するスペインの複数の戦いの支援
忘れ去られたのは、パヤグアス族というチャコ地方の先住民に抗するものだけでなく、現在のフフイ地方の遠隔のチャルカキス族に抗するものまで、スペイン総督の要請に応じてイエズス会によって送られた数限りない分遣隊も、である。

英国(海賊)のブエノス・アイレス沖出現に対しても出動
スペイン史では、ロケ・バルロケと呼ばれ、ある人によっては、平易にリチャ-ド・バルロウであるとして解説されている英国海賊がブエノス・アイレス沖に現われた時でさえ、ひるむことのない新改宗者(既にキリスト教に改宗した先住民)は、「ルタ-の犬」に対して、同一宗教信者を助けに行くことに、一瞬たりとも尻込みしなかった。

(「ルタ-の犬」:スペインで、如何に比較的無害なルタ-が、非人間的で冷酷なカルヴィンに向けた方がより適当であるはずの嫌悪という遺産を受け継いだか、には驚かされる。)


『随筆 パラグアイの歴史』等でディ-ン・フュネスが、以下を述べている。

「これらの先住民は、ドン・アントニオ・デ・ヴェラ・モヒカの指揮下にいた。彼らの軍曹たちはグアラニ族であり、隊長はスペイン人であった。彼らのカシケ(首長)はイグナシオ・アマンダアであるが、彼はヴェラ・モヒカの下の隊長であった。彼らは勇敢に戦い、幾度か撃退された後の度々の村襲撃に対し、戻って来て頑強な勇気と彼らの子孫が、1866~70年の対ブラジル戦争で見せた死への無頓着さを示した。

その戦争で多くのパラグアイ人は、大砲で防御された敵の陣地を頻繁に攻撃し、退却するよりはむしろ最後の一人まで撃ち殺されようとした。また、別の時には、浮かんでいる牧草の塊の後ろに隠れ、彼らのカヌ-からブラジルの装甲艦船に飛び乗り、船を捕らえようとの無駄な努力の中で、全員が殺された。」


私は、左翼の少し狡賢い(ずるがしこい)弁護士を知っていたが、彼は10人の仲間と共に、カヌ-でブラジルの将官艇を捕らえようとしたのだが、仲間が死んだ後、その甲板に残され、弾丸を浴びながら水に飛び込み、酷く傷ついて川の砂漠側のチャコまで泳ぎ渡った。

彼は、3日間そこに留まり、野生のオレンジで生きながらえ、それからパラグアイに沢山いるワニや多くの獰猛な魚にもかかわらず、木材のいかだで再び泳ぎ渡った。彼は、足は不自由であったが元気になり、私が彼を知った頃には、全くのちっぽけなごろつき公証人で、また地球のどこかで会ってみたくなるような奴だった。

他の多くの場合も、教化村の先住民は、スペイン政府のために顕著な働きをしていたのだ。

フランスのブエノス・アイレス攻撃に対し、国王の要請に応じスペインを支援
1681年、フランスがブエノス・アイレスを攻撃したときには。2000人の先住民派遣隊がその支援のために送られた。この時、フィリップ5世自身がパラグアイ管区長に、市の防衛のための軍隊を送るよう依頼するべく書き送っている。

1785年、ドン・バルタサル・ガルシアに指揮された4000人のグアラニ族がサクラメント居留地の第2次包囲に当たった。フュネスは彼らについて、「目撃者によれば、司祭たちの冷静さは驚嘆せざるを得ないものだった。」と語っている。

最後には、同時代と18世紀末両方の全てのスペイン人総督や筆者たちは、もしイエズス会が彼らの領地内に新改宗者の軍隊を持っていれば、事実はスペインの法廷で知られ、立証されたということを忘れているようだ。

1745年、フィリップ5世は、6年間継続した調査の後、パラグアイでのイエズス会の全ての活動を認めた。(クレティノウ・ジョリ著『イエズス会の歴史』)
従って、1774年に書かれたヒエロニムス修道会司祭の奇妙な手紙は、イエズス会士がパラグアイでなしたこと全てが、国王勅令や公示された命令手続に適っていると述べている点で、然るべく適正である。

しかし、カルヴィンは、彼の見解「イエズス会士は中傷された者か、殺人者であったに違いない」について、多くの支持者を持っていたようだ。

人は、一般的な正当性を堅持するならば、カルヴィンが、自身の実践において、彼が擁護したことを、例えば彼のセルベトゥスに対する振る舞い(セルベトゥスは、彼が最初に中傷しそれから罠に掛け、そして最後には冷酷にも殺した。)を実行したことを認めざるを得ないのだ。


イエズス会軍が戦闘を開始するときには、その前に食うべき充分な牛を走らせ、その側面に馬を付け、それは25年前、エントレ・リオ地方で私が見た多くのガウチョ軍に似ていたに違いない。唯一の違いは、過去のガウチョは、弓矢を使わなかったことのようだ。もっとも、彼らは、彼ら自身に相応の利益があり、彼らが携帯していた錆びた悪い状態の銃によって起こされるほどの危険が彼らの敵にはなかったために、そうしたようだが。



先住民は、弓で武装し、遠征には、先に鉄を付けた150本の矢を持って行った。他の者は火器であるが、全員が鞍に球を携行し、投げ縄と長槍を持って行った。パムパ平原の先住民のように、乗馬するときは、一方の手を縦髪に置き、もう一方の手を槍に置いて、鞍に跳び乗るのである。

ドン・フランシスコ・コルは、ブエノス・アイレスの副王サバラに次のような武器リストを送っている。(フュネス『随筆』等)
優れた武器850、鉄製槍3,850、投石器10、矢(無数)

彼は言う。「先住民は、軍事作戦に参加せねばならないときには、鉄の矢150を持って行く、がそれは火器より少ない。また、投石器を持って行くが、1本の縄に2つの石を付けたものだ。散弾銃を運ばない徒歩の者は、槍と矢と手投げ弾兵のもののような大きな袋の中に備えの石の付いた投石器を持っている。村々の間では、馬を貸し合う。」

歩兵は、槍と2~3の銃で武装した。彼らはまた球を運んだが、最も投石器を頼りにした。そのために、彼らは、なめらかで丸い予備の石を入れた獣の皮の袋を運び、それを巧みに使ったのだ。

多くの場合に、彼ら先住民軍は頑強な勇敢さを示し、イエズス会の監視の下戦ったから、司祭たちを神とみなし、男らしく行動したことは、間違いない。



教化村の商業活動
農業と畜産が教化村の収入源の全てではなかった。というのは、イエズス会士は、外の世界を相手に、また他の教化村との相互の便宜のために彼らが足を踏み入れた複雑で興味深い物々交換の仕組を通して、広く商業にも従事していたからだ。

帳簿から見る商業活動
ブラボ神父によって印刷された在庫台帳の多くで、様々な商品について、教化村の間の一種の貸借勘定(交互計算)を表わす「負債」の記載に出くわす。それ故、彼らは、牛と綿、砂糖と米、小麦と銑鉄またはヨーロッパからの道具を交換していたであろうことが推測できる。

どの在庫台帳にも利子勘定がいっさい現われていないことから、イエズス会士は社会主義を想定していたようである。少なくとも、彼らが利益のためでなく、使用のために売買をしていた限り、そう見えるのである。

彼らの領地内の教化村の間では、全ては相互の便宜のために取り決められ、外の世界との取引においては、イエズス会士は「取引原則」として知られているものを厳守したようだ。これらの原則は、もし私が間違っていないとすると、「最も安く買って、最も高く売る」という決まり文句」によって理想化されてきた。

そして、それ故に最も厳格なプロテスタントかジャンセニスト(そんな人たちが未だいるとすれば、だが)でさえ、世界全体を喜ばせてきたそのシステムに参加したからと言って、イエズス会を非難することは出来ないはずである。


マテの葉の取引
木綿や麻の布、たばこ、獣の皮、その国の様々な硬材の森林の樹木、そしてなかんずく、マテの葉は、外の世界への輸出の主要な商品であった。彼らの最も近い市場は、ブエノス・アイレスにあり、その港へ彼らの作業場で作ったボートで彼らのジェルバを送るが、その作業場のうちいくつかを、彼らはウルグアイ川ノヤペユに持っていた。

稼いだ金は、教化村の修道院長に送られ、修道院長は、村で使用するか、または必要な物資の調達のためにヨーロッパへ送るかの分配方法について処分権限を持っていた。

獣皮・馬毛・木材の輸出
マテの葉同様に、大量の獣皮を送った。追放の際に押収された教化村の在庫台帳によれば、年間に輸出される緑の獣皮の数は、保存される6,000とともに50,000に上り、加えて300から400アロ-バの馬毛を、また毎年25,000から30,000ドルの価値の木材を売っていた。(1アロ-バ=4トン)

(注)イバニェス『イエズス会統治下のパラグアイの歴史』によれば、獣皮は1点約3ドルで売れていた。

マテ葉の全輸出量は、80,000から100,000アロ-バの範囲にあり、それは最も低価格の場合も、1アロ-バ当たり7ドル以下の利益で売られることは、あり得なかった。(56万ドルから70万ドルの利益が上がっていた。)

従って、30カ村の収入は相当に大きかったに違いない。

(注)ディ-ン・フュネスは、『随筆 パラグアイ国内史』等の中で、それを百万リアルとしており、それは20,800ポンドに相当する。イバニェスは(『イエズス会共和国』の中で)大部分の論争的筆者が持つ非常に目立つ影響力を見事に無視して、これを百万ドルに改めているが、彼の目的は、イエズス会が新改宗者たちから法外な税金を取り立てて(利益をあげて)いることを証明することだった。


はちみつ・たばこの輸出
200から300樽のはちみつ、と約3,000から4,000アロバのたばこが、彼らの輸出全体額を作り上げたが、もし彼らが金を必要としないなら、そのような国で、またそれ程多くの、殆ど無期限に進んで働く人々がいれば、それは増加しただろう。

(注)教化村のはちみつは有名だったし、オペムスと呼ばれる小さな蜂が作る蝋は、シャルルボアによれば、他に比肩するものが無いほど、純白で、先住民の新改宗者たちは、愛の像の前でそれを燃やすことに全力を挙げて尽力したということだ。

自給自足の達成・輸出品の開発・労働意欲の醸成に関するイエズス会士の貢献度
教化村は、農業と商業の両面で、殆ど自給自足となるように組織されたことと、単なる生活必需品についても、彼らは輸出に充分なものを持っていたこと、そして、彼らが対処すべき先住民が如何に労働というものを嫌っていたか、を考えると、成し遂げられたことが決して小さくなかったこと、が見えてくる。

文明化された共同体がおそらく欲するであろう(例えば、文化・芸術的欲求に応える)要件を備えるための配慮がなされていた一方、彼らには、鎖や足枷や鞭などの備品や、道徳律が広く強制されるための、あらゆる道具を備えた監獄があったことも見えてくる。

刑罰・監獄の完備
最もよくある刑罰は、鞭打ちであり、最も頻繁な犯罪は、大酒、職務怠慢、重婚であった。そのうち、重婚は、イエズス会士が道徳からの逸脱だとして、特に厳しく責めた罪である。それは、独身主義を守らねばならないイエズス会士としては、鞭打ちの刑の助けなしには、その罪を避けるのは難しい、と考えたからかもしれない。


〈つづく〉

















# by GFauree | 2022-10-18 09:30 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

「キリシタン時代」は国家存亡の危機だった、そして今もまた

「キリシタン時代」は国家存亡の危機だった、そして今もまた_a0326062_11540090.jpg




「大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか」というやや長い標題の本を読んだ。

著者は、「歴史逍遥『しばやんの日々』」というブログを執筆されている「しばやん」という方である。そのブログのことは、数年間ペル-で暮らしておられた僧侶の方に、確か約1年前に教えて頂いた。その時すぐに、この本が出版されていることを知ったのだが、諸般の事情で最近やっと入手出来て早速期待しながら読んだ。

というのは、私は歴史と言っても殆どこの時代(鉄砲伝来の1543年からポルトガル船来航禁止の1639年まで約100年間)の歴史しか関心がなく、この本はまさにその時代の歴史について書かれたもののようなのだ。しかも、以前の記事に書いたことだが、私は学者・作家・教会関係者の書いた本にはあまり期待できないと思ってきた。それらの方が書いたものの価値が無いと思っている訳ではないが、目的が違うということなのだろう。まあ、その理由はともかく、そのために読みたい本が少ないのだが、「しばやん」さんは私と同じサラリ-マン出身で定年後の身であられるということである。

それに、ブログを開始されてからの10年間に600本以上の記事を書かれたとか。私なぞは、書き始めてから7年以上経つが、まだ100本ぐらいしか書けていない。第一、「しばやん」さんのブログは記事の内容が、私のブログとはとても比較にならないくらい濃くレベルが高いのだ。とにかく、なおさら興味と期待が高まった。


この本の内容

そして、この本の内容は期待通り、いやそれ以上だった。特に、参考になったというか興味を引かれた事項を以下に書き出してみたら、およそ目次の通りになってしまった。つまり、殆ど全ての内容が面白いということなのである。

・鉄砲の量産化
 大量保有と最高権力者秀吉の命令による放棄まで
・大村純忠
 キリスト教入信とポルトガル船誘致の関係、神社仏閣破壊の推進
・大友宗麟
 キリスト教受洗の経緯、神社仏閣破壊
大量の日本人奴隷
 ポルトガル人が日本人奴隷を入手するまでの日本側の国内事情
・秀吉の九州平定・朝鮮出兵
 イエズス会日本準管区長コエリョの関わり及び朝鮮出兵の意味
・26聖人殉教事件
 露わになったフランシスコ会・イエズス会の対立
関ヶ原の戦い
 キリシタン大名が東軍・西軍・中立派、三つのグル-プに見事に分散していることの不思議
・島原の乱
 「一揆勢」の武器大量保有と、1580年ヴァリニャ-ノが指令した「長崎の軍事拠点化」の関係
 「一揆勢」は外国〈ポルトガル船)の援軍を待っているとの幕府の想定


『天正少年使節記』は何処で書かれたか

ただ、一点だけ私の認識と異なる事項があったので、出来ればご教示頂きたいと思う。それは、引用されている『天正遣欧使節記』に関する記述で、「それが、1585年にイタリアで出版されたもの」とされている点である。本当は、どうなのだろうか。

実は、これついては私もブログ記事で、松田毅一著「天正遣欧使節」(講談社学術文庫)を参照して言及している。

松田が指摘しているように、この『対話録』は、ヴァリニャ-ノの純然たる著作といえる性格のものであり、また、この使節派遣を企てた目的の一般を披歴したものである。そして、その内容は極端なまでに西欧キリスト教社会を礼賛し、ひいては非キリスト教社会を蔑視する(まともな日本人の感覚では)実に嫌味なものとなっている。

ヴァリニャ-ノは、少年使節達のヨーロッパからの帰途に、彼らとインド・ゴアで落ち合いマカオに向かった。ところが、その前年に秀吉によって発布された伴天連追放令の影響が懸念されたため、彼らは日本への入国機会を覗って約2年間マカオで過ごさざるを得なくなった。この『対話録』は、少年たちが旅行中に起こしていたメモを基にして、その滞在期間中にヴァリニャ-ノが日本人信者の教育と教勢の復活・拡大という目的に応じた内容で執筆し、デ・サンデ神父にラテン語で書かせたものとされている。

その意味で、この『対話録』が、いつ、どこで、どのような状況の下、誰によって、何の目的で書かれたものなのか、ということは重要である。もしそれが、「1585年にイタリアで出版されたもの」であるとすれば、話は全く違ってくることになるのである。



日本におけるキリスト教布教の実像を受け容れるのは意外と難しい

実は、私は「カトリック4世」である。私の父の母の父、つまり私の曽祖父が奈良の柳生の生まれで、明治の初め頃医学の勉強のため長崎に行き、そこで洗礼を受けたと聞いたことがある。高校時代以降、教会から徐々に離れるようになったが、小学生の頃は、週末は殆ど教会で過ごしていたような感じだった。それが、今では葬式と法事以外は教会に行くことはない。そんな私でも、ついこの数年前までは、「しばやん」の本に書いてあるようなことは、言葉は理解できても、なかなか受け容れるのが難しかった。

鉄砲に使う硝石・奴隷の輸出・神社仏閣の焼き討ちを勧める宣教師たち(偶像崇拝撲滅運動)・秀吉の朝鮮出兵・島原の乱、それらのひとつひとつは、知識として頭に入っているのだが、正直なところ、キリスト教に関連して殆ど同時代に起きたものとして、リアルには想像できていなかったのだ。それから、当時のキリスト教布教の原則としての「教俗一体体制」(教会と国家が一体となって布教と武力による征服を進める体制、という意味である)についても、その実体的な意味が分かっていなかった。


南米の植民地支配・キリスト教布教は全くでたらめに進められた

南米の植民地支配・キリスト教布教についても、それが、ひたすら酷い状況で進められたということは、以前から読んだり聞いたりしていたのだが、何処かすっきり理解できないでいたところ、一年ぐらい前から、南米のキリスト教布教に関する本を読んでいて、ふと気が付いたことがあった。それは、大航海時代に世界に進出していったイベリア両国(スペイン・ポルトガル)自体の状態が全く酷い状態だったのではないか、また、そうであれば、征服者も植民者も聖職者もまともな人間であるはずがなく、植民地支配もキリスト教布教も正常であるはずがないということである。

そもそも、余程食えない状況でもない限り、化け物が棲むと言われたアジアやアメリカに出掛けるはずがない。「インディオの保護者」ラスカサスは、コロンブスのアメリカ「発見」から20年以上経っても未だ、「農民の移住」を提案している。ということは、農業の知識も技術も持たないスペイン人が植民者として移住していた、ということだ。だから、ピサロによるインカ帝国征服の後、リマ市にはスペイン人浮浪者があふれ、治安悪化の原因となったそうだ。もちろん、征服者・植民者は先住民から無償で食糧を供給されることを当然とし、それがない場合は先住民に対し「ヨ-ロッパ人の正義の一撃」加えたそうである。

軍隊にも規律などはなく、上官は部下の反乱を常に恐れていた。副王だ、高級官僚だと言っても、ろくに報酬を貰っていないから、着任と同時に金儲けに専念する。国王だって征服者の上納金を当てにしていたのだから、征服者と植民者が暴力団員であれば、国王は暴力団の親玉である。

聖職者も似たようなものである。そもそも、海外布教が始まった背景には、ローマ・カトリック教会の腐敗堕落の結果として「宗教改革」が発生し地盤を失ったという事情があったのであり、腐敗堕落した人たちと似たような連中が宣教師として海外に行けば何をするか想像できるのである。そもそも、海外宣教は修道会士たちに託されたと言われていて、修道士には清貧・貞潔・服従の掟があるなどと、学校で教わったが、そんな掟を定めなければならない、ということは、そのくらい、それを破る者が多かったということである。

だから、南米の征服者・植民者・聖職者には、先住民から税金や食料を巻き上げ、奴隷にして働かせることでしか自分たちが生きていくすべが無かったのである。(ここで、古代からのヨーロッパ社会の宿痾⦅どうしても治らない病気⦆である「奴隷制」が隠しようもなく表われてしまった。)


種明かし

もう、お分かりだと思うが日本でのカトリック教会は、国家による直接の武力支援がなかったために一部本性を表わすことが出来なかった部分がある。「猫をかぶっていた」と言えば、わかりやすいかも知れない。しかし、当然の事として基本的には南米での乱脈・暴虐と同様のことをしていた。
それは、「しばやん」さんの本に書いてある通りである。
・一神教的偶像崇拝撲滅運動としての神社仏閣の破壊の扇動
・奴隷売買の許容・協力・等閑視
・修道会同士の競合・紛争
・聖職者による国家に対する征服事業慫慂

だから、「しばやん」さんが書いていることは、驚く事でも何でもないのだ。

そして、その活動・事業を支えた考え方は「教俗一体体制」(宗教的権威を持つ教会と世俗的権力を持つ国家が一体となって、布教と征服の事業を進めること)である。秀吉と家康という最高権力者は、ともにカトリック教会の背後にあってそれを支えている国家権力の存在を見破っていたと言われている。個人としても国家としても貿易の利益はちゃっかり享受しながら警戒は怠らなかった、ということである。


最近の事件との関係で言うと

岡本大八事件については、私も記事を書いたことがある。これは、キリシタン大名有馬晴信を陥れるための、家康と老中本多正純の仕組んだ謀略ではないか、などと書いたのだが、今となっては、どうも自信がない。


しかし、面白い事件なので、別の資料について私見を記事にした。


私は結局、家康が「岡本大八事件」後、急遽、禁教に転じたのは、大村喜前の長崎換地問題と有馬晴信の旧領回復問題という幕府支配の根幹に関わる領地問題へのイエズス会の介入に家康が不快ないし不安を感じたため、または大坂の陣を控えていよいよ内政の攪乱要因の潰しにかかったのではないか、と考えるようになった。

しかし、「しばやん」さんが書かれている、その背景についてのレオン・パジェスの解説に対しては、もし本当だとすれば、私は「イエズス会はそこまでわかっていたのか」と感心してしまう。

それに比べると、「家康が岡本大八のようなキリシタンが幕府の中枢近くにいることに驚いた」という通説は、実に下らないような気がする。ただ、この通説は、現在巷を騒がせている問題と似ていて、妙にリアルである。

ところで、家康は直ちに「禁教」に動いたが、元首相は接触してきた団体を自分の勢力の維持・拡大に利用してしまった。おまけに、警察・公安関係の動きも抑えてしまったらしい。監督官庁である文科省も団体の言いなりになったようだ。これだけ、はっきりしているのに現首相は動きそうもなく、余計な儀式を挙行しようとしている。よっぽど、弱みを掴まれているのだろう。「国家存亡の危機」とはこのことかと思う。


通説を疑えば、歴史は面白くなる

「『鎖国』から『開国』につながる流れにおいて、江戸幕府を一方的に悪者にする歴史叙述は、欧米列強にとっても薩長にとっても都合のよい歴史である。戦後の長きにわたり、わが国の学界やマスコミや教育界は、この視点に立った歴史叙述を無批判に受け入れ、拡散してきたとは言えないだろうか。」

学生時代、歴史に全く興味を持てなかった私が「キリシタン時代史」について知ろうと思った理由は、江戸時代初期にカトリック司祭になろうとしてローマに単独行した、ペトロ・カスイ・岐部の生涯に興味を持ったからである。彼は1587年に生まれ、1639年に殉教した。どう勉強して良いか分からないので、とにかく同時代に関することは、何でも知ろうとした。何年もかかってやっと興味の範囲は、1549年のザビエル渡日まで遡ったが、それ以上には殆ど広がらず、私の興味の範囲は未だに1549年から1639年の90年間である。

その過程で知ったことは、キリスト教の歴史と言っても、教会は頼りにならないということである。教会には、自分たちの都合というものがある。例えば、ペトロ・カスイ・岐部がローマに単独行したのは、司祭になりたかったからである。ところが、その時代、日本のキリシタン教会(厳密に言えば日本・イエズス会だが)に、日本人司祭登用・イエズス会入会を抑制する方針があったため、日本では司祭にして貰えなかった。それ故に、単独行せざるを得なかったのである。教会としては、江戸時代初期にローマへ単独行した岐部の快挙を讃えたいところであるが、それをすると、その時代の日本人に対する差別が露わになってしまう。それで、その辺の事情(つまり史実)はぼやかすことになるのである。

歴史学者も小説家もあてにならない。というか、あてにしては、いけないのである。歴史学者は、立てた仮説を資料で説明するのが仕事だから、それを外れることでは当然頼りにならない。小説家は、作品の中で宗教を題材とすることはあるが、事実かどうかはあまり問題にしない。遠藤周作も、小説『沈黙』の中で意識的に史実を改変している。

資料も、圧倒的に多いのは、イエズス会内の書簡・連絡・報告である。これには、たとえ外国語が正確に翻訳されたとしても、その原文自体の信憑性には保証がないという欠点がある。会の事情やそれを書いた個人の事情があるからだ。結局、頼るべきは、自分の常識だということになる。逆に、日頃から自分の常識を出来るだけ磨いて、自分で考えれば良いのである。

私は、戦後の団塊世代だから、随分歪んだ歴史観の影響を受けているのではないかと思うが、まあ50歳位までは何も考えていないに等しい人生だったからそれで良しとしよう。歳をとると感覚が鈍くなるのが一般的であるが、良いこととしては常識が磨けることではないか、と思っている。そうすると、歳を取ればますます歴史も見えてくることになる。これからも、それを楽しみに余生を送りたい。

と言っても、油断は禁物である。「歴史」というのは、昔の話ではない。今も権力は死者を祀ることで自分に都合の良い「歴史」をでっち上げようと狙っている。


〈完〉  

# by GFauree | 2022-09-26 14:09 | 大航海時代 | Comments(0)  

消えて行った或る理想郷 そのVIII 第5章 万死に値する人(下)

消えて行った或る理想郷 そのVIII 第5章 万死に値する人(下)_a0326062_03040331.jpg


今回は、Robert Bontine Cunninghame Graham (ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)著『A VANISHED ARCADIA』(消えて行った或る理想郷)の第5章の後半部分である。

この、第5章後半部分でも、国家・教会一体体制の下での南米の征服・布教事業のうち、パラグアイでのスペイン国家の出先機関の長である総督とカトリック教会側の現地代表である司教との角逐が語られている。中でも、ついには総督に就任してしまうフランシスコ会出身の司教カルデナスの権力への執着ぶりは見事なほどである。

スペイン王国の現地官僚の長である総督が権力に執着しても別に驚くことではないのだが、司教のそれは醜悪であり、滑稽でさえある。そして、そんな司教に目の敵にされた故にイエズス会は次第に善玉になり、逆に益々スペイン人植民者の反感を集める存在となったようだ。

それが、大航海時代のキリスト教布教の実態だったのである。それを考えると、日本の「鎖国・禁教」が実に賢明な政策に思えてくる。そんな歴史を持つ国なのに、あの前首相とその子分たちは、何ということをしてくれたのだろうか。その上に、その前首相に対し「国葬」をするという。

この第5章に書かれてあることだが、かの悪名高き世俗権力の権化であり、まさに「万死に値する人」であったカルデナス司教を、不思議なことに最後まで支持したのが、アスンシオン市民と先住民だという。「国葬」を許してしまう我々に似ていないか。


さて、第5章の内容に入ろう。


イエズス会鉱山発見の噂
ちょうど此の頃(1644年~45年)、イエズス会がパラナ地方で、彼らの教化村の近くに鉱山を発見したという噂が立った。こういう噂は、イエズス会を攻撃する方法が他に何も無いときに、いつも広められるものだった。

ブエナヴェントゥラという名の先住民の男は、ブエノス・アイレスの修道院の使用人であったが、この場合、イエズス会の敵によって使われる道具となった。短期間のうちに、誰もが彼を信ずるようになり、皆の興奮は激しかった。しかし、非常に残念なことに、ブエナヴェントゥラは、たまたま彼の悪名の絶頂のときに、既婚女性と駆け落ちをして追跡され、ブエノス・アイレスへ連れて来られ、人前で気絶するまで鞭打たれた。

他の国であれば何処でも、ブエナヴェントゥラが公開の鞭打ちの後に、信用されるというようなことはなかったであろう。しかし、ブエノス・アイレスの総督に、鉱山が本当に存在すると伝える手紙が、パラグアイの司教から届いたのだ。

その時、新総督ドン・ハシント・デ・ララがちょうど到着していた。(南)アメリカとその流儀に不慣れであったため、彼自身が疑義を差しはさみ始め、50人の兵隊と共に、ブエナヴェントゥラを案内人として連れて、教化村へ行った。予想できた通り、途中でブエナヴェントゥラは、今度は単独で逃亡した。

イエズス会のシャルルボア神父は「彼を取り逃がしたことで、色々考えさせられて………」と書いている。しかし、この段階に至っては、総督は徹底的に疑問を追求することに決めた。


かつて、パラグアイに入ったことのある最も熱心な働き手である宣教師のひとり、ディアス・ターニョ神父は、満足するまで金・銀を探索し、彼らの領地を捜索するよう総督に強く要望し、彼が作成した報告書の確認を司教に求めるよう依頼した。総督はこれを行ない、それから兵士たちを伴って、ブエナヴェントゥラの追跡を始めた。

鉱山を最初に発見する者は、直ちに隊長に昇格させられ多額の報酬を得ることになる、と発表された。数日の進軍の後、鉱山は全く発見されず、パラグアイの総督から、また司教から書簡が彼に届いた。

第一のものは、パラグアイ総督が鉱山の噂を聞いたが、確かなことは何もないことを、ブエノス・アイレス総督に告げるものだった。

第二のものは、鉱山について具体的に述べることを断る、それ故、言わば永遠に不完全な形のままであることを運命づけられていると伝えるものであった。しかし、パラグアイ司教は、忠告を与えた。良い忠告というものは、いかなる鉱山よりも、それが銀の鉱山であろうと、金の鉱山であろうと、より良いものである。彼は、総督ララに対し、先ずイエズス会を追い出すことを命じ、彼らを追放することの利益は、ちょうど鉱山のように価値があることが分かるであろう、と伝えたのだった。

これがまた、総督ドン・ハシントを物思いに沈ませたかどうかは、私には分からないが、幸運なことに、イエズス会は詐欺行為を暴くことに関心があったから、手かせ足かせを付けてブエナヴェントゥラを駐屯地に連れて来た。ドン・ハシント総督は、彼に詐欺行為を自白させようとしたが成功せず、その後彼に絞首刑を宣告した。

イエズス会は、彼らのいつもの人間性で(ただの、巧妙さかも知れないが)、彼のために命乞いをしたところ、これが許され、ブエナヴェントゥラはもう一度、骨折り賃として良い音の鞭を受けた。このようにして、ドン・ハシントの旅は、経験を得たという以外に彼自身には、利益無く終わった。疑いもなく、彼はイエズス会教化村を、巨大な木材か石で建てられた教会を、そして先住民と司祭たちの満足した様子を見て注目したが、それらはその時代の全ての旅行者たちを驚かせたものだったのである。彼は、無数の子牛の群れや耕作された畑を見、教化村で独りで過ごした時間に、南米に到着して以来間違いなく初めて、完全な安全性の感覚を楽しんだのだ。

しかし、詐欺行為の露見にも拘らず、鉱山の存在に関する噂は決して死に絶えることなく、パラグアイにおける地質学調査にも拘わらず今日まで生きながらえている。


先住民の生活態度の堕落(一夫多妻への立ち戻り)と移動
教化村ではこのようなことが進行していた一方で、パラグアイ北部、イタティネス遠隔の近ごろ改宗が行われた地区では、司教が挙げた悪い見本となる事例が実際に発生し、先住民を統率することは困難になりつつあった。首長の一人が、急に公然と反乱を起こし、アレナスという名の神父を正に祭壇の階段で傷付けた。やがて、生活態度の一般的な堕落が地区全体を横断し殆ど全般的なものとなった。

これは、先住民が一夫多妻に立ち戻ったことを意味している、と取らねばならぬと私は思う。というのは、イエズス会士は一夫一婦制の利点について先住民を納得させられず、常にこの件について課題を抱えていたからである。しかし、全く思いがけなく、ちょうど一般的堕落が全ての人々の心を掴んだように、一匹の虎が村に飛び込み、14人の人々と数頭の馬を殺して、再び森へと消えたのである。

イエズス会士は、既にこのような出来事を活用する準備が出来ていたから、虎の来訪時に天罰を見て邪悪な道から離れるよう、先住民たちに求めた。先住民は常に反逆していたが、また喜んで服従することもあったから、神父たちは善良だったのだが、権威で脅かそうと決めていた、とシャルルボアは報告している。

彼らは、首長と彼の甥と息子をそそのかして、他の地区へ行かせ、そこで、彼らは先住民を捕らえて船に乗せ、ウルグアイを横断し、遠隔地の教化村へ200リ-グ(約960km-東京から長崎ぐらいの距離)運ばせた。

スペイン人は、かつてフェルディナンド7世について、彼が何らかの残虐行為を犯した時に、「彼は正に国王である。」と言っていたし、イタティネスの先住民は、スペイン人が彼らの国王に対するのと同じように、イエズス会士を「権威の一撃」と、みなしていたのである。


コリエンテスでのカルデナスの幸運
カルデナスのいつもの幸運がコリエンテスでの異郷生活で彼に舞い込んだ。この町は、ブエノス・アイレス教区の一部をなしていたのだが、その教区はその時偶々、司教座が空席だった。

彼はそれ故、パラグアイで活動していたように活動せねばならないことになり、判事を任命し叙階式を行い、その町のイエズス会士に対する反対運動を始めた。それ故、彼が他の人々の職務を横取りするというお得意の趣味に専念している間に、チャルカス高等法院に出頭するよう、彼に2通の召喚状が送られた。かれは、それらを無視し、トゥクマンの司教に対し、彼の甥を通じて、彼の主張の申立書を送った。

書簡の中で、パラグアイ総督に対する不満の全てを申し立て、総督を教会の妨害者、異端者と呼び、挫折した教会人が通常自分の憤怒を吐き出すためのそれらの言葉全てを、おおよそ彼に当てはめた。これに混ぜたのが、イエズス会に対する詳細な告発だった。パラグアイに居た間の彼の不幸を、全て彼らの所為にしたのだ。

最後に彼は、トゥクマンの司教に対して、彼がイエズス会のせいにする途方もない異端を非難するために、管区会議を招集することを求めたが、それはトゥクマンの司教に、トレント宗教会議が管区会議の頻繁な開催を勧告していたことを思い出させ、もし会議が直ちに招集されないのであれば、司教は大罪を負うことになる、という彼の意見が述べられていた。


トゥクマンの司教からの回答
トゥクマンからカルデナスが受け取った回答は、彼の辛抱強い友人だからこそ操ることのできる最良の形で、非常に皮肉に言い表わされていた。カルデナスを「君主閣下」と呼んだ後で、彼は、彼自身の教区の扱いにくい司祭たちに対し大いに訓練してきた議論をするような方法で、カルデナスの言い分を粉砕し続けた。

彼は、イエズス会は、先住民の中で真に働く、パラグアイでは唯一の修道会であると言った。その修道会から、第二のパウロ(つまり聖フランシスコ・ザビエル)が出ていることを、彼はカルデナスに思い起こさせた。

彼は、カルデナスに尋ねた。イエズス会の事業に対し、ブエノス・アイレスの国庫から国王によって支払われる2万クラウンの年金はよく節約されていると、教会人として思うか否か。もし節約されず無駄に使われているというのであれば、イエズス会が改宗させた数千人の先住民は神を感じていないことになるのではないか。

そして、異端については、自分は決して審問官ではないのだから、そういうことは教皇に委ねているが、イエズス会士が素行について堕落しているとか、人間性の大いなるもろさによって我々が犯しがちな何らかのより大きな罪について、イエズス会士を告発した者は全くいなかった、とトゥクマンの司教は述べていた。

彼は、カルデナスに、イエズス会は彼らの側では如何なる告発もせず、常に節度と尊敬を以って、彼について語ったことを思い出させた。管区会議については、それが、次のような充分な理由により、不可能であると述べた。

ミスクの司教は、余りに老齢で虚弱なため旅をすることが出来ないこと、ラ・パスの司教は最近死亡し、司教座は未だ空席であること、ブエノス・アイレスの司教は、極く最近着任し、教区を離れるには余りに多忙であること、それ故可能な司教は自分自身とカルデナスのみであり、そういうことから彼らが決して了承しないこと。

彼は言った。「さらに、君主閣下(カルデナス)が私にさせたいというのは何なのか?)」「司教に忠告することか?」「神は、自分自身の羊の保護を私に与えただけだ。」「閣下は私と同じように、司教たるものが如何に振る舞うべきかを知っているはずだ。」「司教の立派さは、衣服の立派さにはなく、振る舞いにある。」という引用文で彼は終わりにした。


パラグアイ総督とイエズス会の反応とグアイクル族の来襲
カルデナスが答えたことは、私が見ることのできる如何なる記録にも記されていないが、彼が考えたことは容易に推測できる。パラグアイの総督は、チャルカス高等法院に訴えたことには満足せず、セヴィ-ジャのインディアス評議会へ司教の突飛な考えを詳細に伝えて、訴えを送った。イエズス会もまた、セヴィ-ジャで彼らの代理をする幹部に権限を与えた。これらの準備がなされている間に、そして一方で皆が油断したすきに、グアイクル族が首府を襲撃しようと狙っていた。そして、教化村の領地から、ある程度のグアラニが到着するのが遅れれば、グアイクル族は奇襲していたであろう。

「イエズス会はスペイン国王の敵である」という見方で見せようと常にしている人たちにとっては、これによって実地に教えられることが多かったはずである。しかしながら、何も決め手になるようなことは示されず、様々な場合に、パラグアイにおけるスペインの力は、イエズス会と彼らの先住民の尽力によってのみ守られたのだが、カルデナスの中傷が余りにも深く定着してしまったために、その中傷を打ち消すことが困難になっていた。


カルデナス、コリエンテスを去りアスンシオンへ
一方で、コリエンテスでは、カルデナスは日夜パラグアイに戻ることを企んでいた。自身のラ・プラタの町コリエンテスには、当然幾人かの友人がおり、彼らは彼を復帰させるために出来ることは何でもした。彼らの努力にも拘わらず、追放の罰によってコリエンテスを去るよう、チャルカスから彼に命令が来た。

カルデナス以外であれば、誰もが当惑しただろう。命令では彼はまだパラグアイの司教と呼ばれていたから、彼は裁判所に出頭するためにチャルカスへ出発する前に、司教代理を任命するためにアスンシオンに行かねばならないと言い張り、1646年の末ごろ、パラグアイに向けて川を逆上るべく乗船した。


カルデナス、コリエンテスに戻され、ポポヤン司教に任命されるも高齢で動けず
総督は、油断なく警戒していて、カルデナスを戻す旨の命令と共に船を送ったので、彼の反対表明にもかかわらず、その命令は実行されて、カルデナスはコリエンテスに戻され、惨めな苦境に陥った。それから、チャルカスに出頭させるための、もう一つの召喚状が来たが、それは、彼がポパヤン(現在のコロンビアにある)の司教に任命されたという通告であった。ポパヤンは、ニュ-・グラナダ(現在のコロンビアとパナマの一部)にあって、アスンシオンから少なくとも3,000マイル(京都からシンガポールぐらい)の距離にあるから、任命にあたっての彼の喜びは極度のものであったに違いない。(皮肉)彼の軍にとっては、今や絶望的な状況であった。彼が国王に対する手紙で言っているように、高齢によりそれ程の大旅行を引き受けることは出来なかった。そして、全ての側面で、彼の敵(総督)は優勢になったように見えた。


総督ドン・グレゴリオ更迭され、司教カルデナスはアスンシオンに戻りイエズス会迫害を開始する
ところが、ドン・グレゴリオ・イノストロサはパラグアイから除外され、新総督ドン・ディエゴ・エスコバル・デ・オソリオがその地位に任命された。その知らせが、カルデナスに届くや否や、彼はパラグアイに向けて出発した。アスンシオンに着くと、彼の友人たちは皆、彼と会って、行列をして、彼を司教座大聖堂へ連れて行った。彼が、最初に考えたことは、イエズス会の迫害を行なうことだった。


有名なイエズス会の敵、メキシコの司教パラフォクス
イエズス会にとって、非常に不運だったことは、メキシコのプエブラ・デ・ロス・アンヘレスの司教ドン・フアン・デ・パラフォクス、彼はメキシコでイエズス会と多くの論争をしており、その彼がカルデナスや南米の全ての司教達に、イエズス会に対する闘いに参加することを依頼する旨を書いて来たことだった。このパラフォクスという男は、後に福者に列せられる生前からも、聖人としての評判を享受していたから、彼の書状はカルデナスを大いに力づけた。それにも拘わらず、パラフォクスは、後にスペインのオスマの司教であった時に、パラグアイでイエズス会によってなされた事業を賛美して多くのことを語っている。

新総督は、彼自身チャルカス高等法院の一員だったから、パラグアイに行ったことが一度もなく、それ故司教を(ドン・グレゴリオ総督がそうしたように)彼の地位によって生ずるあらゆる尊敬を以って扱おうと決心した。司教にとってそれ以上の望みはなく、彼は取扱うべきもう一人の愚者を得たとすぐに考えた。それ故、チャルカスの法廷の召喚状に従わないとの意向を隠さず、すぐにイエズス会に反対する説経を始め、イエズス会に対する民衆の反感を掻き立てた。


反イエズス会署名運動
不運なことに、イエズス会が犯したと彼が主張する罪の証拠が不足したので、パラグアイからイエズス会を追放することを願う者皆により署名された請願書を得るという策略に頼ることにした。全ての請願書というものがそうであるように、それは主として、女、子供と、その件に関して事前に考えたことは無いが、他人の名前の後ろに自分の名前を書く機会が好きな人たちによって署名されたものだった。それは、羊がすき間を通り抜けようとすることとか、議会において単なる同情から議員が投票することに似たものだった。

この策略には、多大な時間が掛けられ、白紙は全ての者に回され、イエズス会の不利になるように人々が想像したことは、何でも書かれることになった。この書類の包みは、不運なことにスペインに居る司教の代理人に送られ、航海の途中、イギリスの海賊に奪われた。が、間違いなくプロテスタントであろう尊敬に値するその海賊は、もしイエズス会士の言うことが信じられるなら、悪意を発散するそのような手法を使った人々の邪悪な信仰に大いに憤慨したと言われている。


司教ドン・ベルナルディノの復権
そこで、全ては再びドン・ベルナルディノ司教に微笑んでいるようであり、司教は間違いなく、真夜中の鞭打ちと一日2回のミサを再開し、アスンシオンの人々の偶像となった。

遠い北部のカアグアユの未開の地方、それはムバラカヤ山に沿った厳しい土地であり、広大な森林に近いところに、イエズス会は先住民の間に2つの村を形成した。これら2つの村は、チャコからの未開先住民の侵入に抵抗する、国の辺地居留地となる運命にあった。

司教は総督を説き伏せて、イエズス会を追い出し、他の修道会の司祭たちを彼らに代えさせようとした。これがなされたので、先住民は全て逃亡し、その地方は誰も住む者がないままに放置されることとなった。

チャルカスの法廷は、この愚行を聞き、総督に対しイエズス会を呼び戻すべく命令を送った。先住民を求めて森と砂漠に不断の捜索が行われて1年が経って、復帰することを説得できたのは、人口の半分であり、元宣教師であったマンシジャ神父は、彼が経験した困難によって死亡した。

その頃から、ホセ・ガスパル・ロドリゲス・フランシア博士・執政官の独裁の時期(1814年から40年頃)までの間、その地区は砂漠となった。フランシアは、その地区を囚人流刑地として使い、今日、カアグアスとして知られる2~3の未開の遊牧先住民とマテ茶採集者の僅かな人口を除いては、まだ殆ど人の住まない過疎地として残されている。


イエズス会に対する一般民衆の嫌悪感
一方、イエズス会に対する一般的な憤慨は、住民の全ての層に伝染したようであった。確かに、アスンシオン市民は、イエズス会に対する不平の尤もかつ充分な理由を持っていた。様々な場合に、イエズス会と彼らの先住民の努力だけが、首府アスンシオンを野蛮な先住民から救っていたのだが、もしその珍奇さからだけならば、利益は得難かったのだ。(「もし、イエズス会と彼らの先住民が物珍しいというだけの事であれば、それが存在する意義はなかっただろう。」という意味か)

一般民衆の嫌悪というのは、一般民衆の賞賛がそうであるように、精一杯馬鹿げたものだったのだが、それが主にディアス・ターニョ神父に襲い掛かった。神父は、マメルコス侵入を前にしてパラナ川を下った避難で、スペイン国王のために1万人の先住民を救った人だが、しばしば町で侮辱されていた。

アントニオ・マンキアノ神父は静かで博学な男だが、昼日中、怒り狂った教信者に殺されかけた。その男は、彼の心臓を食べるという意図を公然と口に出して、彼に襲い掛かったのだ。これは、カルデナスが、イエズス会修道会全体を選んで、破門を宣告した時期であった。彼は、以前に(破門の)実績を挙げた現場から一年間離れていたので、人々はそれ程慣れておらず、それ故、破門を深刻に受け留めた。


総督ドン・ディエゴの急死とカルデナスの総督就任
この重大な時期に、総督ドン・ディエゴがあまりにも急に死んだので、彼が毒殺されたのではという疑惑が湧き起こった。彼が死ぬと直ぐに、全住民が暫定的な後継者を選ぶために邸宅に集まった。これは、非常に重要な事項だった。と言うのは、スペインと連絡をとるには、もっとも短期間で約8カ月かかったからである。

満場の拍手で、選択は司教の上に下った。それ故、司教は精神的権威と同時に世俗的権力の長となった。しかし、その選択は、絶対的に違法であった。というのは、スペインの法律は、もしパラグアイの総督が偶々死ねば、暫定的な後継者は第一にペル-副王によって、またはチャルカス高等法院によって決められるべきことを、規定しているのである。カルデナスは、彼が選出されるについて、皇帝カルロス5世の偽の勅令を根拠とした。しかし、もし彼が勅令の写しを持っていたとしても、決してそれを示すことはなかった。

いつもそうであるように、善人は無理することはないし、賢人は心配することはない。しかし、選出に参加したのは愚者と陰謀家ばかりだったので、彼の不法な権力入手に対し本気で反対する者はいなかった。カルデナスは、暫くの間、総督の職は統治することであることを全く疑わなかったし、彼は直ぐに真剣にそうし始めた。


イエズス会追放に人々を引き込むために、司教が言ったこと
サルクというスペイン人作家は、カルデナスがイエズス会を追放するために、自分の側に人を引き込もうとして、如何に対処したかを、次のように好奇心をそそる描写をしている。

ある日、司教座大聖堂で説教をし、奉献の後、人々に向き直り聖体を示して言った。「私の兄弟である皆さんは、イエズス・キリストがここに居ることを信じますか?」皆は、真の信仰者であるので、「それは私たちが信じていることです。」と声を合わせて答えた。

化学の講義において、講師がいくつかの物質を取り上げて「皆さんは、カルシウム・タングステンやバリウム・シアン化水素は、これとかあれであるることを知っていますか?」言うのと同様である。聴衆は、羊のようにうなずいて賛成する。それ程の高名な人が、それ程滑らかに述べることに反対することを恐れるからである。

それから、カルデナスは言った。「しっかり信じなさい。私がイエズス会を追放するための国王命令をもっていることを。」人々は、皆信じた。そして、カルデナスは彼らに、イエズス会の追放によって、2万人の先住民が彼の権限の下に入って来るが、彼は彼らを自分の友人の間で分配することが出来ると言ったが、すぐにそれを忘れた。ということは、彼は、教化村の先住民をパラグアイの名士たちの間で分配することを、彼らを自分の側に引き入れるために、提案したのである。


イエズス会士たちは、アスンシオンのコレジオからコリエンテスに追放される
アスンシオンにおける全ての先頭に立って、カルデナスはもはや、ためらわず、ドン・フアン・デ・ヴァジェホ・ヴィジャサンティという役人に、兵士の一団と共に、イエズス会のコレジオに向けて行進するように命じた。彼ドン・フアンはこれを行い、全ての門に閂(かんぬき)が掛けてあるのを見つけ、それを押し破ってこじ開け、コレジオに入り、全ての司祭たちと共に町を去り、パラナ地区の全ての教化村から立ち退く旨の、総督からの命令(司教による署名付きのもの)を校長に示した。

イエズス会は、フィリップ2世からの、また彼の後継者によって更新されているコレジオ設立のための許可証を持っている、と校長は答え、ターニョ神父は書類を示した。ヴィジャサンティには、書類を尊重しようという気持ちは殆ど無かったので、ターニョ神父の手から羊皮紙をひったくった。

そして、兵士たちはイエズス会士たちを、港に向かって一団にして引っ立てて行った。彼らは、縛られ、殆ど食糧もなくカヌ-に投げ込まれ、コリエンテスに向かって川下りをさせられた。コリエンテスは、パラグアイでは、選挙や革命に敗れ、時を稼ぎたい党派の、ある意味の避難所だったのだ。

コリエンテスに到着すると、敬虔な信者である役人ドン・マヌエル・カブラルが、彼の家に彼らを迎え入れ、奇妙なことに民衆はイエズス会士たちを熱烈に歓迎し、町にコレジオを建設すよるよう彼らにしきりに勧めた。

彼らのアスンシオンのコレジオは、嵐に急襲された町のように取り扱われ、説教台や聖水盤、告解室と扉など全てはぶち壊され焼かれた。そして、司教の熱心な支持者たちは、自分たちのなしたことを正当化しようとして、イエズス会士たちは異端者であり、彼らの教会堂は汚れていたという情報を広めた。司教より本能的な民衆は、スペイン渡来の祭壇を破壊することだけは、拒否した。

祭壇の傍らに、聖イグナシオと聖フランシスコ・ザビエルの彫像もまた、あった。司教は、これらを聖ペトロと聖パウロのものに変えることを望んだ。彼は、それらの像を制作すよう先住民の大工に注文した。気の毒な先住民は最善を尽くしたが、人間にも神にも見えない二つの巨大な塊に変えることしか出来なかった。

天国を見上げている祝福された聖母の像を、司教は作り変えることを望んだ、というのは、像の性別にふさわしく頭を地球を見下ろしているものに取り換えたかったのだ。人々は、司教より狂っても、迷信的でもなかったから、それを受け容れることを拒否し、像はまた司教座聖堂に設置された。

1649年、イエズス会のように強力な修道会の追放は、広く世界に何らかの動揺を与えた。衰える信仰を強化すべく奇跡がタイミング良く起きた。

教会の周りに付けられた火が、それを壊したが、黒焦げにはしなかった。教会の塔につなげた綱は、巻き上げ機に付けられたが、それを倒すことは出来ず、塔と教会は内部が全焼しただけで、まだ殆ど無傷で残り、イエズス会士が帰還した折に、簡単に修繕され、勝利の記念碑として役に立った。


カルデナスの対応
気の毒なカルデナスが了解したように、司教冠をかぶった頭はゆっくり休めるときがなかった。彼の人気は、イエズス会のコレジオで見つかる(はずの)財宝がないことで、いくらかの低下に苦しんでいた。というのは、彼は人々をかれの側に惹きつけるために、彼らの目の前に予想として数百万ドルを常にちらつかせていたからであり、さらに、非常に不運なことに、彼は使うべき数百万ドルなど、全く持っていなかったのである。そこで、全てを正当化するために、彼は自分の利益を代理させるべく、マドリッドへディエゴ・ヴィジャロン神父を送った。


イエズス会側の対応
イエズス会の側が、不活動であった訳ではない。教皇グレゴリ-13世の小勅書のお陰で、彼らの名誉または財産が侵害された場合の、いわゆる司法委員と呼ばれる役人を任命する特権を得たのである。それ故、アルフォンソ・デ・オヘダ神父が問題を解決するべくチャルカスへ送られた。


チャルカス高等法院の審理・決定
チャルカスでは、カルデナスが彼ら以前にすでにいたことが分かり、高等法院においてイエズス会に対する司法手続が始められていた。メルセデス修道会の院長であるペドロ・ノラスコ神父が司法委員に任命された。彼は直ちに司教を呼び出し、出頭させ事実を審理し証言を聴取しようとした。ところが、カルデナスが出頭を拒否したので、彼に対する審理は欠席のまま行われた。

高等法院は、皇帝カルロス5世の偽の勅令は存在しないと確認し、ドン・アンドレス・ガラビト・デ・レオンをパラグアイの暫定総督に任命し、もし必要であれば、武力によって秩序を回復するための権限を彼に与えた。

法廷は、それから、カルデナスを召喚し、直ちに出頭させ、何故総督になったのか、またパラグアイからイエズス会を追放したのかを説明させるべく布告を発した。その時、法廷はペル-副王マンセラ侯爵と連絡を取り合っており、侯爵はカルデナスに関するその決定に同意していた。

明らかに、回教徒の間に広く行われていた原則に基いていたのだが、それは常に、役人を最初に任命し、次に実際に仕事をするべき役人として首長を任命するもので、チャルカスの高等法院もまた、暫定総督ドン・アンドレスが出発しようという気になるまでに、パラグアイに向かう司令官を任命したのだ。司令官の名前がセバスチャン・デ・レオンであるので、彼が最初に任命された男の親族であった可能性がなくもない。

ドン・セバスチャン・デ・レオンは、既にパラグアイに居たようである、というのは、シャルルボアもザルケも、カルデナスによるイエズス会の追放の後に、彼と彼の兄弟がアスンシオンからいくらか離れた農園に引きこもっていたことを認めている。彼が任命されたという知らせは、農園に居た彼に届き、どうすべきかについて非常に難しい立場に彼を置いたに違いない。

スペイン支配の間の南アメリカに起きた多様な反乱の様々な場合に、人々は反乱を鎮圧し、国々を平定し、秩序を回復するために任命されたが、全て軍隊も兵力もなしに、命令のみによって配置されたのだ。有名なラ・ガスカの場合もこのケースである。彼は、ゴンサロ・ピサロの反乱を平定するために、スペインから送られ成功したのだが、スペインを出たときには、随行員の中に一人の兵隊もいなかったのである。

これに関して思い出すべきは、カルロス1世(つまり皇帝カルロス5世)(在位1519-1556)の時代から、カルロス3世(在位1735-1759)の時代まで、スペイン領アメリカにおける反乱は、どれも本国からの分離を目的としたものではなく、単にスペインから送られた総督に抗して蜂起したものであったことだ。

ペル-とパラグアイのどちらにおいても、「帝国の権力」というまさにその名目によってその役人が如何なる委任をマドリッドから受けているかという基準に従って、数百人の人々を引き込むことが出来たのであり、ガラビト・デ・レオンやペル-におけるガスカが持っていたのは、そのようなものだったのである。

最初、ドン・セバスチャンはアスンシオンには現れなかったが、各方面に使者を送り、兵士や徴発馬を集め、糧食を調達した。彼はまた、コリエンテスにも人を送り、イエズス会に彼らを彼らの領地で復帰させる用意があると伝えた。一方、司教ドン・ベルナルディノは、彼の人生における最大の冒険を準備していた、彼は、権力は決して彼をパラグアイの統治から取り除く如何なる権利も持っていない、と非常に強く信じていたようだ。

彼は、ドン・フアン・ロメロ・デ・ラ・クルスに宛てて、「今や英雄的偉業と大いなる勝利によって、自分を特徴付けようとしており、自分は自分の側に『正義と力』(これは、最も一般的でない組み合わせだが)を持ち、首府全体が自分に好意的であり、自分はイエズス会の復帰を許さず、ドン・セバスチャン・デ・レオンを司令官として認めないと決心した。」と書いている。


司教カルデナスの人生最大の冒険・聖戦
アスンシオンは再び動揺し、全ての人々が聖戦に備えた。天使が自分を助けるはずであり、これが自分の兵隊たちを非常に安心させ、兵隊たちはドン・セバスチャン・レオンの軍にいる先住民が容易に彼らの餌食になるだろうと考えて、先住民を縛る綱を用意した、と司教は明言した。

この綱の件は、おそらく、なぜアスンシオンの住民が殆ど圧倒的に司教に好意的だったかの理由を示している。チャルカスの高等法院によって任命された司令官ドン・セバスチャンの軍隊には、地方の市民軍同様、パラナ地区のイエズス会教化村からの3,000人の先住民が加わっていたのだ。首府のスペイン人たちは、どの先住民も決して殺さないと決めていたが、何と奴隷として生きたまま、それも自分で装備した綱によって捕縛することを決めていたのだ。

聖なる大元帥(司教)は、自ら彼の軍隊をアスンシオンから引っ張り出して、ミサを行い、それから多くのスペイン人聖職者が彼の前後にしたように、また最近時のカーリストの戦いまで継続し続けたように、自分の軍隊の先頭に立ったのだ。軍勢は、ルケから遠くないカンポ・グランデとして知られる小さな平原で衝突した。そこは、砂地の開けた平原で、馬には足元が固く、中心には水流のない小さな水たまりがいくつかあり、傷付いた者が水を飲み傷を洗うことができ、四方にひじょうに都合の良い森があって、脱走者や臆病者が隠れることができて、良い戦場になっていた。

ルケの村は、教会の周りに散在し、中心には小さな広場があり、その広場にはパラグアイ人の女性が座って、マンディオカやチパと呼ばれる一種のパンやラパドゥラと呼ばれる角砂糖を売りながら、トウモロコシやピーナツの大袋を持って、小さな丘の頂上に立っているのである。

平原では地面は赤く、その上で戦闘は行われているようで、多くの血がこぼれている。全ての方向に小さな道が走り、それらはロバや馬の脚で深く穴が開き、それらに乗る者は、あたかも流れの中を進むように、足を上げなければならなかった。アスンシオンに向かって、オレンジなどの植わった一本の道が続いているが、それはスペイン人によって最初に征服された後に、先住民に対し防御するためにそのように建設されたものだ。


逃げ出した司教側の兵士たち
司教の側では、兵士は一人も自分が神の使者であるとは思えず、心の中では全く勝利を疑っていた。天使たちは彼らの指導者に勝利を約束し、指導者は全てを確かなものとするために、降伏を死刑で罰することを宣言していた。だから、彼らは戦闘態勢を取って静かに立ち、攻撃されるのを待っていたのだ。

司令官ドン・セバスチャン・レオンは、敵の姿勢を見て、直ちに前進を命令し、彼の全ての騎兵とともに、司教の兵に向かって突撃した。司教の兵は、狂信者がしばしば示す確信に満ちて、自分たちは不死身であると考え断固として列になって立っていた。が、彼らの勇気は、ほんのつかの間のものであることが分かった。というのは、2度目の攻撃で、列を崩し逃げ出したからだ。戦意の高揚が総崩れに変わった。

そして、ドン・セバスチャンが追跡しないように命じたので、彼らはまだ逃げ続け、誰も彼らを追わなかった。それから、司令官は抵抗なく首府に入った。広場で彼は停止し、敵味方の区別なく負傷者を集め、彼らを病院へ送った。それから、町の治安状況を見て、戦いの危険から彼を守ってくれたことを神に感謝するために、司教座大聖堂まで馬に乗って行った。


ドン・セバスチャンに世俗権力の杖を渡す司教カルデナス
カルデナスは、式服を着て、司教座に座っていた。ドン・セバスチャンは馬を降り、聖堂に入り、そして真のスペイン人らしく、恭しく司教の手に接吻をし、世俗の権力の杖を彼に与えて下さるよう丁重に依頼した。カルデナスは言葉では応えず、彼に杖を渡し、全ての司祭を従えて退出した。勝利は、ドン・セバスチャンの仕事を終わらせなかった。妥当な期間の後、彼は証人の前に司教を呼び出し、チャルカスの法廷に出頭することを命じた。

司教は従うことを約束した。彼には、もう一人ドン・グレゴリオ・イノストロサという対処すべき存在がおり、南米の総督たちの習慣に従って行動し、決して言うとおりにはしないと決心していたのだ。(そうだ、司教は、選出の妥当性はともかく、総督になっていたのだ。)総督たちは、マドリッドから馬鹿げた、または極めて実行不可能な命令が届いた時には、おごそかに「私は従うが言う通りにはしない。」と答えたのだ。その決まり文句によって、彼らの君主と彼ら自身の名誉を守るために。

イエズス会の側は、保安判事であるノラスコ神父に、彼らが課せられている義務から彼らを解放するための判決を出すよう求めた。ノラスコ神父は、これを行い、彼の意見として、カルデナスがイエズス会の所為としていた全ての事柄について、彼らは真底から無罪であるとした。スペインでは、宮殿のように物事はゆっくり進むから、1654年になって初めて王室の決定がノラスコの判決を承認し、イエズス会は彼らに提起されていた全ての告発から解放された。


パヤグア族制圧に狩りだされたセバスチャン・レオン
秩序が回復し、カルデナスは強奪した権力を奪われ、イエズス会は元通りとなり、セバスチャン・レオンの一時的な任務は終了した。それ故、彼は再び農園に引きこもって、グアヤバの木の下にマンディオカを植える生活に戻った。しかし、気分は未だ高揚していたので、カルデナスの熱心な支持者たちの復讐から安全だとはとても感じられず、そのため気が付くと、もう一度地方の市民軍に招集され、パヤグア族に対する形だけの軍事行動を率いらざるを得なくなっていた。


パヤグア族
この先住民は、征服の初期の歴史家たちであるバルコ・デ・ラ・センテネラやノレイ・ディアス・デ・グスマンが、川の海賊として描いたように、殆どカヌ-に住んで、彼らが充分に弱いと考えたスペイン船が通るといつも突進するのだった。イエズス会士であるモントヤやドブリゾファは、彼らは裸で、顔に多くの色を塗り、左の耳の軟骨を付き通して鷹やオウムの羽を付け、また彼らは、パラグアイの全ての先住民の中で最も意地の強い人たちである、と語っている。

彼らは、私が約20年前、パラグアイを知ったとき、2~3人がアスンシオンの周りに汚らしく惨めに住み、釣りで時間を過ごしていた。そして、最初の発見者が、彼らを「真水の海賊」とか、「パラグアイ川上の全先住民のうち最も性悪な人々」とか呼んだ時のように、自分たち自身の生活様式に愛着を持っていたのであった。

パヤグア族は、ドン・セバスチャンがあれやこれやの口実で、彼の軍隊を解散せず、彼らをそのままに保持したので、徐々に司教から追随者が離れて行き、彼は殆ど見捨てられた状態に置かれ、他の党派が全て解消するまで、司教の地位を極めて耐えがたいものにしたとして、ドン・セバスチャンを非難した。


司教、チャルカスへ出発する
ゲ-ムが終わったのを見て、司教はドン・アドリアン・コルネオという者を、自分の補佐司教に任命した後、法廷に出頭するべくチャルカスへ出発した。(1650年)

8年の揺れ動いた年月の間、彼は恒常的混乱の中で司教職を保持したが、それは地上の邪悪な守護神であったことを意味した。彼が、実際どんな男であったかは、今日判断し難いことだ。なぜなら、サルケ、ヴィジャロン、シャルルボアとディ-ン・フュネスが彼の行動を記録しているが、彼らは皆、各々の立場の熱心な擁護者である。

イエズス会士たちは、略奪者として彼を責め、フランシスコ会士たちは、彼らの会則の創設者の名誉のために生涯戦った者として彼を支持する。彼を支持するかまたは彼に敵対して、小冊子や本やパンフレットが数多く書かれてきて、パラグアイの歴史の中では彼の名前は大きく見える。ひとつ確かなことは、先住民が彼を愛し、崇敬し最後まで従ったことだ。

チャルカスにおいてさえ、そこで彼は数年間、国王によって供された2千クラウンの年金によって暮らしたのだが、彼の訴訟はローマ、マドリッドへ、そしてペル-に戻り、ローマへと疲弊の道程を辿った一方で、彼が公に現われた時には、先住民は花束で彼を迎えたのだ。


司教の晩年
彼は、聖人であったかも知れない。非常に多くの人が聖人であるし、世間は彼らがそうでないことも知っている。彼は、陰謀家であったかも知れない。しかし、彼は、パラグアイの司教座の内容のない名誉以外に、陰謀によって何かを作り出すことはなかった。確かに彼は、言葉の才能を持った全ての人々のやり方に従って、有能で大衆を引っ張ろうとする説教者ではあった。

彼は、長い人生を通じて、彼と違って神に呪われていると思われる全ての人々を、強情に頑固に嫌っていた。地上の闘う教会の精力的な一員である彼は、少なくとも名士であり、彼の時代の歴史を知ろうとする人々は、彼を必ず考慮に入れなければならず、彼が生涯を一緒に送った人々のやり方に従って、彼の味方になったり敵になったりしなければならなかった。というのは、その人々は彼を崇敬するか、厄介な人によって送られた悪魔とみなしたりしたからである。

チャルカスに到着すると、最初は幾人かの熱心な支持者を得たのだが、すぐに邪悪な時期に陥り、今更のようにパラグアイを振り返って国王に対する請願書を作成して時を過ごした。それから、彼を聖人と考えていた信仰に篤い先住民を除いては、彼の友人たちの全てが一人ずつ、彼から脱落して行った。彼の聖人になるという夢は満たされず、彼の名前がカレンダ-に載ることは決してなかった。

年月が経っても、慣れて穏やかになることも無ければ、希望が彼から完全に去ることも無かった。1665年に、フィリップ4世が同情して彼をサンタクルスの司教にするまで、彼が常に抵抗し、不平を言い続け、奮闘し続けたことが、古い本の中に書かれてある。ローマの法王枢密会議の記録からの文章が伝えるところでは、チャルカスの彼の出身地ラ・パスの司教として、彼は揺れ動いた人生から静かに眠りについた。



〈つづく〉




# by GFauree | 2022-09-12 09:06 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

軽佻浮薄・軽挙妄動

軽佻浮薄・軽挙妄動_a0326062_10362411.jpg




軽佻浮薄
総理大臣として史上最長の在任期間を誇った元首相が銃弾によって殺害されるという事件が起きた。その直接の原因は、被疑者の母親が反社会的な宗教団体によって洗脳され、過大な献金をしたために家庭が破壊されたという背景があったところに、元首相がその宗教団体に宛てて、教祖夫人を公然と礼賛するビデオ・メッセ-ジを贈ったことにあるらしい。

やがて、それは、30年前のアイドル歌手や新体操選手の「合同結婚式」や「霊感商法」で聞いたことがある宗教団体であることが分かった。そんな団体に、最長在位期間を誇った元首相がいわば「親愛と激励のメッセ-ジ」を贈っていたということは、意外だった。しかし、私はその宗教団体がその元首相の祖父岸信介と関係の深い反共団体であることは薄々知っていた。私の実家は渋谷に近く、南平台のドミニコ会の教会に通っていたので、その反共団体の所在地が、その教会の近くの岸信介の私邸の隣だということを父だったかに聞いたことがあるからだ。だから、ここまでは、その宗教団体が存続していることが意外なぐらいで、特に驚くことは無かった。

ところが、その反社会的な宗教団体と国会議員との間に、相互に利益を与え合う関係が築かれてきたことが露呈した。しかも、亡くなった元首相が、その関係を選挙を有利に進めるための手段として利用していたことが他の議員によって明かされた。そうなると、その元首相の史上最長の在任期間もその関係に支えられていた面があったことになる。

私がこの事件の関係者について感じるのは「軽佻浮薄」という言葉である。軽佻浮薄とは、「思慮が足りず、考えや行動が軽はずみで、浮わついているさま」である。

反社会的な宗教団体の被害者に厳しいことを言わねばならないが、人生の問題がお金で解決できるという信者の考え方が最初から間違っているし軽い。そして、そこに付け込む教団と他の信者の狡さ軽薄さは醜悪である。だからと言って、元首相を銃撃してしまう被疑者の姿も、問題が深刻であるにしても、明らかに短絡的だ。

私は、小学校と中学で先生が「宗教は病気みたいなもんだ」と言うのを聞いて、その先生たちを信用できないと思った経験がある。そういう「軽はずみ」な方向に社会が動いてきたということかも知れない。


幇間とピエロたち
今回明らかになったのは、その反社会的な宗教団体に群がった議員たちの醜態である。その宗教団体の集会での彼らの発言は、‘’幇間(たいこもち)のお世辞‘’とか‘’前座のピエロ‘’を思わせ、いちいち書くのも恥ずかしい。その宗教団体に関係するとは知らなかったという言い訳が常套句になっているが、議員であれば、参加するイベントの主催者の内容を調べもしなかったなどということ自体がどうかしているし、恥ずかしいことである。もし本当であれば、議員たちは「盆踊り」に参加するような軽い気持ちで教団のイベントに参加したのだろう。宗教や思想に基く活動・組織に対する緊張感が感じられないのである。ということは、彼らの活動は思想や信条とまるで無関係なものだということである。

宗教団体との関係が指摘されているのは、これらの議員だけではないが、推測通り例の元首相と関係が深い人が大半である。おそらく、かね・選挙協力・票(もっと破廉恥なものとの噂もあるが)の提供を受けるための見返りであったのだろうが、亡くなった元首相から有形・無形の圧力を受け、いつもの忖度を遺憾なく発揮して覚えをめでたくするために、あの恥知らずなパフォ-マンスをして見せたという面があったことも想像できる。


会長が「伝えるべきことを伝えなく」ても平気な人だから
そう言えば、公共放送はこの件の報道を殆どしていない。公共放送の会長が就任したのは、2021年1月だから、誰が彼を会長にしてくれたかは、はっきりしている。どうも、彼が会長になってから、こういう傾向がますます強くなったようだ。彼の人間性については、彼が社長を務めていた企業グル-プの人が教えてくれた。「言うべきことを言わない」と金融庁に決めつけられた情けない企業風土を作った張本人だそうである。それなら、「伝えるべきことを伝えなく」ても平気なはずである。それに、「類は友を呼ぶ」という決まり文句の正しさを証明してくれた。


何年かかるか分からない
当該宗教団体による汚染は、政府・国会にとどまらず、地方議員・自治体首長にまで広がっているが、特に深刻な問題は、国会議員秘書として送り込まれている信者が数十名(一説には、百名以上)いて、議員の活動はこの人たちに握られている可能性がある、ということである。

ということは、仮にこの宗教団体の反社会性が明白になっても、その団体から送り込まれた秘書に活動を握られている議員は、団体の存続にかかわる決定に与することは難しいだろう。仮に、そんなことをすれば、知られてはまずい旧悪をどこまで暴露されるか、分かったものではないからだ。

仮に、政府がこの宗教団体の反社会性を認め解散命令を出したとしても、その宗教団体の影響力は5年や10年で消滅するものではない。宗教というものは、心の中の問題でもあるために一旦浸透すると、その影響を抹消することは容易ではないし、また抹消を確認することは不可能に近いのだ。

問題の反社会的宗教団体同様、既に多くの事件を起こしていたオウム真理教は、サリン事件でやっと犯罪性が明白になって、その翌年の1996年に法人格を失った。それから22年後の2018年に教団幹部13名に死刑が執行されたのだが、現在も名前を変えて存続している。

「名前を変える」と言えば、この宗教団体はなんと、2015年に文科省の認可を受け名称変更をしていたのだ。それも、あの前首相の配下の議員が監督官庁である文科省の大臣である時に。その頃、前首相と文科省大臣が頻繁に面会していた記録は当然あるそうである。

キリスト教について見ると、家康の『全国的禁教令』(1614年)から25年経った1639年、家光の代にやっと全外国人宣教師捕縛・追放にまでこぎ着けた。秀吉の『バテレン追放令』発布(1587年)から、なんと52年後である。秀吉も家康も貿易の旨味を捨て切れなかったために時間がかかった面があったと考えられている。

が、現在は「信教の自由」というものがある。それはそれで結構なことだが、当時より対処は複雑であり手間も時間も余計に掛かるはずである。性急に対処を進めようとすれば、問題が拡大するだけである。どうりで、現首相は、その宗教団体に対処すると言わずに、与党議員が個人でその団体と手を切ると繰り返すばかりのはずである。もう、手の下しようがないのだ。


‘’潜伏‘’と‘’隠れ‘’と‘’信徒発見‘’
仮にやっと‘’解散‘’に漕ぎ着けても、その後に‘’潜伏‘’や‘’隠れ‘’というものがある。250年後ぐらいに、教祖の出身国の誰かが来て‘’信徒発見‘’だと言って喜ぶかもしれない。とにかく、現首相の在任期間中はもちろん、私たち「団塊世代」の存命中に、当該宗教団体の政治への影響力の消滅を確認することは不可能だと考えた方が確かだ。


よくもこれだけのことを
反社会的な宗教団体の侵入・増殖を防ぐには、常に警戒を怠らず、察知した場合には極力迅速に効果的に対応することが必要である。亡くなった元首相は、当然その団体の政界への浸透意思を承知していた。しかし、彼はこれを防止するどころか、逆に自己の勢力維持・拡大に利用してしまったと思われる。

それだけでなく、その宗教団体を守るために警察・公安関係を押さえる動きまであった可能性が示唆されている。他の人であれば熟慮して思い留まったかも知れないことをやってしまう、その軽さ・無責任さは問題となった他の案件に共通する彼の傾向であったようだ。発覚しても虚偽答弁で逃げ切れるというような考え方があったのだろう。


軽挙妄動
軽挙妄動とは、「深く考えず、是非の分別もなく、軽はずみに動くこと」である。

自己の権力の維持・拡大という目先の利益に惑わされ軽挙妄動をして、結果としてどれだけ我が国を侮辱し、かつ損害を与え、汚染してくれたことか。と、ここまで書いてきたら、彼の後継者とその他子分たちが形勢不利と見て、まるで反社会勢力の人々のように、手のひらを返したように謝ったり、言い訳したり、心を入れ替えますなどと一斉に言い始めた。考えてみれば、親分は亡くなってしまい、もうその意向を忖度する必要など無いのだから当然のことだ。

そうなってくると、亡くなった元首相のビデオ・スピ-チは、相変わらず、あの反社会的な宗教団体の教祖夫人への賛美を大真面目で繰り返してしていて何だか悲し気でさえある。改めて見てみると、いつもの得意げな表情と違って心なしか顔色が悪く精気がなく、何か心配事か、やましい気持ちでも抱えていたようにも見える。ふてぶてしい元アメリカ大統領の態度とは対照的だ。とにかく、彼には、言い訳や謝罪の機会はもうないことが本当に気の毒だ。その一方、生き残りに必死な子分たちは、親分のとんでもない業績が露わになり、自分はそれとは関係ないと言いたいがあまりに、競って謝罪と修正を強調するものだから、親分の軽はずみさが益々際立ってしまう。


くれぐれも、解散命令だけは迅速に
後継者は悲劇を盛り上げ、出来れば自分もそれにあやかろうとしたようだ。やろうとしているのは、単なる儀式ではあるけれど、そんなことより解散命令だけは迅速に出す準備を直ちに進めないと、問題は拡大し深刻化するだけである。もし、当該宗教団体に早急に対処できないほど汚染が進んでいるのであれば、日本社会は反社会的な宗教団体の意思によって左右されることになる。


無責任な外国人の意見を聴く必要は無い
この反社会的な宗教団体や元首相の葬儀について、誰に頼まれたのか外国人が発言するようになった。海外に住む者として、彼らの気持ちは分かるような気がする。分かり易く言えば、日本が騒がしくなって欲しくないのである。殆どの何処の国よりも、日本は静かで安心である、ということは多くの人の認めるところである。それは、日本に住む外国人にとって何よりの利点なのである。だから、とにかく、それを崩してほしくない、つまり日本国内は静かであって欲しいのである。

彼らの多くは、宗教について知っているだけに、今回の問題の深刻さは理解している。それだけに、日本の社会が混乱しかねないと心配しているのである。しかし、例えば滞在年数の限られた外交官や駐在員など、日本で生き続けようとの覚悟が必要ない(または覚悟が出来ていない)人であれば、日本にとって重要な問題に日本人が本気で取り組んで社会が混乱することもあり得るよりは、とにかく自分の在任期間が無事に過ぎることを望むのである。

彼らは、自分の立場や都合から自分の意見を言っているだけのことである。彼らはそういう考え方に慣れている。この問題を自分の問題として解決しなければならない日本人が、そういう彼らの(分かり易く言えば自分勝手な)意見を気にする必要はないのだ。


以上


# by GFauree | 2022-09-11 11:50 | Comments(0)