São Miguel das Missões, Rio Grande do Sul - Brazil出展 Wikimedia Commons
イギリス人政治活動家カニンガム・グレアム著「 A Vanished Arcadia」(消えていった或る理想郷)の第1章を読んだ。内容は、後年イエズス会教化村群が現れる以前のアルゼンチン・パラグアイ地域に何が起きていたのか、いわば前史である。
それは、フランシスコ・ザビエル来日(1549年)の約30年前ぐらい(ということは、1520年頃)から、マカオからのポルトガル船がキリシタン大名有馬晴信軍に攻撃され自爆した(1610年)頃までの約90年間に、南米パラグアイ・アルゼンチン辺りで起きていた出来事の歴史である。
1610年に有馬晴信軍の攻撃を受け自爆したポルトガル船については、以下の記事をご参照頂きたい。
ザビエルの渡来以降、カトリック教会内外での政治力を駆使して他の修道会を排除し、独占的に日本のキリシタン教会を主導していたイエズス会は、同時期に地球の裏側の南米のパラグアイ・アルゼンチン地域で画期的な事業を展開しようとしていた。
それは、先住民という本来の「南米人」に対しスペイン帝国によって押し付けられた奴隷制である『エンコミエンダ制』に抗して展開された数少ない活動の一つ、「先住民教化村群の運営」である。
その事業は、18世紀半ばの「イエズス会追放」まで約150年間にわたり継続され発展したが、突如幻の如く消滅してしまった。私は、その事業の推移を見つめることで、逆に日本の「キリシタン時代史」に何かが見えてくるのではないか、と期待しているのである。
まずその前史の内容を要約しようと思ったが、歴史というものは要約などをすると教科書のように味も素っ気も無くなってしまって面白くも何ともなくなってしまうものである。そこで、原則的には要約をしないことにしたら、やたら冗長になってしまった。
そうなると、肝心な私の考えなどは読んで頂けないのではないかと心配になって来た。そこで、歴史の経緯の説明の前に、私の考えを書いてしまうことを思いついた。後述する歴史(前史)の経緯についても、内容をまとめた見出しを付けてみたので、目を通して頂けたらと思う。
【南米教化村群前史を読んでー私の考え】
1.イエズス会士に関する風評について
イエズス会については、18世紀の末以降、フランス革命以上に論争の的となってきたらしい。スペイン及びその海外領土から追放されながら、その理由が明らかにされず、それがかえって更なる憶測を生んで燻り続けたことで、より一層、人々の関心を強く引いたらしい。
しかも、その問題にされ方が特殊なのである。イエズス会士が、他のどの修道会士よりも勤勉に働き、偉大な業績を上げたことは認められながら、一方で人々の憎悪と恐怖による中傷にさらされてきたのは確かなことのようだ。その、イエズス会に対して人々が抱く複雑な印象は、イエズス会を批判する出版物やイエズス会に関して囁かれる決まり文句に表われている。
「すべてはより大いなる神の栄光のために」
これは、創立者イグナティウス・デ・ロヨラの座右の銘であり、会が旗印とした言葉だといわれているが、この「神」を「自己」に置き換えると、「すべては自己の利益のために」ということになる。だから、この言葉は「イエズス会は利己主義者の集団だから気をつけろ」という警句としても囁かれているらしい。しかし、もしそれが本当のことだとしても、「イエズス会も他の人間的組織と変わらない集団だ」というだけのことではある。
「イエズス会士が首をくくれば、それに値する元を取る」
これは、「転んでもただでは起きない」という意味だろう。良く取れば、強い精神力とか根性とかがあるという意味になるのだろうが、強欲だとかがめついとかの悪口の意味もあったのだろう。
「裕福だから迫害された」
教化村群からイエズス会士が追放されたとき、金が埋蔵されているとの噂があり捜索したが全く見つからなかったと言われている。日本でも、マカオからのポルトガル船貿易で儲けたイエズス会士が贅沢三昧な暮らしをしていた、という話がある。このように、イエズス会とお金の話は枚挙にいとまがないのである。
誰かが、イエズス会から資産や収益機会を取り上げるために迫害を誘導したということも考えられる。日本での迫害の狙いは他のことだったと考えられているようだが、案外日本でもイエズス会の利権を狙った人がいたのかも知れない。
ただ、この決まり文句は、単純に「金儲けがうま過ぎたから、迫害されたんだ」という妬み半分の意味で言われてきたようだ。
「他の者は色々手を出すが、イエズス会はひとつにまとまる」
種々毀誉褒貶はあるが、布教・改宗・教育事業などいわば本来業務を遂行する能力は、他の修道会と比較すると確かに群をぬいていたようだ。
2.教化村が開始されるまでの征服者たちについて
きっかけは肉を美味しく食べるため
スペインの遠征隊が南米のアルゼンチン・パラグアイ地域に到達したきっかけは、インドネシアの香料諸島に向けて南米大陸の大西洋側から太平洋への抜け道を探してラプラタ川に迷い込んだことだった。つまり、肉食のための香辛料確保を狙った遠征隊だったわけで、最初の動機そのものに、その時代のヨーロッパ人の強い飢餓感が漂ってくるようである。
「ならず者の集団」だから
だから、遠征隊だ軍隊だと言っても、どうも秩序も組織も未成熟な「ならず者の集団」でしかなかったようである。そのため、司令官にとってさえ兵士に愛されることが自分を守るための唯一の手段であり、紛争を起こした副官を処刑した司令官は一挙に人気を失うなど、下剋上の内紛は日常茶飯事だったらしい。
ヨ-ロッパ人の正義感
部下の兵士の人気取りに汲々とした司令官は、先住民に対しては絶対的優越感を持っていた。文明と有難いキリスト教を与えるのだから、無償で糧食の供与を受けるのは当然と考え、糧食提供を拒んだ先住民に対しては、「ヨーロッパ人の正義感」を遺憾なく発揮して直ちに攻撃の鉄槌を加えたのだ。何と幼稚で自己中心的な人たちだろう。
軍隊としての規律なども無いに等しかったらしく、中には、先住民から受け取るものには対価を支払えという指示を出した司令官もいたが、そんな指示は失脚につながった。だから、ペル-、メキシコを征服したピサロやコルテスも先住民からの物資供与に対価を支払うことなど考えもしなかったらしい。遠征中に部下が先住民女性を船に連れ込むことを禁じた司令官は決定的な打撃を受けた。
以前の記事に、遠征のために国王から受けた支援金を、収益の半額献上という形で早期に返済しなければならなかった故に、先住民に対する搾取・酷使・虐待が激化したのではないか、と書いたが、そもそも遠征隊の費用を自己負担することを条件に遠征隊の司令官・現地の総督になった男がいた。アルバル・ヌニェス・デ・バカである。ヌニェスは、司令官と総督の地位を買ったのである。なるほど、そうすれば遠征隊の結果がどうなろうと、国王の腹は痛まない。国王はさぞかし勝手に自分の臣下とした先住民を思いやるような空虚な発言を繰り返していたのだろう、と想像する。
ヌニェスは、先住民と共に生活するという特異な経験をしていた為か、先住民側に立って考えることのできる唯一の総督だった。先住民から受け取るものには対価を支払えと指示をしたのも、部下が先住民女性を船に連れ込むことを禁じたのも、彼である。それらによって、彼は、自分の立場を決定的に不利にした。
フランシスコ会士は
ヌニェスは、また反乱を起こした先住民を焼き討ちしてさらに復讐しようとするフランシスコ会士2人の熱情を抑えようとして、アメリカ中のフランシスコ会士を敵に回してしまった。
その頃、ペル-からパラグアイまで旅をして、南アメリカ初の聖人となったフランシスコ会士がいる。フランシスコ・ソラノである。世界史上最も難しいとされる先住民の言語を(たちまちのうちに)習得し、キリスト教の複雑な教義を説明して数十万人の先住民を改宗させたという彼の逸話は、もちろんいつもの与太(でたらめ)話であろう。
結局、アルバル・ヌニェスは先住民の反乱と部下の兵士や国王の送った役人たちやフランシスコ会士たちの敵意に囲まれ失脚した。彼が失脚した1545年ごろから、イエズス会士が教化村群の建設を開始した17世紀初頭までの50年間に本来の南米人である先住民側に立った司令官・総督は一人もいない。
自分のアイデンティティーを掴みにくい社会
私は70歳を過ぎてから、やっと自分の親の人生を冷静に考えられるようになった。そして、もっと若い頃から、親の人生について知るべきだった、と思うようにもなった。それは、親だけにとどまらない。祖父母についても、また出来れば、その何代か前の祖先についても、知っておくべきだったと思うのである。何故なら、自分の人格形成に親と何代か前の祖先の人生が当然影響を与えていることに遅まきながら気が付いたからだ。
ある時、この国の友人にその話をした。すると、その友人はやや感情的になって答えた。この国では、親までならともかく、祖父母以前の祖先については、大部分の人が知りたがらない。それは、どんな不都合な過去が露わになるか心配だからだ。
それに、自分の祖先がこの国に来たのは、この国の独立後であったと大半の人が思いたがる。何故なら、スペイン人の渡来後の植民地時代に来た人々の質に疑問があることは定評だからだ。
それを聞いて、私は唖然とした。私だって、自分の親や祖先の人生がそんなに立派なものだったとは思っていない。しかし、自分の人生に影響を与えているはずの親や祖先の人生が、私が知りたくないほど悪質なものだったとは思っていないのである。そして、大多数の人が、自分の祖先の人生を知りたくないと思うような社会では、落ち着いて自分にふさわしい人生を考えることなど出来ないのではないかとも思う。
それは、「自分は何処から来て、何処へ行くべき存在なのか」という問いにも関係している。さらに、何かによって、自分の人生を強く認め肯定する必要も出てくるのではないか、そこにキリスト教が関係しているのではないか、とも思う。
【南米教化村群前史】
1.イエズス会に関する風評
「フランス革命に匹敵するほどの論争の種」
フランス革命は例外として、スペイン・ポルトガル及びその植民地領土からのイエズス会の追放ほど、18世紀の末に広範な論争を引き起こした出来事はおそらく無かったのではないか。少なくともスペインでは、イエズス会士達に対し、明確な告発は未だになされておらず、国王カルロス3世はその理由を隠し保留し、その証拠を特別扱いし続けており、ラテン・アメリカにおけるスペイン領土からの彼らの追放の真の理由についての好奇心は、ある程度までしか満足されていない。
前世紀(18世紀)半ばから比較的最近の時期までのイエズス会に関し、普通の人が持った感覚を今日理解することは殆ど不可能である。イエズス会によってなされた真に偉大な業績の全ては忘れ去られたようであり、彼らに対する偏見に基いて捏造されることが可能なあらゆる下品な作り話が様々な場で了解されようと待ち構えていた。見境のない悪口といわれのない憎悪が恐怖と混ぜ合わされ、全ての人の心を占めた。
日本からボリビア奥地まで、イエズス会士が勤勉に働かなかった国は殆どない。それらの国で、彼らは報酬を望むこともなく存分に血を流した。ヨーロッパにおいて、殆どすべての言語で、彼らの努力を皮肉っぽく中傷することで逆なでするような出版物のリストを数え上げるためには、多くの時間と長々とした一覧表を要したことだろう。
「全ては自己の利益のために」
これらの中で、おそらく最も有名なのは、元イエズス会士メルショ-ル・インショファ-神父による『利己主義者の君主制』であろう。彼はイエズス会を最悪の言葉で描いた。それは、主に1615年から1648年当時の教皇クレメンス8世、フランシスコ・スワレス、クラウディオ・アクアヴィヴァなどの著名な人々が、簡単に特定できるような仮名で隠して描かれて面白い読み物になっている。
筆者の意図は、題名が示しているように、「イエズス会士達が全てを自己の利益に変えることに尽力したこと」を示すことである。この点、もしそうなら、彼らは世俗のものであろうと、聖職であろうと全ての他の人間の組織体と大きく異なることはないことになる。
「転んでもただでは起きない」
スペインの有名な格言に、「イエズス会士が首をくくれば、それに値する元を取る」とある。その意味は、「イエズス会士は首をくくる時でさえ、そこから何か得になることを手に入れようとする」である。それは、イエズス会士と同様に、他の学究的な職業に就く人たちに言えることだが。
「裕福だから迫害された」
世間は貧困によって人目を引く人を迫害するることは殆どなかったし、もし迫害しても永い間そうすることは滅多になかった。スペインの異端審問は、富裕なユダヤ人や裕福なイスラム教徒に対して過酷であったが、貧しいジプシ-に関心を持つことは無かった。しかし、同時に「ジプシ-の身体のように哀れだ」という言い方が、スペインでは、昔も今も一般的にされてきたのだ。(つまり、ジプシ-は貧しい故に同情されるべき存在の象徴だったのだ。)
テンプル騎士団の場合のように、彼らを迫害する価値があるようになったときに、イエズス会に対する迫害は始まっただけのことである。イグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルやディエゴ・ライネスは説教したり教えたりだけをしている限りは、充分に安全だったのだ。
神学論争の歴史は、血なま臭く人間性というものに不信を起こさせるような出来事に事欠かないが、実はカルヴァンやトルケマダのような謂わば「純粋な迫害者」は数少ないのだ。一般には、迫害者というものは凶暴で狭量な悪意と自分が真実と考えることに熱中しているために無慈悲であったと思われがちだが、実は迫害に金銭目当ての動機があったことは、もっと考慮されるべきなのだ。
「隔離政策」
全ての先住民部族は、もしヨーロッパ人と接触するようになれば、早晩消える運命にあったことは、経験的に確かなことだ。これに対し、イエズス会は教化村の先住民をスペイン人植民者から隔離することを方針に掲げた。そして、その隔離が機能するか否かについては、明確な根拠が無かった。
さらに、彼らが「隔離政策」を実践しようとした故に、(組織の実態が隠され)彼らの規則や資産に関して広がっていた無茶な中傷が信じられてしまった、という面も否定できない。彼らと当局の間、つまり聖俗の間に起きた最初の衝突はこの「隔離政策」によるものであった。
「他の者は色々と手を出すが、イエズス会はひとつにまとまる」
17世紀におけるラテン・アメリカでは、イエズス会は(他の修道会より)比較的高く評価されており、それは当時流行っていたこの格言に示されている。この格言の意味は、「他の修道会は出来ることは何でも手に入れようとするが、イエズス会は、唯一の目的(先住民の改宗)に結集する。」である。
ラテン・アメリカとくにパラグアイ及びボリビアにおけるイエズス会の立場を明確に理解するためには、ラプラタ川征服初期の歴史を簡単に一瞥することが必要である。
2.ラプラタ川征服初期の歴史の底に流れるもの
ラテン・アメリカの発見は、ヨーロッパにとってそして特にスペインにとって、それ以前の時期にも、それ以降の時期にも比類を観ないような、国土の拡大と個人の進出の機会をこじ開けることを意味した。
レコンキスタによってイスラム勢力を排除した直後だった
小国の集団であったものが、自己の土壌の上で強大な敵(イスラム勢力)に対し生存をかけて闘い、ほんの数年の間に、スペインは世界最大の帝国となった。その結果、冒険の精神と富裕への欲望を全ての階級が持つことになった。
支えとなった残忍で無責任な異教撲滅の考え方
これに加えて、征服の最初の数年間の中に、アメリカにいたスペイン人たちは皆、ある程度は征服者のみならず宣教師として自分自身を考えるようになったらしい。(世俗権力と教会の一体化)今や、宣教師と征服者は、概して殆どの如何なる階級の人間よりも、自らの重要性と神聖さをより多く吹き込まれた。しかし、それと同時に、こんなことをすれば、どのような結果がもたらされるかは、殆ど考えもしない人間になっていったのだ。
この二つが一つに結合したことによって、アメリカの征服者たちは、自分たちが如何に先住民を残酷・非道に扱おうと、真の信仰を知ればそれによって祝福され、その祝福によって全ての償いがなされることになると想像する傾向を持つことになったのである。
真の教えを伝えるのだから何をしても良い
もし人が世界について説いている多くの信仰の中で、どれが真の信仰であるかを正確に決めることが出来るならば、真の信仰を持つ人はそれを広めるために適正に行動している、ということになる。
アメリカを征服するためにスペインを発った様々な軍隊の中の最も平凡な兵隊であれば、そのことに全く疑いを持たなかっただろう。そういう兵隊であった男が書いた本のひとつに、次の一節がある。
「しかし、銘記されるべきことは、彼ら先住民を発見し、彼らを征服したのは、『神の後に』我々であり、それ故に我々が真の征服者だいうことだ。そして、我々は彼らの偶像を取り上げ、我らの神聖な教義を教えた。だから、その全てについての報酬と名声は、他のあらゆる人々(例えそれが教会人であろうと)に先んじて、我々に払われるべきなのだ。なぜなら、最初が良かったので中間も終わりも良くなったからである。私は最初に手を下し、事態をそのままに残すだろう。そして、『神の後に』我らの組織によってメキシコの先住民にもたらされる恩恵を告げるだろう。」
神の意思で征服した後には、自分の財産作りを
「神の後に」という決まり文句は、殆ど全てのアメリカの征服者の記述に繰り返し現れるものだ。そして、「神の後に」(神の意思に従って)アメリカを征服した征服者の最初の行動は、自分の財産作りに取り掛かることだった。メキシコやペル-のように、金や銀を産出する国では、彼らは先住民の労働によって鉱山を稼働させたが、その苦痛や虐待によって先住民の数は激減し、先住民は絶滅の危機に追いやられた。パラグアイには鉱山は無かったが、先住民から金を巻き上げる方法は他にもあった。
3.征服者の群像
・フェルディナンド・マゼラン
香辛料への渇望はここでも強い動機となった
現在のインドネシアに位置する香料諸島を目指したフェルディナンド・マゼランがスペイン帝国の艦隊を率いて大西洋を南下し、南米大陸の南端を太平洋側に抜ける海峡を発見しマゼラン海峡と名付けたのは、1520年のことである。
マゼランは翌年、フィリピン諸島に到達し先住民との戦闘で死亡したが、艦隊を引き継いだ部下が1522年にスペインに戻り史上初の世界周航が達成されたから、マゼランの名は世界に知れ渡った。
・フアン・デ・ソリス
大西洋から南米大陸の南端を回って太平洋上の香料諸島を目指すという遠大なマゼランの航海の目的は肉食に欠かせない香辛料の原産地を確保することだった。肉の腐敗を抑えて、より美味しく食べたいというヨーロッパ人の欲求は止まるところを知らなかったということだ。だから、大西洋から南米大陸の南端を回るという気の遠くなるような経路を辿って香料諸島を目指そうとした探検者はマゼランだけではなかった。
ラプラタ川河口は、大洋と間違えるほど広かったので
マゼランの死の5年前(1516年)、同じくポルトガル生まれのフアン・デ・ソリスはブラジル沖を南下してきて広大な水路に入り、それが太平洋への出口であることを期待したが、それは大きな川の河口であることが直に分かった。そのくらい幅の広い川だったのである。それでも、ソリスは川を逆のぼり続けマルティン・ガルシア島で上陸し先住民チャナ族に殺され、彼の遠征隊は故国へ帰った。やがて、その川は、上流に大量の銀があるとの噂からラプラタ(La Plata:銀)川と名付けられた。
・セバスチャン・カボット
マゼランの死の5年後(1526年)、ヴェネツィア生まれのセバスチャン・カボットは、3隻の小さな船とカラベル船で、マゼラン同様、モルッカまたは香料諸島に到着することを目的にスペインを発った。
カボットもラプラタ川を太平洋だと思った
航海の途上、糧食の不足によってルートを諦めねばならなくなり、広大な水路に入った彼の艦隊は、太平洋への他の経路を発見したとの印象を抱きながら、それを逆のぼった。そして、直に誤りに気付いた彼は、周囲の地域を探検し始める。確かに彼はカラカラ川の流域までには到達しているが、それは現在のサンタ・フェ地方である。
居留地エスピリトゥサントの建設とペル-・ボリビア鉱山の情報
彼はそこに、エスピリトゥサントと名付ける居留地を建設した。南米のその地域で初めてのスペイン人入植地である。エスピリトゥサントから数多の探検隊がその地域を捜索するために送られた。その中の一隊、セサルという名の兵士の指揮下の者が戻らなかった。数年後、その一人が戻り、「冒険者たちが、大西洋沿岸からペル-の鉱山へのルートを探している。」と語った。
カボットは、現在のアスンシオンを過ぎて川を逆のぼり、北から来た先住民に出会い、ペル-とボリビアにある鉱山について聞いたが、実は彼はその鉱山について既に知っていたのだ。4年後、カボットはスペインに帰った。そして、ペル-の鉱山から流れ込む富を狙いに銀の川を目指す他の遠征隊がスペインから出発することになる。
・ドン・ペドロ・デ・メンド-サ
その「銀の川」を目指した遠征隊の司令官がドン・ペドロ・デ・メンド-サである。
ドン・ペドロはイタリア戦争に従軍した勇敢な人格者だったようだが、思慮分別に欠け植民地創設に必要な機転にも欠けていた。
副官オソリオの処刑で人気は一挙に地に落ちた
1534年に遠征隊は出発したが、殆ど最初から不運だった。ドン・ペドロと彼の副官フアン・デ・オソリオとの間に紛争が起きた。オソリオに対して行われた軍法会議において、オソリオに対する即時処刑の命令が下った。この殺害または処刑によって、ドン・ペドロは全艦隊からの人気を一挙に失った。兵士に愛されるということは、その頃のスペインの将官にとって、自分を守るための唯一の有効な手段だった筈である。
空気がきれいなだけの居留地ブエノス・アイレスの創設
1535年、遠征隊はラプラタ川に入った。ここで、メンド-サはいつもの判断力の不足から、居留地を設ける地点として、現在のブエノス・アイレスの位置を選んだ。町を設ける場所として、これ以上不都合な所を選ぶことは難しかっただろう。
ブエノス・アイレスの海抜は、ラプラタ川の水深とほぼ同じだった。それは、非常に浅く、大型船は16~24㎞より近くには接近することができなかった。港がなく、船を繋いでおく投錨地は、パムペロスの名で知られている南西の強風の目一杯の猛威にさらされた。
しかし、場所は悪くても空気は良かった。少なくとも、そのようだ。なぜなら、遠征隊の司令官は上陸に当たって叫んでいるのだから。「何ときれいな空気だろうか」( ¡Que buenos aires! )そして、その名前がついた。
新しく生まれたこの居留地に、あらゆる種類の災難が到来した。
糧食をただで供出しない先住民は殲滅して良いという「ヨーロッパの正義」
パンパ(大平原)の先住民について記録者はグアラニ族と言う名前で知っていたようだが、彼らは最初は友好的だった。ほんのしばらく後、彼らは糧食を持って来るのをやめてしまった。そこで、司令官ドン・ペドロ・デ・メンド-サは、先住民に対し弟ドン・ディエゴ・デ・メンド-サを遠征隊とともに派遣した。
ドン・ペドロ・メンド-サには、考えもつかなかったことのようだが、もし先住民の首長がスペインに上陸したなら、対価の支払いを受けることなしに、一日たりとも彼に糧食を届ける者など一人もいないだろうということを。
しかし、ドン・ペドロは「文明とキリスト教」をもたらすためにアメリカに来た。そして、それ故、他の征服者と同様に、先住民がそれ以上の物資の供給を拒絶すれば、その1~2日後には、彼自身の道徳的価値観により憤慨することが正当であると信じて疑わなかったのである。スペイン人と先住民の間に戦闘が行われ、派遣されたドン・ディエゴ・デ・メンド-サは数人の者と共に殺された。
この「ヨーロッパの正義」の前触れの後に、先住民が新たに建設された街を包囲し、そこに大いなる苦境がもたらされた。そのため、3人の男が馬を盗んだ廉で絞首刑にされた後で、朝のうちに切り刻まれ食われたのが見つかった、と言われている。
・フアン・デ・アヨラス
この絶望的な状況の中、ドン・ペドロは糧食を手に入れるために、次にフアン・デ・アヨラスを送り出した。ドン・ペドロは、ティムブ族からいくらかのトウモロコシを得て、コルプス・クリスティと呼ばれる小さな居留地に100名ばかりの部下を残し、カボットが建設した居留地エスピリトゥ・サントを閉鎖した。彼は、そこから500人の男たちを取り戻したが、彼らは全て彼がカディスから一緒に渡航してきた2,630人のうち残った者だったのだ。馬は平原に放置した。その馬の子孫は、今日でも、この国の大放牧場に飼われている。
フアン・デ・アヨラスは、コルプス・クリスティから河川を探検し、ペル-の鉱山に至る永らく捜し求められてきた水路を発見するべく送られた。しかし、結局彼はペル-へは到達せず、コルプス・クリスティへも戻っては来なかった。
ドン・ペドロ・デ・メンド-サに審判が下って
メンド-サは一年待った。それから、スペインへ帰った。彼は1年分の糧食と共に守備隊を残した。その糧食は一日一人当たり僅か1ポンドのパンだった。そして、もし残された者たちが、それ以上望むのであれば、自分で入手しなければならなかった。故郷への帰途、彼は狂気となって死んだ。信心深い人の意見では、それは、フアン・デ・オソリオ殺害について、彼に下った審判だということである。
・ドミンゴ・マルティネス・デ・イララ
アヨラスを捜して
ドン・ペドロは、乗船する前にコルプス・クリスティに居たゴンサロ・デ・メンド-サに連絡し、スペインから糧食と補充兵を送るよう要請した。ゴンサロは、ブラジルで糧食を入手し。コルプス・クルスティへ戻り、そこからサラサ-ル・エスピノサと共に、フアン・デ・アヨラスを捜索して川を逆のぼる遠征隊を率いて行った。
フアン・デ・アヨラスはドン・ペドロの後継に指名された人物である。彼らと共にドミンゴ・マルティネス・デ・イララが行った。彼はパラグアイの征服で重大な役割を占めることになる男である。
遠征隊は、パラグアイをフォート・オリンピオの近くまで逆のぼった。それは、アスンシオンの上流約500kmの地点である。ここで、彼らはアヨラスを捜して全ての方向に探検隊を送り出したが、成功しなかった。
アスンシオンの創設
イララはフォート・オリンピオに100人近くの男たちと共に残った。ゴンサロ・デ・メンド-サは帰途、町として適したその場所のながめに心惹かれて上陸し、1537年8月15日に、アスンシオンを創設した。
グアラニ族との遭遇
ここで、スペイン人は初めてグアラニ族に会った。彼らは数年後、イエズス会による改宗者となり、またイエズス会によって彼らの有名な教化村に組み込まれる運命にあったのだ。
彼らは、また、チキ-トス地方に2~3の町を持っており、チリグアナスの部族は彼らから分派したものである。ブラジルでは、彼らは奴隷とされるか、あるいはアフリカ系黒人と混血してしまったので、純粋の種族は殆ど完全に失われてしまった。ただ、言語は Lingoa Geral の名のもとに残り、そこから capim や capira のような多くの言葉が、ブラジル人によって話されるポルトガル語に導入された。
・サン・フランシスコ・ソラノ(フランシスコ会士)
パラグアイは、後にかなり完全にイエズス会国家になることになるが、彼らはそこへ始めて行った修道会ではなかった。殆ど全てのアメリカの場合に、最初の征服者たちを伴った教会人はフランシスコ会士である。
イエズス会は彼らの修道会が創設された10年後に、ブラジルのバイアへ二人の神父を送ったと言われている。しかし、ブラジル、パラグアアイのどちらにもフランシスコ会士は既に居たのだ。
最初のアメリカの聖人
サン・フランシスコ・ソラノは宣教師として非常に注目された教会人だが、1588年から89年にかけてペル-からパラグアイまでチャコを通る著名な旅をしたフランシスコ会士である。それ故、フランシスコ会は彼らの中に最初のアメリカの聖人が居たことの名誉を有しているのである。ただし、彼についてあまり芳しくない評価をしたらしい上司によって、パラグアイから呼び戻されたことは、注目すべきではあるが。
最高級難度の言語を直ぐに習得してを説教した?
ソラノが、彼自身について語っているところによれば、チャコを通過する際にいくつかの部族の言語を学び、彼ら自身の言葉で、生・死・キリストの変容・三位一体の神秘・全室変化・キリストの贖罪について彼らに説教し、教会の象徴・聖ペトロ以降の教皇の継承を説明した。そして、数千、数万、数十万人もの先住民に教義を教え、彼らは涙と痛悔の中に信心を得ることとなった。もちろん、今日これらの申し立てに論駁することは、たとえしたくても不可能である。(なにしろ元々明確な根拠の無い話だから。)
ただし、チャコ先住民が話した言葉は、人類によって話された言葉の中で、習得するのが最も難しいものなので、ドブリゾファ-神父は「Abiponesの歴史」の中に、チャコ先住民が生み出す音は人間のものとは全く似ておらず、くしゃみをしたり、どもったり、せきをしているようなのだ、と書いている。
・ルイス・デ・ガラン
ゴンサロ・デ・メンド-サと共に、フアン・デ・アヨラスを捜索して川を逆上ったサラサ-ル・デ・エスピノサは、コルプス・クリスティに戻り、更にブエノス・アイレスに戻ったが、そこに小さな部隊が残っていた。この部隊は、ケランディス族などパンパの先住民との絶え間ない闘いに疲れ、アスンシオンに向けて船出する。
イララはガランに捕らえられたが釈放されてフォート・オリンピオに戻り、先住民と闘う
イララは、フォート・オリンピオで数カ月待った後、アスンシオンに戻り、そこでルイス・デ・ガランが司令官として活動しているのを発見する。彼らの間に直ぐに紛争が始まり、イララは収監された後、フォート・オリンピオに戻ることを許される。そこで、彼はパヤグア族が反乱を起こしているのを見た、そして継続する闘いの中で、彼自身の手で、彼らのうちの7人を殺したと報告されている。彼は、さらにフアン・デ・アヨラスに対する捜索を続けたが成功はしなかった。
ガランはブエノス・アイレスに戻り、コルプス・クリスティでティムブ族を虐殺する
ガランはブエノス・アイレスに戻った。さらにコルプス・クリスティに留まり、その機会を利用して、友好的で疑うことを知らない先住民ティムブ族を襲撃し、彼らの多数を虐殺した。何故そんなことをしたのかは、極めて不可解である。というのは、ティムブ族はコルプス・クリスティ駐屯地に常に糧食を供給していたからである。糧食の質が悪かったことが考えられるが、記録者たちもその点について報告はしていない。
ガランは、「勝利」の後で、コルプス・クリスティに100人の兵士と共にアントニオ・デ・メンド-サを残し、ブエノス・アイレスに渡航した。ある日。部隊の約半数が狩りをしているときに、先住民が襲撃し、一人残らず殺戮した。もし、2隻の船の幸運な到着がなければ、駐屯地は破壊されていただろう。しかし、多くのスペイン人は殺され、アントニオ・デ・メンド-サはその一人となった。
ブエノス・アイレスからの完全撤退
ガランとエスピノサが、ブエノス・アイレスに残存する居住者を引き連れてアスンシオンに戻って来た。アスンシオンには、イララがアヨラスを発見することなく再び戻っていた。イララは、アヨラスが戻って来ない場合に備えた許可状の中の条項に基き司令官に選ばれた。彼の最初の行動は、ブエノス・アイレスからの完全撤退を命令することだった。
・再び、ドミンゴ・マルティネス・デ・イララ
イララのアスンシオン創設
非常に興味深いことは、数多の遠征の残留者たちが、成り行きで合流して、ラプラタ川の地域の最初の恒久的都市をアスンシオンに創設したことだ。ブエノス・アイレスにではなく、1000マイル(東京から沖縄ぐらいの距離)離れた内陸で、彼らの試みがとても成功しそうもなかった所にである。
アスンシオンを構成する異質の要素を統括するために、ドミンゴ・マルティネス・デ・イララが選ばれた。彼はビスカヤ人であり、ローマ人もムーア人も制服することが出来なかった古い部族の一員であった。彼の祖先については、何も知られていない。彼が、バスク地方に沢山いた数えきれないほど多くの小豪士の息子だった可能性がないとは、言えない。小さな町の殆ど全ての家は、今日でもドアに盾の紋章を付けている。全ての住民は貴族であると主張し、カルロス5世の時代には、ヨーロッパとアメリカで評判になった兵士を多数輩出した。
イララの「懐柔」政策とは
イララの統率は、先住民を征服するというより懐柔する為のものであった。スペインからの航海の長さによって、あらゆる種類の救援から隔離され、反乱時に支援を受けることは全く期待できなかったから、「懐柔」というのは自分たちの身を守るために彼が頼ることのできる唯一の手立てであった。全くの最初から、彼は兵士たちに、土地の女性と結婚することを勧め、それによって、彼らを土地に縛り付ける絆を作ろうとしたのだ。
パラグアイの人種の混合という特殊な社会事情
アスンシオンの創設時、スペイン人女性はパラグアイへは誰も行かなかったようだ。そのため、アメリカにおけるスペイン領土、例えばチリやメキシコとは、異なる社会事情がそこに発生した。チリでもメキシコでも、先住民女性と結婚したスペイン人は殆どいなかったのだ。
チリやメキシコで先住民女性と結婚したのは、まず最上階級の一員である。稀にではあるが、政治的動機から地位のある先住民女性と結婚する者までいた。また、最下級のスペイン人の中にも、先住民女性と結婚する者がいたが、その場合、一世代後には、彼らの子供は殆ど先住民になった。
ところが、パラグアイでは、全く逆で、先住民の母とスペイン人の父の孫も次の世代も殆どスペイン人と考えられた。実際に、1861年から1868年の時期には、上流階級に残存していた少数のパラグアイ人は殆ど全てイララの部下と先住民とが結婚した者の子孫であった。
しかし、その後の圧政やブラジルやアルゼンチンとの悲惨な戦争の結果、白人の家柄への密やかな自負を持った古い血統のパラグアイ人は、殆ど根絶されてしまったと言われている。
また、人種の混合については、次のようなことが言われている。
彼らは、一般に、偉大な精神を持つ勇敢な良き兵士であり、武器特にマスケット銃使用の専門家であった。
女性たちは、一般に貞節で美しく穏やかな気質の持ち主である。ただ、女性の貞節については、貞節というものが、多くの場合、「しきたり」の問題なので、そのような問題には言及しないほうが賢明であろう。
・アルバル・ヌニエス・カベサ・デ・バカ
イララが、パラグアイのグアラニ族を懐柔している間、スペイン王カルロス5世はブエノス・アイレスという新たな入植地を完全撤退という形で放棄したことを忘れていなかった。多くの調査の後、カルロスはアルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカを新たな司令官にするべく選んだ。
アルバル・ヌニェスがおそらくは新世界の全てのスペイン人征服者のうちで最も注目すべき存在であり、先住民に関する彼の政策が殆ど後のイエズス会の政策になったことを考えると、彼の経歴のうちいくつかの事実を挙げておいても、見当違いにはならないだろう。
ヌニェスの特異な経験
1529年、彼は、パンフィロ・デ・ナルヴァエスの不運な遠征隊と共に航海し、難破し、ボートでスペイン居留地に戻ろうとしたその時、嵐によって完全に着の身着のままで投げ出され、たった3名の同僚と共に名も知らぬ島に上陸した。先住民に捕らえられ、奴隷にされ、行商人にまた医者になり、遂には酋長となって不思議な力により祭祀を行った。
最後は、ヌエバ・エスパーニャの領地に捕虜としてではなく、数百人の先住民の指導者として徒歩で辿り着いた。その先住民は、まるで彼が彼らの首長として生まれたかのように、彼を慕い彼の命令に従っていたのだ。4カ月の間、漫遊し、しかし常に先住民を引き連れていた。彼はついにスペインの騎兵に出会うが、その騎兵は彼に近寄って声を掛け、彼が、先住民と共に10年間生活している間に、殆どスペイン語を忘れていることに気が付いた。スペイン語を徐々に思い出し始めた頃、彼が最初にスペイン人に懇願したことは、彼に従っている先住民を困らせることが無いように、ということであった。
先住民の処遇改善と遊牧民の農耕生活への転換は実現したか
それに加えて、彼は、先住民自身に、遊牧生活をやめて土壌を耕すことを勧めた。しかし、どちらについても彼は成功しなかった。というのは、スペイン人は他の全てのヨーロッパ人と同様、先住民を犬から少しでも引き離しておこう、などとはしなかったのである。そして、先住民の方も、現在でもわずかに残っている人々でさえ、新世界発見の頃と同じぐらいに、古い遊牧生活に愛着をもっているからだ。
費用自己負担の遠征隊司令官
10年間の捕虜生活に満足せず、故郷に戻った3年後、ドン・ペドロ・デ・メンド-サ(メンド-サは、ブエノス・アイレスで、物資不足と先住民によって厳しく圧迫されていた)を支援する遠征隊と(自己負担で)航海するべく、或る取り極めを国王と交わした。「8,000ドゥカドと馬、武器、兵士、糧食を彼が供出し、その見返りに、彼がリオ・デ・ラ・プラタの総督と軍隊及び艦隊の司令官になる」という取り極めである。
1537年11月2日、彼は艦隊と共に出港したが、その艦隊はカラベル船と2隻のフル装備の船から成っていた。そして、非常に危険な航海の後フリオ岬を超えた所で、小さな港に着いた。そこに、総督は上陸し彼の旗を掲げ、国王陛下の領土とした。遠征隊は、ブラジルのサンタ・カタリナで下船した。
先住民虐待を抑えようとして、全アメリカの修道士と司祭を敵に回す
憎悪を掻き立てるための悪評・汚名は直ぐに総督にとって重い負担となった。二人のフランシスコ会士が、かなりの先住民の家を焼き討ちした。先住民が二人のキリスト教徒を殺したことにに対し、野蛮な方法で復讐したのだ。人々が憤慨しているので、総督は修道司祭たちを呼び出して警告し、彼らに熱情を抑えるよう命令した。これは、かれが行った最初の間違った対処だった。それによって、アメリカ中の全ての修道士と司祭を敵に回してしまった。
サンタ・カタリナでブエノス・アイレスが殆ど放棄されたと聞き、また入植者たちがパラグアイにアスンシオンの町を創設したと聞いて、アルバル・ヌニェスは陸伝いに対岸に進軍して、パラグアイ川を逆のぼることを決めた。
二人のフランシスコ会士には、残って先住民を教化することを命じたが、彼らはこれを拒否し、アスンシオンでスペイン人の中に居住することを望んだ。もしイエズス会士だったら、十中八九彼らは残ったであろう。なぜなら、全ての修道会中で、イエズス会士だけは進んで全てのリスクを取ったからである。
先住民から受取る物には対価を払えという指示が失脚につながる
進軍に当たり、総督は、全ての良き政策や前例に反して先住民に対して当然なされるべき支払いをすることなく、何も取ってはならないと、命じた。これを確かなものとするために、彼自身が全ての糧食の代金を支払い、それを軍隊に分配した。これが、二人のフランシスコ会士に対する処遇が修道会士の間で彼を不人気にしたと同じ程度に、兵士の間で彼を不人気にした。
先住民は、ピサロやコルテスやアルマグロやその他の征服者たちが、何の代金も支払おうとはしない男たちであったことを、きっと知っていたのだろう。彼らは、総督のやり方に感謝したようだ。というのは、総督が彼らに与えた良き処遇の知らせが広がると、彼らは花で飾られた非常に豊かな糧食を軍隊に届けたと語られているからだ。総督は最後まで自分の振る舞いにこだわっていたのだろう。そして、そのことが彼自身を失脚させることとなった。
1541年11月2日に沿岸からアスンシオンに向けて出発し、1542年3月2日に到着した。そこに至るために、2,000マイル(3,200km、東京からマニラまでより遠い距離)の行軍を成し遂げていた。しかも、その間一人たりとも兵士を失うこともなく、一人の先住民を殺すこともなかった。しかし、アスンシオンに着いた時、彼は全ての側から反目されていることに気付かない訳にはいかなかった。
先住民の反乱と部下役人の敵視に囲まれて
先住民は、完全に反乱の状態にあり、ブエノス・アイレスの入植地は殆ど廃墟となっていた。そして、王室税を取り立てるべく国王によって指名された役人たちは、一人残らず全て彼を敵視していた。
先住民攻撃は教区司祭の了解の下行われ、遠征隊に教区司祭が同行した
「新たに創設した街を襲撃したグアイクル族を攻撃することが合法的である」と教区司祭が考えているか否かを知るために、彼らに相談してみると、「それは、合法的であるのみならず、的確でさえある」との見解を彼は得た。それ故、彼はグアイクル族に対する遠征隊を送り出したが、その遠征隊には、グアイクル族がキリスト教徒となってスペイン国王を認めることを要求するべく教区司祭が含まれていた。
キリスト教の教義を知り改宗することは、先住民にとっては無理なことのようであった。というのは、大いにあり得ることだが、先住民はキリスト教が与える利益を知らず、そのうえ、スペイン国王について聞くのは、おそらくそれが初めてのことだったからである。
総督は、教区司祭の人間性に疑問を持っていたのだろう。他の会議を開催して、前述の見解を確認させた。実は、非常に興味深いことに、教区司祭の反応は彼にとってとても意外なことだった。なぜなら、彼は教区司祭は遠征隊に同行すれば、彼ら自身戦わざるを得なくなるだろうと考え、まさか教区司祭が戦うことを了解するとは思っていなかったのだ。そもそも地球上でかつて流された最初の血が宗教の違いによるものだったことなどは、彼にとって当然過ぎて思い出しもしなかったのだろう。
2人のフランシスコ会士と35名の「黒い洗礼志願者」
遠征隊が出発する直前、サンタ・カタリナから彼と一緒に来た2人のフランシスコ会士が行方不明となっていることが判明した。彼らは、全員で35名の先住民女性の一団を引き連れて、沿岸方面に引き返していたことが、そのとき明らかになった。彼らは、追われ、連れ戻され、そして「総督を訴えるために、スペインへ行く途中であった」と説明した。35名の「黒い洗礼志願者」については、説明のないままとなり、人々は今一度あきれた。
チャコ平原とパラグアイ川遠征の風景
総督は、それからグアイクル族に向かって出発した。チャコ平原とパラグアイ川の西岸を知っている者だけが、その遠征隊がどんなものであったに違いないかについて、僅かなりとも考えを持つことができる。今日でさえ、チャコ平原では、世界の始まり以来の変化はほんの僅かしか無いのである。
汽船が岸に沿って進むにつれて、何マイルも沼地以外は何も見えない。水のよどみと交差する沼地である。そこには、ワニや電気ウナギやトゲのあるエイなどが横たわっている。目の届く限り、遥かに沼地、沼地、そしてさらに沼地であり、平原の波打つ草のうねりである。住民は、総督自身が最初に彼らに会った時と同様、殆ど残忍で手に負えない。天候は曇って湿っぽく、空気はうすら寒く、ブラジル・サシガメや蚊やブヨと呼ばれる小さく黒く悪魔のような小虫がいる。
道も通りも目印もなく、ただ、そこには何リ-グ(4.8㎞)もの間隔ごとに、森の中の開拓地があり、そこにいくつかの散在する入植地が存在し、非常に稀に、廃墟となったイエズス会教化村の家々と教会の城壁がまだ残っている。駝鳥、鹿、虎、カピバラ、バク、野牛のように荒っぽい牛の群れは、ときたま見られる。しばしば、槍を持った先住民が、船が通るのを眺めて馬の背にじっと座っている。外部からの侵入に対して荒野を守る番人である。
アルバル・ヌニェスは、彼の「解説」に書いているように、400人の兵隊と1,000人の友好的な先住民と共に出発したが、先住民は全員が充分に武装し塗料を塗っていて、日光が反射して敵が恐怖心を抱くように頭に金属板を付けていた。馬を守るために、馬は船に乗せていたが、先住民は岸に沿って行進し船について行ったのだ。
不慣れで不快なことばかりであったが、宗教を広め財産を作るという快適な気分で軍隊は進む
それから、現在と同様、パラグアイでは時間というものは、全く重要ではなく、馬を良い状態に保つために、毎日馬を下船させ、駝鳥や鹿を追わせていた。ちょうど、思慮深い男が一緒に行進したがるある種の軍隊のように、食べさせるには兵隊の数は多過ぎず、宗教を広め財産を作るためなのだという快適な気分で進んで行った。兵士にとって寂しく感じさせる不快な特徴は付いてまわったが。(それは、総督が指示した糧食のための支払いの制度である。)全ては新しく不慣れなことばかりであった。世間はそんなものだ。
毎晩、総督は几帳面に日記をつけて、今や、何頭かの良馬の死を、または先住民の死を記録し、果物や魚や動物や木などカスティリャのものとは異なる被創造物について解説している。
時折、グアサラポス族やパガユアス族との戦闘があったが、大したことは無かった。常に将来遭遇するはずの金鉱の話があった。遠征隊は、ついに現在コルンバの町があるところから、そう遠くない地点に来た。そこに、アルバル・ヌニェスはレイエスと名付けた町を創設した。かれは、探検して金を探させるべく2人の大尉を送り出し、彼らの帰りを2,3カ月待ったが、病床に伏し四日熱に苦しんだ。結局、噂の金鉱を発見することに失敗し、再びアスンシオンに向かった。出発する直前、彼は衰えている人気に最後の打撃を与えてしまった。
部下が先住民女性を船に連れ込むのを禁じたことで決定的な打撃を被る
彼の部下の何人かが、先住民女性を捕らえて乗船させ船に隠した。彼はそれを知った時、直ちに禁止し、少女たちの親を呼びにやり、彼らに彼らの子供を返してやった。彼の言うところでは、先住民たちはこれを非常に喜んだが、スペイン人たちは怒りと失望とを表わし、その理由で私を嫌ったということである。
何よりも至極当然な事である。同じ理由でパラグアイのスペイン人は、この賢明な総督が始めた政策を実行しようとしたイエズス会を嫌ったのだから。
・ドミンゴ・デ・イララ
臨時総督イララは、ヌニェスが奴隷化した先住民を取り上げると言って、スペイン人入植者を脅した
1543年4月8日、総督はアスンシオンに戻った。消耗しマラリア熱に病んでいた。彼はそこで全面的な混乱を見出していた。ヌニェスが到着する以前に、臨時総督であったビスカヤ出身の賢く野心的な兵士ドミンゴ・デ・イララが人々を統治していた。彼は、「ヌニェスは、彼らの財産を取り上げようとしている。」と語った。彼らの主な財産は、彼らが奴隷化した先住民であったから、イララのその発言は、ヌニェスを非常に不人気にした。そして、イエズス会がパラグアイにおける奴隷制度を公然と非難したときにイエズス会に向けられたと同様の主張がイララに対してなされた。
ヌニェスは拘束された
しかし、全ての不満の訴えは、あらゆる種類の横暴や非道がなされる時と同様に、自由の名においてなされた。
アルバル・ヌニェスは、彼の「解説」の中で語っている。アベ・マリアの祈りの時間になると、10~12人の先導的な人々が、彼が病でベッドに横たわっている家に入って来て、皆で「自由を」と叫び、自分たちが「愛国者」であることを立証するために、その連中のうちの一人ハイメ・レスキンがヌニェスの傍らで曲がった石弓を構え、彼をベッドから起き上がらせた。そして、全員が「自由を」と叫ぶ群衆の中で彼を監獄へ連れて行った。
真の自由の友人たち(反対側の人々)は救出を試みた。しかし「愛国者」たちは強過ぎた。そこで、「非愛国的」である総督は、重い足枷を嵌められて独房に投げ込まれたが、実はそこの場所を空けるために、死を待っていた一人の殺人者が放免されたのだった。アルバル・ヌニェスが断言して語っているところによれば、急いで自分のマントを取り、それから直ぐ通りに出て、「自由を」と叫んでいたそうだ。
全ては、手順良く行われたのだろう。愛国者たちは、総督の全ての持ち物を押収し、彼の資料を取り上げ、彼が暴君だったから、彼らがそのように行動したという宣言を公表した。
先住民の反応
不運なことに、先住民は如何なる解説も残していないが、アルバル・ヌニェスの「暴政」について、どう考えていたのかは興味をそそるところである。最もあり得ることは、パラグアイからのイエズス会追放に当たってイエズス会教化村の先住民が考えたと同じように彼らが考えていただろうということである。また、それはブエノス・アイレスの総督に対し、サン・ルイスの教化村の人々から1768年に提出された興味深い請願書にあらわされているのと同じ内容であろう、ということである。そこでは、人々の意思に反してイエズス会士と引き換えに派遣されてきた托鉢修道会司祭に替えてイエズス会士が残されることが請われているのだ。
総督を監獄に入れて、「愛国者」たちはもう一人の首長を選んだが、選択は当然ドミンゴ・デ・イララの上に下った。彼は、臨時総督だった男だが、初めから絶えず策略をめぐらしていた。彼は、全ての総督たちのやり方に習って、早速友人たちを公職に就けた。
アルバル・ヌニェスの友人たちは、世間の習わしで永く是認されてきた通常のスペイン形式で、抵抗して宣誓した。つまり、彼らは土地を歩き回り、彼らの自由への愛は、権力を持っている者のそれと丁度同じぐらいに強いということを、窃盗と殺人によって証明したのだ。直に、誰も夜間には外出できなくなった。掠奪するグアイクル族は、郊外を焼き払い町を攻撃すると脅した。
ヌニェス自身は、一日中閉鎖された監獄で短剣で武装した四人の男に監視されていた。彼自身が語っているところでは、彼がいた監獄は、彼の健康には良くなく、見たり読んだりするためには、昼も夜も蝋燭を燃やし続けねばならず、草がベッドの下で伸び放題で、健康のため一級の足枷をつけていたのだった。
主任看守として、彼らはエルナンド・デ・ソ-サという者を確保していたが、彼は先住民を襲った廉でヌニェスが拘置していた男だった。監獄の門では、守衛が常に見張っていたが、それにもかかわらず、彼は殆ど邪魔されることなく外部の友人たちと意思疎通をとることが出来た。彼の方法は実に無邪気なものだった。彼の食べ物は先住民の女性が運んで来ていた。彼が国王に連絡を取りはしないかという「愛国者」たちの恐れは非常に強かったので、「愛国者」たちは彼女を監獄の中で裸で歩かせて料理を運ばせ、彼女の頭は剃られていた。にもかかわらず、彼女は一片の紙をつま先に隠してうまく持って来た。
「自由党」は、ヌニェスが友人たちと連絡を取り合っているのではないかと疑って、先住民の若者を引き入れ、少女と性交渉をさせ秘密を聞き出そうとした。しかし、彼は失敗した。と言うのはおそらく、彼女の剃った頭のせいで、彼の性愛のテクニックが確信に欠けてしまったからである。
ヌニェス、スペインに護送される
結局、イララと彼の仲間たちは、総督を捕らわれの身でスペインへ送ることを決定した。もちろん念のため事実を捻じ曲げ国王に偏見を持たせるために、事前に連絡係を送った。
しかしながら、ヌニェスの仲間は、真の事実を述べる報告書の箱を船に乗せて、うまく密かに隠した。真夜中に火縄銃の打ち手の一団が、11カ月の収監の後に彼をベッドから引きずり出したが、彼の語るところでは、殆ど手に蝋燭を握った状態で(つまりは、瀕死の状態で)あった。監獄を出た時、彼はひざまずき、自分にもう一度天国の空気を感じさせてくれたことを神に感謝し、それから「私は自分の後継者として、大尉フアン・デ・サラサ-ル・デ・エスピノサを指名する。」と大きな声で叫んだ。
この時、ガルシア・バルガスという者が、短剣を持って彼に駆け寄り、彼の言葉を取り消せ、さもないと直ちに殺すと言った。彼はそうすることを止められ、ヌニェスは船に急がせられ、梁にしっかりと鎖でつながれた。乗船すると、彼は彼らが自分を毒殺しようとしていると語った。しかし、これは疑わしい。というのは、もし彼らがそうしようとしたのであれば、それを防ぐことは全く不可能だったからである。
荒れた航海の後で、スペインに到着し、ヌニェスは裁判を受けすぐに保釈され解放された。そして、彼の告発者は8年間のうちにすべて死んでしまい、彼は彼に対して掛けられた全ての罪状について、無罪を宣告された。しかしながら、裁判というものが、今も昔も常に盲目であることの証として、国王はパラグアイの政府を彼に返還することは無かった。そして、ヌニェスが語っているように、彼が勤務中に費やしたものを彼に払い戻すことは忘れ去られた。
アルバル・ヌニェスと共に、先住民が自由な処遇を得るための唯一の機会は失われた。なぜなら、彼の時代から、総督というものは、くだらない悪意に乗っかった俗世間の人間である代わりに、国境紛争に従軍して極めて当然の事として先住民を敵とみなす将校から選ばれるか、宮廷で策略を凝らしている大臣たちによって指名された者から選ばれるようになったからである。
アルバル・ヌニェスの死からイエズス会教化村の開始まで、先住民側に立って現れた者は一人もいない。そして、彼の政策が広まっていれば、パラグアイの布教地には先住民が住民として残ったであろう。何故なら、世俗権力である総督がイエズス会と協力していれば、イエズス会追放時に起きたような先住民の分散は起こらなかっただろうからだ。
・再びドミンゴ・マルティネス・デ・イララ
それ故、ドミンゴ・マルティネス・デ・イララが唯一の統率者としてパラグアイに残された。彼は当然の事として、スペインと連絡を取ることなしに得るべきものを全て手に入れた。彼がそう出来たのだから、アルバル・ヌニェスに関して彼が演じた役割は明らかである。しかしながら、彼は、ある程度良い性質と豊富な勇気と怪力と自分を抑える力を持っていた。
鉱山を発見するためにペル-方面に遠征するが、何も発見できず数千人の先住民捕虜を率いて戻る
スペインに対し、自らの立場を正当化するために最も確かな方法は、鉱山を発見することだった。そこで、フランシスコ・デ・メンド-サを自分の代理に任命し、彼自身は350人の兵士と2,000人の先住民を連れて、パラグアイを出発した。多くの困難の後、ペル-との国境に到達したが、太平洋側から征服された国を見出しただけのことだった。
そして、賢明な大統領(実際は、リマ・アウディエンシア長官)であるラ・ガスカに会った。ラ・ガスカは、イララに戻るように命令し、彼の代わりにパラグアイ総督としてディエゴ・センテノという者を指名した。センテノは、総督職を引き受ける前に死んだ。だから、イララが統率者であり続けることは、定められた運命であったようだ。
金も富も発見しなかったが、1年半後、数千人の先住民を奴隷として連れて、彼はパラグアイに戻った。イララは、先住民を比較的親切に扱ったことで有名だが、パラグアイに戻った際には、非常に多くの先住民を捕虜として率いていた事を憶えておくことが肝要である。
アスンシオンは反乱が進行中
アスンシオンに着くと、反乱が進行中であったが、それはスペイン人総督が任地を離れるときには、頻繁に起きていたことである。彼の代理であるフランシスコ・デ・メンド-サはディエゴ・デ・アブレウという者に殺されてしまっていた。アスンシオンの事態を鎮めた後、パラグアイ川の上流に町を見つけるために、大尉の一人ヌフロ・デ・チャベスを送り出した。
その頃の他の隊長たちと同様に、「権力からは極力独立していたい」というのがチャベスの考えだった。そこで、彼は内陸に向かい、ボリビアにサンタ・クルス・デ・ラ・シエラの町を開いた。それから、多くの冒険の後、先住民によって殺されたが、その先住民は彼が兜をかぶらずに座って食事をしている時に、こん棒で彼を襲ったのだった。
イララは、1557年小さな村で死に、アスンシオンのカテドラルに埋葬されたが、そのカテドラルはその時建てられていたものだ。彼と共に、富を征服する兵士たちの世代は終了したが、彼らはイタリア戦争で教育され、アメリカに旧世界のいくらかの善と全ての悪をもたらしたのだった。
混血スペイン人支配の始まり
彼の後に、スペイン・アメリカ共和国(ラテン・アメリカ諸国)の現代の占有者の先駆者である混血スペイン人の支配が始まった。イララの死から、通例となった争い、それは、これまで300年の間、スペイン・アメリカ(ラテン・アメリカ)の全ての部分の名を汚してきたが、それが始まったのだ。そこに入っていく事は、不必要なことだ。なぜなら、自らを従わせる最小の能力を示した殆ど唯一のパラグアイ総督は、イララと共に死んだからだ。
先住民である副総督サアベドゥラが宣教師派遣を要請
充分に本当であると言えることは、パラグアイの先住民であり、トゥクマン総督ラミレス・デ・ベラスコの下副総督であったアリアス・デ・サアベドゥラは、ある程度の能力と知性を示した、ということだ。彼こそ、スペインに対し先住民を改宗させるための宣教師を送ることを最初に求めた人物だ。
イエズス会士たちの動向
アルバル・ヌニェスとイララが、ヌフロ・デ・チャベス及び他の指導者と共に、町を征服し建設している間に、イエズス会士は荒野で伝道をし、先住民部族を統率していた。彼らの修道会の創設から10年足らずの後、つまり1550年頃、イエズス会士がブラジルのサン・サルバドル・デ・バイアへ上陸した。
イエズス会に対し宣教師派遣を要請したサンチャゴの司教フランシスコ・ビトリアの求めに応じて、1586年アルフォンソ・バルセナとアングロ等の神父たちがボリビアのサンタ・マリア・デ・ラス・チャルカスの町を出発した。彼らは、グアイラ地方に到着し、働き始めた。
少しの後、エステザン・グラオ、フアン・ソラノ、トマス・フィールズ等の神父が加わった。ソラノとフィ-ルズは、チャコ地方のベルメホ川流域の遊牧民部族をのいくつかを既に訪れていた。1593年、フアン・ロメロ、ガスパル・モンロイ達が到着した。その、僅かな後、アスンシオンにコレジオが開設された。その頃、オルテガとベラルナオ等はチリグアナスの山々に分け入り、先住民に対する福音宣教を開始した。
1602年、イエズス会第五代総長アクアヴィヴァは、共同活動の必要性を考慮して、今後の方針を審議するためにサルタでの会議へ、パラグアイとラプラタ川地域に散在する全てのイエズス会士を招集した。
1605年、ディエゴ・トルレス神父がパラグアイ及びチリ管区長に指名された。それによって、当時の南米におけるイエズス会士の不足と、対応していた国々の巨大さについてローマの総長が抱いていた理解の少なさ、の双方が分かる。トルレスは15人の神父と共にリマを訪れたが、それと同時に幾人かがブエノス・アイレスに到着した。そして、どちらの集団もパラグアイに向かった。
既に中傷の餌食に
既に、イエズス会は中傷の餌食になっていることが分かった。トゥクマンでも、パラグアイでも先住民の奴隷化に手を貸すことを期待されていたのだ。チリでは、バルビディア神父がサンチャゴから追放され、トゥクマンに避難した。そこで、彼は事態が耐え難いものとなっていることを認識し、国王の臣下である先住民に対するフィリップ3世の保護を懇請するためにマドリッドへ行った。
1608年、国王フィリップは、イエズス会に対しグアイラ地方の先住民の改宗に関する王室許可状を交付した。司教と総督アリアス・デ・サアベドゥラ(生まれつきのパラグアイ人)は反対しなかった。そして、植民地化計画は直ちに同意された。それ故、イエズス会はアメリカで最初の公式の立場を得たことになる。
1609年10月10日、シモン・マセタとホセ・カタルディノ(両方ともイタリア人)の神父たちは、アスンシオンを発って、16010年2月にパラナパネ川の河岸に到着した。
そこで、彼らはフィールズとオルテガが働き始めた相手である先住民に会った。そして、そこにロレトの教化村を創設したが、それはグアラニ族の中にイエズス会によって開設された初めての恒久的な組織である。それ故、パラグアイの森の中に、今日でも殆ど知られていないパラナ川の支流に、イエズス会は彼らの名高い教化村の最初の基礎を築いたことになる。彼らの修道会創設から僅か50年後までに、教化村はそこまで到達したのだが、全てが廃墟となってしまった今日では、そこはおそらく世界で最も辺鄙な片隅となってしまった。
彼らは、そこに、彼らの名が永遠に結び付けられるような組織を築き、その組織は、アラブの部族のように不安定で他のどの種族よりも疑り深い流浪の先住民部族を2百年にわたり統率し得たのだが、突如跡形もなく消えてしまい、今となっては、世界の何処を探しても類似するものは全く見付けられない。
〈つづく〉