【大航海時代のおと】

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隠れてはいなかった「潜伏キリシタン」 [その2]

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                                         (写真撮影 三上信一氏)



前回[その1]では、「隠れキリシタン」と「潜伏キリシタン」の定義や、よく話題になる「信徒発見」について書きました。

今回は、意外と再三にわたって発生していたキリシタン捕縛事件について、古野清人著「キリシタニズムの比較研究」に沿い、その内容を振り返ってみようと思います。




1657年《郡崩れ》


島原の乱(1637年)の二十年後、大村藩(長崎県彼杵郡)において8名の指導者(うち5名は60歳を超した老人)が、天草四郎に似たメシア(救世主)思想に基いたキリシタンの教えの布教に従事していた。
これが、長崎奉行に知れ、当初2か月間に608名が検挙された。
翌年、7月に42名が斬殺され、牢死78名、永牢20名、赦免された者99名。

以後10年間に、豊後(大分県)で500名が逮捕され、約半数が死刑に処された。
美濃(岐阜県南部)、尾張(愛知県西部)では、1665年に200名斬首、1667年に約2、000名逮捕、1697年に約40名が斬首された。


1790~91年、1792~93年《浦上一番崩れ》

長崎北部の地域浦上で、旦那寺への寄付金を拒んだ者がいたことから、キリシタンの存在が発覚、19名が逮捕されたが証拠不充分で釈放された。また、その翌年にも同様の事件が発生したが、逮捕された者が起請文によって(仏教への)改宗を誓ったので解決した。


1805年

天草で「異法」を信ずる者が発見され、問題となる。


1842年《浦上二番崩れ》

幕府が長崎に与力(奉行補佐)10名、同心(与力の部下)15名を置いたことを契機に、密告者が動き逮捕者が出たが間もなく放免された。


1856年《浦上三番崩れ》

密告や庄屋などからの訴えがあり、15名が逮捕された。
翌年、浦上の戸主は全員役所に召喚され奉行から詰問を受け、「異法と心つかずに、先祖代々伝えてきたのを守ったまでで、今後は断然やめる」と誓った。


1867年《浦上四番崩れ》

1865年3月、浦上から大浦天主堂を訪れた信者がパリ外国宣教会の司祭に出遭ったと(「信徒発見」のこと)の噂は、瞬く間に周辺全村に知れ渡り、翌日から参観者が激増し、すさまじい宗教的興奮が集団的に感染していった、と言う。

そのような状況の中、或る死亡者が旦那寺に告げられず自葬された。それをきっかけとして、400戸以上の村民が寺請制度を拒否する書付を出し、カトリックへの改宗を宣言した。68名の男女が捕縛され投獄された。

この年幕府が瓦解し、翌年明治政府が成立した。


明治新政府は、神道国家主義に立ってキリスト教を排撃する立場を採り、キリシタンの蜂起と暴動を恐れた。
明治元年(1868年)、御前会議において、首謀者を厳刑に処し残る3,000人余りを尾張などの諸藩に配流し、各藩に生殺与奪権を与え、中心地浦上からキリシタンを一掃することが決定された。

政府は各藩に取締りを命じ、五島では、236戸(1,100名)が検挙され出牢の後、村預け32戸(507名)、棄教した者335名、出奔196名、病死30名。

明治2年末、政府は浦上の信者の〈移民〉計画を厳格に実行した。
政府は各藩に彼らを棄教させるように説諭せよと命じ、各藩は〈移民〉を概して酷遇し虐待し、時にはひどく拷問した。

明治6年、政府は世界列強の外交力に圧されキリスト教禁制の高札を撤去し信者を釈放した
4年余りの流刑の総員は3,404名、そのうち死亡660名、新たに出生176名、結果2,920名となった。
このうち棄教者939名、信者1,981名。

帰村しても、既に家は無く耕作や食物にも不自由し、流行病などにも災いされ永く苦難が続いた。


〈思うこと〉


1.先祖代々の教え


まず、キリシタンが一掃されていたとの印象のある「島原の乱」から20年を経た後の長崎で、またそれ以降10年にわたって豊後(大分)で、大規模なキリシタン検挙があったということ。さらに、1600年代の末期になっても、美濃・尾張で多数のキリシタンの逮捕・斬首事件が複数回起きていたということを、私は初めて知りました。

ただ、これら全てが本当にキリシタン弾圧であったか否かには疑問が残ります。「島原の乱」の例を勘案すると、諸藩がキリシタン取締りを名目にして内政の混乱収拾を図ったことが考えられるのです。しかし、諸藩は幕府によってキリシタン取締りを名目に藩内部の情勢を監視されていることを察知していたとも言われています。つまり、藩内部の統制上の混乱を安易にキリシタンの存在に帰することは難しくなっていたと考えられますから、キリシタン検挙以外のものが混入している可能性は低いとも言えます。

また、九州だけでなく美濃・尾張など広範な地域で、また幕末には頻繁に、発生していた検挙事件を観ると、一旦根付いた宗教を一掃するということが如何に困難な事であるかに気付かされます。

その点について、私は次のようなことを考えます。

ザビエルの渡来(1549年)から「鎖国」の完成(1639年)までの90年間は、一見僅かな期間に見えますが、世代ということを考えるとそうでもないのです。

例えば、ザビエル渡来の1550年頃、20歳だった人が洗礼を受けたとします。その時代、結婚も子供を持つのも早かったでしょうから、すぐに子供が生まれ洗礼を授けます。もうこれで初代と二代です。

20年後には三代目、40年後には四代目、60年後1610年には五代目が生まれたことになります。初代からみると五代目は玄孫(げんそん・やしゃご)、五代目からみると初代は高祖父母(こうそふぼ・ひいひいじいさん、ひいひいばあさん)ですから、立派なご先祖です。

つまり、初代が洗礼を受けてから60年後に生まれた人にとって、キリスト教はご先祖(高祖父母)の時代から代々信仰している尊重すべき我が家の宗教ということになります。そういう意味で、まして90年という期間は、ひとつの宗教が根付くには充分な時間だったのではないかと思えてくるのです。

「浦上三番崩れ」の際に信者が語ったとされる「異法と心つかずに、先祖代々伝えて来たのを守ったまでで・・・」という言葉は、厳しい取り調べに対する言い逃れのように聞こえますが、ある意味で正直な心情が語られているようにも感じます。


2.禁教は辛(つら)い人生の安らぎや支えだけでなく、心地よさや娯楽まで奪った


また、浦上では「信徒発見」の75年前(1790年頃)から、旦那寺への寄付金拠出拒否などキリシタンとしての意思表示が既になされていたらしいことが驚きです。

また、「信徒発見」の23年前(1842年)に、与力や同心が増員されたことを契機に密告者が出たとのことですが、それは順番が逆でしょう。キリシタン信者に不穏な動きがあるのを察知、警戒して役人が増員された筈です。ということは、このときも信者は何か行動を計画していたのかも知れません。「浦上二番~三番崩れ」の動きは、幕藩体制、鎖国・禁教政策の終焉を待ち構えていたようにも見えますし、「信徒発見」の際のプティジャン神父への接近はその一つの現れのようにみえますが、どうなのでしょうか。

それにしても、何故このように強靭な、しかも時には行動的な信念を持ち続けることができたのでしょうか。

それについても、私は考えることがあります。
それは、キリシタン禁教政策が信者から何を奪ったか、ということです。

禁教政策は信者から、キリスト教から得られる多くの喜びを奪い取ったのです。
(これは、当たり前の事かも知れませんが、私はキリシタンの祈りとか信仰とかばかりに気を取られて長いこと気が付きませんでした。)

・辛い人生を生きていくための、安らぎと支え
・告解をした後の気持ち良さ
・聖堂内で炊かれる香の匂い
・祈りの言葉、聖歌
・神父さんの説教、葡萄酒の匂い
・ミサを終わって出てくるときの、晴れやかな気持ち
・寒い冬を暖かく感じさせるクリスマスや春の安堵感を齎(もたら)す復活祭


私が子供の頃、もう60年も前のことですが、通っていた教会でもクリスマスの夜中のミサの前には、少年や少女たちの演劇がありました。全くの素人の劇ですが、講堂には人がいっぱいになり、ちょとしたことで、大きな歓声や笑い声が起きるのです。考えてみると、その頃は一般家庭にはテレビもない時代ですから、そのクリスマス劇が一種の娯楽だったのです。その数年後には、テレビがいきわたり、もうクリスマス劇もなくなって人々は夜中のミサに来るだけになってしまいましたが。

私が何を言いたいかというと、教会が精神的な安らぎや喜びを与えることは当然ですが、昔の教会は持たざる人々に、他では得られない心地よさや娯楽まで提供する場所だったのではないかということです。

出世や富を目当てに、外国人宣教師の御取り巻きとなり教会に群がった武士や商人には、禁教となれば自分の欲望を満たすための方法が別にあったのでしょうが、農民や町人が得ていたものは他では得られないものだったのでしょう。

戦国時代の終わりに、精神的な安らぎや支えだけでなく、他では得られない心地よさや娯楽まで一旦味わってしまった農民や町人からそれを奪ってしまったのですから、彼らがその奪回を目指して代々黙々と意志を引き継いでいったとしても不思議ではないと思うのです。また、彼らにとって奪われたものはそれくらい価値のあるものだった、と考えることも出来ます。


3.愚かな政治の犠牲に


「浦上四番崩れ」から、他藩への流刑・移民の強行、4年後の帰村と苦難については、政府の愚かさが無力な民衆にしわ寄せされることの実例と言わざるを得ません。(政治というものも所詮は人間のやることですから、やたら厳しく批判してもという気はするけれども、これは度を超しているという意味です。)

というのは、「四番崩れ」発生の際に幕府がプロシア、フランス、アメリカから抗議を受けていたことを承知していたにも拘わらず、新政府は実行出来もしない「攘夷」の考えに流されて抗議を無視して住民の配流を決定し、四年後に欧米列強の圧力に屈して釈放するという愚挙を演じているのです。


しかし、こういう政府の愚策の結果が無力な者にしわ寄せされることは、何処の国にもあることのようです。


1750年、スペインとポルトガルとの間でマドリ-ド条約が結ばれた。その条約によって、スペインは、南米での国境線を移動させてポルトガル領を拡大することを了解する代わりに、フィリピンと南米ラプラタ地方の町コロニアをポルトガルから得ることになった。

そのとき、国境線移動・領土拡大によって新たにポルトガル領となった地域には、イエズス会と先住民グアラニが建設した「教化村」七ヵ村が含まれていた。七ヵ村には、先住民3万人が居住し、野生牛70万頭、羊10万頭がいた。

グアラニは抵抗したが、1756年スペイン・ポルトガル合同軍との戦闘に敗れ、それまで開発し居住してきた七ヵ村から、全住民が新たなスペイン領へと移動せざるを得なくなった。

ところが、マドリ-ド条約は1761年に廃棄され、グアラニはまた元の村に戻ることになった。1万4千人が戻り、再建に着手したが、5年もの間放置されていた畑は荒れ果て、牛馬はあらかたポルトガル人たちによって運び去られていた。

(この件は、ローランド・ジョフィ監督、ジェレミ-・アイアンズ、ロバ-ト・デニ-ロ主演のイギリス映画「ミッション(The Mission)」で採り上げられましたので、ご承知の方は少なくないのではと思います。)


4.更なる愚かな政治の遺産


「信徒発見」からちょうど80年後の1945年8月9日、投下された原子爆弾は長崎市中心部から約3kmの浦上地区の中央で爆発し、この地区を壊滅させました。

この原爆によって、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡しました。(Wikipedia)
また、一説によると当時この(浦上)地区には、約1万5千人の信者が住んでおり、そのうち1万人余りが亡くなった、と言われています。
https://www.google.com/culturalinstitute/beta/exhibit/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E5%8E%9F%E7%88%86%E3%81%A8%E6%B5%A6%E4%B8%8A%E5%A4%A9%E4%B8%BB%E5%A0%82/QRfpvy4V?hl=ja

この原爆を投下した国では、国民の約半数は自分がキリスト教信者であるとの意識を持っているそうです。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9460.html

これは、いったいどういうことなのか。




次回は、「潜伏キリシタン」について考えてきた余勢を駆って、話題となっている「世界文化遺産登録」について、考えてみたいと思っています。


〈つづく〉


[参考文献]

キリシタニズムの比較研究       古野清人著作集 5 南斗書房
幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折 伊藤滋子著      同成社


















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# by GFauree | 2016-09-30 04:35 | 隠れキリシタン | Comments(2)

隠れてはいなかった「潜伏キリシタン」 [その1]

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                                        (写真撮影 三上信一氏)






前回は、秀吉・家康という最高権力者たちとも交流を持つ立場にあった通辞ジョアン・ロドリゲスの、イエズス会への日本人入会阻止の意見を採り上げ、それについて私の思うことを記しました。



日本人聖職者の登用制限は、残された日本人信者により多くの制約を与えた



ともかくも、実際に日本人入会は阻止され、日本人聖職者の登用は制限されました。

キリシタン取締りが強化され、ヨーロッパ人宣教師が追放されて数少ない日本人聖職者も姿を消せば、信者たちは聖職者なしで宗教的活動を続けていくしかありません。


カトリック教会で行われる秘跡(神の恵みを信者に与える儀式)は、洗礼・聖体・堅信・悔悛(告解・懺悔)・終油・品級(叙階)・婚姻の七つです。このうち、司祭以上の聖職者でなくても行えるのは、洗礼だけです。
(つまり、洗礼だけは信者であれば授けることが出来るのですが、その他の秘跡は司祭以上でなければ執り行えないのです。)

日曜毎に、与(あず)からなければならないはずのミサも、それを執り行うには司祭以上であることが必要です。


従って、イエズス会の日本人聖職者登用制限は、禁教政策が徹底された後200年以上にわたって、残された日本のキリスト教信者の活動により多くの制約を与えたことになる、と私は考えるようになりました。

そして、そう考えたたとき、以前は「隠れキリシタン」は信仰の、つまり人の内面的な問題であり、また「鎖国」完成後に発生した事象だからという理由で、その話題を避けてきた私にも、日本での布教の一側面を示すものとして「隠れキリシタン」を捉える必要があるのではと思えてきたのです。



「隠れキリシタン」を見直してみようと思う理由は他にも




そのうえ、今私が住んでいる南米では、ちょうど日本からのカトリック追放が貫徹された17世紀前半頃から、「教化村」建設という形の画期的な布教方式がイエズス会によって進められ、それが18世紀後半に同会がスペイン王権によって追放されるまで発展し続けたという歴史があります。

「教化村」はイエズス会が王権により追放され、またロ-マ教皇により解散を命じられたため、その後消滅して行ったのですが、私はその「教化村」にいた先住民はどうなったのかということが気になります。そして思い付いたことは、日本布教区の先住民であった「隠れキリシタン」の人々がその答えのヒントを与えてくれるのではないか、ということです。


もう一つ、「隠れキリシタン」に関心を持つようになった理由があります。それは、自分がいよいよ歳をとってきたということです。ご都合主義だと笑われるかもしれませんが、歳をとるほど「信仰」というものが生活に必要なものとして身近になって来ることは確かです。本当に必要になると、以前はためらっていたことも、認めて受け容れることが出来るようになることも感じています。

そんなわけで、この期に及んでという感じが無きにしも非ずですが、改めて私が知ったこと、気が付いたことを以下に書いていこうと思います。まずは、言葉の定義から。



「潜伏キリシタン」と「隠れキリシタン」の定義



インタ-ネットのWikipediaでは、次のような定義がされています。

「江戸幕府による禁教政策の下、密かにキリスト教の信仰を捨てずに代々伝えていった人々を、『潜伏キリシタン』と呼ぶ。
これに対し明治時代以降、キリスト教の信仰が解禁されて再びカトリックの宣教がなされても、これを受け入れず、独自の信仰様式を継承している人々を『隠れキリシタン』と呼ぶ(学術的には、カクレキリシタンと片仮名表記する)こととされている。」


ですから、禁教の時代に秘かにキリスト教を信じていた人たちは「潜伏キリシタン」と呼ぶべきだし、「隠れキリシタン」の人々は現在も存在しているということなのです。そして、「隠れキリシタン」の人々がいるということは、「キリシタン時代」は現在も続いているとも言えるのです。


さて、「隠れキリシタン」(上の定義からすると、「潜伏キリシタン」と呼ぶべきなのでしょう)については、子供の頃通っていたカトリックの教会で次のような話を聞かされました。



子どもの頃聞いた「信徒発見」


キリスト教の信仰が禁止されていた江戸時代の末頃、長崎に教会が建てられると、近在の人々が見物に訪れるようになった。ある日、その中のひとりの女性が、フランス人神父に秘かに囁きそして尋ねた。

(1)自分は、あなたと同じ信仰をもっている。
(2)サンタ・マリアの御像はどこにあるのか?
(3)ローマ教皇を敬っているか?
(4)あなたは独身か?


(2)は、その女性と仲間の人たちが「聖母マリアを信仰すること」
(3)は「ロ-マ教皇を頂点とするカトリック教会の一員であるとの意識をもっていること」
(4)は「カトリックの神父は独身でなければならないことを知っていること」
を、それぞれ意味しており、それらによって彼らがカトリック信者であることが証明された、とフランス人神父は判断した。彼は、長い間続いた禁教の時代に信仰を守り通した信者を発見したことを喜び、ヨ-ロッパへ報告し、彼の報告は大きな驚きと喜びによって受け入れられた。



「信徒発見」をインタ-ネットで検索してみると




上に書いたことは、子供の頃聞いた話ですから、どこまで信憑性があるのか見当もつきませんでした。そこで、インタ-ネットで検索してみると、意外なことに私が聞いたと思っている話は巷の情報とだいたい一致していました。


ただ、(1)と(2)は、どの情報にも記載されているのですが、(3)と(4)は書かれていない場合が多く、僅かにカトリック教会のものと思われるサイト(http://yonohikari.sakura.ne.jp/decouverte.html#header)に、五島から来た信者が別の機会に3.と4.を尋ねた、とされています。

また、女子パウロ(修道)会のサイト(http://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/shintohakken.php)には、信徒を「発見」したフランス人神父(ベルナ-ル・プティジャン)の同僚神父への手紙の内容として(1)と(2)が記載されています。

さらに、そこには例の女性が、自分たちは毎年末近くにキリストの生誕(クリスマス)を祝っていると語り、また彼女が教会を訪ねて来たその日(1865年3月17日)が、復活祭前のキリストの受難を悲しむ時期(四旬節)にあたることを、知っていたと書かれています。



以上の他に「信徒発見」に関して、長崎に近い浦上と外海地方の「潜伏キリシタン」の拠り所となったと言われているものについて、五野井隆史氏が書かれた記事を見つけました。
http://www.jesuits.or.jp/~j_seimikibun/yurusi11.pdf


「潜伏キリシタン」が拠り所としたもの

・バスティアンの予言
・バスティアンの日繰り(暦)
・教理書「天地始之事」

バスティアンは、迫害を逃れながら主に九州の西彼杵半島で活動していた日本人宣教師です。


バスティアンの日繰り(暦)
とは、追放された外国人宣教師の指導で彼が作った典礼(宗教的儀式)の暦です。それが、木版印刷されて切支丹たちに配られ彼らの宗教的活動を支えたと考えられるのです。例の女性が、クリスマスを祝うことを語り、教会を訪れた日が復活祭前の四旬節であることを知っていたということは、彼らがその典礼暦を使っていた可能性を示します。


彼は、1657年に捕えられ3年後に斬刹されましたが、一つの予言を残しました。それが、バスティアンの予言です。

それは、「今から7代経てば、丸にヤ(やそ、耶蘇=キリストの意味か?)の字の帆を立てて、パ-ドレ様が大きな船でやって来る。そうしたら、切支丹たちは毎週でも告解(懺悔 ざんげ)をすることができ、大きな声で賛美歌(聖歌)を歌って歩けるようになる」というものです。




「信徒発見」について気付いた事と疑問



1.パリ外国宣教会


まず、キリシタン信徒を「発見」したベルナ-ル・プティジャン神父が所属する組織として、「パリ外国宣教会」の名前が出て来ることです。

背教者クリストヴァン・フェレイラに関する記事の中に、1622年ロ-マ教皇庁がポルトガル・スペイン両国の国王権力に依存した海外布教体制の問題に対処すべく、布教聖省を設置したことを書きました。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/

「パリ外国宣教会」は修道会としてではなく、海外布教を志す教区司祭によって構成され布教聖省の枠組みの中で海外布教活動を行う団体として発足しました。18世紀、インド布教の担当からイエズス会が外されると、「宣教会」が代って委託を受けることになります。

しかし、「宣教会」の布教活動が、フランスによるインドシナやインドへの進出の先兵となったとの指摘もあります。フランス領インドシナ植民地の起源は、ナポレオン3世がフランス宣教師団の保護を目的(名目?)に、1858年遠征軍を派遣したのに始まるとされているのです。

ポルトガル・スペイン両国の海外進出と連携した布教体制の反省に基いて設置された布教聖省の枠組みの中で活動する筈の「宣教会」も、結局は国家の植民地主義的海外進出の動きに乗らざるを得なかったということでしょうか。

幕末の長崎でキリシタン信徒を「発見」したのが、パリ外国宣教会のフランス人司祭であったことの中にも、ポルトガル・スペインからオランダを経てフランス・イギリスへと変遷して行った欧州列強のアジアでの覇権の推移が見えるような気がします。


2.カトリックとプロテスタントを区別するための質問


私は長い間、上に挙げた四つの事項は、上に述べたように、全て例の女性が最初に教会に現われたときに司祭に言ったものと思っていました。また、(1)~(4)のうち信仰に関するものは(1)と(2)だけで、(3)と(4)はカトリック教会という組織の単なる決め事ではないか、という気がしていました。

今回、(3)と(4)は、別の機会に他の信者が尋ねたとされていることを知りましたが、それにしてもこの人たちは、信仰の中身よりは随分教会という組織の決め事を重要視していたのだな、と感じました。それに、(2)聖母マリア信仰と(3)ローマ教皇崇拝と(4)神父の独身(プロテスタントの牧師は妻帯できる)はカトリックとプロテスタントを区別するときに使われる常套的なチェック・ポイントです。

もし宣教師のような外国人が来たら、こんなことを訊いてプロテスタントでないかどうか確かめるように、教育されて代々引き継いできたのでしょうか?だとすれば、いつ、だれがそういう教育をしたのでしょう?

帰国した外国人宣教師が教えていったのか

最も考えやすいのは、1630~50年頃(「キリシタン時代」末期)に、追放された外国人宣教師が信者に教えていったのではということです。誤って潜伏キリシタン信者の存在を、プロテスタントの牧師に明かしでもしたら、幕府に通報されて潜伏さえ出来ないよう根絶やしにされると恐れて、そういう教育をしたのではないかということが考えられます。

ただ私は、「鎖国・禁教」体制が確立された時期に日本にいた外国人宣教師が日本人信者に対し、それほどカトリックとプロテスタントの違いを強調することはなかったのではないかという気がします。

「キリシタン時代」にカトリック・プロテスタントの違いは、常識だったか

両者の違いを強調することは、例えば40年近く続いたフランスのユグノ-戦争(1562~1598年)など、カトリック・プロテスタント間の血で血を洗うような対立抗争の現実を露わにすることになりかねません。純真なところがある反面、耳ざとく猜疑心が強いと定評のあった日本人信者に対し、同じキリスト教信者同士が憎み合い、殺し合っている状況を明かす情報を、用心深い外国人宣教師が伝えたとは考え難いのです。

キリシタン禁教政策の元締めであり、最も情報が集中していたであろう幕府でさえ、「自分たちは、プロテスタントだからキリスト教布教の意志はない」というオランダの主張にもかかわらず、終始オランダに対しても警戒的な姿勢を崩さなかったようです。

それは、カトリックとプロテスタントの違いや敵対関係について、幕府でさえ、決定的な情報を持っていなかったということを意味しているのではないでしょうか。もしそうだとすれば、まして一般の信者がそういった情報を得ていた可能性は殆どないでしょう。

でも、もし情報源が日本を去った宣教師たちでないとすると、その後約200年の間のいつ、だれが、どんなきっかけで、そんな教育をしたのか、謎が残ります。

「発見」の喜びと親切心から

案外、「潜伏キリシタン」に遭遇したフランス人司祭が、「発見」の喜びと彼らをカトリック教会に迎え入れたいという親切心から、その趣旨に沿った報告を書いたということもありうるのではないかと私は思います。



3.キリシタンは隠れてばかりいたわけではないのではないか


私は「潜伏キリシタン」や「信徒発見」などの言葉だけから、なにかキリシタンがひたすらじっと隠れていて、外国から来た神父さんに「発見」してもらったような印象を持っていました。けれども、実際は教会を建てて待っていたのは外国人宣教師のほうで、そこに勇気ある日本人女性が自発的に現われて自分の信仰を表明したという話であることを今回改めて感じています。

例えば、長崎北部の浦上地区では、「信徒発見」の1865年の74年前(1791年)から再三にわたってキリシタンの捕縛事件(浦上一番~三番崩れ)が発生していました。これらは、告発や密告によって官憲が動いたもののようですが、告発や密告がなされること自体「潜伏キリシタン」の動きが活発になってきて、それに反発する者がいたということでしょう。

次回は、その時期に起きていたキリシタン検挙の事件の内容とその結末を観ていきたい思います。


〈つづく〉















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# by GFauree | 2016-09-22 12:11 | 隠れキリシタン | Comments(0)

キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その4]

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                                         (写真撮影 三上信一氏)





前回[その3]では、通辞ジョアン・ロドリゲスの人物像をなぞりましたが、今回[その4]では、彼の「イエズス会への日本人入会阻止」の主張をとりあげます。

その主張は、1598年2月28日付で長崎からイエズス会総長宛てに送られた書簡に書かれており、その書簡の訳文の一部が、遠藤周作著「銃と十字架」(評伝 ペトロ・カスイ・岐部)とマイケル・ク-パ-著「通辞ロドリゲス」に掲載されています。

両者の訳文を比べてみると、遠藤の文章の方が直截的でまわりくどくないので、それを以下に引用し、不足している部分はク-パ-の訳文を括弧を付けて表示します。なお、基本的には掲載されている訳文をそのまま転記しますが、読み易さを考慮して気になる点は、一部表現を変えてあります。



〈ロドリゲスの主張〉


私は、きびしい選択と調査をせずに日本人を修道士にすることは、わが(イエズス)会のため適当ではないと考える者であります。

日本人はヨーロッパ人に比べ、天賦の才に乏しく、また徳を全うする能力に欠けています。
(日本人は生まれつき気の弱い情緒不安定な国民で、)聖なるわれらが宗教は彼らにまだ深い根を下さず、改宗も近来の事ですから、基督教についても根本的によく知らず、理解もしていません。

こうした連中をイエズス会に入れることは良いとは絶対に思われません。

(多勢の不完全な者たちを抱き込むのは会のためになりません。彼らは誘惑に遭うと、それに負けてあっさりと信仰を棄ててしまうからです。もうすでに何人かの者は退会して異教徒(注)たちの住んでいる地区を徘徊しておりますが、日本にはそういうことをさせないように歯止めになる裁判所がないので、背教者として処罰するわけにいきません。)

(注)キリスト教に改宗していない日本人


その点、私自身、長年、次のような見解を抱いています。


たとえ入会する日本人が百人以上ありましても、そのなかに信者を統制する才を備えた者なく、教義に通達した者なく、魂を救う道に大きな情熱を持っている者もありません。まして、その中から司祭になる能力を持った者は今日、一人もいないのです。
(しかも困るのは、だれでもいずれは統治権を行使したくなる(注)ことです。)

(注)「自主性・主体性を発揮したくなる」または「主導権を執りたくなる」の意味だろうと思われます。

彼等の大部分は幼少から神学校で教育を受けているのですが、イエズス会に入会して何をするのか、また選ばれて入会する者の使命がどんなに重大なのかわきまえずに、神学校時代に教育を受けた教師に嘆願して、ある年は13人も修練院に入ることを許されているのです。

これらの日本人の特徴は偽善です。彼等は天性から、外側は謙虚で冷静を装えますから、わが会士はそれに幻惑され、この連中の信仰心がヨーロッパ人ほど強くなく、修徳も不完全なことを知らず、また見抜けないのです。



〈ロドリゲスの主張について考えたこと〉



1.彼の性格


「通辞ロドリゲス」の著者マイケル・ク-パ-は、「この書簡は、ロドリゲスが健康を害していた時期に、憂鬱な気分に襲われて一気に書きなぐった手紙だ」と、書いています。また、この書簡が 書かれる5年前、1593年のロドリゲスに対する会内部の人事評価には、「利口だが、判断はやや思慮に乏しく慎重さを欠く」とされているそうです。

ただし、ロドリゲスが日本人に対してだけ厳しい見方を示したという訳ではありません。同じ書簡の中で「要するに現在日本にいる(ヨ-ロッパ人)会士の中には、会の統治の適任者はおりません。」と記しているのです。

ロドリゲスには、上に対して報告をするような段になると、つい同僚や周囲の仲間について手厳しい指摘をしてしまう性癖(育ちの悪さからくる歪んだ性格?)があったのかも知れません。(私は自分の経験から、何処の職場にもそういう性癖を持った人はいるのではないかと思いますが、どうでしょうか。)


2.これを書いた時期のロドリゲス


この書簡を書いた頃のロドリゲスについて、私はつぎのようなことを考えています。


(1)
この書簡が書かれたのは、「二十六聖人殉教」事件の1年後です。26人の殉教(処刑)者のうちイエズス会関係者を3人のみにとどめるべく、ロドリゲスが暗躍したと非難されたことは、前回の記事[その3]に書きました。

また、秀吉の死の7か月前でもあります。ロドリゲスが秀吉の死の約2週間前に会って言葉を交わしたという話がありますから、この書簡を書いた頃には、既に秀吉と親密に交流する立場にあったと言えるでしょう。

これらのことから、この時期の彼が、イエズス会と権力者たちとの間を繋ぐ折衝役として、単なる通訳としての立場を超え、会にとって貴重な存在になっていたと考えることが出来ます。


(2)
この年(1598年)に、ロドリゲスは、イエズス会内部の財務のみならずポルトガル船貿易全体の運営を取り仕切る長崎のプロクラド-ル(財務管理責任者)に就任しています。そして、おそらくその実績が認められてのことなのでしょう、およそ2年後の1600年前後には、盛式四誓願司祭というイエズス会内の最高の階位を授けられれます。

ちなみに、この時代、23人の日本人がイエズス会で司祭に叙階されていますが、その階位を授けられた者は一人もいません。


(3)さらに、彼は書簡の中で総長に対し、自分が長崎の院長の顧問の一人に指名され、規則に従って年次報告としてこれを書いていると、述べています。

以上(1)~(3)から考えると、この書簡を書いた時期に、彼は組織の中で能力と実績を認められ、また相応の処遇を受けるようになり、本人自身当然それを誇らしく感じていただろうと思うのです。

祖国から遠く離れた極東の島国で、徒手空拳の身で家柄・出身の重んじられる組織に飛び込んでから苦節17年、漸く会の中で一目を置かれる存在となり、会の運営の中枢の地位を掴みかけているのです。そう感じた彼が、得意の絶頂にあったとしても不思議ではありません。

しかし、人間得意の絶頂にあるときほど、注意が必要です。どうしても、気が緩んだり血気に逸ったりして、本音や本心を露わにしたくなって来るからです。彼は、総長宛てに書簡を書く機会に、下積み時代からの日本人に対する恨み辛みをぶちまけてしまったということでしょう。

と言っても、万事そつがなかったであろう彼の事です。自分の書く「日本人入会阻止の主張」が会の中でどのように受け留められるかは、充分計算していたでしょう。その2年前に書かれた、フランシスコ・カブラルの同様の主張の内容も、またそれが会の中でどう受け入れられたかも、知っていたかも知れません。


3.日本人信者批判の中身について


先ず、日本人信者批判の材料として日本人の国民性のようなものを挙げています。
国民性というのは、一朝一夕には変えることの難しい或る国の国民特有の性格のはずです。そのため、ある事業をどこかの国で新たに展開することが困難なときの言い訳としてよく使われます。

ところが、良く考えてみると、ある国の国民性として挙げられている事柄は、他の国の人々についても言えることが多いのです。

他に彼が批判の材料として挙げていることは、「キリスト教についての知識・理解や聖職者に求められる適性や使命感が不足している」ということですが、それはもし布教を推し進めたいならば、自分たちヨ-ロッパ人自身が何としてでも努力して教育すべき事柄です。

つまり、彼はどこの国の国民についても言えることを材料に日本人を批判し、本来自分たちが続けていくべき努力を否定し、放棄しようとしていることを吐露しているのです。

こんな彼の理屈が、彼の属した組織の中で大まじめに採り上げられたのだとしたら、あきれる思いがしますが、同時にその組織はとても人間的な組織だったと言えるのではないかとも思います。



[その1]の記事で言及しました古野清人氏の論文「キリシタニズムの比較研究」の中で、日本人聖職者の養成・登用に関して述べられている箇所に、ロドリゲスの主張の問題性がみごとに指摘されていると思われる部分があります。


「いずれにしても、その時代の実情からして、日本人の大幅な登用は不可能であったとみるのが妥当である。それでも他面、外人宣教師がポルトガル、スペインの政治経済上の帝国主義の侵攻と一体になって、日本伝道を独占しようとした傾向は否定できまい。

彼らは日本人の信者に対し、一つはその国民性を傲慢として信頼せず、一つは信仰の未熟に危惧の念を抱いた。日本人のもついわば国民的矜恃を、彼らが傲慢とみなしたとすれば、それは白人の優越性を過信して、日本人の隷属的奉仕を当然な前提としていたからであろう。」


4.ロドリゲスと岐部



正会員でない同宿として9年間働いた後、自力で5年かけてロ-マに行きやっとイエズス会に入会が許され司祭となり、7年かけて日本へ戻り潜伏した後殉教したペトロ・カスイ・岐部について記事を書いたことがあります。
http://iwahanjiro.exblog.jp/21079249/
http://iwahanjiro.exblog.jp/21105197/

その記事の中に、岐部が
セミナリオ時代には教師たちの、同宿時代には信者たちの、共感と支持を得ていたのではないか、と書きました。その共感と支持を得ていた経験こそが、彼に最後まで自分の信念を貫き通させる原動力となったものではないか、と私は考えたのです。

そのことを思い出しながら、ロドリゲスの在り方を観ていると、岐部のそれと対照的なことに気が付きました。


ロドリゲスは、偽善的であるとさえ罵(ののし)って、日本人信者に対する抑えようのない不信感を吐露しているように見えます。そのうえ、日本人神学生を積極的にイエズス会に送り込み現地人聖職者養成を進めようと努力している同僚である教師たちにまで冷ややかな目を向けています。

日本でイエズス会に入会し司祭となったロドリゲスにとって、信者とは日本人しかいない筈です。その日本人たちとも、同僚である神学校の教師たちとも信頼関係がないのですから、孤独にしかなりようがなかったでしょう。

修道院の中に閉じこもって、祈りと労働に明け暮れる修道司祭でない限り、司祭にとっては、信者に奉仕することが何よりの責務であり喜びでもあるはずです。

ロドリゲスは、イエズス会と権力者たちとの政治折衝役、そして財務管理者・ポルトガル船貿易仕切り役として会内で力量を認められ、めでたく出世を遂げました。両方とも日本イエズス会ならではの独自性の強い、会の運営上最も重要な職務だったのでしょう。その結果、教会と司祭にとって最も大切にしなければならない信者に不信感をもち、聖職者養成の現場の教師たちとも共感を分かち合うことのできない官僚的な幹部エリ-トがひとり生まれたということでしょうか。

岐部は、ロドリゲスなどヨ-ロッパ人宣教師の提言によって打ち出された「日本人入会抑止」の方針があったからこそ、自力でローマへ行かざるを得なかったのです。それを考えると、二人の生き方の対照性がなおさら際立つような気がします。


5.虚ろな人々の仲間に


追放されマカオに送られたロドリゲスの表情は、たぶん虚ろなものだったような気がします。
前回[その3]の記事にも書いたことですが、ロドリゲス追放の2年後になって、家康は、謁見したイエズス会管区長の面前で「ジョアンを呼び戻せ」と臣下に命じて、たいそう管区長を喜ばせたそうです。

きっと、老獪な権力者は単純な聖職者をからかいながら、内心では空虚な高笑いをしていたのではないでしょうか。その後、イエズス会がロドリゲスを日本に呼び戻すよう何度働きかけても、家康が彼の名前を出すことは二度となかった、ということです。


〈完〉


[参考文献]

銃と十字架           遠藤周作著                新潮社
日本教会史 (上)     解説 土井忠生   大航海時代叢書     岩波書店
通辞ロドリゲス    マイケル・ク-パ-著 松本たま訳          原書房 
キリシタニズムの比較研究    古野清人著作集 5           南斗書房







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# by GFauree | 2016-09-01 15:18 | 通辞ジョアン・ロドリゲス | Comments(0)

キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その3]

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                                         (写真撮影 三上信一氏)



前回[その2]では、「イエズス会への日本人入会阻止」を主張した日本布教長フランシスコ・カブラルの見解を採り上げました。今回は、同様な主張をした通辞(=通訳という意味です)ジョアン・ロドリゲスの見解を採り上げる準備として、彼の人物像をなぞってみたいと思います。


〈通辞ジョアン・ロドリゲスという人物〉


・北ポルトガルの寒村に生まれ、自分の生年月日も知らなかった

生まれは、北ポルトガルの外れにある人口1万人の町セルナンセリェ。生まれた時期は、1561年から63年頃とされてはいますが、どの記録にもポルトガルの寒村の生まれだと書いてあるだけですから、彼自身も生年月日を正確には知らなかったようです。

同じイエズス会士といっても、ナバラ(スペイン)やキエティ(イタリア)の貴族の家柄の出であるフランシスコ・ザビエルやアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノといったエリ-ト達とは出生の背景が全く違うところが特徴的です。


・抜き難い出身地の方言をバネに、外国語(日本語)の習得に励んだ


セルナンセリェは山岳地帯の田舎であり、そのために彼自身は生涯,郷土の方言に悩まされたとのことですが、かえってそれが外国語である日本語や中国語の習得の動機となり、特に日本語習得については人並み以上の才能を示すことになったと考えられています。

「通辞ロドリゲス」という通称も、同姓同名のイエズス会宣教師である別人と区別する必要(そのくらい、ジョアン・ロドリゲスという名前は、ありふれたものだったということでしょう)から使われたようですが、ヨーロッパ人宣教師としては珍しく刻苦勉励して日本語に堪能で有能な通訳者となった、との彼自身の自負がそこに込められているようです。

彼の日本語熟達の程度は、単なる通訳の域を超えて、当時の権力者たちとイエズス会との外交折衝に参画し、後に秀吉、家康の愛顧を受ける要因ともなります。

また、日本語に関する事象を取り扱った語学書『日本大文典』を長崎で、『日本小文典』をマカオで刊行し、日本語研究の成果を残しています。


・少年時代、宣教師または商人の使用人として来日し、戦(いくさ)に加わったこともある

13,4歳の頃、宣教師か商人の使用人としてリスボンの港を発って、インド、マカオを経由し、1577年に日本に上陸します。

1578年、大友宗麟は島津氏の攻撃を受けた伊東氏を助ける等の目的で、日向に大軍を進めていますが、ロドリゲスはそれに従軍し敗戦を経験します。

その後豊後に留まったロドリゲスはイエズス会に入会し、1581年府内(大分市内)に開設されたコレジオ(神学校)に入学します。


・インド副王使節団の通訳としてデビュ-する

1590年7月、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが、帰国する遣欧少年使節を引率して再来日します。ヴァリニャ-ノは、87年に発布されたバテレン追放令に配慮して、ポルトガル国インド副王使節として秀吉に謁見することを試み、成功しますが、その際にロドリゲスは通訳として随行します。そして、それを機会にロドリゲスは秀吉の愛顧を得るとともに、重臣たちとの関係も築いて行きます。


・二十六聖人殉教事件で暗躍したと非難される

1596年
、スペイン船サン・フェリペ号の土佐漂着によって発生した事件に対し、ロドリゲスはその解決に奔走し、外交的手腕を発揮したと言われています。

しかし、その事件の結果処刑され殉教した二十六人(二十六聖人)のうち、イエズス会関係者は三人のみで、その後もイエズス会は日本における布教の上で、有利な地位を確保し続けたとして、フランシスコ会・ドミニコ会など他の会派から批判を受けることになります。


・プロクラド-ル(財務担当者)として抜群の手腕を発揮した

日本イエズス会の活動が、海外で運用・回収する資金や貿易取引の収益やポルトガル船貿易の窓口としての役割に依存していたことは周知のことですが、これを運営・管理する必要から、長崎、マカオ、マラッカ、ゴア、リスボン、マドリ-ドに日本イエズス会のプロクラド-ルが配置されていました。(おそらく、長崎以外のプロクラド-ルは他の職務を兼任していたのでしょう。)

長崎駐在のプロクラド-ルは、特に高度な政治的および経済的手腕が要求される重要な地位であるとして、1600年頃から最高の職階(階級)である「盛式四誓願司祭」が任ぜられるようになっていたことは、ルイス・デ・アルメイダに関する記事(http://iwahanjiro.exblog.jp/21914656/)に書きました。


・「盛式四誓願司祭」に昇格する

ロドリゲスは1598年頃からマカオに転出する1610年までの12年間、長崎のプロクラド-ルを努めています。彼は1601年、上述の「盛式四誓願司祭」に昇格していますから、実際はプロクラド-ルに任ぜられてから手腕を認められて「盛式四誓願司祭」に昇格したことになります。ロドリゲスの手腕がそれ程優れたものであったと考えることはできますし、また自分の業績が如何に優れたものであるかを組織に訴えることにも長けていたのでしょう。


・ポルトガル船貿易全体に強い影響力を持つようになる

プロクラド-ル(財務担当者)の役割は、単にイエズス会の布教活動に必要な資金の収支を管理することだけではありませんでした。

ロドリゲスが、プロクラド-ルとして日本イエズス会を財政面で支えたポルトガル船貿易全体を円滑に進める役割上、日本の有力な商人や大名たち、さらには最高権力者家康とも接触を保ちながら、次第にポルトガル船貿易全体に強い影響力を持つようになったことは想像に難くありません。その過程で、後に対立すようになる長崎代官村山等安とも、当初は連携して行動しています。


・「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」の影響を受けてマカオへ追放される

1609年6月に長崎に来航したノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号が、翌年1月有馬の水軍の攻撃を受けて自爆するという事件が発生します。

(この事件については、「キリシタン大名」有馬晴信に関する記事で採り上げましたので、ご参照下さい。
http://iwahanjiro.exblog.jp/i10/-)

この事件の結果、ポルトガル船貿易に関わってきた内外の商人等多数の関係者が甚大な損害を蒙ることになります。そして、このような事態を招いた原因は、日本人がマカオへ出かけることを禁じてポルトガル商船の特権を保証するような朱印状が(家康から)下付されたためであり、その朱印状を引き出すための裏工作にロドリゲスが関わっていたとされたのです。

実際に、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号船団の代表団長マテオ・レイタンが、長崎来航の翌月駿府を訪れており、このときロドリゲスは通辞として代表団一行を引率しています。そして、一行は家康に謁見し、家康から「日本人がマカオへ出かけることを禁ずる」命令(朱印状)を出す旨の約束を得ています。

問題は、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号の船長として来日したアンドレ・ペッソアは、マカオのカピタン・モ-ル(知事または総督に相当する地位)であり、有馬晴信の朱印船の乗組員であった50人近い日本人が殺された前年の「マカオ事件」の現地側の責任者であったことです。ポルトガル船の権益を擁護し日本人のマカオ渡航を制限するような命令を引き出すよう働きかけるならば、当然「マカオ事件」について家康に釈明すべきところですが、それがなされていなかったのです。

普通に考えると、命令(朱印状)が不当に出されたのであれば、その責任は命令を出した家康にもある筈ですが、まさか最高権力者である家康に責任があるという訳にはいかないという理由で、働きかけたロドリゲスの責任ということになったのでしょう。その結論が出る過程には、イエズス会に反感を持っていた長崎奉行長谷川左兵衛と代官村山等安の策謀があったとされています。

ロドリゲスは事件から僅か2か月後、船が自爆・沈没してしまったために陸に取り残されていたポルトガル商人たちと一緒にマカオ行のジャンクに乗せられ追放されたのです。


・ロドリゲス追放の理由については他にも噂があった

高瀬弘一郎著「キリシタン時代対外関係の研究」(吉川弘文館)第十三章「長崎代官村山等安をめぐる一つの出来事」には、1615年12月6日付マカオ発マノエル・ディアスのイエズス会総長宛て書簡が引用されています。(http://iwahanjiro.exblog.jp/20887207/

そして、「ジョアン・ロドリゲスと村山等安の妻との間の道ならぬ、しかも聖職者にあるまじき関係、およびそれを知った夫等安がロドリゲスの日本追放を策した、という事実を知ることができる。」とあります。

マイケル・ク-パ-(イエズス会士・歴史家)著「通辞ロドリゲス」(原書房)第十三章「追放」には、同じ書簡が引用されていますが、そこには以下の記載もあります。

「神父の頭には大きなできものが幾つもできていました。あれは性病だと言う人もあります。どんな治療をしたか知りませんが、頭に大穴が開いてしまって、一年以上かかって手当をしてやっとよくなったものの、頭のうしろにできたみにくい穴は、とうとうふさがりませんでした。」

このようにロドリゲスの醜い容貌を強調するような記述が何故仲間である筈のイエズス会士によってなされたのでしょうか。
「ロドリゲスの生活が乱れていた」と言いたかったのか、それとも「それ程醜い容貌をしていたロドリゲスには、人妻と道ならぬ関係に陥る可能性などなかった」とでも言いたかったのでしょうか。


・後に、家康はロドリゲスを追放したことを後悔していたと言われているが

ロドリゲスを追放してから二年後、家康はロドリゲスを追放したことを後悔し、イエズス会士との謁見の席で、彼を呼び戻すよう口走ったとイエズス会管区長ヴァレンティン・カルヴァリョが書いています。

カルヴァリョとしては、家康の言葉を採り上げることで、「ポルトガル船貿易の円滑な運営のために、日本にとってロドリゲスの存在が如何に大きなものであったかを家康が後になって思い知った」と言いたいのでしょうが、家康のその言葉は過ぎ去った人物に対する単なる社交辞令と考えたほうが良さそうです。

というのは、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号船団一行が長崎に来航し、駿府を訪問した際、この一行より遅れて平戸に着いたオランダ船の代表団の謁見が終わるまで、ポルトガル船の一行は待ちぼうけを喰らわせられているのです。この「待ちぼうけ」は、日本との通商をもはや独占させない旨のポルトガルに対する通告、を意味していたのです。

そして、ロドリゲスの後釜には英国人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)が据えられ、「脱ポルトガル・イエズス会」路線への体制作りが着々と進められていたと考える方が自然だからです。


〈むすび〉

ジョアン・ロドリゲスが果たした権力者たちとの折衝役や、イエズス会財務担当者というよりポルトガル船貿易業務推進役という役割は、日本のキリシタン教会の展開に欠かせないものであったことを、改めて感じながら書いているうちに冗長になってしまったようです。

ロドリゲスの日本人批判については、次回とさせて頂きます。


〈つづく〉




[参考文献]

日本教会史 (上)     解説 土井忠生   大航海時代叢書     岩波書店
通辞ロドリゲス    マイケル・ク-パ-著 松本たま訳          原書房 
キリシタン時代の研究     高瀬弘一郎著               岩波書店
キリシタン時代対外関係の研究 高瀬弘一郎著              吉川弘文館


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# by GFauree | 2016-08-22 07:28 | 通辞ジョアン・ロドリゲス | Comments(2)

キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その2]

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                              (写真撮影 三上信一氏)






前々回[その1]の記事で、キリシタン活動の性格や展開を決定付けた要因として、日本人聖職者の登用が制限されていたことを挙げました。日本人を修道士や司祭などの聖職者としないために、イエズス会への入会は極力制限する方針があったということです。

この「日本人のイエズス会への入会制限」については、「ペトロ・岐部・カスイ」に関する記事(http://iwahanjiro.exblog.jp/21105197/)や、「背教者クリストヴァン・フェレイラ」に関する記事(http://iwahanjiro.exblog.jp/22575045/)の中で言及し、
イエズス会の布教長フランシスコ・カブラルや通辞ジョアン・ロドリゲスの見解を一部ご紹介しました。

そこで、今回と次回はこの二人のポルトガル人宣教師が主張した「イエズス会への日本人入会阻止」について気付いたことを述べてみたいと思います。


〈フランシスコ・カブラルの見解〉



まず、布教長フランシスコ・カブラルの見解ですが、それは1596年ゴア(インド)に於いてイエズス会総会長補佐宛てに書かれた書簡に見ることができます。その書簡は、大航海時代叢書(岩波書店)「イエズス会と日本(一)」にその日本語訳が収められていますので、カブラルの意図したところを的確に理解するためには、できればその全文を読んで頂くことをお勧めします。

ただ、この書簡の主旨は単に「日本人のイエズス会入会に反対すること」ではなく、「巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが、マカオにおける原住民聖職者養成のための大規模なコレジオ(神学校)建設を、公認されていないという意味で不正な商業活動を行うまでして進めようとしているが、それは無意味なものである」として批判することでした。

ヴァリニャ-ノが進めた公認されていない不正な商業活動としては、ペル-からマカオへの銀積載船のもたらした“かねの処理”にヴァリニャ-ノが関わったとされる件もカブラルは挙げています。

ヴァリニャ-ノが関わったとされるペル-からマカオへの銀積載船については、下記の記事でも採り上げましたのでご参照ください。

http://iwahanjiro.exblog.jp/20646027/
http://iwahanjiro.exblog.jp/22303145/


〈カブラルという人物〉


カブラルは、1570年から1581年まで日本の布教長の職にありましたが、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノと布教方針を巡って対立し、日本布教長職を解任されマカオに送られました。その後、1592年から1597年までインド・ゴアでインド管区長を勤めています。

そこで、若干腑に落ちないのは、カブラルは東インド地域全般を統括・管理する立場であった巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノと対立し日本布教長職(当時、日本はまだインド管区に属する布教区に過ぎなかった)を解任されたにも拘わらず、インドへ戻り日本布教長より上級職であったはずのインド管区長職に就いていることです。

この時代のイエズス会は軍隊にも似た上意下達の厳しい統制の敷かれた組織であったと言われていますが、実際はそれが徹底されない場合も多々あったということかも知れません。

また、宣教師間で各々の出身国を巡って確執があったという話もあります。カブラルが日本を含むインド管区の主流であったポルトガル人であったのに対し、ヴァリニャ-ノはイタリア人であったことも関係しているかも知れません。



さて、書簡の内容ですが日本語訳でも25ペ-ジにわたる長大なものですので、ここでは日本人の入会に反対する根拠として書簡の中で挙げられている事項に限って以下に抜粋することにしました。


〈書簡の内容抜粋〉



~日本人を入会させることをやめないと(すでに7,80人受け入れてしまったので、いささか手おくれであるが)、イエズス会ばかりか、キリスト教界までが、日本で破滅してしまうに相違ない。

~私がこれを言うには、それだけの根拠があってのことだということを、尊師に理解してもらうために、以下いくつかの理由を挙げてみたい。~

第一に、私は日本人ほど傲慢・貪欲・無節操、かつ欺瞞にみちた国民を見たことがない。というのは、百姓でも内心王たらんと思わない者は一人もおらず、機会あり次第そうなろうとする。これは日本で毎日はっきり認められることである。~

第二に、この傲慢・貪欲・野心および欺瞞が仏僧たちをも支配しているので、彼らは、そうするよりほか生きるすべがない場合以外は、共同と服従の生活をすることに耐えられず、生活の道が立ちさえすれば、直ちにみずからが人の上に立とうとする。~

第三は、日本人たちは、自分の心中をさらけ出したり、他人に覚らせたりしないことを、名誉で思慮深いことだと考えている。彼らは子供の時から、このように欺瞞と偽りに充ちた人間になるよう育てられている。~

~パ-ドレ・アレッサンドレは、これまでイエズス会に日本人を受け入れることに情熱を燃やしてきているが、日本でこのようにしてやってゆき、日本人がエウロパ人より大勢になろうものなら、彼らだけで結束するかも知れない。彼らは、上に述べたような性格・資質を持っているので、深刻な分離や分裂が生じたり、あるいはわれわれが追放されて、彼ら自身が支配者となったりする危険が非常に大きい。というのは、彼らには、もしもそれを望むなら、為しうるだけの天性と、そのための手段がそなわっているからである。


〈カブラルの見解について思うこと〉


カブラルが、日本人を入会させるべきでない根拠として挙げた事項ですが、その一については、戦国時代の下剋上の風潮を指しているものと思われ、確かにそういう傾向はあったかも知れません。けれども、二と三については、何処の国の組織や個人についても場合によってはあり得るはずのことです。従って、それを日本に固有のこととしていること自体見識不足ですから、その意見は取るに足らないもののように思います。

それより、私の目を引いたことは、日本人を入会させることは、日本でのイエズス会やキリスト教会を破滅に導くと書いていることです。


〈カブラルの抱いていた恐怖〉


彼は、日本人が大勢入会しヨ-ロッパ人より多くなると、日本人だけで結束することや分離や分裂が発生し、日本人に支配されヨ-ロッパ人は追放される、と大真面目で心配していたようです。

そこで思い出したのは、大航海時代のコロンブス以来の征服者たちが、先住民に対して底知れない恐怖感を抱いていたと伝えられていることです。

海外布教が、教会と国王権力による「教俗一体」体制で進められた征服事業の一環であるという意識をもしカブラルが持っていたとすれば、彼もまた布教地(征服地)日本の先住民(国民)に対し底知れない恐怖を抱いていたとしても不思議ではありません。


〈日本人に対する批判はカブラルの必至の生き残り策でもあった〉


カブラルの日本人に対する批判的な姿勢によく対比されるのは、ザビエルやヴァリニャ-ノの日本人に対する好意的な評価です。その点については、「背教者クリストヴァン・フェレイラ」に関する記事の中で言及しました。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/

海外布教地は新規に開拓すべき市場であり、宣教師と信者の関係は営業マンと顧客の関係に似ています。ザビエルやヴァリニャ-ノは、優秀な営業マンでしたから、顧客の扱い方のみならず、顧客についての本部への報告の仕方や自分に対する評価の得方も充分熟知していたのでしょう。自分の顧客が如何に良質で、担当地域が如何に将来性があるかを予め本部に知らしめておいて成果を上げて見せたのです。優れた宣教師(営業マン)として高い評価を得ないわけがありません。

一方カブラルは、日本人の部下の育成に失敗し、反抗され、離脱した者の中には分派を作ろうとする者まで現れ、バリニャ-ノによって布教長職を解任された人物です。彼には日本人へ好意的評価を与える余裕などなかったばかりか、自分の失地回復のために、なりふり構わず必死の日本人批判を繰り広げるしかなかったという面もあったのでしょう。


〈しかし、カブラルの作戦は成功した〉


「17世紀キリシタン布教も後期に入る頃、ローマのイエズス会本部は急速に日本人に対する評価を下げ、その入会と叙品(司祭の資格を与えること)についての審査をそれまで以上に厳格にして、門を狭めた。」(キリシタンの世紀 高瀬弘一郎著 岩波書店)

カブラルの様な考えを持つヨ-ロッパ人宣教師は少なくなかったようですから、彼の意見具申のみによって、本部がこのような方針を採るに至った訳でないであろうことは言うまでもありません。

しかし、その後の流れを観ると、カブラルがザビエルやヴァリニャ-ノのような教会勢力拡大の実績によってではなく、在日イエズス会・キリシタン教会の日本人による乗っ取りの危険を本部に知らしめるという方法で自己の存在をアピ-ルすることに成功したとは考えられるようです。

世の中の如何なる組織においても、その主たる活動の拡大・発展に寄与することは最も高く評価される要因となり得るでしょうが、組織の存亡に関わる危機を未然に防ぐこともそれに劣らず重要であることは確かです。

そういう意味で、彼の属していた組織は、実に現世的・人間的な組織だったとも言えるのではないかと私は思います。


次回は、もう一人のポルトガル人宣教師ジョアン・ロドリゲスの日本人批判について書かせて頂こうと思っています。


〈つづく〉















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# by GFauree | 2016-07-22 13:18 | フランシスコ・カブラル | Comments(0)