【大航海時代のおと】

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知事と総督

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                                (撮影 三上信一氏)




スペイン語で、知事は gobernador civil、総督は gobernador generalで、どちらも gobernador です。
英語では governor ですから、スペルが少し違います。


過去の記事の中で、16世紀にスペイン本国からフィリピン総督として派遣されたゴンサロ・ロンキ-リョ-が、在任期間中の立場を利用して個人的蓄財のために如何に涙ぐましい努力を払ったか、を書きました。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22266378/



総督と言えば、「日の沈むことなき」(つまり、全世界的に展開した)スペイン帝国の植民地官僚トップとして本国から派遣された超エリ-トでした。そういう立場にある人物の、いじましいというか、恥知らずな金儲け主義が印象に残っていましたので、今回の東京都知事の話に触れて同じく gobernador と呼ばれたそのフィリピン総督を直ぐに思い出しました。


ただ、今回問題となった都知事は、在任期間にその立場を利用して金儲けを図ったというより、知事としてやたらな贅沢(貧しかった子供の頃からの夢を実現したかったのでしょうか。だとすれば、同じ貧乏人出身同士として気持ちは少し分ります。)をしていた以外に、政党に交付された政治資金を個人の中古車・旅行・飲食・趣味に流用していた(何だか、わずかな役得を手に入れたサラリ-マンがやりそうなことです。このやり口には、私も含めて身に覚えのある人は少なくないのではないかと思います。)のが発覚してしまったという何とも情けない話です。


そういう観点から見ると、献金まがいの5千万円を「(相手が)良い人だなと思って」受け取ったと答弁して辞職した前知事の方が、「大航海時代」のフィリピン総督にまだ近いかも知れません。気が付いたことは、フィリピン総督の場合は地位を利用して積極的に個人的利益・資産の拡大を追求したけれど、現都知事はそんな積極性は持ち合わせず、個人的(生活費的)費用負担の圧縮をひたすら追求していたという違いがあることです。確かに、利益を出して個人資産を増やすには、収入を増やす以外に公的なお金を使って自分の費用(支出)負担を減らすという方法もあるんですね。


知事とか総督とかのある程度の経済的影響力や妙味を期待できる地位に就こうとする人の半分以上は、こういう性向を持った人たちだ、と考えたほうが間違いがないと私は思うようになっています。


一時期まで、多くの社会的地位には物質的な役得というものが付いていて、それを精一杯利用する人が多いということをもっと若いうちから知っていれば、などと考えたものです。ですが、この頃は、若いうちにそんなことを知らないで良かったと思っています。それは、私のように心の弱い者は、今回の都知事のように、自分が狙った役得や利権を手に入れたりすれば、それに有頂天になってとんでもない恥知らずな失敗をする可能性が大いにあったことが分ってきたからです。



次回は本題に戻ろうと思っています。







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# by GFauree | 2016-06-17 12:12 | Comments(2)

キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その1]


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このブログを書き始めてから約1年半が経ちました。その間に、以下の人物について記事を書いてきました。

1.慶長遣欧使節 支倉常長
http://iwahanjiro.exblog.jp/i3/
2.1613年リマ市にいた20人の日本人
http://iwahanjiro.exblog.jp/i2/
3.秀吉に会ったペル-出身の男 フアン・デ・ソリス
http://iwahanjiro.exblog.jp/i4/
4.長崎代官 村山等安
http://iwahanjiro.exblog.jp/i6/
5.ペトロ・カスイ・岐部
http://iwahanjiro.exblog.jp/i8/
6.キリシタン大名 有馬晴信と「岡本大八事件」
http://iwahanjiro.exblog.jp/i10/
7.天正少年使節 千々石ミゲル
http://iwahanjiro.exblog.jp/i11/
8.コスメ・デ・ト-レスフランシスコ・ザビエル
http://iwahanjiro.exblog.jp/i12/
9.南蛮医 ルイス・デ・アルメイダ
http://iwahanjiro.exblog.jp/i13/
10.マカオへ銀を運んだ船を率いた2人のペル-・イエズス会士
http://iwahanjiro.exblog.jp/i14/
11.背教者 クリストヴァン・フェレイラ
http://iwahanjiro.exblog.jp/i15/

上記のうち、2.の「リマ市にいた20人の日本人」と10.の「2人のペル-・イエズ会士」を各々一人と数えると、合計12人の人々について書いてきたことになります。

この時代の人で採り上げたい人物は他にもいるのですが、折角当地に住んでいるのですから、日本のキリシタン関係者は一先ず措くことにして、同時代とそれ以降の南米のキリスト教布教に目を向けてみようと考えました。

よく布教史と言うと、何処に教会や学校を作り、何人に洗礼を授け、どんな町が建設されたかなど、が語られることが多いようです。ですが、私としては改宗した先住民の人々がどのようにキリスト教を理解し受け容れたのか、についておぼろげであっても私なりのイメ-ジをもっておきたいと考えました。

そこで思い出したのが、高瀬弘一郎著『キリシタンの世紀』(岩波書店)に紹介されていた古野清人氏の論文『キリシタニズムの比較研究』(『古野清人著作集』五 三一書房)です。その論文なかで、「潜伏時代はもちろんキリシタン時代においても、その信仰がいわゆるシンクレティズムであった」ことが論じられているということでした。

シンクレティズムとは、「相異なる信仰や一見相矛盾する信仰を結合・混合すること」と、WIKIPEDIAでは定義されています。

運良く『古野清人著作集』五、を入手することができました。古野氏は、その中で日本のキリシタンの信仰は「伝統的に固有な仏教と神道およびひろく民間信仰と民衆の慣行と、中世的ロマン・カトリシズムとの特異な習合形態、すなわちシンクレティズム」であり、「けっして正当なカトリシズムとはみなされない」ものである、と主張しているのです。


論文『キリシタニズムの比較研究』は前篇、後篇に分れています。前篇では、フランシスコ・ザビエルの渡来から迫害・殉教によって聖職者不在のなかで残存せざるを得なくなっていったキリシタン宗門史が概観されています。

その前篇を読んでいたときに改めて気付いたことが何点かあります。それは、

・「ペトロ・カスイ・岐部」や「背教者 クリストヴァン・フェレイラ」に関する記事で採り上げた通辞ジョアン・ロドリゲスや布教長フランシスコ・カブラルなどの日本人に対する厳しい見方から、日本人聖職者の登用が制限されていたこと

その結果、幕府の禁教政策が徹底され外国人宣教師が追放されてからは、キリシタン信徒は聖職者不在のなかで宗教活動を継続せざるを得なかったこと

・聖職者不在のなかで崩壊に瀕したキリシタン教会を維持していくために、組講の組織が外国人宣教師によって奨励されたこと。また、組講の活動を通じて、キリシタン教会の主導権は、聖職者から一般信者の中の指導者へと移って行ったこと

以上の内容をまとめると、

日本人聖職者の登用制限⇒組講組織の奨励⇒聖職者から一般信者の中の指導者へ主導権移行⇒外国人宣教師の追放⇒聖職者不在の中で組講の組織によって活動を継続⇒潜伏・隠れキリシタンの発生


フランシスコ・カブラルは1570年から10年間布教長の職を勤めています。ということは、日本人聖職者の登用制限はキリシタン布教活動の初期からの話だということです。その登用制限による聖職者の不足は組講の組織によって補われ、やがてそれは、潜伏キリシタンの活動に繋がっていったようです。

ということは、「日本人聖職者の登用制限」こそキリシタン活動の性格も展開も決定付けた要因である、と言うことが出来るような気がします。

そこで次回以降、「日本人聖職者の登用制限」や「潜伏・隠れキリシタン」について考えてみようと思います。

このブログを書き始めた頃、私はキリシタン時代史に興味があると言っても、「フランシスコ・ザビエル」や「島原の乱」や「殉教」や「隠れキリシタン」には関心がないなどと書きました。ところが今になってみると、コスメ・デ・ト-レスに関する記事で「フランシスコ・ザビエル」を、小説「出星前夜」の記事で「島原の乱」を、ペトロ・カスイ岐部や背教者クリストヴァン・フェレイラに関する記事で「殉教」を採り上げてしまいました。そして、「潜伏・隠れキリシタン」についても、自分なりに見直してみようと思っています。わずか1年半の間に、キリシタン時代に対する見方がだいぶ変わってきています。

〈つづく〉





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# by GFauree | 2016-05-30 13:00 | 異文化理解と他者認識 | Comments(0)

背教者 クリストヴァン・フェレイラ [その5]

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                                    ロ-マ教皇庁布教聖省本部



1.フェレイラが乗ってきた船


クリストヴァン・フェレイラが初めて日本の土を踏んだのは、1609年6月29日のことである。
カピタンモ-ルであるアンドレ・ペッソア率いるマカオからの定航船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号で長崎に着いたのである。

ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号という船の名前で思い出された方も多いだろう。

その船の長崎入港後、アンドレ・ペッソアと長崎奉行長谷川左兵衛との間に、取引を巡る争いが発生した。

この時、前年自分の朱印船がマカオでトラブルを起こし、その処理に関してペッソアに恨みを抱いていた「キリシタン大名」有馬晴信も奉行に加担、家康の承認を得て有馬軍がその船を攻撃し、1610年1月長崎湾にて遂にペッソアもろとも自爆させるに至った。

これが、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」であり、その事件については、2015年6月8日付の記事に書かせて頂いたのでご参照頂きたい。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21320097/

この事件について注目すべき点は、この事件ほどキリシタン教会に大きな打撃を与えたものは他になかったのではと考えられることである。

上記の記事に書いたために繰り返しになってしまうが、念のためにそのキリシタン教会が受けた打撃の内容を以下に書き出してみよう。


(1)「キリシタン大名」がポルトガル船に攻撃を加えたことによって、従来、少なくとも建前上は一枚岩となってキリシタン教会を支えていた筈の「ポルトガル商人・イエズス会・キリシタン大名」勢力の分裂が露呈した。


(2)沈没船には相当量のイエズス会の船荷が積載されており、それを喪失した結果、イエズス会は甚大な損害を蒙り、従来から窮迫していた財務状況はさらに悪化し大幅な債務を負うこととなった。


(3)この船には、マカオのポルトガル商人から日本で「銀」に替えることを委託された「金」が積まれていて、日本に到着した時点で「金」から「銀」に交換された。

ところが、日本側のイエズス会士は、マカオに送り返すべき「銀」を船に積み込まず、結果的に船が沈み、マカオの委託者は「銀」の支払いを求め、イエズス会側は「海損の慣行」をたてに支払いを拒んだ。

イエズス会側の主張は理論的には、一応筋が通っているが、対価である「金」は受け取ったのだから、「銀」の支払いをしなければ「ただどり」である。それでも、イエズス会側は譲らず論争は10年以上に及んだ。

いずれにしても、この件によって、マカオのポルトガル人のイエズス会に対する不信感が一挙に増大したと考えられている。


(4)イエズス会内のヨーロッパ人会士と日本人会士との間の亀裂が顕在化した。

「日本人の修道士はペッソア司令官が逮捕されるように、教会へ祈りに行く始末で、爆発が起きたためにその大船が沈没すると、ヨ-ロッパ人は嘆き悲しんだが、日本人は喜びに湧き立った。」(「通辞ロドリゲス」マイケル・ク-パ-著)


(5)さらに、1614年の全国的な禁教令発布の決定的な契機となったと言われる1612年の「岡本大八事件」は、この「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」に起因している。



〈この事件による打撃の意味するところ〉

「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」によってキリシタン教会が受けた打撃は、次のような意味を持つものと考えられる。

キリシタン大名のポルトガル船攻撃・イエズス会の貿易商品の喪失・マカオ商人とイエズス会の対立、はどれもキリシタン教会を支え布教を推進してきたイエズス会の活動の基本構造に係わることである。ということは、この時点で既にイエズス会は活動の基本構造(いわば、ビジネス・モデル)の一部に破綻を来していたということである。

イエズス会内のヨ-ロッパ人会士と日本人会士の敵対関係が露呈したということは、未解決のまま燻(くすぶ)ってきた組織内の問題が覆い隠せなくなってきたということでもある。


なお、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」・「岡本大八事件」が、全国的な禁教令発布に繋がって行った過程については、「キリシタンの浸透ぶりに家康が驚愕して」というような説明を見掛けることが多い。しかし、「岡本大八事件」は、長期安定政権樹立と貿易独占という喫緊の課題を抱えていた幕府が、豊臣勢力との決戦に向けて課題消化のために意図的・計画的に起こしたものだったと考えるべきではないか、と私は考えている。その点については、2015年6月20日付の記事をご参照頂きたい。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/


以上の意味から、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」はキリシタン教会の内部組織にとっても、またそれを取り巻く周囲の政治状況にとっても、非常に重大な出来事であったと考えられる。そして、そういう船にフェレイラが乗船して来日したということについては、感情的な表現と受け取られてしまうかも知れないが、“彼の宿命”とでもいうものを感ぜざるを得ない。


2.カトリック教会の海外布教体制も大きく転換しつつあった


ここまで、フェレイラの日本到着とほぼ時を同じくして、日本のキリシタン教会の内外の局面が激しく変化していったことを示す事件が起きていたことを述べてきたが、実はフェレイラが来日した後、逮捕される遥か以前から、海外のカトリック教会全体としての布教体制も大きく転換しつつあったのである。

それは、1622年、[その2]の記事でご紹介したイエズス会総会長宛書翰をフェレイラが書いた翌年、ということは来日から13年後、逮捕・棄教の11年前のことである。その年、ロ-マ教皇庁内に、海外布教地の問題を管轄する布教聖省が設置され、その初代書記官にフランチェスコ・インゴリが就任する。インゴリは反イエズス会の立場で27年間布教聖省を動かしたと言われている。

ところが、布教聖省設置時の教皇は、イエズス会で育成された初の教皇グレゴリウス15世であり、イグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルを列聖させたことでは知られているが、布教聖省に関しては反イエズス会の書記官を任命して、率直なところ一体どのような方針を以て臨んだのだろうか。

イエズス会で育てられた教皇は、大航海時代の海外布教を支えてきたイベリア両国の国力に頼った布教の在り方の見直しを迫る声に押されて、布教聖省を設置し反イエズス会の書記官を任命したものの、強固な植民地統治に守られた布教地の教会組織に介入することはできず、結局は、為す術がないことを知っていたのではないかとも思える。


〈従来の布教体制の問題点〉

それでも、従来の布教体制の問題点についての、新設の布教聖省の公表された認識は、概略以下のようなものだったらしい。

(1)宣教師が教会保護者である各国王室の意を迎えようと、国家の政治的・経済的利害に沿った行動を取りがちだった。
(2)ポルトガル・スペインをはじめ、国家間の対立抗争が教会に持ち込まれ、教会活動の純粋性を損なってきた。
(3)布教保護権制度上の、保護者(各国・国王)の義務(経済的負担)が履行されず、教会は常に収入不足に悩まされてきた。
(4)原住民聖職者の養成が軽視され、布教の現地適応が進められなかった。


〈布教聖省の対処方針〉

以上の問題点は、日本のキリシタン教会にもそのまま当てはまるものである。
教皇庁は以上の問題点を認め、その対策として次の方針を立てたとされている。

(1)布教と政治・植民とを分離する。
(2)原住民聖職者を養成し、布教政策を現地の事情に適応させる。

しかし、布教聖省が如何に立派な方針をたてようと、海外布教地で働く宣教師自身の考えが変わらない限り改革は進まない。そのうえ、宣教師たちの(人種差別を含む)意識を変えることは容易ではないし時間もかかる。

特に日本の場合、キリシタン布教については、秀吉以来の為政者から侵略的性格を疑われてきたのだから、まずは布教と政治の分離を明確に立証し示すことが必要だったが、それはどこまでなされたのだろう。教会側に言わせれば、その機会を与えられなかったということだろうか。

布教聖省設置の同年(1622年)には、長崎で55名の殉教があり、その翌年には江戸・芝で50名が処刑されている。キリシタン取締りは日増しに強化され、やがてはフェレイラ逮捕に至る流れは変わらないにせよ、カトリック教会側の方針は転換されていたのである。


〈取り残されたフェレイラ〉

布教聖省が設置されたことをフェレイラが何時知ったかは分らない。しかし、彼が祖国ポルトガルから船出した1600年にも、マカオを発ち日本に着いた1609年にも、国王権力と教会が一体となって海外布教を進める“教俗一体”の体制を否定する組織が教皇庁の中にできようとは、想像すらできなかったのではないか。

さらに、彼が所属していた組織のことを考えると、世界的にも歴史的にも様々な面で、その組織の優秀さには抜群の定評がある。そういう組織が、教皇庁が代表するカトリック教会指導部の傾向を感知しないわけがない。当然、日本の布教の将来性を検討したであろう。そして、出した答えは撤退であるはずだ。もちろん、軍隊の撤退と同様に内部に対しても、それを公表する訳にはいかない。

そんな中、組織のエリ-トとして育てられてきたフェレイラは、順当に次々と重責を担わされていく。もう、行き先には「殉教」しか残されていないのに、その「殉教」の原動力となる筈の組織特有の精神鍛錬法が、冷静な判断力を持つ彼の中で次第に効能を失っていったとすれば、彼は「棄教」へと追い詰められるだけだったということではないだろうか。


3.分からず屋たち


〈部下に去られた者の腹立ち〉

「私は日本人ほど傲慢・貪欲・、不安定で偽装的な国民を見たことがない。彼等が共同の、そして従順な生活ができるとすれば、それは、他になんらの生活手段がない場合においてのみである。ひとたび生計が成立つようになると、たちまち彼等はまるで主人のように振舞うに至る。・・・・・・
彼等は土着民であり、彼等には血族的な繋(つな)がりがあるが、日本におけるヨ-ロッパ人には、一人の親族があるわけでもない。

彼等はラテン語の知識もなしに、私達の指示に基いて異教徒たちに説教する資格を獲得しているが、これがために我等を見下げたことは一再に留まらない。日本人修道士は、研学を終えてヨ-ロッパ人と同じ知識をもつようになると、何をするであろうか。・・・・・・

日本で修道会に入って来る者は、通常世間では生計が立たぬものであり、生計が立つ者が修道士になることは考えられない。」
(日本巡察記 東洋文庫 229 解題Ⅱ 1.布教長カブラルと日本の情勢より)


読んでいると腹の立って来る言葉の連続だが、これは、イエズス会にあって現地適応主義のフランシスコ・ザビエルや巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの対極に位置付けられている、原理原則主義のフランシスコ・カブラルのものである。

カブラルは、1570年コスメ・デ・ト-レスの後任として日本イエズス会の布教長に就任したが、布教方針をめぐって巡察師ヴァリニャ-ノと対立し、1580年に布教長を解任されたが、その後もインド管区長の地位に在って、終始ヴァリニャ-ノを攻撃し続けた人物である。

カブラルは布教長時代、何人もの部下から離反され、分派を作られ、彼等の連れ戻しに相当苦労したことが知られている。イエズス会は上意下達の明確な組織だったと考えられるが、日本語能力のない外国人宣教師は説教すらまともにできなかったのだから、部下に去られてしまえば活動が立ちいかなくなり、彼等の連れ戻しに必死にならなければならなかっただろう。

従って、この言葉は、自分をそのような苦境に追い込む日本人たちが、如何に性格が悪く、修道者に適さないかを腹立ちまぎれに書きなぐったものと考えられる。そんなに、日本人が嫌ならさっさと日本を去り素晴らしいキリスト教国へ帰ってもらいたいところだが、本人としては、「キリスト教布教の使命感でいてやっている」ぐらいの気持ちだったのだろう。そういう宣教師もいたというより、少なくなかったと考えるべきだろう。


〈異教徒のことが本当に解からない〉

私がこのカブラルの言辞について気が付くことは、日本のような異教の土地に暮らす異教徒に異教の地で布教するということが、この人は本当に解かっていなかったらしい、ということだ。そうでなければ、このような言葉は吐けない。

日本は、ヨ-ロッパのように千年以上かけて社会の隅々にキリスト教が染み渡っているところではなかった。南米のように、短期間のうちに社会の仕組みとともにキリスト教を無理やり呑み込まされたというのでもなかった。従って、普段は従順に振舞っている部下たちも、ひとたび教会から出ていく覚悟ができれば、上司だった者のいうことなど聴くわけがない。

ヨ-ロッパや南米であれば、教会の影響力は社会全体に行き渡っているから、仮に教会を出て行くことになった者も、後々のことを考えて、出来るだけ穏便な態度をとっただろうが、日本人で教会を辞めていく者は、別に後々まで教会関係者の影響を受ける心配はないから態度を一転させたのだろう。だからこそ、武力による強制を伴わない布教地での活動は難しいのである。

そういうことを解っていなかったカブラルは、辞めることを決心した部下の態度の豹変に、さぞかし驚き、慌てまた憤慨したことだろう。

〈ザビエルやヴァリニャ-ノだって本当に解かっていたかは疑わしいが〉

けれども、カブラルがそうだったからと言って、現地適応主義であったとされるザビエルやヴァリニャ-ノが、本当に異郷の地である日本や異教徒である日本人を理解していたかというと、そういう訳でもない、と私は思っている。

ただ、彼等は抜群に出来のいい営業マンだったから、顧客の扱い方や組織への報告の仕方や評価の得方を知っていたということなのだろう。
教会の聖職者と信者の関係は、営業マンと顧客の関係に似ている。自分の顧客を悪く言う人は、営業マンとして既に失格である。

有能な営業マンは自分の顧客が良質であり、その顧客との取引が将来性のあるものであることを組織に知らしめることによって、組織の眼を自分に向けさせる。また、良質であり将来性のある顧客であるからこそ、その取扱いは難しいし、そのために自分が如何に能力を発揮しながら細心の注意を払い、その扱いに努力しているかを組織に訴え続ける。

無論、彼は実績を上げるべく最善の努力をし顧客にさえ自分の能力を認めさせる位だから成功する可能性は高い。そして、その成果は予め経緯を充分に知らしめておいた組織によって何倍にも評価される。つまり、彼は教会が自分の方から努力して何かを認識したり理解したりなぞはなかなかしようとしない普通の怠惰な人間の集団に過ぎないことをよく解かっていたのである。ザビエルやヴァリニャ-ノの行動と報告の内容と彼らに対する組織の高い評価はこれで概ね説明がつくと思う。

ザビエルやヴァリニャ-ノの諸報告は、日本人にとっては耳触りの良いものが多いが、その内容によって彼ら自身も組織の中で良い評価を得ているのだから、自分たちと布教地日本の信者とは、もちつもたれつ、共存・共栄の関係であることを彼らはよく心得ていたということなのだろう。


〈棄教後のフェレイラに接触した人たちも〉

それはさておき、私はクリストヴァン・フェレイラの棄教後、彼に接触したとする教会関係者の姿勢・対応にも、「本当にこの人たちは、分っていないなあ」と感じるのである。

彼らによって、フェレイラが貧しい生活を送っているとか、涙を流したとか、惨めな生活を印象付けるような型通りの報告がなされている。外国人の元神父が日本女性と結婚して一緒に住んでいることが、カトリック信者にとって興味を引くことであるのは分るが、何人もの人に似たような報告をさせる程のことでもあるまい。

考えてみれば、カトリック教会の影響力が隅々まで染み渡っているような社会から来た人が、日本という異教の地でフェレイラの置かれた状況や、彼の気持ちや考えを余程のことがない限り直ぐに理解できるわけがないのである。

加えて、フェレイラとの接触によって何かを掴んだにしても、へたにマカオに戻ってからフェレイラに同情的なことを言えば、今度は自分が背教者の味方をする異端者として非難されかねなかったのだから、通り一遍のありふれたことを報告として述べるしかなかったのだろう。

どうせ、自分の状況を理解できず、またその努力をしようともせず、ただ押しつけがましく「立ち返り」つまり「殉教」すなわち「自殺行為」を勧めるだけの人たちと会うことが無意味であることは、フェレイラにとっても次第に明確になっていったことだろう。



4.
棄教した後の境遇


クリストヴァン・フェレイラは、捕縛・拷問・棄教の前に、それ以降のことを、どこまで考えていたのだろう。
キリシタン教会を統率・牽引する立場にある者としては、もし棄教の可能性を考えていても、それを口にする訳にもいかず、そもそも、上に述べた多くの外国人宣教師と同じように、それを具体的に想像できるほどには、日本の一般社会を知らなかったかも知れない。

だから、棄教後の境遇には戸惑うことの連続だったのではないか、と私は想像する。

〈老境に差し掛かっていた〉

その時、彼は53歳になっていた。現代の日本企業では、そのくらいの年齢で親会社から子会社に転籍させられ、それ以降は“第2の人生”などと呼ばれている。ただ、彼の場合は、「人生五十年」と言われていた時代の53歳である。もう老境に入っていたと言ってもおかしくない。当然、経済的にも困窮したはずである。

〈尊敬の代りに軽蔑〉

彼にとって、何よりもつらかっただろうと思われることは、若い時からエリ-ト集団の中の選り抜きの聖職者として育成され、黙っていても司祭として尊敬され、またそれにふさわしい役割が常に与えられていたのに対し、そういうことが全く無くなってしまったことだろう。代わりに、“転びバテレン”、“キリシタン目明し”などの呼び名に表れているような蔑みの眼が、周囲の日本人から浴びせられたであろうことは想像に難くない。

〈永遠に故郷を失う〉

また、これも当然のことだけれど、生まれ育ったキリスト教社会と永遠に訣別し、二度と後戻りのできない立場に追い込まれたことである。

宣教師として、海外布教に献身する以上は、布教地日本に骨を埋める覚悟はできていただろうけれど、気持ちはむしろ故郷のキリスト教社会と強く結びついていた筈である。棄教を選んだために、故郷の側から自分に手が差し伸べられることは永遠に無くなってしまったことの孤立感を彼はどのように克服したのだろうか。

こういう困難な境遇の中で、フェレイラは残りの17年間を生き抜いた。その困難さや苦痛は、激情にかられた殉教に優るとも劣らないものだったのではないか、と私は思う。

〈フェレイラを支えたもの〉

彼の業績は、[その4]で挙げた彼の著作や医学流派の始祖たちへの教育という形で残されている。そういう業績を生み出したフェレイラの情熱は、まず医学を勉強しようとした日本人の弟子たちに支えられるところがあったのではないか、と私は思う。真面目で熱心で優秀な生徒を教えることほど、生きていく力を与えられることはないことを私自身経験しているからである。

また、刑死した中国人の妻だったと言われる日本人の女性や、杉本忠恵の妻となった彼らの娘を含む子供達との生活によっても、彼は生き抜く力を与えられたのかも知れない。

それらのことが、東京、谷中の瑞輪寺にある杉本家の墓に「忠庵浄光先生」の名前と死亡の日付が刻まれ、フェレイラの娘婿であった医家杉本流始祖杉本忠恵の師として祀られていることに表れているのではないだろうか。

言うまでもなく、幕府の禁教・鎖国政策は、ポルトガルからオランダへの世界的な勢力交代という背景のもとに進められたものである。その政策によって棄教を強いられ、キリスト教社会からも絶縁され全てを失ったかに見えたフェレイラが、南蛮(ポルトガル)・紅毛(オランダ)両国系の学問・知識の吸収・普及に貢献することに活路を見い出した、と考えることも出来る。


そのように、いわば時代の要請に応じる確かな生き甲斐を見つけたフェレイラの晩年は決して惨めなものなどではなかったのではないかと思えてくる。彼が死の直前に、棄教を後悔し「立ち返り」をして殉教したなどということも、考える必要のないことになる。


5.おわりに


以上、クリストヴァン・フェレイラの生涯を総括すると、「大航海時代」の歴史の浮き沈みに翻弄されながらも、自分なりの人生を生き通した人、と言えそうである。けれども、考えてみれば人は誰でも皆、歴史の奔流に巻き込まれ翻弄されているのである。だから、フェレイラは必至で生き抜こうとした彼の一生を通じて、彼の生きた時代とその時代の人々の生き方を示してくれる「大航海時代」の代表的人物と考えればそれでよいのであって、それ以上に持ち上げる必要もそれ以下に貶める必要もないと私は思う。

しかし、それにしても感ずることは、人にとって大事なことは、成功することなどではない。まず生き延びようとすることだ。
人間は、成功しようがしまいが、あくまで生き続けるべきなのだ。そして、そこにこそ人生のより本物の喜びも在り得るようだ。

また、それを否定する考え方は、宗教とは呼べない。なぜなら、宗教は先ず生きるためのものだからだ。
だから、殉教者を賛美することも、殉教しなかった者を蔑んだり哀れんだりすることも、ともに浅慮の為せる業と言う他はないのである。


〈完〉



[参考文献]

「キリシタン研究」 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」Hubert Cieslik S.J. 吉川弘文館

「キリシタンの世紀」 ザビエル渡日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著 岩波書店


















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# by GFauree | 2016-04-07 12:57 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(5)

背教者 クリストヴァン・フェレイラ [その4]

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               教会を去った神父の心の支えを探った作品。モデルは作者の周囲にいた実在の人物。



1633年
、クリストヴァン・フェレイラは逮捕され拷問を受け棄教した。
今回は、彼の棄教とそれ以降の人生をイエズス会司祭フ-ベルト・チ-スリク氏の論文「クリストヴァン・フェレイラの研究」に沿って辿ってみたい。


1.棄教の背景


1633年3月
、それまで長崎奉行としてキリシタン取締りの指揮を執ってきた竹中采女正が罷免され、江戸で切腹を命じられた。貿易に関する様々な不正に加え、実は自己の利益のためにポルトガル人と密接な関係を持っていたことが発覚したからである。

直ちに、幕府は相互監視の意味で二人の奉行を任命したが、その二人奉行の体制が続いたのは1634年8月までのことである。ところが、そのわずか17か月の間、二人の奉行はまるで手柄競争をするように、キリスト教弾圧を進めた。

その流れの中で新たに加えられたのが、「穴吊るし」という拷問方法である。

チ-スリク氏の論文によれば、1633年7月から10月にかけて、聖職者と信者を合わせて少なくとも46名が逮捕され拷問を受けている。

そのうち、イエズス会の神父、修道士、伝道士は21名である。その中に、クリストヴァン・フェレイラが含まれていた。

46名のうち何名が殉教し、何名が棄教したのかは言及されていない。
ただ、このとき殉教した者の中には、四人の天正遣欧使節の一人であり、後に神父になった中浦ジュリアンが含まれている。
ヨーロッパに向けて旅立ってから約五十年が経ち、64歳になっていた。

フェレイラは、穴に吊るされてから5時間後に屈服したとされている。彼は長崎に家を与えられ、処刑された中国人の妻だった日本人婦人と暮らすように命ぜられ、沢野忠庵という日本名を与えられた。53歳のときである。


2.棄教者としての生活


(1)1635年6月

(マカオから日本へ向かった艦隊の司令官ドン・ゴンサロ・シルヴェイラの報告)

・フェレイラは奉行所の命令で結婚させられたが、決して幸福な生活を送っていない。
・フェレイラが自分に会うことを避けたのは、背教者であり貧しいからと言って施しを乞うようなことはしたくなかったからである。
・翻訳をして奉行所のために働いている。
・キリシタンや神父たちを裏切るようなことは、していない。


(2)1637年

ドミニコ会(司祭)管区長代理アントニオ・ゴンサレスを含む四人の司祭と二人の従者が、マニラを出港し琉球に到着して捕えられた。薩摩の船で長崎に護送され、裁判官から尋問を受けた。

「その場には、背教者クリストヴァン・フェレイラともう一人の日本人元司祭がいた。裁判官は(ゴンサレスが持ってきたという)書簡を探し出させ、フェレイラに『宛名は誰か』と尋ねた。フェレイラは顔色を変え、恥じて震えながら『私宛である』と言った。」


(3)1639年

(「日本切支丹宗門史」より)

7月中、江戸でイエズス会の日本人ペトロ・カスイ神父が、物凄い拷問を受けた後、穴に吊るされて死んだ。白州で、彼は不幸なフェレイラに引き会わされたのであった。そして、彼に向かって堂々と非難した。面くらったフェレイラは、その場を外した。


(4)1643年

前回[その3]の記事に書いたことだが、イエズス会のアントニオ・ルビノ神父が組成した二つの日本渡航グル-プのうち、第二のグル-プは、この年6月筑前国大島に上陸し捕縛され、8月に江戸で吟味を受けたが、その際にフェレイラが通訳を勤めている。
なお、このグル-プは十名全員が棄教したと言われている。


(5)1646年

1641年、オランダ商館が平戸から長崎の出島へ移転し、フェレイラは、オランダ人と日本人との通訳として、また仲介者として働くようになった。

ところが、商館長ウィルレム・フェルステ-ヘンは、1646年11月17日付で次のように記している。

「予は日本へ来た時から背教パ-ドレたちのことを知ろうと努めたが・・・。今は二人のみ生存しているが、一人は忠庵というポルトガル人で元当地の耶蘇(イエズス)会の長であったが、その心は黒い。」

「その心は黒い」という表現が何を意味するかは定かではない。ただ、1643年3月17日の商館日記には、彼がキリシタンの墓を破壊するよう提案したとの記録がある。


3.フェレイラの著作


(1)反キリシタン書『顕偽録』


この書には、まえがきにも結びにもフェレイラの書である旨が記されているが、それには種々疑問が呈されている。

①フェレイラは禅宗に改宗したとされているにも拘わらず、本書の中の主張に仏教思想がほとんど含まれておらず、反キリシタンの論拠が儒教に基くものであること。

②本書が、儒学者たちが用いた典型的な漢文調で書かれていること。

③フェレイラは日本語を話し読むことはできたが、書くことはできなかったこと。

④秘跡に関する教義に対する反論にはプロテスタント的な考え方が一部に見られること。

ただし、内容的に、神学上の訓練を受けた外国人宣教師がその作成に関わったことは明らかであるため、奉行所の指図によってフェレイラと儒学者が合作したもの、との見方が現在では一般的である。


(2)自然科学書『乾坤(けんこん)弁説』


西洋の天文学・宇宙論を初めて日本に伝えた書物のひとつ。
医師であり儒学者であった向井元升が付した序文によると、フェレイラが西洋の天文書を和訳してロ-マ字で書き表し、それをオランダ語通訳であった西吉兵衛が音読、向井元升が筆録して、さらに詳細な注釈(弁説)を付したものだという。

フェレイラが翻訳した天文書としては、クリストフ・クラヴィウス(イエズス会数学者)著『サクロボスコの天球論注解』や、イエズス会(日本)コレジオで宇宙論教科書として使われていたペドロ・ゴメス著『天球論』などが考えられる。

特に、『天球論』と『乾坤弁説』の内容は章構成もよく似ており、フェレイラが宣教師時代に慣れ親しんだ『天球論』を使用したのではないかと言われている。


3.日本の医学への貢献


フェレイラを、南蛮(ポルトガル)医学の伝統と結びつける考え方がある。しかし、彼が何らかの特別な医学訓練を受けたとか、普通の宣教師以上の医学知識をもっていたことを示すような根拠は見当たらない。一方、フェレイラがけがの治療や薬草についての知識を得るためにオランダ商館を再三訪れていたという記録がある。

そのことから、彼の日本医学への貢献は医学の技術・知識という面よりも、むしろ通訳者・仲介者としてのものであったと考える方が妥当ではないかと考えられる。

実際には、フェレイラの活動の影響は、江戸時代の三つの著名な医学流派に見られる。

(1)吉田流 
半田順庵はフェレイラの下で学び、マカオへ行き日本に戻って名を挙げた人物であるが、吉田流の創始者吉田自休は、半田の弟子である。
(2)杉本流
杉本忠恵はフェレイラの下で学び、彼の娘と結婚し、将軍吉宗の侍医を勤めた。
(3)西流
西吉兵衛は「乾坤弁説」和訳の際の協力者として知られているが、彼の息子西玄甫も幕府の侍医として仕えた。

チ-スリク氏は、「長崎の医師や洋学の人たちが、幕府の役人である外国人の名を借りて自分たちの箔を付けようとしたのではないか」としている。確かにあり得ることだが、背教者を持ち上げまいとして書いた自分の見解が、フェレイラの周囲にいたであろう日本人を侮辱しかねないことには気が付かなかったのだろうか。


4.どうしてもフェレイラを殉教させたかった人々


フェレイラの背教によって衝撃を受け、彼に接触し背教を取り消させよう、つまり殉教させようとした人たちがいる。

・ペトロ・カスイ・岐部
先ず、ペトロ・カスイ・岐部である。彼が、1639年に逮捕され江戸の評定所で尋問を受けた際、フェレイラと対面させられ説得を試みたことは上に述べたが、それ以前潜伏中にフェレイラの背教を聞き、長崎に行って説得したこともあったようである。

・マルチェロ・マストリリ
次に、イエズス会のマルチェロ・マストリリ神父である。彼は、ヨ-ロッパから日本へ赴き、1637年10月拷問の末に斬首された。


アントニオ・ゴンサレスのグル-プとアントニオ・ルビノの二グル-プ
さらに、ドミニコ会管区長代理アントニオ・ゴンサレスを含む四人の司祭と二人の従者と、アンアントニオ・ルビノ神父によって組成された二つのグル-プである。

アントニオ・ゴンサレスのグル-プについては、上に書いたように、裁きの場でのフェレイラとの出会いがあったが、その後全員が殉教した。

ルビノ神父によって組成された二グル-プについては、第一のグル-プ8名は到着後逮捕され全員が殉教し、第二のグル-プは、小説「沈黙」の主人公のモデルとなったジュゼッペ・キアラ神父を含む10名全員が棄教したことと、そのうちキアラを含む4名の司祭は小日向に建てられた切支丹屋敷に終生収容されていたことは、前回の記事[その3]に記した。

キアラ以外の3名の司祭のうち、アドンゾ・デ・アロヨはキリスト教の信仰に立ち返る意志を見せたため、女牢に入れられたが、減食し20日ほどで衰弱死した。フランシスコ・カッソラは、女牢に入れられ女囚と通じたことを白状し(その真偽は不明)、まもなく病死した。ペドロ・マルケスは80余歳で病死した。



現代にも、フェレイラが殉教して、その一生を勇敢に終えたとの報告を書いた人がいる。イエズス会の歴史家ヨゼフ・フランツ・シュッテ氏である。シュッテ氏については、前回[その3]の記事の中で、「キリシタン時代の殉教者の数はせいぜい千数百人だ」との見解を出した人物としてご紹介した。

彼の報告では、「フェレイラは、80歳を超え(実際に死亡したのは70歳のときである)、数年間病気と衰弱で床についたのち、回心を表明した。奉行は彼を穴吊るしの刑に処し、彼はこの拷問により、キリストのために一生を勇敢に終えた。」とされている。

チ-スリク氏は、冷静に「ヨ-ロッパ側の楽観的な報告が、根拠があろうとなかろうと、我々は彼の人生の最期の時にあたって、死にゆく者のたましいに何が起こったかを知ることはできない。」としている。


次回は、クリストヴァン・フェレイラの生涯全般について気付いたこと、考えてきたことを、書いてみたい。

〈 つづく〉



[参考文献]


「キリシタン研究」 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」Hubert Cieslik S.J. 吉川弘文館
  
殉教 日本人は何を信仰したか 山本博文著 光文社新書 429

長崎のオランダ医たち     中西 啓著  岩波新書 942












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# by GFauree | 2016-03-31 04:37 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(0)

背教者 クリストヴァン・フェレイラ [その3]




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[評判になった小説「沈黙」]


棄教したポルトガル人司祭クリストヴァン・フェレイラは、「転びバテレン」または「キリシタン目明し」沢野忠庵として、すでに江戸時代から、世間の好奇の目を引く存在であったらしい。しかし、近年彼に対して多くの人々の関心が寄せられるようになったのは、遠藤周作の小説「沈黙」によるものではないかと、考えられる。

小説「沈黙」が発表されたのは今から50年前の1966年、私が高校3年のときである。新聞の書評に採り上げられ、「谷崎潤一郎賞」を受賞し、一般社会的な話題にもなった。未だ戦後の「唯物論的進歩主義知識人」が言論界をリ-ドし、「大学紛争」が端緒をみせかけていたような時期で、宗教だのカトリックだのが話題になることは希少だったにも拘わらず、小説「沈黙」は意外なほど評判になっていた、と私は思う。私自身も遠藤周作が「カトリック作家」であることぐらいは知っていたから、とにかく関心はあった。


[私も読んではみたけれど]

というより、カトリックの家庭環境に育った者として、棄教したカトリック司祭について書かれた小説を読んだこともないというのはまずいという見栄の気持ちがあったから、目を通してみたことはある。しかし、書かれている登場人物の置かれた状況や心理が容易に納得できず、つまり書いてあることがさっぱり分らず、面白くもなくてすぐに投げ出してしまった。今になって考えると、キリシタン史やその時代の殉教や棄教について、ほとんど知識もなくまた考えたこともなかったのだから、何も分らず面白くないのも当然だったのである。

その頃、それほどキリスト教関係に関心があるように見えなかった友人が、小説「沈黙」が凄いと言って感激しているので理由を訊いてみた。彼が言うには、潜伏し捕縛されるまでの緊迫感や棄教を迫られて次第に追い詰められていくときの恐怖感が凄いということだった。彼は小説「沈黙」が持っているはずで、私がさっぱり理解できなかった宗教的思想性のようなものに感激したのではなく、「優れたサスペンス性」とでもいうような小説の造りに感激していたのだ。私は、「そんな読み方もあるんだ」と感心するような、拍子抜けするような気持ちを味わったが、今にして思えば、そういう風にして一気に読ませてしまうことも、作者の狙いとか手腕のひとつだと考えるべきなのかも知れない。

今回、この記事を書くために、改めて「沈黙」を読んでみた。若い時とは違って、「キリシタン史」にも親しむようになってきたから、少しは楽に読めるようになったのでは、という期待があったのだが、私にとっての読み難(にく)さは相変わらずだった。ただ、だいぶ冷静に読めるようにはなっているようで、何点か特徴的なことに気付いたので、それを挙げることから始めてみよう。


[小説「沈黙」の特徴的なこと]


1.史実を改変した筋書きが設定されている

小説「沈黙」の主人公はクリストヴァン・フェレイラではなく、ポルトガル人司祭セバスチャン・ロドリゴである。

小説の中では、フェレイラの棄教という教会の不名誉の雪辱を果たすため、迫害下の日本へ潜伏し布教するという計画をたてた、ルビノ神父を含む四人の神父の一団がロ-マにあり、ポルトガルにも別の一団があった。

ポルトガルの一団は、かつて神学生としてフェレイラの教えを受けた三人の若い司祭たちであり、「フェレイラが華々しい殉教をとげたのならば兎も角、犬のように屈従したとはどうしても考えられず、事の真相をつきとめよう」と、日本への渡航・潜伏を計画していた。
その中のひとりが、主人公セバスチャン・ロドリゴである。

フェレイラは、小説のクライマックスで主人公ロドリゴに棄教を勧める役を演じている。


史実はこうだった。



1638年
、インドからマカオへ派遣されたイエズス会のアントニオ・ルビノ神父は、1639年、日本管区長・シナ準管区長・巡察師に任命された。

1640年、ルビノ神父は、他の神父とともにマカオから日本への渡航を試みたが、嵐によってコチンシナ(ベトナム)沿岸に流されマカオへ戻った。

1642年、ルビノ神父は、マカオからマニラへ渡り、日本への渡航を計画し二つのグル-プが組成される。

第一のグル-プは、ルビノ神父を含む5人の神父と3人の従者(修道士か同宿と思われる)の合計8人である。このグル-プは、1642年7月マニラを発ち、8月に薩摩に上陸、逮捕され長崎へ連行された後、大村の牢に収監され全員が殉教した。

第二のグル-プは、日本副管区長ペドロ・マルケス神父やジュゼッペ・キアラ神父を含む4人の神父と6人の従者の合計10人である。このグル-プは、1643年6月、筑前国(現在の福岡県西部)大島に上陸し捕縛された。8月に江戸に到着し、取り調べ・尋問・拷問を受け全員が棄教した。そして、その棄教者たちは、現在の文京区・小日向にあった切支丹屋敷に送られ、死ぬまでそこに拘禁された。

ジュゼッペ・キアラ神父は、イタリアのシチリア島パレルモの生まれ。棄教した後は、岡本三右衛門という死刑囚の未亡人を妻として娶って岡本三右衛門と名乗り、幽閉四十年後の1685年に83歳で死去した。

このキアラ神父が小説「沈黙」の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルである。
フェレイラは、キアラ神父等の上記第二グル-プが江戸で取り調べを受けた際、通訳を務めたと言われている。


なぜ作者は、史実を改変してこのような設定をしたのだろうか。
私は次のように推測した。

1.「フェレイラ棄教という教会の不名誉の雪辱を果たそうと、マカオ・マニラを拠点とするルビノ神父のグル-プだけでなく、カトリック教会の本拠地であるヨ-ロッパのロ-マやポルトガルからも、日本に渡航・潜伏しようとした人々がいた」とすることで、如何にフェレイラ棄教がカトリック教会全体にとって衝撃的なことであったかを印象付けようとしたのではないか。

2.「セバスチャン・ロドリゴを含む三人が若いポルトガル人司祭であった」としているのは、フェレイラが如何に優れた神学者かつ恩師として尊敬される存在であったかを表わそうとしたのではないか。

実際のフェレイラは、20歳の時にリスボンを船出しインドに向かっているのだから、ポルトガルで学生を指導する立場にはなかったし、優れた神学者であるか否かを示す段階に至ってもいなかった。


巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの登場

その他、史実と異なる筋書きとして、「日本渡航を目指す三人のポルトガル人司祭がマカオで巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノからきびしい注意をうける」という設定がある。史実では、ヴァリニャ-ノは30年以上前の1606年に没しているのである。

ここで、ヴァリニャ-ノを登場させていることについて、平穏に布教を進めることのできた時代と対比させることで、迫害下の時代の厳しさを浮き彫りにしようとしたのでは、という見方がある。

歴史小説を読むときに、一度でも読んだり聞いたりしたことのある人物の名前(特に、外国人の名前)は受け入れやすいものである。だから、読者が一度でも触れた可能性のある人物の名前を作者が持ち出してきただけなのではないか、と私は考えている。


「歴史小説は作者が自分の思想を表わすために歴史的材料を用いて創造するもの」なのだから、材料である史実を作者が如何に改変して設定しようと自由である。作者はより効果的な表現とか、読者の理解を得やすくすることを狙って史実を改変するものなのだろう。いずれにしても、読者の知識や思考の内容や質を考慮しているはずである。

今まで見てきた、この小説の中での史実の改変のされ方を観ると、作者はどのような読者に対して、何を訴えようとしていたのかが見えてくるような気がする。


「教父」という言葉の使われ方

もうひとつ気になっていることに、「教父」という言葉がある。「沈黙」のまえがきの2行目に、「クリストヴァン・フェレイラ教父」という言い方がされている。一見、神父とか尊師とかと同様、敬称のようであるが、私はこういう使われ方は耳にしたことがない。

wikipediaには、「古代から中世初期、2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、とくに正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々」とされている。フェレイラがこの定義に該当する訳がない。

それでは、なぜ作者は、この言い方をしたのか。まえがきに書かれているように、「稀にみる神学的才能に恵まれ、迫害下にも司祭と信徒を統率してきた長老」に重みを付けようとして「教父」と呼んだだけのことかも知れない。

ただし、棄教した時点のフェレイラは、まだ53歳だから、「長老」と呼ばれるほどの年齢ではなかった。ただ、「人生五十年」の時代だったから、もう老境に差し掛かっていたとは言えるし、宣教師の多くが追放され、残った者の中で最長老の存在になっていたのかも知れない。



2.嫌なものを日本人に突き付けてくる小説「沈黙」


(1)卑屈な日本人キチジロ-

「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パ-ドレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに」
「わしは弱か。わしはモキチやイチゾウごたっ強か者(もん)にはなりきりまっせん」
「俺は生まれつき弱か。心の弱か者には、殉教(マルチルノ)さえできぬ。どうすればよか。ああ、なぜ、こげん世の中に俺(おい)は生れあわせたか」
「この世にはなあ、弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、俺(おい)のように生れつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ・・・・・・」

主要な登場人物であり、裏切者でありながらどこまでもロドリゴについてくる卑屈な日本人キチジロ-のせりふである。このせりふを読んで、普通はどんな感じがするのだろうか。

自分が苦しみを受けるいわれはないと言い募る。
自分の弱さを表に出し、居直りの素振りさえ見せる。
殉教できないことを自分の弱さのせいにして、迫害下に生まれたことを嘆いてみせる。
世の中には、必ず強者と弱者がいて、自分のような弱者は棄教を強いられれば、それを受け容れるしかない、とうそぶく。

このせりふの、いかにも甘ったれた考え方や馴れ馴れしい言い方が何度読んでもわたしには気持ち良くなかった。こんな、キリスト教信者はいない、なぜ作者はこんなせりふ吐かせるのだろう、と思い続けていた。ところが、今回読み直してみて気付いたことがある。

キチジロ-の言動は従来伝えられ描かれてきた日本人信者のそれと対極にある

それは、この嫌らしいキチジロ-の態度は、ひたすら清く正しく潔く殉教していったとされてきた「キリシタン時代」の日本人信者たちの対極にあるということである。そうして、「極端なまでに生々(なまなま)しくキチジロ-を描かなければ、従来ひたすら美化されてきた『キリシタン時代』の日本人信者象を、拭い去れない」と作者が考えたのではないか、ということに私はやっと思い至った。

私は、従来、日本人信者がひたすら美化されてきたことが、多くの人々を「キリシタン時代」の歴史をリアルに感じることから、遠ざけてきたと考えている。だから、読者に「キリシタン時代」をよりリアルに感じさせるためには、キチジロ-の言動をその時代の日本人信者の実像により近いものにすることが必要だと作者が考え、それが生々しく、ややどぎついものになったとすれば、それは理解できる。

本来、人間と神の関係は「馴れ馴れしい」もの

そうしてみると、キチジロ-の神に対する態度にも苦々しいだけでなく、羨ましくさえ感じさせる要素があることに気が付いた。羨ましいのは、与えられた試練に不平を言いながら、神を身近な存在に感じているらしく、信仰を棄てようなどとは思ってもみない態度である。

そこで、思い出したことがある。初めて、スペイン語の聖書や祈りを読んだとき、意外に思ったことである。それは、神やキリストへの呼びかけや祈りの言葉が、tutearという親しい者同士の間で使う(君・僕というような)話し方で書かれていることである。

例えば、最もよく知られた祈りに「主の祈り」というのがある。その、最初の部分であるが、私が子供のころの日本では「天にまします、われらの父よ」と唱えさせられた。現在では、「天におられる、わたしたちの父よ」と唱えられている。つまり、「まします」とか「おられる」とかの敬語が使われてきた。

それが、スペイン語では「Padre nuestro que estás en el cielo」である。
直訳すると、「天国にいる、うちのお父ちゃん(よ)」という感じである。

私が言いたいことは、ヨ-ロッパでの、キリスト教の人間と神の関係は、日本で教会が指導してきたものより、もっと近しいものだったのではないか、ということである。

遠藤周作は、キチジロ-によって「キリシタン時代」のよりリアルな日本人信者象を再現しようとしたときに、神と信者の関係が日本の教会が指導してきたものよりもっと近しいものであるべきだった、と考えたのかも知れない。そのため、意識的にキチジロ-の態度が馴れ馴れしいものになるように描いたのではないか。日本の教会が指導してきた模範的な信者の言動と正反対のはずのキチジロ-の神に対する姿勢が、ヨ-ロッパの信者のそれに似ているものになったことは、興味深い。

日本語では尊敬や崇拝の気持ちを表すためには、「敬語」という表現方法を使わなければならない、ということに賢明なイエズス会士たちは早くから気が付いていた。だから、神に関しても(自分たちに対しても)信者が「敬語」を使うように指導し、純真な信者たちは真面目にその指導に応えたことだろう。それが、表面的な態度だけでなく、信者の内面的な姿勢にまで影響したことは想像に難くない。

それは、一面で「宣教師の“提灯持ち”をひたすら務める、矜恃を持たない信徒の姿」(高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」)に繋がった。
さらに、それは予想外の成果の要因となる。成果とは、キリスト教徒が迫害されたローマ時代以来の数千人という大量な殉教者である。
(山本博文著「殉教」日本人は何を信仰したか)

そう考えてくると、確かにキチジロ-のようなキリスト教の受け容れ方をすれば、殉教などしないで済むのである。格好は悪いけれど。



(2)日本はどんな苗(なえ)の根も腐らせる沼地


「この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

これは、「日本人が、ヨ-ロッパ人の神を日本人流に屈折させ変化させ、別のものを作り上げた」としてフェレイラがロドリゴに語る言葉だ。これも、キリスト教を日本にもたらした宣教師たちが考えたであろうことでありながら、意識的にか無意識的にかほとんど明らかにされてこなかった問題である。

遠藤周作は、慶長遣欧使節をモデルにした小説「侍」(1980年発表)のなかで、日本へのキリスト教布教の本質的問題をペテロ会(イエズス会をモデルとする)ヴァレンテ神父に、より詳しく語らせている。

ただ、大航海時代にイベリア両国・国家という世俗権力と教会が一体となって世界的に進めようとしたカトリック布教において、キリスト教と布教地文化との衝突は何処でも当然起きていただろうと私は考える。日本では、スペイン・ポルトガルが武力征服を背景とする強制的改宗を進められなかったために、その文化衝突が露呈してしまったが、多くの地域ではそれが潜在化したかまたは隠蔽されてしまったのではないか、ということである。これは、難しそうだけれど重要かつ興味深い問題である。



3.最後に、「神の声は誰のためのものか」について考える


神は長い「沈黙」の末、ついに主人公ロドリゴに語りかける。ここで、その「神の声」の内容を抜書きした方が考えやすいのだが、抜書きすることは物語の結末をばらしてしまうことになるので、ここには書かないほうが良いと思う。どうぞ、関心のある方は小説「沈黙」を、その部分だけでも読んで頂きたい。

「意外だ、でもこれでいいのかな」

私の感想は、「意外だ、でもこれでいいのかな」ということである。強い神を信じ続けてきたはずのヨ-ロッパ人宣教師が、こんなに優しいことを急に言われて、すぐにそれに従う気になれるのだろうか、という疑問を私は持つ。キリスト教の信者と神の関係は、本来上に述べたように近いけれども、厳しいものだったはずである。

ただ、この「神の声」が「キリシタン時代」の日本人信者に語られたものだとすれば、話は別である。

数千人の殉教者

「わずか二十数年という短期間に確実に四千人を超える大量の殉教者が出た」(松田毅一「日本切支丹と殉教」)と言われている。また、どこに書いてあったか記憶がないが、レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」に記載されている殉教者の数を集計すると五千人以上になる、という話を読んだことがある。

一方、いつも参照している、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」には「シュッテ神父の研究によると、キリシタン時代における殉教者の人数は、せいぜい千数百人であったという。」と書かれてある。「シュッテ神父」とはイエズス会の歴史家ヨゼフ・フランツ・シュッテ氏である。見込んでいる数の少なさに意外な感じがしたが、こういう数字についても、見込みを立てた人がどこの組織に所属しているか、その組織がどんな考えを持っているかを考える必要があるようだ。

さて、日本人殉教者の数だが、概ね数千人と考えて、あまり間違ってもいないのではないかと思う。冷静に考えても、大変な数である。その大変な数の人々が、教会の指導に導かれて自発的にかも知れないが、死の恐怖と闘いながら殉教していったということである。指導のためのマニュアルとして、明治時代に発見された「マルチリオの栞(しおり)」という具体的な冊子もあるが、それがどの程度使われたのかなど、詳細は判らない。判らない方が都合が良いと考える人たちがいるのかも知れない。そして、他にも同様の案内書の類があった可能性がある。

数十万人の地獄の恐怖に震えた人たち

「雄々(おお)しくも潔(いさぎよ)き強者(つわもの)」として賛美され死を選んでしまった数千人の殉教者だけの問題ではない。その時代、数十万人の信者がいたはずである、殉教者以外の数十万人の人たちは殉教する勇気のない自分を責め、地獄の恐怖に震えていたことだろう。

ということは、ロドリゴが聞いた「神の声」は数十万人の日本人信者の皆に語りかけてもらうべきものだった。
数十万人の日本人信者こそ、優しい「神の声」を必要としていたのだ。そのことに、作者・遠藤周作は当然気付いていただろう。
そうでなければ、いけない。もしそうでなければ、数千人を死に導き、数十万人を恐怖に陥れたものに頬かむりを許すことになる。


次回は、棄教後のフェレイラがどのような人生を送ったかを見ていこうと思う。


〈つづく〉


[参考文献]

キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで― 高瀬弘一郎著 岩波書店
殉教 日本人は何を信仰したか            山本博文著 光文社新書429





















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# by GFauree | 2016-03-18 08:21 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(7)