【大航海時代のおと】

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キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その4]

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                                         (写真撮影 三上信一氏)





前回[その3]では、通辞ジョアン・ロドリゲスの人物像をなぞりましたが、今回[その4]では、彼の「イエズス会への日本人入会阻止」の主張をとりあげます。

その主張は、1598年2月28日付で長崎からイエズス会総長宛てに送られた書簡に書かれており、その書簡の訳文の一部が、遠藤周作著「銃と十字架」(評伝 ペトロ・カスイ・岐部)とマイケル・ク-パ-著「通辞ロドリゲス」に掲載されています。

両者の訳文を比べてみると、遠藤の文章の方が直截的でまわりくどくないので、それを以下に引用し、不足している部分はク-パ-の訳文を括弧を付けて表示します。なお、基本的には掲載されている訳文をそのまま転記しますが、読み易さを考慮して気になる点は、一部表現を変えてあります。



〈ロドリゲスの主張〉


私は、きびしい選択と調査をせずに日本人を修道士にすることは、わが(イエズス)会のため適当ではないと考える者であります。

日本人はヨーロッパ人に比べ、天賦の才に乏しく、また徳を全うする能力に欠けています。
(日本人は生まれつき気の弱い情緒不安定な国民で、)聖なるわれらが宗教は彼らにまだ深い根を下さず、改宗も近来の事ですから、基督教についても根本的によく知らず、理解もしていません。

こうした連中をイエズス会に入れることは良いとは絶対に思われません。

(多勢の不完全な者たちを抱き込むのは会のためになりません。彼らは誘惑に遭うと、それに負けてあっさりと信仰を棄ててしまうからです。もうすでに何人かの者は退会して異教徒(注)たちの住んでいる地区を徘徊しておりますが、日本にはそういうことをさせないように歯止めになる裁判所がないので、背教者として処罰するわけにいきません。)

(注)キリスト教に改宗していない日本人


その点、私自身、長年、次のような見解を抱いています。


たとえ入会する日本人が百人以上ありましても、そのなかに信者を統制する才を備えた者なく、教義に通達した者なく、魂を救う道に大きな情熱を持っている者もありません。まして、その中から司祭になる能力を持った者は今日、一人もいないのです。
(しかも困るのは、だれでもいずれは統治権を行使したくなる(注)ことです。)

(注)「自主性・主体性を発揮したくなる」または「主導権を執りたくなる」の意味だろうと思われます。

彼等の大部分は幼少から神学校で教育を受けているのですが、イエズス会に入会して何をするのか、また選ばれて入会する者の使命がどんなに重大なのかわきまえずに、神学校時代に教育を受けた教師に嘆願して、ある年は13人も修練院に入ることを許されているのです。

これらの日本人の特徴は偽善です。彼等は天性から、外側は謙虚で冷静を装えますから、わが会士はそれに幻惑され、この連中の信仰心がヨーロッパ人ほど強くなく、修徳も不完全なことを知らず、また見抜けないのです。



〈ロドリゲスの主張について考えたこと〉



1.彼の性格


「通辞ロドリゲス」の著者マイケル・ク-パ-は、「この書簡は、ロドリゲスが健康を害していた時期に、憂鬱な気分に襲われて一気に書きなぐった手紙だ」と、書いています。また、この書簡が 書かれる5年前、1593年のロドリゲスに対する会内部の人事評価には、「利口だが、判断はやや思慮に乏しく慎重さを欠く」とされているそうです。

ただし、ロドリゲスが日本人に対してだけ厳しい見方を示したという訳ではありません。同じ書簡の中で「要するに現在日本にいる(ヨ-ロッパ人)会士の中には、会の統治の適任者はおりません。」と記しているのです。

ロドリゲスには、上に対して報告をするような段になると、つい同僚や周囲の仲間について手厳しい指摘をしてしまう性癖(育ちの悪さからくる歪んだ性格?)があったのかも知れません。(私は自分の経験から、何処の職場にもそういう性癖を持った人はいるのではないかと思いますが、どうでしょうか。)


2.これを書いた時期のロドリゲス


この書簡を書いた頃のロドリゲスについて、私はつぎのようなことを考えています。


(1)
この書簡が書かれたのは、「二十六聖人殉教」事件の1年後です。26人の殉教(処刑)者のうちイエズス会関係者を3人のみにとどめるべく、ロドリゲスが暗躍したと非難されたことは、前回の記事[その3]に書きました。

また、秀吉の死の7か月前でもあります。ロドリゲスが秀吉の死の約2週間前に会って言葉を交わしたという話がありますから、この書簡を書いた頃には、既に秀吉と親密に交流する立場にあったと言えるでしょう。

これらのことから、この時期の彼が、イエズス会と権力者たちとの間を繋ぐ折衝役として、単なる通訳としての立場を超え、会にとって貴重な存在になっていたと考えることが出来ます。


(2)
この年(1598年)に、ロドリゲスは、イエズス会内部の財務のみならずポルトガル船貿易全体の運営を取り仕切る長崎のプロクラド-ル(財務管理責任者)に就任しています。そして、おそらくその実績が認められてのことなのでしょう、およそ2年後の1600年前後には、盛式四誓願司祭というイエズス会内の最高の階位を授けられれます。

ちなみに、この時代、23人の日本人がイエズス会で司祭に叙階されていますが、その階位を授けられた者は一人もいません。


(3)さらに、彼は書簡の中で総長に対し、自分が長崎の院長の顧問の一人に指名され、規則に従って年次報告としてこれを書いていると、述べています。

以上(1)~(3)から考えると、この書簡を書いた時期に、彼は組織の中で能力と実績を認められ、また相応の処遇を受けるようになり、本人自身当然それを誇らしく感じていただろうと思うのです。

祖国から遠く離れた極東の島国で、徒手空拳の身で家柄・出身の重んじられる組織に飛び込んでから苦節17年、漸く会の中で一目を置かれる存在となり、会の運営の中枢の地位を掴みかけているのです。そう感じた彼が、得意の絶頂にあったとしても不思議ではありません。

しかし、人間得意の絶頂にあるときほど、注意が必要です。どうしても、気が緩んだり血気に逸ったりして、本音や本心を露わにしたくなって来るからです。彼は、総長宛てに書簡を書く機会に、下積み時代からの日本人に対する恨み辛みをぶちまけてしまったということでしょう。

と言っても、万事そつがなかったであろう彼の事です。自分の書く「日本人入会阻止の主張」が会の中でどのように受け留められるかは、充分計算していたでしょう。その2年前に書かれた、フランシスコ・カブラルの同様の主張の内容も、またそれが会の中でどう受け入れられたかも、知っていたかも知れません。


3.日本人信者批判の中身について


先ず、日本人信者批判の材料として日本人の国民性のようなものを挙げています。
国民性というのは、一朝一夕には変えることの難しい或る国の国民特有の性格のはずです。そのため、ある事業をどこかの国で新たに展開することが困難なときの言い訳としてよく使われます。

ところが、良く考えてみると、ある国の国民性として挙げられている事柄は、他の国の人々についても言えることが多いのです。

他に彼が批判の材料として挙げていることは、「キリスト教についての知識・理解や聖職者に求められる適性や使命感が不足している」ということですが、それはもし布教を推し進めたいならば、自分たちヨ-ロッパ人自身が何としてでも努力して教育すべき事柄です。

つまり、彼はどこの国の国民についても言えることを材料に日本人を批判し、本来自分たちが続けていくべき努力を否定し、放棄しようとしていることを吐露しているのです。

こんな彼の理屈が、彼の属した組織の中で大まじめに採り上げられたのだとしたら、あきれる思いがしますが、同時にその組織はとても人間的な組織だったと言えるのではないかとも思います。



[その1]の記事で言及しました古野清人氏の論文「キリシタニズムの比較研究」の中で、日本人聖職者の養成・登用に関して述べられている箇所に、ロドリゲスの主張の問題性がみごとに指摘されていると思われる部分があります。


「いずれにしても、その時代の実情からして、日本人の大幅な登用は不可能であったとみるのが妥当である。それでも他面、外人宣教師がポルトガル、スペインの政治経済上の帝国主義の侵攻と一体になって、日本伝道を独占しようとした傾向は否定できまい。

彼らは日本人の信者に対し、一つはその国民性を傲慢として信頼せず、一つは信仰の未熟に危惧の念を抱いた。日本人のもついわば国民的矜恃を、彼らが傲慢とみなしたとすれば、それは白人の優越性を過信して、日本人の隷属的奉仕を当然な前提としていたからであろう。」


4.ロドリゲスと岐部



正会員でない同宿として9年間働いた後、自力で5年かけてロ-マに行きやっとイエズス会に入会が許され司祭となり、7年かけて日本へ戻り潜伏した後殉教したペトロ・カスイ・岐部について記事を書いたことがあります。
http://iwahanjiro.exblog.jp/21079249/
http://iwahanjiro.exblog.jp/21105197/

その記事の中に、岐部が
セミナリオ時代には教師たちの、同宿時代には信者たちの、共感と支持を得ていたのではないか、と書きました。その共感と支持を得ていた経験こそが、彼に最後まで自分の信念を貫き通させる原動力となったものではないか、と私は考えたのです。

そのことを思い出しながら、ロドリゲスの在り方を観ていると、岐部のそれと対照的なことに気が付きました。


ロドリゲスは、偽善的であるとさえ罵(ののし)って、日本人信者に対する抑えようのない不信感を吐露しているように見えます。そのうえ、日本人神学生を積極的にイエズス会に送り込み現地人聖職者養成を進めようと努力している同僚である教師たちにまで冷ややかな目を向けています。

日本でイエズス会に入会し司祭となったロドリゲスにとって、信者とは日本人しかいない筈です。その日本人たちとも、同僚である神学校の教師たちとも信頼関係がないのですから、孤独にしかなりようがなかったでしょう。

修道院の中に閉じこもって、祈りと労働に明け暮れる修道司祭でない限り、司祭にとっては、信者に奉仕することが何よりの責務であり喜びでもあるはずです。

ロドリゲスは、イエズス会と権力者たちとの政治折衝役、そして財務管理者・ポルトガル船貿易仕切り役として会内で力量を認められ、めでたく出世を遂げました。両方とも日本イエズス会ならではの独自性の強い、会の運営上最も重要な職務だったのでしょう。その結果、教会と司祭にとって最も大切にしなければならない信者に不信感をもち、聖職者養成の現場の教師たちとも共感を分かち合うことのできない官僚的な幹部エリ-トがひとり生まれたということでしょうか。

岐部は、ロドリゲスなどヨ-ロッパ人宣教師の提言によって打ち出された「日本人入会抑止」の方針があったからこそ、自力でローマへ行かざるを得なかったのです。それを考えると、二人の生き方の対照性がなおさら際立つような気がします。


5.虚ろな人々の仲間に


追放されマカオに送られたロドリゲスの表情は、たぶん虚ろなものだったような気がします。
前回[その3]の記事にも書いたことですが、ロドリゲス追放の2年後になって、家康は、謁見したイエズス会管区長の面前で「ジョアンを呼び戻せ」と臣下に命じて、たいそう管区長を喜ばせたそうです。

きっと、老獪な権力者は単純な聖職者をからかいながら、内心では空虚な高笑いをしていたのではないでしょうか。その後、イエズス会がロドリゲスを日本に呼び戻すよう何度働きかけても、家康が彼の名前を出すことは二度となかった、ということです。


〈完〉


[参考文献]

銃と十字架           遠藤周作著                新潮社
日本教会史 (上)     解説 土井忠生   大航海時代叢書     岩波書店
通辞ロドリゲス    マイケル・ク-パ-著 松本たま訳          原書房 
キリシタニズムの比較研究    古野清人著作集 5           南斗書房







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# by GFauree | 2016-09-01 15:18 | 通辞ジョアン・ロドリゲス | Comments(0)

キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その3]

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                                         (写真撮影 三上信一氏)



前回[その2]では、「イエズス会への日本人入会阻止」を主張した日本布教長フランシスコ・カブラルの見解を採り上げました。今回は、同様な主張をした通辞(=通訳という意味です)ジョアン・ロドリゲスの見解を採り上げる準備として、彼の人物像をなぞってみたいと思います。


〈通辞ジョアン・ロドリゲスという人物〉


・北ポルトガルの寒村に生まれ、自分の生年月日も知らなかった

生まれは、北ポルトガルの外れにある人口1万人の町セルナンセリェ。生まれた時期は、1561年から63年頃とされてはいますが、どの記録にもポルトガルの寒村の生まれだと書いてあるだけですから、彼自身も生年月日を正確には知らなかったようです。

同じイエズス会士といっても、ナバラ(スペイン)やキエティ(イタリア)の貴族の家柄の出であるフランシスコ・ザビエルやアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノといったエリ-ト達とは出生の背景が全く違うところが特徴的です。


・抜き難い出身地の方言をバネに、外国語(日本語)の習得に励んだ


セルナンセリェは山岳地帯の田舎であり、そのために彼自身は生涯,郷土の方言に悩まされたとのことですが、かえってそれが外国語である日本語や中国語の習得の動機となり、特に日本語習得については人並み以上の才能を示すことになったと考えられています。

「通辞ロドリゲス」という通称も、同姓同名のイエズス会宣教師である別人と区別する必要(そのくらい、ジョアン・ロドリゲスという名前は、ありふれたものだったということでしょう)から使われたようですが、ヨーロッパ人宣教師としては珍しく刻苦勉励して日本語に堪能で有能な通訳者となった、との彼自身の自負がそこに込められているようです。

彼の日本語熟達の程度は、単なる通訳の域を超えて、当時の権力者たちとイエズス会との外交折衝に参画し、後に秀吉、家康の愛顧を受ける要因ともなります。

また、日本語に関する事象を取り扱った語学書『日本大文典』を長崎で、『日本小文典』をマカオで刊行し、日本語研究の成果を残しています。


・少年時代、宣教師または商人の使用人として来日し、戦(いくさ)に加わったこともある

13,4歳の頃、宣教師か商人の使用人としてリスボンの港を発って、インド、マカオを経由し、1577年に日本に上陸します。

1578年、大友宗麟は島津氏の攻撃を受けた伊東氏を助ける等の目的で、日向に大軍を進めていますが、ロドリゲスはそれに従軍し敗戦を経験します。

その後豊後に留まったロドリゲスはイエズス会に入会し、1581年府内(大分市内)に開設されたコレジオ(神学校)に入学します。


・インド副王使節団の通訳としてデビュ-する

1590年7月、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが、帰国する遣欧少年使節を引率して再来日します。ヴァリニャ-ノは、87年に発布されたバテレン追放令に配慮して、ポルトガル国インド副王使節として秀吉に謁見することを試み、成功しますが、その際にロドリゲスは通訳として随行します。そして、それを機会にロドリゲスは秀吉の愛顧を得るとともに、重臣たちとの関係も築いて行きます。


・二十六聖人殉教事件で暗躍したと非難される

1596年
、スペイン船サン・フェリペ号の土佐漂着によって発生した事件に対し、ロドリゲスはその解決に奔走し、外交的手腕を発揮したと言われています。

しかし、その事件の結果処刑され殉教した二十六人(二十六聖人)のうち、イエズス会関係者は三人のみで、その後もイエズス会は日本における布教の上で、有利な地位を確保し続けたとして、フランシスコ会・ドミニコ会など他の会派から批判を受けることになります。


・プロクラド-ル(財務担当者)として抜群の手腕を発揮した

日本イエズス会の活動が、海外で運用・回収する資金や貿易取引の収益やポルトガル船貿易の窓口としての役割に依存していたことは周知のことですが、これを運営・管理する必要から、長崎、マカオ、マラッカ、ゴア、リスボン、マドリ-ドに日本イエズス会のプロクラド-ルが配置されていました。(おそらく、長崎以外のプロクラド-ルは他の職務を兼任していたのでしょう。)

長崎駐在のプロクラド-ルは、特に高度な政治的および経済的手腕が要求される重要な地位であるとして、1600年頃から最高の職階(階級)である「盛式四誓願司祭」が任ぜられるようになっていたことは、ルイス・デ・アルメイダに関する記事(http://iwahanjiro.exblog.jp/21914656/)に書きました。


・「盛式四誓願司祭」に昇格する

ロドリゲスは1598年頃からマカオに転出する1610年までの12年間、長崎のプロクラド-ルを努めています。彼は1601年、上述の「盛式四誓願司祭」に昇格していますから、実際はプロクラド-ルに任ぜられてから手腕を認められて「盛式四誓願司祭」に昇格したことになります。ロドリゲスの手腕がそれ程優れたものであったと考えることはできますし、また自分の業績が如何に優れたものであるかを組織に訴えることにも長けていたのでしょう。


・ポルトガル船貿易全体に強い影響力を持つようになる

プロクラド-ル(財務担当者)の役割は、単にイエズス会の布教活動に必要な資金の収支を管理することだけではありませんでした。

ロドリゲスが、プロクラド-ルとして日本イエズス会を財政面で支えたポルトガル船貿易全体を円滑に進める役割上、日本の有力な商人や大名たち、さらには最高権力者家康とも接触を保ちながら、次第にポルトガル船貿易全体に強い影響力を持つようになったことは想像に難くありません。その過程で、後に対立すようになる長崎代官村山等安とも、当初は連携して行動しています。


・「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」の影響を受けてマカオへ追放される

1609年6月に長崎に来航したノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号が、翌年1月有馬の水軍の攻撃を受けて自爆するという事件が発生します。

(この事件については、「キリシタン大名」有馬晴信に関する記事で採り上げましたので、ご参照下さい。
http://iwahanjiro.exblog.jp/i10/-)

この事件の結果、ポルトガル船貿易に関わってきた内外の商人等多数の関係者が甚大な損害を蒙ることになります。そして、このような事態を招いた原因は、日本人がマカオへ出かけることを禁じてポルトガル商船の特権を保証するような朱印状が(家康から)下付されたためであり、その朱印状を引き出すための裏工作にロドリゲスが関わっていたとされたのです。

実際に、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号船団の代表団長マテオ・レイタンが、長崎来航の翌月駿府を訪れており、このときロドリゲスは通辞として代表団一行を引率しています。そして、一行は家康に謁見し、家康から「日本人がマカオへ出かけることを禁ずる」命令(朱印状)を出す旨の約束を得ています。

問題は、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号の船長として来日したアンドレ・ペッソアは、マカオのカピタン・モ-ル(知事または総督に相当する地位)であり、有馬晴信の朱印船の乗組員であった50人近い日本人が殺された前年の「マカオ事件」の現地側の責任者であったことです。ポルトガル船の権益を擁護し日本人のマカオ渡航を制限するような命令を引き出すよう働きかけるならば、当然「マカオ事件」について家康に釈明すべきところですが、それがなされていなかったのです。

普通に考えると、命令(朱印状)が不当に出されたのであれば、その責任は命令を出した家康にもある筈ですが、まさか最高権力者である家康に責任があるという訳にはいかないという理由で、働きかけたロドリゲスの責任ということになったのでしょう。その結論が出る過程には、イエズス会に反感を持っていた長崎奉行長谷川左兵衛と代官村山等安の策謀があったとされています。

ロドリゲスは事件から僅か2か月後、船が自爆・沈没してしまったために陸に取り残されていたポルトガル商人たちと一緒にマカオ行のジャンクに乗せられ追放されたのです。


・ロドリゲス追放の理由については他にも噂があった

高瀬弘一郎著「キリシタン時代対外関係の研究」(吉川弘文館)第十三章「長崎代官村山等安をめぐる一つの出来事」には、1615年12月6日付マカオ発マノエル・ディアスのイエズス会総長宛て書簡が引用されています。(http://iwahanjiro.exblog.jp/20887207/

そして、「ジョアン・ロドリゲスと村山等安の妻との間の道ならぬ、しかも聖職者にあるまじき関係、およびそれを知った夫等安がロドリゲスの日本追放を策した、という事実を知ることができる。」とあります。

マイケル・ク-パ-(イエズス会士・歴史家)著「通辞ロドリゲス」(原書房)第十三章「追放」には、同じ書簡が引用されていますが、そこには以下の記載もあります。

「神父の頭には大きなできものが幾つもできていました。あれは性病だと言う人もあります。どんな治療をしたか知りませんが、頭に大穴が開いてしまって、一年以上かかって手当をしてやっとよくなったものの、頭のうしろにできたみにくい穴は、とうとうふさがりませんでした。」

このようにロドリゲスの醜い容貌を強調するような記述が何故仲間である筈のイエズス会士によってなされたのでしょうか。
「ロドリゲスの生活が乱れていた」と言いたかったのか、それとも「それ程醜い容貌をしていたロドリゲスには、人妻と道ならぬ関係に陥る可能性などなかった」とでも言いたかったのでしょうか。


・後に、家康はロドリゲスを追放したことを後悔していたと言われているが

ロドリゲスを追放してから二年後、家康はロドリゲスを追放したことを後悔し、イエズス会士との謁見の席で、彼を呼び戻すよう口走ったとイエズス会管区長ヴァレンティン・カルヴァリョが書いています。

カルヴァリョとしては、家康の言葉を採り上げることで、「ポルトガル船貿易の円滑な運営のために、日本にとってロドリゲスの存在が如何に大きなものであったかを家康が後になって思い知った」と言いたいのでしょうが、家康のその言葉は過ぎ去った人物に対する単なる社交辞令と考えたほうが良さそうです。

というのは、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号船団一行が長崎に来航し、駿府を訪問した際、この一行より遅れて平戸に着いたオランダ船の代表団の謁見が終わるまで、ポルトガル船の一行は待ちぼうけを喰らわせられているのです。この「待ちぼうけ」は、日本との通商をもはや独占させない旨のポルトガルに対する通告、を意味していたのです。

そして、ロドリゲスの後釜には英国人ウィリアム・アダムズ(三浦按針)が据えられ、「脱ポルトガル・イエズス会」路線への体制作りが着々と進められていたと考える方が自然だからです。


〈むすび〉

ジョアン・ロドリゲスが果たした権力者たちとの折衝役や、イエズス会財務担当者というよりポルトガル船貿易業務推進役という役割は、日本のキリシタン教会の展開に欠かせないものであったことを、改めて感じながら書いているうちに冗長になってしまったようです。

ロドリゲスの日本人批判については、次回とさせて頂きます。


〈つづく〉




[参考文献]

日本教会史 (上)     解説 土井忠生   大航海時代叢書     岩波書店
通辞ロドリゲス    マイケル・ク-パ-著 松本たま訳          原書房 
キリシタン時代の研究     高瀬弘一郎著               岩波書店
キリシタン時代対外関係の研究 高瀬弘一郎著              吉川弘文館


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# by GFauree | 2016-08-22 07:28 | 通辞ジョアン・ロドリゲス | Comments(2)

キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その2]

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                              (写真撮影 三上信一氏)






前々回[その1]の記事で、キリシタン活動の性格や展開を決定付けた要因として、日本人聖職者の登用が制限されていたことを挙げました。日本人を修道士や司祭などの聖職者としないために、イエズス会への入会は極力制限する方針があったということです。

この「日本人のイエズス会への入会制限」については、「ペトロ・岐部・カスイ」に関する記事(http://iwahanjiro.exblog.jp/21105197/)や、「背教者クリストヴァン・フェレイラ」に関する記事(http://iwahanjiro.exblog.jp/22575045/)の中で言及し、
イエズス会の布教長フランシスコ・カブラルや通辞ジョアン・ロドリゲスの見解を一部ご紹介しました。

そこで、今回と次回はこの二人のポルトガル人宣教師が主張した「イエズス会への日本人入会阻止」について気付いたことを述べてみたいと思います。


〈フランシスコ・カブラルの見解〉



まず、布教長フランシスコ・カブラルの見解ですが、それは1596年ゴア(インド)に於いてイエズス会総会長補佐宛てに書かれた書簡に見ることができます。その書簡は、大航海時代叢書(岩波書店)「イエズス会と日本(一)」にその日本語訳が収められていますので、カブラルの意図したところを的確に理解するためには、できればその全文を読んで頂くことをお勧めします。

ただ、この書簡の主旨は単に「日本人のイエズス会入会に反対すること」ではなく、「巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが、マカオにおける原住民聖職者養成のための大規模なコレジオ(神学校)建設を、公認されていないという意味で不正な商業活動を行うまでして進めようとしているが、それは無意味なものである」として批判することでした。

ヴァリニャ-ノが進めた公認されていない不正な商業活動としては、ペル-からマカオへの銀積載船のもたらした“かねの処理”にヴァリニャ-ノが関わったとされる件もカブラルは挙げています。

ヴァリニャ-ノが関わったとされるペル-からマカオへの銀積載船については、下記の記事でも採り上げましたのでご参照ください。

http://iwahanjiro.exblog.jp/20646027/
http://iwahanjiro.exblog.jp/22303145/


〈カブラルという人物〉


カブラルは、1570年から1581年まで日本の布教長の職にありましたが、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノと布教方針を巡って対立し、日本布教長職を解任されマカオに送られました。その後、1592年から1597年までインド・ゴアでインド管区長を勤めています。

そこで、若干腑に落ちないのは、カブラルは東インド地域全般を統括・管理する立場であった巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノと対立し日本布教長職(当時、日本はまだインド管区に属する布教区に過ぎなかった)を解任されたにも拘わらず、インドへ戻り日本布教長より上級職であったはずのインド管区長職に就いていることです。

この時代のイエズス会は軍隊にも似た上意下達の厳しい統制の敷かれた組織であったと言われていますが、実際はそれが徹底されない場合も多々あったということかも知れません。

また、宣教師間で各々の出身国を巡って確執があったという話もあります。カブラルが日本を含むインド管区の主流であったポルトガル人であったのに対し、ヴァリニャ-ノはイタリア人であったことも関係しているかも知れません。



さて、書簡の内容ですが日本語訳でも25ペ-ジにわたる長大なものですので、ここでは日本人の入会に反対する根拠として書簡の中で挙げられている事項に限って以下に抜粋することにしました。


〈書簡の内容抜粋〉



~日本人を入会させることをやめないと(すでに7,80人受け入れてしまったので、いささか手おくれであるが)、イエズス会ばかりか、キリスト教界までが、日本で破滅してしまうに相違ない。

~私がこれを言うには、それだけの根拠があってのことだということを、尊師に理解してもらうために、以下いくつかの理由を挙げてみたい。~

第一に、私は日本人ほど傲慢・貪欲・無節操、かつ欺瞞にみちた国民を見たことがない。というのは、百姓でも内心王たらんと思わない者は一人もおらず、機会あり次第そうなろうとする。これは日本で毎日はっきり認められることである。~

第二に、この傲慢・貪欲・野心および欺瞞が仏僧たちをも支配しているので、彼らは、そうするよりほか生きるすべがない場合以外は、共同と服従の生活をすることに耐えられず、生活の道が立ちさえすれば、直ちにみずからが人の上に立とうとする。~

第三は、日本人たちは、自分の心中をさらけ出したり、他人に覚らせたりしないことを、名誉で思慮深いことだと考えている。彼らは子供の時から、このように欺瞞と偽りに充ちた人間になるよう育てられている。~

~パ-ドレ・アレッサンドレは、これまでイエズス会に日本人を受け入れることに情熱を燃やしてきているが、日本でこのようにしてやってゆき、日本人がエウロパ人より大勢になろうものなら、彼らだけで結束するかも知れない。彼らは、上に述べたような性格・資質を持っているので、深刻な分離や分裂が生じたり、あるいはわれわれが追放されて、彼ら自身が支配者となったりする危険が非常に大きい。というのは、彼らには、もしもそれを望むなら、為しうるだけの天性と、そのための手段がそなわっているからである。


〈カブラルの見解について思うこと〉


カブラルが、日本人を入会させるべきでない根拠として挙げた事項ですが、その一については、戦国時代の下剋上の風潮を指しているものと思われ、確かにそういう傾向はあったかも知れません。けれども、二と三については、何処の国の組織や個人についても場合によってはあり得るはずのことです。従って、それを日本に固有のこととしていること自体見識不足ですから、その意見は取るに足らないもののように思います。

それより、私の目を引いたことは、日本人を入会させることは、日本でのイエズス会やキリスト教会を破滅に導くと書いていることです。


〈カブラルの抱いていた恐怖〉


彼は、日本人が大勢入会しヨ-ロッパ人より多くなると、日本人だけで結束することや分離や分裂が発生し、日本人に支配されヨ-ロッパ人は追放される、と大真面目で心配していたようです。

そこで思い出したのは、大航海時代のコロンブス以来の征服者たちが、先住民に対して底知れない恐怖感を抱いていたと伝えられていることです。

海外布教が、教会と国王権力による「教俗一体」体制で進められた征服事業の一環であるという意識をもしカブラルが持っていたとすれば、彼もまた布教地(征服地)日本の先住民(国民)に対し底知れない恐怖を抱いていたとしても不思議ではありません。


〈日本人に対する批判はカブラルの必至の生き残り策でもあった〉


カブラルの日本人に対する批判的な姿勢によく対比されるのは、ザビエルやヴァリニャ-ノの日本人に対する好意的な評価です。その点については、「背教者クリストヴァン・フェレイラ」に関する記事の中で言及しました。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/

海外布教地は新規に開拓すべき市場であり、宣教師と信者の関係は営業マンと顧客の関係に似ています。ザビエルやヴァリニャ-ノは、優秀な営業マンでしたから、顧客の扱い方のみならず、顧客についての本部への報告の仕方や自分に対する評価の得方も充分熟知していたのでしょう。自分の顧客が如何に良質で、担当地域が如何に将来性があるかを予め本部に知らしめておいて成果を上げて見せたのです。優れた宣教師(営業マン)として高い評価を得ないわけがありません。

一方カブラルは、日本人の部下の育成に失敗し、反抗され、離脱した者の中には分派を作ろうとする者まで現れ、バリニャ-ノによって布教長職を解任された人物です。彼には日本人へ好意的評価を与える余裕などなかったばかりか、自分の失地回復のために、なりふり構わず必死の日本人批判を繰り広げるしかなかったという面もあったのでしょう。


〈しかし、カブラルの作戦は成功した〉


「17世紀キリシタン布教も後期に入る頃、ローマのイエズス会本部は急速に日本人に対する評価を下げ、その入会と叙品(司祭の資格を与えること)についての審査をそれまで以上に厳格にして、門を狭めた。」(キリシタンの世紀 高瀬弘一郎著 岩波書店)

カブラルの様な考えを持つヨ-ロッパ人宣教師は少なくなかったようですから、彼の意見具申のみによって、本部がこのような方針を採るに至った訳でないであろうことは言うまでもありません。

しかし、その後の流れを観ると、カブラルがザビエルやヴァリニャ-ノのような教会勢力拡大の実績によってではなく、在日イエズス会・キリシタン教会の日本人による乗っ取りの危険を本部に知らしめるという方法で自己の存在をアピ-ルすることに成功したとは考えられるようです。

世の中の如何なる組織においても、その主たる活動の拡大・発展に寄与することは最も高く評価される要因となり得るでしょうが、組織の存亡に関わる危機を未然に防ぐこともそれに劣らず重要であることは確かです。

そういう意味で、彼の属していた組織は、実に現世的・人間的な組織だったとも言えるのではないかと私は思います。


次回は、もう一人のポルトガル人宣教師ジョアン・ロドリゲスの日本人批判について書かせて頂こうと思っています。


〈つづく〉















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# by GFauree | 2016-07-22 13:18 | フランシスコ・カブラル | Comments(0)

知事と総督

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                                (撮影 三上信一氏)




スペイン語で、知事は gobernador civil、総督は gobernador generalで、どちらも gobernador です。
英語では governor ですから、スペルが少し違います。


過去の記事の中で、16世紀にスペイン本国からフィリピン総督として派遣されたゴンサロ・ロンキ-リョ-が、在任期間中の立場を利用して個人的蓄財のために如何に涙ぐましい努力を払ったか、を書きました。(http://iwahanjiro.exblog.jp/22266378/



総督と言えば、「日の沈むことなき」(つまり、全世界的に展開した)スペイン帝国の植民地官僚トップとして本国から派遣された超エリ-トでした。そういう立場にある人物の、いじましいというか、恥知らずな金儲け主義が印象に残っていましたので、今回の東京都知事の話に触れて同じく gobernador と呼ばれたそのフィリピン総督を直ぐに思い出しました。


ただ、今回問題となった都知事は、在任期間にその立場を利用して金儲けを図ったというより、知事としてやたらな贅沢(貧しかった子供の頃からの夢を実現したかったのでしょうか。だとすれば、同じ貧乏人出身同士として気持ちは少し分ります。)をしていた以外に、政党に交付された政治資金を個人の中古車・旅行・飲食・趣味に流用していた(何だか、わずかな役得を手に入れたサラリ-マンがやりそうなことです。このやり口には、私も含めて身に覚えのある人は少なくないのではないかと思います。)のが発覚してしまったという何とも情けない話です。


そういう観点から見ると、献金まがいの5千万円を「(相手が)良い人だなと思って」受け取ったと答弁して辞職した前知事の方が、「大航海時代」のフィリピン総督にまだ近いかも知れません。気が付いたことは、フィリピン総督の場合は地位を利用して積極的に個人的利益・資産の拡大を追求したけれど、現都知事はそんな積極性は持ち合わせず、個人的(生活費的)費用負担の圧縮をひたすら追求していたという違いがあることです。確かに、利益を出して個人資産を増やすには、収入を増やす以外に公的なお金を使って自分の費用(支出)負担を減らすという方法もあるんですね。


知事とか総督とかのある程度の経済的影響力や妙味を期待できる地位に就こうとする人の半分以上は、こういう性向を持った人たちだ、と考えたほうが間違いがないと私は思うようになっています。


一時期まで、多くの社会的地位には物質的な役得というものが付いていて、それを精一杯利用する人が多いということをもっと若いうちから知っていれば、などと考えたものです。ですが、この頃は、若いうちにそんなことを知らないで良かったと思っています。それは、私のように心の弱い者は、今回の都知事のように、自分が狙った役得や利権を手に入れたりすれば、それに有頂天になってとんでもない恥知らずな失敗をする可能性が大いにあったことが分ってきたからです。



次回は本題に戻ろうと思っています。







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# by GFauree | 2016-06-17 12:12 | Comments(2)

キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その1]


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このブログを書き始めてから約1年半が経ちました。その間に、以下の人物について記事を書いてきました。

1.慶長遣欧使節 支倉常長
http://iwahanjiro.exblog.jp/i3/
2.1613年リマ市にいた20人の日本人
http://iwahanjiro.exblog.jp/i2/
3.秀吉に会ったペル-出身の男 フアン・デ・ソリス
http://iwahanjiro.exblog.jp/i4/
4.長崎代官 村山等安
http://iwahanjiro.exblog.jp/i6/
5.ペトロ・カスイ・岐部
http://iwahanjiro.exblog.jp/i8/
6.キリシタン大名 有馬晴信と「岡本大八事件」
http://iwahanjiro.exblog.jp/i10/
7.天正少年使節 千々石ミゲル
http://iwahanjiro.exblog.jp/i11/
8.コスメ・デ・ト-レスフランシスコ・ザビエル
http://iwahanjiro.exblog.jp/i12/
9.南蛮医 ルイス・デ・アルメイダ
http://iwahanjiro.exblog.jp/i13/
10.マカオへ銀を運んだ船を率いた2人のペル-・イエズス会士
http://iwahanjiro.exblog.jp/i14/
11.背教者 クリストヴァン・フェレイラ
http://iwahanjiro.exblog.jp/i15/

上記のうち、2.の「リマ市にいた20人の日本人」と10.の「2人のペル-・イエズ会士」を各々一人と数えると、合計12人の人々について書いてきたことになります。

この時代の人で採り上げたい人物は他にもいるのですが、折角当地に住んでいるのですから、日本のキリシタン関係者は一先ず措くことにして、同時代とそれ以降の南米のキリスト教布教に目を向けてみようと考えました。

よく布教史と言うと、何処に教会や学校を作り、何人に洗礼を授け、どんな町が建設されたかなど、が語られることが多いようです。ですが、私としては改宗した先住民の人々がどのようにキリスト教を理解し受け容れたのか、についておぼろげであっても私なりのイメ-ジをもっておきたいと考えました。

そこで思い出したのが、高瀬弘一郎著『キリシタンの世紀』(岩波書店)に紹介されていた古野清人氏の論文『キリシタニズムの比較研究』(『古野清人著作集』五 三一書房)です。その論文なかで、「潜伏時代はもちろんキリシタン時代においても、その信仰がいわゆるシンクレティズムであった」ことが論じられているということでした。

シンクレティズムとは、「相異なる信仰や一見相矛盾する信仰を結合・混合すること」と、WIKIPEDIAでは定義されています。

運良く『古野清人著作集』五、を入手することができました。古野氏は、その中で日本のキリシタンの信仰は「伝統的に固有な仏教と神道およびひろく民間信仰と民衆の慣行と、中世的ロマン・カトリシズムとの特異な習合形態、すなわちシンクレティズム」であり、「けっして正当なカトリシズムとはみなされない」ものである、と主張しているのです。


論文『キリシタニズムの比較研究』は前篇、後篇に分れています。前篇では、フランシスコ・ザビエルの渡来から迫害・殉教によって聖職者不在のなかで残存せざるを得なくなっていったキリシタン宗門史が概観されています。

その前篇を読んでいたときに改めて気付いたことが何点かあります。それは、

・「ペトロ・カスイ・岐部」や「背教者 クリストヴァン・フェレイラ」に関する記事で採り上げた通辞ジョアン・ロドリゲスや布教長フランシスコ・カブラルなどの日本人に対する厳しい見方から、日本人聖職者の登用が制限されていたこと

その結果、幕府の禁教政策が徹底され外国人宣教師が追放されてからは、キリシタン信徒は聖職者不在のなかで宗教活動を継続せざるを得なかったこと

・聖職者不在のなかで崩壊に瀕したキリシタン教会を維持していくために、組講の組織が外国人宣教師によって奨励されたこと。また、組講の活動を通じて、キリシタン教会の主導権は、聖職者から一般信者の中の指導者へと移って行ったこと

以上の内容をまとめると、

日本人聖職者の登用制限⇒組講組織の奨励⇒聖職者から一般信者の中の指導者へ主導権移行⇒外国人宣教師の追放⇒聖職者不在の中で組講の組織によって活動を継続⇒潜伏・隠れキリシタンの発生


フランシスコ・カブラルは1570年から10年間布教長の職を勤めています。ということは、日本人聖職者の登用制限はキリシタン布教活動の初期からの話だということです。その登用制限による聖職者の不足は組講の組織によって補われ、やがてそれは、潜伏キリシタンの活動に繋がっていったようです。

ということは、「日本人聖職者の登用制限」こそキリシタン活動の性格も展開も決定付けた要因である、と言うことが出来るような気がします。

そこで次回以降、「日本人聖職者の登用制限」や「潜伏・隠れキリシタン」について考えてみようと思います。

このブログを書き始めた頃、私はキリシタン時代史に興味があると言っても、「フランシスコ・ザビエル」や「島原の乱」や「殉教」や「隠れキリシタン」には関心がないなどと書きました。ところが今になってみると、コスメ・デ・ト-レスに関する記事で「フランシスコ・ザビエル」を、小説「出星前夜」の記事で「島原の乱」を、ペトロ・カスイ岐部や背教者クリストヴァン・フェレイラに関する記事で「殉教」を採り上げてしまいました。そして、「潜伏・隠れキリシタン」についても、自分なりに見直してみようと思っています。わずか1年半の間に、キリシタン時代に対する見方がだいぶ変わってきています。

〈つづく〉





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# by GFauree | 2016-05-30 13:00 | 異文化理解と他者認識 | Comments(0)