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消えていった或る理想郷 そのII 著者前書き

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江戸時代初期、本格的な「禁教・鎖国」令によって、イエズス会士をはじめとする宣教師たちの日本からの追放が徹底されようとしたちょうどその頃、イエズス会は南米の広範な地域において、「教化村」(「イエズス会国家」)を建設しつつあった。それを論じたのが、イギリス人政治活動家・作家であるRobert Bontine Cunninghame Graham (ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)の著書『A VANISHED ARCADIA』(『消えていった或る理想郷』)である。

今回は、その書の冒頭の「著者前書き」から、著者の観点や考え方を抽出してみようと思う。



イエズス会とは

我らがイエズス会士は、”野鳥”(「奔放かつ鋭敏であり時には獰猛にもなる」という意味か)のような存在であることが、世に知られている。ロ-マ教皇の近衛兵であり、多くの破壊をもたらした(過激な)修道会であり、神学上の新たな概念‘’中間知‘’の発案者を育てた組織でもある。それは、‘’教義‘’というものが流行らなくなった時代に、‘’単なる信仰‘’にすがる姿勢を批判し、‘’行い‘’または‘’事業‘’というものを重んずることを意味した。

先入観に満ちた世界で、予め与えられた考え方に代えて新たな福音をもたらすことが出来た者は彼ら以外に居なかったのではないか。(神の恩寵の意味を絶対化し、人間の非力さを強調する、つまり極めて厳格な)ジャンセン主義者でさえ、フランシスコ・ザビエルの主張を認めたに違いない。(それ程、イエズス会は純粋性を認められた集団なのだ。)


彼らの「教化村」建設をどう評価するか

私は個人的には、彼らの「国家」の政治的側面、またはそれがスペイン植民地において如何なる役割を果たしたか、つまり、それが結果的にスペイン王室の利益となったか、イエズス会の仕業とされた野望の罪や責任は嘘だったのか、はたまた本当だったのか、などには殆ど関心がない。

この件に関する私の唯一の関心は、イエズス会による統治が如何に先住民に作用したか、それが彼らを幸福にしたのかどうか、スペイン国家またはスペイン植民地副王庁の総督によって直接統治されていた先住民に比べてより幸福だったのか、そうではなかったのか、ということである。


イギリス人から見たスペイン人

Anglo Saxon族(であるイギリス人)に言わせれば、「スペイン人征服者は血に飢えた殺し屋のようなものなのだから、スペイン植民地の先住民たちは、多数のグレ-ハウンド種の猟犬の中に放たれた野兎のようなものだった」ということになる。だから、先住民に献身し尽したイエズス会のルイス・モント-ヤ神父のようなタイプの人間を植民地のスペイン人の中に見つけることは、殆ど不可能なことだったことになるのだ。


理想郷であった「教化村」が消滅したあとに起きたこと

イエズス会がスペイン及びその海外植民地から追放された後の論争においては、あらゆる類の悪口がイエズス会士に対して投げつけられた。しかし、パラグアイにおける彼らの統治の間の活動に関しては、少数の元イエズス会士以外は誰も悪意をもってそれらを語ることはなかったのだ。

イエズス会退去後に関して確かなことは、ウルグアイとパラナの間では、退去から2~3年後以降からは、全くの混乱状態に陥ってしまったということだ。20数年の間に、大部分の「教化村」は見棄てられ、30年が過ぎる頃には、過去の繁栄の痕跡は跡形も無くなっていた。

イエズス会が導入した半共産主義は一掃され、「教化村」の収入は減り、全てが腐敗した。

総督ドン・フアン・ホセ・ヴェルティスが副王に報告しているように、政府が送った教区司祭たちは大酒飲みであり喧嘩屋であり、コートの下に武器を携行していた。盗みは蔓延し、先住民たちは毎日数百人ずつ村を捨て森へ還って行った。

イエズス会によってパラグアイに莫大な「富」が貯め込まれていた、という報告は全て噓であることが明らかになった。どの「教化村」からも、重要なものは何も発見されなかった。イエズス会士には、追放について事前に何も通報されていなかったし、捜索に対して準備をしたり「金」を隠匿したりする時間は与えられなかったにもかかわらず、である。


彼らは「教化村」で何を実現しようとし、どのように去って行ったか

イエズス会士たちは、先住民に対しまるで神のような考え方に立ち、世俗権力が行使することが出来たであろうものより遥かに強大な武力を有していたけれども、彼らは抵抗しなかった。そして、彼らの支援と勤勉さによって育ててきた豊かな土地から静かに離れた。

正しかろうが、間違っていようが、彼らの思想によって彼らは、彼らが生きた時代のヨーロッパの進歩の最良の部分の全てを先住民に教えることに努め、商業主義との接触から先住民を保護し、先住民を奴隷として扱うスペイン人入植者と先住民との間に(盾となって)立ったのである。こういうことが、彼らの罪とされたのだ。

人の心の中に‘’野望‘’があるとかないとかを詮索して、人の心の内を探る権利など誰にもない。イエズス会士たちがヨーロッパにいる上司から何を期待されていたかなど、考える必要もないことではないか。


戦い済んで日は暮れて

全てが語られ、なされた今、彼らの勤めは終わり、彼らの働きは全て無駄になった。(私心のない者の努力に対し、常に起こるように。)スペイン王権の全てのアメリカ領土の名を汚す奴隷制度に抗して、約2世紀の間耐えねばならない程の、どんな酷い罪を彼らが犯したというのだろうか。

敢えて真実を語ろうとすることは最大の悪であり、進歩的で参加するためには多大な税負担を要する(高級なヨーロッパ)社会においては、自分の真の考えを実践しようとすることは、社会の面汚しということになるのだ。

約2百年間、彼らは努力した。そして、かつて人が集住しよく耕作された彼らの領地は、砂漠でないにしても、アメリカ亜熱帯植物の生命力の凄まじいなり放題に身を任せている。(その亜熱帯植物は、まるで自分が成長しているその土地の所有をめぐって人間と争っているようにさえ見える。)


物事は全て、最も良い形で起こる

「この世に起こることは全て、最も良い形で起こる」ということは些かも疑うべきでない。疑うな、なぜなら、もし一旦疑えば、あなたは見るもの全てについて疑うことになるからである。我々の人生、我々の進歩、そして自分自身の絶対的確実性を。

これは万難を排して守るべきことである。



〈つづく〉

# by GFauree | 2022-03-07 13:09 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

消えていった或る理想郷 そのI 序論



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何故『ユ-トピア』か

前々回の記事の中で、ラス・カサスと同時代のヒュ-マニストたち(バスコ・デ・キロガやホアン・デ・スマラガ)について書いているうちに、この時代の国家と教会が一体となった世界征服事業を支えた精神的基盤として、1516年にトマス・モアが示したものを代表とするユートピア(理想郷)への憧れとでもいうものが欠かせないものであったことに、今更ながら思い至った。

トマス・モアの著作『ユ-トピア』の出版から約30年後に日本に渡来したフランシスコ・ザビエルが、何故あれほど日本「発見」に有頂天となり、日本人を高く評価したのか。それは、インドに到着してからの失意の連続の七年間の後、ついに念願の『ユートピア』を発見したと思ったからではないか。

また、それから35年後、天正少年使節がヨーロッパで何故あれほど熱狂的な歓迎を受けたのか。あれは、腐敗堕落したヨーロッパ社会に失望した大衆が、その少年たちこそ自分たちが永らく憧れ続けてきた『ユートピア』からの使節だと考えたからではないか。

元々、『ユートピア』はフランシスコ・ザビエルだけでなく日本のキリシタン教会を支えた宣教師たちの動機であり目標であったのではないか。それらの意味で、『ユートピア』思想は日本のキリシタン時代の歴史とも決して無縁ではないのである。



日本からの宣教師追放が本格的になってきた頃、南米では『理想郷』建設が始まった

1614年、全国的禁教令発布によって、宣教師たちの日本からの追放が本格化された。その5年前の1609年、南米ではイエズス会が「先住民国家」の設立を決定し、『ユ-トピア』建設に一歩踏み出そうとしていた。

一方日本では、1609年、キリシタン教会の屋台骨であったマカオからのポルトガル船の長崎入港が、幕府の貿易管理体制の厳格化により難航し、翌年その船は有馬晴信軍の焼き討ちに遭って自爆させられている。それが、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」である。

そもそも、当時ポルトガルはマカオ・長崎間の航行に関する制海権を既にオランダに奪われていたから、ポルトガル船貿易に精神的にも経済的にも支えられていたキリシタン教会の布教体制は既に崩壊の兆候を示していたのである。

従って、1540年の会創設以来の空前の成功を収めていた日本布教が坂を転がり落ちるように衰退の途を辿り始めたことと、南米での画期的な「先住民国家」建設の開始との間に何らかの関係があるのか否か。全世界的に効果的に布教を展開する戦略を有していたとされているイエズス会のことであり、興味を引くところである。


イエズス会のユートピア『教化村』とは

さて、南米でイエズス会が建設しようとした「理想郷」は「教化村」とか「先住民国家」とか「イエズス会国家」とか呼ばれている。最盛期には合計10万人以上の先住民人口を抱えた30の村落共同体が約10万平方キロメートル(北海道と四国を合わせたほど)の広さを有する地域に建設されたということである。それを「教化村」と呼んでしまうと、印象が矮小に過ぎるという気がする。しかし、やがては武装しスペイン国家に抵抗しようとしたとは言え、人口は僅か10万人程度だったのだから「国家」と呼ぶのも大袈裟だという気もするので、ここでは「教化村」と呼ぶことにする。


「イエズス会教化村」については、過去に以下の記事を書いたのでまずは目を通して頂ければ幸いである。





私と「イエズス会教化村」との縁

私が南米の「イエズス会教化村」のことを知ったきっかけは、ローランド・ジョフィ監督のイギリス映画『ミッション』であり、その映画のアメリカ公開は1986年10月31日である。


「システム地獄」で

その年、私は自身の不徳の致すところで、首にはならなかったものの全く知識も経験もないシステムの部署に左遷され、当然のように睡眠時間も与えられず、毎日気の狂うような思いをさせられていた。実際、人事部も当時の上司も、私が発狂するか自分から辞めたいと言い出すのをじっと待っていたのだろう。(今でも銀行のシステム障害のニュ-スを見聞きしたりすると、私と同じような目に遭っている人がいるのだろうななどと、何の因果かその部署に異動させられ訳も分からぬままに右往左往させられている人たちの悲喜劇を痛々しく想像している。)

11月3日の文化の日、横浜のはずれにあった自宅にいた私はシステム・トラブル発生の連絡で呼び出され、翌日だったと思うが、訳も分からずニュ-ヨ-クに出張させられた。ニュ-ヨ-ク市内の移動の途中で、映画館を取り巻く長い行列を見かけた私に、誰かが、話題になっている映画『ミッション』の封切りだと教えてくれた。

日本公開は、その翌年4月だから、実際には私はその頃見たのだろう。しかし、当時の私には「イエズス会教化村」を取り巻く歴史的な環境に関する知識もなく、それをどこかで得る意思も知恵も精神的余裕もなかったから、衝撃的だと話題になったシ-ン以外に何の印象も残らず、内容も殆ど理解できなかった。


ボリビア サンタ・クルスのストリ-ト・チルドレン施設で

1999年5月、もうその頃には「システム地獄」からは解放されていたが、特に深い考えもなくボリビア最大の都市であるサンタ・クルス(憲法上の首都スクレや有名なラ・パスよりはるかに人口が多い)にあるカトリックのミッション・スク-ルに併設されたストリート・チルドレンのための施設を訪問した。

その時、対応してくれた修道女の方と雑談をしているときに、映画『ミッション』の話題になった。『ミッション』を見たが、恐くて見ていられなかったとのことだった。私は上述の通り、見たことはあっても殆ど内容を理解できなかったのだから、どう返事をして良いかが分からず、どぎまぎするだけだった。

後で知ったことだが、「イエズス会教化村」群と言えば、パラグアイ・アルゼンチン・ブラジルをまたぐ地域に散在していることが知られているのだが、ボリビア東部、サンタクルス県にも「イエズス会教化村」跡があるのだ。



『幻の帝国-南米イエズス会士の夢と挫折』伊藤滋子著について

日本で「イエズス会教化村」について現在までに出版された本は、『幻の帝国-南米イエズス会士の夢と挫折』伊藤滋子著(同成社)だけではないかと思う。この本の発行は2001年だから、私はおそらくその頃入手したのだろう。その翌年、27年間の結婚生活を終わらせたことを思うと、さぞかし内心心細い時期だったであろうに、こんな本を買ったりしていたのかと何だか不思議な感じがする。

約250ペ-ジ(A5判)の小冊だが、スペイン植民地支配の実態、ポルトガルとの角逐、カトリック教会の内部事情など歴史的経緯が複雑でなかなか読み通せず、全体を読み切ったのは2008年にこちらに来てからだった。

ただし、小冊であるためか改めて読んでみると、イエズス会の性格に対する見方や日本布教との関係などに関する著者の見方が殆ど示されていないことに気付いて、それも読みにくくまた物足りなく感じた原因だったのではないかと思ったりした。それもあったのだろう、おそらく5~6年前に「イエズス会教化村」関係の本数冊を入手した。その中に、今回採り上げる『A VARNISHED ARCADIA』(消えていった或る理想郷)も含まれていた。



『A VARNISHED ARCADIA』を採り上げることは振り出しに戻ることになる

実は、約7年前に書いたこのブログの最初の記事のタイトルは『アルカディアに我ありき』である。

ここで、一言お断りしておく。言葉の意味である。『ユ-トピア』も『アルカディア』も要するに、想像上の『理想郷』である。『ユートピア』と言う言葉は、もともとは「どこにもない土地」を意味するそうである。『アルカディア』の意味は、下にリンクした記事に書いたので読んで頂きたい。





この記事の最後に、「このブログの最初の投稿にこのテーマを選んだのには理由があって、それは別の機会に話す」と書いた。縷々書いてきたように、これまで私は、「ユートピア」とか「理想郷」とか「アルカディア」とか「イエズス会教化村」とかいうことに、何故か分からなかったが気になるものを感じてこだわって来た。

そして今回いよいよ『A VANISHED ARCADIA』という本を通じて自分のこだわりの中身を見つめることになりそうである。それはまた、7年前このブログを書き始めた時、さらには20年以上前「キリシタン時代史」に触れ始めた時の初心にもう一度立ち返ることでもある。



『A VARNISHED ARCADIA』(消えていった或る理想郷)について

『A VARNISHED ARCADIA』は、鉛筆でしている書き込みを見てみるとおそらく5年ぐらい前に読み通していたようだ。内容は全然憶えていない。読んだことのある本の内容をこんなに記憶していないなどということはつい数年前までは思ってもみなかった。老化現象だろうか。でも、まあいいか。

以前にも書いたことがあるが、この領域の歴史については、今迄の経験上、歴史学者や歴史小説家の書いたものには余り期待できないと思っている。しかし、著者のRobert Bontine Cunninghame Graham(ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)は、左翼の政治活動家・国会議員であり、そういう意味では期待し得ると考えた。(そう言えば、私は一時期、神田・神保町で開かれていた左翼の人たちの歴史勉強会に参加させて貰っていたが、それは結構楽しい時間であったと懐かしく思い出すことがある。)



この本の初版は1901年に発行されているが、私が入手した1988年版には、Philip Healy という人の序論が付されている。Philip Healy は日本の慶応大学と徳島大学で教えていたことのある人物だそうだ。

序論には内容を要約し示してくれている部分があるので、それを一部書き出してみよう。

〈序論〉

これは、スペイン・ポルトガルの植民者やアスンシオンの大司教カルデナス(フランシスコ会士)やイエズス会を壊滅させることに成功したポルトガルの宰相ポンバル侯爵や他の啓蒙君主達や19世紀の自由主義的歴史家によって中傷された陰の英雄たちの物語である。

しかし、より重要なことは、パラグアイの「イエズス会国家」が、ヨーロッパ人植民者による奴隷化から先住民たちを保護したということである。

カニンガム・グレアムはキリスト教に対する鋭い批評家であった、しかしだからと言って、パラグアイのイエズス会宣教師たちの物語に関して正義感に軽々しく引きずられていたという訳では決してない。


イエズス会は、1550年に南米へ初めて渡来し、1770年に追放されるまで、先住民の保護のために献身し続けた。征服初期には、神学者たちは、先住民には魂があるのか否かを真面目に議論していたのだ。

1537年漸く教皇パウロ3世は「先住民は真の人間である」と宣言し、救済を模索し自由を与えたことになっている。しかし実際は、エンコミエンダ制によって、先住民はカトリック信仰の名において保護され教化されることと引き換えに植民者のために働かねばならなかった。つまり、この制度は実質上は奴隷制度だったのである。

それゆえ、1609年イエズス会士たちは、グアラニ族を奴隷制、疾病、植民者の道徳的頽廃から護るために、スペイン植民地から分離して永続的な「先住民国家」を設立することを決めたのだった。

次の年、最初の二つの町(または教化村)がパラナ川の支流の地に建設された。

1612年、王室委員会はイエズス会の決定を承認し、教化村は直接スペイン王に服属することとなった。

しかし、教化村は、先住民の労働力を失うことに憤慨するスペイン植民者の敵対視に加え、ポルトガル植民地からの奴隷狩り集団マメルコスの周期的な攻撃にさらされた。

一方、教化村内部では、宣教師たちによって充分に検討された管理の下、農業が開花していた。才能と学習に秀でたイエズス会士たちは、同時代のヨーロッパ文明の最新の技能をもたらした。彼らの中には、優れた植物学者、建築家、音楽家がいたのだ。

初期には、パラグアイの森林の硬質木材によって教会を建設し、やがては、石材によってヨーロッパ・バロック建築の教会堂に匹敵するものを建築するに至った。

イエズス会士たちは、高度に発達したグアラニ族の模倣技術を手工芸品に有効に活かすことが出来た。また、グアラニ族は特に楽器製造技術に優れていた。イエズス会士は、先住民教化に音楽を活用した。


読者は二つの疑問を抱くことになるだろう。

第一の疑問は、教化村の社会・経済秩序は半ば共産主義的なものであった、というカニンガム・グレアムの解釈に関するものだ。

確かに、教化村は福祉国家として運営されていた。しかし、イエズス会は先住民に耕作地を分配し、私有地として耕作することを奨励していた。

エドワ-ド・ノートンは、イエズス会は事実資本主義路線に沿って運営していたとさえ論じているのだ。

第二の疑問はより根源的である。
イエズス会士たちが、先住民をキリスト教に改宗させようとしたこと自体、正当だったと言えるのだろうかという疑問である。

カニンガム・グレアムは確かにそこに強制力を見ていた。しかし、強者が弱者を食い物にするこの不完全な世界において、イエズス会士がパラグアイの先住民に、約200年間のより悪辣な植民地主義に抗する保護を提供したと彼は信じたのだ。この疑問に他の答え方をすることは難しい。

更に、教化村についての最後の歴史家フィリップ・カラマンは著書「The Lost Paradise」で、イエズス会士たちは、彼らが遭遇した種族の信仰を精緻に研究し、彼らなりのカトリシズムの出発点に立たせたのだと指摘している。

そういうイエズス会士の考え方は、多くの先住民文化を保護することを助け、今もなおラテン・アメリカ・カトリックの特徴である宗教的混合主義の育成に少なからず寄与している。

18世紀末のヨーロッパで起きた教会と国家の力の衝突において、イエズス会は教会側の近衛兵と見られていた。

教会の敵は、1758年ポルトガルから、1764年フランスから、1767年スペイン及びその海外領土から、イエズス会を追放することに成功した。1773年に、教皇はイエズス会への指示を控えるように説得された。

ブエノスアイレス司令官ブカレリは、追放を実行する段になって、教化村先住民の反乱を恐れた。

1750年、スペイン・ポルトガル間の境界条約と教化村7カ村の再配置命令の後に、イエズス会は抵抗し、グアラニ族は武装蜂起した。イエズス会士の大部分は文書による抗議に留めたが、アイルランド人神父タデウス・エニスは反乱に加わった。しかし、1756年先住民軍は殆ど壊滅させられた。エニス神父の物語は、それ以来ずっと作家たちを魅了してきた。1767年、イエズス会士は抵抗しなかった。

イエズス会追放の200年後、教会と国家は南米で再び衝突している。

今回の状況は、「解放の神学」の出現である。イエズス会単独の企てという訳ではないが、イエズス会はそれに多大に関与している。

17~18世紀のイエズス会は、スペイン・ポルトガルの植民者に抗して、グアラニ族の権利を擁護し、先住民の半自治国家を設立・運営することにより、彼らの社会秩序を構築することを求めた。

現代の「解放の神学」者たちは、批判的哲学と政治活動の非常に異なる手法を採ってはいるが、同じ目標を追求している。

カニンガム・グレアムであれば、その理論には疑いを持っであろうが、その理想は支持するのではないか。


〈つづく〉









# by GFauree | 2022-02-22 01:57 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

「16世紀の日本とペル-」の間に起きた三つの出来事について

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2カ月ほど前、スペイン・セビリャを拠点に活動している日系ペル-人作家 Fernando Iwasaki Cauti がリマの書籍フェリアで講演する、という情報をある方から頂いて聴きに行った。そして、8年前から欲しかった彼の著書 Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI (16世紀の極東とペル-)を遂に入手した。

それも、なんと、面前で著者が私宛のコメントを自書してくれた。
(有名人のサインをもらっただけのことで、はしゃいでいるようで少し恥ずかしいが。)


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この本の存在については、10年ぐらい前に日本人の考古学研究者の方から教えて頂いたのだが、入手方法が分からなかったのでそのまま手が出せないでいた。その後、偶々ある大学で日本語講座をやらせてもらった時に会った学生に相談してみたところ、その大学の図書館にあることを教えてくれた。そして、私が日本語を個人教授していた生徒に運良くその大学の学生がいたので、彼女に図書館から借り出して貰い、コピ-を取って貰った。

それで、7年前からこの本の内容を基に何度かこのブログに記事を書いてきたのだが、そのときは、コピ-で読まざるを得なかった。そんな、いきさつがあったため、今回オリジナル本を入手出来かつ著者に直接会えた嬉しさはひとしおのものだったのだ。

この本の内容を総括すると、ペル-がスペインによって征服され、日本にキリスト教が伝えられた16世紀の「大航海時代」に両国の間で起きた出来事を、スペイン帝国の海外展開やキリスト教布教活動や銀の流通や人々の移動という面から把握・分析したものということになるだろうか。

と言っても、そこに登場するのは、植民地での地位を利用して飽くなき蓄財に励もうとする高級官僚やまた彼らの手先となって投資活動の片棒をかつぐ(または、かつがされた)イエズス会の聖職者、さらに国家が定めたルートを外した銀の流通によって法外な儲けを狙った密輸業者などあまりに人間的な人々である。

そのような中で、当時日本の最高権力者であった秀吉に面会した人物がいたり、ペル-からマカオへ運ばれた銀の行方に日本のキリシタン教会を主導したイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが介在していたり、またその時代の人・物の大きな流れの中でリマで暮らしていた日本人もいた、ということには私も大いに興味をそそられた。

特に興味を引かれた出来事を挙げてみると、以下のようになるが、その各々についてこの本に書かれている事柄やそれに関連して別に読んだり考えたりしたことを記事に書いてきた。

1.ペル-から日本へ行き秀吉に会った男のこと
2.ペル-からマカオへ銀を運んだイエズス会士のこと
3.1613年のリマ市の住民台帳に載せられた20人の日本人のこと




1.ペル-から日本へ行き秀吉に会った男については、

当時日本でのキリスト教布教を主導したポルトガル・マカオ・イエズス会ルートではなく、スペイン・マニラ・ドミニコ会ル-トで発生した話であることが先ずもって興味深い点である。

しかも、その男フアン・デ・ソリスは何故か、1590年7月イエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノと同時に日本へ到来していたのである。



フアン・デ・ソリスがペル-・パナマ経由持ち出した銀は、マカオで差し押さえられたが、アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、来日の際それを持参し、1591年3月聚楽第で秀吉に謁見する際に献上した疑いがあるのである。




2.ペル-からマカオへ銀を運んだイエズス会士について、

やはりということで変に納得する思いがしたことは、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノがマカオ当局が押収した銀にも手を付けていたらしいことである。

但し、別に私腹を肥やしていたとかいうことではない。押収されていた銀を借用してインド向け輸出を行い、中国・日本向け聖職者養成機関開設資金の足しにしたということで非難されているのである。


二人のイエズス会士は、ペル-を出発してから約10年後の1600年代初頭に帰国し、リマの旧市街セントロにある神学校聖パウロ学院(現在は国立図書館になっている)に幽閉されていたらしい。マカオで押収された積載銀は、アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの機転により回収され、無事に投資者に返済されたはずにも関わらずである。世の中をお騒がせした責任を取らされたのだろう。彼らの派遣は、ペル-副王の要請に基く会の命令によるものだったのに、である。

その一人レアンドロ・フェリペ神父は1613年に亡くなっている。それは、伊達政宗が派遣したとされる支倉常長を使節とする慶長遣欧使節が出発した年である。支倉はその7年後帰国し、またその2年後責任を取らされて斬首されたとされている。支倉の場合も、責任を取らされる立場にはなかったにも関らずである。






3.1613年のリマ市の住民台帳に載せられた20人の日本人のこと



この20人の人たちが、どういう理由で、どういう経路でリマに住むに至ったかは全く分からない。例えばフィリピン・マニラからガレオン船でメキシコ・アカプルコへ渡り、パナマを経由してペル-に入ったことは、想像しやすいが、マカオからポルトガルを経由したブラジル・ルートだったかも知れない。

ただ、言えることは、何処であっても安心・安全に暮らせるところであれば、そこに定住していた筈であるということだ。従って、移動経路が長いほど、それだけ苦難の道を歩んできたということではないかと私は考える。そもそも、本人か何代か前の人が日本を出たこと自体に相応の厳しい事情があったはずである。

まして、国家による保護も、国家間の協定も期待し得ない時代だから、抱えた危険と困難は途方もないものだったと考えて間違いはない。そんな、条件・状況の中にあっても、1613年のリマの日本人たちのうちの何人かは、何らかの技術を持ち所帯も構えていたことが分かっている。けれど、それだけをもって、彼らがきっと前向きな気持ちで生活を切り開いていこうとしていたのではないかなどと想像したりすれば、それは私の願望の現れに過ぎないということになるだろう。

インタ-ネット情報によると、Fernando Iwasaki Cauti の祖父は1878年広島に生まれ、1942年リマに没したという。第2次世界大戦時、日本人であることで迫害を受け、アメリカに連行され強制収容所に収容された。20世紀初頭の一時期をパリで過ごしたために、画家藤田嗣治と親交があり、藤田は1931年南米旅行に出かけ祖父を訪ねている。

そういう祖父を持つIwasakiが約30年前、1613年にリマで暮らしていた日本人たちのことを書いていて、今これからもリマで暮らしていこうとしている私がそれを読んで力づけられた気がしている、ということに何とも言えないものを感ずるのだ。


以上

# by GFauree | 2022-01-19 10:45 | 大航海時代 | Comments(0)  

ラス・カサスたちが闘い続けた新大陸「発見」の構造

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ラス・カサスの生涯を知ればキリシタン布教の実相も見えてくる

前回の記事に書いた「カトリック教会と奴隷貿易-現代資本主義の興隆に関して-」西山俊彦著(サンパウロ)を読んでいるうちに、「インディオ(新大陸先住民)の保護者」「人権の擁護者」と呼ばれるバルトロメ・デ・ラス・カサス(1484年生~1566年没)の生涯こそ、「大航海時代」の実態を表わしている筈であることに改めて気付いた。また、またそうであれば、1549年のザビエル渡来から始まった日本のキリシタン布教を支えた宣教師たちの考え方も、ラス・カサスの生涯から見えてくる筈なのである。

大航海時代の代表的出来事といえば、なんといってもコロンブスの「新大陸」発見だろう。ラス・カサスの父親は、コロンブスの第二次航海に参加して「新大陸」に渡り、彼自身も18歳の時に植民者としてエスパニョ-ラ島に渡っているのである。

そうは言っても「正義の人」はどうも苦手だ

ラス・カサスは、スペイン国家の征服・植民事業による先住民に対する虐待・搾取を生涯をかけて告発し続けたと言われている目立つ存在だから、私でも彼に関する本を何冊かは持っている。しかし、いつも書いているように、私は「正義の人」というのが苦手である。どうせ、薄っぺらな人物評価と一方的な個人礼賛に付き合わされるのが落ちだという気が先に立つからである。


ラス・カサスの場合、主著の一つである『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は、後年他のヨーロッパ諸国によって反スペイン宣伝に利用され、スペイン帝国の評判を貶めることを意図した「黒い伝説」だとの批判を自国内で浴びている。「人権の擁護者」などという個人崇拝に近い礼賛と、またその逆の一方的な誹謗・中傷に近い批判とが交錯して不毛な議論が繰り返されてきたようだ。そういうことに興味を持てないだけでなく、すぐに不愉快に感じてしまう私は、ラス・カサスを避けてきた。


しかし、とにかく「大航海時代」や「キリシタン時代」をよりリアルに掴めるかも知れないのだから、些細な苦痛は我慢しなければいけない。そう考えて、長い間本棚に眠っていた染田秀藤著「ラス・カサス伝-新世界征服の審問者-」(岩波書店)を読み始めた。伝記だから、ラス・カサスの事績を丹念に、真面目に記述した本であることは一応覚悟はしていた。しかし、心配した通り、どうにも面白くない。なんとか、350頁余りの本文を一回読み通したが殆ど頭に入って来ない。どうすれば良いのかと考えながら、本棚を探っていると、「新世界のユートピア スペイン・ルネサンスの明暗」増田義郎著(中公文庫)が目に付いた。


増田義郎について

「新世界のユートピア スペイン・ルネサンスの明暗」の内容に入る前に、著者の増田義郎について思うことを書いておこう。氏とかさんとかの敬称を付けないのは、漱石とか芥川というのと同じで、大家(泰斗)だと思うからである。学者だと博士と呼びたがる人もいる。欧米風なのかもしれないが、それもわざとらしいからやめておく。

増田の著書は相当な数の翻訳も含めて、凄まじい量である。それだけの本を書くのだから、読書量も膨大だった筈だ。こういう人の頭の中は、一体どうなっているのだろうかと思う。読んでいる本から得られる情報・知識を理解・整理しながらその意味を考え続け、それによって湧き出てくる疑問を解くために限られた時間を意識しながら更に本を読み続けるという緊張を要する作業の膨大な繰り返しだったのではないか、などと想像する。

と言っても、結構分かり易そうな本も書いている。そもそも、「大航海時代」という呼び名も増田の発案によるものだそうだ。「大洋の彼方に思いを馳せて航海に乗り出す人たちの思い」を誇張なく表わす、さわやかな名称だと感じていたので、このブログのタイトルにも使わせてもらった。ある時代に対して自分が名付けた呼称がこんなに広く使われるというのは、どういう感じがするものなのだろうか。

冒頭に表紙の写真を貼った「日本人が世界史と衝突したとき」(弓立社)も、日本のキリスト教受容を広く多様でユニ-クな視点から検討した面白く読みやすいけれど示唆に富んだ本である。

例えば、この本の中に以下のような指摘がされている。それは、‘’対抗宗教改革の旗手‘’などとよく呼ばれるイエズス会が、初めてロ-マ教皇に密着した立場を明らかにしたのは、1562年トリエント公会議に於いてからだった、という指摘である。であれば、それ以前に活動を開始していたザビエル等の布教(ザビエルの日本到着は、ご存知のとおり1549年である。)は、対抗宗教改革派と手を結ぶ以前のイエズス会の理念的特徴を示していたはずだ、ということになる。

だから、日本のキリシタン教会の発展期に活動した宣教師たちの思想は、ローマ教皇に密着したものではなかった可能性があるのである。それは、その時期の宣教師たちの内面の思想を解明する鍵となり得るものである故に重要だと思われるが、そういう指摘は何故かあまり聞かない。

そんなことを考えながら「新世界のユートピア」を読み進んでいった。

そこには、バルトロメ・デ・ラス・カサスの活動を軸にしてスペイン・ルネッサンスの展開が記されていた。


「新世界のユ-トピア」から

1492年10月、コロンブスがサンサルバドル島に初めて到着したとき、彼は先住民によって友好的に迎えられた。が、翌年戻って来てみると、残留者は皆殺しにされていた。そして、その時からコロンブスは先住民奴隷化の意図を露骨に示し始めた。


「エンコミエンダ制」

その後、先住民の反乱や植民者間の争いにより完全な混乱状態が続いたため、それを収拾するべく1503年の勅令によって「エンコミエンダ制」が制定された。「エンコミエンダ制」とは、植民者に(王室から指定された)先住民の集団が与えられ、植民者は義務として先住民保護とキリスト教化の責任を負う代わりに、権利として先住民を労働に使用することが認められる制度である。16世紀におけるアメリカのスペイン植民地の歴史は、「エンコミエンダ制」の存続をめぐる王室と植民者の絶えざる抗争の過程だった、と言って良い。

スペイン人植民者による酷使・虐待によって先住民人口は激減した。それに抵抗するべく立ち上がったのが、ドミニコ会士たちである。1510年、ペドロ・デ・コルドバを先頭とするドミニコ会士たちが到着した。中でも、アントニオ・デ・モンテシノスは、先住民を虐待する植民者を糾弾する説教を行ない、植民者の抗議を受け、フランシスコ会士たちは、植民者を支持した。

先住民はほんとうの人間か

このとき問題になったのは、なんと「先住民はほんとうの人間か否か」という疑問だったのである。この時代、ヨーロッパの国家も民衆も「キリスト者のみが真の人間である」というキリスト教中心の考え方に取りつかれていた。従って、大半の人々は「先住民は人間でないのだから、彼らを奴隷化するのも殺すのも一向に差し支えない」と考えていたとしても、おかしくないのである。


「ブルゴス法」

先住民奴隷化に賛成する殆どの人々とそれに抵抗し先住民の権利擁護を主張するドミニコ会士たちとの対立の結果、1512年に公布されたのが「ブルゴス法」である。その内容は、
(1)先住民の自由を規定する
(2)先住民にキリスト教の信仰を与えねばならないこと
(3)・(4)スペイン国王が先住民に労働を命令できること
(5)先住民が家や土地を持つべきこと
(6)先住民を植民者の近くに居住せしめること
(7)先住民労働者に、賃金として衣類その他が与えられるべきこと


自由と聞いてあきれるが

これの何処が自由なのかと思うが、その辺が当時のスペイン人の知性の限界なのだから仕方がない。ラス・カサスの生涯を辿っていくためには、これからも当時の国家や教会や植民者の恥知らずな愚かさを見ることに耐えることが必要である。とにかく、この法によって初めて先住民は動物でも劣等な人間でもない、自由な人間であると規定された。しかしながら、スペイン人は彼らを働かせることが出来ることになっているのである。「ブルゴス法」は、「エンコミエンダ制」の存続を前提とし、植民者の利益擁護のための法だったのである。

ラス・カサスの登場

1514年には、先住民の人口は極度に減少しており、それを補うためエスパニョ-ラ島のスペイン人は周辺の島々へ先住民狩りに出掛けていた。その年、エンコミエンダ所有者であったひとりのスペイン人植民者が、改心して先住民虐待に反対する運動を起こし、強く世論と王室に訴え始めた。それが、バルトロメ・デ・ラスカサスである。彼は1510年にカトリック司祭となっていた。また、1511年彼はキュ-バ征服に参加し、エンコミエンダを受け、先住民に農耕と砂金採集をやらせていたのだった。

先住民問題についての彼の見解は次のようなものであった。

ラス・カサスの考え方

「インディアスはスペイン国王が教皇から統治を委ねられた土地であるが、その唯一の目的は、住民をキリスト教に改宗させることである。従って、スペイン人植民者がいかなる目的であれ、世俗の目的のために先住民を使役するのは正しくない。先住民を救う唯一の道は、すべてのスペイン人を退去させ、平和的な手段で布教をおこなう宣教師のみが彼らの間に住むことである。」

先住民をキリスト教に改宗させることは、絶対に正しいとの考え方である。先住民固有の宗教などは、「偶像崇拝」であるから否定されるべきものだとの考えがまず初めにあるのである。先住民には信教の自由などひとかけらもないという、押しつけがましい考え方ではあるが、それでもスペイン人植民者たちにとっては、自分たちの地位が脅かされると思われて到底受け容れられるものではなかったのである。1515年、ラス・カサスは王室を動かそうと、スペインに戻る。


ラス・カサスの『ユートピア』

ラス・カサスは、国王フェルナンドの死後摂政を務める枢機卿ヒメネス・デ・シスネ-ロスに会った。シスネ-ロスはフランシスコ会厳修派に属し、修道会の改革を行った人物であり、エラスムスとも個人的な接触がある人文主義者であった。彼は真剣な対策を検討することをラス・カサスに約した。ラス・カサスは先住民社会再建プランをシスネ-ロスに提出したが、それはイギリスの人文主義者トマス・モアの『ユートピア』と似たような性格のものだった。ラス・カサスのプランはアメリカ大陸を対象に考えられたユートピア的社会プランの最初のものであったと考えられる。

ラス・カサスの宮廷内工作

シスネ-ロスは、ラス・カサスの建議を熟考したうえ、ラス・カサスと共に三人のサン・ヘロニモ会士をインディアスに派遣した。1516年12月、サント・ドミンゴに到着したサン・ヘロニモ会士は調査を行い、植民者の大勢は「エンコミエンダ制」の存続を主張しているという結論に至り、それに不満なラス・カサスは再度帰国した。一方、サン・ヘロニモ会士がなしうる唯一の提案は「ブルゴス法」を極力厳密に施行するというだけのことであり、帰国した三人は国王に接見を求めたが拒絶された。ラス・カサスがいち早く宮廷内で行っていた工作が奏功したのだろう。

ラス・カサスは、新国王カルロス一世の寵臣の一人ジャン・ル・ソヴァ-ジュの信用を得、「エンコミエンダ制」の廃止と先住民の救済を提言したが、その提言にはアフリカからの黒人奴隷の導入も含まれている。しかし、彼が最も力を入れて説いたのは、スペイン農民をインディアスに移住させる計画だった。

ラス・カサスがドミニコ会に入ったのは、1522年38歳のときである、その後10年間、彼は実践的な活動からは身を退いていたが、決して挫折した訳ではなかった。


ラス・カサスと同時代のヒュ-マニストたち

アウディエンシア(聴訴院)とは、元々はスペイン・カスティ-リャ王国にあった最高司法機関である大審問院のことで、スペイン植民地においては、司法・行政・立法を司り、副王と並ぶ位置付けを持った機関であった。

1530年メキシコのアウディエンシアに任命された四名の聴訴官の中に、バスコ・デ・キロガという法律家つまり官僚である、がいた。やがて、キロガは、私財を投じてメキシコ市の近くに土地を買い、先住民救済のための新しい村サンタ・フェにオスピタルを建設した。オスピタルとは、社会的・博愛的・宗教的事業を行うために組織化された地域社会である。

キロガに示唆を与えオスピタル建設の実践を促したのは、メキシコ大司教であり人文主義者であるホァン・デ・スマラガであったと推定されている。スマラガは、インディオ保護官として1516年に発表されたトマス・モアの『ユ-トピア』のアイディアを、メキシコ社会の再建のために利用しようとしたと考えられるのである。1538年、キロガはスマラガによって、司祭・司教に任じられている。

注目すべきことは、スマラガにしても、キロガにしても、ラス・カサスと同時代に先住民保護の実践に尽力する人たちがいたことである。つまり、ラス・カサスは孤立していたわけではないのである。しかし、ラス・カサスとほぼ同じ時期に、彼よりさらに進んだ考え方を主張した思想家もいたのである。


ラス・カサスよりさらに進んだ思想家ビトリア

それは、フランシスコ・デ・ビトリア(1480または86~1546)である。ビトリアはドミニコ会の修道士からサマランカ大学の神学教授となった人物である。

ラス・カサスは、「1493年の教皇アレッサンドロ六世の「贈与大勅書」によってインディアスの布教事業を委任されたスペイン国王は、インディオ教化のために(のみ)インディアスを統治する権限を持つ」と考えた。しかし、ビトリアは、「教皇は全世界を治める世俗的な君主ではなく、異教徒の上になんら権力を有しないから、その統治権を世俗の君主に分与することはできない」と考えた。つまり、ビトリアは教皇勅書に書かれた教皇の権限を明確に否定したのである。

ビトリアは、キリスト教徒と非キリスト教徒、ヨーロッパ人と非ヨーロッパ人の差をいっさい認めず、先住民も含めたあらゆる人間によって構成される普遍的世界の法を説いているのである。言い換えると、ビトリアは、インディアスにおける自国民(スペイン人)の権利と先住民社会の関係を、万民法的な観点から検討し、近代国際法の基礎となる理論を作り挙げたのである。



【私的な感想】

「新世界のユ-トピア」をここまで読んできて、私にはフラストレ-ションが、また 溜ってきた。ラス・カサスが批判したスペイン人植民者の行状やスペイン国家の対応があまりに酷くて読むに堪えないのである。こんな無軌道で愚鈍な国民や国家の歴史を考えること自体無駄なことではないか、という気がしてしょうがなかった。しかし、そんな嫌悪感を催したからと言って「ラス・カサスの生涯を通してキリシタン時代史を考える」というアイディアをあきらめるわけにはいかない。

実は、私は、「スペイン人植民者というのは、かなり危険な輩であるはずなのに、ラス・カサスに身の危険はなかったのか」とか「何故ラス・カサスは王室に影響力を持っていたのか」とかの疑問に対する答えを期待していた。しかし、増田は、その疑問に対し、「ラス・カサスは、おもしろいことに国王や重臣などの権力者との交渉では、かならず相手の信用をかちうる特異な才能を持っていた。」としているだけである。


そこで、私は「新大陸発見」の実態というものをもう一度考えてみた。
私の考えは、こうだ。


「新大陸発見」の実態

コロンブスによる「新大陸発見」は往々にして「輝かしい快挙」として語られてきた。しかし、冷静に考えてみれば、実態はそんなものであるはずがない。

そもそも、その時代の海外渡航は極めて危険な行為であったから、もし母国において平和で豊かに暮らすことが出来ていれば、当時信じられていたような化け物が住む未開の土地に向けて、わざわざ危険な航海に乗り出す訳がないのである。

つまり、「新大陸」への航海に乗り出した人々の大半は、母国では食べていけないか、または何らかの理由で母国には暮らせない人だったはずなのである。例えば、もし農業に関する知識や技術を持った人であれば、母国で食えていた可能性は高いから、あえて「新大陸発見」に参加するという危険を冒したりしなかったはずである。

(そういう点で、多くの人が農業等の知識・技術を持ちそれを移民先で生かして新たな生活を切り開いていった明治以降の日本人の移民と同じように考えてはいけないのである。)


植民者の質

繰り返しになるが、「新大陸」に渡ったスペイン人の多くは、恐らく農業などの職業的な技術や知識を持っていない人だったのだろう。そういう人々が「新大陸」で植民者になって何が出来るか。彼らにできることは、せいぜい先住民を奴隷にして酷使して自分の利益を確保し、使えない先住民は虐待することぐらいだったのではないか。だから、先住民の酷使・虐待に歯止めが掛からなかったのではないか。その証に、コロンブスの「発見」から25年も経ってから、ラス・カサスはスペイン人農民の移住を提言している。

これは、スペイン人植民者の属性とか質の問題である。私がこのことに気が付いたのは、ペル-がスペイン人に征服された後、リマの街にはスペイン人浮浪者があふれ、それが治安を乱す要因となっていたことを読んだからである。

そのためか、今でも明確な職業を持っているか、よほどの金持ちでない外国人は疑いの目で見られる傾向があるような気がする。まあ、それは私のひがみ根性というもののせいかも知れないが。


王室は借金返済に必死だったから

そもそも、探検航海は金のかかる事業である。

コロンブスは航海に対してスペイン王室の支援を取り付けたことが知られているが、支援とはすなわち資金を投入してもらうことである。では、王室はその資金をどのように賄っていたか。スペイン王室が海外征服事業などの過大な支出を補うためにフッガ-家等の金融資本から高利な資金を調達していたことはよく知られている。

つまり王室は借金をして征服事業に投資していたのだ。コロンブスなど征服者・植民者は上がる収益の半分を王室に直ちに献上させられていた。王室は可及的速やかに借金を返済しなければならなかったからである。遅くなれば、それだけ高利貸しに余計な金利を払わなければならない。だから、植民者たちから、またなんと先住民からさえも、できるだけ多くの税金を早期に取り立てようとしたのだ。当然、植民者は先住民を酷使し、働けない先住民は虐待され見せしめのために殺されたのである。

近年、スペインによる征服後の先住民人口の激減は、植民者による酷使・虐待によるものではなく、ヨーロッパから持ち込まれた疫病によるものだったというのが定説となりつつあるようだ。しかし、先住民は酷使・虐待され衰弱していたからこそ病に耐えられず激減したという見方が出来るし、スペイン人ならば認めたくないだろうが、そう考える方が自然である。


教俗一体体制の意味

この仕組みは、何を連想させるだろうか。そう、植民者たちは「危険な集団」であり、王室はその「元締め」である。何故「危険な集団」などと回りくどい呼び方をするかと言えば、日本人なら誰でも知っているあの呼び方をすれば、あまりに刺激が強過ぎると思うからである。人の迷惑も顧みず、武力を持ってやりたい放題をする「危険な集団」に「元締め」がついているのだから、あの集団にそっくりであり、そう呼ばれても仕方がないのである。

この時代、教会は国家と教俗一体となって海外征服事業を進めたと言われている。つまり、教会は宗教改革による勢力の衰退を取り戻すために、その「危険な集団」の「元締め」による征服事業を公認し、布教事業に「元締め」の保護・支援を得るために、自分たちの組織の人事権を引き渡してしまったのだ。それが、あの悪名高きパトロナ-ト・レアル制(王権教会保護体制)である。

ただ、その時代の教会の権威は無視できるものではなく、摂政を務めた枢機卿ヒメネス・デ・シスネ-ロスのように教会の人材が王室に登用された例もあるのだから、教会の考え方が王室に影響を与えるという面もなかったわけではない。だからこそ、先住民搾取・虐待に関する教会の責任はなおさら重いのだ。だから、「危険な集団」である植民者と彼らの支持者に包囲されていた筈のラス・カサスの身の安全は、そういう微妙なバランスの上に保たれていたということではないか。

ラス・カサスの影響力

けれども、国王がラス・カサスの提言を聞き入れようとした、などとラス・カサスが王室に影響力があったかのような表現がされることがあるが、王室が植民者に依存していた「新大陸発見の構造」を考えれば、王室が植民者の不利になるようなことに本気で取り組むはずがなかったことは明らかである。

王室は、世界征服事業のパートナ-である教会の中の先住民擁護者たちの批判に応えるようなふりをしながら、スペイン人植民者たちという「危険な集団」が差し出す甘い汁を「元締め」として吸い続けたのである。もちろん、そういう王室をパートナ-として支えていたのが、この時代の教会であったことは言うまでもない。


孤立せず次の時代に受け継がれていったラス・カサスの闘い

ラス・カサスというと、四面楚歌の状況の中で終始、先住民擁護を訴え続けた「孤高の人」というイメ-ジがないだろうか。しかし、実際は同時期にスマラガ、キロガのような先住民救済の実践に尽力した人々や修道院や大学の中にあってさらに進んだ思想を構築したビトリアのような人物がいたのである。つまり、ラスカサスは決して孤立してはおらず、その意思が次の時代に引き継がれていったことは確かなのである。

こう考えると、国家と教会と植民者の愚かさの集積のように見える「大航海時代」における「新大陸の発見」の闇にも、一筋の光明が見えるような気はする。


日本に来た宣教師の中にもラス・カサスの影響を受けた人たちが

また、当時、教会の中にあっても、これほど多くの人々が先住民の擁護について考え行動していたのだから、同時代人であるザビエルやトーレスや南蛮医アルメイダなど日本のキリシタン教会の発展期に活動した宣教師たちが何らかの影響を受けていたであろうことは、当然考えられるのである。



雑談的な話題三題

今回「新世界のユートピア」を読んでいて、そこに登場する人たちに関する雑談的な話題とでもいうべきものがいくつか浮かんできた。それで、自分がなぜか今までその人たちの周辺を生きてきたような気がしたので、それを記しておこうと思う。

1.バスコ・デ・キロガについて

キロガの生涯について、Wikipediaを読んでいたら、おやっと思う記述があった。
「キロガは、ミチョアカンのパツクァロ湖畔に、サンタ・フェ村と同様のツィンツンツァン救済村を建設した。」とあるのである。その地名と湖の名前にはかすかな記憶があった。

私は37年前の1984年の夏に休暇を取って、メキシコに旅行した。そのとき、案内してくれたメキシコ人の友人が連れて行ってくれたのが、ツィンツンツァンでありパツクァロ湖であった。パツクァロ湖で昼食として小魚のフライをつまみにコロナ・ビ-ルを飲んだ記憶があるから、確かである。その時、キロガの館の書斎のような所に入った覚えもある。その頃の私にキロガに関する知識などは当然皆無なのだが、インディオ(その頃の私には、「先住民」などという繊細な言葉を使う神経も知識も全くなかった。)に尽くした偉い神父だという説明を聞いた気がする。

実は、その頃私は大阪の支店に勤務していたが、上司とうまくいかず、仕事にやりがいも感じられずで腐っていた。そこで、思い切って気分転換のためにメキシコ旅行に出かけたのだが、その甲斐もなく旅行から戻ってからは、ますますやる気を失い、喧嘩はするは重大な不手際をしでかすはで、ついにはその1年半後、二度と浮かび上がれないような左遷を食らってしまった。そして、まるで強制収容所のような部署で大げさでなく気が狂うような思いをさせられることになる。(勿論、全ては自分の心がけの悪さのせいであったのだが……)だから、メキシコ旅行のことは思い出すのも恐ろしく長い間忘れていたのだが、今回意外とあっさりと思い出すことが出来た。

さすがに35年以上も経つと、その記憶は嫌なものでもないのである。出来るだけ長く生きてみるものである。最近また自殺者が増えていると聞くけれど、その経験からも私は出来るだけ長生きすることをお勧めしたい。それに、あのメキシコ旅行は、今ペル-で暮らしていることの伏線だったのかも知れない。


2.トマス・モアについて

カトリック教会には、洗礼を受けた者がさらに信仰を強めるための、堅信と呼ばれる儀礼というか秘跡がある。私は確か11歳のとき、堅信を受けた。堅信は司教以上の聖職者が授ける秘跡だから、おそらく通っていた下北沢の教会に東京教区の大司教が巡回してくるため、数合わせか何かで、特に準備も審査もなく受けさせてくれたのだろう。

堅信の際には、洗礼と同じように、守護聖人の名前(霊名)が与えられる。私の場合、霊名として父親がつけてくれたのが「トマス・モア」である。あの「ユートピア」を書いた人文主義者トマス・モアである。トマス・モアは、国王に反逆したかどで斬首され、没後400年にあたる1935年にカトリック教会の聖人とされている。

そんな、人物の霊名を父はどうして私に付けたのか。私が家でも学校でも、そして会社でも、確かに頑固なへそ曲がりだったことは認めるが、父がトマス・モアを選んだ理由は何故なのか。霊名を選ぶについては、親は子供に何かの願いを託するのが普通なのではないだろうか。私の親は、私に対して、どんな願いを掛けたのか、知りたい気がする。

私は、真面目なことも冗談も父と話をした覚えが殆どない。父は、もう25年以上前に亡くなったから、いまとなっては、トマス・モアについて自分で調べて想像するしかない。


3.増田義郎について

増田が、生前ペル-・カトリカ大学で「スペイン植民地時代初期の歴史」教えていたことがあることを以前聞いたことがあった。そこで先日、学生としてその講義を聴いたことがあるという方からその時の様子を教えて頂いた。増田は常に目つきが鋭く、圧倒的な迫力を感じさせ、とても気軽に話しかけることなどできない雰囲気の教授だったそうである。今はどうなのか分からないが、この大学には日本人の研究者が半年ごとに交代で教えに来ていた。そして、大抵はこちらの教授と学生の間の習慣に合わせて気さくな態度をとる人が多かったが、増田は全くそんな素振りを見せることがなかったらしい。そんな余計なことに気を遣う暇もつもりも無いという感じだったようだ。研究に関しても、今はもう人も通わないようなアンデスの山奥の教会に残った記録を見つけ出してきて、それを解読しようとむさぼり読んでいるような様子だったらしい。

また、増田が亡くなった2016年のインタ-ネットの訃報記事で、ご自宅は東京で私が育った家の近くであることを知った。新宿から私鉄の各駅停車で四つ目の駅の近くである。(増田宅は一丁目だが、私の家は二丁目だった。)私は学生の頃、その近所の酒屋さんのお嬢さんに、週2回英語と数学を教えていた。真面目で良くできる生徒だったので、最高に楽でやりがいのあるアルバイトだった。それに出して貰っていた夕食のご飯がおいしく、おかずも豊富なのでいつも丼飯をお代わりしていた。そんな風に、いつも腹を空かせていて抑えようもなく旺盛な食欲を抱えていた時期が私にもあったのだ。お嬢さんと言っても、考えてみれば、もう還暦になられるはずだ。どのように、されているのか、懐かしい。




【以上】









# by GFauree | 2021-11-07 07:52 | Comments(0)  

「キリシタン時代の奴隷問題」から透けて見えるもの


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「大航海時代の日本人奴隷」という話題は、それをテーマとした本がよく売れたこともあってか、この数年来結構論じられるようになったし、このブログでも何度か採りあげてきた。






これらの記事を書きながら、上に表紙の写真を貼付した「カトリック教会と奴隷貿易 現代資本主義の興隆に関連して」西山俊彦著(サンパウロ)という小冊を思い出し、出来ればもう一度読んでみたいと思っていた。たしか、サラリ-マン時代の終わりの頃に購入した筈だったのだが見当たらないので、日本を出る前に処分してしまったものと思い込んでいた。それが、どういう訳か数日前忽然と目の前に現われた。ただ、本棚にあることに気が付かなかっただけの事かも知れないが、どうも不思議なことだ。

2006年発行の版なので、ペル-に来る1~2年前に入手したのだろうけれど、例によって読みかけて挫折した。テーマは、途方もなく膨大かつ根深い問題であるはずである。加えて、著者は、率直な意見表明などをすれば、いかにも大きな抵抗を受けそうなカトリック教会に所属する司祭である。そんな条件の下で問題に真正面から向き合おうという著者の大胆かつ率直な姿勢に驚きながらも、内容が充分理解できず途中で降参してしまったというのが正直なところだ。

去年から何度も書いたことだが、かつて読み始めたけれどよく理解できず途中で放棄してしまった本が、70歳を過ぎてから意外にも理解できるようになるという嬉しい経験をこの2~3年のうちに何度かしたので、今度も、もしやしてという期待があって読み始めた。


【この本の内容】

奴隷貿易、奴隷制によって何百年という長期にわたり収奪されてきたアフリカ諸国は、1960年代に次々に独立した。ところが、欧州列強による植民地分割の跡をそのままに各国が独立した(それは、不自然な直線の国境線に表われている)ことも災いして、その後、隣国との戦争や国内紛争が絶えず、「旱魃、飢餓、難民、失業、汚職、経済悪化」に見舞われ現在も絶望的と言わざるを得ない状況が続いている。

奴隷労働が近代資本主義の形成に決定的役割を果たしたことは、既にヨ-ロッパ全体で認められている見解である。
①アフリカで黒人を買い漁って「新大陸」南北アメリカへ運ぶ
②「新大陸」で彼らを酷使して原料を大量生産する
③原料をヨーロッパで製品化して世界に売りさばく
この「三角貿易」によって蓄積された資本によって「産業革命」が実現された。
「産業革命」は動力とエネルギ-の革命によってもたらされたと説明されることが多いが、より決定的な要因は、原資を蓄積した時期の奴隷労働であると考えるべきである。

ということは、黒人奴隷に対する数世紀にわたる虐待・搾取と非人間的処遇によって、ヨ-ロッパ・北米諸国が工業化を進展させた一方で、アジア・アフリカ途上諸国は後進国として取り残されたのである。

この本の主題は、以上の現代資本主義の形成過程における、「カトリック教会の奴隷貿易に対する姿勢」を確かめ、その責任を問うことである。それ故に、先ず問題とすべきは、15世紀の大航海時代の幕開け前後からということになる。何故なら、奴隷貿易による収奪が開始された大航海時代において、カトリック教会は決定的な役割を果たしていたからである。その時代に発布された種々の教皇教書には、それが覆いようもなく示されている。


1.教皇エウジニオ四世の教書(1435年)

これは、「カナリア諸島でキリスト教へ改宗したか、改宗しようとしている住民を奴隷にすることを禁ずる」、つまりは「キリスト教徒でない者を奴隷とすることは許容する」教書である。

同時に、「キリスト教徒を奴隷にしては、ならない」との教書を発布することが必要だということは、この原則は守られず、「キリスト教徒すら奴隷にしていたこと」を意味する。


2.(1)教皇ニコラス五世教書(1452年6月)
  (2)教皇ニコラス五世教書(1452年7月)
  (3)教皇ニコラス五世教書(1454年)
  (4)教皇カリスト三世教書(1456年)
これらは、「キリストの敵の奴隷化を許容する」教書のうち代表的なものである。

これらの教書に書かれてあることから、その底に流れる考え方は以下のようなものであることが分かる。
「異教徒及びキリスト教に敵対する者は誰であっても、襲い、攻撃し、敗北させ、屈服させた上で、あらゆる所有物を奪い、終身奴隷におとしめても構わない。

そして、このような(暴力的で、幼稚で、粗雑な考え方に基く)教書が発布された理由として以下の要因が考えられる。

(1)「聖戦」の論理も、それを適用することについても、発見される「新世界」の分割・領有の根拠も、奴隷化の基準までもが、教会の教義・教権の下にあったこと。
(2)「福音宣教」の目的のため、ポルトガル・スペイン両国王には、「教会組織監督の特権」(パトロナ-ト・レア-ル)が与えられていたこと。
(つまり、教会と国家が一体となって世界征服を進める体制が作られていたこと。)
(3)世俗君主の第一の目的は、植民地主義・帝国主義的勢力拡張により、政治的・経済的利益を得ることにあったから、福音宣教と救霊福祉という宗教的な目的は逆に手段として利用されたこと。


3.(悪名高き)教皇アレッサンドロ六世は、ポルトガルとスペインの間で世界を分割することを定めた「分界教書」で有名だが、「贈与大勅書」と呼ばれる教書も発布している。
それは、「神よりペトロに与えられた権威と、キリストの代理人としての権威に基き、キリスト教君主によって所有されていない領土の一切の支配権をカスティリャ・レオンの国王に永久に与え、彼らの相続人を完全無欠の領主として認証する」という(あきれ果てた)内容のものである。


4.16世紀前半の教皇文書

(1)教皇ユリオ二世大勅書(1508年)
スペイン国王フェルナンドとその継承者に無期限の「教会組織監督の特権」(パトロナ-ト・レア-ル)を与えた勅書。
(2)教皇レオ十世小勅書(1514年)
「神に刃向かう者の領土を征服し、財産を剥奪し、終生奴隷とするためのキリスト教徒の権利を確認する」勅書。
(3)教皇パウロ三世の諸勅書(1537~8年)
(アレッサンドロ六世の愛人ジュリアの兄であり、イエズス会創設を承認したことで知られる)教皇パウロ三世は、三つの勅書により、破門の罰を課してまで明確にインディオの奴隷化を禁止しておきながら、その一年後の勅書により、なんと禁止を撤回した。
(さすがに、この教皇らしく、スペイン王権からの要求に従ったまでの腰抜けぶりである。)


5.布教地先住民の奴隷化を実現し推進するための仕組み「勧降状」(リケリミエント)

教皇アレッサンドロ六世の「贈与大勅書」によって、新たに「発見される世界」はキリスト教君主に与えられることとなったが、与えられた一般的な支配権だけでは、先住民インディオの奴隷化までは許されるかどうかは確かではなかった。そこで、考案されたのが「勧降(催告)状」(リケリミエント)という仕組みである。

「勧降状」(リケリミエント)とは、征服活動を率いる指揮官が戦いを始める前に朗読することを(勅令で)義務付けられていた‘’宣言文‘’のことであり、アステカ王国が滅ぼされたときも、インカ帝国が征服されたときも、朗読されたものである。
(その内容と言い、また先住民がそれを聞いて理解できるはずがないという点と言い、実に馬鹿げたものであるが、)スペイン人征服者にとっては、教会と国家の権威によって、手あたり次第の掠奪・戦闘を「正義の戦い」に変化させ、良心の呵責を鎮めることのできる魔法の仕組みであった。

「勧降状」に続く征服を経て、事態は虐待・虐殺・奴隷化と進み、先住民は激減または絶滅した。ただし、先住民の激減・絶滅の直接の原因は、スペイン人が持ち込んだ疫病だったという説が有力である。

なお、スペイン人は先住民社会に様々な疫病を持ち込んだが、先住民社会が好色・淫乱なヨーロッパ人にしたお返しが一つだけあったと言われている。それは、梅毒である。それはともかく、インディオ先住民が激減したため、南北アメリカの植民地化推進が困難となったことから、南北アメリカ「新大陸」における労働力は先住民インディオからアフリカ黒人奴隷へと代替されることとなった。



6.日本でのキリスト教布教と奴隷貿易

奴隷と宣教師
日本でのキリスト教布教も、ポルトガル・スペイン両国とカトリック教会が一体となって進めた世界征服の一環として行われた大航海時代の事業であった以上、当然の事として、カトリック教会及びイエズス会は奴隷貿易と関係していた。しかし、昔も今もそれを認めるはずはない。

その時期までに発達した海上交通網は、激減または絶滅した先住民インディオに替わる黒人奴隷の労働力をアフリカからアメリカ「新大陸」へ運ぶ一方、腐敗堕落の結果衰退した教会勢力を回復させようと新天地を求めた宣教師たちを極東の島国(日本)へ届けた、ということになる。

本書でも、本能寺の変の際、信長のために最後まで奮闘した黒人奴隷は、イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・バリニャ-ノから献上された者だったことや、ザビエルと共に来日したコスメ・デ・トレス神父は、山口で教会の下働きの仕事に外国人奴隷を使用していたことが挙げられている。しかし、注目すべきことは、そんな些末なことではない。

注目すべきは、1570年に長崎が開港される数年前から多数の男女が奴隷として日本から輸出されていたことである。そして、秀吉が政権を握り九州征伐に乗り出した1586年頃には、既に相当数の日本人奴隷が海外に輸出され、世界中に拡散しており、またそのことが広く知られていたのである。


少年使節の見聞対話録
前掲の記事にも書いたことだが、大航海時代に世界に散在したと言われる日本人奴隷に関し、その惨状を語るとしてよく引用される書物がある。それは、1590年マカオで印刷、刊行された「日本使節の見聞対話録」(ラテン語)であり、その日本語訳は「デ・サンデ天正遣欧使節記」(新異国叢書-雄松堂)として出版されている。

1582年遣欧使節派遣を企画・断行し少年たちを引率したアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、帰国の途上にあった少年たちとインドで合流し、1588年8月マカオに到着、1590年6月まで滞在する。何故、2年近くマカオに滞在したかと言うと、1587年7月秀吉の「伴天連追放令」が発布され、安全な日本入国を果たすためにその機会を覗わざるを得なかったからである。

ヴァリニャ-ノはそのマカオ滞在の間に、一行から見聞や体験を聴取し、旅先での記録として整理し編纂して、同じイエズス会のドゥアルテ・デ・サンデ神父にラテン語で書かせた。それが、「日本使節の見聞対話録」であり、その内容は、少年使節である千々石ミゲル・伊東マンショ・原マルチノがミゲルの二人の従兄弟(いとこ)リノ(大村喜前の弟)、レオ(有馬晴信の弟)を相手に帰国後に旅先での見聞を語る「対話録」の形式で書かれている。


「対話録」は虚構だがヴァリニャ-ノの本音を示す貴重な資料
この「対話録」は上述の通り、日本にいたはずの従兄弟たちとまだ帰国前の千々石ミゲル他少年使節たちとが、あたかも面談し語り合っているかのように書かれているという点で既に虚構(フィクション)である。従って、そこに書かれてある事柄もそのまま歴史的事実と考え論ずることは出来ない筈のものである。ところが、大航海時代に世界に散在したと考えられる日本人奴隷の惨状が論ぜられる際に、あたかも真の記録であるかのようにこの「対話録」の内容がそのまま引用されることが少なくない。

本書においても、その「対話録」の日本語訳である「デ・サンデ天正遣欧使節記」が引用されているが、「本当の著者とされるA・ヴァリニャ-ノ神父の体験を原マルチノ(少年使節)の口を借りて述べれば」との断り書きが付けられている点で良心的である。

ただ、確かに「デ・サンデ天正遣欧使節記」は厳密にはフィクションであるが、「日本人奴隷輸出問題」に関する資料が不足する中では、ヴァリニャ-ノ自身がこの問題をどう考えていたか、その本音を示すものとして貴重な資料ではある。それを確かめる意味から、「使節記」の内容のうち「日本人奴隷輸出問題」に関わる部分を、今回改めて以下に書き出してみた。

既に書いたように、教皇が異教徒を奴隷化することを教書によって認めるなど、カトリック教会が奴隷化に関わっていた事実を勘案すると、少年たちのせりふには、ポルトガル人を擁護するためのヴァリニャ-ノの手前勝手な言い分が満載されていて読んでいるうちに気分が悪くなってくるが、関心のある方は一応目を通して頂きたい。

なお、一部少年たちのせりふがヴァリニャ-ノの主張であることを前提として、赤字で注釈を補記してみたが、そんなことをしているうちに、腹が立ってきて血圧が普段より20ぐらい上がってしまった。



レオ ちょうどよい機会だからお尋ねするが、捕虜または降参者はどういう目に遭わされるのだろう。わが日本で通例やるように死刑か、それとも長の苦役か。

ミゲル キリスト教徒間の戦争で捕虜となったり、やむをえず降伏する者は、そういう羽目のいずれにも陥ることはない。つまり、すべてこれらの者は先方にも捕虜があればそれと交換されるとか、また釈放されるとか、あるいはなにがしの金額を支払っておのが身を受け戻すのだ。というのも、ヨ-ロッパ人の間では、古い慣習が法律的効力を有するように決められ、それによってキリスト教徒は戦争中に捕われの身となっても賤役を強いられない規定になっているからだ。
既に述べたように、同じキリスト教徒でさえ奴隷とされていた実情は、それを禁じた教皇教書から明らかになっている。無知なのか、それともそれを知っていてこんなことをデ・サンデ神父に書かせたのか。
だがマホメット教徒、すなわちサラセン人に属する者に対しては、別の処置が取られる。これらの者は野蛮人でキリストの御名の敵だから、交戦後も捕えられたまま、いつまでも賤役に従うのである。
異教徒(例えば、仏教徒)は、キリストの敵だから、戦って奴隷にしてよいという考え。

レオ そうすると、キリスト教徒なら、その教徒間では戦争中に捕虜となっても、賤役に従えという法律に拘束される者は一人もいないわけだな。

ミゲル そうしたことで市民権を失った者はただの一人もない。それはまた今もいったように、古来の確定した習慣で固くまもられている。

それどころか、日本人には慾心と金銭への執着がはなはなだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨ-ロッパ人はみな、不思議に思っているのである。
日本人に自己を卑下させて、自分の主張を認めさせる手法。(戦後どこかの新聞が使っていたことを、思い出させる。先進的なイエズス会は、この時代にもうこの手法を使っていたのだ。)

そのうえ、われわれとしてもこのたびの旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語を同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった。
義憤に駆られて見せる茶番的話法。

マンショ ミゲルよ、わが民族についてその慨きをなさるのはしごく当然だ。かの人たちはほかのことでは文明と人道とをなかなか重んずるのだが、どうもこのことにかけては人道なり、高尚な教養なりを一向に顧みないようだ。そしてほとんど世界中におのれの欲心の深さを宣伝しているようなものだ。
全ての責任を日本人に転嫁するための話法。

マルチノ まったくだ。実際わが民族中のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫(さら)って行かれて売り捌かれ、みじめな賎役に身を屈しているのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。
日本人奴隷に憐憫を感じている善人ぶりをアピ-ルする話法。

単にポルトガル人に売られるだけではない。それだけならまだしも我慢ができる。というのはポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、彼らにキリスト教の教条を教え込んでもくれるからだ。
ポルトガル人に売られれば、慈悲深くキリスト教を教えてくれるから有難く思えとのとんでもない主張。

しかし日本人が贋の宗教を奉ずる劣等な諸民族がいる諸方の国に散らばって行って、そこで野蛮な、色の黒い人間の間で悲惨な奴隷の境涯を忍ぶのはもとより、虚偽の迷妄をも吹き込まれるのを誰が平気で忍び得ようか。
贋(にせ)の宗教を奉ずる劣等な諸民族とか、野蛮な色の黒い人間とかの表現で差別的人種観をはしなくも漏らしてしまう。

レオ いかにも仰せのとおりだ。実際、日本では日本人を売るというような習慣をわれわれは常に背徳的な行為として非難していたのだが、しかし人によってはこの罪の責任を全部、ポルトガル人や会のパドレ方へ負わせ、これらの人々のうち、ポルトガル人は日本人を慾張って買うのだし、他方、パドレたちはこうした買入れを自己の権威でやめさせようともしないのだといっている。

ミゲル いや、この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。何といっても商人のことだから、たとえ利益を見込んで日本人を買い取り、その後、インドやその他の土地で彼らを売って金儲けをするからとて、彼らを責めるのは当たらない。
全ての責任を日本人に転嫁しポルトガル人を擁護しようという意図が露わになってしまっている。

とすれば、罪はすべて日本人にあるわけで、当たり前なら大切にしていつくしんでやらなければならない実の子を、わずかばかりの代価と引き替えに、母の懐から引き離されていくのを、あれほどこともなげに見ていられる人が悪い。

また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガル王から勅令をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。
確かにイエズス会の要請により1570年に日本人奴隷売買を禁止する国王の勅令が布告されたが、その後現地当局・イエズス会・ポルトガル商人に努力が不足していたために効果が上がらなかった。その反省は皆無。

しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人は、これをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。

だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。さればといって、日本人がこうい賎役に陥るきっかけをみずからつくることによって蒙る汚点は、拭われるものではない。したがってこの罪の犯人は誰かれの容赦なく、日本において厳重に罰せられてよいわけだ。
日本人が奴隷とされ、キリスト教に強制的に改宗させられたとしても、イエズス会は何らの罪も恥も感じなかったらしい。それどころか、キリスト教の教義を教えられ、丁重に扱われ数年で自由になるのだから感謝すべきだと考えていたようだ。

レオ 全日本の覇者なる関白殿が裁可された法律がほかにもいろいろある中に、日本人を売ることを禁ずる法律は決してつまらぬものではない。

ミゲル そうだ。その法律はもしその遵守に当たる下役人がその励行に目を閉じたり、売り手を無刑のまま放免したりしなかったら、しごく結構なものだが。だから必要なことは、一方では役人自身が法律を峻厳に励行するように心掛け、他方では権家なり、また船が入ってくる港々の寵なりがそれを監視し、きわめて厳重な刑を課して違反者を取り締ることだ。

レオ それが日本にとって特に有益で必要なこととして、あなた方から権家や領主方にお勧めになるとよい。
日本人奴隷を売る側の日本の領主が秀吉の禁止令を遵守しさえすれば問題は解消するとして、ポルトガル人に全く非がないという考え。

ミゲル われわれとしては勧めもし諭しもすることに心掛けねばなるまい。しかし私は心配するのだが、わが国では公益を重んずることよりも、私利を望む心の方が強いのではなかろうか。実際ヨ-ロッパ人には常にこの殊勝な心掛けがあるものだから、こうした悪習が自国内に入ることを断じて許さない。
「日本人は公徳心に欠けているが、ヨーロッパ人は公徳心に溢れているから、奴隷売買などあり得ない。」という第2次大戦後流行したタイプの嘘を、イエズス会はもうこの時代から使っていたことは驚きである。

以上赤字の注釈を整理すると、少年たちのせりふに込められたヴァリニャ-ノの考えの以下の要素が浮かび上がる。

・無知または事実の歪曲化、隠蔽、一神教的独善主義
・自己を正当化するためであれば、相手に自己卑下を要求し自分の善人ぶりを披歴するなど、何でもする恥知らずさ
・奴隷化に協力しておいて、キリスト教への改宗を迫り、改宗すればそのことに感謝を要求する図々しさ
・ついには、差別的人種観丸出しの主張を強弁すること


【私の意見】

1.キリシタン教会内の階級制と差別的人種観

奴隷制と人種差別が不可分の関係にあることは広く認められていることだろう。差別的な人種観が奴隷制を支え、逆に奴隷制が人種差別を温存してきた、と言えるのではないか。また、日本のキリシタン教会を終始主導したイエズス会に差別的人種観があったことは、確かなことである。

・ヴァリニャ-ノの人種観と日本人の処遇の実態

日本のキリシタン教会を指導・監督する立場にあった巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは人種を次のように分類し、聖職者として教会内に迎え入れることの是非という観点から、評価を与えている。
(高瀬弘一郎著 キリシタンの世紀 ザビエル渡日から「鎖国」まで 岩波書店)

(1)インド生まれの者
 ①原住民
 ②メスティソ(ポルトガル人と原住民との混血者)
 ③カスティソ(ポルトガル人とメスティソとの混血者)
 ④両親ともポルトガル人である者
(2)ポルトガル生まれの者

ヴァリニャ-ノは、①と②で言う原住民とは、インド人などの褐色人種に限定し、日本人・中国人などは‘’白人‘’として区別している。
①については、能力・精神共に劣悪ゆえ、一人もイエズス会へ入会させてはならない。
②③共、入会は極力抑えねばならない。
④についても、安易に入会を許してはならない。
(2)について、‘’新キリスト教徒‘’(改宗ユダヤ人)及びその子孫は、完全に教会から排除せねばならない。

これを見ると、日本人には特別な評価が与えられていたようだが、17世紀に入ると、日本人の入会と司祭への登用についてのイエズス会内の見方は、否定的な方向に傾き、日本人は非正規会員で都合によって解雇することのできる‘’同宿‘’として働かせるのがよいとされるようになった。(情勢によっては随時解雇のできる非正規会員制度など、イエズス会の‘’先進性‘’には目を見張るばかりである。)それはともかく、個人的にはヴァリニャ-ノのように日本人を特別に評価する会士もいたが、会の大勢としては日本人に対する人種的偏見にとらわれていた、と見て間違いはないだろう。

(そう言えば、「2020東京オリンピック」に関して日本人をおだてれば、必ずそのおだてに乗って自分の都合の良いように動いてくれると信じ込み、それが無礼に当たることを意識もせず日本人を舐め切っていたようなIOC会長の発言は、ザビエルやヴァリニャ-ノの「日本人に対する特別評価」を思い出させてくれた。)

独力でロ-マに行き、司祭となったペトロ・カスイ・岐部も日本出国時は同宿の身分であり、ローマでも相対的に地位の低い教区司祭として司祭に叙階された後に、やっとイエズス会入会を果たしたのである。また。トマス・アラキもローマで司祭に登用された際は、教区司祭として叙階されている。
(教区司祭の地位が修道会司祭のそれと比較して相対的に低かったこと、またそれが世界の布教地共通の事象であったことは、C.R.Boxerが「The Church Militant and Iberian Expansion 1440~1770」で指摘している。)

私は、この岐部やトマス・アラキが単独行してまでロ-マへ行き司祭となろうとした理由は、彼らがセミナリオで学び相応の学力を得ていたにもかかわらず、非正規会員である‘’同宿‘’の地位に甘んじさせられていたからであろうと考える。‘’同宿‘’は、キリシタン教会の実際の運営を担う重要な存在であったが、会の中ではあくまで「使用人」であり、道で外国人司祭に会えば、草履を脱いで土下座しなければならないという、屈辱的な立場にあったようである。

こんなイエズス会内部の実態を観れば、日本人に対する人種的偏見は当然の事として存在し、そんな蔑視の対象である日本人が奴隷として売買されようが、大半が差別的人種観を持つヨーロッパ人宣教師が問題にする筈はない。また、イエズス会が組織として日本人奴隷売買を本気で阻止しようとしなかったことが、日本人奴隷輸出禁止を命じたポルトガル国王勅令(1570年)が実を結ばなかった原因であるとされている(岡本良知著「十六世紀日欧交通史の研究」六甲書房)ことも頷けるのである。


2.秀吉・家康はカトリック教会・イエズス会にどう対応したか

本書に書かれた、「日本人奴隷貿易問題」に関する解説は僅か九行であるので、そのまま書き抜く。

確かに日本人奴隷貿易には日本側の姿勢、特に鉄砲戦費を調達するための九州諸大名のそれが問わなければなりません。しかし、日本人奴隷貿易が秀吉による「伴天連追放令」(1587年)の明確な理由となったこと、そして、これに対する教会責任者G・コエリョ準管区長の応答が輪をかけたことも想像に難くありません。実に恐ろしいことです。―日本人奴隷貿易が引き金となって宣教師は追放され、高山右近は失脚し、日本二十六聖人等の殉教から鎖国へと暗転して行ったのですから―キリシタン時代の人権意識がこれぽっちのものでしかなかったために、無数の日本人が世の辺境に名も知れず霧消して行った、と同時に、大迫害・殉教の嵐が続く酷く厳しい鎖国潜伏時代の幕開けとなりましたー

本書が250頁程の小冊であるため、この重要な内容を解説するスペ-スが充分になかったのかも知れないが、この要約には首をかしげざるを得ない。「実に恐ろしいことです。」とは何が言いたいのだろう。これでは、まるで秀吉という日本の最高権力者を悪魔の手先のように描く「お可哀そうなキリシタン殉教物語」になってしまう。

実際、「伴天連追放令」によって宣教師は一時的に潜伏せざるを得なくなったが、国外に追放されたわけではなかったし、「二十六聖人殉教」と奴隷貿易とは直接の関係はない。禁教・鎖国へと暗転して行った過程については、もっと整理する必要があるのではないか。どうも、ローマを中心とした海外のカトリック教会の歴史を論じられる方は、「日本キリシタン時代史」については不案内である場合が多いように感じられてならない。どんな議論を進めるにも、先ず身近な足元の事柄について確かな見識を持つことから始めることが必要であると私は思う。

以前、秀吉のキリシタン政策について記事に書いたことがある。

要するに、秀吉は、大義名分を重んじ、大義名分に則って行動すれば、必ず敵に対して優位に立ち、また人心も掌握できると信ずる権力者として非常に正統的(オーソドックス)な人物だったのである。だから、イエズス会が奴隷貿易を進めるポルトガル人商人を抑えるどころか、その貿易の一翼を担って来さえしたことを知った時には、信長に仕えていた時期から長い間うさん臭く思っていた外来の宗教団体の弱みを掴んで、これで正面切って徹底的に叩くことが出来ると、喜んだはずなのである。

そして、怒ったふりをしてガスパル・コエリョを追求し、「追放令」まで発布し、奴隷を受け戻せと要求し、その費用を負担すると見栄を切ったのである。大義名分に乗っかった自分の言動にイエズス会は抵抗できる筈はないし、そこまでやれば、家臣・民衆の人心は益々自分のものになるということを計算した上でのことである。

そもそも、コエリョは、イエズス会日本準管区長とは言え所詮は単なる一介の聖職者に過ぎない。実は日頃から、会が奴隷貿易に関わっていることを後ろ暗くは感じていたのであろう。そうであれば、奴隷貿易への関与を指摘されて、口先だけでも、ポルトガル人商人を厳しく取り締まると言っておけば良いものを、やましい気持ちがあるものだから、ポルトガル人商人をかばい、売る方の日本人が悪いなどと本音を口走ってしまった。とても、秀吉の相手ではないのである。そのコエリョは、1590年にヴァリニャ-ノが日本に戻ってくると、原因不明の突然死を遂げたそうだから、そのことの方がよほど「恐ろしい」

家康についても、禁教を断行した悪魔のように言う人たちがいるが、そんなことはない。忍耐強い、正統的(オーソドックス)な権力者だったのである。先ず、家康も秀吉同様、長崎貿易で相当儲けさせて貰ったイエズス会仲間の一人だったから、後にその仲間を裏切ったことにはなるかも知れない。家康は死後膨大な資産を残したことで知られているが、その資産のかなりの部分は長崎貿易で儲けたものであったようだ。

家康は江戸幕府を開いた後10年以上経ってからも、浦賀にスペイン船との通商のための港を開くための方途を探り、伊達政宗の慶長遣欧使節派遣を承認し支援するなど、カトリック国スペインとの国交樹立の方途を粘り強く探り続けたのである。しかし、「大坂の陣」に備えるにあたり、豊臣勢とキリシタン勢力が結びつく兆しがあったことから、ついに1614年の全国的禁教令発布に踏み切ったのである。秀吉の「伴天連追放令」発布から、なんと27年後である。実に忍耐強い為政者ではないか。ついでに言えば、一般的に、「鎖国」は「島原の乱」の2年後の1639年に完成した、と考えられている。それは、秀吉の「伴天連追放令」から52年(半世紀)後の家光の時代のことである。

このように、秀吉・家康は合理的にまた冷静に、まさに‘’国家理性‘’に従って不法な集団を牽制・追求・排除したわけだが、そうされる方はその真意が呑み込めず、狐につままれたような、または悪魔にかどわかされたような気分でいたのではないだろうか、と私は想像する。何しろ、人種差別と奴隷制度は彼らの社会の古代からの宿痾(生まれつきの業病)であり、空気に土地に精神に深く浸み込んでほとんど意識したこともないものである。加えて、それは教会を通じて神が認めてくれていることであり、世界の何処においてもそんなことを理由に拒絶・排除されたことは未だかつて無かったのである。分かり易く言えば、ポカンとするしかなかったのだろう。

心の底から真剣に怒っている人々の真意がさっぱり理解できないという、そのポカンとした間抜けた様子は、「2020東京オリンピック」でIOC会長が見せてくれたので、我々には想像しやすい。付けたりになるが、そういう分からず屋におもねって得をしてやろうという日本人が、昔もいただろうし今もいることは、残念だし気持ち悪いが現実である。


【今後に向けた抱負】

1.この本を読んで私が改めて気付かされたことは、
(1)先ずカトリック教会が教皇教書によって、異教徒を奴隷とすることを公式に許容していた、ということである。

これまでも、ポルトガル・スペイン両国王に、教皇によって「教会組織監督の特権」(パトロナ-ト・レア-ル)が与えられ、国家と教会とが一体となって世界征服を進めること、また新たに「発見」される「新世界」が両国に分割・領有されることになっていたことは知っていた。しかし、その結果支配される異教徒の奴隷化まで、教会が公式に許容していたとは、迂闊なことに認識していなかった。

それらの、教書が発布されたのは、日本にザビエルが渡来する50~100年前である。ということは、ザビエルは、異教徒先住民である日本人がキリスト教に敵対すれば、奴隷化することを許容する組織(カトリック教会及びイエズス会)の一員として日本に来たことになる。

鹿児島に到着したときの、ザビエルの言葉「この地を聖母マリアに捧げます。」には、そういう意味があったのだ。何故なら、この時代、「征服地」という言葉には、獲得される領土だけでなく、支配される先住民という意味も含まれていたからである。司馬遼太郎は、「余計なことをして」と言って笑ったそうだが、笑いごとでは、ないのである。

次に知ったことは、
(2)メキシコのアステカ王国やペル-のインカ帝国を征服する際には、それを円滑に進めるために考案された「勧降状」(リケリミエント)という仕組みが使われたということである。


私は、上記(1),(2)によって、15~6世紀のローマ、日本、南北アメリカ、アフリカが繋がり、それぞれの地で行われたことが、より鮮明にリアルに一体となってイメ-ジ出来るようになった感じがしている。言い換えると、日本では武力によって宗教を強制することが出来なかったために「猫を被っていた」集団の真の姿がますますはっきりと見えてきたという感じである。その「猫かぶり」の裏側こそ、「キリシタン時代の奴隷問題から透けて見えるもの」である。

歴史探索において、その時代を、社会を、人々を鮮明にリアルにイメ-ジ出来ることは、大切なことであり大いなる楽しみでもある。嘘は何処かおかしいと感じさせるから、それを読んだり聞いたりしても、鮮明でリアルなイメ-ジは湧いてこず、面白味も感じられないものである。70を過ぎたこの歳になって、やっと自分の住む世界のことがわかってきたぞという、今さらと思って恥ずかしいような、でも嬉しい気持ちがしている。


2.これで、ペル-に住んで日本のキリシタン時代やその時代のローマのことを、読んだり考えたりすることがもっと楽しくなりそうだ。日本に居た頃買って持って来たまま興味が湧かず、本棚に眠らせていた「インディオの保護者」バルトロメ・デ・ラス・カサスに関する本も読みたくなって来た。それに、ラス・カサスに関する本であれば、もっと読みたくなれば当地でも入手できる。


3.南北アメリカ大陸において、激減または絶滅させられた先住民インディオの代替として導入されたアフリカ人の奴隷問題、人種差別問題も未だに沈静化には程遠い感じがする。アメリカ合衆国の公民権法成立は、僅か50年前、ついこの間のことだから、当然のことである。こういう問題も、この本のお陰で私としては初めて身近に感じられるようになって来た感じがする。

ペル-は、インディオ(インディヘナと言うべきかもしれないが)・モンゴロイド系の人またはそれと白人系との混血の人が多く、黒人系の人は少ないと思われている人が多いかもしれないが、実際は黒人系の人は少なくない。今でも住民のほとんどが黒人系の人ばかりという地域もあるぐらいである。

そして、白人系の人の中には、極端な人種差別観を持っている人も少なくない。黒人系の外観を持つ人は親戚の集まりにも呼ばないという人もいる。この本のお陰で、これからはそういうことも凝視できそうである。


以上

# by GFauree | 2021-09-01 02:53 | 日本人奴隷 | Comments(0)