『チェ-ザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』では
塩野七生の書いた伝記小説『チェ-ザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』の中に、チェ-ザレと共に枢機卿に任命された者の一人として24歳の若さのアレッサンドロ・ファルネ-ゼの名前が挙げられ、「法王の愛人の弟だから枢機卿になれたのだと言われたアレッサンドロ・ファルネ-ゼも、後にパウルス3世として法王にまでなる。」と書かれてある。
『ボルジア家 悪徳と策謀の一族』では
また、今年2月の記事で採り上げたマリオン・ジョンソン著『ボルジア家 悪徳と策謀の一族』には、「アレッサンドロ六世は、従妹(いとこ)の女性をローマの有力貴族と結婚させ、新たに彼女の息子(継子)となった男の結婚相手である14歳のジュリア・ファルネ-ゼを情婦とした。」とある。
血の繋がりのない甥の若妻を愛人にしてしまったのだ。しかも、その時、アレッサンドロ六世は58歳である。今から5百年以上前のことだから、イタリアでも「人生50年」だったはずなのに、アレッサンドロ六世が随分元気な老人だったことが、このことからもよく分かる。
家康より重い‘’犯罪性‘’
そこで、思い出すのが徳川家康の側室であった於夏(おなつ)の方のことである。兄の長谷川佐兵衛藤広(後の長崎奉行)が家康に仕えていたことから夏は17歳で、家康の側室となったとされているが、その時家康は56歳である。『ボルジア家 悪徳と策謀の一族』に関する記事の中で、「アレッサンドロ六世は家康に似ている」と私は書いたが、こんな共通点もあったのだ。
ただし、家康と夏の年の差は39歳だが、アレッサンドロ六世とジュリアの年の差は44歳だから、家康の方が‘’犯罪性‘’は少し薄い。相手との年齢差は偶々そうだったと言ってしまえば良いかも知れないが、何しろアレッサンドロ六世は独身が前提であるカトリック教会の聖職者の長であり、「神の代理人」なのだから、かなりの悪であることは間違いない。
話をアレッサンドロ・ファルネ-ゼに戻すと、『ボルジア家 悪徳と策謀の一族』には、お陰で「ジュリアの兄アレッサンドロ・ファルネ-ゼは‘’ペチコ-ト枢機卿‘’と仇名された」とも書かれている。繰り返しになるが、その枢機卿アレッサンドロ・ファルネ-ゼが、後の教皇パウルス三世なのである。
『ローマ教皇歴代誌』では
6月の記事で採り上げた『ローマ教皇歴代誌』では、「パウルス三世について注目すべき点は、イングランド王ヘンリ8世を破門したり、新教派と戦う神聖ロ-マ(ドイツ)皇帝カール5世を支援したり、トレント公会議を招集したりしたことである。」とされている。カトリック教会は、それらによって単に宗教改革を乗り切るだけでなく、さらに反宗教改革運動を進めることによって新たな活力を取り戻した。つまり、パウルス三世はルタ-等による宗教改革の鎮圧を図る路線の強力な推進者だったのである。
日本キリシタン産みの親
その流れの中で、1540年反宗教改革運動の旗手イエズス会は、カトリック修道会としての正式認可をパウルス三世から受けた。そして、その9年後、イエズス会創立メンバ-の一人フランシスコ・ザビエルが日本に渡来しキリスト教を伝えたのだから、パウルス三世は日本キリシタン教会の産みの親(Papá de Roma)と呼ぶのにふさわしい存在なのである。
その、パウルス三世に関する本を運良く持っていたので、今回はそれを採り上げたい。ベルト・ザッペリ著『教皇をめぐる四人の女 伝説と検閲の間のパウルス三世伝』(法政大学出版局)である。
人生何が役に立つか分からない
2003年に発行されているからその頃買ったのだと思うが、内容は殆ど覚えていなかった。B6判140ペ-ジほどの小さな本だが、その頃の私には意味がよく分からず途中で投げ出してしまったようだ。その後こんな遠い所までついて来て、こんな風に役立ってくれるなんて…。七十歳を過ぎてから、「人生何が役立つか分からないものだ」とつくづく思うようになったが、これもその一つだ。
その本の内容
バチカンにあるサンピエトロ聖堂内のパウルス三世の墓廟(ぼびょう:死者を祀る建物)の中で、教皇のブロンズ像は、四体の大理石の女性像に囲まれている。
その四体はそれぞれ「賢明」「正義」「平和」「豊饒」と呼ばれることが多い。
左上: 「賢明」(母) 右上: 「平和」
左下: 「正義」(娘) 右下: 「豊饒」
四体の大理石像にまつわる出来事(検閲)と噂
パウルス三世が死去したのは、まさしくフランシスコ・ザビエルの日本到着の年1549年であるが、それから43年後の1592年に選ばれた教皇が反宗教改革派のエネルギッシュなクレメンス八世であった。永らく裁判官として教皇庁に勤務していた法順守に厳格な新教皇は、避けるべき最大の危険は《怠惰で淫らで醜悪な考え》であるとの考えから、就任早々徹底的な視察を始めた。
検閲された大理石像
その視察による検閲に引っかかったのが、例の四体の大理石像である。
クレメンス八世の命令は、「撤去または衣をまとわせるべし」というものであった。
クレメンス八世の命令に、パウルス三世の出身家系であるファルネ-ゼ家は抵抗した。元々、クレメンス八世の出身家系であるアルトブランディーニ家とファルネ-ゼ家は仇敵同士であったから、問題は両家間の抗争に発展した。
「賢明」と「平和」は、上半身をさらし乳房をあらわにしていたが、歳のいった老女を表わした像であるということからお目こぼしに与かった。また、「豊饒」も乳房の上にまで達する肌着がいささか肌に密着しすぎていたが、何とかそのままで良いことになった。
問題は、全裸の「正義」である。結局、ファルネ-ゼ家を代表する枢機卿オドアルドは、「正義」の大理石像を金属の衣で覆うための手配をしなければならなくなった。従って、前掲の写真の「正義」は、もともと全裸だったところに、あとから衣を着せられた姿なのである。
大理石像に関する噂
そして、実はクレメンス八世が着位する以前から、これら四体の大理石像について、ある噂が広がり続けていた。それは、この四体の彫像は、教皇パウルス三世の長い生涯で重要な役割を演じた四人の女性たちを描いたものだ、というものである。
四人の女性たちとは、パウルス四世の「愛妾シルヴィア」、「母親ジョヴァネッラ」、「娘コスタンツァ」、「妹ジュリア」である。ただし、四体の彫像のそれぞれが、それら四人のうちどの女性に対応しているのかには諸説あって、明確に定まっている訳ではない。「賢明」が母親を表わしているという見方は有力だが、「正義」は娘だとも妹だとも言われてきた。
以下、それら4人の女性について語られる。
1.愛妾シルヴィア
貞潔と独身制を犠牲にせざるを得なかったアレッサンドロ
アレッサンドロ・ファルネ-ゼ(後のパウルス三世)は、「絶滅に瀕しているファルネ-ゼ家の領地を教会に返上せずに確保するために、やむを得ず(?)貞潔と独身制を犠牲にすることを決心し、二人の息子を設けた」とされている。
言い換えれば、「後に教皇パウルス三世となる男は、一族の領地の遺産相続を円滑に進めるために、(気は進まなかったが)聖職者としての貞潔の掟や独身の誓いをやむを得ず破り、二人の息子(実際は、後で書くように三人の息子と一人の娘だが)を作った」ということになる。
息子たちの認知勅書は最重要
この本の表紙はラファエロに描かせた枢機卿時代のアレッサンドロの肖像画であるが、彼は右手に何かの書付けを握っている。その書き付けこそ、1505年ユリウス二世によって発布された、アレッサンドロの息子たちの認知勅書なのである。それ位、その勅書は、アレッサンドロにとって、ファルネ-ゼ家にとって何にも増して重要な文書だったということである。
なぜユリウス二世は寛大だったか
ユリウス二世については、塩野七生著『神の代理人』に関する前回の記事に書いたように、教皇領の維持・拡大に全身・全霊を注ぐ生真面目さがあった反面、枢機卿時代は奔放に過ごしたようで、実の娘を三人設けているが、教皇になってからの‘’少年愛‘’も有名である。だから、そういうことに慣れていたはずのユリウス二世が、ファルネ-ゼ枢機卿の子供の認知に関し寛大であったとしても不思議ではないのである。
アレッサンドロ・ファルネ-ゼは、長男と三男の認知を(二番目の息子パオロは、幼くして亡くなったので)、ユリウス二世の次の教皇レオ十世にも、改めてしてもらっている。ということで、アレッサンドロ・ファルネ-ゼが三人の息子を持っていたことは、確かなのだ。
シルヴィア・ルフィ-ニという女性
彼に、これら三人の息子を与えたのは、シルヴィア・ルフィ-ニという女性である。アレッサンドロとシルヴィアとの間には、コスタンツァという娘も生まれている。
シルヴィアは、それ以前にジョヴァンニ・バティスタ・クリスポという男と結婚し、彼との間に三人の息子を生んでいたが、その後未亡人となったことが分かっている。
内縁の女性関係に姦通までも
問題は、アレッサンドロとの娘コスタンツァがシルヴィアの正式な夫であるクリスポの存命中に生まれていたらしいことである。もし、そうであれば、アレッサンドロには、内縁の女性関係を持っていたという罪の上にそれよりもっと大罪である姦通も加わるからである。
シルヴィアがアレッサンドロの愛妾となったおかげで
アレッサンドロとシルヴィアの関係のおかげで、シルヴィアの兄弟たちは、(二番目のジャコモは教皇特使、三番目のマリオは司教、四番目のジロラモの息子アレッサンドロは司教と)皆、順調に教会内に地位を得た。シルヴィアと前夫との息子ティベリオ・クリスポでさえ、枢機卿に登用されている。
結論はヴェネツィア使節の指摘
1560年、ヴェネツィア使節は「ローマにおける諸家族の富の主たる源泉は、女性たちの結婚によらざる交換にある。」と指摘している。
ただ一人の女性の名誉と引き換えに、ルフィ-ニ家が相当な財産を手に入れたことは確かなことである。
2.母親ジョヴァネッラ
パウルス三世の母ジョヴァネッラの実家カエタ-ニ家は、数世紀の間に、教皇を一人(ボニファティウス八世)、枢機卿を六人も輩出した名門である。
著名な噂
パウルス三世と母親の関係について、著名な噂がある。
それは、「彼が若い頃母親を毒殺し、そのためインノケンティウス八世により聖天使城(サンタンジェロ)に投獄されたが、脱走した。」というものであるが、これは事実ではない。
真相
実際には、以下のような出来事があった。
教皇インノケンティウス八世とナポリ国王との間に抗争があり、ファルネ-ゼ家はメディチ家やオルシ-ニ家と共にナポリ国王グル-プに組み入れられようとしていた。
そこで、インノケンティウス八世はそれを阻止すべく、アレッサンドロ枢機卿(後のパウルス三世)の母ジョヴァネッラの引き渡しを要求するために、アレッサンドロを人質としてローマに留め置くということがあったのだ。
結局は、インノケンティウス八世とナポリ国王は和解し、アレッサンドロも自由を取り戻したのだが、その話に尾ひれが付いて様々な伝説が生まれたらしい。中には、教皇アレッサンドロ六世が愛妾ジュリアの兄であるアレッサンドロ・ファルネ-ゼの首をはねさせようとしたので、籠に入れられていた彼は、綱で聖天使城から地上に降ろされ逃亡した、というものまである。(この噂は、後で書くように、アレッサンドロ・ファルネ-ゼが妹ジュリアに関して、アレッサンドロ六世に対し恐喝まがいのことをして怒らせたことがあることから生まれたものと思われるが、本書にはその背景は言及されていない。)
スタンダ-ルは、アレッサンドロ・ファルネ-ゼの物語を下敷きにして『パルムの僧院』を書いた。
母親の性格
言えることは、母親ジョヴァネッラ・カエタ-ニが、たとえ教皇の命令であってもあっさり無視してしまうような骨のある女性であり、パウルス三世が示した「門閥主義によって頂点に達しようとする強情な生き方」は、彼女の遺産だったということである。
3.娘コスタンツァ
若い美女の彫像である「正義」が教皇の娘の像であるという見方がある。それほど、教皇パウルス三世の娘コスタンツァは魅力的な美女であったらしい。そのためか、パウルス三世は、この娘のために最高の血筋を引く夫を手に入れてやろうとして、酷い目にあったことがある。
コスタンツァの結婚
相手は、ローマ最古で屈指の家系コロンナ家の末裔である。ファルネ-ゼ枢機卿(後のパウルス三世)は、三人の息子たちとは違って認知すらされる機会のなかったコスタンツァを哀れに思い、名誉ある結婚ができるよう持参金として莫大な金額を用立てたのだろう。しかし、結局この結婚は成立せず、アレッサンドロは娘の配偶者としてさほど位の高くない男で、満足せざるを得なかったと言われている。
コスタンツァの息子たち
パウルス三世はカトリック教会という巨大な権力システムの中枢に立っていたから、娘に対しても親戚達や様々な陳情者に対すると同じように、利権を気前良く分け与えた。
パウルス3世は、着位の二か月後、コスタンツァの長男で16歳のグイ-ド・アスカ-ニオを枢機卿に任命した。この枢機卿の地位には、司教区・大修道院と教会の官職という旨味のあるおまけが付いていた。次男スフォルツァには、神聖ローマ皇帝カール五世の宮廷で出世するようコスタンツァが取り計らったらしい。
既に書いたように、コスタンツァの種違いの兄弟(つまり、愛妾シルヴィアと正式な夫との息子)ティベリオ・クリスポでさえ、枢機卿をはじめ教会の数多くの要職に任命されているのだから、これらは当然の事の様に行われていたことなのだ。
4.妹ジュリア
四体の彫像のうち「正義」は、時間の経過とともに、次第にパウルス三世の妹ジュリアを描いたものだとされるようになった。言うまでもなく、ジュリアは、兄アレッサンドロ・ファルネ-ゼ(後のパウルス三世)の仲立ちにより、教皇アレッサンドロ六世の愛人となり、兄に枢機卿の地位を手に入れさせた、と言われている女性である。
ジュリアの夫も取り込まれた
ジュリアの夫はこの関係に気付き、聖地巡礼に出ようとしたため、まだ枢機卿であったアレッサンドロ六世を含め多くの周囲の人たちがそれを思い止まらせようとした。結局、彼は巡礼詣でを断念し、高給の軍司令官に任命され教会に取り込まれたということである。
教皇を怒らせながら旨味を引き出し続けた
ジュリアは、ファルネ-ゼ家の兄たちに、教会領の官職や複数の司教区が与えられるように、幾度となく教皇アレッサンドロ六世に手紙を書いている。加えて、兄であるアレッサンドロ枢機卿も、時には「妹については、夫の同意が必要である」などと書いて、教皇を恫喝し怒らせたこともあったが、結局はのどから手が出るほど欲しかった教皇領の官職や司教区を手に入れるのが常だった。
ジュリアの兄アンジェロは、妹と「神の代理人」との不倫を目論んだことについて、良心の呵責に苦しんでいたが、もう一人の兄アレッサンドロ(パウルス三世)は、呵責の念などさらさら無く、その後もいくつかの司教領や教会の重要な地位を手に入れ続けた。
ジュリアの娘も教皇ユリウス二世との関係作りに使われる
さらに、アレッサンドロ六世の死後、ジュリアの娘ラウラ・オルシ-ニを教皇ユリウス二世の甥と結婚させることに成功した。そもそも、ラウラの父親は、ジュリアの戸籍上の夫オルソ・オルシ-ニなのか、はたまた教皇アレッサンドロ六世なのか、明確にされていないのであるのである。
ジュリアが兄アレッサンドロに残した遺品は寝台
ジュリアは兄アレッサンドロに一風変わった遺品を残した。それは、彼女自身がいつも寝ていた自分用の寝台である。この寝台は、彼女が兄の利益のために「キリストの代理人」との不倫で使用していた物であるから、彼女の罪の場であり、罪の象徴である。おそらく、それを彼に贈ることによって、罪を彼の心に刻み付けようとしたのだろう。
しかし、その寝台が彼の良心の重荷になることは、ほとんどあり得なかった。彼は、亡くなるまで家門の上昇を追い求めた、と言われている。36歳の時、彼は書簡の中で《余は欲しさえすれば、全てを見つける事ができる》と書いている。
ふたたび、「正義」にまつわる伝説
初めは、パウルス三世の娘コスタンツァを表わすと考えられ、やがては同じ教皇の妹であり、また彼を枢機卿に引き上げたアレッサンドロ六世の愛人であったジュリアを描いたと信じられるようになった彫像「正義」は、更に伝説を生んだ。
スペイン人かイタリア人が「正義」の彫像に熱を上げて、夜中にサンピエトロ聖堂内に隠れ、大理石像と淫行に及ぼうとした、というのだ。
「正義」は「宗教」とも呼ばれる
さらに、彫像「正義」は「宗教」と呼ばれるようになる。ある学者は、それは「パウルス三世とその妹が『宗教』に対して、どれほど重大な侮辱の言葉を浴びせたか」という意味であると解釈した。
著者は、「この『正義』と呼ばれていた彫像に込められた『二人の教皇とジュリアの関係』」こそ「サンピエトロ聖堂を中心とするローマのカトリック教」を象徴する、という意味であると考える。
パウルス三世にとっての「宗教」
それでは、教皇パウルス三世にとって、「宗教」とはどのようなものだったのか。
パウルス三世の根深い信仰の欠如は、同時代人にとって不快の種だった。《教皇の念頭にあるものは、もっぱら家門を強大にし、キリスト教会のために名誉あり有益な事業を成し遂げるための口実で、金銭を蓄積することだけだ》と、言われていた。同時代人の目からは、パウルス三世が深い信仰を生み出す「宗教」を抱いているとは、とても見えなかったのである。実際、パウルス三世が占星術を信じ、占星術師にあらかじめ問い合わせなくては、一歩も踏み出せなかったことは公然の秘密だったらしい。
【私の意見】
1.日本でも似たようなことが
改めて、彫像の写真を見て頂きたい。相当、肉感的・挑発的と言えないだろうか。特に、左下の「正義」は、元々、全裸で金属の衣を付けさせられた、というのだから驚く。こんな像がサン・ピエトロ聖堂内にあること自体不思議である。一体どういうつもりで、こういうものを静謐であるべき祈りの場におくのか。神経とか感覚の違いということだろうか。
しかし、「正義」の彫像に熱を上げて、夜中に聖堂内に隠れ、大理石像と淫行に及ぼうとした者がいたという話には、思い当たるところがある。日本でも、「広隆寺 国宝 弥勒菩薩指折り事件」というのがあったからだ。
「1960年、一人の学生が広隆寺霊宝殿にある国宝 木造 弥勒菩薩像のあまりの美しさにキスしたくなって近寄ったところ、左ほおが指に触れ折損してしまった。」というのだ。
弥勒菩薩は、特に肉感的ということもないようだが、仏殿とか聖堂とかいう所は、何か衝動を誘うような面があるのかも知れない。
2.アレッサンドロ六世より悪がいた
「つつもたせ」というゆすりの手口がある。美人局と書く。
男としめし合わせた女が、他の男と通ずるかのように振る舞い、それを言い掛かりとして、男が相手の男を脅し、金銭を巻き上げるという方法である。
ジュリアに自分の傍らに戻って欲しいと焦るアレッサンドロ六世に、後のパウルス三世が「妹は、夫の同意なしにはローマへ戻れません。」と書いて脅したというくだりがある。それを読んで、そう言えば似たような話があったなと思って、「つつもたせ」という言葉を思い出した。それ程、やり口は悪質であり、‘’その筋‘’をさえ感じさせる。
美人局では、脅す男と脅される男とでは、どちらの方が悪いのか。脅す男の方が悪いに決まっている。私は、アレッサンドロ六世がかなりの悪だと思いながら、もっと悪い輩(やから)がいたのではと考えたが、早速該当者を発見してしまった。それも、日本キリシタン教会を創始し主導した集団(イエズス会)を認可した教皇だったとは…。
3.彼らにとっての「教会」・「宗教」は「打ち出の小槌」
母親の実家が、教皇一人、枢機卿六人を輩出した一族であったとのことだから、パウルス三世の生き方は生まれる前から決まっていたようだ。
男子には教会に入り枢機卿などの高位聖職者の地位を狙わせ、女子には有力な家系か、高位聖職者との関係を結ばせる、という手口は、もう何代もくりかえしてきたものなのだ。それによって、男子は教会での官職の地位と年金という利権を何口も抱え、女子も安定した地位と収入を確保し、一族で資産を蓄積していったのだろう。パウルス三世の母と愛妾と妹はその実例に過ぎないのだ。
そういう境遇にあっては、受け継いだ領地などの資産を確実に次の世代へ相続するということは、実に重大な課題である。パウルス三世が、そのために庶子である息子二人の認知を、貞潔の掟や独身の誓いも顧みず堂々と教皇ユリウス二世に要請し、「遺産相続のために子供を設けた」と言い放ったことも不自然ではないのである。
資産蓄積の手口は、教会の私物化も良いところだが、恥も罪悪感も無かったに違いない。何故なら、その「打ち出の小槌」こそが、かれらにとっての「教会」であり「宗教」だったからである。
ただ、そういうパウルス三世によって認可され修道会となったイエズス会によってもたらされた「宗教」を受け入れ、多数の殉教者を出した日本キリシタン教会はどういうことになるのか、という疑問は残る。
以上