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エクソシスト(悪魔祓いの祈祷師)たち


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『エクソシスト』
『エクソシスト』という映画があった。カトリック神父が、少女にとり憑いた悪魔を祓う話であり、『エクソシスト』というのは、「悪魔祓い(ばらい)の祈祷師」という意味である。

日本上映は、1974年だったということだから、50年近く前の映画だが、そんなに昔だった気はしない。ホラ-映画のはしりだったのか、かなり話題になったからだろう、私も珍しく映画館で見た覚えがある。ただ、正直なところ、少女が緑色のゲロを吐くとか、首が180度回転するとかショッキングなシ-ンしか覚えていない。

見る前に誰かから、あれは単なるホラ-映画ではなく、非常に重大かつ深刻な問題を題材にした映画だということを聞いた。しかし、見る前も見た後も、それがどういう意味なのか、全く分からなかった。


誘惑されたエクソシストたち
前回の記事で採り上げた短編小説集「ペル-の異端審問」の第一話は、1572年マリア・ピサロという女性が、みずから《強大な悪魔に憑かれた》と称し、エクソシストである5人の聖職者に自分と寝るように求めたかどで起訴されたという話であった。5人の聖職者とは、フランシスコ・デ・ラ・クルスを含む3人のドミニコ会士と、ルイス・ロペスを含む2人のイエズス会士である。


このうち、ドミニコ会士フランシスコ・デ・ラ・クルスは、指導司祭をしていた家の既婚の娘と関係を持ち、赤子まで設けたとされている。また、1576年、異端および《悪魔と契約を交わした》罪で、火あぶりの刑に処されたと書かれている。


第二話は、第一話に登場したマリア・ピサロと(何度となく)姦淫の罪を犯したにもかかわらず、うまく極刑を免れたイエズス会士ルイス・ロペスの話である。ルイス・ロペスは、自分は誘惑されただけだと弁明する一方で、誘惑に抗わなかった事実を認めた。そのうえ、彼が何人もの良家の既婚女性と関係していたことも発覚した、とされている。


1.「ペルーの異端審問」巻末の解説の中に
フランシスコ・デ・ラ・クルスの処刑については、「同じドミニコ会士であった『インディオの保護者』バルトロメ・デ・ラス・カサスの支持者に対する見せしめではないかと疑う向きも多い」とある。

また、ルイス・ロペスについては、「みずから犯した痴情沙汰については、当初から、その過ちを認めている。処罰の内容は、スペインへの永久追放、イエズス会学校での禁固4年、10年間の説教禁止、3カ月のミサ執行禁止、女性信者の告解の永久禁止、男性信者の告解は4年間禁止(と盛りだくさんなものになった)。」とされている。

彼の波乱の人生については、『ペル-における不滅の記録 第四巻』(イエズス会刊、ローマ、1966年)によったものとされている。(イエズス会が刊行した書物ではあるが、どんなことが書いてあるのか、読んでみたい気はする。)



2.フランシスコ・デ・ラ・クルスとルイス・ロペスの名前を見て、私は以前それを
伊藤滋子著「幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折」(同成社)の中で読んだことがあるのを思い出し、その本を繰ってみたところ、以下の記述があった。

(1)「1574年、三人のドミニコ会士に対する異端審問が行われ、主犯格のフランシスコ・デ・ラ・クルスが火炙りの刑に処せられることで審問は幕を閉じた。」
(これでは、「デ・ラ・クルスが純粋に思想的な異端のかどで処刑された。」ことになる。)

(2)「イエズス会の中には、ラス・カサスの流れを汲んで、スペインのインディアス支配そのものに疑問をはさみ、副王トレドと軋轢を起こして異端審問にかけられた会士、ルイス・ロペスのような例もあった。
(これは、ルイス・ロペスもラス・カサス並みにインディオを抑圧・搾取するスペインの植民政策に抵抗したために異端審問にかけられたと言いたいらしい。先に挙げたイエズス会刊行の『ペル-における不滅の記録』と称する書物にでも、そのようなことが書かれているのかと推測する。)



3.フランシスコ・デ・ラ・クルスの「妄想」と「異端性」を正面から採り挙げている歴史書がある。網野徹哉著「インカとスペイン王国の交錯)興亡の世界史12(講談社)である。

デ・ラ・クルスが、如何に異常な妄想を膨らませていったかを説明する記述があるので、長文であるが、そのまま以下に抜粋させて頂くことにした。尚、彼のヴィジョンを理解するためには、それが「インディオはイスラエルの『失われた10の支族の末裔』である」との考え方(インディオ・ユダヤ人同祖論)に基いたものであったことを念頭に置く必要がある。


ペル-を代表する学僧ともてはやされていたこの人物、あるリマの若い女性にとり憑いた悪霊とも天使ともつかぬ霊的な存在が放つ神学的メッセ-ジに、心から陶酔してしまった。そして、自らの学識と融合させて、ついには、アメリカという空間に、旧世界の腐敗を免れた新しい教会がうみだされるであろう、という気宇壮大なヴィジョンを構想した。

異端審問によって六年にもわたり身柄を拘束されたクルスは、監獄という極限状況において、狂気にまみれたその宗教的ヴィジョンを加速させ、遂には、自身がペル-の「教皇」として君臨する新しい神の国の誕生を叫ぶに至った。彼は、獄中で自ら「ユダヤの王ダビデの末裔」「ユダヤ人の救世主」を任ずるようになる。

そして、その論理的な帰結として、「失われた民の末裔であるインディオ」を救済すべく「クスコに住むインカの血をひく皇妃(コヤ)」との婚姻を通じ、10支族の末裔たるインディオと自らを融合₌混血させると言い放った。

クルスのこうした想念は、異端審問所によって厳しく断罪され、長い収監と拷問のあげく、1578年極刑を宣告され、焔の中で絶命する。



【考えたこと】

1.「ペル-の異端審問」を読みながら、ずっと気になっていたことは、面白いことは確かだけれど、これがどこまで本当のことなのか、ということだった。小説なのだから、史実でなくても別に責められることではないのだが、主に聖職者たちの行状なのだから全くの虚構ということであれば、それ程興味は引かないのである。

巻末の解説を読むと、殆どの話には「裁判記録の出典は、マドリ-ド国立歴史古文書館所蔵の異端審問資料」とされており、少なくとも当時議論された話であると考えることは出来るようだ。もちろん、その資料自体が異端審問所つまり教会の意図によって恣意的に作成された可能性はあるが、‘’話半分‘’以上の信頼性はありそうである。

そう言えば、映画「エクソシスト」には、悪魔に憑かれた少女が、十字架を使った煽情的な振る舞い(書くのを憚られる)を見せるシーンがあった。あれは、エクソシストである聖職者たちを襲う性欲の誘惑を表わしていて、悪魔祓いというものがそういう要素を持つものであったのだから、小説にそれが描かれても不自然ではなかったことになる。



2.エクソシストであった、フランシスコ・デ・ラ・クルスとルイス・ロペスに関する、「幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折」の上述の記述については、「もう少し考えていれば」とか「誰か忠告する人はいなかったのだろうか」という気がする。

実は、この本には第三代イエズス会総長フランシスコ・ボルハに関する記述もあるのだが、「スペインの貴族であった」とするだけで、彼がローマ教皇アレッサンドロ六世の曾孫であったことには触れていない。どういう事情で、こういう表現をされたのか不明だが残念なことだと思う。「パラグアイのイエズス会国家」建設に尽力した会士の考え方の中に、ローマ・カトリック教会の腐敗堕落の克服という要素があったのではないか、と考えられるからだ。

南米「パラグアイのイエズス会国家」は、戦国末期から江戸時代初期まで前代未聞の成功を収めた末に、禁教・鎖国によって完膚なきまでに壊滅させられ、日本から徹底的に追放されたイエズス会が組織を賭けて建設に注力したはずの重要な拠点であり、同会の全面的解体に繋がるその後の展開からも注目すべき点が多いが、それについて日本語で出版された著書はこの本以外には寡聞にして聞いたことがないのである。

安野眞幸著 『教会領長崎 イエズス会と日本』(講談社選書メチエ)は本格的な歴史研究書だと思うが、その中にも「パラグアイのイエズス会国家」を説明する文献としてこの本が紹介されている。それほど、この本は稀少な価値がある力作なのだろうと思う。「パラグアイのイエズス会国家」に関しては、これまである程度論文は書かれていても、一般に流布するような日本語の書籍は他に出版されていないようである。客観的歴史研究を志される方の今後の取り組みに期待するところである。

尚、「パラグアイのイエズス会国家」については、以前記事に書いたこともあるので、ご参照頂きたい。



3.フランシスコ・デ・ラ・クルスの人となりについての、網野徹哉著「インカとスペイン王国の交錯)興亡の世界史12(講談社)の記述は、彼の「新しい教会」の特徴的な以下の要素を示している。
・ローマ・カトリック教会の腐敗・堕落を超える教会であること
・「ユダヤの王ダビデの末裔」「ユダヤ人の救世主」である自分が「ペル-の教皇」として君臨すること
・自分とインカ皇妃の婚姻により、「ユダヤ10支族の末裔たるインディオ」と融合すること

彼のヴィジョンが誇大妄想であったことは否定できないと思うが、旧世界での教会の腐敗・堕落の克服、インディオ・ユダヤ人同祖論に基く「ペル-教皇」の実現、自身とインカ皇妃との婚姻による融合など、新世界教会のヴィジョンを構築する過程で当時の新・旧世界の教会が抱えていた問題を解決しようとした形跡が見えて興味深い。新世界での活動を志しデ・ラ・クルスと同じように考えた聖職者は少なくなかったのではないか。

また、ローマ・カトリック教会がポルトガル・スペイン両国家と一体となって世界布教を進めようとした思慮の浅さと脳天気さを思うと、デ・ラ・クルスのヴィジョンを荒唐無稽と笑うことはできない。

それに、大組織というものはたとえ一個人の所業であっても、正論と共に誇大妄想を振りかざされると、簡単にはそれを処断するわけにいかず一時的には戸惑うものである。それを、私は特にバブル時代の企業の中で、身近な実例として見てきた。そういう意味で、デ・ラ・クルスが、六年間身柄を拘束されたうえ、結局は極刑に処されたのは当然のことだったと思う。


以上






# by GFauree | 2021-08-06 00:01 | 異端審問 | Comments(0)  

艶笑小話集「ペル-の異端審問」



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異端審問とは、「中世以降のカトリック教会において、正統信仰に反する教えを持つという疑いを受けた者を裁判するために設けられたシステムである。」(Wikipedia)

前回の記事に、「教皇パウルス三世は、反宗教改革運動の強力な推進者の一人だった。」と書いたが、その反宗教改革運動の一環として、彼は各国における異端審問を監督するための異端審問所をローマに設けたこと、が知られている。また、その少し前の時期には、モリスコ(改宗イスラム教徒)・コンベルソ(改宗ユダヤ人)対策としてスペインにも異端審問所が設置されている。そして、その「異端審問」は新世界にも持ち込まれ、ペル-・リマでも裁きが行われた。

今回は、このペル-で行われた異端審問を題材とした短編小説集「ペル-の異端審問」フェルナンド・イワサキ著(新評論)を採りあげたい。


フェルナンド・イワサキはスペイン・セビ-リャ在住のペル-生まれの日系人作家。
陰険な策謀に遭ってペル-を出て行かざるを得なかったが、作家として成功した今となっては、「追い出されてかえって良かったね」と言われているとの噂がある。(明確な根拠を持っている訳ではないので、詳しくは書けないが、この国にはどうもそういう面がある。‘’素朴で底抜けに明るい南米人気質‘’なんていうのは、所詮作り話です。)


私はこの作家の著書 Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI(16世紀の極東とペル-)を基に、記事を書いたことがある。






スペイン語文化圏から、大航海時代・キリシタン時代の日本を見るという観点がユニ-クでかつ意欲的な作品であり、参考になる点が多々あった。大学院修士論文を出版したものだというから、才能豊かな学生だったのだろう。だから、嵌められたと言われているらしい。(キリシタン史というとインド・ゴア、マラッカ、マカオというポルトガル領から見て書かれた歴史が殆どで、マニラ、メキシコというスペイン領から見て書かれた本というのは、本当に珍しいのです。)


「ペル-の異端審問」は、5年前「抱腹絶倒」という触れ込みにつられて買ったのだが、何が面白いのかさっぱり分からず放置していたところ、今回パウルス三世の事績に「異端審問所の設置」が挙げられているので思い出した。このところ、年の功だと思うが、以前は読み難かった本が意外とスム-ズに読めることが何回かあったので、試しに読んでみたらとても面白くあっという間に読んでしまった。

昔、「週刊新潮」の巻末のペ-ジに掲載されていた(いまも、あるのだろうか)西洋艶笑小話を歴史記録風にわざと固く詳しく書いて笑わせるような短篇が17編集められている。もともと、教会の神父や修道女は生身の人間でありながら生真面目に振る舞わねばならない場合が多いはずだから、からかいやすいのだろう。あの週刊誌の艶笑小話にはよく登場させられていたような気がする。


[内容]

まずは、どんなことが書いてあるかを暗示する思わせぶりな四編の詩。
例えば、そのうちの一つは、
「そろそろくつろぐか、と神父様が床につく。ア-メン、と応じて、香部屋係も床につく。」ペル-民謡

1.悪魔に身を委ねた女と罪を犯すイエズス会・ドミニコ会の5人の悪魔祓いの祈禱師(エクソシスト)たち
2.告解を聴くうちに節度を失ってしまったイエズス会の司祭(ルイス・ロペス)
3.悪魔に破滅させられたドミニコ会修道士
4.男色の共犯者になった高官と聖職者
5.身も心も‘’キリストの花嫁‘’になった女性信者
6.悪魔に屈した‘’仕置き人‘’修道女
7.遺体に‘’恥ずかしい奇跡‘’が起きたフランシスコ会修道士
8.純潔を繕う女
9.不道徳な夢想をしたイエズス会士
10.追憶に浸る360人の女を身悶えさせたカルメル会士
11.多くの男に種付け役になりたがらせた修道女
12.《神から逃げていた》脱出名人
13.‘’神の集金係‘’と呼ばれたフランシスコ会修道士
14.重婚をし続けた偽神父
15.《正気を失った愚者》に過ぎない男
16.善良な男たちを癒した露出癖の女
17.足を愛されたフェティシズムの聖女

こんな箇条書きでは、説明になっておらずどんな内容だか想像し辛く申し訳ないが、描写されている事や表現にきわどいことが多く、ここにそのまま書くわけにいかないのでご容赦願いたい。本としては、B6判150ペ-ジ程度の小冊であり、既に書いたように小話風の読みやすい内容なので是非読んで頂きたいと思う。


[感想]

1.ここに登場する人物達の行状や主張は、マドリ-ド国立歴史古文書館所蔵の異端審問資料の裁判記録等に基いたものだということだから、小説とは言っても、全くの作り事という訳ではない。

良否は別として、マカオからのポルトガル船貿易の「甘い汁」を梃にして布教が進められた日本と、スペインの圧倒的軍事・政治力を背景に強制的に布教が進められたペル-とでは、キリスト教の受け容られ方が全く違っていたであろうことは、まず念頭に置いておくことが必要である。そのうえで感ずることは、ペル-では余りに熱心な聖職者であり信者であるが故に常軌を逸してしまう人々が少なくなく、また、その様が実に多彩かつ奔放であったらしい(万華鏡のように)ということである。


2.それにしても、欲望と妄想というものは、なんと見事に刺激しあって膨張していくものか。その実例を、これでもかこれでもかと見せつけられた気がする。しかし、こんなことは「大人の世界」には、当然あることであって別に驚くような事ではないのかも知れない。というのは、私が教会に出入りしていたのは、精々中学生のころまでのことで、日本でも「大人にとっての教会」では当然同じようなことが起きているはずなのだから。


3.裁かれた人々にとって、狂気は内に秘めた抑えがたい欲望と妄想を解放する手段であったように見える。それ故に、もし狂気に頼らなければ、欲望と妄想が暴発する危険を抱えていたことになる。

前回の記事で、教皇とその周囲の人々にとって、「宗教」や「教会」は利権と地位を手に入れるための「打ち出の小槌」だったのだろう、と書いたが、今回の登場人物たちにとっては、「宗教」や「教会」は膨れ上がった欲望を満たすための「打ち出の小槌」となったようだ。

また、大航海時代、教会は宗教改革の波に押され海外布教に乗り出し、新世界に「教義」「経典」「典礼」を持ち込んだが、それらと共に「欲望」「妄想」「狂気」も否応もなく附いて来てしまったということなのだろう。

独身制や貞潔の誓いというような倫理・道徳は、宗教的な裏付けによってより確かなものになる、と考えやすいが、どうも宗教が絡むと逆に危うくなる面もあるようだ。修道会経営の良家の子女のためのミッション・スク-ルなどというのも、もっともらしいけれど、実は結構危なっかしいものだということに今更ながら気が付いた。


以上








# by GFauree | 2021-08-01 04:16 | 異端審問 | Comments(0)  

教皇を支えた女性たち


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『チェ-ザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』では
塩野七生の書いた伝記小説『チェ-ザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷』の中に、チェ-ザレと共に枢機卿に任命された者の一人として24歳の若さのアレッサンドロ・ファルネ-ゼの名前が挙げられ、「法王の愛人の弟だから枢機卿になれたのだと言われたアレッサンドロ・ファルネ-ゼも、後にパウルス3世として法王にまでなる。」と書かれてある。


『ボルジア家 悪徳と策謀の一族』では
また、今年2月の記事で採り上げたマリオン・ジョンソン著『ボルジア家 悪徳と策謀の一族』には、「アレッサンドロ六世は、従妹(いとこ)の女性をローマの有力貴族と結婚させ、新たに彼女の息子(継子)となった男の結婚相手である14歳のジュリア・ファルネ-ゼを情婦とした。」とある。

血の繋がりのない甥の若妻を愛人にしてしまったのだ。しかも、その時、アレッサンドロ六世は58歳である。今から5百年以上前のことだから、イタリアでも「人生50年」だったはずなのに、アレッサンドロ六世が随分元気な老人だったことが、このことからもよく分かる。

家康より重い‘’犯罪性‘’
そこで、思い出すのが徳川家康の側室であった於夏(おなつ)の方のことである。兄の長谷川佐兵衛藤広(後の長崎奉行)が家康に仕えていたことから夏は17歳で、家康の側室となったとされているが、その時家康は56歳である。『ボルジア家 悪徳と策謀の一族』に関する記事の中で、「アレッサンドロ六世は家康に似ている」と私は書いたが、こんな共通点もあったのだ。

ただし、家康と夏の年の差は39歳だが、アレッサンドロ六世とジュリアの年の差は44歳だから、家康の方が‘’犯罪性‘’は少し薄い。相手との年齢差は偶々そうだったと言ってしまえば良いかも知れないが、何しろアレッサンドロ六世は独身が前提であるカトリック教会の聖職者の長であり、「神の代理人」なのだから、かなりの悪であることは間違いない。


話をアレッサンドロ・ファルネ-ゼに戻すと、『ボルジア家 悪徳と策謀の一族』には、お陰で「ジュリアの兄アレッサンドロ・ファルネ-ゼは‘’ペチコ-ト枢機卿‘’と仇名された」とも書かれている。繰り返しになるが、その枢機卿アレッサンドロ・ファルネ-ゼが、後の教皇パウルス三世なのである。


『ローマ教皇歴代誌』では
6月の記事で採り上げた『ローマ教皇歴代誌』では、「パウルス三世について注目すべき点は、イングランド王ヘンリ8世を破門したり、新教派と戦う神聖ロ-マ(ドイツ)皇帝カール5世を支援したり、トレント公会議を招集したりしたことである。」とされている。カトリック教会は、それらによって単に宗教改革を乗り切るだけでなく、さらに反宗教改革運動を進めることによって新たな活力を取り戻した。つまり、パウルス三世はルタ-等による宗教改革の鎮圧を図る路線の強力な推進者だったのである。

日本キリシタン産みの親
その流れの中で、1540年反宗教改革運動の旗手イエズス会は、カトリック修道会としての正式認可をパウルス三世から受けた。そして、その9年後、イエズス会創立メンバ-の一人フランシスコ・ザビエルが日本に渡来しキリスト教を伝えたのだから、パウルス三世は日本キリシタン教会の産みの親(Papá de Roma)と呼ぶのにふさわしい存在なのである。

その、パウルス三世に関する本を運良く持っていたので、今回はそれを採り上げたい。ベルト・ザッペリ著『教皇をめぐる四人の女 伝説と検閲の間のパウルス三世伝』(法政大学出版局)である。


人生何が役に立つか分からない
2003年に発行されているからその頃買ったのだと思うが、内容は殆ど覚えていなかった。B6判140ペ-ジほどの小さな本だが、その頃の私には意味がよく分からず途中で投げ出してしまったようだ。その後こんな遠い所までついて来て、こんな風に役立ってくれるなんて…。七十歳を過ぎてから、「人生何が役立つか分からないものだ」とつくづく思うようになったが、これもその一つだ。



その本の内容

バチカンにあるサンピエトロ聖堂内のパウルス三世の墓廟(ぼびょう:死者を祀る建物)の中で、教皇のブロンズ像は、四体の大理石の女性像に囲まれている。

その四体はそれぞれ「賢明」「正義」「平和」「豊饒」と呼ばれることが多い。


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左上: 「賢明」(母) 右上: 「平和」
左下: 「正義」(娘) 右下: 「豊饒」


四体の大理石像にまつわる出来事(検閲)と噂

パウルス三世が死去したのは、まさしくフランシスコ・ザビエルの日本到着の年1549年であるが、それから43年後の1592年に選ばれた教皇が反宗教改革派のエネルギッシュなクレメンス八世であった。永らく裁判官として教皇庁に勤務していた法順守に厳格な新教皇は、避けるべき最大の危険は《怠惰で淫らで醜悪な考え》であるとの考えから、就任早々徹底的な視察を始めた。

検閲された大理石像
その視察による検閲に引っかかったのが、例の四体の大理石像である。
クレメンス八世の命令は、「撤去または衣をまとわせるべし」というものであった。

クレメンス八世の命令に、パウルス三世の出身家系であるファルネ-ゼ家は抵抗した。元々、クレメンス八世の出身家系であるアルトブランディーニ家とファルネ-ゼ家は仇敵同士であったから、問題は両家間の抗争に発展した。

「賢明」と「平和」は、上半身をさらし乳房をあらわにしていたが、歳のいった老女を表わした像であるということからお目こぼしに与かった。また、「豊饒」も乳房の上にまで達する肌着がいささか肌に密着しすぎていたが、何とかそのままで良いことになった。

問題は、全裸の「正義」である。結局、ファルネ-ゼ家を代表する枢機卿オドアルドは、「正義」の大理石像を金属の衣で覆うための手配をしなければならなくなった。従って、前掲の写真の「正義」は、もともと全裸だったところに、あとから衣を着せられた姿なのである。

大理石像に関する噂
そして、実はクレメンス八世が着位する以前から、これら四体の大理石像について、ある噂が広がり続けていた。それは、この四体の彫像は、教皇パウルス三世の長い生涯で重要な役割を演じた四人の女性たちを描いたものだ、というものである。

四人の女性たちとは、パウルス四世の「愛妾シルヴィア」、「母親ジョヴァネッラ」、「娘コスタンツァ」、「妹ジュリア」である。ただし、四体の彫像のそれぞれが、それら四人のうちどの女性に対応しているのかには諸説あって、明確に定まっている訳ではない。「賢明」が母親を表わしているという見方は有力だが、「正義」は娘だとも妹だとも言われてきた。

以下、それら4人の女性について語られる。


1.愛妾シルヴィア

貞潔と独身制を犠牲にせざるを得なかったアレッサンドロ
アレッサンドロ・ファルネ-ゼ(後のパウルス三世)は、「絶滅に瀕しているファルネ-ゼ家の領地を教会に返上せずに確保するために、やむを得ず(?)貞潔と独身制を犠牲にすることを決心し、二人の息子を設けた」とされている。

言い換えれば、「後に教皇パウルス三世となる男は、一族の領地の遺産相続を円滑に進めるために、(気は進まなかったが)聖職者としての貞潔の掟や独身の誓いをやむを得ず破り、二人の息子(実際は、後で書くように三人の息子と一人の娘だが)を作った」ということになる。

息子たちの認知勅書は最重要
この本の表紙はラファエロに描かせた枢機卿時代のアレッサンドロの肖像画であるが、彼は右手に何かの書付けを握っている。その書き付けこそ、1505年ユリウス二世によって発布された、アレッサンドロの息子たちの認知勅書なのである。それ位、その勅書は、アレッサンドロにとって、ファルネ-ゼ家にとって何にも増して重要な文書だったということである。

なぜユリウス二世は寛大だったか
ユリウス二世については、塩野七生著『神の代理人』に関する前回の記事に書いたように、教皇領の維持・拡大に全身・全霊を注ぐ生真面目さがあった反面、枢機卿時代は奔放に過ごしたようで、実の娘を三人設けているが、教皇になってからの‘’少年愛‘’も有名である。だから、そういうことに慣れていたはずのユリウス二世が、ファルネ-ゼ枢機卿の子供の認知に関し寛大であったとしても不思議ではないのである。

アレッサンドロ・ファルネ-ゼは、長男と三男の認知を(二番目の息子パオロは、幼くして亡くなったので)、ユリウス二世の次の教皇レオ十世にも、改めてしてもらっている。ということで、アレッサンドロ・ファルネ-ゼが三人の息子を持っていたことは、確かなのだ。

シルヴィア・ルフィ-ニという女性
彼に、これら三人の息子を与えたのは、シルヴィア・ルフィ-ニという女性である。アレッサンドロとシルヴィアとの間には、コスタンツァという娘も生まれている。

シルヴィアは、それ以前にジョヴァンニ・バティスタ・クリスポという男と結婚し、彼との間に三人の息子を生んでいたが、その後未亡人となったことが分かっている。

内縁の女性関係に姦通までも
問題は、アレッサンドロとの娘コスタンツァがシルヴィアの正式な夫であるクリスポの存命中に生まれていたらしいことである。もし、そうであれば、アレッサンドロには、内縁の女性関係を持っていたという罪の上にそれよりもっと大罪である姦通も加わるからである。

シルヴィアがアレッサンドロの愛妾となったおかげで
アレッサンドロとシルヴィアの関係のおかげで、シルヴィアの兄弟たちは、(二番目のジャコモは教皇特使、三番目のマリオは司教、四番目のジロラモの息子アレッサンドロは司教と)皆、順調に教会内に地位を得た。シルヴィアと前夫との息子ティベリオ・クリスポでさえ、枢機卿に登用されている。

結論はヴェネツィア使節の指摘
1560年、ヴェネツィア使節は「ローマにおける諸家族の富の主たる源泉は、女性たちの結婚によらざる交換にある。」と指摘している。

ただ一人の女性の名誉と引き換えに、ルフィ-ニ家が相当な財産を手に入れたことは確かなことである。


2.母親ジョヴァネッラ

パウルス三世の母ジョヴァネッラの実家カエタ-ニ家は、数世紀の間に、教皇を一人(ボニファティウス八世)、枢機卿を六人も輩出した名門である。

著名な噂
パウルス三世と母親の関係について、著名な噂がある。
それは、「彼が若い頃母親を毒殺し、そのためインノケンティウス八世により聖天使城(サンタンジェロ)に投獄されたが、脱走した。」というものであるが、これは事実ではない。

真相
実際には、以下のような出来事があった。
教皇インノケンティウス八世とナポリ国王との間に抗争があり、ファルネ-ゼ家はメディチ家やオルシ-ニ家と共にナポリ国王グル-プに組み入れられようとしていた。

そこで、インノケンティウス八世はそれを阻止すべく、アレッサンドロ枢機卿(後のパウルス三世)の母ジョヴァネッラの引き渡しを要求するために、アレッサンドロを人質としてローマに留め置くということがあったのだ。

結局は、インノケンティウス八世とナポリ国王は和解し、アレッサンドロも自由を取り戻したのだが、その話に尾ひれが付いて様々な伝説が生まれたらしい。中には、教皇アレッサンドロ六世が愛妾ジュリアの兄であるアレッサンドロ・ファルネ-ゼの首をはねさせようとしたので、籠に入れられていた彼は、綱で聖天使城から地上に降ろされ逃亡した、というものまである。(この噂は、後で書くように、アレッサンドロ・ファルネ-ゼが妹ジュリアに関して、アレッサンドロ六世に対し恐喝まがいのことをして怒らせたことがあることから生まれたものと思われるが、本書にはその背景は言及されていない。)

スタンダ-ルは、アレッサンドロ・ファルネ-ゼの物語を下敷きにして『パルムの僧院』を書いた。

母親の性格
言えることは、母親ジョヴァネッラ・カエタ-ニが、たとえ教皇の命令であってもあっさり無視してしまうような骨のある女性であり、パウルス三世が示した「門閥主義によって頂点に達しようとする強情な生き方」は、彼女の遺産だったということである。


3.娘コスタンツァ

若い美女の彫像である「正義」が教皇の娘の像であるという見方がある。それほど、教皇パウルス三世の娘コスタンツァは魅力的な美女であったらしい。そのためか、パウルス三世は、この娘のために最高の血筋を引く夫を手に入れてやろうとして、酷い目にあったことがある。

コスタンツァの結婚
相手は、ローマ最古で屈指の家系コロンナ家の末裔である。ファルネ-ゼ枢機卿(後のパウルス三世)は、三人の息子たちとは違って認知すらされる機会のなかったコスタンツァを哀れに思い、名誉ある結婚ができるよう持参金として莫大な金額を用立てたのだろう。しかし、結局この結婚は成立せず、アレッサンドロは娘の配偶者としてさほど位の高くない男で、満足せざるを得なかったと言われている。

コスタンツァの息子たち
パウルス三世はカトリック教会という巨大な権力システムの中枢に立っていたから、娘に対しても親戚達や様々な陳情者に対すると同じように、利権を気前良く分け与えた。

パウルス3世は、着位の二か月後、コスタンツァの長男で16歳のグイ-ド・アスカ-ニオを枢機卿に任命した。この枢機卿の地位には、司教区・大修道院と教会の官職という旨味のあるおまけが付いていた。次男スフォルツァには、神聖ローマ皇帝カール五世の宮廷で出世するようコスタンツァが取り計らったらしい。

既に書いたように、コスタンツァの種違いの兄弟(つまり、愛妾シルヴィアと正式な夫との息子)ティベリオ・クリスポでさえ、枢機卿をはじめ教会の数多くの要職に任命されているのだから、これらは当然の事の様に行われていたことなのだ。


4.妹ジュリア

四体の彫像のうち「正義」は、時間の経過とともに、次第にパウルス三世の妹ジュリアを描いたものだとされるようになった。言うまでもなく、ジュリアは、兄アレッサンドロ・ファルネ-ゼ(後のパウルス三世)の仲立ちにより、教皇アレッサンドロ六世の愛人となり、兄に枢機卿の地位を手に入れさせた、と言われている女性である。

ジュリアの夫も取り込まれた
ジュリアの夫はこの関係に気付き、聖地巡礼に出ようとしたため、まだ枢機卿であったアレッサンドロ六世を含め多くの周囲の人たちがそれを思い止まらせようとした。結局、彼は巡礼詣でを断念し、高給の軍司令官に任命され教会に取り込まれたということである。

教皇を怒らせながら旨味を引き出し続けた
ジュリアは、ファルネ-ゼ家の兄たちに、教会領の官職や複数の司教区が与えられるように、幾度となく教皇アレッサンドロ六世に手紙を書いている。加えて、兄であるアレッサンドロ枢機卿も、時には「妹については、夫の同意が必要である」などと書いて、教皇を恫喝し怒らせたこともあったが、結局はのどから手が出るほど欲しかった教皇領の官職や司教区を手に入れるのが常だった。

ジュリアの兄アンジェロは、妹と「神の代理人」との不倫を目論んだことについて、良心の呵責に苦しんでいたが、もう一人の兄アレッサンドロ(パウルス三世)は、呵責の念などさらさら無く、その後もいくつかの司教領や教会の重要な地位を手に入れ続けた。

ジュリアの娘も教皇ユリウス二世との関係作りに使われる
さらに、アレッサンドロ六世の死後、ジュリアの娘ラウラ・オルシ-ニを教皇ユリウス二世の甥と結婚させることに成功した。そもそも、ラウラの父親は、ジュリアの戸籍上の夫オルソ・オルシ-ニなのか、はたまた教皇アレッサンドロ六世なのか、明確にされていないのであるのである。

ジュリアが兄アレッサンドロに残した遺品は寝台
ジュリアは兄アレッサンドロに一風変わった遺品を残した。それは、彼女自身がいつも寝ていた自分用の寝台である。この寝台は、彼女が兄の利益のために「キリストの代理人」との不倫で使用していた物であるから、彼女の罪の場であり、罪の象徴である。おそらく、それを彼に贈ることによって、罪を彼の心に刻み付けようとしたのだろう。

しかし、その寝台が彼の良心の重荷になることは、ほとんどあり得なかった。彼は、亡くなるまで家門の上昇を追い求めた、と言われている。36歳の時、彼は書簡の中で《余は欲しさえすれば、全てを見つける事ができる》と書いている。

 

ふたたび、「正義」にまつわる伝説
初めは、パウルス三世の娘コスタンツァを表わすと考えられ、やがては同じ教皇の妹であり、また彼を枢機卿に引き上げたアレッサンドロ六世の愛人であったジュリアを描いたと信じられるようになった彫像「正義」は、更に伝説を生んだ。

スペイン人かイタリア人が「正義」の彫像に熱を上げて、夜中にサンピエトロ聖堂内に隠れ、大理石像と淫行に及ぼうとした、というのだ。

「正義」は「宗教」とも呼ばれる
さらに、彫像「正義」は「宗教」と呼ばれるようになる。ある学者は、それは「パウルス三世とその妹が『宗教』に対して、どれほど重大な侮辱の言葉を浴びせたか」という意味であると解釈した。

著者は、「この『正義』と呼ばれていた彫像に込められた『二人の教皇とジュリアの関係』」こそ「サンピエトロ聖堂を中心とするローマのカトリック教」を象徴する、という意味であると考える。

パウルス三世にとっての「宗教」
それでは、教皇パウルス三世にとって、「宗教」とはどのようなものだったのか。
パウルス三世の根深い信仰の欠如は、同時代人にとって不快の種だった。《教皇の念頭にあるものは、もっぱら家門を強大にし、キリスト教会のために名誉あり有益な事業を成し遂げるための口実で、金銭を蓄積することだけだ》と、言われていた。同時代人の目からは、パウルス三世が深い信仰を生み出す「宗教」を抱いているとは、とても見えなかったのである。実際、パウルス三世が占星術を信じ、占星術師にあらかじめ問い合わせなくては、一歩も踏み出せなかったことは公然の秘密だったらしい。



【私の意見】

1.日本でも似たようなことが
改めて、彫像の写真を見て頂きたい。相当、肉感的・挑発的と言えないだろうか。特に、左下の「正義」は、元々、全裸で金属の衣を付けさせられた、というのだから驚く。こんな像がサン・ピエトロ聖堂内にあること自体不思議である。一体どういうつもりで、こういうものを静謐であるべき祈りの場におくのか。神経とか感覚の違いということだろうか。

しかし、「正義」の彫像に熱を上げて、夜中に聖堂内に隠れ、大理石像と淫行に及ぼうとした者がいたという話には、思い当たるところがある。日本でも、「広隆寺 国宝 弥勒菩薩指折り事件」というのがあったからだ。

「1960年、一人の学生が広隆寺霊宝殿にある国宝 木造 弥勒菩薩像のあまりの美しさにキスしたくなって近寄ったところ、左ほおが指に触れ折損してしまった。」というのだ。

弥勒菩薩は、特に肉感的ということもないようだが、仏殿とか聖堂とかいう所は、何か衝動を誘うような面があるのかも知れない。

2.アレッサンドロ六世より悪がいた
「つつもたせ」というゆすりの手口がある。美人局と書く。
男としめし合わせた女が、他の男と通ずるかのように振る舞い、それを言い掛かりとして、男が相手の男を脅し、金銭を巻き上げるという方法である。

ジュリアに自分の傍らに戻って欲しいと焦るアレッサンドロ六世に、後のパウルス三世が「妹は、夫の同意なしにはローマへ戻れません。」と書いて脅したというくだりがある。それを読んで、そう言えば似たような話があったなと思って、「つつもたせ」という言葉を思い出した。それ程、やり口は悪質であり、‘’その筋‘’をさえ感じさせる。

美人局では、脅す男と脅される男とでは、どちらの方が悪いのか。脅す男の方が悪いに決まっている。私は、アレッサンドロ六世がかなりの悪だと思いながら、もっと悪い輩(やから)がいたのではと考えたが、早速該当者を発見してしまった。それも、日本キリシタン教会を創始し主導した集団(イエズス会)を認可した教皇だったとは…。

3.彼らにとっての「教会」・「宗教」は「打ち出の小槌」
母親の実家が、教皇一人、枢機卿六人を輩出した一族であったとのことだから、パウルス三世の生き方は生まれる前から決まっていたようだ。

男子には教会に入り枢機卿などの高位聖職者の地位を狙わせ、女子には有力な家系か、高位聖職者との関係を結ばせる、という手口は、もう何代もくりかえしてきたものなのだ。それによって、男子は教会での官職の地位と年金という利権を何口も抱え、女子も安定した地位と収入を確保し、一族で資産を蓄積していったのだろう。パウルス三世の母と愛妾と妹はその実例に過ぎないのだ。

そういう境遇にあっては、受け継いだ領地などの資産を確実に次の世代へ相続するということは、実に重大な課題である。パウルス三世が、そのために庶子である息子二人の認知を、貞潔の掟や独身の誓いも顧みず堂々と教皇ユリウス二世に要請し、「遺産相続のために子供を設けた」と言い放ったことも不自然ではないのである。

資産蓄積の手口は、教会の私物化も良いところだが、恥も罪悪感も無かったに違いない。何故なら、その「打ち出の小槌」こそが、かれらにとっての「教会」であり「宗教」だったからである。

ただ、そういうパウルス三世によって認可され修道会となったイエズス会によってもたらされた「宗教」を受け入れ、多数の殉教者を出した日本キリシタン教会はどういうことになるのか、という疑問は残る。


以上







# by GFauree | 2021-07-21 13:02 | ロ-マ教皇 | Comments(2)  

「神の代理人」たちの喜劇

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ここのところ5カ月ぐらいの間に、ローマ教皇に関する本を読んで、記事を4回書いた。そして、意外なことに、自分はカトリック教会の聖堂の雰囲気とか、目に見える聖画・聖像や耳に聞こえる聖歌など形に表われていることが、子供の頃から好きだったことに改めて気が付いた。そんなことは、信仰や教義の本質に関係がない表面的なことだと言われそうだから口に出せなかったが、本当のことなので消えずに残っていたようだ。

さらに、もう一つ気が付いたことは、ルネッサンス後期の宗教改革の原因とされるローマ教皇庁の腐敗堕落の権化として、アレッサンドロ6世が槍玉に挙げられることが圧倒的に多いということである。しかし、果たしてその時代に腐敗堕落していたのは、アレッサンドロ6世だけだったのかという疑問が湧いてきて、他の教皇の行状を知りたくなった。そこで、前回の記事に書いた「ローマ教皇歴代誌」の一部を読み、そして塩野七生ルネサンス著作集6「神の代理人」(新潮社)を読んだので、今回はその内容について書くことにした。

小説「神の代理人」の主人公は、アレッサンドロ6世の伯父カリストゥス3世の次期教皇であったピオ2世、そしてその4代後のアレッサンドロ6世自身、さらにアレッサンドロ6世の2代後の教皇であるジュリオ2世、それと次の教皇レオ-ネ10世という、1458年から1521年までに在位した4人の教皇たちである。この期間は、ルネサンス後期と呼ばれる時期に該当するが、同時に日本にキリスト教が伝えられる年(1549年)の30~90年前にあたるということが私にとっては肝心な点だ。


この小説は主人公である教皇の各々を描いた以下四つの章に分かれる。



1.最後の十字軍(ピオ2世)
先ず登場するピオ2世は、神聖ローマ皇帝の宰相を務めた経験を持ち、小説や恋愛劇を書く人気作家でもあった変わり種である。幸運にも、前教皇カリストゥス3世の甥である枢機卿ロドリゴ・ボルジア(後のアレッサンドロ6世)の支援を得て教皇選挙に当選し感激の涙にくれたこの「人文主義者」は、教皇座即位直後、突如200年近く途絶えていた十字軍を復活させるとの構想を打ち出す。そして、全在位期間6年にわたり十字軍復活に向けて涙ぐましい奮闘を続ける。しかし、「最後の十字軍は、幻と消えた。”聖戦”を信じた、最後の教皇とともに。」なのである。



2.アレッサンドロ6世とサヴォナローラ
主要都市の一つフィレンツェに急進的理想主義に基く神権政治を打ち建てようとするドミニコ会修道司祭ジロ-ラモ・サヴォナローラと、いわゆる‘’ボルジアの悪徳、堕落‘’ゆえに彼の批判の的となったアレッサンドロ6世との闘争が、両者の間に交わされた書簡と教皇教書、フィレンツェ商人の残した年代記と教皇秘書官の日誌を通して描かれる。サヴォナロ-ラは、闇雲な急進主義を振りかざして民衆を巻き込み、アレッサンドロ6世を手こずらせるが、教皇の途方もなく粘り強い戦術によって次第に追い詰められていく。

サヴォナロ-ラの説教の中に、こんな一句があったことを、アレッサンドロ6世が覚えていたという。「人間の一生はすべて、いかに良き死に方をするか、その一事のためにのみ存在する」と。その考えが、多くの知識人層を彼の心酔者にしたらしい、とアレッサンドロは考えた。しかし、アレッサンドロ自身は、いにしえのユダヤ人の言葉、「いける犬は、死せる獅子にまさる」の方が気に入っていた。

犬のように生きるのだから、“良き死”とか、どういう死に方をしようかなどということには心を使わない。たとえ、路傍で野垂れ死にしようとも、悪評の中に死のうとも、また、死後に後世の非難をあびようとも、私には少しも関係のないことなのだ、というのがアレッサンドロの考え方である。

勝負は始めから決まっていたようだ。



3.剣と十字架(ジュリオ2世)
ジュリアノ・デラ・ロ--ヴェレ枢機卿(後のジュリオ2世)とボルジア一族との宿命的な対決が表面化したのは、伯父であるシスト4世の死後、ジュリアノが最有力候補であったロドリゴ・ボルジア(後のアレッサンドロ6世)の対抗馬として同郷のチヴォを担ぎ出し、インノケンティウス8世として即位させることに成功した時からである。

ジュリアノの絶頂・苦節・復活
この時から6年間はジュリアノの得意絶頂の時代であり、次期教皇の座はジュリアノのものであるということは誰もが認めるところだった。ところが、インノケンティウス8世の死後、案に相違してアレッサンドロ6世が即位する。それによって、ジュリアノはそれからの11年間、自己の全身全霊を打倒ボルジアに傾けざるを得なくなる。

そして、1503年アレッサンドロ6世と息子チェ-ザレがマラリアに倒れ、僅か26日間在位したピオ3世の死後、ジュリアノはついに教皇座を掴み、チェ-ザレを抹殺した。と、そこまでは、前回の記事で取り上げた伝記小説「チェ-ザレ・ボルジア ・・・」に書いてあったのだが、その後ジュリアノ(ジュリオ2世)はどうなったのだろうか、ということが気になっていた。

腐敗堕落と権力のボルジア一族とは違って、清廉潔白さで教皇庁を立て直したのか。
それとも、前回の記事に書いたように、数人の子供がいたという話もあるから、アレッサンドロ6世顔負けの奢侈と放縦に耽溺する生活を送ったのか。

ところが、意外や意外、9年間の在位期間のほとんどを、ボルジアの遺産である教会領を拡大するための攻略の陣頭に立ち続けたのである。そして、結果はどうなったか。ジュリオ2世の行くところ敵なしと一般の目には映った。しかし、実は、ジュリオ2世は非常に危険な勝負を続けながら、ついに出口のない状況に追い込まれてしまったのだ。


ジュリオ2世の失敗
それは、外交政策選択の失敗である。アレッサンドロ6世の場合は、フランスを北イタリアに引き入れ、チェ-ザレにイタリア統一を始めさせたが、その後二度と外国勢力を導入しなかった。つまり、アレッサンドロは「反乱を起こしかねない領地を支配する軍事力を持つことによって、外部勢力の助けを借りて統治すること」から脱皮しようとして成功を収めたのだ。

一方、ジュリオ2世は、自ら軍事力を備える動きをせず、フランス・ヴェネツィア・スペイン・ドイツといった外部勢力をとっかえひっかえ使おうとした。そして、常に一旦使った外部勢力を抑えるために他の外部勢力を導入せざるを得なくなった。その結果、ひっきりなしに外部勢力を取り換えることになり、外交政策が支離滅裂なものになってしまったにもかかわらず、それを改めようとしなかった。作者はそこに、「世に賞めそやされる使命感に燃えた人間の持つ危険と誤り」を見る。



4.ローマ・十六世紀初頭(レオ-ネ10世)
最後に登場するのはレオ-ネ10世。マルティン・ルタ-による改革運動はまさにこの教皇の在位期間中に勃発しており、この教皇がそれをどう受け留めどう対処しようとしたのかが最大の焦点かと考えたが、実際はそれどころではなかった、ようである。と言うより、絶対的な優越感に満ち溢れたこの教皇は、何が起ころうが馬耳東風、悠々と浪費にに次ぐ浪費の生活を続けたのである。


腐敗の臭い
本名はジョヴァンニ・デ・メディチ、即位年齢は37歳であり、前任教皇8人の即位年齢の平均は57歳だから、かなり若くして教皇の座に就いたことになる。なぜ、これほど若くして教皇座を得たか。それは、彼の本名を見ればわかる。主要都市フィレンツェの政治力・財力を掌握したメディチ家最盛時の当主ロレンツォ・イル・マニ-フィコの次男なのである。その上、重篤な痔瘻を抱えていたために、もう先は長くないという思惑が教皇に選出される決め手となったという、腐敗が臭ってくるような話は本当だったらしい。


(1)外交手腕

対フランス政策
・フランス・スペイン間の切り離しを図る
・ヴェネツィア・フランス間の同盟を牽制する
・教皇軍と共に連合軍の一員であったスイスがフランスと対決(マリニャ-ノ平原の戦い)し、敗北した際には、弟ジュッリア-ノ嫁フィベルタの実家を通していち早く、フランス王へ和平を申し入れる。
結局は、フランスとの間に骨抜きの講和協定締結にこぎつける。

非同盟政策から汎同盟政策へ
列強の裏をかき、全列強との友好同盟締結に動く。

そのため、「レオ-ネ10世は、非常な敏腕家か、それとも彼自身がよく言うように、怠け者で臆病で、前代未聞のごくつぶしなのか」と問われることになるが、答えは自ずと明らかであったようである。


2)教皇毒殺未遂事件
一人の枢機卿が、腹心の外科医を教皇の侍医として送り込み、患部を手術する際、そこに毒を塗らせようとしたもの。患部の場所が場所だけに、どうしても滑稽感がつきまとう。
主犯枢機卿・彼の秘書・執事及び外科医は処刑。
二人の枢機卿は追放、他の二人の枢機卿は罰金を払わされてから逃亡。
結局、この前代未聞の痔瘻の腐敗臭ふんぷんの事件は徹底的に解明され、責任ある者は完膚なきまでに叩かれ見せしめにされた。


(3)マルティン・ルタ-による宗教改革運動をどう捉えていたか
ルタ-の宗教改革運動をどう捉えていたかは、「ドイツという文化程度の低い国に起こった、全ヨーロッパにおけるイタリアの知的支配に対する反発以外の何ものでもない。」というイタリアの優越性を確信する言葉に集約されている。

側近の修道士あがりの道化師(幇間)とレオ-ネ10世とのやり取りに出てくるイタリア語の罵(ののし)り言葉、「豚のマドンナ」(童貞聖マリアのこと)、「寝取られ男の息子」(聖ヨゼフとキリストのこと)や、「地獄の街の敷石は善意善意からできている」ということわざはイタリア人気質に根ざす正直な宗教観を暗示していて面白い。



(4)レオ-ネ10世の死
1521年12月、自己の優越性を確信していた、真に貴族的な精神の持ち主であるこの教皇の死とともに、ロ-マは、イタリアは、世界史の主人公の座から降りる。

そして、その6年後、ルタ-派信徒のドイツ傭兵によって、ローマは掠奪され、廃墟と化した。
実は、既にレオ-ネ10世の死の翌日、「ローマ、貸します」と書いた紙切れが然る場所に張り付けられていたのだ、という。
(「廃墟になってしまったけれど、これまでの借金を返さなければならないので、どうぞ借りてやって下さい。」という意味だろうか。)




【私の感想】

1.素晴らしい喜劇の連続だ。歴史について、社会について、宗教について、人間について、とてもよく考えられて書かれている。前々回の記事で取り挙げた「チェ-ザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」と殆ど同時期の、それも題材も重なる作品だが、同じ作者の作品とはとても思えない。巻末に参考文献が載っているが、大部分がイタリア語なのだろう。それを解読するだけでも、膨大な体力を要する作業である。しかし、読めば良いというものではない。評価したいことは、その解釈を踏まえて題材を深く検討し、面白い読み物が練り上げられていることだ。


2.先ず、最初に登場し、200年ぶりに十字軍を復活させようと奮闘するピオ2世が笑わせてくれる。様々な障害にぶつかり、それを乗り越えようと真面目にもがけばもがくほど、滑稽なのである。それにしても、神聖ロ-マ皇帝の宰相を務め、インテリとして定評のあった「人文主義者」が、なぜこんな途方もない愚行に溺れてしまうのか。その滑稽さは、セルバンテスの「ドン・キホ-テ」や初期の頃の「寅さんシリーズ」を思い出させた。久し振りに味わう、笑いがこみあげてきて抑えられないような可笑しさである。


3.次に登場するアレッサンドロ6世は、悪役として定評のある人物だから、無謀にも敵対してくる「急進主義者」サヴォナロ-ラに対し多少乱暴なことをしても驚かないのだが、最初は意外とおとなしい。しかし、カエルを睨む蛇のように、獲物の動きをじっと追っているのだ、と考えるとかえって迫力があり、マフィアのドン顔負けの静かな恐さを感じさせる。

私が気が付いたのは、「修道士(サヴォナロ-ラ)に勇気付けられた少年たちの群が、奔流のように市内にあふれ出て、贅沢品や女の装飾品を奪っている。」という記述だ。それは、日本の戦時中の「ぜいたくは敵だ」というスロ-ガンや、「毛沢東主義」華やかなりし頃の中国の紅衛兵運動を思い出させた。

それから、思い出したのは、1965年頃、東京の都立高校で実際にあった光景だ。校舎から校門までの道の両側に立つ生徒たちがとる手拍子に合わせるように、人民服を着たY先生が満面の笑みを浮かべて手を振りながら歩いて行った。先生は、紅衛兵運動を”学習”するために学校を辞めて中国へ行ったのだと、後で聞いた。あの先生は、どうなったのか。(あまり関係のないような事まで書いてしまったが、正義を振りかざす「急進主義者」毛沢東の影響というものは、遥か彼方の東京都内まで及んでいたのだ。用心深かったはずのアレッサンドロ6世のことだから、実は、サヴォナロ-ラが民衆に及ぼす影響が心配で堪らなかったのかも知れない。)


.次の教皇ジュリオ2世の失敗は、外部勢力によって外部勢力を制す(毒によって毒を制す)という政策を、馬鹿の一つ覚えしてしまったために、それに溺れてしまったということである。そして、教会(教皇)領の維持・拡大という大義に酔ってしまった男には、それを見直すという知恵が回らなかった、ということである。

誰が見ても文句の付けようがない大義を持ち、それを遂行する使命感に燃えた人は、手が付けられなくなってしまうということは、私の周囲にもその実例があるから、よく分かる。私のように、胸を張れるような大義とも使命感ともあまり縁がなく生きてしまった者は、あれだけ苦労したのだからもっと楽に暮らせば良いのに、と思ってしまうのだが、そんな無気力に堕落した考え方はとても聞いて貰えそうもない。



5.この小説の中に、その後に起きた反動宗教改革運動の旗手イエズス会が主導した日本でのキリスト教布教に関連すると思われる記述があることに気が付いたので書いておこう。

(1)教皇レオ-ネ10世の死後に起こったこととして
「この後に起こった反動宗教改革でも、ローマは、イタリアは、もはや主役を演じなかった。スタンダ-ルにいわせれば、あまりに厳しすぎてイタリア人の気質には合わず、早々にスペインにご移転願った、となる。」

(2)ルタ-の宗教改革運動の時期のレオ-ネ10世の言葉として
「これからは、殉教か勝利かを、むりやりに選ばせられる世の中になるだろうよ。そういう時代には、深刻ぶらないで現実を冷静に眺めることは必要でなくなる。陰気な世の中になるのう。」


これらを、言い換えれば
(1)日本に伝えられたキリスト教は、反宗教改革の旗手イエズス会によって独りよがりに変形されたスペイン(ポルトガル)風のもの。イタリアの伝統的なものとは相容れない野暮な別ものだ。
(2)本来のロ-マ・カトリック教は、殉教か勝利かを選ばせたりしないものだ。宗教が、殉教か勝利かを選ばせたりすれば、深刻ぶったり現実を冷静に眺めないようにすることが必要な陰気な世の中になってしまうからね。
ということになるだろうか。

その意味するところは、レオ-ネ10世が在位したローマにあったカトリック教は、ザビエルの日本到着までの僅か30年の間に、大きく変えられていたということである。日本に伝えられ育てられたキリスト教は、ローマ・カトリックとは別のものであり、ひたすら清潔で人間的な現実を考えさせず、やたらに深刻に殉教か闘うかの決断を迫るものとなった。そうであれば、日本のキリシタン信徒はひたすら真面目で正しかったと伝えられ、日本では世界のどこよりも多数の信者が殉教したと言われていることにも納得がいく。

ついでに言えば、冒頭に書いたように、聖画・聖像・聖歌や聖堂の雰囲気が嫌いではなくて、気が向いた時にミサに顔を出す(ほとんど、葬式・法事の類だけになるが)という私のような者も、教会は褒めてくれないかも知れないが、結構正統的なローマ・カトリックなのではないか、と思えてきた。


レオ-ネ10世の死の翌日の書き付け「ローマ、貸します」は、落語の落ちのようで洒落ている。



以上







# by GFauree | 2021-06-28 05:25 | ロ-マ教皇 | Comments(0)  

罪深き「神の代理人」たち

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3回に亘って、ロ-マ教皇アレッサンドロ6世に関する記事を書いた。その、アレッサンドロ6世については、「ルネッサンス期のロ-マ教皇庁の腐敗・堕落を代表する悪名高き教皇」というのが定評になっているようである。しかし、3回の記事を書いているうちに、私は二つのことが気になり始めた。

ひとつは、教皇として行状の酷かったのは、アレッサンドロ6世だけではなく、他にも同じようなあるいはもっと酷い教皇もいたのではないか、ということ。もうひとつは、アレッサンドロ6世の腐敗・堕落には、それなりの理由があるのであって、それを単純に非難して済まそうとすることは、人生の紆余曲折を経験して脛(すね)に少しの傷もないなどとは間違っても言えない私のような人間としては、一面的かつ非現実的に過ぎるのではないか、ということである。

第一の点については、とにかくロ-マ教皇について殆ど知識がないのだから仕方ないのだが、幸い「ロ-マ教皇歴代誌」P.G.マックスウェル-スチュア-ト著(創元社)という本が手元にあるので、先ずはそれを読むことにした。

1999年12月に刊行された本だから、おそらくその頃、例によって勤務時間中に職場近くの本屋で立ち読みしていて(そう言えば、あの頃私だけでなく昼間から立ち読みをして時間つぶしをしている風のサラリ-マンは結構多かったけれど、今はどうなのだろう。)、いつか役に立つのではと思って買ったのだと思う。そのあとこんな遥か彼方まで随いて来て役に立ってくれるとは、なかなか愛い奴である。(下手に断捨離なんかしないで良かった。)

第二の点については、最近読んだ塩野七生著「神の代理人」に単純ではないが納得できる解釈が示されているので、それは次回の記事でご紹介することとしよう。


さて、「ローマ教皇歴代誌」には、初代の聖ペトロから第264代のヨハネ・パウロ2世(2005年に死去)までの全教皇について、特徴的な事項が事典のように記載されている。その歴代264人全員についての記事を読み通す根気や体力などとてもありそうもないので、問題のアレッサンドロ6世の伯父である5代前のカリストゥス3世から、日本でのキリスト教布教を主導したイエズス会を認可したことで知られているパウルス3世まで、12人の教皇について記載内容を見ることにした。

結果、アレッサンドロ6世は、古い方から6番目とほぼ中間に位置することになった。また、12人目のパウルス3世の没年である1549年は、まさにフランシスコ・ザビエルが鹿児島に到着した年、つまり日本でのキリスト教布教が開始された年ということになる。



「歴代誌」に記載されたルネッサンス後期の教皇たち

カリストゥス3世(在位:1455~1458)本名:アルフォンソ・デ・ボルジア(アレッサンドロ6世の伯父) 
甥の一人をナポリ王位につけようと、画策したほか、他の甥たちを行政長官や枢機卿に就けるなど、縁者重用が目立つ教皇。

ピウス2世(在位:1458~1464)本名:エネア・シルヴィオ・ピッコロミニ
小説や恋愛劇を書いた人気作家だった。

パウルス2世(在位:1464~1471)本名:ピエトロ・バルボ(エウゲニス4世の甥)

シクストゥス4世(在位:1471から1484)本名:フランシスコ・デラ・ローヴェレ(下層階級の出身)
6人の甥を枢機卿にするなど親類縁者に金と役職を惜しみなく与えた。

イノケンティウス8世(在位:1484~1492)本名:ジョヴァンニ・バティスタ・チボ(ローマ元老院議員の息子)
司祭に叙任される前に数人の庶子(正妻以外の女性から生まれた子供)をもうけた。
その庶子のうちの一人をロレンツォ・メディチの娘と結婚させ、更にロレンツォの14歳の孫を枢機卿に任命した。

アレッサンドロ6世(在位:1492~1503)本名:ロドリゴ・デ・ボルジア(カリストゥス3世の甥)
数人の女性との間に、チェ-ザレ、ルクレツィアなど6人の息子と3人の娘をもうける。
愛人ジュリアの弟アレッサンドロ・ファルネ-ゼを枢機卿に就け、彼はその後パウルス3世となる。

ピウス3世(在位27日間)本名:フランチェスコ・トデスキ-ニ(ピウス2世の甥)

ユリウス2世(在位:1503~1513)本名:ジュリアノ・デラ・ローヴェレ(シクストゥス4世の甥)
フェリ-チェという名の娘の他、数人の子供がいた。

レオ10世(在位:1513~1521)本名:ジョヴァンニ・デ・メディチ(フィレンツェの統治者ロレンツォ・デ・メディチの次男)
13歳で助祭枢機卿となる。浪費した資金を聖職売買と汚職によって穴埋めしようとした、と宗教改革者たちから批判される。

ハドリアヌス6世(在位:1522~1523)本名:アードリアン・フロ-レンツ・ディダル(大工の息子)

クレメンス7世(在位:1523~1534)本名:ジュリオ・デ・メディチ(ロレンツォメディチの弟であるジュリアノ・メディチの庶子、レオ10世の従弟)

パウルス3世(在位:1534~1549)本名:アレッサンドロ・ファルネ-ゼ(アレッサンドロ6世の愛人ジュリアの弟)
叙階以前に4人の庶子をもうける。十代の孫たちを枢機卿に昇格させるなど極端な身内びいきだったとされる。


この内容をまとめてみると、

日本でのキリスト教布教開始(1549年)以前の94年間のロ-マ教皇12人の中で
1.教皇の縁者であった者(6名)
パウルス2世
アレッサンドロ6世
ピウス3世
ユリウス2世
クレメンス7世
パウルス3世
 
2.政治的有力者の縁者であった者(2名)
イノケンティウス8世
レオ10世

3.縁者重用(身内びいき)が顕著な者(5名)
カリストゥス3世
シクストゥス4世
インノケンティウス8世
アレッサンドロ6世
パウルス3世

4.実子がいたこと(つまり、女性関係があったこと)が判明している者(4名)
インノケンティウス8世
アレッサンドロ6世
ユリウス2世
パウルス3世
(但し、重用したとされている甥というのが本当は実子であり、そのことを公表しなかった教皇もいた可能性もあるので、実際はこれより多いと考えられる。)


以上から言えること
1.教皇の地位は、教皇の縁者や政治的有力者の縁者の間でたらいまわしされていた、ということ。
2.ルネッサンス後期に腐敗堕落していた教皇は、アレッサンドロ6世のみではなかった。しかし、アレッサンドロ6世の腐敗堕落の程度が顕著なものであったことも確からしい、ということである。

重要なことは、そういう宗教が大航海時代の世界に拡散され、日本ではキリシタンとして受容された、ということである。



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 アレッサンドロ6世の肖像
 (「ロ-マ教皇歴代誌」に収められたピントゥリッキオの作品)

 やや不思議なことに、この教皇の表情は他のピントゥリッキオの作品と比べて、とても写実的に描かれている。

加えて、その表情は一見素朴そうだが、狡猾そうにも、厚かましそうにも見える。

まさか、画家が当時のアレッサンドロ6世に対する世評を意識して意図的にそのように描いた、などということではないとは思うが、どうなのだろうか。


                        以上
















 

# by GFauree | 2021-06-20 09:51 | ロ-マ教皇 | Comments(0)