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チェ-ザレ・ボルジア(空疎なる英雄あるいは空疎なる物語) 

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前回の記事に「Los Borgia」マリオ・プ-ゾ著と共に、以下の2冊も殆ど読まないままに本棚に放置していたのを見つけた、と書いた。

・「チェ-ザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」塩野七生著(新潮文庫)
・塩野七生ルネッサンス著作集6「神の代理人」(新潮社)


書かれてあることが、日本のキリシタン時代史の背景を知り理解するための助けになれば、と思って20年近く前にどこかで買ったものだ。狙いは間違っていなかったようだが、いざ読んでみるとカタカナの地名と人名が満載で直ぐに降参してしまった。

前回の記事に書いたように、当時のローマ教皇庁の状況(腐敗・堕落)が結果的に日本へのザビエル渡来に繋がっているなどと考える段階までには、私の歴史理解の程度がとても至っていなかった。


実は、この2冊は私がまだ学生だった頃、6歳上の姉の部屋の本棚にあった。「チェ-ザレ・ボルジア」が文学賞を受賞したのは1970年、大阪万博の年であり世間は戦後の高度経済成長の真っ只中である。そろそろ世の中が精神的にも物質的にも高尚なものに憧れる時期に入り「あるいは優雅なる冷酷」という一風変わった副題のせいもあってか、この本は注目を浴びていたのではないか(という意味で、この副題はなかなか上手い)、と改めて思う。


姉は特に歴史好きというわけではなかったと思うが、本好きではあった。その洒落た副題に魅かれたひとりだったのかも知れない。

その姉が亡くなってから、もう5年経ったことに改めて気付かされた。最近、月日の経つのがまた余計に早くなって来た。




内容

これは、ロ-マ教皇アレッサンドロ6世の息子チェ-ザレ・ボルジアの生涯を描いた小説である。前回記事に取り上げたマリオ・プーゾ著「Los Borgia」が、教皇アレッサンドロとその子供たちの物語であるのに対し、こちらは飽くまで、謂わばチェ-ザレの伝記だから、父アレッサンドロも妹ルクレツィアや他の兄弟たちも影が薄い。

物語は三部に分かれている。


第一部 緋衣(1492~1498)
カトリック教会の教皇に次ぐ高位聖職者であり教皇選出の選挙権を持つ枢機卿の衣装の色は緋色(濃くて明るい朱色)である。教皇アレッサンドロと愛人ヴァノツァとの息子チェ-ザレが18歳で枢機卿に任命されてから、23歳を真近にして枢機卿の地位を返上し、地位と領土と花嫁を手に入れるためにフランスへと旅立って行くまでが描かれている。


第二部 剣(1498~1503)
ナヴァ-ラ国王の妹シャルロットとの結婚の後、チェ-ザレはロマ-ニャ地方の要の都市フォルリとイーモラへの攻撃で初陣を果たしロ-マへ帰還、何者かによって殺害された弟ホアンの後任として教会軍総司令官に任命される。その後もチェ-ザレは快進撃を続け、自軍の傭兵隊長らに反旗を翻されるという「マジョ-ネの乱」も乗り越え、「一国も持たず、一兵も無しに出発した彼の野望、王国創立という野望は、この二十七歳の若者の眼前に、いまや明確な形をとって広がっていた。」


第三部 流星(1503~1507)
破局は突然やって来た。教皇アレッサンドロとチェ-ザレが病に倒れ、アレッサンドロは死に、次期教皇ピオ3世は在位わずか26日間にして死去。次の教皇選挙において、ボルジア家を永年の仇敵としてきた枢機卿ジュリア-ノ・デッラ・ローヴェレが選出されジュリオ2世となる。これは、チェ-ザレがローヴェレとの間に結んだ協定の結果であり、以降チェ-ザレは破滅に向かって突進することとなる。

教皇ジュリオ2世とスペイン王が結託し、チェ-ザレはナポリで捕らわれ、スペインへ送られる。フェルディナンド王の姪の夫であった弟ホアン殺害の首謀者の嫌疑が名目である。2年間の捕囚生活と1カ月以上の逃避行の後、ナヴァ-ラ国にたどり着く。妻シャルロットの兄であるナヴァ-ラ国王を頼ったのである。当時、ナヴァ-ラはスペインと敵対関係にあり、チェ-ザレは、スペインとの戦闘のうちに命を落とす。



空疎な人たちが空疎に描かれて


1.チェ-ザレの空疎な姿
この小説を読んでいると、宗教というものは、それを利用しようとする人々と、それによって利用される人々を生むものであることを改めて思い知らされる。教皇アレッサンドロ6世はカトリック教会という集団を使って精神的にも物質的にもキリスト教を貪りつくし、その息子チェ-ザレも父から与えられた権力と快楽を享受し尽そうとしたように見える。アレッサンドロにとって、信者とは献金によって罪の赦しを得ようとする愚かな大衆に過ぎなかったし、チェ-ザレに至っては、そうやって集めた軍資金をどう使うかだけを考えて生きたようだ。そんな人たちが世の人々を導き救うことなど出来る訳がない。

第一部においてスポ-ツ好きな爽やかな青年として描かれたチェ-ザレの姿が何と空疎なことか。普通の聖職者が一生かけても辿り着けない大司教・枢機卿のの地位に16歳~18歳で着いてしまったのだから、世のため人のために尽くそうなどという考えが生まれてくるわけがないことは分かるのだけれど。

(こういう人たちは、50年前ぐらいの私が若かった頃もいたし、最近でも週刊誌をにぎわせたりしているから何時でも何処でも棲息しているものらしい。)



2.「若き英雄」のイメ-ジ作りのために
第二部におけるチェ-ザレの活躍も、イタリア国内最強の世俗領主でもある教皇の権力を背景にしていれば、快進撃も当然の事なのである。そんな主人公に肩入れしてしまった作者は、「若き英雄」のイメ-ジ作りのために色々と工夫している。


「『ヴィーナスの病い』と呼ばれている『フランス病』即ち梅毒は、フランス王がイタリアにした贈り物の一つであった」、と書きながら、梅毒によって顔が変形してしまったチェ-ザレが常に覆面でそれを隠していたと言われている事には、一言も触れていない。爽やかな青年が、梅毒でつぶれた顔を隠していたとは書きにくかったのだろう。


また、チェ-ザレが陥落させた征服地の一部のうち一つは、ルクレツィアと殺されたビシェリ公との間に生まれたロドリ-ゴに、もう一つは、ルクレツィアの『秘密の子』と言われる『インファンテ・ロマ-ノ』(「ロ-マ教皇の赤ん坊」という皮肉を込めた呼び名であろう)に与えられたと、書かれている。この『インファンテ・ロマ-ノ』はレクレツィアと愛人またはチェ-ザレかアレッサンドロのどちらかとの近親相姦の結果できた子供だと言われているのである。作者としては、チェ-ザレが妹ルクレツィアと肉体関係があったかどうかには、その可能性が高いだけに触れたくなかったのだろう。


このような工夫を凝らして守り育てたチェ-ザレのイメ-ジは、マキャヴェッリから理想の君主として高く評価されたとか、ダ・ヴィンチとお互いが認め合った仲であったということで仕上げられている。チェ-ザレとこれらの著名文化人との関係は、どうも意味がはっきりしない。だからどうしたのと訊きたくなってくるのだ。

そもそも、「チェ-ザレは『学問芸術の素養のない男』としてマントヴァ侯爵夫人から酷評された」、と作者は書いているのである。それに、チェ-ザレの政治的洞察力の欠如は、父親である教皇アレッサンドロ6世の死後ボルジア家を永年の仇敵として恨んでいるはずのローヴェレ枢機卿を教皇に押し上げてしまったことで証明されている。だからマキャベッリの言う「理想の君主」には程遠かったはずなのだ。



3.チェ-ザレの凋落に同情も共感も湧かない
こんな読み方をしている私には、アレッサンドロ6世死去後の哀れを誘うはずのチェ-ザレの凋落を見ていても、同情も共感も湧いてこない。アレッサンドロ6世は既に72歳、この時代であれば相当の高齢だった。加えて教皇座在位も11年になっていたのだ。教皇座は選挙で選ばれるもので世襲されないものである以上、時間がないことは分かっていたはずである。要するに、苦労知らずのお坊ちゃんの化けの皮がはがれてしまったのだろう。それでも、作者は同情的にチェ-ザレを優しく描き、それに共感した読者も少なくなかったらしい。



4.一応信じられる内容
この作品が、1970年前後という戦後の一時期の日本社会に大いに持て囃された理由については、種々思い当たることもあるが、それをあげつらうことはここでは控えることにしよう。この作品は歴史を扱っているが、歴史書ではなく作者の創造を存分に加えた小説である。ただ、噂に過ぎないことをまことしやかに伝える英雄譚でもないことは、信じてよいのではないかと思う。


なぜこの小説は空疎なのか
それでは、なぜこの小説は空疎なのだろうか。それは、恐らく題材となる歴史についての検討が不足しているからである。歴史事象に対する情報・知識は有っても、それと日本という社会や我々日本人という人間との関係が深く捉えられていなかったのではないか、と私は思う。もし、その関係が把握され検討されていれば、アレッサンドロ親子が放恣にやりたい放題をやった50年後に日本にキリスト教が伝えられ、それに命を捧げるほど真剣に向き合った人々がいたことに気付いたはずである。そして、もしそれに気付けば、独身であるべき教皇が子供を持ち、自分の子供だからという理由で16歳で大司教に、18歳で枢機卿にするなどということは如何に信者という人間たちを馬鹿にしたことであるかが理解できるはずだからである。そうであれば、第一部の書き方も、第二部の書き方も違ったものになったはずである。


”罪の意識”に思い至っていない作者
敢えてもっと踏み込んで言えば、ローマ教皇親子が感じているべき、また感じていたであろう”罪の意識”というものに作者が全く思い至っていないのではないか、ということである。だから、空疎であり軽いのである。もしかして、それ故にこの小説が日本で受けたという面があったのかも知れないが。


小説を比較するということは、人と人を比べるようで意味のないことかも知れない。しかし、このロ-マ教皇親子の腐敗・堕落に対する見方という点で、前回の記事に取り上げたマリオ・プーゾ作「Los Borgia」は、これとは比べものにならないぐらい重かった。歴史的事象に関する知識の量に差は無くても、思考の量や質が全く違うのではないかと思う。


姉が好きだったかも知れない本を批判するような内容になってしまった。うーむ、困った。


以上













# by GFauree | 2021-06-06 13:39 | ロ-マ教皇 | Comments(0)  

Los Borgia(教皇アレッサンドロ6世とその子供達)

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前回の記事に、「ボルジア家-悪徳と策謀の一族」マリオン・ジョンソン著 海保真夫訳(中公文庫)を本棚の整理をしていて見つけたと書いたが、その時、ロ-マ教皇に関する以下の本も持っていることに気付いた。

スペイン語版「Los Borgia」マリオ・プ-ゾ著
「チェ-ザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」塩野七生著(新潮文庫)
塩野七生ルネッサンス著作集6「神の代理人」(新潮社)


スペイン語版「Los Borgia」は、13年前ペルーに来た直後、近所のやや高級なスーパ-(この国は差別社会だからスーパ-にも高級・中級・下級の区別がある)の廉価本のコーナ-で買ったものであることは憶えている。と書いていると、その頃の正直言って心細いような気分が蘇ってきて、少しせつない気持ちになる。

スペイン語に慣れるための助けになれば、と僅かでも分かり易そうな分野の本が目に付いたので買ったのだが、約400ペ-ジのうち20ペ-ジ程で頓挫して放置していたのだ。当時は未だ、こういう本を読むために必要な周辺的な知識が全く不足していたために、仮に日本語版であっても読み続けるのは難しかったのではないかと思う。ただ単純に、今より中途半端に若くて根気が無かったせいかも知れないが。


ところが、前回の記事に書いた「ボルジア家-悪徳と策謀の一族」は、意外に楽に読み通せたので、その後にこの「Los Borgia」も読んでみようと思った。と言うより、「ボルジア家」を読んでみて、キリシタン時代当時のローマの事情をほとんど知らなかったことに気が付いたせいもある。

それに、著者マリオ・プーゾがイタリア系マフィアを描いた有名な映画『ゴッドファーザー』の原作者であることが分かりなおさら興味をそそられた面もあった。ローマ教皇庁をマフィアの組織になぞらえればどんな内容になるか面白そうな気がしたのだ。そう言えば昔、ある日本の評論家が「ローマ教皇庁は共産党に似ている。」という風なことを言っていたことも思い出した。

問題は私の持っている「Los Borgia」はスペイン語版なのだ。調べてみると「ザ・ファミリ-」と題した日本語版(加賀山卓朗訳-ヴィレッジブックス)も出版されている。しかし、コロナ禍で依然として日本・ペル-間の航空郵便は停止されている。DHLで送ってもらう手もあるが、中古なら200円で買える本の郵送料に一万円以上かける勇気はない。それでは、ということで覚悟して、2月下旬からスペイン語版を読み始めた。

試しに読んでみると、1ペ-ジ読むのに平均して40分ぐらいはかかる。それで、1日に5ペ-ジ読むことにした。
1日に約200分(3時間20分)、辞書を片手に格闘することになった。約400ペ-ジだから、80日間、約3カ月掛かった。

内容について言えば、前回の記事に書いた文庫本「ボルジア家」には、教皇アレッサンドロ6世の叔父である教皇カリスト3世のことから、アレッサンドロの曽孫であるイエズス会総会長フランシスコ・ボルハのことまでボルジア一族が広範に書かれているのに対し、この「Los Borgia」に描かれているのは殆どアレッサンドロ自身と彼の子供達(チェ-ザレ、ルクレツィア、フアン、ホフレの4人)に起きた出来事である。

もちろん、その4人の子供達の母親ヴァノッサや愛人ジュリアのことも書かれているが、実は、アレッサンドロにはこの4人以外に5人の母親不詳の子どもがいたのだ。教皇は人並外れて面倒見の良い人だったのである。そういう意味で、この「Los Borgia」に副題を付けるとすれば、「教皇アレッサンドロ6世とその子供達」としなければならない。

どんなことが描かれているのか、序文には物語の時代的背景がしっかりと、しかし丁寧に書かれているように感じた。


〈序文〉

ルネッサンスという時代
黒死病(ペスト)がヨーロッパを荒廃させた頃、市民たちは地上を見棄て、その失望を抱えながら天を見上げている他は無かった。哲学的な思考に傾きがちな人々は、そこに存在の神秘を見出そうとし、それによって彼らは、壮大な生命の神秘を洞察することが出来るようになったが、もっと貧しい者たちは、苦痛を和らげることをひたすら求めるばかりであった。

中世的宗教の失墜と古典文化の復興
こうして、中世の厳しい宗教的教義は力を失い始め、偉大なギリシャ・ローマ古典時代の文化研究に取って代わられることとなった。十字軍遠征に賭けられる切なる願いが弱まるにつれ、ギリシャ神話のオリンポスの神々が復活し、抑圧されていた彼らの戦いは再び解放された。かくして、人々は神に背を向け、理性が再び支配することとなり、それは哲学や芸術や医学や音楽における偉大な収穫の時代を意味した。そして、文化が絢爛豪華に咲き乱れることとなったが、それによって人々は神に対し心を閉ざすという代償を支払わねばならなくなった。

ヒュ-マニズムの方向転換の難しさ
古い掟(おきて)は、新たな規律が作られるまで破壊されるままとなった。ヒュ-マニズムは、「神の言葉」と「永遠の生命」とに対する信仰を厳しく守ることから、「人間の尊厳」と「物質的な報い」とを求めることへと方向転換することとなったが、その転換は実際のところ容易なことではなかった。

無法の町ローマ
当時のローマは神聖な都市ではなく、無法な場所であった。街では市民が襲撃され、家々は略奪され、売春婦は気ままに野外で商売をし、何百人もの人が殺害されていた。

絶えまない領土の奪い合い
イタリアとして我々が知っている国は未だ存在していなかった。長靴形の国土の境界線の中で、個々の都市は旧家・王侯・封建領主・貴族や教会の司教たちによって支配されていた。今日イタリアと呼ばれる国土の中で、隣人同士が互いに土地をめぐって争い、勝利を得た者は次の侵略に備えて常に警戒を怠らなかった。

スペイン・フランス・トルコなどの外国勢力
外国勢力は、常に征服を狙っており、イタリアの弱小領主たちにとっては不断の脅威となっていた。スペイン・フランスの君主たちは、領土を拡大するために闘い、トルコはイタリア半島沿岸を脅かし続けていたのだ。

カトリック教会の”大分裂”
教会と貴族は権力をめぐって争い続けた。”大分裂”(グラン・シスマ)が始まると、二人の教皇が並び立つことによってカトリック教会は分断され、その収入は劇的に減少した。

ロ-マ教皇庁復活の兆し
”大分裂”が終了し、ローマに単一の教皇座が復活したことは、教皇庁にとって絶頂とも言える新たな段階の前兆であった。

教皇庁と諸国王・諸侯との競合の理由
カトリック教会の「精神的指導者」であるはずのローマ教皇が、何よりも強大な権力を有したからこそ、諸国王・諸侯と対決せざるを得なかっただけのことである。

教皇庁の腐敗
そんな事情に加えて、聖なるカトリック教会は絶えることのない騒乱の中に沈み込んでいた。教皇庁の最上層部までに汚職が定着してしまっていたからである。

偉い人たちの道徳的頽廃
純潔の誓いを無視して、枢機卿たちは日常的に売春婦を訪ね、同時に数人の愛人を抱えさえしていた。

賄賂の横行
賄賂は日常茶飯事のこととなり、司祭たちは受け取る金銭と交換に神に対する義務から貴族を開放し、更に膨大な罪に赦しを与えていた。

金が全て
ロ-マでは何にでも値段があると言われていた。十分な金があれば、教会も贖宥(罪の償いの軽減証明書)も教書(教皇・司教の公式布告)も永遠の救いさえも金を払えば買うことが出来たのである。
どこの家庭でも、2番目の男子は生まれた時から、宗教的な資質の有無にかかわらず、聖職者として生きていくために教育された。
カトリック教会は王冠を、またあらゆる種類の世俗的特権を与える権利を保持していて、一族のうちの誰かが枢機卿会の一員となることが出来るよう、莫大な賄賂を差し出さない貴族はイタリアには居なかったのである。
ルネッサンス時代の世のなかは、そんなものだった。
ロドリゴ・ボルジア枢機卿(のちの教皇アレッサンドロ6世)と彼の家族にとって、世間とはそのようなものだったのだ。



以上、序文に書かれているのは、当時の社会状況、宗教・文化的な傾向、国内における領地の争奪戦と外国勢力の侵入、カトリック教会の‘’大分裂‘’とローマ教皇庁の復権、そしてカトリック教会内部特に上層部の腐敗堕落と道徳的頽廃である。この本は、あくまで小説である。しかし物語の背景として、この序文に書かれていることが史実であろうことは、まず間違いない。

そこで、私が思い出したのは、幕末・明治維新の時期に起きた「隠れキリシタン信徒発見」である。

幕末・維新の「信徒発見」とローマの腐敗堕落の関係

明治元年の2年前1865年のこと、長崎の大浦に建設された天主堂を秘かに訪れた複数の信者たちが、パリ外国宣教会の神父ベルナ-ル・タデ・プティジャンに質問した。
・「聖母マリア像は、どこにあるのか?」(聖母マリア信仰)
・「あなた(神父)たちは、ローマ教皇を知っているか?」(「神の代理人」ロ-マ教皇の存在)
・「あなたたちは、独身か?」(司祭の独身)
これら三つの質問は、カトリック教会の特徴を表わしており、彼らが230年間の禁教の時代を通じて、本物のカトリック宣教師を見分ける方法として教えられ伝えられてきたものだ、とプチジャン神父は考えた。そして、「信徒発見」を報告した。

この話は、私も65年ぐらい前に教会の土曜学校で聞いた。発見された「隠れキリシタン」信徒が230年を超えてカトリック信者としての明確な意識を維持していたという感動的な話である。そして、その根底にあるべきものは、統率するロ-マ教皇と信者を指導する司祭たちの清廉潔白さへの強い期待と信頼感である。

ところが、そのカトリックの信仰がザビエルによって日本に伝えられた1549年の約50年前の15世紀末、既にローマ教皇や枢機卿たちは放恣に独身の誓いを破り、女性関係どころか堂々と子供を持ち、その子供達も含む近親者を重用して教会を私物化していたのである(それは、アレッサンドロ6世だけの話ではない)。

日本のキリシタンはロ-マ教皇庁の「腐敗堕落」の産物

しかし、考えてみれば、こういう「腐敗堕落」があったからこそ、それをカトリック教会内部から改革しようという動き(対抗宗教改革)の中でイエズス会が創設され、その創設者の一人フランシスコ・ザビエルが日本に渡来したからこそ日本へのキリスト教伝来があったとも言えるのである。
(ちなみに、イエズス会創設を認可したロ-マ教皇パウルス3世の本名は、アレッサンドロ・ファルネ-ゼであり、アレッサンドロ6世の愛人ジュリアの兄である。叙階以前に4人の庶子を設け、十代の孫たち二人を枢機卿に任じている。)
このような「腐敗堕落」した教皇たちがいなければ、日本のキリシタン時代は無かったかも知れないのである。

マフィアと呼ぶにふさわしい悪は誰か

そして、さらに思うことは、自分たちが「神(キリスト)の代理人」・精神的指導者として尊重する教皇や教皇庁の実態がこのようなものであることを、日本への布教を献身的に進めようとしたとされるイエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノをはじめ宣教師たちはどの程度知っていたのだろうか、ということである。ヴァリニャ-ノはナポリ王国のキエティ市生まれでヴェネツィア領のパドヴァ大学で学んだのだからイタリアの事情には通じていた筈である。まあ、分からなかったというのであれば仕方ないが。もしローマ教皇庁の内情を分かっていて、布教活動をしていたのであれば相当の悪である。それこそ、マフィアと呼ぶにふさわしい。しかし、教皇庁の腐敗堕落などを知っていて、こんな世界の果ての極東の地まで来て苦労できるだろうか。それも、疑問である。

家内の場合

この本「Los Borgia」は、カトリック国ではどのように受け留められているのか知りたくなって、とりあえず家内に訊いてみた。家内は家族が元々カトリックで小・中学校(ペル-は中学が5年制で高校がない。)はミッション系、中学を出たときに修道院に入ろうとしたが、「貴女は向いていない。ほかの形で社会に貢献しなさい。」と断られて(そういう断り方は常套的なものではないか、とも思うが)しまったそうである。そして、ちょうどその頃、叔母(母親の姉)から「Los Borgia」を読むことを勧められた。

その叔母は、従来敬虔なカトリック信者だったが、50歳前後の頃、カトリック教会に疑問を感じてプロテスタントに転じた。転宗するには、「Los Borgia」もきっかけの一つになったらしい。その叔母は真面目な人だったから、他の親戚にも転宗を勧め、その結果、妻の母方の親戚はプロテスタントの方が絶対多数である。「Los Borgia」はそのくらい影響力を持ったらしいのである。
(ちなみに、ペル-はカトリック国でカトリック信者が90%ぐらい、と言われているが、実際は私の見るところ、カトリック信者は50%程度で、残りの半分がプロテスタントと言う感じである。)

さて、肝心の「Los Borgia」に対する家内の感想であるが、チェ-ザレとルレクツィアとの兄妹間の近親相姦に嫌悪を感じて読み進められなくなったということである。(この近親相姦はフィクションと言うより、かなり定説的な噂である。この本には、はっきりとは書かれていないが、アレッサンドロ自身が実の娘ルクレツィアと肉体関係があったとの噂まであるのである。)

家内にとって、教皇アレッサンドロ6世の行状なども読むに堪えなかったようだ。私も若い頃は、(実は私の父はカトリック系の大学に勤めていたので、嫌でも内情を聞かされていた。)教会の中がそれほど美しいものだとは思っていなくても、歴史的な事項も含めて教会の醜聞を見聞きすることには耐えられなかった覚えがあるので、家内の気持ちは理解できるような気がするのだ。

つまり、教会の上層部を信じ切っている訳ではなくても、いざ「Los Borgia」のような本で恥部をえぐり出され、醜聞を具体的に示されると、教会に対する信頼を前提に日々暮らしてきた身には、それを読み切るのはなかなか辛いということである。そして、このことは、カトリック信者一般に起こり得ることなので、どこの国でもこの本を読み切れるカトリック信者は決して多くないだろうと私は推測している。



私の感想
さて、それでは、私はどう読んだかということであるが、実はとても楽しく読めてしまった。

1.私にとって意外なことに、自分はミサや聖歌や祈り(それもラテン語の)や儀式(教会では典礼と呼ばれている)で使われる蝋燭や炊かれる香の匂いが実はとても好きだったことを、この本を読みながら今までに無く素直に認められるようになっていることに気が付いた。それから、この本の中で強調されているミサの中で司祭が着る(祭服と呼ばれる)衣装である。白の絹地を背景に紫や緑の布地が使われ金色の糸で縁取りされていて、上品な華やかさがあるので子供の時から好きだったことも改めて思い出した。(千年以上にわたって、最も効果的に宗教的雰囲気を醸し出すことが出来るように専門家たちが考案し続けてきた知識・技術の集積なのだから、当然のことかも知れない。)

要するに、この本を読んで、私はカトリック教会を取り巻く雰囲気やそれを形作っている、ある意味で形式的な事柄が結構好きであることに改めて気付かされたのである。そして、それらは形式的な事柄だと言っても、私にとってあまり馬鹿に出来ないことなのである。


2.チェ-ザレとルクレツィアとの兄妹間の近親相姦も自然に描かれているので、好きなものはしょうがないではないかという感じがしたのだった。枢機卿や教皇が売春婦を身近に侍らせているのも、複数の愛人を囲っているのも、本人が好きだったのなら、それはそれでしょうがないのである。

それに、アレッサンドロ6世が実の息子チェ-ザレを使ってイタリア全国制覇を目指したことは、封建領主としては当然のことで目くじらを立てる必要などないことである。僅か数年の隆盛の後、アレッサンドロの死没により零落していくチェ-ザレが哀れだという見方があるが、教皇が選挙で選ばれるという制度上、世襲など出来ないのだから、チェ-ザレの凋落は最初から分かっていたことなのだ。

「Los Borgia」に描かれたアレッサンドロ6世は、自分と家族のことしか考えないエゴイスティックで恥知らずなマイホ-ム・パパである。つまり、自分たちと同じ普通の人なのである。だからと言って、どうして彼を責めることが出来るだろうか。

近親相姦をしようが、売春婦を買おうが、愛人を囲おうが、息子に全国制覇を目指させようが、エゴイスティックで恥知らずなマイホ-ム・パパであろうが、我々とさして変わらないのだから我々にそれを責める資格はない。しかし、そういう人やその後継者を尊敬しろと言われても困るのである。まして、そういう人やその後継者が「神の代理人」であるとか、「統治者」であるとか、「精神的指導者」であるとどうして考えられるのだろうか、と思ってしまう。

つまりは、アレッサンドロ6世親子のような人々とは付き合わなければ良いだけの話であるが、彼らの「腐敗堕落」の結果、日本にキリスト教が伝播することになるのだから、皮肉な話である。そういう事情を考えると、キリスト教がその後「禁教・鎖国」と言う形で日本から締め出されたことは、当然の結果だったのではとも思える。

しかし、一時は隆盛を迎えやがては衰退していったその時代の日本のキリスト教信者はまさかそんな事情があったなどとは、思いもしなかったのではないだろうか。そこが何だか哀れである。その哀れさは、コロナの渦中に「ぼったくり男爵」たちからオリンピックを押し付けられようとしている国民の姿と重なるように感じるのは私だけだろうか。(そう言えば、「ぼったくり男爵」たちは見た限りでは皆、白人だ。)

あの時代は、為政者が決然と外敵を駆逐したが、現在の為政者は自己の政権の延命のために外敵と結託して国民をより大きなリスクにさらそうとしているように見える。尤も、「禁教・鎖国」も自家の政権の長期化・世襲化の為だったという見方もできる。要するに、外敵も為政者も身勝手であることに今も昔も変わらないのだが、それにしても我慢強い国民である。だから外敵にも為政者にも舐められるのだろう。

3.この小説「Los Borgia」は、作者マリオ・プーゾが晩年の15年以上をかけて練り上げた力作であるということである。柔軟で深い洞察の上に築かれた物語は自然で分かり易く、思わず引き込まれる魅力がある。私はこれから何度も読み返して、その魅力の源を掴み味わってみるつもりである。


巻頭に掲げられたフョードル・ドストエフスキーの言葉(『カラマ-ゾフの兄弟』より)を記しておこう。


私を下劣で卑しいままにさせ賜え
けれども、神を包む聖骸布に接吻することを許し賜え
神よ、たとえ悪魔に従う身であろうと、私をあなたの子であり続けさせ賜え
私はあなたを愛し、それなしにはこの世は存在し得ないような幸せを感じているのだから


以上






















# by GFauree | 2021-05-24 12:43 | ロ-マ教皇 | Comments(0)  

爛熟のローマ教皇

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家人から要求されて渋々本棚を整理した。すると、持っていることも忘れていた本が出てきた。マリオン・ジョンソン著 海保真夫訳 ボルジア家 悪徳と策謀の一族(中公文庫)である。大航海時代の代表的なロ-マ教皇の一人、アレッサンドロ6世(在位1492~1503年)と彼を生んだスペインの一族ボルジア家の話である。
 
BOOK-OFFの¥105のシールが貼ってあるからBOOK-OFFの古本を買ったらしい。いつどこで買ったのか、まるで記憶がない。本の一番後ろの方に、父の墓の位置が鉛筆でメモしてある。13年前、所用で一時帰国した間に、五日市線武蔵益戸駅近くのカトリック墓地に墓参りした時持っていたのだろう。その頃の自分の頼りないような気分が頭に蘇って来る。

それから、5年前イエズス会第三代総会長フランシスコ・ボルハに関する記事を書くために拾い読みをしたが、内容は殆ど覚えていない。

ところが、今回読み直してみたら、自分がもっと若かった頃に知るべきだったことがしっかり書かれてあるのだ。思いがけず拾い物をした嬉しい気持ちがするが、もっと若い頃に読んでいればと悔いる気持ちにもなる。しかし、若い頃に読んでも、きっと意味が分からなかっただろうから仕方がない。年取ればいいこともあるのだ。「老害」などと言われても、怒ったり嘆いたりする必要はないのだ。若い時から、目立つことだけを生きがいにしてきた爺さんたちには、こういう楽しみは分からないないだろうな。


さて、この本にはどんなことが書かれてあるのか。


〈ボルジア家はスペインの一族〉
アレッサンドロ6世については、彼を生んだボルジア家がスペイン・アラゴン国の一族であることが何か特殊なことであるかのように語られることが多い。それは、現代でこそ、ロ-マ教皇の出身国は、ヨハネ・パウロ2世(在位1978~2005)はポーランド、ベネディクト16世(在位2005~2013)はドイツ、フランシスコ(2013~)はアルゼンチンと多様だが、歴史的には殆どの教皇がイタリア出身であるためだ。また、スペインとイタリアは距離的に遠い印象があるが、ボルジア家の出身地ハティバに近いバレンシアとイタリア・ローマはともに地中海に面しており、そういう意味では同じ海を挟んだ隣国同士と言えなくもない位置にあるのだ。


〈その時期のカトリック教会の情勢〉
14世紀初頭、フランス王がロ-マ教皇を南仏のアヴィニョンに連行し、自己の勢力下に置く。これが、“教皇のバビロン捕囚”(1309~1377年)である。さらに、1378年フランス軍に守られた枢機卿たちは教皇ウルバヌス6世の選出を無効と宣言、代わりにクレメンス7世を教皇に指名し、アヴィニョンに連行した。これが、1414年まで続く”大分裂(シスマ)”である。

(”教皇のバビロン捕囚”も”大分裂”も、確か高校の世界史の教科書に出ていた。あれで、ロ-マ教皇の性格や実情を理解すべきところだったのだ。遅くなったが、やっと今頃になって意味が分かり嬉しい。

それと、前回の記事に、1614年徳川禁教令発布による宣教師追放のさなかの長崎でイエズス会と托鉢修道会が起こしたキリシタン教会の内輪もめについて書いたが、それを”長崎シスマ(分裂)”と呼ぶのは、この”大分裂(シスマ)”になぞらえてのことなのだ。)

とにかく、ロ-マ教皇の地位にフランス国王権力が介入し、カトリック教会の中心としての教皇もローマもその地位を脅かされていたというところが肝心である。


〈ボルジア家勃興の経緯〉
その”大分裂”が始まった年1378年に生まれたのがアロンソ・デ・ボルハ、後の教皇カリストゥス3世(在位1455~1458年)であり、アレッサンドロ6世の叔父である。アロンソは教会法に通じた法律家となるべく勉学・経験を積み、1408年30歳のとき司教区の査定人および執行官となり、3年後に僧会議員に任命された。このとき下級聖職者の資格を授与されたらしいが、司祭に叙品されたのはその18年後である。つまり彼は、別に聖職者を目指したのではなく、教会の組織を骨格とする社会の中で実務家として出世し、結果として聖職者の地位を得た。つまり、信仰に篤いがゆえに聖職者になりたくてなったのではなく行きがかり上なってしまったということのようだ。

先に述べた”大分裂”において、スペインはフランス・アヴィニョン派であり、1394年に選出されたアヴィニョン派の教皇ベネディクト13世がアロンソ・デ・ボルハを取り立てた。さらに、1417年、アラゴン国王アルフォンソ5世の近臣のひとりとなったことが、アロンソに教皇座への道を開き、やがては彼の甥であるロドリゴをアレッサンドロ6世として教皇の地位に就かせることになるのである。つまり、教皇の地位まで上り詰めるためには、国王とのコネクションが必要だったということである。


〈ロ-マ教皇は領地を有する君主〉
ロ-マ教皇と言えば、「神の代理人」と称されるカトリック教会全体の首長であるが、この「神の代理人」は、教皇領という領地を持つ世俗君主の一人であった。その領地は、長靴を履いた脚(イタリア全土)の太腿部分の約半分を占める広大なものであったから、「神の代理人」は当然のこととして軍隊を持ち、領地の維持・拡大を図る必要があった。

また、「神の代理人」は、ミラノ、ヴェネチア、フィレンツェ、ナポリなどの都市国家や、またイタリア進出を狙うフランス・スペイン等の外国勢力と常にしのぎを削っていた。加えて、「カトリック教会の首長」としては、1453年東ロ-マ帝国の首都コンスタンチノ-プルを陥落させたトルコ軍に反撃すべく、十字軍の旗の下ヨ-ロッパ諸国を糾合する立場にあったわけだが、諸国王たちはこの一世俗君主の言いなりになるほどお人好しでも間抜けでもなかった。(コンスタンチノープル陥落も、世界史の教科書に出ていた。こういう意味で、重要で画期的な事件だったのだ、ということがやっと分かってまた喜ぶ。)


〈教皇アレッサンドロ6世(ロドリゴ・ボルジア)の行状〉
「ロドリゴは自分をルネッサンス君主の一人と考え、それにふさわしい奢侈と放縦に耽溺し、それを支えるためにいかがわしい汚職行為も辞さなかった。」
未亡人であった従妹(いとこ)の女性を有力なオルシニ家へ嫁がせ、彼女の継子(ままこ)となった青年にジュリア・ファルネ-ゼという14歳の少女を嫁がせ、その女性に父親の如く接するうちに彼女を情婦としてしまうということまでしている。


〈ネポティズム(縁者重用)〉
カリストゥス3世は、甥であるロドリゴとルイス・フアン・デ・ミラを彼らが25歳前後のときに、枢機卿に取り立て、もう一人の甥を教会軍総司令官に任命し着々と側近を近親者で固めていった。今では、枢機卿と言えば老人というのが普通だが、この時代のカトリック教会では大卒の新入社員を親戚だからという理由でいきなり重役にしてしまうようなことが平気で行われていたのだ。気の毒なのは、永年「神の道」に仕えてきた報われない聖職者たちである。

アレッサンドロ6世は、息子のチェ-ザレを6歳で聖職者とし、17歳で枢機卿とした他、その治世の間に5人のボルジアを枢機卿に任命した。権力者が、出来るだけ身内の者を引き上げ、妙味を与えて周囲を固めるということは、現代日本ではよく見られることだが、そんなことはローマ教皇の周辺では日常茶飯事だったようだ。


〈教皇の子供たち〉
枢機卿時代のロドリゴ(アレッサンドロ6世)と高級娼婦との関係は世間周知のことであり、彼は先ず母親が誰であるか不明な子供を3人持った。その後、弁護士の妻であるヴァノッツア・デイ・カタネイという情婦との間に、チェ-ザレ、ルクレツィアを含む5人の子供を設け、さらに教皇就位後、2人の子供を持った。従って、知られているだけで10人の子供がいたことになる。たいへん忙しい働き者であったのだ。(以前の記事には9人と書いたが、ここでは本書に従って10人とする。)

チェ-ザレはマキャヴェッリが『君主論』のなかで理想の君主としている人物だが、この本ではどうも父親の影で線が細く、その父親アレッサンドロ6世が死ぬと途端に勢力を失ったようである。(親の七光りを笠に着る輩は、それがなくなると途端に意気地がなくなる、ということの実例か。)それに反して、教皇の政略のためにさんざん利用され5回の婚約・結婚を繰り返し、若くて魅力的な貴公子であった夫の一人をチェ-ザレに殺されるという悲惨な目にもあっているルクレツィアの方は、フェラ-ラ公国相続人アルフォンソ・デステの妻として充実した日々を送ったとされている。(美しい人であったようだから、そうあって欲しいところだ。)


〈教皇の曾孫(ひまご)〉
イエズス会第3代総会長フランシスコ・ボルハは、アレッサンドロ6世とヴァノッツア・デイ・カタネイの5人の子供のうちの2番目の息子ホアンの孫である。(ボルジアはスペイン語ではBorja、スペイン語読みではボルハである。フランシスコ・ボルハについては、既に述べたように記事に書いたことがあるのでご参照頂きたい。



幼少時からスペイン宮廷に仕えたが、1546年妻に死別し、イグナチウス・デ・ロヨラの強い招請により1550年イエズス会へ入会。1565年から死去する1572年まで、総会長を務める。

(フランシスコは死の直前、次期教皇候補として名を挙げられた。教皇の装束が白であるのに対し、イエズス会総会長は常に黒の司祭服を着ていることから、Black Pope(影の教皇)と呼ばれており、その呼び名には「イエズス会総会長こそ、陰のそして真の教皇だ」という意味が込められている。だから、フランシスコは黒・白両色の装束を着た真の教皇になる可能性があったことになる。)

南米における布教活動に関し他修道会に遅れを取っていたイエズス会が、1565年スペイン国王から活動許可を得て、1570年前後から多数の会士を派遣できるようになったことは、フランシスコ・ボルハの宮廷への影響力が遺憾なく発揮されたことの結果と考えられる。フランシスコを強力に招請したイグナティウスの作戦が奏功したのである。

この多数の会士が、ボリビア・パラグアイ・アルゼンチン・ブラジルにまたがる「イエズス会国家」とも称される広大な教化村の村落群を形成して行く。イエズス会は、ザビエル渡航以来、前代未聞の大成功を収めたあげくに日本から禁教・鎖国によって追放されてしまったのだが、今度は南米に壮大な拠点を構築したことになる。「イエズス会国家」はやがてスペイン国王権力への反抗を疑われるほどの勢力に成長し、それが18世紀末のイエズス会追放・解散へと繋がって行く。

フランシスコ・ボルハは死後1624年に福者とされ、1671年に聖人とされているので、ペル-のリマ市にはサン(聖)・ボルハ区という閑静な高級住宅地がある。が、サン・ボルハが教皇の曾孫(ひまご)であるとは、誰も言わない。教皇に女性関係があるはずがないのだから、曾孫(ひまご)がいては困るのだろう。


〈世界分割を承認した教皇〉
15世紀初めからの大航海時代、スペインとポルトガルの間で新発見地の帰属をめぐって論争が行われるようになり、再三にわたってロ-マ教皇が介入し勅書が発布された。特にコロンブスの第一回航海後の論争は激しく、ロ-マ教皇は両国の求めに応じて両国間での地球分割を1493年の「大勅書」によって定め、また翌年両国間で締結されたトルデシリャス条約を承認した。この規定と承認を行った教皇が、アレッサンドロ6世である。

イベリア両国間で世界を分割するとは、いかにも大航海時代らしい発想であるが、それでも現代の我々の目からみれば、幼稚で乱暴な考えであることは間違いない。一体教皇はどんな考えで、そんな規定や承認をしたのか、この本に何か書いてあるのではと期待した。書いてあることは僅かであるが、一応納得できる内容である。

「『統一牧者』として、その際に、アレッサンドロが発した勅書は、祖国スペインに著しく有利であったが、同時に新大陸に関して法王庁にも発言権があることを明確に主張した。」

これを解釈すると、「教皇には両国間で世界を分割しようとすることが身勝手だとは露ほども考えられなかった。ただ、祖国スペインの利権を擁護し、『カトリック教会の首長』としての自己の立場を主張することだけはしっかり行った」ということだから、拍子抜けさせられるし何だか笑える。


【思うこと】

1.アレッサンドロ6世は家康に似ている
この本に描かれている教皇の強欲や私物化、権謀術数や権力闘争はたぶん事実だろう。性的無節操もおそらく本当のことだ。そんなことだろうとは思っていても、ここまで露わにされるとさすがに呑み込みにくい。どう考えれば、事実として受け容れることができるだろうか。それには、「教皇が教皇領というイタリア全土の数分の一に相当する広大な領地を有する世俗君主の一人であった」ことをはっきりと意識することである。

現在でも、教皇をめぐる歴史が語られるときに使われるトリックがある。それは、「使徒ペトロから与えられた権威が、現在のバチカン市国の元首である教皇に引き継がれている。」という言い方である。途中の、教皇が自己の領土の維持拡大のために飽くなき闘争を繰り広げていた歴史を切り捨てて語るのだ。(隠蔽しようという意図があるのかも知れない。)

当時のイタリア国内の状況は、日本の戦国時代に似ている。ロ-マ教皇は有力な領主の一人だから、さしずめ家康である。そう言えば、アレッサンドロ6世の肖像画は、家康のそれと似ている。

家康が好色であったことは誰でもが認めるところだ。だから、アレッサンドロが好色であっても驚くにはあたらないし、非難する必要はない。事実は事実として認めることが肝心だ。二人とも、こうして作った沢山の子供たちを自分の勢力の維持・拡大(政略)のために情け容赦なく有効に活用した。両者とも、それが一族のためになる以上本人のためにもなる良きことだという確信に満ちていたようだ。

家康もアレッサンドロも当然のこととして、縁者を重用した。家康などは秀忠・家光どころか260年にわたり将軍の地位を一族で世襲させたのだから大したものである。両者が、法外な規模で私腹を肥やしていたことも共通している。

家康は死後、東照宮にまつられ神になったが、アレッサンドロ6世は生きているうちから「神の代理人」であった。どちらも、「神」または「神に近いものとして」拝(おが)まれ、崇(あが)められたことに変わりはない。「神」としては、二人とも悪名高き日頃の行いを恥じてもおかしくないが、その形跡はない。権力者とは、そういうものらしい。

だから、教皇が好色であろうと、縁者を重用しようと、私腹を肥やそうと非難する必要はないのである。ただ、事実を良く知り、冷静な頭でよく考え、そういう教皇が「カトリック教会の首長」、「神の代理人」と呼ばれるのにふさわしい存在であるかどうかを考えることが必要なだけのことである。

もし二人が似ている、などと言ったら「自分はそんな邪悪な人間ではない。」と両方が怒りそうである。


2.キリシタン時代も多くの賢明な日本人は騙されなかった
この本に書いてあるような歴史的事実を認めない人は、日本にも海外にも少なくない。
現代ですらそうなのだから、四百年以上前の大航海時代、キリシタン時代には、ローマ教皇について日本人が事実を知り得ないことをこれ幸いに、さぞかし堂々と奇麗ごとが説明されていたであろうと思うとその時代の信者が哀れである。

けれども、その時代の日本人の多くは来日する宣教師の言葉を鵜呑みにするほどおめでたくはなかった。自分の故国で食えなくなったために遠い国まで来て布教をしているのではと考える人々が多いことは彼ら宣教師たちをかなり悩ませたと言われている。そういう話は、日本人の疑り深さ、猜疑心の強さを表わす例えとして語られることが多いが、カトリック教会が海外布教に力を注ぐようになった要因は宗教改革による地盤沈下にあったのだから、多くの日本人の疑念は当たっていたのである。

逆に、織田信長は波濤を越えて渡来するヨーロッパ人宣教師たちの動機の純粋さに感心したと言われている。それが、信長の素直さや先進性を示すものとして賞賛する意味で語られているようだ。しかし、そんな浅薄さが彼を「本能寺」で高転びさせる隙を作ったのではと、偶々最近大河ドラマの最終回を見ていて思った。信長に比べると、秀吉はイエズス会やヨーロッパ人宣教師の性格をよく見抜いていたと私は考えている。




3.やっと洗脳が解けてきたのか
最近の記事に書いているように、私はこの1~2年の間に、キリシタン時代史に対する考え方がだいぶ変わってきた。子供時代に影響を受けたカトリック教会に対して自分なりの見方を持とうとして、50歳の頃から始めたこの「歴史探索」のお陰で、幼少時の環境によってなされた洗脳が70歳を超えてやっと薄皮がはがれるように解けてきたようだ。宗教による洗脳というのは、それほど根深いものであり数年ばかり心理療法を施したぐらいで解けるものではないということの証かも知れない。でも、とにかく命のあるうちに解放されたのだから良かった、としておこう。



【結論】 熟れ過ぎて腐りかけ、爛れ崩れていった

さて、この時期のロ-マ教皇については、一般的に腐敗堕落・権謀術数・縁者重用(ネポティズム)などの熟語で表現されることが多い。中でも、アレッサンドロ6世に関しては、それらに加え、実子であるチェ-ザレやルクレツィアの存在もあってか、よく「優雅なる」とか「華麗なる」という言われ方がされるようだ。しかし、私はこの教皇についてそんな形容をするのは奇麗ごとに過ぎると感じる。むしろ、「爛熟」(らんじゅく)という言葉が浮かんでくる。「爛熟」とは、果実などが熟れ過ぎて腐りかけ、爛れ(ただれ)崩れていく様である。

この腐敗堕落は五百年以上昔のことだから、我々はなかなか現実感を持ちにくい。しかし、幸いに日本では最近、為政者が保身のため公開の場で百回以上も虚偽の発言をしたのに咎められることがなく復権を狙い、また次の為政者の近親者に官僚が群がったことが明るみに出たりしている。またロ-マでも長く隠蔽されていた聖職者の性的虐待が露呈してきた。権力・権威の不正というものにまた焦点が当たっているのだ。そういう意味で、ちょうど今こそこの本は分かりやすく読みごろであるようだ。


以上

# by GFauree | 2021-02-22 04:02 | ロ-マ教皇 | Comments(0)  

歴史のヴィジョンで遊ぶ

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前回の記事では、2018年に刊行されたキリシタン時代史に関係する2冊の中公新書のうち、
平川 新著 戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略 を取り上げたが、今回はもう1冊の 
佐藤 彰一著 宣教のヨ-ロッパ 大航海時代のイエズス会と托鉢修道会 を取り上げる。


大航海時代カトリック修道会が抱えていた諸問題
大航海時代のカトリック修道会の海外宣教は様々な問題を抱えていた。
まず、その時代のキリスト教布教は、ポルトガル・スペインというイベリア両国家とカトリック教会が教俗一体の体制で進める世界征服事業の一環として行われたものであり、教会側の活動は教皇の要請を受けた各修道会が担うことになっていた。従って、各修道会にとって国家権力との連携が重要なものとなったこと。
次に海外布教活動において、修道会の間に競合関係が生じたこと。特に、この時代に誕生した「鬼っ子」イエズス会とフランシスコ会・ドミニコ会等托鉢修道会との間には終始強い緊張関係があったこと。さらに、布教地において改宗事業が進めば新たに生まれた教区は教皇が指名する司教に引き渡すことになっていたが、引き渡しに抵抗する修道会司祭と教区司祭の間に摩擦が生じたこと。また、その摩擦は修道会上長と教区司教の対立に発展し、そこに教皇の影響力を極力排除しようとする王権の圧力も加わり問題は複雑化した。

修道会間の競合・対立抗争
布教地の一つである日本でも、イエズス会と托鉢修道会の間には競合・対立抗争があった。

「慢心は諸悪の根元、謙遜は諸善の基礎であるから謙遜を専らとせよと、人には勧めるけれども、生まれつきの国の風習なのであろうか、彼ら(伴天連:バテレン)の高慢は天魔も及ぶことができない。この高慢のため他の門派の伴天連と勢力争いをして喧嘩口論に及ぶことは、俗人そこのけのありさまであって、見苦しいことはご推察のほかだとお考え下さい。・・・」
(海老沢有道訳『南蛮興廃記・・・破堤宇子』)

これは、1608年イエズス会を離脱し、かつ棄教した日本人修道士不干斎ファビアンが、後に著した反キリシタン書『破堤宇子』の中の一文である。

カトリック諸修道会は上述の事情から世界各地の布教地で対立・抗争を繰り広げていたのであって、これは日本だけの事態ではないが、日本の場合はザビエル渡日から「鎖国完成」までの90年間終始イエズス会が主導権を握り他の修道会を排除し、布教が未曾有の成功を遂げていただけに参入を目指す他修道会からの働きかけも並々ならぬものがあったようだ。考えてみれば、日本ほどの文化的生活水準を有する布教地など世界中どこを探してもないのだから、もともと信者獲得のプロである各修道会の宣教師にとって垂涎の的となったとしてもおかしくはない。また、そこにマカオからのポルトガル船貿易という妙味を提供すれば、30万~50万人の信者を獲得したとしても不思議ではなかったのである。おまけに、自己宣伝に長けたイエズス会は天正少年使節派遣を挙行し、ヨ-ロッパに対し実績を誇示するとともに支援を要請、またそれが成功したのだから堪らない。それが托鉢修道会を刺激し、更なる羨望と反発を抱かせるに至ったのも当然のことだ。


長崎教会分裂(シスマ)
日本での修道会間の対立抗争の頂点が、長崎教会分裂(シスマ)」と呼ばれる事態である。
長崎“教会分裂(シスマ)”とは、以下のような事態である。
以前に書いた棄教者トマス・アラキに関する記事から該当部分を拾ってみた。


長崎外町の小教区と村山等安
1610年頃から、ドミニコ会、フランシスコ会、アウグスチノ会が長崎に常駐するようになり、長崎はイエズス会を含む四修道会の日本布教本部の所在地となった。
1614年2月、長崎に駐在していた2代目司教であるルイス・セルケイラ(イエズス会士)が死去した。その時点で、長崎には四つの小教区が設けられ、教区司祭は七人いた。そして、四つの小教区教会のうち、少なくとも三つは外町に在ったことが分っている。

その外町を統治していたのが、ドミニコ会士の長崎進出を支援しイエズス会と敵対することになる代官 村山等安である。彼の息子フランシスコ・アントニオ・村山は、小教区主任司祭の一人であり、等安は小教区教会の建築費や維持費を負担するなどもしていた。

イエズス会にとって、長崎の外町が他の修道会に侵蝕され、小教区主任司祭たちが概ね他修道会に与するようになってきたことは憂慮すべき事態であり、その趨勢の陰には村山等安の影響力が認められたことは言うまでもない。


二人の司教総代理が並び立つ異常事態
司教セルケイラの死亡の同月、七人の教区司祭は次の司教が着任するまでの司教総代理として、イエズス会管区長ヴァレンティン・カルヴァ-リョを選出した。
ところが、同年10月フランシスコ会遣外管区長ディエゴ・チンチョがカルヴァ-リョを総代理に選出した選挙は無効であるとして、適切な善後措置をとるよう要求した。そこで、同月、教区司祭たちは、総代理カルヴァ-リョを罷免したが、罷免に同意したのは五人である。これによって、教区司祭は、スペイン系托鉢修道会に同調する五人とポルトガル系イエズス会に与する二人の二派に分かれたことになる。

教区司祭たちは、イエズス会のカルヴァ-リョに代わり、フランシスコ会のペドロ・バウティスタを司教総代理に選出したから、ここに府内(実質は長崎)司教区の司教総代理として、二人の人物が並び立つという異常事態が生じたことになる。これが、長崎“教会分裂(シスマ)”である。


禁教令で壊滅的な打撃を受けたはずのこの時期に
1614年10月と言えば、キリシタン教会に壊滅的打撃を与えたとされている前年1月の全国的禁教令を受けて、多くの宣教師や高山右近などの主だったキリスト教徒がマカオやマニラに追放される僅か1カ月前である。危機に瀕していた筈のこの時期に、キリシタン教会内部ではこのような紛争が進行していたのである。

カルヴァ-リョとチンチョは1614年11月に、バウティスタも1616年に、日本から退去し、村山等安も宿敵末次平蔵との抗争に敗れて失脚し、1619年に処刑された。“教会分裂”は、こうしてあっけなく消滅したが、その紛争が信者や聖職者に「相互の不信感」という修復困難な傷を与えたことは確かである。

長崎教会分裂(シスマ)は、大航海時代の諸修道会の動向を示す典型的な事象であり、本書を読んでその背景となる諸修道会の歴史や考え方の違いなどがもっと分かればと期待したのだが、なぜかこの本では一言も触れられていない。まさか、著者がカトリック教会や修道会に、今はやりの忖度をしたということではないだろうと思うが。


「宣教のヨ-ロッパ」の内容について
それでは、この本にはどんなことが書かれているのか。

この本の内容は、まずドイツ・フランス・イギリスの宗教改革。
次に、カトリック側の改革とトレント宗教会議。
イエズス会の誕生と托鉢修道会の動き。
イエズス会のアジア進出と新大陸での宣教。
ここまでに、全体230ペ-ジのうち160ページが割かれていて、残り50ペ-ジはイエズス会の日本宣教、20ペ-ジは慶長遣欧使節支倉常長一行のメキシコ訪問を記録したことで知られるフランシスコ会の歴史家チマルパインを通して、キリスト教徒にとっての西洋・東洋を霊的に連結する世界一周の成就が語られている。

大航海時代のカトリック側の世界布教やイエズス会の誕生、日本での宣教の背景として、宗教改革・カトリック改革・対抗宗教改革があったことは意識してはいても、じっくり見直したことがなかったので、今回良い機会になったと思う。しかし、イエズス会が動いていたと托鉢修道会が批判している岡本大八事件や大村喜前棄教について言及していながら殆どイエズス会の介入について触れていないのはなぜなのか、理解に苦しむ。日本宣教に割かれたスペ-スが僅か50ペ-ジであれば、そんな余裕はなかったということなのか。そう言えば、有名な「二十六聖人殉教事件」に関する、「ポルトガルの庇護を受けていたイエズス会士には、累が及ぶことはなかった。」(p.208)という記述は誤りである。実際は処刑されたイエズス会関係者は3名いる。(確かに、少ないが。)

よく議論にのぼる大航海時代の宣教師による中国征服の提言が、それ以前の近東やモンゴル帝国に対するフランシスコ会やドミニコ会など托鉢修道会の活動に基くものであったとの指摘は貴重である。また、新大陸の「発見」はアジアへ進出したいという望みによって導かれたものであり、「アジア進出の夢」に導かれた「新大陸の発見」によって未完の十字軍遠征が成就されたことになるという、ヴィジョンは面白い。チマルパインを通じて体現された霊的世界一周の成就のヴィジョンなども含め、著者は本書によって歴史のヴィジョンを展開することを奔放に楽しもうとされているようだ。確かに、それも歴史探索の楽しみ方の一つになり得るとは思う。ただ、個人的には、問題とする事象を追求する中で時間的・空間的に探究する範囲を広げ深めていく方が私の趣味に合っているようだ。そうでないと、昔の「キリシタン時代史」のように、知識のための知識になってしまうような気がするのだ。

修道会の違いについて
大航海時代、イエズス会士はマカオ・長崎間のポルトガル船貿易に積極的に関与し、その収益で活動費用を賄い、絹の司祭服を身にまとい、幕府要人や有力大名や京都の知識人たちと深い親交を持ったというイメ-ジがある。一方、フランシスコ会士は、裸足に木綿の修道士服を着て、貧民街をめぐりハンセン病院を建てて奉仕に尽力した、というイメ-ジである。そして、やや不思議なことに、このイメ-ジは現代の日本にも存続している。

戦後の日本社会で著名になったポーランド人フランシスコ会士が少なくとも二人いる。一人は、日本での宣教活動後、故国に還り、ナチス・ドイツの強制収容所に収監され、進んで他の囚人の身代わりとなり殺害された神父マキシミリアノ・マリア・コルベ。もう一人は、長崎で被爆した後、東京・浅草のバタ屋(廃品回収業者)街の支援活動に尽くした修道士ゼノ・ゼブロフスキ-である。どちらも、弱者救済に身を捧げた生き方が多くの日本人に感動を与え、記憶されてきた人たちである。それに対して、戦後日本の言論界で岩波文化人として名の知れたイエズス会士は複数思い浮かぶが、社会福祉活動に活躍したイエズス会士というのは、寡聞にして知らない。

このようなことは、今私の住んでいる国でも同じで、首都リマの旧市街の中心にイエズス会もフランシスコ会も主なる聖堂を有しているが、一方は瀟洒、一方は庶民的である。そして、このイメ-ジ格差のようなことは、ある程度そういうことに意識のある人の間では常識的なことらしい。

だからと言って、私は弱者の味方を標榜したフランシスコ会やドミニコ会が日本への布教にもっと参入していれば良かった、などと思っているわけではない。その理由は、ペル-だけでなく過去主に托鉢修道会によって布教が進められ、現在カトリックを国教とする南米の国全体の歴史と現状を見れば分かって頂けるだろうと思う。


以上




# by GFauree | 2021-01-24 14:07 | 大航海時代 | Comments(0)  

キリシタン時代の外交政策


約1年前、去年の11月ごろ、キリシタン時代史について何か読む本はないかと探していると、良さそうなものが見付かった。
以下2冊である。

(Ⅰ)平川 新著  戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略
(Ⅱ)佐藤 彰一著 宣教のヨ-ロッパ 大航海時代のイエズス会と托鉢修道会

キリシタン時代史を観るポイントの一つは、「ポルトガル・スペインという国家とローマ・カトリック教会とが一体となって進めた世界征服事業の一環としてのキリスト教布教の動きを、その時代の日本の政権がどう捉え、どのような外交が展開されようとしたのか」、ということである。

また、「キリシタン史は、イエズス会をはじめとするカトリック教会の諸修道会による日本布教の歴史である」(高瀬弘一郎「キリシタンの世紀」)ことを考えると、もう一つの重要なポイントは「諸修道会はどのような背景のもとで、どのように活動したのか」という点である。

つまり、上記(Ⅰ)・(Ⅱ)はキリシタン史を観るうえでポイントなる事項に答える内容のものであり、どちらも2018年に中公新書として刊行されていた。中公新書であるということは、私にとって重要である。それは、小さくかつ重くないので寝転がって読めるからである。直ちに入手したが、コロナ禍の中で、他の本に目が行っているうちに、あっという間に1年が過ぎた。


キリシタン時代の外交政策_a0326062_00521786.jpg


































それが最近、上記2冊のうち(Ⅰ)について、武田鉄也さんがyoutubeで取り上げているのを、見つけた。
( https://www.youtube.com/watch?v=XY-IzCGXrOc )

「従来の歴史観を全く変えてしまうような新発見だ。」と強調されているので、それじゃあ(Ⅰ)を直ぐ読まなければという気になった。しかし、youtubeで言われていることをもう一度よく注意して聞いてみると、新発見というのは、(Ⅰ)の本の内容ではなく最近NHKがスペイン・ポルトガル側から入手した資料のことのようだ。

私は、最近NHKが従来の歴史観を覆すような資料をポルトガルまたはスペインから直接入手したというような話は聞いたことがない。もしそんな大発見に値するような資料を入手したのであれば、NHKは自分たちの手柄として公表するはずだが、特に報道はなくその可能性は薄いと思った。

実際、(Ⅰ)の本の内容として武田さんが紹介している事項は、もう何十年も前に、岡本良知・村松剛・高瀬弘一郎などによって指摘されている事柄なのである。「事実を知ることによって従来の歴史観を見直すべきだ」との考えは間違ってはいないと思うし、こういうことに世の中が、特に若い方が注目されることは大事なことだと思う。しかし、世間の注意を引くために過度に誇張した表現がなされ、言いたいことの趣旨も理解されないとしたら、残念なことである。それとも、youtubeでは表現のされ方などは問題するに値しない些細なことなのだろうか。


それはさておき、乗り掛かった舟なので、(Ⅰ)を読んでみた。案の定、少なくとも(Ⅰ)の本の中には、新発見は書かれていなかった。


しかし、内容は期待した以上に興味深くまた意義もあると思われるものだったので、以下にご紹介したいと思う。



キリシタン時代の外交政策_a0326062_01361120.png


この本に書かれた「キリシタン時代の外交政策」を理解するためには、前回の記事で使用した地図を見るとわかりやすいと思うので、もう一度使わせて頂く。

まず、ポルトガルの居留地であったマカオ(Macau)とスペインの植民地であったマニラ(Manila)の位置を確認して頂きたい。

マカオと長崎を結ぶ青線の途中にある島が台湾である。その台湾の北の東シナ海沿岸が少し凹んでいる所が、秀吉が明国征服後に居所としようとしたと言われる寧波(ニンポ-)である。

寧波とマカオ・マニラとは三角形をなしていて、秀吉はどうやら寧波から、ポルトガル・スペイン両国の拠点を監視しようとしていたようである。

マニラから北東(日本)の方向に延びる白線が、メキシコに向かう航路である。これが、日本の太平洋岸をかすめることから、スペインは日本をマニラ・アカプルコ間の長期航海の中継補給地としたかったし、家康は江戸に近い浦賀を、政宗は仙台を長崎に代わる貿易港とすることを企てた。


1.秀吉の外交政策

秀吉の「明国征服構想」とイエズス会の関わりは、村松剛をはじめ複数の歴史家が既に指摘していることだが、本書では日本準管区長ガスパル・コエリョと秀吉の交渉がより整理されて明確に説明されている。ただ、伴天連追放令発布の機会に命じた「日本人奴隷売買禁止」の命令については、このブログでも採りあげた内容の域を出ていない。



マニラに対する強硬(脅迫?)外交については、マニラから派遣されたドミニコ会司祭フアン・コーボにペル-出身の商人フアン・デ・ソリスが随行したという話の中で知ってはいた。



が、迂闊なことにそれが朝鮮侵攻に連動していることには気が付かなかった。マニラのスペイン総督府は、メキシコから遠隔地にありスペイン人植民者の人数も少なく脆弱な体制であることを秀吉は見透かしていたのだろうとだけ考えていたのだ。


2.家康の外交政策

主に、1609年房総半島に漂着した前フィリピン臨時総督ロドリゴ・ビベロと、1611年常陸国に漂着したメキシコ副王使者セバスチャン・ビスカイノとの交渉が説明されていて目新しいことは特にない。仮に、家康が浦賀を拠点とするスペイン船貿易を強く望んでいたとしても、この時期には朱印船貿易が相当発展していたことや、長崎におけるポルトガル船貿易に対する貿易管理が厳格化されてきたことを見るとスペインの新たな参入はもともと困難だったのではないかと思うが、それらについては本書では言及されていない。


また、結局スペインの参入は実現しなかったわけだが、その理由として豊臣勢との決戦を控えていたこの時期、豊臣勢にキリシタン信徒が多いと考えられていた以上、カトリック国との国交は無理だったのでは思うが、その点も触れられていない。

3.政宗の外交政策

政宗の外交の主なものは、支倉常長を使節とする慶長遣欧使節派遣である。これについては、後年禁教・鎖国体制に追随した徹底的な記録抹消が行われたためか多くの疑問が残されてきた。
・家康はこの派遣を了解していたとされている。ところが、使節団の出発(1613年10月)の1年半前(1612年4月)に幕府直轄地に対する禁教令が発布されていたこと
・遣欧使節の真の目的はスペインとの軍事同盟締結であったとする説があること
・支倉常長帰還の直後に急遽政宗は領内に禁教を命じたこと
・幕府金銀山奉行大久保長安やその主家筋にあたる政宗の娘婿かつ家康の六男である忠輝との関わり
等々である。

それらの疑問に対し、本書は「布教特区」という考え方や、「戦国大名による外交」から「幕府による一元的外交」への変化という見方、政宗と家康・秀忠親子との特殊な関係などを挙げていて、それは納得的である。この著者は正統的な見方を重んじる人で歴史小説的な解釈は断固排除されているようである。

慶長遣欧使節について、いつも感じさせられるのは使節支倉常長の気の毒な立場だ。彼については、従来から犠牲者的に見られてきたようで、そういう見方で描かれた遠藤周作の小説「侍」についてこのブログでも取り上げたことがあるが、本書に書かれた内容からも同様の姿が浮かんできてしまう。



自分がスペイン語ができない以上、交渉事は全て勝手に振る舞うことが確実なフランシスコ会司祭ルイス・ソテロに頼らざるを得ないのだから、そのつらさは悲哀を超えている。何故、そんなに同情するかと言えば、私もサラリ-マン時代に似たような経験をしているからだ。支倉はおそらく日本に帰還後直ちに処刑されただろうと私は考える。私の場合は、プロジェクトの失敗が確定しても、殺されはしなかったが。


「なぜ日本は植民地にならなかったか」は、本書の結論である。その結論は営業妨害になるので、ここには書かない。
代わりに、私の考えを書く。それは、「キリスト教を排除したから」である。排除しなくても、「受け容れなかったから」、かもしれない。
そのくらい、キリスト教に限らず宗教というものは力のあるものだからである。それ本来の力ではなく、利用されやすいから、かもしれない。

内容に「新発見」は含まれていなくても、本書は興味深い、分かりやすく言えば面白い。「新発見」だの「大発見」だのという言葉に惑わされるのは、もうやめた方がいいなと思う。歴史に関して、正統的な学者風の人の中にも、そういう言葉で釣る人がいるので気を付けた方が良い。歴史について大事なことは、新発見とか大発見ではなく、人としての常識をもって自分で考えることだと私は思う。結局は、好みの問題かもしれないけれど。

以上

# by GFauree | 2021-01-01 13:24 | 大航海時代 | Comments(0)