【大航海時代のおと】

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日本から、南米から、ついには世界中からも追放された、がその40年後に・・・

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                                        (写真撮影 三上信一氏)




1.「鎖国の完成」は「日本からのイエズス会追放」だった


1637年から38年にかけて発生した「島原の乱」の後、改めて全国的なキリシタン穿鑿(せんさく)が行われ、潜伏していた外国人宣教師が日本国内から一掃された。

1549年のザビエル渡来以来、90年間にわたって日本で活動した外国人宣教師の大半は、イエズス会の聖職者たちである。そのイエズス会士たちは、およそ1世紀にわたる活動によって、宗教的なものは勿論のこと政治、経済、その他様々な面で日本社会に少なからぬ影響を与えながら、追放され姿を消していったことになる。


2.その頃、南米では


ちょうどその頃、南米パラグアイの南部(現在のパラグアイ・アルゼンチン、アルゼンチン・ブラジル間の国境が交差するあたり)の地域では、先住民(主にグアラニ族)の定住とキリスト教化を目指したイエズス会による村落「教化村」建設が盛んに進められていた。

約10万平方キロメ-トル(北海道と四国を合わせたほど)の広さを有するその地域に、最盛期には10万人以上の先住民人口を抱えた30の「教化村」が建設された。そして、イエズス会士と先住民グアラニ族によって高度な自治が展開されたこともあって、その「教化村」群は「イエズス会国家」と呼ばれるようになる。


3.スペイン領南米では遅れを取っていたイエズス会


1532年11月、ペル-のインカ帝国を征服したスペイン人フランシスコ・ピサロは、インカ皇帝アタワルパを監禁し、身代金として莫大な金銀を強奪した後、翌年7月人質であるインカ皇帝を殺害した。

この時、ピサロによってアタワルパの下に送られ、彼を監禁する口実作りをしたのが、ドミニコ会の司祭ビセンテ・デ・バルベルデであることは、よく知られている。つまり、もうこの段階から、ドミニコ会司祭はペル-の征服者と行動を共にし征服・掠奪の片棒を担いでいたのである。(ただ、この時代の先住民擁護運動の旗手として有名なバルトロメ・デ・ラスカサスもドミニコ会司祭であるから、所属する修道会によって司祭を色付けしようとしても、あまり意味はないようである。)

ところで、イエズス会という修道会組織自体がロ-マ教皇から認可を受けたのは、1540年になってからである。そして、その年、ポルトガル国王ジョアン3世がイエズス会の創設者イグナティウス・ロヨラに対し海外布教のための宣教師供出を要請した。つまり、その時点からイエズス会は、アフリカ・インド・東アジアへの布教活動についてはポルトガル国家の支援を得られることになったのである。
(その提携関係があったからこそ、フランシスコ・ザビエルは1541年インドへ旅立ち、その8年後日本へ渡来したのだった。)

一方、従来南米における布教活動についてスペイン国は、フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスチノ会、メルセス会の4修道会のみに限り、認可を与えていた。国王フェリペ2世によって、イエズス会に南米での布教活動の認可が与えられたのは、フランシスコ・ピサロによるペル-征服から30年以上後の、1565年になってからのことである。

そして、新興の修道会イエズス会がその特権的な認可を獲得するについては、その年、第三代総会長にフランシスコ・ボルハが就任していることが実に有効に作用したようなのである。


4.フランシスコ・ボルハについて


〈ボルハはロ-マ教皇の曾孫だった〉


フランシスコ・ボルハは、ポルトガルとスペインとで地球を二分割することを認める勅書を発したことで有名なロ-マ教皇アレクサンドル6世(在位1492年~1503年)の曾孫である。アレクサンドル6世には、六男三女計9人の子供がいたが、そのうち5番目の男子ホアンが、フランシスコ・ボルハの祖父となる。ちなみに、4番目の子が「ルネサンス王」として活躍し、マキアヴェリから理想の君主とされたチェ-ザレ・ボルジアである。


その時代の教皇については、例えば秀吉・家康のようなほぼ同時代の封建領主的権力者でかつ宗教的権威も有した存在であったと考えると納得できるような気もする。因みに、アレクサンドル6世の前任者インノケンティウス8世(在位1484年~1492年)には、数人の庶子(正式な妻以外から生まれた子)がいたし、後任者ユリウス2世(在位1503年~1513年)にも、フェリ-チェという名の認知された娘のほか、子供が何人かいたと言われている。


〈フランシスコ・ボルハという人物〉


さて、フランシスコ・ボルハは1510年に生まれ、12歳の時スペイン王(兼神聖ロ-マ皇帝)カルロス5世の妹カテリ-ナの小姓となって以来宮廷に仕え、国王カルロス1世の有力な側近となり宮廷内の実力者として認められていた。

妻のレオノ-ルの死から4年後の1550年、イエズス会に入会した。1561年ロ-マに行き、第二代総会長ディエゴ・ライネスの右腕となり、1565年から1572年に死去するまで第三代総会長を勤めた。

1671年「聖人」となっているから、きっと何か奇跡を行ったことになっている筈である。ペル-の首都リマ市には、サン・ボルハ区という名前の閑静な住宅地があるが、これは「聖フランシスコ・ボルハ」にちなんで名付けられたものだ。


〈フランシスコ・ボルハを取り立てたことの意義〉


フランシスコ・ボルハのイエズス会内での特権的な位置付けには、創立者イグナティウス・ロヨラの強力な後ろ盾があったと考えられている。1556年イグナティウスが死んだ後、フランシスコに対する敵意が会内で噴出し、ついに彼が異端審問所の監視下に置かれる事態に至ったことがそれを物語っていると言われているのである。

では、なぜ、イグナティウスは会内の不満や敵意を抑えてまで、フランシスコを取り立てたのか。

それは、創立後間もないイエズス会にとって、宮廷・王室との紐帯強化は言うまでもなく重要なことであり、また宮廷・王室の内情を熟知し影響力を持つ彼の存在は、会の活動の今後の展開上必須のものと考えられたからであろう。

実際に、フランシスコ・ボルハが総会長に就任するや、彼が有力な側近として仕えていたカルロス1世の息子である国王フェリペ2世から、おそらくは当時イエズス会にとって喫緊の課題であった南米布教への参入許可が狙い通り得られているのである。

そういう意味で、聖(サン)ボルハは、ペル-にとって現代に至ってもなお国教であり続けるカトリックの布教に貢献してくれた大恩人なのだから、リマ市の高級住宅地の一区を「サン・ボルハ」と名付けるくらいは当然のことなのかも知れない。



5.ペル-での活動開始


1565年、南米布教の活動に認可を得たイエズス会は、1568年に7名、1569年に30名の会士をペル-へ送った。同時期にペル-へ赴任した第5代副王フランシスコ・トレドは、ティティカカ湖畔のアイマラ族の村フリの教化をイエズス会に委託した。副王トレドがフリを直轄領とすることで、イエズス会の自由な行動を保証したこともあって、教化は成功した。また、後のパラグアイのグアラニ族教化村建設にあたっては、このフリの村落教化の経験が大いに生かされたようだ。

副王トレドには、本国宮廷での赴任準備期間中、イエズス会からの働きかけが当然あったであろうから、ここでも、フランシスコ・ボルハを会に取り込んだ戦略が、みごとに効果を発揮しているのである。

ただし、ペル-・イエズス会士の中には、スペインによる植民地支配そのものに疑問を呈して異端審問にかけられた者もいたということだから、副王とイエズス会が常に蜜月の関係を保っていたという訳でもなさそうである。


6.パラグアイ教化村の建設


パラグアイの教化村作りは1610年前後に開始され、1640年頃には、上記2.に述べたように、後に「イエズス会国家」と呼ばれるような村落群が形成されつつあったが、そこには以下のような克服すべき難問が常に横たわっていた。

・先住民グアラニ族を労働力・軍事力として利用しようとするスペイン人入植者との対立
・派遣される強硬なスペイン人監督官(コレヒド-ル)に対する住民の反発
・侵入するブラジルの奴隷狩り遠征隊(バンデイランテ)による住民の拉致
・司教ドン・ベルナルディノ・デ・カルデナス(フランシスコ会士)の妨害


7.グアラニ討伐


その後、パラグアイ教化村は、確固たる経済基盤を築きながら1世紀以上にわたって拡大・発展を遂げていくが、その進展は1750年にスペイン・ポルトガル間に結ばれたマドリ-ド条約によって水を差される。

マドリ-ド条約によって、教化村七ヵ村がスペインからポルトガルへ譲渡・引き渡されることとなり、これに抵抗するグアラニ族に対し、1754年と56年の2度にわたって両国連合軍による討伐が行われたのである。(「七ヵ村引き渡し」の経緯については9月30日付記事をご参照頂きたい。http://iwahanjiro.exblog.jp/23251800/


8.イエズス会の追放と解散、そして復興


1767年
、国王カルロス3世により、スペイン本国及び海外全領土からのイエズス会士追放が命じられた。
(ポルトガルからは1759年に、フランスからは1762年に、イエズス会は既に追放されていた。)

教化村にいたイエズス会士は全員逮捕され、ブエノスアイレスへ護送され、ヨ-ロッパへ送られた。このとき、村には約9万人の村人がいたが、その後徐々に村を離れてゆき、人口減少は年を追うごとに加速し村は崩壊していった。


1773年
、反イエズス会派として知られていたロ-マ教皇クレメンス14世によって、イエズス会に対する解散命令が出された。

1814年、教皇ピウス7世の小書簡『カトリケ・フィディ』によって、イエズス会の復興が許可されている。(Wikipedia)




[私の思うところ]


(1)冒頭に書いたように、日本の「鎖国」は見方によっては、「イエズス会の日本からの追放」であったと考えられる。

江戸時代の「鎖国」は、徳川幕藩体制確立のために、当初はキリスト教の禁教と貿易の管理・統制を目的として進められた政策だった、と考えてもあまり間違いではないだろう。そして、イエズス会の存在は次の二つの面で、「鎖国」政策を徹底しようとする幕府にとって、有害かつ無用なものとなっていったのだから、追放の処分を受けたのは当然だった。

・外国の国家権力の支援に支えられた宗教勢力であるゆえに、有害なものと考えられたこと。

・それまで、ポルトガル船貿易の管理・運営にはイエズス会の関与が必須と考えられ、そこに同会の存在価値があったが、ポルトガル船貿易の衰退とともに同会の存在価値も薄れ無用なものとなって行ったこと。

だから、有害であっても有用な存在であったり、無用となっても無害な存在であれば、完全に追放されることはなかったのかも知れない。



(2)だがイエズス会以外の例えば、ドミニコ会、フランシスコ会であったら追放されることなく徳川政権と融和しながら活動し得たように言う人がときどきいるが、それもおかしい。

何故なら、ドミニコ会、フランシスコ会が托鉢修道会として、いくら清廉潔白さを強調しようと、それらの修道会も、例えばスペイン国家の海外進出の尖兵として、教俗(教会と世俗権力)一体の体制の一翼を担っていたことは、先に述べたペル-征服の経緯を見ても明らかだからである。その点は、1597年托鉢修道会系の宣教師・信者を主に処刑した(26聖人殉教)秀吉の時代から、統一政権の最高権力者には充分認識されていたと考えられる。

ただ、スペイン国との提携の下に活動していたドミニコ会、フランシスコ会は、当然ポルトガル船貿易には関わっていなかったから、それが衰退しても活動条件に生ずる変化は少なかったかも知れない。

ともかく、数多の修道会の中で日本に最初に到着し、ロ-マ教皇にも日本の権力者にも抜かりなく手をまわして、布教市場独占をほぼ維持してきたイエズス会は、彼らの本質的な進出戦略ゆえに有害かつ無用な存在とされ、日本から完全に追放されたことになる。



(3)もし、イエズス会がスペイン本国および海外領土からのみ、追放されたというのであれば、比較的単純にその理由を推測することが出来る。

それは、前述の「グアラニ討伐」(1754・56年)におけるグアラニ側の「反乱」へのイエズス会士の関与について調査が行われ、イエズス会士にとって不利な結果が出ていたこと。さらに、急進的な政策を推し進めた大蔵大臣エスキラチェに対する暴動「エスキラチェの乱」(1766年)について、イエズス会が暴徒を扇動したとの報告がなされたことである。

しかし、イエズス会士はポルトガルからも、フランスからも既に追放されていたのである。そして、これらの国々からの追放の原因として一般的に挙げられているのは、この時期の各国での「王権擁護主義の高まり」である。

この当時、ヨ-ロッパ各王朝は王権ナショナリズムの昂揚とともに、ロ-マ教皇の支配を排除する方向に動いており、教皇への絶対服従を誓うイエズス会は、各王朝による攻撃の矢面に立たされていたことは間違いない。



(4)
イエズス会を弾圧するよう要求するヨ-ロッパ各国からの圧力に負けて、イエズス会が絶対服従を誓っていた相手である教皇クレメンス14世が「イエズス会解散」の勅書を発布したのが、アメリカ合衆国独立宣言の3年前、1773年である。

そして、イエズス会の復興が、教皇ピウス7世によって許可されたのが「ウィ-ン会議」の年1814年である。「ウィ-ン会議」と何か関係があるのかと思ったが、関係は大有りだった。

ナポレオンによって、ジェノヴァ近くのサヴォナに監禁されていたピウス7世は、ナポレオンが退位すると同時にロ-マへ帰還した。幽閉に耐え抜いたピウス7世への称賛の声が広まり、その結果、ウィ-ン会議での合意による教皇領の返還と共にイエズス会の再興などが認められ、ピウス7世は小書簡『カトリケ・フィディ』を発し、イエズス会復興を命じたとされているのである。


解散命令は政治的な背景の下に出されたものだったが、復興命令も十二分に政治的背景を感じさせるものである点が、組織の性格を物語っているようだ。また、その組織の極端な隆盛と衰退と復活が多くの国で長い間論争の的となってきた。


フランシスコ・ザビエルが日本に渡来した1549年は、イエズス会がロ-マ教皇から認可を受けてから僅か9年後である。
したがって、彼らは会創設直後の90年間を、日本で活動し姿を消したことになる。その後、彼らが世界のどこで、どのような活動を行っていたかを観ることで、その集団の本質により近付くことが出来るのではないか。また、それによって、彼らが主導した約1世紀にわたる日本の「キリシタン時代」を、より鮮明に捉え直すことができるのではないか、と私は考えるようになった。

そんな考えから、イエズス会の追放・解散・復興の過程を追及していきたいが、それには「近代史」の知識が不可欠である。「近代史」は、北米・南米の独立、フランス革命、ナポレオンと私のよく知らない話題満載である。そして、当然のことながら、それは「幕末・明治維新」に日本が置かれた国際環境に繋がっている。あの世に逝く前に知っておくべきことは、まだまだあるという感じである。





〈おわり〉



次回は、日本のキリシタン時代の代表的人物の一人と思われる「棄教者 トマス・アラキ」について書かせて頂こうと思っています。




〔参考文献〕

ボルジア家 悪徳と策謀の一族    マリオン・ジョンソン    海保真夫訳 中公文庫
ロ-マ教皇歴代誌          P.G.マックスウエル・スチュア-ト著  創元社
THE LOST PARADISE        PHILIP CARAMAN  [ Sidgwick & Jackson]
A vanished Arcadia Being Some Account of the Jesuit in Paraguay 1607-1767 R.B.Cunninghame Graham[CENTURY]
幻の帝国    南米イエズス会士の夢と挫折           伊藤滋子著  同成社
















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by GFauree | 2016-10-30 14:06 | イエズス会教化村 | Comments(2)