【大航海時代のおと】

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「忍ぶ川」と「少年賛歌」

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「忍ぶ川」についての思い出



「忍ぶ川」は、昭和35年(1960年)下期の芥川賞を受賞した三浦哲郎の作品である。私はそのとき小学校6年生だったがかなり世間の話題になっていた(と思う)。

その約10年後、どんなきっかけだったか覚えていないが、まだ学生だった私は「忍ぶ川」を読んだ。そして、その頃家庭教師をしていた家に、その文庫本を置き忘れたことがあった。次に行ったとき、教えていた子の母親がそれを私に返しながら、「三浦さんは、こんな小説を書いていたのね。」というようなことを言った。

私は、そんな感想が意外だったこともあるが、何と受け答えして良いか分からずどぎまぎした。そのくらい、小説の内容がわかっていなかったのだ。それにしても、もう50年近く前のことなのに、妙なことを覚えているものである。

その「忍ぶ川」の文庫本を、よく行く日系人会館の図書室で最近見つけた。若い時に読んで理解できなかった本が分ったりすると嬉しいものだ。さっそく借りて読んでみた。



小説「忍ぶ川」の内容



昭和35年と言えば、「日米安保闘争」の年であり戦後の高度成長の始まりの頃である。世の中が政治的対立と経済復興に沸き返っていたような時期である。けれど、この小説の登場人物は政治にも経済にも無縁である。

学生である「私」と、学生寮の近くにある料亭「忍ぶ川」で働く志乃という女性が知り合い、「私」の故郷で結婚するまでの話である。短編であり複雑な筋書きもない、まるでお伽噺のような物語である。

作者が何を言いたいのか分からないと思ったのはその所為かもしれない。しかし、今回読んでみて気付いたことがある。


作者は「忍ぶ川」で何が言いたかったか



「私」は東北地方の旧家の出であるが、六人兄弟のうち二人の姉が自殺、二人の兄が失踪し残っているのは姉一人と自分だけである。志乃は深川遊郭の射的屋の娘として育った。重篤な病で衰えた父と中学を出て間もない弟と妹、それにもう一人面倒を見るべき小学生の妹を抱えている。家族は栃木に疎開したまま、住むところが無いために神社の御堂で暮らしている。

「私」も志乃も、自分の境遇の困難さを意識していないわけではない。しかし、それを苦にはしていないようだし、相手に対して隠そうともしない。相手の困難な境遇についても、それを恐れたり、逆に無視したりもせず、そのまま受け容れているようである。

若い頃の私は、結婚する程の間柄であればそれは当然のことのように考えていた。しかし、その後見聞きし自分でも経験したことによって、たとえ結婚する程の間柄であっても自分と相手の境遇の困難さを受け容れるということが、殆ど不可能と言えるほど難しいことであると思わざるを得なくなった。

それを考えたとき、この小説は自分と相手の困難な境遇をあるがままに受け容れ、その上にひたすら自分らしい人生を築いていこうとする人たちの姿を描いたものではないかと思えてきた。結婚までの余りに順調な展開がお伽噺のように見えたのも、この殆ど不可能な条件を前提としているからではないかとも思う。

そうしてみると、この小説は自分の経験を語った「私小説」に見えて、実は自分の実体験とは別物の作者の「夢」とも「願い」とも言えるフィクションを語ったものではないかとも考えられる。歳を取ると色々なことが考えられるものだと我ながら思う。




さて、その「忍ぶ川」の作者三浦哲郎が「少年賛歌」という小説を書いている。天正遣欧少年使節を描いて、昭和50年から57年にかけて約6年間にわたって文藝春秋に連載されたものである。「少年賛歌」が連載され始めたのは「忍ぶ川」の芥川賞受賞から15年後である。

「忍ぶ川」と「少年賛歌」では題材が全く違うように見える。「少年賛歌」には一体どんなことが書かれているのだろうか。そんな言わば好奇心から「少年賛歌」も借りて来て読んでみた。


「少年賛歌」について


インド、アフリカ廻りで、ポルトガル、スペインからイタリアまでを往復する、壮大な旅行記が従者コンスタンチノ・ドラ-ドの眼から描かれている。

16世紀の事である。航海の辛さ、病気の苦労も少年たちにとって相当なものであったに違いない。また、ヨ-ロッパの街の歓迎ぶりや、王侯貴族、ロ-マ法王や教皇庁高官との接触など、400年以上前の日本人の少年達が直接経験したことと考えると強く興味をそそられるものがある。

ただ、少年達の輝かしい経験を読めば読むほど、その壮大な旅を成り立たせたものを思わざるを得ない。巡察師ヴァリニャ-ノの先鋭な企画力とイエズス会の膨大な組織力である。しかし、その企画力も組織力も帰途少年たちがマカオに到着した頃から、破綻を見せ始める。

前年秀吉によって伴天連追放令が布達されていることが判明したため、一行の帰国が危ぶまれれるようになったのである。

イエズス会の存在にとって、政治権力との良好な関係は必須である。伴天連追放令は関係の悪化どころか、イエズス会が主導するキリシタン教会に存亡の危機をもたらすものだったのである。

他にも様々な側面の綻びが露わになる。少年達は日本人女性の奴隷を見かけ、それをミゲルは外国人神父たちが、自分たちにとって不都合なものをひた隠しにしてきたことの証だと決めつける。

使節たちは自分たちの知己でもあるひとりの外国人神父が、遣欧使節の欺瞞性を告発したことも知る。

副管区長コエリョがヨーロッパへ軍事的支援を要請するべく派遣したモ-ラ神父は、きわどいところでヴァリニャ-ノによってマカオで抑えられた。


帰国後の使節たちは、インド副王使節一行という名目で秀吉との謁見を果たすが、それは薄氷を踏むような危うい会見であった。


ここまで来ても、私が最初に抱いた疑問にたいする答は見つかっていなかった。それは、あの「忍ぶ川」の作者が、一体「少年賛歌」で何を言いたかったのだろう、ということである。

その答は最後の最後に浮かんできた。



使節たちのその後の足取り




その後の使節たちが辿った足取りは実に多様である。

千々石ミゲルは、イエズス会を脱会、棄教し、従兄の大村喜前に仕えた。
伊東マンショは、有馬のセミナリオでラテン語の教師をした後司祭となり、43歳のとき長崎のコレジオで歿した。
原マルチノは司祭になった後、家康の切支丹禁令で故国を去ってマカオに赴き60歳で病没した。
中浦ジュリアンはマンショ、マルチノとともに司祭になったが布教に献身し国内に潜伏、65歳の時殉教した。
コンスタンチノ・ドラ-ドはマカオで司祭となり、セミナリオの院長を勤めていた時55歳で亡くなった。


そこに作者が言いたかったことが


それぞれが多難な人生を歩み、一生の終え方も終えた場所も様々である。

ということは、同じ少年使節とは言いながら、ひとりひとりが自分に与えられた境遇を受け容れ、与えられた人生をただひたすらに全うして行ったということではないかと思えてきた。作者はそれを讃えたかったということではないだろうか。

この使節たちの姿は「忍ぶ川」の二人の主人公にもつながる。使節たちの晩年の姿が「忍ぶ川」の二人のそれからの姿を暗示しているという意味である。

そういえば、三浦哲郎の代表作の一つ「白夜を旅する人々」のテ-マもそういうことだったような気がする。



〈おわり〉




















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# by GFauree | 2018-04-10 12:49 | 千々石ミゲル | Comments(0)

シドッティに与えられた本当の使命はこれだった


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1.長助・おはる夫婦の不自然さ



前回の最後に、私はシドッティに付けられた従僕長助・おはる夫婦の振舞いに不自然なものを感じると書いた。長助・おはる夫婦が十字架を身に付けていたのが発覚し、さらにシドッティから洗礼を授けられたと進んで自白したという話が、あまりに出来過ぎで取って付けたように感じたからである。

彼ら二人は、キリスト教信仰が禁制の事柄であることを承知していた筈である。であるのに、何故十字架を身に付けるというような、簡単に発覚してしまう危険のある、また発覚した際に申し開き出来ないようなことをしていたのか。そのうえ、シドッティから洗礼を受けたことを強制的に自白させられたというより、自分から進んで自白したように伝えられている。この確信犯のような態度はいったい何処から来るのか。

そう考えて来たときに気付いたことがある。それは、この事件が発生した1714年の2年前、白石が有していた絶大な影響力の後ろ盾であった第六代将軍家宣(いえのぶ)が亡くなり、幕府内での白石の地位が凋落しつつあったということである。

白石の失脚を狙う勢力にとって、シドッティが異例の条件で厚遇され幽閉されていることは、これまでの白石の判断と影響力の象徴と考えられたのではないか。シドッティを処刑せず幽閉するという穏便な処分の根拠は、シドッティ来航の目的が布教を実践することではないということだった。しかし、シドッティが従僕夫婦に洗礼を授けたということが「事実」だということになれば、シドッティを厚遇の下に幽閉するとした判断は根拠を失い誤りだったことになる。そこで、私は長助・おはる夫婦の件が白石の失策を印象付けるために捏造されたものだったのではないかと考えたのである。


そんなことから、今回は長助・おはる夫婦について考えてみる必要があると思ってそれをしてみたのだが、その結果は意外なことになった。



2.長助・おはる夫婦が育った環境 切支丹屋敷



まず、この二人は、現在の文京区小日向にあった切支丹屋敷で育ったと言われている。彼らが育ったとされる切支丹屋敷という環境がどんなものであったのか、そこにどんな人たちが暮らしていたのかというところから観てみることにした。



(この点については、クリストヴァン・フェレイラに関する過去の記事に書いたことがある。
http://iwahanjiro.exblog.jp/22612547/ http://iwahanjiro.exblog.jp/22662467/
そのため、一部繰り返しになってしまうが、以下にその内容を整理してみたので目を通して頂きたい。)


1642年
、イエズス会日本管区長・シナ準管区長・巡察師を兼ねていたアントニオ・ルビノ神父はマニラから日本への渡航を目指す二つのイエズス会士のグル-プを組成した。


第一のグル-プ
は、ルビノ神父当人を含む5人の司祭と3人の従者の合計8人である。
このグル-プは、1642年8月に薩摩に上陸、逮捕されて長崎に連行された後、大村の牢に収監され全員が殺害された。


第二のグル-プは、日本副管区長ペドロ・マルケス神父やジュゼッペ・キアラ神父を含む4人の司祭と6人の従者の合計10人である。

ジュゼッペ・キアラ神父はシドッティと同じイタリアシチリア島パレルモの生まれ。日本人死刑囚の未亡人を妻として娶らされ、その死刑囚の姓名岡本三右衛門を名乗り、幽閉40年後の1685年、83歳で死亡した。遠藤周作の小説「沈黙」の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルである。

第二グル-プのキアラ以外の3名の司祭が辿った運命は様々である。
先ず、日本副管区長という格で来日したペドロ・マルケス神父は80余歳で病死するまで幽閉生活を生き延びた。
アドンゾ・デ・アロヨ神父は、棄教した後にキリスト教の信仰に立ち返る意志を見せたために、女牢に入れられたが絶食して20日ほどで衰弱死した。
フランシスコ・カッソラ神父は女牢に入れられ女囚と通じたことを白状し、まもなく病死した。


切支丹屋敷とはこういう人たちが、こういう風に終生監禁されていた場所なのである。



次に、新井白石著「西洋紀聞」に長助・おはる夫婦について記された部分があるので、それを抜き出し現代語で書いてみた。



3.「西洋紀聞」に書かれた長助・おはる夫婦



「切支丹屋敷には、既に年老いた長助・おはるという夫婦ものがいて、奉行所の人々を迎えた。二人とも親が亡くなり身寄りのない孤児となったため、そこに引き取られたのであろう。そして、収監されているかつてキリシタンであった者たちの身の回りの世話をする奴婢として働いていたところ、然るべき年齢となり夫婦となった。

元々彼ら自身がキリシタンの信仰を持ち洗礼を受けたという訳ではないが、キリシタンであった者たちに幼いころから仕える身であったことを考慮すると、一般社会に出すわけにも行かず、奉行所が衣食を与えて切支丹屋敷の中で生活させてきたのである。

正徳4年(1714年)の冬、棄教し仏教徒となった元司祭(シドッテイ)の奴婢である長助・おはる夫婦が自首した。彼らの自供内容は以下のようなものである。


『以前に二人の主人であったもう一人の元司祭(キアラ)が存命であった折、彼によって秘かに洗礼を授けてもらった。ところが、当時はそれが国の掟に背くことであるとの自覚もないまま、キリシタン信仰の有無を試される都度、平気で「踏絵」を踏んでみせるようなことまでしてきた。つまり、自分たちに与えられた信仰が禁じられたものであることも知らなかったし、信仰の内容を考えたこともなかったのである。

ところが、今の御主人(シドッティ様)がその信仰のために身の危険をかえりみず、遥かかなたのこの国にまで来て捕われているのを身近に目にすることになった。そうしてみると、もうさほどの年月もない短い命を惜しんで、長く地獄に堕ちるようなことをしてきた自分たちの考えが如何に浅薄なものであるかを思わない訳にいかなくなった。

そこで、それら全てをシドッティ様に告白し、再び洗礼を受け信徒にして頂いた。しかし、一方でこれらのことをお奉行に申し上げなければ、国からの恩義に背くことになるとも考え自首することにしたのである。従って、法に従って如何ように罰して頂いても構わない。』

以上を聴取した奉行所は、まず二人を別々の場所に留置した。」



(長助・おはる夫婦がキアラの従僕となった経緯)

「密行 最後の伴天連シドッティ」では、1676年(長助・おはる夫婦が自首する約40年前)の切支丹屋敷内の出来事として、キアラの従僕 角内が聖ペトロの像を身に付けていたことが発覚し処刑されたことが挙げられ、その従僕 角内の代りに長助とおはるとが新たにキアラの従僕となったとされている。ただ、それがどんな書物に記されているのかの説明はない。




さて、「西洋紀聞」に書かれた長助・おはる夫婦について皆様はどんな印象を持たれただろうか。私の場合、冒頭に書いた「疑惑」のようなことは吹き飛んでしまったという感じである。それは、「西洋紀聞」に書かれたことを、次のように解釈したからである。



4.長助・おはる夫婦についての私の解釈


二人とも親が罪人であったため切支丹屋敷に引き取られ、収容されている元キリシタンに仕える奴婢となるべく育った。しかも、自分たちがキリシタンであったわけでもないのに、元キリシタンを世話していたからという理由で、生涯切支丹屋敷の外へ出ることは禁じられるという、理不尽かつ苛酷な扱いを受けていたのである。

何時でも何処でも、階級と差別というものは付いて回るものである。切支丹屋敷もその例外ではない。何人扶持という手当や従僕まで付けられた元司祭から、終生奴婢として働くことを運命付けられた者まで、その階級差別は厳然としてあったようだ。

二人は元司祭ジュゼッペ・キアラの教えによって洗礼を受けたらしい。しかし、彼らにキアラの教えを理解する力がなかったのか、キアラにそういう彼らを導く力がなかったのか、彼らが堅持すべき信仰を持つに至らなかったことは確かである。だから、「踏絵」を踏むようなことにも何のためらいもなかったようだ。

それが、シドッティとの場合は違っていた。遥かかなたのこの国に来てまで捕われている姿を見て心を動かされたと言っているが、それだけではなかったのだろう。彼らは、シドッティの人柄に触れ、それに感化されそして教えを受けた。そうなって、自分の過去を振り返ると、与えられた人生や信仰というものへの自分の理解がなんと浅薄なものであったかと強く思われたのだろう。

自分たちは、キリスト教徒にしてもらったが、一人の国民としても正しく生きたいと思っているので、包み隠さず正直に話した。だから、法に従って如何ように処罰されようとも不服はない。その考え方もシドッティから教えられたことだったのではないか。


5.シドッティに与えられた使命


前回の記事の最後に私は「従僕 長助・おはる夫婦の不自然な振舞いに感じた疑惑のようなものが膨らんでいる。」と書いた。今回冒頭に書いたように、「長助・おはる夫婦の自白」と「シドッティの死」が「白石の失脚」と関係しているのではという思い付きに飛び付いたからである。しかし、長助・おはる夫婦について「西洋紀聞」に書かれている事柄を読んで私なりの解釈を考えているうちに、その政治的要因を絡めた思い付きがあまり意味のないもののように思われてきた。

長助・おはる夫婦というあまりに理不尽で悲惨な人生を背負ってきた人たちとシドッティがどう関わったかということの方が、「白石の失脚」というような一見大きな政治的な事柄より重く感じられるようになってきたからである。

長助・おはる夫婦は、その不幸な生い立ちから何の望みもなく社会の片隅で死んでいくことを運命付けられたような人たちである。一方、シドッティはキリスト教社会の中の選ばれたエリ-トとして育ち、高度な教養を身に付け自らの意思で異教世界へ飛び込んできた人間である。この両者が出遭ったとき、互いの心の中に何が起きたかは厳密には分からない。

しかし、長助・おはる夫婦はシドッティの中に今まで接触してきた「転びバテレン」たちとは違う何かを感じたのではないか。そしてシドッティと言葉を交わすうちに、幼い頃から一度も経験したことのない感動を味わう。辛くみじめな事ばかりが続く希望とは無縁の自分たちの人生だったが、この世での命はもう尽きようとしている。シドッティによれば、今からでも正しい道を歩んでいけば死後、永遠の生命が与えられるということである。それを考えたとき、ひとかけらの望みすら抱くことのなかった毎日を生きることにさえ喜びと勇気が湧いてくる気がしたのではないか。

そんな彼らの変わりように周囲の者が気付かぬ筈がない。自分より不幸であると信じていた者が幸福そうにしているとき、それを自分のことのように喜べる人は少ない。嫉妬・羨望の感情が湧くのが普通である。長助・おはる夫婦が本当に「手作りの木の十字架」を身に付けていたかどうかは分からない。もし通報者がいれば彼らの精神的変化を切支丹屋敷の監視者が知ることは簡単なことである。

一方、地下牢に監禁され少量の食事しか与えられなくなったシドッティの胸に去来したものは何だったのか。彼が日本潜入にあたり極刑に処されることまで覚悟していたであろうことを考えると、自分に対する処置を静かに受け容れる心境だったと考えることは容易だが実はそう単純でないようにも思う。

まず身の危険に対する恐怖感や身体的苦痛は当然のこととしてあったはずである。また、カトリック世界のエリ-トとして養成され、いわばその世界の代表として異教徒世界に乗り込んだからには、日本でのキリスト教復活に赫々たる成果を上げることを周囲もまた自分自身も大いに期待していたことだろう。数千人、数万人の信者が日本の教会に復活することを当然夢見ていたはずである。が、その望みは絶たれた。

ただ、だからこそまた、シドッティは長助・おはる夫婦に教えを棄てさせたくなかった。それ故、地下牢では大声を上げて二人を励まし続けた。自分が永遠の生命を得ることのできる存在であることに気付いた二人が再び絶望の淵に沈むことのないように。そして、それこそが、天が彼に与えた使命であることを確信して。



6.「西洋紀聞」に書かれた長助・おはる夫婦とシドッティの最期


明年三月、ヲヽランド人の朝貢せし時、其通事して、ロ-マ人の、初申せし所にたがひて、ひそかに、この夫婦のものに、戒さづけ罪を糺されて、獄中に繋がる。

ここに至て、其眞情敗レ露はれて、大声をあげて、のゝしりよばゝり、彼夫婦のものの名をよびて、其信を固くして、死に至て志を變ずまじき由をすゝむる事、日夜に絶ず。

かくて此年の冬十月七日に、彼奴なるものは病し死す。五十五歳と聞えき。
其月の半より、ロ-マン人も身病ひすることありて、同じき弐一日夜半に死ぬ。其年は、四十七歳にやなりぬべき。



〈完〉















 



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# by GFauree | 2018-02-25 10:14 | ジョバンニ・バッティスタ・シドッティ | Comments(0)

「最後の伴天連」シドッティ

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1.「最後の伴天連」シドッテイ




1708年10月
のことである。「島原の乱」が終結しポルトガルとの国交が断絶され、禁教・鎖国体制が完成したと考えられる時期から既に約70年の歳月が流れていた。小説「沈黙」の主人公セバスティアン・ロドリゴのモデルとなったジュゼッペ・キアラ(日本名 岡本三右衛門)が江戸の切支丹屋敷に40年間幽閉された上83歳で死亡してからも20年以上が経っていた。

九州最南端から約60キロの屋久島で、月代(さかやき)に剃り上げ侍の装束を身に着けたひとりの外国人が地元の住民に発見された。それが、ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティである。彼は直ちに捕えられ2か月後長崎に送られた。そして、翌年10月江戸へ護送され、切支丹屋敷に収容され訊問を受けた。

訊問を行ったのがその年就任した第六代将軍家宣の最高顧問として幕政に強い影響力を及ぼしつつあった儒学者新井白石であった。白石はシドッティの本国送還を具申したが、幕府は切支丹屋敷へ終生幽閉することを決定する。

シドッティには、宣教禁止の条件付ではあるが「年に金二十両五人扶持の手当て、さらに毎日二汁五采の食事」が与えられ、長助・はるという夫婦が従僕として付けられることになった。「拷問や棄教を強いられることもなく、祈祷書など書籍類の携帯と祈りさえも公然と許されるというかつてない厚遇での幽閉であった。」

シドッティが切支丹屋敷に幽閉されてからおよそ4年が経った頃、従僕長助・はる夫婦が木を削って作った十字架を胸にかけていることが発覚し、二人はシドッテイに感化され彼から洗礼を受けたことを告白した。シドッテイは両名と共に屋敷内の地下牢に監禁され、10カ月後の1714年10月46歳で死亡した。死因は衰弱死とされている。




2.シドッテイを身近に感じるには時間がかかった



シドッテイの件は、開府から百年以上経ち鎖国体制の固まった後の江戸時代中期の話である。確かにキリスト教宣教に関する出来事ではあるが、キリシタン時代の宗教や文化の交流や政治・交易に関わった人々と社会をリアルに感じたいという動機で探索を始めた私にとって縁遠い話題だった。ところが、それが長い時間をかけてだんだん身近になってきた。歴史探索にはそんな楽しみもあるんだと思うと少し嬉しい。


(1)新井白石の取り調べ

いつ頃か忘れてしまうぐらい前のことだが、鎖国時代の日本に潜入しようとしたイタリア人司祭を新井白石が取り調べた、ということを何かで読んだことがある。シドッティのことである。白石の狙いは、得られる情報から広く世界の情勢を把握し禁教・鎖国体制を客観的に見直すことにあったらしい。それは、歴史に疎く江戸時代の日本にいた知的な人々のことなど考えたこともなかった私にとって全く新しい観点だった。


(2)シドッテイの墓の発掘

2014年7月、茗荷谷(みょうがだに)の切支丹屋敷跡地の発掘調査が行われたとの報道があり、3体の人骨が見つかりうち一体がシドッテイのものと特定された。

この遺骨をもとにシドッテイの頭部の復元像が製作され、2016年11月に公開された。残りの2体は、一人が日本人、もう一人はDNAが残っていないため分析不能とされている。


(3)木製の十字架

2017年1月公開されたマ-ティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」の最後のシ-ン。火葬される主人公セバスチャン・ロドリゴ(モデルはシドッティが幽閉される24年前切支丹屋敷で死去したジュゼッペ・キアラであることは冒頭に書いた。)の遺骸の掌の中には、日本人妻が密かに握らせた藁作りの十字架があった。

キアラに関して、それが史実であるとの記録は無論ない。一般的にキアラは幕府の禁教政策に協力的な姿勢で40年間の幽閉生活を送り「転びバテレン」としての生涯を受け容れ全うした人物とされている。しかし、そういうキアラであっても、実は日本人妻という自分に最も近い存在を宗教的に感化するという自分の務めを忘れることはなかったのではないかというスコセッシ監督の思いがそこに表現されているのでは、と私は思う。

おそらく、その創作部分は「従僕長助・はる夫婦が木製の十字架を身に付けていたことから、シドッティが彼らを感化し洗礼を授けていたことが発覚した」とされていることがヒントになって発想されたものだろう。




3.「密行 最後の伴天連シドッテイ」古居智子著(新人物往来社)について


相当精緻な探求のもとに書かれた本のようだが、それによって瑣末主義に陥らないよう抑えられ良く整理された内容である。解り易く言えば、書かれていることは信頼できるが詳し過ぎないので助かるという意味である。

特に、シドッティを送り出した当時のカトリック教会の事情として、スペイン・ポルトガル両国による海外進出と一体となった布教体制への反省から生まれたロ-マの布教聖省の存在などが簡潔・的確に説明されている。(布教聖省については、以前クリストヴァン・フェレイラに関する記事で触れたことがあるので、ご参照頂きたい。http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/


また、新井白石がシドッテイに対し訊問を行うには、事前に長崎において通辞(通訳)今村源右衛門他による問答が行われていたこと。さらに江戸での白石による吟味の場にも、今村他通辞が同席していたとの指摘は重要である。

白石の著書「西洋紀聞」の内容は、「シドッティから聞いた世界諸国の地理、歴史および政治、文化、風俗などの海外事情」から「シドッティが日本布教を志した動機やキリスト教の教義」まで複雑かつ多岐にわたるものである。そんな内容を白石がひとりで聞きだせる訳がない。「白石とシドッティの知的対決」も有能な通辞の助力なしにはあり得なかった、という世間で余り言われて来なかった当たり前のことをこの書は教えてくれた。


実は、この書を読みながら割り切れないと感じだんだん膨らんできた疑惑のようなものがある。それは「老僕 長助・おはる夫婦の振舞いの不自然さ」である。そこで、次回はその点だけを採り上げてみることにしたい。


〈つづく〉









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# by GFauree | 2018-02-13 06:46 | ジョバンニ・バッティスタ・シドッティ | Comments(0)

なぜどのようにして、大量の日本人奴隷が世界中に拡散してしまったのか [その3]


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               書記官ミゲル・デ・コントレラスによる人口調査に基くペル-・リマ市の住民台帳(1613年)の表紙




今回は、ルシオ・デ・ソウザ 岡美穂子著 『大航海時代の日本人奴隷』(以下本書を『日本人奴隷』と略して表示する。)の「第二章 スペイン領中南米地域」に書かれている事項を見ることにする。

以下の通り、この時代南米の各地に在住した日本人奴隷が挙げられている。


1.メキシコ  



メキシコへは、1610年、1613年に徳川家康や伊達政宗によって公式に派遣された者とそれに随行した人々の集団があり、そのうち相当数の者が現地に残ったと考えられている。『日本人奴隷』には、これら渡航する際に奴隷でなかったことが明らかな者についても言及されているが、ここでは奴隷であったことが明らかな者のみを抽出した。


(1)序章で語られている件であるが、改宗ユダヤ人商人ルイ・ロペスによって長崎で買われたガスパ-ル・フェルナンデスと、同じくマニラで買われたミゲル・ジェロニモ、ヴェントゥ-ラという3人の日本人奴隷。
また、メキシコでルイ・ペレスの息子を見掛けて告発した長崎生まれの日本人奴隷トメ・バルデス。

(2)1604年、ゴア出身の奴隷ウルスラとの結婚を願い出た日本人奴隷ミン。

(3)17世紀初め、元奴隷であることで差別的扱いを受けることは不当であると裁判所に訴えた日本人女性カタリ-ナ・バスチ-ドス。

(4)ドミニコ会修道士に仕えていた日本人奴隷ドミンゴ・ロペス・ハポン。

(5)伊達政宗が派遣したとされている慶長遣欧使節の随行員としてメキシコに到着し現地に残留したとみられるルイス・デ・エンシオ(福地源右衛門)の娘マルガリ-タと結婚したフアン・デ・パエス。彼は1608年に大阪で生まれ、1618年わずか10歳でメキシコに到着したとされていることから、奴隷か奉公人として売られたと考えられている。



2.アルゼンチン



コルドバ市在住の改宗ユダヤ人でポルトガル人である奴隷商人ディエゴ・ロペス・デ・リスボアから神父ミゲル・ジェロニモ・デ・ポラスに売られた日本人奴隷フランシスコ・ハポン。

フランシスコは、1575頃日本で生まれたと推測される。彼は1579年、奴隷身分からの解放を求める訴訟を起こした。そして、彼の身分は奴隷でないという判決を得たようである。


3.ペル-


ペル-については、1613年に行われた人口調査からリマ市に20人の日本人が在住していたことが記されている。その人口調査の記録が1968年国立サン・マルコス大学によって復刻されており『日本人奴隷』ではその復刻版が索引に挙げられている。偶々当地在住の日本人研究者の方からそのコピ-を以前頂いていた私は3年前「1613年、ペル-のリマ市に日本人が20人いた。」という記事を書いた。
http://iwahanjiro.exblog.jp/20544054/

従って、『日本人奴隷』に書かれた「リマの住民台帳」の内容はここでは書かない。ただ『日本人奴隷』を今回読んで私の記事の誤りや不足している点が分ったのでそれを挙げておくことにする。(自分で記事を書くと、こういう答え合わせのような楽しみもあることを今回知った。)


サン・アグスティン通りに襟加工の店をもっている日本人男性の「妻アンドレア・アナはポルトガルのマンカサ・カストの出身である。」と書いたが、「ポルトガルのマンカサ」は現在のインドネシア(旧ポルトガル領)のマサッカルであるとのことである。

またカストという言葉も、社会的な階層とか集団をあらわすというより、出身地を属性として表わしたものということである。

『日本人奴隷』にはスペイン人の父と日本人の母を持つマカオ生まれの混血児のことが書かれているようだが私は見つけられなかった。


リマの20人の日本人について改めて思うこと


(1)どのようなル-トで

『日本人奴隷』では、大西洋経由(インド・ゴア⇒リスボン⇒ブラジル⇒ペル-)と太平洋経由(長崎⇒マカオまたはマニラ⇒メキシコ・アカプルコ⇒ペル-)の二つの可能性を挙げたうえで、複数の種類の航路を経たものと推測されている。

私は、当初「人口調査記録」を読んだとき、出身地としてポルトガル領であることが強調されているという印象受けた。そしてその理由としてこの調査がスペイン人官僚の指示のもとに行われているものであるため、奴隷売買への関わりが深かったのはポルトガルであると言いたかったのではなどと推測した。しかし、『日本人奴隷』を読んでみてそもそも奴隷取引とポルトガルとの関係の深さは強調する必要もないほど当然のことのようにも思えてきた。

したがって、ルートについて以前はマニラ・アカプルコ間のガレオン船の存在から、マニラ・メキシコ経由を当然のように考えていたが、奴隷貿易へのポルトガルの関わりの深さから考えるとインド・ポルトガル・ブラジル経由であった可能性がむしろ高いのではないかと今は思う。


(2)どのような経緯で

同様に以前は、マニラ・メキシコ経由の可能性を高く考えていたので、当時マニラ等から日本人が移動しなければならない事情を推測してみたことがある。すると、17世紀の初頭にマニラから日本人が追放されるような情勢が確かにあったらしい。

しかし、「17世紀の初頭、リマではたくさんのポルトガル人が活発な商いを営み、商業界をほぼ独占する勢いで生活していた」(インカとスペイン帝国の交錯 網野徹哉著 講談社)という話もある。多くのポルトガル人商人が日本人奴隷をインドやマラッカや現在のインドネシア諸島などポルトガル領からリマに連れて行った可能性があるのである。日本からメキシコへ移動せざるを得なかった日本人奴隷の例から見ても、ポルトガル商人の商売の展開や生活上の理由による移動と重なっていたと思われるのである。


(3)安穏ではなかったであろう人々の生活

なかには、「自身の店舗を経営し」「26歳で妻を身請けして家庭を築くほどに、十分な経済力を持っていた」者もいた様であるが、じっくり考えてみるとその生活が厳しいものであったことは間違いない。

単に生活の資を得ることが困難なだけでなく、『日本人奴隷』に示されているように、何時言われもなく奴隷の身分に(再び)落とされようと国家などの公的保護が得られる可能性は全くない中で生活を築いていかなければならなかったのである。

スペイン人官僚によって進められたこの人口調査によって「住民台帳に記載されている残りの日本人は、調査官が訪ねた際、主人の家にいなかった。」とされている。しかし、何時足元をすくわれるか分からない不安定な境遇にあった人たちが、危険を冒してまで自分の背景や経歴をありのままに語るとは考え難い。もちろん、そうすることが出来た人もいただろうけれど。そういう意味で、「いなかった」とされた人の中には意識的に調査官との面談を避けた人たちもいたのではないだろうか。


(4)リマからマカオに銀を運んだ神父・修道士との出遭いは?


1591年にリマからマカオに銀を運んだ船を率いたイエズス会の神父と修道士が、1600年ごろリマに戻り、20人の日本人が住んでいたであろう旧市街近くの神学校と修練院で暮らしていた。(神父が亡くなったのは1613年である。)

マカオに運ばれた銀は差し押さえを受け、そこにイエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが介入し日本などアジアの国々へ聖職者を供給するための養成機関建設に利用したと言われている。

リマの旧市街というのは城壁で囲まれた極く狭い地区である。船を率いた神父や修道士と「20人の日本人」が出遭った可能性があることは、以前の記事に書いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/i14/




〈完〉












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# by GFauree | 2018-01-22 09:23 | 日本人奴隷 | Comments(0)

なぜどのようにして、大量の日本人奴隷が世界中に拡散してしまったのか [その2]

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今回は、「大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨ-ロッパ」ルシオ・デ・ソウザ 岡美穂子著 (中公叢書)を読んで考えたことを記したい。



本書の内容
 

〈序章〉改宗ユダヤ人商人と行動をともにした日本人奴隷の話

日本人奴隷ガスパ-ル・フェルナンデスは1577年豊後(大分県)に生まれ、10歳の頃誘拐され、長崎で改宗ユダヤ人であるポルトガル商人ルイ・ペレスに売られた。

ルイ・ペレスは、異端審問所によって祖国ポルトガルを追われ、インド・ゴア、コチン、マラッカ、マカオを転々としたうえ長崎に来航し居住していたのである。

長崎では、改宗ユダヤ人を警戒し毛嫌いする熱心な日本人キリシタン信徒との間に、相当な摩擦があったらしい。そんな中で、良く言えば「純真な」違う言い方をすれば「単純な」日本人信者が、イエズス会上長に改宗ユダヤ人がいることも知らず、ペレス等にひたすら頑な態度をとっていたらしい。

ペレスは、長崎を追われマニラに渡り、そこで5年後に告発を受け逮捕される。ガスパ-ルは、ペレス及び2人の日本人奴隷等と共にアカプルコに送られるが、その船上でペレスは病没する。

その後、ガスパ-ルを含む3人の日本人奴隷はメキシコの異端審問所に対し開放を求める訴訟を起こす。ガスパ-ルがペレスに買われてから、14年が経っていた。ガスパ-ルともう一人の日本人奴隷ヴェントゥ-ラの訴訟の証人となったのは、改宗ユダヤ人ルイ・ペレスの2人の息子たちであった。


〈第1章〉アジア
ここでは、ポルトガル、スペインの拠点であったマカオ、フィリピン、ゴアでの状況が述べられている。

〈第2章〉スペイン領中南米地域
メキシコ、ペル-、アルゼンチンである。
これについては、過去「1613年、ペル-のリマ市に日本人が20人いた。」という記事を書いた(http://iwahanjiro.exblog.jp/20544054/)ので、次回本書の内容に基いてそれを見直したい。

〈第3章〉ヨ-ロッパ 
については、特に目についた箇所を抜き出すと

ポルトガルに関して
「『解放』は実際のところ厄介払いである場合も多かった。奴隷が年をとり仕事ができなくなると厄介者でしかなくなり彼らの面倒をみるのを嫌がる主人は、それらの奴隷を『解放』した。」ということであり、他の地域でもそうであったであろう残酷な現実が語られている。

スペインに関して
ひとつは、「ポルトガルでの日本人奴隷の相場は、日本で売買された価格の100倍以上であったと推定される。」ということである。奴隷は転売を重ねながら移動していくために、遠くへ行けば行くほど付加価値が増していったと考えられるのである。これもまた、日本から遥か彼方まで奴隷が拡散してしまった一つの要因ではないかと私は思う。

もうひとつは、伊達政宗が派遣したと言われる慶長遣欧使節、支倉使節団の武士の中にスペインに残り奴隷のような待遇を受け焼き印まで押されてしまった人がいたということである。滝野嘉兵衛(ドン・トマス)という人物である。滝野は、野間半兵衛(ドン・フランシスコ)という同僚とともに、一旦はフランシスコ界の修道士となったが結局俗人にもどり、奴隷とされてしまったということである。彼については、その後の消息も書かれている。


読んで考えたこと


1.この本を読みながら、二つの話を思い出していた。

まず、子供のときに聴いた童話「安寿と厨子王」、酷く悲しい昔話である。これは、中世の芸能であった「説教節」の演目のひとつで原話は平安時代末期(11~12世紀)のものだということである。

次に、大正から昭和初期にかけて大蔵大臣や総理大臣を勤め、1936年の2・26事件で暗殺された高橋是清のことである。高橋は、明治維新の前年14歳の時英語習得のため渡米したが、ホ-ムステイ先に騙され年季奉公の契約書にサインさせられて、奴隷同然の扱いを受けたということである。

これらから考えられることは、日本国内での人身売買は古くから広く行われていてそれほど珍しい事ではなかったのではないかということと、また海外で日本人が奴隷の扱いを受けるということもつい最近の時代まで頻繁にあったのではないかということである。つまり、国内的にも対外的にも「国家は個人の生活権を保護すべし」というような思想や体制が定着するまでは、人が国内で売買され海外へ輸出されるようなことが容易に起り得たと考えられるのである。

そういう風に考えて来ると、大航海時代に大量の日本人が奴隷として海外へ輸出される土壌は確かに在ったのである。

また、大航海時代にポルトガルが世界で展開した貿易取引において奴隷はその主要商品であったことを考えると、ポルトガル船貿易が大量の日本人奴隷を世界中に拡散させたと言っても間違いではないだろう。しかし、ある商品の取引量増加のためには、供給・物流・販売がともに拡大することが必要である。仮に当時内戦に敗れた側の兵士が虜囚となり奴隷とされることが稀であったとしても、戦国時代の相次ぎ長引く内乱によって民衆が疲弊しきっていたことが、先ず国内の人身売買を増大させていたという側面があっただろう。

そういう日本国内事情による供給と輸出という物流手段と外国という大口販売先とを得て、大航海時代に人身売買⇒奴隷取引が飛躍的に増大してしまったと見ることもできる。

こうしてみると、あの時代には日本人奴隷を大量に発生させる要因が集中していたようである。そして、その量と拡散の度合いは唯一内外の情勢を熟知する立場にあったアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノにとって、日本の権力者や信者たちに対し隠しおおせる程度を遥かに超えるものになっていたということではないだろうか。


2.
この本を通じて、実に数多くの日本人奴隷の厳しい生涯の一端が垣間見せられる。

前回、[その1]で書いたように、1587年の「バテレン追放令」発布の直前、秀吉はイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョに使者を送り詰問を突き付けたと言われている。

イエズス会士ルイス・フロイスが編纂した『日本史』によると、秀吉はその際次のような要求をしたという。

・これまでにインドその他の遠隔地に売られていった日本人すべてを日本に返還するよう努力してもらいたい。
・もし、あまりにも距離があるため実行不可能な場合には、少なくとも現在の時点でポルトガル人が買い取ったためポルトガル人の所有になっている日本人奴隷を解放してもらたい(自分はその費用を立て替える)。

以前これを知ったときは、秀吉らしい余り現実的でない威嚇的な“ふっかけ”要求だなどと思ったのだが、今回奴隷として売られた多くの人々の悲惨な境遇の一端に触れることによって、私の印象も変わってきた。秀吉の要求は当然のことであり、最高権力を有する為政者としてむしろそうあるべき妥当なものだったと思えてきたのである。


3.〈序章〉の日本人奴隷ガスパ-ルの話は、異端審問所に追われ続けポルトガルの拠点を転々としたあげく長崎にたどり着いたた改宗ユダヤ人商人がおそらくは複数存在していたことを示唆している。

改宗ユダヤ人商人は、宗教上のまた商売上の理由によって移動を重ねるうちに、彼らが使役しまた商品とする日本人奴隷と出会う。改宗ユダヤ人商人と日本人奴隷の人生はそこで交差しまたその後軌跡が重なっていくこともあったということである。

改宗ユダヤ人商人ルイ・ペレスとともにマニラ、メキシコへと渡航せざるを得なかったガスパ-ルたちの例は、日本人奴隷拡散の一つの要因を示している。改宗ユダヤ人商人の抱えた事情によって移動を重ねなければならなかった日本人奴隷が他にもいたことは当然考えられる。

ところで、祖国ポルトガルからもその海外拠点からも追われ転々と移動してきた改宗ユダヤ人商人を日本のキリシタン信者は、どのように迎えたのだろうか。どうも、教会で教えられた通り、固く冷たい対応をしたらしい。

だから、日本人の宗教や人間に対する考え方や態度は狭く底が浅いなどとは思いたくないし、言いたくない。しかし、メキシコでガスパ-ルたち日本人奴隷が解放のために起こした訴訟で、自らの危険を冒してまで法廷で証言したペレスの二人の息子たちの行動は、長崎でペレスたち改宗ユダヤ人を目の敵(かたき)にした、おそらくは教会の教えに従順な日本人キリシタン信者たちと、対照をなしているようである。



4.従来、「大航海時代の日本人奴隷問題」については、その細部にまで立ち入った研究がなかったようであるがその理由として、著者は2点を挙げている。それは、16~17世紀の国内外の資料に該当するものが極めて少ないことと、彼らの売られていった経緯と状況を具体的に示す事例に欠けていた(少ない資料から抽出される情報の中に、という意味と思われる)ことである。要するに、頼りになる資料が不足しているということであろう。

そもそも、儲けたい一心で行われた取引である。記録を残す余裕などなかったであろう。加えて、一部に禁止する動きもあったのだから後ろ暗い行為である。できるだけ形跡を残さず、隠蔽しようとして当然なのだから、資料は少ない筈である。

しかし、研究が進展しなかった理由はそれだけではないだろう。逆に頼るべき資料が少ないということにあぐらをかく研究者がいたということはなかったのだろうか。それを示すのが、「はじめに」の中で筆者が述べている、ポルトガル人による日本人の人身売買について「そんな話は聞いたことがない。捏造ではないか。」というような発言を公開の場で(おそらくは、平然と)した、世界的に著名な研究者の存在である。

今から約40年前、「キリシタン時代史」の研究が一部の研究者の大変な努力によってやっと歴史研究として認められるものとなり、多くの人にとっても興味深いものとなったという教訓を思い起こすべきである。(極論すれば、それまでのほとんどの「キリシタン研究」は歴史研究の域に達していなかったのである。)その努力には既存の権威・権力への挑戦という要素も含まれる。研究者としてなすべきことをしないのであれば、「社会的責任」が問われることは言うまでもない。


5.本書はルシオ・デ・ソウザの著書『16・17世紀の日本人奴隷貿易とその拡散』の一部だということである。そして、日本イエズス会の奴隷貿易との関わりなど重要な問題は、その著書の残りの部分に含まれているということである。ということは、その残りの部分の内容が、昭和11年(1936年)に発行され名著と言われてきた岡本良知「十六世紀 日欧交通史の研究」を引き継ぎまたそれを超えるものとなるということである。

したがって、今回出版された部分は大部になる筈の残りの部分(本編)のいわば予告編だったということになる。作りの良い予告編を見ると、直ぐに本編を見たくなるのが普通だ。本編の翻訳も既に完成しているとのことなので、早期に出版されることを期待する。


〈つづく〉








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# by GFauree | 2017-12-06 01:07 | 日本人奴隷 | Comments(2)