【大航海時代のおと】

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バテレンの世紀

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ネタが少なくなってきた


今から20年前、50歳の頃から、キリシタン時代の歴史に興味を感じて本を読んできた。そして4年前、読んだ本の内容とか考えたことを忘れないようにと、このブログを書き始めた。書いた記事の数は80以上になった。

最初のうちは、一週間おきぐらいに記事が書けたが、月日が経つうちにその速度が鈍ってきた。記事を書くためには、先ず読んだ本の内容を理解し大体は覚えていて、自分なりの考えとか言いたいこと、そしてそれをどう書くかも頭の中にあることが必要である。そういう条件の揃った記事の材料、つまり書けるネタが少なくなってきたということである。

と言っても、キリシタン時代の歴史は大体でも分かっているなどとはとても言えない状態である。私の場合、自分が特に興味のある人物や事件をつまみ食いしてかじってきただけだから、知らないことは沢山ある。さて、どうしたものかつらつら考えているときにこの本に出会った。



「バテレン」という言葉は好きになれないが

「バテレン」という言葉には、分らない言葉や魔術を使う怪しい外国人という響きがあるように思う。それが神父を意味する「パ-ドレ」という言葉が訛ったものだということは、何時の頃からか知ってはいたけれど、子供時代、教会でその雰囲気に浸っていたためだろうか、その言葉は、部外者が教会の内部を意地悪い目でのぞいて侮蔑的に使うもののような気がしてしまうのだ。

ただ、著者が学者でも作家でもないところに期待できると思った。著者渡辺京二は思想家・歴史家・評論家であるとされている。よくある歴史・宗教学者や作家による歴史書ではないのである。



学者の書いたものは無難だけれど


一般に学者はあまりいい加減なことは書かない。しかし、歴史について100%間違いのないことなどあまり無い。だから、それだけを書くとしたら大したことは書けない。それに、確かに立証されていることだけを書かれてもあまり面白くない。

また、学者にも生活というものがある。カトリック系の大学の教員にとっては大学の母体である修道会の意向を斟酌せざるを得ないことがあるのではないか。また、研究者が、将来にわたって研究のための情報源を確保しようと思えば過去のことではあっても、教会・修道会の欠陥を指摘するようなことは、あまり書けないのではないか。



あまり作家に頼るのは


歴史については作家が見解を語らされることも多い。しかし、小説に史実を書かねばならないという決まりはないから、小説には何を書いてもいいのである。例えば、遠藤周作は代表作である「沈黙」に堂々と史実と異なることを書いている。成功しているとは思えないが、より効果的な表現を狙ったのだろう。つまり、作家は史実に基いて何かを語るという役割に必ずしも向いていないのだ。



この著者は条件に適う


そういう意味で、以前から私は「キリシタン時代史」について教会とは関係のない、また学者でも作家でもない人の見解というのを聞いてみたいと思ってきた。けれど、学者でも作家でもなく歴史を語れる人は少ない。渡辺京二は珍しくその条件に適っているようである。

加えて、渡辺京二の多数の著書の内容や経歴から、冷静な内容や解り易い文章も期待できると思った。私は、冷静さや解り易さということに充分配慮されていない文章は、どうしても読まねばならない場合を除いてはできるだけ避けてきた。そんなものに付き合っている趣味も体力もないからである。一般の読者を侮ってはいけない。冷静で解り易い文章の書ける人であるからこそ、渡辺の本は売れているのだろう。
はたして、結果は期待通りだった。



本の内容は、キリシタン時代の「通史」だ


本の内容は、日本がポルトガル人に「発見」されてから、ポルトガル人を「追放」するまでの約百年間の、キリスト教布教に関する歴史である。一定期間のキリスト教布教に関する多様な事柄を記述した歴史だからか、著者はこれを「通史」であるとしている。

(辞書には「通史とは、時代・地域・分野を限定せず、全時代、全地域、全分野にわたって時代の流れを追って書かれた歴史である」とされているが、「バテレンの世紀」の対象とする範囲はそれより限定的である。)

渡辺は「あとがき」に、「研究者は一般向けの詳しい通史を書きたがらない。労のみ多くして、研究業績にはならぬからである」と書いている。しかし、私は多くの研究者にとって一般向けの通史を書くことは、業績にならないだけでなく、通常の研究と違う素養を要するために、それ自体が難しいのだろうと思っている。「通史」を書くためには人間や社会に対する豊かな常識や深い洞察力が必要だが、たとえ相当の知識を有する研究者であっても、それらを備えているとは限らないからだ。



歴史書は簡潔な方がいいか、詳しい方がいいか


また、渡辺は「一般の読書人にとって、欲しいのは詳しい通史である。なぜなら、歴史叙述は詳しいほど面白いからである」と書いている。

キリシタン時代に関する本を読み始めてから、今まで一番お世話になってきたのが、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」(岩波書店)である。これは、副題のとおり、「ザビエル渡日から『鎖国』まで」のキリシタン史を概説風に論述したものだから、渡辺の言う「通史」に該当する。大学の通信教育のテキストとして書かれたものであるためか、とても解り易く書かれているうえに、簡潔だから全体感が掴みやすい。

一般の読書人である私にとって、キリシタン時代史を知るうえで先ず必要だったことは、歴史上の各事象の概略と全体の流れを掴むことである。だから、簡潔な「キリシタンの世紀」は有難かったのである。

しかし、歴史というものは、詳しい内容を知れば知るほど面白くなってくるのだから、「詳しい通史」ほど望まれると渡辺は言う。だから、「通史」が大部なものになるのはやむを得ないということになる。確かに、歴史は詳しいことを知れば知るほど面白くなってくる。そういう意味では、渡辺のこの「バテレンの世紀」でも、もっと詳しく書いた方が良かったのではと思わせる箇所があるくらいなのである。

例えば、フランシスコ・ザビエルと、共に来日した司祭コスメ・デ・トルレスについて、二人が出遭った経緯である。ザビエルはバスク地方、トルレスはバレンシアと二人ともスペイン出身である。ザビエルはイエズス会創設に加わった後、ポルトガル国王の要請を受けてアフリカ廻りでインドへ行き、布教のためにインドネシアのモルッカ諸島を巡っていた。一方、元々は修道会に属さない教区司祭であったトルレスは、太平洋探検航海を企てるスペインのビリャロボス艦隊に乗り組んでメキシコを発ち、艦隊がポルトガルとの戦いに敗れたため離散し、モルッカ諸島を放浪していた時にザビエルと出会った。この話から、当時のポルトガル、スペインの動向が浮かんでこないだろうか。だが、この本ではそこまでは語られてない。

簡潔なほうがいいか、詳細な方がいいか分からなくなってしまったが、要はどちらにせよ徹底することが必要なようだ。そういう意味で、この本は450ページ超の大部だが、それでも少し物足りない。



この本で特に強調されていること

ひとつは、ペリ-来航など幕末からの欧米諸国との通行はセカンド・コンタクトであり、キリスト教伝来こそがファ-スト・コンタクトだった、ということ。セコンド・コンタクトでは、ヨ-ロッパ諸国は文明的優越者として、わが国の前に出現したが、ファ-スト・コンタクトにおいては、「アジアは経済的文化的先進国であり、ヨ-ロッパは後進国的立場にあった」ということである。この点は、「ヨ-ロッパ⁼先進国」という先入観に浸かってきた我々が見逃しがちなことである。

そこで私が思い出した一つの逸話は、フランシスコ・ザビエルが大学で学んでいた頃のパリの街路には、至る所に人糞がころがっていた、ということである。人々が排泄したものが、窓から投げ捨てられていたからである。たしか、そんな不潔な環境が疫病蔓延の要因となったらしい。ザビエルは、そんな環境で学んだ人なのである。

もうひとつは、イエズス会が「マルクス主義前衛政党を彷彿とさせる戦闘部隊だった」ということ。それについて、私が思うことは、組織的な海外事業の進め方という点で、イエズス会が後世に多大な影響を与えているのではということである。

相似しているのは国際共産主義活動だけではない。イギリス、オランダのアジア進出の担い手は、各々の東インド会社だったということは確か教科書にも書いてあった。そもそもイエズス会は商社にとって重要な情報管理や伝達手法などの面で東インド会社に影響を与え、それが彼らの成功の要因になったという面があったのではないか、と思うがどうだろうか。

スペイン語でla Compañíaと言えば、イエズス会(Compañía de Jesus)を意味する。ということは、イエズス会は英語で言えばthe Company(会社)なのだから、東インド会社(West India Company)がイエズス会に相似しているのは当然かもしれないが。



キリシタン時代史は後期三十年弱が面白い


私にとっては、約百年間のキリシタン時代のうち、家康による禁教令以降の三十年弱が特に興味深い。それは、弾圧が厳しさを増していった時期ではあるが、布教開始から七十年が経ち、教会の活動については正直な人間的側面が露わとなり、信者にも社会的に成熟した人物が現われ、対外的にはポルトガルからオランダへの切り換えが進められた時期だからである。ところが、この時期の動向を語る本は意外と少ない。この本はその時期についても目配りがされている点で有難い。

例えば、以下のような事項である。
・なぜ英国は対日貿易の場から消えて行ったか。また、ウィリアム・アダムズ(三浦按針)はどう関わったか
・オランダは貿易相手国としての地位を獲得するためにどんな行動をとったのか
・「島原の乱」の真相は

次回以降、これらについてこの本から読み取った内容をまとめてみようと思う。



〈つづく〉








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# by GFauree | 2019-01-04 09:37 | バテレンの世紀 | Comments(4)

オランダがポルトガルに取って代ろうとしたとき



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通商許可証(徳川家康名朱印状)

     オランダ船、日本に渡海の時、何(いずれ)の浦に着岸せしむると謂(いえど)も、相違あるべからず候。
     向後、この旨を守り、異議なく往来せらるべく、いささかも疎意あるまじく候也。よって件(くだん)の如し。

     慶長14年7月25日(1609年8月24日)   御朱印

     ちゃくすくるうんべいけ              
                                (出展 Wikipedia)







1609年6月29日、マカオからのポルトガル船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号(以下、ダ・グラサ号と略して表記する。)が長崎に着いた。翌年1月、カピタンモールであるアンドレ・ペッソアを含む乗員と高価な積荷もろとも焼け落ちた船である。



クリストヴァン・フェレイラのこと



この船で日本に渡来した者の中に、その約二十年後日本イエズス会管区長代理を勤めながら棄教し、小説「沈黙」にも登場することになるポルトガル人司祭クリストヴァン・フェレイラがいた。フェレイラは1600年にリスボンを船出し、インド・ゴア、マカオで学んだ後、この時初めて日本の地を踏んだのである。(https://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/

「ダ・グラサ号事件」によって日本のキリシタン教会は実に様々な打撃を受けた。だからフェレイラが、自分の乗船してきた船が焼打ちされた事件を通じて、赴任当初からその教会の抱える現実に気付いていた可能性は少なくない。(https://iwahanjiro.exblog.jp/21320097/

また、「事件」と、その後二十年近くの活動の末結局は棄教し「転びバテレン」として生きなければならなかったフェレイラの人生とを考える時、つい彼の宿命とか不運というものに思いを致してしまうことは感傷的に過ぎるかも知れない。しかし、赴任早々にこの事件に遭遇してしまったことが、彼をしてキリシタン教会の諸問題に目覚めさせ、素直に教えに殉じていった宣教師達とは違う考え方を彼に与えたのではと思うが、どうか。



通辞ジョアン・ロドリゲスのこと



この事件によって運命を左右されたと思われるイエズス会士がもう一人いる。

日本イエズス会のプロクラド-ル(財務管理責任者)を12年間も勤め、会の中の最高の階位「盛式四誓願司祭」に位置付けられ、秀吉、家康の外交顧問と目されポルトガル船貿易に強い影響力を有していたツズ(通辞)ジョアン・ロドリゲスである。(https://iwahanjiro.exblog.jp/23147187/

ロドリゲスは、ダ・グラサ号の長崎到着の翌月、船団の代表一行を率いて駿府を訪れ家康に謁見しており、その行動が事件の混乱を招いたとして、その責任を問われるかたちで事件直後マカオに追放された。追放については、奉行長谷川左兵衛と代官村山等安の策謀だったとの説がある他、ロドリゲスと等安の妻との醜聞も取り沙汰されている。しかし、いずれにしても長崎貿易の新たな管理体制構築のためのポルトガル船及びイエズス会に対する締め付け、排除であったことに間違いはないようだ。

ただし、前々回記事で採り上げたイエズス会内部の報告(以下、「報告」と表記する。)では、ロドリゲスについては船団代表の駿府訪問を引率したことも、事件直後にマカオに追放されたことも一切述べられていない。会にとってそれらは全く取るに足らないほど些細なことだったということなのか、それとも切り捨てねばならないほど都合の悪いことだったのか。



さて、本題に入ろう。

ダ・グラサ号長崎到着の直後である7月初め、2隻のオランダ船が平戸に到着した。
すると、両国の船は長崎奉行を通じて家康に働きかけ、互いに相手の船を捕獲させるべく使節を駿府に送った。


通商許可朱印状

先に駿府に到着したのはポルトガル船の使節であったが、家康はなかなか会おうとはせず、五日後に到着したオランダ船側の使節と先ず接見した。そして、通商を許可する朱印状を与え、平戸商館の開設を認めた。その朱印状が冒頭に掲載したものである。

ポルトガル船の使節にはその後会見し、マカオでの日本人争乱虐殺事件に関して、ポルトガル側が日本船の寄港を禁止するよう要望したのに対し、その要望通りの朱印状を与えた。しかし、オランダ船を捕獲するようにとの要請に対しては、既にオランダに対して通商許可を与えており、それを破棄するつもりはないと回答した。

つまり、オランダとの通商を優先するとの方針はこの時点で既に決定されていたのである。それは、従来自由放任のおそらくは法外にに有利な交易を許容され、自分たちが家康に事情を説明し要望しさえすれば何でも聞き容れられると多寡をくくっていたポルトガル人にとって寝耳に水の話であったようである。



ところで、オランダ船の平戸到着は、なぜポルトガル船の長崎到着(6月29日)の直後(7月1日)だったのか。
「報告」の翻訳の注釈によると以下の事情があったのである。


オランダ船がポルトガル船とほぼ同じ時期に到着したわけ

1607年12月に13隻の商船がオランダを出航、1608年11月マラッカ沖(シンガポ-ル海峡)に投錨して、マラッカ包囲を目論んだが付近の海港ジョホ-ルからの援軍が得られずそれを断念した。(ということは、ジョホ-ルにもオランダ勢力が駐留していたということか。)

11隻はバンタンに航行したが、残り2隻には、ポルトガル船の捕獲又は、日本での交易開始が指示された。この2隻は台湾と中国本土の間で数日間ポルトガル船を待ち伏せた。ところが、濃霧のためポルトガル船は発見されることなく通過し、それに気付いた2隻のオランダ船はやむなく日本まで追跡して来たのだった。


これらの経緯を観て、私には二つの事柄が印象に残った。


第一に、まるで海賊のようなオランダ船の行動


もともと、日本に来た2隻は物理的なマラッカ包囲、シンガポ-ル封鎖を企図してオランダを出航した13隻の大船団の一部であったこと。2隻はまず台湾海峡でポルトガル船を待ち伏せし、濃霧で見失ったために追いかけて来たものであること等を聞くと、商船とはいえまるで戦艦か海賊かとの感がある。

しかし、考えてみれば、これはオランダに始まったことではない。アフリカ、中東、インド、マラッカ、マカオ等の拠点を押さえ進められてきた十五世紀初以来のポルトガルの海外進出の歴史も海賊まがいの行動の集積であったと想像してもそれほど間違ってはいない筈である。


第二に、ポルトガルは、もうこの時期からかなり追い込まれていたということ

日本とポルトガルとの国交は、「島原の乱」の後1639年に発布された第五次鎖国令によって断絶したとされている。そのため、その30年も前のダ・グラサ号事件の時点では、ポルトガル船貿易はまだ安泰であったと考えがちである。しかし、この時点でポルトガルは既にアジアの制海権をオランダに奪われ、ダ・グラサ号のマカオ帰還も覚束ないほど追い込まれていたのである。


しかし、ポルトガル船貿易を苦境に立たせた要因は、オランダによる海賊ばりの捕獲作戦だけではなかった。


新たな貿易管理制度の導入

まず、前回の記事に書いたように、奉行長谷川左兵衛や代官村山等安による貿易管理制度の導入があって、従来のような自由な活動が許容されなくなったこと。


朱印船貿易の隆盛

次に、40人余りの日本人が虐殺された「マカオ争乱事件」で表面化したように、日本の朱印船貿易が隆盛となりポルトガル船の商圏を侵食するまでになっていたこと。

私は、「マカオ騒乱事件」でのポルトガル人の強硬な対応が、どうも従来抱いていた柔軟で腰の低いポルトガル商人のイメ-ジにそぐわないと感じていた。また、40人余りの日本人の殺戮を指示していながら、それを堂々と家康に申し開きできると考えたアンドレ・ペッソアの考え方にも合点がいかなかった。

しかし、そもそも「マカオ騒乱事件」の遠因が日本の朱印船の台頭に対するポルトガル人や関係する中国人の羨望または怨恨にあり、カピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアの強硬な対応は朱印船を送り出す日本に対する彼らの反感に突き上げられてのものだった筈であることに気付いた。

だとすれば、ペッソアとしては度を超した強硬な対応と考えられることも指示せざるを得なかったのかも知れない。そして、対応を指示した責任に見合う面目を保つために、あくまで家康に直接釈明することにこだわったのではないか。それは、軍人出身者らしい一見強気な自信ある態度にみえたようだが、追い込まれた苦し紛れの心境が逆に彼を強気に見せていたのではないか、とも思わせる。


マニラからのスペイン船の参入

さらに、これは「報告」に書かれていることであるが、奉行長谷川左兵衛が「フィリピンのスペイン人からマニラ・長崎間の貿易を持ちかけられている」と語ったということである。この時代ポルトガルはスペインと同一の君主を拝し、実質はスペインに併合されていたのだが、そのスペインさえ競争者として参入しようとしていたということを意味する。

実際に、1606年には7~8隻、1609年には5隻マニラからのスペイン船が来航し、大量の生糸をもたらしたために、生糸価格を大幅に下落させている。

さらに、ポルトガル人にとって不運なことに、ダ・グラサ号の長崎到着の三月後の9月末、フィリピン臨時総督であったスペイン人 ロドリゴ・デ・ビベロの乗った船が、マニラからアカプルコへの途次、千葉岸和田海岸に漂着した。救助されたビベロは、それを好機として家康との間に貿易協定締結を進めようとしていた。


ポルトガル人が長崎交易に固執した理由

それにしても、これほどの悪材料がありながら、なぜマカオのポルトガル人達は長崎との交易に固執し、その後三十年も続けようとしたのか。実際、国交が断絶された年の翌年1640年には、貿易再会を嘆願する使節が派遣されたが全員が捕えられ処刑されたほどなのである。

人は一旦覚えた蜜の味がどうしても忘れられなくなるとよく言われる。それほど特権と自由に守られ放任されていた長崎貿易は旨味があったということなのだろう。そしてまた、奉行左兵衛、代官等安が見透かしていたように、長崎貿易なしではマカオというポルトガル人居留地の経営自体が成り立たなくなってしまっていたのであろう。


ポルトガル船貿易はなぜそれほど脆(もろ)かったのか

ザビエル渡来以来の90年間、キリスト教布教がポルトガル船貿易に支えられていたという見方を認めたがらない人は少なくないが、そう間違ってはいないのではないかと私は思う。そして、ポルトガル船貿易がキリシタン教会にもたらした経済的基盤は一見強固なものだったように見える。しかし、その基盤は国交断絶の約30年前からすでに崩れかかっていたのである。

ポルトガル船貿易が、実はなぜそれほど脆いものだったのか。考えてみれば、ポルトガル船の主要商品は絹、織物、陶磁器それに香料である。全て中国や東南アジアの産品であり、ポルトガル船でなければ扱えない商品などないのである。そうであれば、ポルトガルの地位に取って代る勢力が現われれば、比較的容易に新しい勢力に挿げ替えられるような性質のものだったということも言えるかも知れない。


「鎖国」にはキリシタン禁圧以外の目的があった


「ダ・グラサ号事件」の時点でポルトガル船貿易が抱えていた問題を数え上げてきたが、それらはまたポルトガル船貿易が衰退し消滅していった要因でもある。しかし逆に考えてみると、これだけの要因がありながら、なぜその後三十年間もポルトガル船貿易を存続させたのかが不思議である。

通説では、「鎖国」はキリシタン禁圧を徹底するための政策だったということになっている。そうであるならば、早いに越したことは無い筈である。これだけ条件が揃っていた時点ですぐにでもポルトガルを排除し、禁教を徹底すべきだったのではと思える。ところが、実際にはそうはされなかったポルトガルとの国交断絶によって禁教を徹底することは、幕府にとってそれほど急ぐ必要のあることではなかったのだろうか。

実は、当時の幕府にとって、対外取引に関して、解決せねばならない問題が他にもあったと言われている。それは、対ポルトガル船も含む対外的な貿易によって銀が大量に流出していたことである。当時、流通経済の中枢である大阪は銀本位制であり、流出によって大阪の銀が不足すれば流通経済に支障をきたし、物価騰貴などの経済的混乱が全国に波及しかねなかった。1600年代の初め、江戸時代の初期に物価が高騰していたことが指摘されている。

そのため、ポルトガルとの国交断絶等の「鎖国」政策の真の目的は、「貿易による銀の流出」を防ぐことであって、「キリシタン禁制」は名目または副次的な目的に過ぎなかった、という見方さえあるのである。ただ、もしそれほど「貿易による銀の流出」が深刻で早期に解決すべき問題であったのであれば、なぜポルトガルとの国交断絶がもっと早期になされなかったのかという疑問は残る。

実際にポルトガルとの国交を禁じた法令は1639年の「鎖国令」であるが、それが発布された理由は、1637年から38年にかけての「島原の乱」の平定に手を焼いたことだと言われることが多いようである。

結局真相は、幕府は「キリシタン禁制」や「貿易による銀の流出防止」の課題を抱えながら、ポルトガルとの国交については事態を見守り続け「島原の乱」を契機に断行に踏み切った、ということのようだ。なんだか月並みで面白みのない結論になってしまったが、「歴史」というものはその方が本当らしいという気もする。

(最後の部分は当初の記事を少し冷静になって考え書き直しました。)




〈完〉




[参考文献]

「キリシタン研究」 第十六輯「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」 五野井隆史  吉川弘文館

アンドレ・ペッソアが1609年に〔日本〕航海カピタン・モ-ルとして来航したナオ、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号焼亡に関する報告書 日本イエズス会準管区長付き秘書ジョアン・ロドリゲス・ジラン神父

「キリシタン研究」 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」          Hubert Cieslik S.J.   吉川弘文館

通辞ロドリゲス   マイケル・ク-パ-著 松本たま訳          原書房
鎖国とシルバ-ロ-ド 世界の中のジパング 木村正弘       サイマル出版会
うめぼし博士の逆・日本史[2]       樋口清之       NONBOOK


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# by GFauree | 2018-11-23 09:11 | ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件 | Comments(2)

長崎奉行長谷川左兵衛はそんなに悪い奴だったのか

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1610年に発生した「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」は、日本のキリシタン教会の屋台骨であったマカオ⇔長崎間貿易の担い手であるポルトガル船を「キリシタン大名」有馬晴信の軍勢が攻撃したという異常な事件である。前回、その事件を説明するものとして、「アンドレ・ペッソアが1609年[日本]航海カピタン・モ-ルとして来航したナオ、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号焼亡に関する報告書」(以下、「報告」と略して表記する。)の内容を要約した。当時のイエズス会日本(準)管区長付秘書ジョアン・ロドリゲス・ジランが作成し本部に送られたものである。

この事件は上に書いたように特異なものであるけれど、逆にキリシタン教会の組織の実態をよく示す出来事でもある。ところが、あまり取上げられることが無いようにも私は感じてきた。またその理由として、他のキリシタン関係の出来事と同様、そもそも根拠となる資料が少ないのではないかなどと推測していた。それだけに、日本語訳にして40ペ-ジと相当のボリュ-ムのあるこの「報告」を読めば、この事件がかなり理解できるのではと期待した。


すっきりしない「報告」


ところが、結果は期待外れであった。読んでみて確かに詳しく書かれてはいるが、どうもすっきりと理解できたとは言えないものが残ったのである。そして気が付いたことは、「報告」の多くの部分を使って長崎奉行長谷川左兵衛が一方的に非難されていることである。

実際に前回の記事に書いた「報告」の内容から、長谷川左兵衛に関する記述を抽出してみると以下のようになる。


「報告」の中の長谷川左兵衛に関する記述

先ず、奉行長谷川左兵衛は貪欲さから代官村山等安と結託して、従来ポルトガル船に許容されていた特権と自由を剥奪し新たな貿易管理制度を強制した。

左兵衛は自分に非難が及ぶのを避けるために、ポルトガル人に対し「マカオ騒乱事件」について家康に報告させまいとした。しかし、結局ポルトガル商人の代表が駿府に送られたとき、多額の謝礼など自分にとって好都合な事柄が約束されてから、左兵衛はポルトガル人に協力を申し出たのだった。

ところが、ポルトガル人商人たちが特権の回復と、「マカオ騒乱事件」の説明と左兵衛等を告発することを目的として、カピタン・モ-ルであるアンドレ・ペッソアを駿府に派遣しようとすると、それを妨害した。

さらに、左兵衛は有馬晴信と手を握り、家康のポルトガル人への怒りを煽るよう働きかけた。しかし、左兵衛はポルトガル人に対し用いようとした晴信の策略に水を差し、密かにペッソアに対しその内容を告げた。

ポルトガル船が焼け落ちた後、左兵衛は等安とともに、ポルトガル人に対し通商再開の条件を提示し多額の賄賂を要求した。



「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」の原因は左兵衛の悪辣な性格?


「報告」は、先ず左兵衛が自らの地位を利用してポルトガル船貿易で利益を上げ、ついには貪欲さから自分に都合が良いように貿易の慣行をねじ曲げ、新たな管理制度をポルトガル船に押し付けたとしている。そして、左兵衛の貪欲さや狡猾さを示すような行状をこれでもかこれでもかと列記し、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」が左兵衛個人の性格の悪さによって惹き起こされたものであることを裏付けようとしているようである。


奉行の職務自体が「輸入品購入」から「貿易管理」に変わりつつあったのだ


そもそも、江戸時代初期の長崎奉行の役割は貿易品の購入つまり家康の輸入品買い物係だったのである。その上、これは「報告」に書かれていることであるが、次のような事情があったらしい。

左兵衛には俸禄(給料)が支払われず、その代わりに家康から金が貸し付けられ、左兵衛はその金で輸入品を買い収益を出さねばならなかった。左兵衛が収益を差し出すと家康はそれを報酬として彼に与えたということである。(つまり、左兵衛はポルトガル船のもたらす商品を安く買えばそれだけ儲けることができるようになっていたし、それは家康も了解のうえでのことだったのだ。)

確かに、有利な輸入品を優先的にまた関税免除で購入する特権は長崎奉行に莫大な利益をもたらした。加えて関係する町人や商人からの献金という役得もあり、後に「一度長崎奉行を務めれば、子々孫々まで安泰な暮らしが出来る。」といわれたほどであったという。

1603年、江戸幕府開府の年、家康は小笠原一庵を、翌年長谷川重吉を奉行に任命、左兵衛は1606年から1614年まで奉行を勤めた。江戸時代初期の奉行の役務も秀吉時代と同様貿易品の購入が主であり交易が終了すれば江戸に戻っていたということである。

そこで、考えられることは、幕府がポルトガル船貿易開始以来の長い間の自由放任の方針を転換していよいよ貿易の管理に乗り出したことをきっかけとして事件が発生したのではないかということである。ポルトガル船貿易が開始されてから70年近く経ったこの時期になってやっと、明確な貿易管理制度が制定されようとしたということである。

それにしても、なぜ「報告」は全てが左兵衛個人の悪辣な性格によるものであるかのように書いているのだろうか。


全てを左兵衛個人の悪辣な性格に帰するような「報告」が書かれたわけ

先ず、この「報告」は日本イエズス会から本部になされた内部報告である。従って、公明正大な内容としなければならないとか、客観的な事実のみを記述しなければならないという決まりはないのである。この「報告」を歴史を知るための資料として読む者としては事実のみがもれなく書かれてあって欲しいが、書く方はそんなことにお構いなく自分に都合の良いことは書き、都合の悪いことは省いているはずなのである。


左兵衛が大悪人であると書くことの必要性

それでは、なぜ左兵衛が大悪人であるかのように書く必要があったのか。それは、キリシタン対策が長崎奉行の主要な任務の一つだったからである。信仰の敵は大悪人というわけである。そんな大悪人と闘いながら布教活動を展開していることを本部にアピ-ルする機会として考えたのかも知れない。

もう一つの理由は、家康を悪く書けないからである。イエズス会側としては、誰が左兵衛を動かしているかは充分わかっていたはずである。しかし家康を悪く書けば、日本イエズス会は今を時めく日本の最高権力者と闘っていることになる。権力との協調を活動方針の原則とする組織内においては、たとえ本部に対する報告の中であっても権力批判はやりにくかったはずである。

官僚である左兵衛は批判しやすい

「報告」に書かれた左兵衛の行状は以下のようなものである。

先ず、新たな貿易管理制度の導入によって、私腹を肥やしポルトガル船貿易の展開を阻害した。そして、家康へ伝えるべき情報を自己の保身のために握り込んだ。また、様々な機会に自己の立場を利用して不正な利得を得ようとしている。

しかし、考えてみれば戦国時代直後、江戸時代初期の話である。その時期に官僚的立場に立った者のその程度の行為は、取り立てて言うほどのことではないような気もする。

なにしろ、官僚の役得と言えば、ほんの30年前の昭和のバブル時代頃までは、日銀総裁や大蔵官僚の株のインサイダ-取引なども野放しだったのである。それと、権力者の無言の意向を「忖度(そんたく)」し実は自己の利益を図ろうとする官僚が今でもはびこっていることは最近我々が見聞きさせられたことである。

左兵衛の場合、妹が家康お気に入りの側室であり、それによって取り立てられた一族の一人であったことから、自己の権益と保身にしがみつく貪欲かつ狡猾な官僚というイメ-ジを貼り付け易かったのではないかとも思う。


ついでに、「マカオ騒乱事件」について言えば

「マカオ騒乱事件」は、マカオに寄港した有馬晴信の朱印船の乗員がマカオ市内で暴力行為に及び結局数人のマカオ市民と40人近い日本人が殺害された事件である。

これについては、当時マカオ当局は「寄港した日本人が居丈高な態度で市内を闊歩し、傍若無人な振る舞いをした」ことがきっかけだとした。そして現在でも、戦国時代末期から江戸時代初期に海外へ出て行った日本人の好戦的な傾向を根拠としてそれが定説となっているようである。しかし、私は少し違った見方をしている。

と言うのは、寄港した有馬晴信の朱印船は最初からポルトガル人とマカオ市民にとって歓迎されざる客だったはずだからである。マカオ市民とはポルトガル船貿易を展開するポルトガル人とそれに協力する中国人たちである。彼等にとって、日本の朱印船は彼らの市場への参入者であり競争相手であり排除すべき存在であったことは確かだ。

だから、寄港した船や乗員に対して最初から冷淡に更には敵対的に接したはずである。それを察した日本人は緊張したであろうしその態度は好戦的に見えたかも知れない。加えて言語の壁もあって意思疎通も思うに任せなかったことは当然想像出来る。そうであれば、事件の原因の一端はマカオ市民の側にもあったと考えられ、抵抗した40人近い日本人を皆殺しにしたマカオ当局の対応は行き過ぎであったとも考えられるのである。

したがって、現地において直接事件への対応を指揮した責任がありながら船団を率いて来日し堂々と申し開きしようとしたカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアに対し有馬晴信が強い反感を持ち、家康の了解の下自己の軍勢を使ってダ・グラサ号を攻撃したことには、一理も二理もあると言えるのである。


結局、「報告」で何が分ったのか

「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」の原因として、「ポルトガル船を率いてきたマカオのカピタン・モ-ルであるアンドレ・ペッソアと長崎奉行長谷川左兵衛との間の取引を巡る争い」という言われ方がよくされるように思う。これまで、その「取引を巡る争い」というのがよく分らなかったが、今回概略は掴めたような気がする。

それは、事件の原因は「長崎奉行が幕府の意向に基き永年の課題であったポルトガル船貿易の管理に着手し自らの利害もあって強力に進めようとしたが、従来の慣行に固執するポルトガル船団側の抵抗に遭い紛糾した」ことにあったとということである。長谷川左兵衛個人の性格とはあまり関係ないのである。

「フランシスコ・ザビエルの活動を妨害したマラッカ長官は、生きながらに身体が腐敗し人々から見捨てられ、名誉も財産も失って死んだ」と、通辞ジョアン・ロドリゲスが「日本教会史」に書いている。「生きているうちから身体の腐ってしまった」惨めなマラッカ長官と、「死後60年経っても右腕が腐らず鮮血がほとばしり出る」奇跡を起こしたザビエルはみごとなコントラストを成すように語られているのである。(https://iwahanjiro.exblog.jp/21873459/

イエズス会関係の資料の解釈については、よほど注意してかからねばならないことを改めて感じている。


〈つづく〉



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# by GFauree | 2018-10-31 00:33 | ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件 | Comments(0)

ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件の経緯



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今回は、前回の記事に書いた「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」のうち、事件の経緯が説明されている「アンドレ・ペッソアが1609年[日本]航海カピタン・モ-ルとして来航したナオ、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号焼亡に関する報告書」の内容を要約してみた。約40ペ-ジに及ぶ報告なので全ての内容を網羅することはできないし、内容もあくまでイエズス会内部の報告という制約はあるが、キリシタン大名がポルトガル船を焼打ちにしたというこの異常な事件の概要を掴むことだけは出来るのではないかと思う。



[事件の経緯]




厳格になったポルトガル船貿易の管理

1609年6月、マカオからのポルトガル船が入港すると、奉行長谷川左兵衛は船内に監視人を配置し、商品の陸揚げ、乗員の上陸には監視人の登録と許可が必要であるとの命令を出した。ポルトガル船のカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアはその命令に抵抗したが、結局商品の検査や売買は殆ど左兵衛の命令通りにポルトガル人にとって不利な形で行われた。

従来、ポルトガル船に対しては、多くの特権と自由と免除が容認されていた。それは、外国人であるポルトガル人に対し敬意を払うという考え方とポルトガル船貿易から得られる収益によるものであった。しかし、奉行長谷川左兵衛と代官村山等安は貪欲さから結託し、新しい制度を定め、ポルトガル船が享受してきた特権と自由を奪おうとしたのだ。この二人は、ポルトガル人を誹謗して家康のポルトガル人に対する怒りを誘おうとし、家康は二人の屁理屈を受け容れてしまった。


ポルトガル人に対して、こうした取扱いがされるようになった理由の一つとして、1608年11月マカオで発生した日本人の騒乱事件があるが、その内容は以下のようなものである。


マカオ騒乱事件


占城(チャンパ)国へ派遣されたキリシタン大名有馬晴信の朱印船が日本への帰途マカオに寄港し、乗員が我が物顔に市内を歩き回り街を荒そうとした。これを鎮めようとマカオ当局が動いたが、日本人達は逆に数人のポルトガル人を殺傷し、一軒の家に立てこもり抵抗を続けたため約40人が殺害された。その際に、マカオ側の指揮を執ったのがカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアなのである。

事件を家康に報告させまいとする左兵衛

今回のポルトガル船到着後、マカオ側は事件の調書を持参し家康にその報告をするよう左兵衛に要請した。しかし、左兵衛は、マカオ騒乱事件について知れば家康は怒るだろうし、家康を怒らせることはポルトガル人の利益にならないだろうから報告をすべきではないと断り、ポルトガル人は左兵衛に従った。

左兵衛は、事件の報告をしたいとするポルトガル人の意図の中に、ポルトガル人に対し以前のような特権を求め左兵衛達を非難しようとする考えがあるのでは、と疑っていたのだ。その考えに気付いた左兵衛はポルトガル人を冷遇し始めたが、ポルトガル人はこれを耐え忍ばねばならなかった。それは、ポルトガル船到着の翌月の初め、2隻のオランダ船が到着したからである。


オランダ船問題と左兵衛・ポルトガル間の和解

家康はオランダ船の来航を喜んだ。それによって、好意を持っていないポルトガル人に依存しないで済むようになると考えたからであり、直ちにオランダ人達を保護すると語った。

オランダ船の出現によって、無事にマカオに戻ることが出来なくなったポルトガル人達は、左兵衛と手を結び、逆にオランダ船を捕獲するように左兵衛を通じて家康に働きかけようとした。ポルトガル人達と左兵衛の間にイエズス会が仲立ちをして和解が成立した。左兵衛は家康にオランダ船を捕獲させるとポルトガル人達に約束した。

そこで、オランダ船問題とポルトガル人の特権回復を交渉するために、ポルトガル商人の代表者が駿府に送られた。左兵衛は弟の忠兵衛藤継を送り、家康の有力な側近たちに支持を依頼する信書を送った。彼がそうしたのは、ポルトガル人達の謝礼と様々な約束事、さらには名誉と名声が期待できたからである。

一方、平戸に着いたオランダ人達は、ポルトガル人に先行して駿府に行き交渉しようとした。同時に長崎に幹部を送り、左兵衛を訪問させ自分たちを優先させようと図り、自分たちの意図を伝えた。左兵衛はこれを聞き大いに喜んで、オランダに全面的に協力する旨を語ったが、既にポルトガル人達と和解していたのだから、これはうわべの事であった。

このような状況の中で、左兵衛と等安はカピタン・モ-ルとポルトガル商人の代表者に伝言を送り、今後は双方共に全くだまし合うことなどなく交流し、マカオ事件につきポルトガル人達が希望していたことを家康が認めてくれるよう働きかけると述べた。ただし、それはマカオ側が左兵衛達に対する告発を断念するとの条件付きであり、またマカオ騒乱事件について家康に話さないことが改めて求められた。


家康は先ずオランダ人と会いポルトガル人は後回しにされた

ポルトガル商人の代表者は、オランダ人達より先に駿府に到着した。しかし、その時点で家康は、ポルトガル人が注文していた織物を直ぐに届けなかったことで、自分を無視しているとして酷く憤慨していた。実は、注文品を直ぐに届けられなかったことには已むに已まれぬ事情があったのだが。その憤慨のためポルトガル人との会見は延期され、その間にオランダ人が迎えられ、請願された通商も許可され平戸商館開設も決定された。

ところが、家康はオランダ人の後でポルトガル人とも会い、要請に従って日本人がマカオに寄港することを禁ずる朱印状を与えた。ただし、オランダ人との約束は破棄するつもりはなく、「日本に来たいと思うものには、誰でもすべての者に日本は解放されており、日本の港では争いがあってはならないので、海上では各自が警戒を怠らないように」との型通りの回答があるばかりであった。



ポルトガル人達はペッソアを駿府に送ることを決定し、左兵衛はその意図に激高する


ポルトガル人の代表者が駿府に向けて出発した後、彼らは善後策を協議しペッソアを駿府に送ることを全員一致で決定した。その目的は、従来からの自由を回復し、マカオ騒乱事件を説明し、それと左兵衛達を告発することであった。これは、イエズス会が介在することなく、彼ら独自に決めたことである。左兵衛はこの決定に激昂しあらゆる手段を用いてペッソアが駿府へ行くことを阻止しようとした。左兵衛はペッソアに対する非難を訊き集め、マカオ騒乱事件について別の調書を作成させた。

イエズス会は、次の理由からペッソアが駿府に行くことに反対した。
・左兵衛に対する家康の信頼は絶大であること
・幕府において援助を期待できるものは全て左兵衛と手を握っていること
・告発されようとしている左兵衛の行動には家康の考えに基ずくものが多いこと
・駿府への交通手段が確保できないこと
・家康自身のポルトガル人に対する憎悪と反発など
・左兵衛にオランダ問題への対処を放棄させないことの方が重要であること



左兵衛は晴信と手を結び、家康は晴信にポルトガル人殺害を命ずる

結局、ペッソアは駿府行きを断念したが左兵衛の憤怒は収まらず、有馬晴信と手を握り、マカオ騒乱事件の際に二人の家臣がペッソアに殺害されたとして家康に訴えさせた。さらに晴信は、これが家康にも加えられた凌辱であると言って、これに対する正当な復讐をしたいと家康に懇願した。その他にも、左兵衛と晴信は家康のポルトガル人への怒りを煽るようなことを言った。そして、ついに家康はペッソアをポルトガル人全員とともに殺害し船を積荷ごと没収することを決定し、晴信にその全てを実行させることとした。


左兵衛がペッソアの首を斬らざるを得ないと言い始めたことが伝わり、ペッソアは出航の準備を始め、それに気付いた左兵衛は駿府に通報した。すると、家康は後藤象三郎に司教やイエズス会士宛ての書簡を書かせた。その内容は、ペッソアは赦免されるのだから駿府に赴いても危険はない、というものだった。しかし、ペッソアはいかないことに決めた。


晴信の策略

有馬晴信は、家康の命令を実行しようとしたが、ペッソアが出航の準備をしていることに気付いたため、策略を用いることにした。生糸の価格を協議することを名目に、ペッソアにイエズス会の司祭館に来させることだったが、ペッソアはその策略には乗らなかった。


こうして、有馬の武装した兵士、火縄銃兵、弓兵を乗せたおよそ30隻の船とポルトガル船との戦闘が開始された。

戦闘開始から三日目、晴信はポルトガル船が他の港へ行かないことを条件に、生糸の値決め交渉をするべく人質を差し出す旨伝えた。ペッソアは、晴信の子息イグナシオ、左兵衛の甥、等安の息子を人質として受け入れる旨回答した。

左兵衛、晴信の策略に水を差す

一方左兵衛は、晴信にはこの件に関する権限が無いのだから、その類の伝言も協定も認められないと言った。更に四日目の朝、左兵衛は次のことをペッソアに伝えた。

晴信は生糸価格の値決めを口実にペッソアを騙そうとしており、これを伝えるのは自分が偽りに反対するものだからである。
ペッソア救済の方法は家康の望む価格で生糸全部を家康に提供する以外にない。ペッソアがそれを受け入れるなら自分が駿府へ連れて行く。それで、赦されるかどうかは保証できないが、自分のとりなしで救われるかも知れない。



戦闘の最後は、一ポルトガル人兵士が手に持って投げようとしていた火薬の入った入れ物に一発の弾丸が命中したことだ。その器物は壊れ、その兵士の足許にあった火薬入りの他の器物の上に落ちて炎上した。ペッソアは火薬庫に火を放つことを命じた。


戦い済んで

陸上には、生存者及び死者の商品と銀が多く残ったが、その全ては帳簿に記載されて家康のために没収された。左兵衛、等安は、長崎に残留したポルトガル人に対し通商再開の条件を提示し、多額の賄賂を要求した。

家康は、残ったポルトガル人全員を殺害してその財産を没収し、全イエズス会士を日本から追放するよう命じた。しかし、穏やかになったとき晴信に対し、宣教師が残れるように請願させ、それを聞き容れる形で宣教師の残留を許した。彼は、ポルトガル人達に憤慨していたとは言え、自分が通商継続を希望していることをよく理解していた。

左兵衛は、ポルトガル人達に対して通商の糸を切断しないように依頼し、また彼等が来年にはせめても何らかの小船舶をマカオから派遣するように言い、またナオ(ポルトガル船)が引き続き来航するよう要請した。




[報告を読んで思うこと]


1.
前回の記事に書いたことだが、この報告は日本イエズス会の本部への報告であるから、彼等にとって不都合なことは書かれていないことは考えてみれば当然である。例えば、(これも前回書いたが)ポルトガル船団の代表が駿府を訪れた際、通辞ジョアン・ロドリゲスが一行を引率したことは全く触れられていない。一行が家康から日本人のマカオ寄港禁止の朱印状を引き出し、それが後にこの事件の混乱の原因とされた(これは、左兵衛、等安の陰謀だったという説があるが)ようであるから、ロドリゲスの行動は結果的にイエズス会にとって不都合なものとなったと判断され捨象されたのだろうか。

一方、「キリシタン大名」有馬晴信については、彼のポルトガル船攻撃を思い留まらせるような動きをイエズス会が採ったというような記述もない。そもそも、キリシタン布教活動をマカオからのポルトガル船貿易が様々な面で支えていたことは明らかであり、船が沈没し渡航が絶えるようなことになれば、イエズス会が財政的に多大な損失を抱え運営が困難になることが予測されるにもかかわらず、会が関係者に対し何の働きかけもしなかったとは考え難い。

ポルトガル船攻撃が最高権力者家康の意向に沿うものであったために、仮にこれを抑止するような動きを実際にはしていたにしても報告には記さなかったということなのだろうか。


2.
ところで、この報告の中の有馬晴信は「キリシタン大名」であるにもかかわらずポルトガル船攻撃に何のためらいもなく、左兵衛と軌を一にして戦闘に邁進したようである。私は過去の記事の中で、晴信は「キリシタン大名」だったのだからポルトガル船攻撃には消極的であったのではないかと書いたことがある。しかし、この報告書によれば、晴信自身が自ら積極的に攻撃をひきうけたようだ。。

徳川新体制の中での生き残りを図るばかりでなくあわよくば勢力を拡大しようとまでした晴信が、マカオ騒乱事件の恨みを根拠に最高権力者家康に迎合し、ポルトガル船攻撃を絶好の機会と捉えたとも考えられる。そうなると、結局最後には「岡本大八事件」で足をすくわれることになる晴信が哀れでもある。


3.
このポルトガル船焼打ち事件の発端はカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアと奉行長谷川左兵衛との間の取引上の争いであったという言われ方がされている。カピタンと奉行との取引上の争いとはどういうことなのか、この報告を読む前には想像が付かなかったが、今回報告の内容から私なりに筋道が読めてきたような気がする。

しかし、それは「取引上の争い」とは少しニュアンスが違うようである。そして、それはこの報告に悪の権化のように書かれている左兵衛の実像とも関係がある。

その点については、次回の記事で考えたい。


〈つづく〉






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# by GFauree | 2018-07-26 04:28 | ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件 | Comments(0)

1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打ちに関する報告書

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どうもよく分からない「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」と「岡本大八事件」


1609年6月から1610年1月にかけての「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」ほど日本のキリシタン教会に多大な打撃を与えた出来事はなかった、とよく言われる。その打撃の内容については、過去の記事「名前はよく出て来るけれど、なぜか顔の見えない『キリシタン大名』有馬晴信」(https://iwahanjiro.exblog.jp/21320097/)、「背教者クリストヴァン・フェレイラ [その5]」(https://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)に書いた。

その記事を書きながら気付いたことは、受けたとされる打撃の内容から、逆に平常時には見えにくいキリシタン教会の持っていた本質的な性格のようなものが透けて見えるということである。

「岡本大八事件」は「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」に端を発し1612年3月及び1613年1月の禁教令の契機となり、キリシタン教会を壊滅的な状況に追い込んだとされる事件である。この事件についても、2つの記事「何だか怪しい『岡本大八事件』」(https://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)、「『岡本大八事件』はどうも気になるので」(https://iwahanjiro.exblog.jp/23712614/)を書いた。

こうして、両事件に関して記事を書いてきて、各々の内容がはっきりイメ-ジできたかと言うとそんなことはなく、どちらもどうも本当の所がよく解からないという感じが残った。



ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件の概略


「岡本大八事件」については、真相が不明であるにも拘わらず単純な贈収賄事件として片付けられてきたのではないかということを記事に書いた。一方、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」は、概略次のように説明されている。

長崎奉行長谷川左兵衛とマカオから渡来した定航船のカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアとの間に取引に関する争いが生じた。そこに、前年に自分の朱印船がマカオに立ち寄った際起きた争乱により乗組員が殺害されたことに恨みを持つ「キリシタン大名」有馬晴信が絡んできた。晴信は家康の了承を得てポルトガル船を攻撃し、それがアンドレ・ペッソアもろとものダ・グラサ号自爆に繋がった。

とこう書いてくると、ダ・グラサ号事件も単純な焼打ち事件に見えるが、そうではない。第一、「キリシタン大名」がキリシタン布教活動の源泉であるポルトガル船を攻撃したのだから異常な事態である。加えて関係する話を読んでいると色々と複雑な経緯があるらしいのである。


オ-ルスタ-全員集合の事件


しかもその経緯には、その時期のキリシタン史上代表的な人物が続々登場する。まずは、マカオのカピタン・モ-ル、アンドレ・ペッソアである。カピタンといってもただの船長ではない。マカオの通商・軍事のみならず行政・司法までを司っていた知事と言うより総督といっても良いほどの大物なのである。

日本側は先ず長崎奉行長谷川左兵衛、そしてその上というか背後に自らポルトガル船貿易に手を染めていた家康と腹心本多正純が見え隠れする。次に、長崎代官村山等安、自身で朱印船を出していた「キリシタン」大名有馬晴信等々。さらに、こういう話題になると嫌でも出て来るのが、イエズス会の通辞ジョアン・ロドリゲスと司教ドン・ルイス・セルケイラ。

まるで往年のお正月映画のように(古いたとえで恐縮だが)オ-ルスタ-豪華総出演である。



歴史探索の楽しみのひとつは資料の入手


こうなるとやはり、先ず「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」についてその内容をしっかり固めなければ、と考えざるを得なかった。ところが、いざその段になって気付いたことは、有名なはずのその事件を詳しく説明した解説書が見当たらない事である。

が、そのうち「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」という論文が書かれて約40年前に発表されていたことを知った。ただ、高価な資料なのでいきなり飛び付くわけにも行かず2年ぐらい放っておいたがそれ以上は我慢できずついに最近入手した。

(なぜ、こんなことを縷々述べているかというと、歴史上の出来事の解説書というものは、いざとなると入手するのは意外に難しく、入手できると結構嬉しいものだということをお伝えしたかったからである。歴史探索にはそんな楽しみもあることを、私は自分でやってみて初めて知った。逆に、「そんなことはインタ-ネットで検索すれば直ぐ分るでしょ」なんて言われると、実にがっかりと言うか神経を逆なでされたような気がする。そんなことを言う人は、歴史上の出来事を本当に知りたいと思い、自分なりに調べてみようと思ったことがないに違いない。インタ-ネットの情報は目次のようなもので便利ではあるが、それ以上ではない。)



「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」の内容


「マ-ドレ・デ・デウス号」は「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号」の別名である。(以前はそう呼ばれていた。)イエズス会日本準管区長付秘書であったジョアン・ロドリゲス・ジランが作成した報告書が五野井隆史氏によって翻訳され、1976年刊行の「キリシタン研究」第十六輯(吉川弘文館)に収められていた。なお、ジョアン・ロドリゲス・ジランは通辞(通訳)ジョアン・ロドリゲスと同名であるが別人である。ありふれた名前なのだろう。

報告されている内容であるが、かなり詳しい。なぜこんなことまで分るのかというようなことまで書かれている。イエズス会がよほどの情報提供者を抱えていたということなのか、そうでなければ報告筆者の想像の産物である。よく言えば洞察力が駆使されたということになるが、悪く考えれば捏造である。


いつも通り都合の悪いことは書かれていない


逆に、あくまでイエズス会内部の報告であるから、日本イエズス会にとって都合の悪い事柄はいつも通りしっかり省かれているというか、伏せられている。例えば、活躍(暗躍?)したはずの通辞ジョアン・ロドリゲスの行動については、一切触れられていない。

彼は、当時イエズス会のプロクラド-ル(財務管理責任者)兼ポルトガル船貿易仕切り役及び家康との政治折衝役であったのだから、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号が渡来してから自爆するまでの過程で何らかの働きをしていたことは間違いない。


過去記事「キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その3]」(https://iwahanjiro.exblog.jp/23147187/)に記したことであるが、実際は、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号」船団の代表団長マテオ・レイタンが長崎来航の翌月駿府を訪れており、この時ロドリゲスは通辞として代表団一行を引率している。

一行は家康に謁見し、家康から「日本人のマカオ渡航を禁止する」命令(朱印状)を出す旨の約束を得ている。つまりロドリゲスはその朱印状を引き出すための裏工作に関与していたのである。そして、彼は事件の起こした混乱の責任を問われて2カ月後マカオに追放されている。


この報告書の内容をできるだけ活かすために


このように過剰と思われる部分と欠けている部分とがある報告ではあるが、限られた資料のひとつであることは確かである。書かれてあることを盲信せず、しかし軽視もせず出来るだけ活かして、実情はどうであったかを推測するにはどうすれば良いかを考えた。

そして、或る観点を軸に報告されている事柄を整理することを思い付いた。例えば、以下のような観点である。

1.“ごますり”左兵衛の言動について考える
2.結局、家康の真意はどこにあったのか
3.どのような環境のもとに、ポルトガルからオランダへの切り換えが行われたのか

次回から、以上の観点で報告を整理してみようと思う。


〈つづく〉










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# by GFauree | 2018-06-25 07:29 | ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件 | Comments(0)