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【大航海時代のあと】

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中浦ジュリアンとアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノ

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                                           (写真撮影 三上信一氏)





天正遣欧少年使節については、千々石ミゲルが後年唯一イエズス会を離脱した理由に関してや、当時海外に広く拡散していたと思われる日本人奴隷との関連、秀吉による「バテレン追放令」をかいくぐって帰国するための手法としての「インド副王使節」などに関する記事で採り上げてきた。

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阿刀田 高が、ある随筆の中で天正遣欧少年使節のひとり中浦ジュリアンと少年使節団の仕掛け人アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノについて書いているのを見つけた。25年前に刊行された「好奇心紀行」(講談社文庫)の中に収められた随筆「天正少年使節団は何を見た」である。

阿刀田 高を、その代表的作品から分類してみるとすれば、短編・推理小説作家ということになるのだろうか。しかし、長編も書いているし、推理小説だけでなく人生の機微さらには深淵を覗かせるような作品もある。歴史や宗教に関する著作もあり、ジャンルの広い作家である。そんな作家が、天正遣欧少年使節についてどんなことを言っているのか、興味を持ってその随筆に目を通した。


中浦ジュリアンの言葉


まず、中浦ジュリアンについて、苛酷な逆さ吊るしの拷問に耐え殉教した際に発したとされる「私はこの眼でロ-マを見た中浦ジュリアンです」という言葉を阿刀田は採り挙げている。そのとき「一緒に吊るされた(ポルトガル人)宣教師クリストヴァン・フェレイラは苦しさに耐えかね、手を振って棄教の合図を送った。」とも記している。


阿刀田は、中浦ジュリアンがその言葉を発した背景として、まず使節団がロ-マを訪れた際、教皇から示された格別の好意にジュリアンが深く感激したであろうと推測している。それが、後年迫害され拷問を受けたときにも、彼の心の支えとなったのではないかと考えているのである。


さらに、「私はこの眼でロ-マを見た」というジュリアンの言葉は、自分が見てきたヨ-ロッパ・キリスト教社会は確かに感激に値するものがあったことを主張しているのだが、それだけではない。

それを、阿刀田は次のように表現している。
「あなたがたは、なんにも知らずに私のことを拷問にかけ殺そうとしているけれど、それでよろしいのですか。私はこの眼でヨ-ロッパを見た人間なんですよ。日本なんか比較にもならないほど、強大な文化を担った国々がひしめいているのに、井の中の蛙が偉そうに集まって-」という思いがあったのではないだろうか。


ヴァリニャ-ノは「呑んじゃった」


ヴァリニャ-ノに関しては-彼は呑んじゃったじゃあるまいか-と阿刀田は書いている。
ここで言う“呑む”は、証券取引や競馬の賭けで使われる言葉である。
「呑んじゃった」とは、ヴァリニャ-ノが日本とヨ-ロッパ双方の事情に通じているのは自分だけであるという立場を利用して、遣欧使節派遣という事業をでっちあげたということである。実際、名代として少年たちを派遣したとされたキリシタン大名達自身は、ロ-マ教皇に使節を派遣しようなどという意思を持っていなかったとも言われている。


私はこう考える

1.中浦ジュリアンの言葉について

私も、少年使節たちがロ-マで受けた印象や感激は非常に強いものであったと考える。
歴史と伝統を伝えるロ-マの街、圧倒的に重厚な教会のたたずまい、信者たちの敬虔な姿、数多の聖職者の群れ、それらによって繰り広げられる荘厳なカトリック典礼の数々。
日本のセミナリオで幼いころから純粋培養された少年たちの心身にローマの美と力が強く刻みつけられたとしても不思議ではない。

加えて、少年たちひとりひとりの出自や性格の違いも考えに入れる必要があると思う。

最年長の伊東マンショは大友宗麟の縁戚者(その縁戚関係は薄い)であったとはいえ、むしろ教会に拾われた身であったようだ。沈着・冷静な性格の彼は熱烈な歓迎に感激するというよりは、教会の持つ強大な力を感じ取り、現実的に教会内部の人間として生きていくことに確信を持ったのではないか。

学業において優秀だったと言われる原マルチノは、ロ-マの荘厳な雰囲気を浴びる中で、それ以降も益々学問に精進し、教会の中で頭角を現わす存在となることを誓ったのではないか。

誇り高きキリシタン大名の近親者として最も出自の明確な千々石ミゲルは、驚異と反発の入り混じった独自の印象を持ったのではないか。

そんな中でヴァチカンの印象を最も素直に受けたのは、若年の中浦ジュリアンだったということになる。であれば、ジュリアンが後年、強大なキリスト教文化を担うヨ-ロッパの姿を自身の眼で見た証人として自分を意識し、それを誇りとしたとしても、それは当然である。

私も若い頃であれば同じように考えたであろう。しかし今はもうそんなふうには考えられない。周りの日本人たちが「井の中の蛙」ならば、少年使節たちは「教会の中で純粋培養された優等生」に過ぎなかったと考えるからである。どちらも現実性に不足があることに変わりがない。少年たちが味あわねばならなかった悲劇の原因がそこにあるとも言えるのではないか。


2.「呑んじゃった」ヴァリニャ-ノについて      

阿刀田は、「少年使節団のメンバ-たちは、日本国王の血を引く者とは言いがたかったし、持参した親書(大名から教皇に宛てたもの)の中にも、偽造らしいものが含まれている。使節団が携えた大名からの贈り物にも、贈り主が知らないものがあっただろう。」ことを指摘している。

実際、イエズス会の中でもこの使節団の欺瞞性を告発する動きがあったし、この事業が語られる際にその問題が一抹の影を投げかけることは否めない。

しかし、「呑んじゃった」と言われると、なんとなく「歴史的事業なんてそんなものかな」という気がして来るから不思議である。そして、同じことはヴァリニャ-ノの性格、彼が属していた組織の性格、ひいては日本キリシタン教会の性格についても言えることなのではないか、とも考える。そして、「呑んじゃった」ことは、それらの性格を理解するためのキ-ワ-ドであるとさえ思えてくる。





ついでに、全くの付けたりながら、この随筆集「好奇心紀行」には、松本清張の短編小説を紹介した「思い出すまま短編五つ」と題したエッセ-が収められている。

・或る「小倉日記」伝、西郷札
・菊枕
・張込み
・潜在光景
・駅路

阿刀田は「心に残る作品がつぎつぎに浮かんでくる。そのこと自体が、アベレ-ジをはるかに越えて名作を書き続けた名人の証左なのだろう。」としている。たまたま、数か月前にこれらの短編を読んだ私は、その通りだと思う。


〈完〉                               

# by GFauree | 2019-06-11 03:58 | 天正遣欧少年使節 | Comments(2)

オランダは「御忠節」ばかりではなかった

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                                           (写真撮影 三上信一氏)






「阿蘭陀御忠節(オランダごちゅうせつ)」
という言い方がされるようになったのは、前回の記事に書いた「平山常陳事件」からのようだ。この事件では、先にイギリスが日本の朱印船を拿捕し積荷を押収して、オランダがその引き渡しを受けた。さらに、オランダは朱印船の船長と船員そして二人のスペイン人を監禁し、拷問にかけた。二人のスペイン人が宣教師であることを自白させようとしたのである。

なぜオランダは、そこまでしたのか。
まず、オランダ、イギリスとも日本の朱印船を拿捕し積荷を没収したことを正当化するために、その朱印船が宣教師を載せていたことを立証する必要があった。さらに、両国にとって日本の朱印船は手ごわい競争相手になりつつあったから、叩き潰す機会を狙っていたのである。

ところが、オランダが挙げた自らの行動の理由は、宣教師らの監禁・拷問については、あくまで幕府の禁教政策への協力であり、朱印船拿捕については、朱印船活動の拡大による宣教師潜入の危険を警告することであった。

もちろん、彼らが飽くまで自己の利益のために行動しながら、それを恩着せがましく忠義面(ちゅうぎづら)して正当化していることは誰の眼にも明らかだったのだろう。そのような身勝手な忠義面が「阿蘭陀御忠節」という言葉を生んだようだ。

そして、この言葉は、普段はひたすら幕府のご機嫌伺いに努め平身低頭に徹しながら、いざとなれば牙をむく強面(こわもて)のオランダ人の態度をからかう意味を持つようにもなる。例えば、幕府からの要請があったとは言え、同じキリスト教徒(新教・旧教の違いはあるが)である「島原の乱」一揆衆に砲弾を撃ち込むまでしたことが、そのからかいの的になった。

そんなオランダが、ヨーロッパ諸国唯一の貿易相手国として指名を受けるまでに、日本と彼らの間にどんな事があったのか。
「バテレンの世紀」に記されていることの中から「タイオワン事件」と呼ばれる出来事を中心に拾ってみよう。




ゼ-ランディア城

1622年、オランダはポルトガルの居留地であり交易拠点であったマカオの占拠を企んだが失敗した。そこで1624年、台湾のタイオワン湾内にゼ-ランディアと称する城砦を築いた。

ゼ-ランディアは、中国から生糸・絹織物を運び込み、日本向けに輸出する拠点となった。すると、タイオワン湾には生糸・絹織物を積んだ中国船が集まるようになり、日本船も交易を求めて入港するようになってオランダ船と競合することになった。

1625年、長崎代官末次平蔵政直の持ち船二隻がタイオワンに入港し、オランダは築港費用を名目として末次船の積荷に10%の輸出税を課した。末次船側は、朱印状を得ていること、日本ではオランダ船に関税を課していないことを理由にこれを拒否したが、オランダ側は関税相当分の15ピコの生糸を没収した。

この件は、平蔵から末次船に投資していた三人の閣老に持ち込まれ、オランダに好意的であった筆頭年寄土井利勝は、その対応に苦慮した跡が見られる。


1626年には、末次船と京都商人平野藤次郎の船が、巨額の資金を携えてタイオワンに入港し、中国人と生糸の購入契約を結んだ。末次船の船長浜田弥兵衛はオランダ・タイオワン長官に対し、二隻のジャンクを借り受け、オランダ船の護衛付きで中国に残り荷を引き取りに行くことを申し出たが拒絶された。その結果、二隻の日本船はタイオワンで越年せざるを得なくなった。

オランダ東インド会社は、タイオワンでの紛争について釈明し、台湾渡航朱印状の発給を取り止めるよう請願するために、第三代長官ピ-テル・ノイツを日本に派遣した。

その間、末次船の浜田弥兵衛は、中国の残り荷を持ち帰ることをあきらめ、その報復として、タイオワン近郊の集落新港から十数人の住民を連れ出し、日本へ帰航した。一方、ノイツは、彼を派遣したバタヴィア総督とは、国王の使用人に過ぎないのではないかという疑義を晴らすことができず、将軍との謁見すら許されなかった。

結局、ノイツにはオランダ国王の使節とは信じられぬから帰国せよとの命令が幕府から下り、ノイツは屈辱的な退去を余儀なくされる。

浜田弥兵衛が連れ帰ったタイオワン近郊の住民は、平蔵の唆(そそのか)しによって、「将軍の保護の下にはいりたい」と申し出たが、幕府から相手にもされなかった。幕閣は海外進出の企図など全く持たず、かえって、海外で紛争を起こして幕府の権威に傷が付くことを怖れていたのだ。


タイオワン事件

1628年5月、末次平蔵の船二隻がタイオワンに入港した。長官は二年前散々日本で屈辱を味わったピーテル・ノイツである。ノイツは船長浜田弥兵衛以下日本人を拘束し、武器を取り上げ、この船で帰航した新港住民を投獄、彼らに将軍から与えられた下賜品も没収した。

6月29日逆に日本人たちが長官ノイツを人質にとり、相互に五名の人質を交換し、互いに相手の国の船に人質を乗せ、日本に出航することになった。しかし、日本に着いたら人質は解放するという約束を日本側は守らず、五名の人質とオランダ船の乗員四〇名余は、長崎で拘禁された。


幕府にタイオワン領有の意図はあったか

その人質の一人であった商館員ムイゼルに対し末次平蔵は、タイオワンのゼ-ランディア城を日本に譲渡することを要求した。そうすれば、オランダ人にも平戸におけると同様、タイオワンでの自由な通商を許すというのである。

平蔵は、タイオワンを日本の領有とすべく閣老たちに働きかけ、そのため莫大な贈賄までしていたと言われている。その結果、日本側の要求書を、特使として派遣されたウィレム・ヤンセンに持たせてバタヴィアに送り返すという方針が閣議で決められた。

ところが、ヤンセンに持たせた手紙には、タイオワンが日本領だなどという主張は一行も書かれてはおらず、ゼーランディア城を破壊すること、即ちオランダ人がタイオワンから立ち去ることのみが求められていた。将軍・閣僚の意向は、海外紛争を極力避けようとすることにあったのである。


タイオワン事件の決着

1631年、ピ-テル・ノイツが日本に送致され、抑留されていた二百名余のオランダ人と四隻のオランダ船が解放された。ノイツは、その後五年間幽閉され、1636年に釈放されてバタヴィアに帰還して、この事件は決着した。タイオワンで日本人を拘束してから8年後である。



〈考えたこと〉

1.幕閣の疑念は正しかった

タイオワン長官ピ-テル・ノイツが釈明・請願のため東インド・バタヴィア総督によって派遣されてきた際の幕閣の反応が面白いというか痛快である。

幕閣はバタヴィア総督とはそもそも何者であるかを問題にしたということである。
「総督は国王の血族なのか、それとも臣下に過ぎないのか」と問い質し、「総督とは結局国王の使用人ではないか」という疑念を棄てなかったという。

考えてみれば、幕閣側の疑念はもっともなのである。オランダ側は「総督はオランダ国王と同等の権威を持ち、その権威はシナ、シャム、ジャワ、ムガルらの国王・皇帝も認めるところだ」と釈明したそうである。

「総督が国王と同等の権威を持っている」などということは、オランダ側が出先機関を権威付けするために言ったことである。しかも、それは嘘なのである。総督は国王によって現地最高責任者として任命された臣下に過ぎないというのが本当のところである。

イエズス会の東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、1587年の「伴天連追放令」発布後に困難が予想された再入国に際し、自らを権威付けるために、ポルトガル国インド副王使節を名乗った。

ポルトガル、オランダと国が異なり、時期的にも30年以上の隔たりがあるが、ヨ-ロッパ人が自分たちで勝手に作り出した権威に関する幼稚な考え方は変わっていないのである。それを、逆手に取って交渉に臨んだ幕閣の手法は正しいし痛快である。


2.勝手な言い分をしたのはオランダばかりではない

末次船の船長浜田弥兵衛が台湾原住民を率いて帰国したという件に関し、ピ-テル・ノイツは「台湾の主権はオランダにあり臣下たる彼らは、われわれの同意なしに国外に出られない」と主張したと書かれてある。何と勝手な言い分であることか。

当時の領有に関する考え方からすれば当然の主張ではあるが、オランダもこういう考え方だったかと、改めて当時の幕閣の対外関係に関する慎重な姿勢に納得がいく思いである。

しかし、そもそも台湾原住民を連れ出した末次平蔵の意図が、「原住民の口から将軍に台湾の宗主権を奉呈させること」にあったのだから、日本人も身勝手さではヨ-ロッパ人に引けを取らなかったことになる。今でもそうかも知れないけれど。


3.この時代の突然死

1630年7月、オランダにとっての天敵末次平蔵が死んだ。「ゼーランディア城を破壊すること、すなわち、オランダ人が立ち去ること」を求めた平蔵と平戸侯のバタヴィア総督宛ての手紙が送られてから4カ月後である。

オランダ側は、「天罰によって狂い死にしたとも、不利な証拠を握られた幕閣の有力者によって暗殺された」と書いている。原因不明な死者があった場合、その死によって利益を蒙った者が下手人であっただろうと考えるのが普通である。オランダ人たちは、自分たちで手を下しておいて、天罰と称したということか。ただ、平蔵の場合、幕閣の有力者の投資を請け負ったり、閣老たちに賄賂を贈っていたと言われているから幕閣内に下手人がいた可能性も高い。

それにしても、この時代、科学的検視などがされた筈もないから、そんなに危険に身をさらしていれば命などいくつあっても足りなかったのではないか。

それで思い出すのが、1590年イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョが突然原因不明の死を遂げていることである。
あれは、確か、会にとって不都合が発覚しそうになった時だった。


〈つづく〉


# by GFauree | 2019-03-02 09:27 | バテレンの世紀 | Comments(0)

イギリスが消えた

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                         (写真撮影 三上信一氏)
         




渡辺京二著「バテレンの世紀」が読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞した。自分が注目した書物が広く採りあげられることは、それだけより多くの人と楽しみを共有できるような気がして嬉しい。

ところで、渡辺が「研究業績にはならないため、一般向けの詳しい通史を書きたがらない」とした研究者や、私が前回の記事に「こういう本は書きにくいのでは」と書いた教会関係者は、この本についてどう考えているのだろうか。改めて訊いてみたいところである。



さて、本題に入ろう。

江戸時代の初め、イギリスが対日貿易に参入しようとしたことは、どこかで聞いたことがあるような気がする。実際、イギリスは平戸に商館を開いたのだが、それがその後どうなったのかははっきりしない。そして、ポルトガルとの国交が断絶され「鎖国」体制が完成したときに残ったのはヨーロッパ諸国の中ではオランダだけだった。

いったいイギリスはどうなったのだろう。オランダが選択される過程で何があったのか。
「バテレンの世紀」から、その点に関する事項を拾ってみた。




1613年1月、イギリス東インド会社の司令官ジョン・セ-リスが率いるグロ-ブ号はジャワ島のバンタムを発ち、6月に平戸に到着した。平戸では、藩主の祖父にあたる実権者松浦鎮信がこの英国船一行を歓待した。セ-リスは松浦鎮信・隆信や彼らの重臣たちと親交を重ね、無論手厚い贈物をした。その甲斐あってか、商館開設は円滑に進んだ。

一方、平戸にはオランダ商館があったから、セ-リスは商館長ヘンドリック・ブロ-ワ-に対し「双方が所有する織物の価格を協定し、それ以下では売らぬことにしよう」と申し入れたが、ブロ-ワ-はこれを拒否し、翌日手持ちの織物を大幅に値引きして方々へ送り出した。

このオランダ商館との角逐以外にも、イギリス商館を悩ます要因が控えていた。当初ばかりは、松浦家から一方的に贔屓(ひいき)して貰えるように見えたものの、その蜜月も長続きしなかったのである。

平戸藩主は、幕閣に対しては商館の保護者であったが、同時に商館に贈物や融資を強要する厄介な金食い虫でもあったのだ。


日本と商売をするためには、日本人が欲しがるものを日本に齎(もたら)さねばならない。日本人が欲しがったのは、生糸と絹織物、それと鹿皮と蘇木。生糸と絹織物は、インドシナで中国船から入手する必要がある。鹿皮と蘇木の産地も、インドシナやシャムだった。

そこで、1614年春、要員をインドシナに派遣したが現地でトラブルが発生し、要員も資金も失う破目となった。続いてその年の12月、購入した和船をシャムに向かわせたが、途中暴風雨や日本人船員の反抗に見舞われ、結局翌年6月に船は平戸に戻った。

その船の船長を務めたのが、ウィリアム・アダムズである。アダムズは、漂着したオランダ船の航海士であった英国人で、家康に取り立てられ側近の家臣となったことで、広く知られている。

元々、英国東インド会社には、インドシナ・シャムでの商品仕入れの手がかりが無く、またその商圏に参入するとすれば、日本の朱印船と競合しなければならなかった。具体的には、日本に売るための商材となる生糸・絹織物はインドシナから入手できたが、結局は日本の朱印船にかなわなかったのだ。

このように、イギリスが苦戦している横で、オランダは東インド会社の方針として、マカオからのポルトガル船と、マニラへの中国船の拿捕・掠奪に専ら注力していた。特に、生糸を満載しているマカオからの定航船を狙っていた。只で強奪した商品を安値で売るのだから、よく売れたし常に儲かった筈である。

1618年、オランダ船は香料諸島で今度はイギリス船を捕獲し始めた。平戸のイギリス商館は、オランダの「海賊行為」を幕府に訴えたが採り上げて貰えなかった。

1619年10月には、イギリスとオランダは平戸の街中で乱闘事件を起こし、オランダ人水夫によってイギリス商館が襲撃された。

しかし、オランダがスペイン・ポルトガル両国と結んでいた12年間の休戦協定が終了しようとしていた。両国に加えて英国まで敵に廻すわけにはいかない。そこで、1619年オランダは英国との間に防衛同盟条約を結び、その条約に基き両国が同数の船を出し合って、10隻の防御艦隊を組織し、ポルトガル船・中国船を拿捕することとなった。


1620年7月、マニラからコーチシナ・マカオ経由日本に向かっていた平山常陳というキリシタンの率いる船が、台湾海峡で英船エリザベスに捕えられた。平山船は日本の朱印船であるが、渡航朱印状の行先がコ-チシナであるのにマカオに行っていたこと、そして、船底に二人のスペイン人宣教師を隠していたことを理由に拿捕されたものであり、防衛同盟条約に基いてオランダ船に引き渡された。

これが、後に55人の殉教者を出す「元和の大殉教」の引き金となった「平山常陳事件」の発端である。

1622年8月
、英蘭防御艦隊は解散した。
1623年5月、平戸のイギリス商館の閉鎖が決議された。
実は、この年3月、後に「アンボイナの虐殺」として喧伝されオランダ・イギリス両国間の外交問題ともなった事件が発生している。モルッカ諸島の南にあるアンボイナ島で、オランダによって英人10名、日本人9名が斬首された事件である。

イギリスは結局オランダに圧倒され、17世紀後半にはジャワ島から撤退し、インド経営に専念することになる。
                             


私の考えたことなど


1.ウィリアム・アダムズについて、その存在がイギリスの日本市場進出に当然有利に働いたのではないかと私は勝手に推測していた。しかし、実情としては彼が活用されることは余りなかったようである。

確かに上述のように、船長としてシャムとの間を往復するようなことは何回かはあったが、それによって平戸商館の業績が大きく伸びるというようなものではなかったらしい。

アダムズは、何よりも東インド会社司令官ジョン・セ-リスとの間に信頼関係を築くことができず、報酬を巡ってもひと悶着があったようだ。一旦は帰国を決意し家康の了解まで取りながら帰国せず日本で一生を終えることになったのだから、祖国に対するよほどの失望があったのではないかと推測する。

ただ、このようなことは一人アダムズに限ったことではないと私は思っている。
「鎖国」の時代、乗っていた船が漂流したために、救助してくれた外国に永く滞在せざるを得ず、結果として欧米で経験を積んだり教育を受けたりした、大黒屋幸太夫やジョン万次郎といった人たちのことである。彼らの伝記を読むと、帰国した後の彼らは、一様に深い失望を味あわされたようである。

彼らは、当然自らの苦難に満ちた経験とそこから得られた知識を活かす場を求めるが、彼らを受け入れる側は彼らを警戒し、彼らに信頼を寄せることも、活躍の場を与えることもしないのが普通だったようである。残念な事ではあるが、自分にない知識・経験を有する人を容易に認め受け容れるほど世の中は寛容ではないのである。


2.「平山常陳事件」について、「バテレンの世紀」に書かれている事柄を読んで、「キリシタン史」とは言え、その政治的・経済的背景を知ることが必要であることを改めて感じさせられた。と言うのは、以前この事件を知ったときには、その背景が掴めなかったために、何故この事件がキリシタン史上重要なのかが正直なところ分らなかったのである。

(1)第一に「なぜ、オランダは捕えた二人のスペイン人が宣教師であることを立証しようとして、二人をオランダ商館に監禁し、拷問を加えるまでしたか」である。幕府のキリシタン取締りのお先棒を担ごうとしただけではないのである。

まず、イギリス・オランダはポルトガル船でも中国船でもない日本の朱印船を拿捕したことを正当化する必要があったのである。

加えて、朱印船による交易が増加すれば、それだけキリスト教宣教師が潜入するなどの危険が増すとして幕府に警告し、自分たちと競合する朱印船の交易活動を抑制させようとしたのである。


(2)第二に「なぜ、長崎奉行長谷川権六は、自身がキリシタンであると疑われる危険を冒してまで、捕えられた二人のスペイン人が宣教師であることを否定したのか」である。

まず、権六はそのスペイン人二人のうちの一人ズニガをかつて逃したことがあり、その一件が露見することを恐れたのである。
また、権六自身が朱印船貿易に出資しており、その活動を抑制するような動きには加担する訳にはいかなかったのである。


(3)「バテレンの世紀」には、「近世対外交渉史家の永積洋子は、(二人のスペイン人司祭が宣教師であると認定されるに際し)トマス荒木が権六を説得して抵抗をやめさせた、としている」と書かれている。

確かに、永積洋子著「朱印船」(吉川弘文館)には「ズニガが宣教師であることを認めるよう、荒木が権六を説得し、権六も自分自身がキリシタンの疑いをかけられていると脅されて、これを承認したものと思われる。」とある。

実はこのブログの過去の記事で、私はトマス・アラキとこの事件との関わりについて触れたことがある。(https://iwahanjiro.exblog.jp/23508763/)しかし、私は、どうして、アラキがそこまで権六を説得したとされているのか、その根拠が知りたい。アラキが権六に対しそれほど発言力があったというのだろうか。


3.オランダと言えば、ひたすら幕府の意向に我慢強く従い対日貿易の市場に残った国との印象を持ってきたが、「バテレンの世紀」を読むとどうもそうでもないらしい。

拿捕と掠奪によってポルトガルに取って代っただけでなく、それを交易の手法として押し通しイギリスまでも東アジアの海から蹴散らした強面(こわもて)の面があったようである。

次回は、そのオランダと日本との間でどんなことが起きていたかを、見てみようと思う。



〈つづく〉
                    
                               

# by GFauree | 2019-02-12 03:03 | バテレンの世紀 | Comments(4)

バテレンの世紀

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ネタが少なくなってきた


今から20年前、50歳の頃から、キリシタン時代の歴史に興味を感じて本を読んできた。そして4年前、読んだ本の内容とか考えたことを忘れないようにと、このブログを書き始めた。書いた記事の数は80以上になった。

最初のうちは、一週間おきぐらいに記事が書けたが、月日が経つうちにその速度が鈍ってきた。記事を書くためには、先ず読んだ本の内容を理解し大体は覚えていて、自分なりの考えとか言いたいこと、そしてそれをどう書くかも頭の中にあることが必要である。そういう条件の揃った記事の材料、つまり書けるネタが少なくなってきたということである。

と言っても、キリシタン時代の歴史は大体でも分かっているなどとはとても言えない状態である。私の場合、自分が特に興味のある人物や事件をつまみ食いしてかじってきただけだから、知らないことは沢山ある。さて、どうしたものかつらつら考えているときにこの本に出会った。



「バテレン」という言葉は好きになれないが

「バテレン」という言葉には、分らない言葉や魔術を使う怪しい外国人という響きがあるように思う。それが神父を意味する「パ-ドレ」という言葉が訛ったものだということは、何時の頃からか知ってはいたけれど、子供時代、教会でその雰囲気に浸っていたためだろうか、その言葉は、部外者が教会の内部を意地悪い目でのぞいて侮蔑的に使うもののような気がしてしまうのだ。

ただ、著者が学者でも作家でもないところに期待できると思った。著者渡辺京二は思想家・歴史家・評論家であるとされている。よくある歴史・宗教学者や作家による歴史書ではないのである。



学者の書いたものは無難だけれど


一般に学者はあまりいい加減なことは書かない。しかし、歴史について100%間違いのないことなどあまり無い。だから、それだけを書くとしたら大したことは書けない。それに、確かに立証されていることだけを書かれてもあまり面白くない。

また、学者にも生活というものがある。カトリック系の大学の教員にとっては大学の母体である修道会の意向を斟酌せざるを得ないことがあるのではないか。また、研究者が、将来にわたって研究のための情報源を確保しようと思えば過去のことではあっても、教会・修道会の欠陥を指摘するようなことは、あまり書けないのではないか。



あまり作家に頼るのは


歴史については作家が見解を語らされることも多い。しかし、小説に史実を書かねばならないという決まりはないから、小説には何を書いてもいいのである。例えば、遠藤周作は代表作である「沈黙」に堂々と史実と異なることを書いている。成功しているとは思えないが、より効果的な表現を狙ったのだろう。つまり、作家は史実に基いて何かを語るという役割に必ずしも向いていないのだ。



この著者は条件に適う


そういう意味で、以前から私は「キリシタン時代史」について教会とは関係のない、また学者でも作家でもない人の見解というのを聞いてみたいと思ってきた。けれど、学者でも作家でもなく歴史を語れる人は少ない。渡辺京二は珍しくその条件に適っているようである。

加えて、渡辺京二の多数の著書の内容や経歴から、冷静な内容や解り易い文章も期待できると思った。私は、冷静さや解り易さということに充分配慮されていない文章は、どうしても読まねばならない場合を除いてはできるだけ避けてきた。そんなものに付き合っている趣味も体力もないからである。一般の読者を侮ってはいけない。冷静で解り易い文章の書ける人であるからこそ、渡辺の本は売れているのだろう。
はたして、結果は期待通りだった。



本の内容は、キリシタン時代の「通史」だ


本の内容は、日本がポルトガル人に「発見」されてから、ポルトガル人を「追放」するまでの約百年間の、キリスト教布教に関する歴史である。一定期間のキリスト教布教に関する多様な事柄を記述した歴史だからか、著者はこれを「通史」であるとしている。

(辞書には「通史とは、時代・地域・分野を限定せず、全時代、全地域、全分野にわたって時代の流れを追って書かれた歴史である」とされているが、「バテレンの世紀」の対象とする範囲はそれより限定的である。)

渡辺は「あとがき」に、「研究者は一般向けの詳しい通史を書きたがらない。労のみ多くして、研究業績にはならぬからである」と書いている。しかし、私は多くの研究者にとって一般向けの通史を書くことは、業績にならないだけでなく、通常の研究と違う素養を要するために、それ自体が難しいのだろうと思っている。「通史」を書くためには人間や社会に対する豊かな常識や深い洞察力が必要だが、たとえ相当の知識を有する研究者であっても、それらを備えているとは限らないからだ。



歴史書は簡潔な方がいいか、詳しい方がいいか


また、渡辺は「一般の読書人にとって、欲しいのは詳しい通史である。なぜなら、歴史叙述は詳しいほど面白いからである」と書いている。

キリシタン時代に関する本を読み始めてから、今まで一番お世話になってきたのが、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」(岩波書店)である。これは、副題のとおり、「ザビエル渡日から『鎖国』まで」のキリシタン史を概説風に論述したものだから、渡辺の言う「通史」に該当する。大学の通信教育のテキストとして書かれたものであるためか、とても解り易く書かれているうえに、簡潔だから全体感が掴みやすい。

一般の読書人である私にとって、キリシタン時代史を知るうえで先ず必要だったことは、歴史上の各事象の概略と全体の流れを掴むことである。だから、簡潔な「キリシタンの世紀」は有難かったのである。

しかし、歴史というものは、詳しい内容を知れば知るほど面白くなってくるのだから、「詳しい通史」ほど望まれると渡辺は言う。だから、「通史」が大部なものになるのはやむを得ないということになる。確かに、歴史は詳しいことを知れば知るほど面白くなってくる。そういう意味では、渡辺のこの「バテレンの世紀」でも、もっと詳しく書いた方が良かったのではと思わせる箇所があるくらいなのである。

例えば、フランシスコ・ザビエルと、共に来日した司祭コスメ・デ・トルレスについて、二人が出遭った経緯である。ザビエルはバスク地方、トルレスはバレンシアと二人ともスペイン出身である。ザビエルはイエズス会創設に加わった後、ポルトガル国王の要請を受けてアフリカ廻りでインドへ行き、布教のためにインドネシアのモルッカ諸島を巡っていた。一方、元々は修道会に属さない教区司祭であったトルレスは、太平洋探検航海を企てるスペインのビリャロボス艦隊に乗り組んでメキシコを発ち、艦隊がポルトガルとの戦いに敗れたため離散し、モルッカ諸島を放浪していた時にザビエルと出会った。この話から、当時のポルトガル、スペインの動向が浮かんでこないだろうか。だが、この本ではそこまでは語られてない。

簡潔なほうがいいか、詳細な方がいいか分からなくなってしまったが、要はどちらにせよ徹底することが必要なようだ。そういう意味で、この本は450ページ超の大部だが、それでも少し物足りない。



この本で特に強調されていること

ひとつは、ペリ-来航など幕末からの欧米諸国との通行はセカンド・コンタクトであり、キリスト教伝来こそがファ-スト・コンタクトだった、ということ。セコンド・コンタクトでは、ヨ-ロッパ諸国は文明的優越者として、わが国の前に出現したが、ファ-スト・コンタクトにおいては、「アジアは経済的文化的先進国であり、ヨ-ロッパは後進国的立場にあった」ということである。この点は、「ヨ-ロッパ⁼先進国」という先入観に浸かってきた我々が見逃しがちなことである。

そこで私が思い出した一つの逸話は、フランシスコ・ザビエルが大学で学んでいた頃のパリの街路には、至る所に人糞がころがっていた、ということである。人々が排泄したものが、窓から投げ捨てられていたからである。たしか、そんな不潔な環境が疫病蔓延の要因となったらしい。ザビエルは、そんな環境で学んだ人なのである。

もうひとつは、イエズス会が「マルクス主義前衛政党を彷彿とさせる戦闘部隊だった」ということ。それについて、私が思うことは、組織的な海外事業の進め方という点で、イエズス会が後世に多大な影響を与えているのではということである。

相似しているのは国際共産主義活動だけではない。イギリス、オランダのアジア進出の担い手は、各々の東インド会社だったということは確か教科書にも書いてあった。そもそもイエズス会は商社にとって重要な情報管理や伝達手法などの面で東インド会社に影響を与え、それが彼らの成功の要因になったという面があったのではないか、と思うがどうだろうか。

スペイン語でla Compañíaと言えば、イエズス会(Compañía de Jesus)を意味する。ということは、イエズス会は英語で言えばthe Company(会社)なのだから、東インド会社(West India Company)がイエズス会に相似しているのは当然かもしれないが。



キリシタン時代史は後期三十年弱が面白い


私にとっては、約百年間のキリシタン時代のうち、家康による禁教令以降の三十年弱が特に興味深い。それは、弾圧が厳しさを増していった時期ではあるが、布教開始から七十年が経ち、教会の活動については正直な人間的側面が露わとなり、信者にも社会的に成熟した人物が現われ、対外的にはポルトガルからオランダへの切り換えが進められキリシタン教会の活動を支えた基盤が露呈して行った時期だからである。ところが、この時期の動向を語る本は意外と少ない。この本はその時期についても目配りがされている点で有難い。

例えば、以下のような事項である。
・なぜ英国は対日貿易の場から消えて行ったか。また、ウィリアム・アダムズ(三浦按針)はどう関わったか
・オランダは貿易相手国としての地位を獲得するためにどんな行動をとったのか
・「島原の乱」の真相は

次回以降、これらについてこの本から読み取った内容をまとめてみようと思う。



〈つづく〉








# by GFauree | 2019-01-04 09:37 | バテレンの世紀 | Comments(8)

オランダがポルトガルに取って代ろうとしたとき



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通商許可証(徳川家康名朱印状)

     オランダ船、日本に渡海の時、何(いずれ)の浦に着岸せしむると謂(いえど)も、相違あるべからず候。
     向後、この旨を守り、異議なく往来せらるべく、いささかも疎意あるまじく候也。よって件(くだん)の如し。

     慶長14年7月25日(1609年8月24日)   御朱印

     ちゃくすくるうんべいけ              
                                (出展 Wikipedia)







1609年6月29日、マカオからのポルトガル船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号(以下、ダ・グラサ号と略して表記する。)が長崎に着いた。翌年1月、カピタンモールであるアンドレ・ペッソアを含む乗員と高価な積荷もろとも焼け落ちた船である。



クリストヴァン・フェレイラのこと



この船で日本に渡来した者の中に、その約二十年後日本イエズス会管区長代理を勤めながら棄教し、小説「沈黙」にも登場することになるポルトガル人司祭クリストヴァン・フェレイラがいた。フェレイラは1600年にリスボンを船出し、インド・ゴア、マカオで学んだ後、この時初めて日本の地を踏んだのである。(https://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/

「ダ・グラサ号事件」によって日本のキリシタン教会は実に様々な打撃を受けた。だからフェレイラが、自分の乗船してきた船が焼打ちされた事件を通じて、赴任当初からその教会の抱える現実に気付いていた可能性は少なくない。(https://iwahanjiro.exblog.jp/21320097/

また、「事件」と、その後二十年近くの活動の末結局は棄教し「転びバテレン」として生きなければならなかったフェレイラの人生とを考える時、つい彼の宿命とか不運というものに思いを致してしまうことは感傷的に過ぎるかも知れない。しかし、赴任早々にこの事件に遭遇してしまったことが、彼をしてキリシタン教会の諸問題に目覚めさせ、素直に教えに殉じていった宣教師達とは違う考え方を彼に与えたのではと思うが、どうか。



通辞ジョアン・ロドリゲスのこと



この事件によって運命を左右されたと思われるイエズス会士がもう一人いる。

日本イエズス会のプロクラド-ル(財務管理責任者)を12年間も勤め、会の中の最高の階位「盛式四誓願司祭」に位置付けられ、秀吉、家康の外交顧問と目されポルトガル船貿易に強い影響力を有していたツズ(通辞)ジョアン・ロドリゲスである。(https://iwahanjiro.exblog.jp/23147187/

ロドリゲスは、ダ・グラサ号の長崎到着の翌月、船団の代表一行を率いて駿府を訪れ家康に謁見しており、その行動が事件の混乱を招いたとして、その責任を問われるかたちで事件直後マカオに追放された。追放については、奉行長谷川左兵衛と代官村山等安の策謀だったとの説がある他、ロドリゲスと等安の妻との醜聞も取り沙汰されている。しかし、いずれにしても長崎貿易の新たな管理体制構築のためのポルトガル船及びイエズス会に対する締め付け、排除であったことに間違いはないようだ。

ただし、前々回記事で採り上げたイエズス会内部の報告(以下、「報告」と表記する。)では、ロドリゲスについては船団代表の駿府訪問を引率したことも、事件直後にマカオに追放されたことも一切述べられていない。会にとってそれらは全く取るに足らないほど些細なことだったということなのか、それとも切り捨てねばならないほど都合の悪いことだったのか。



さて、本題に入ろう。

ダ・グラサ号長崎到着の直後である7月初め、2隻のオランダ船が平戸に到着した。
すると、両国の船は長崎奉行を通じて家康に働きかけ、互いに相手の船を捕獲させるべく使節を駿府に送った。


通商許可朱印状

先に駿府に到着したのはポルトガル船の使節であったが、家康はなかなか会おうとはせず、五日後に到着したオランダ船側の使節と先ず接見した。そして、通商を許可する朱印状を与え、平戸商館の開設を認めた。その朱印状が冒頭に掲載したものである。

ポルトガル船の使節にはその後会見し、マカオでの日本人争乱虐殺事件に関して、ポルトガル側が日本船の寄港を禁止するよう要望したのに対し、その要望通りの朱印状を与えた。しかし、オランダ船を捕獲するようにとの要請に対しては、既にオランダに対して通商許可を与えており、それを破棄するつもりはないと回答した。

つまり、オランダとの通商を優先するとの方針はこの時点で既に決定されていたのである。それは、従来自由放任のおそらくは法外にに有利な交易を許容され、自分たちが家康に事情を説明し要望しさえすれば何でも聞き容れられると多寡をくくっていたポルトガル人にとって寝耳に水の話であったようである。



ところで、オランダ船の平戸到着は、なぜポルトガル船の長崎到着(6月29日)の直後(7月1日)だったのか。
「報告」の翻訳の注釈によると以下の事情があったのである。


オランダ船がポルトガル船とほぼ同じ時期に到着したわけ

1607年12月に13隻の商船がオランダを出航、1608年11月マラッカ沖(シンガポ-ル海峡)に投錨して、マラッカ包囲を目論んだが付近の海港ジョホ-ルからの援軍が得られずそれを断念した。(ということは、ジョホ-ルにもオランダ勢力が駐留していたということか。)

11隻はバンタンに航行したが、残り2隻には、ポルトガル船の捕獲又は、日本での交易開始が指示された。この2隻は台湾と中国本土の間で数日間ポルトガル船を待ち伏せた。ところが、濃霧のためポルトガル船は発見されることなく通過し、それに気付いた2隻のオランダ船はやむなく日本まで追跡して来たのだった。


これらの経緯を観て、私には二つの事柄が印象に残った。


第一に、まるで海賊のようなオランダ船の行動


もともと、日本に来た2隻は物理的なマラッカ包囲、シンガポ-ル封鎖を企図してオランダを出航した13隻の大船団の一部であったこと。2隻はまず台湾海峡でポルトガル船を待ち伏せし、濃霧で見失ったために追いかけて来たものであること等を聞くと、商船とはいえまるで戦艦か海賊かとの感がある。

しかし、考えてみれば、これはオランダに始まったことではない。アフリカ、中東、インド、マラッカ、マカオ等の拠点を押さえ進められてきた十五世紀初以来のポルトガルの海外進出の歴史も海賊まがいの行動の集積であったと想像してもそれほど間違ってはいない筈である。


第二に、ポルトガルは、もうこの時期からかなり追い込まれていたということ

日本とポルトガルとの国交は、「島原の乱」の後1639年に発布された第五次鎖国令によって断絶したとされている。そのため、その30年も前のダ・グラサ号事件の時点では、ポルトガル船貿易はまだ安泰であったと考えがちである。しかし、この時点でポルトガルは既にアジアの制海権をオランダに奪われ、ダ・グラサ号のマカオ帰還も覚束ないほど追い込まれていたのである。


しかし、ポルトガル船貿易を苦境に立たせた要因は、オランダによる海賊ばりの捕獲作戦だけではなかった。


新たな貿易管理制度の導入

まず、前回の記事に書いたように、奉行長谷川左兵衛や代官村山等安による貿易管理制度の導入があって、従来のような自由な活動が許容されなくなったこと。


朱印船貿易の隆盛

次に、40人余りの日本人が虐殺された「マカオ争乱事件」で表面化したように、日本の朱印船貿易が隆盛となりポルトガル船の商圏を侵食するまでになっていたこと。

私は、「マカオ騒乱事件」でのポルトガル人の強硬な対応が、どうも従来抱いていた柔軟で腰の低いポルトガル商人のイメ-ジにそぐわないと感じていた。また、40人余りの日本人の殺戮を指示していながら、それを堂々と家康に申し開きできると考えたアンドレ・ペッソアの考え方にも合点がいかなかった。

しかし、そもそも「マカオ騒乱事件」の遠因が日本の朱印船の台頭に対するポルトガル人や関係する中国人の羨望または怨恨にあり、カピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアの強硬な対応は朱印船を送り出す日本に対する彼らの反感に突き上げられてのものだった筈であることに気付いた。

だとすれば、ペッソアとしては度を超した強硬な対応と考えられることも指示せざるを得なかったのかも知れない。そして、対応を指示した責任に見合う面目を保つために、あくまで家康に直接釈明することにこだわったのではないか。それは、軍人出身者らしい一見強気な自信ある態度にみえたようだが、追い込まれた苦し紛れの心境が逆に彼を強気に見せていたのではないか、とも思わせる。


マニラからのスペイン船の参入

さらに、これは「報告」に書かれていることであるが、奉行長谷川左兵衛が「フィリピンのスペイン人からマニラ・長崎間の貿易を持ちかけられている」と語ったということである。この時代ポルトガルはスペインと同一の君主を拝し、実質はスペインに併合されていたのだが、そのスペインさえ競争者として参入しようとしていたということを意味する。

実際に、1606年には7~8隻、1609年には5隻マニラからのスペイン船が来航し、大量の生糸をもたらしたために、生糸価格を大幅に下落させている。

さらに、ポルトガル人にとって不運なことに、ダ・グラサ号の長崎到着の三月後の9月末、フィリピン臨時総督であったスペイン人 ロドリゴ・デ・ビベロの乗った船が、マニラからアカプルコへの途次、千葉岸和田海岸に漂着した。救助されたビベロは、それを好機として家康との間に貿易協定締結を進めようとしていた。


ポルトガル人が長崎交易に固執した理由

それにしても、これほどの悪材料がありながら、なぜマカオのポルトガル人達は長崎との交易に固執し、その後三十年も続けようとしたのか。実際、国交が断絶された年の翌年1640年には、貿易再会を嘆願する使節が派遣されたが全員が捕えられ処刑されたほどなのである。

人は一旦覚えた蜜の味がどうしても忘れられなくなるとよく言われる。それほど特権と自由に守られ放任されていた長崎貿易は旨味があったということなのだろう。そしてまた、奉行左兵衛、代官等安が見透かしていたように、長崎貿易なしではマカオというポルトガル人居留地の経営自体が成り立たなくなってしまっていたのであろう。


ポルトガル船貿易はなぜそれほど脆(もろ)かったのか

ザビエル渡来以来の90年間、キリスト教布教がポルトガル船貿易に支えられていたという見方を認めたがらない人は少なくないが、そう間違ってはいないのではないかと私は思う。そして、ポルトガル船貿易がキリシタン教会にもたらした経済的基盤は一見強固なものだったように見える。しかし、その基盤は国交断絶の約30年前からすでに崩れかかっていたのである。

ポルトガル船貿易が、実はなぜそれほど脆いものだったのか。考えてみれば、ポルトガル船の主要商品は絹、織物、陶磁器それに香料である。全て中国や東南アジアの産品であり、ポルトガル船でなければ扱えない商品などないのである。そうであれば、ポルトガルの地位に取って代る勢力が現われれば、比較的容易に新しい勢力に挿げ替えられるような性質のものだったということも言えるかも知れない。


「鎖国」にはキリシタン禁圧以外の目的があった


「ダ・グラサ号事件」の時点でポルトガル船貿易が抱えていた問題を数え上げてきたが、それらはまたポルトガル船貿易が衰退し消滅していった要因でもある。しかし逆に考えてみると、これだけの要因がありながら、なぜその後三十年間もポルトガル船貿易を存続させたのかが不思議である。

通説では、「鎖国」はキリシタン禁圧を徹底するための政策だったということになっている。そうであるならば、早いに越したことは無い筈である。これだけ条件が揃っていた時点ですぐにでもポルトガルを排除し、禁教を徹底すべきだったのではと思える。ところが、実際にはそうはされなかったポルトガルとの国交断絶によって禁教を徹底することは、幕府にとってそれほど急ぐ必要のあることではなかったのだろうか。

実は、当時の幕府にとって、対外取引に関して、解決せねばならない問題が他にもあったと言われている。それは、対ポルトガル船も含む対外的な貿易によって銀が大量に流出していたことである。当時、流通経済の中枢である大阪は銀本位制であり、流出によって大阪の銀が不足すれば流通経済に支障をきたし、物価騰貴などの経済的混乱が全国に波及しかねなかった。1600年代の初め、江戸時代の初期に物価が高騰していたことが指摘されている。

そのため、ポルトガルとの国交断絶等の「鎖国」政策の真の目的は、「貿易による銀の流出」を防ぐことであって、「キリシタン禁制」は名目または副次的な目的に過ぎなかった、という見方さえあるのである。ただ、もしそれほど「貿易による銀の流出」が深刻で早期に解決すべき問題であったのであれば、なぜポルトガルとの国交断絶がもっと早期になされなかったのかという疑問は残る。

実際にポルトガルとの国交を禁じた法令は1639年の「鎖国令」であるが、それが発布された理由は、1637年から38年にかけての「島原の乱」の平定に手を焼いたことだと言われることが多いようである。

結局真相は、幕府は「キリシタン禁制」や「貿易による銀の流出防止」の課題を抱えながら、ポルトガルとの国交については事態を見守り続け「島原の乱」を契機に断行に踏み切った、ということのようだ。なんだか月並みで面白みのない結論になってしまったが、「歴史」というものはその方が本当らしいという気もする。

(最後の部分は当初の記事を少し冷静になって考え書き直しました。)




〈完〉




[参考文献]

「キリシタン研究」 第十六輯「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」 五野井隆史  吉川弘文館

アンドレ・ペッソアが1609年に〔日本〕航海カピタン・モ-ルとして来航したナオ、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号焼亡に関する報告書 日本イエズス会準管区長付き秘書ジョアン・ロドリゲス・ジラン神父

「キリシタン研究」 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」          Hubert Cieslik S.J.   吉川弘文館

通辞ロドリゲス   マイケル・ク-パ-著 松本たま訳          原書房
鎖国とシルバ-ロ-ド 世界の中のジパング 木村正弘       サイマル出版会
うめぼし博士の逆・日本史[2]       樋口清之       NONBOOK


# by GFauree | 2018-11-23 09:11 | ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件 | Comments(2)