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消えていった或る理想郷 そのVI  第四章 度し難い俗物の話

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今回は、Robert Bontine Cunninghame Graham(ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)著『A VANISHED ARCADIA』(『消えていった或る理想郷』)の第4章の内容をご紹介したい。


[そのⅢ]の記事に書いたことだが、パラグアイの首都アスンシオンは1537年8月15日にスペイン人司令官ゴンサロ・デ・メンド-サによって創建された。そのちょうど12年後、1549年8月15日にイエズス会のフランシスコ・ザビエルが薩摩に渡来した。

そのアスンシオンに、1642年に新司教として赴任してきたのがドン・ベルナルディノ・カルデナスである。ただし、カルデナスは3年前に司教に任命されたのだが、何故か彼の司教叙階を認めるロ-マ教皇教書が届かず、未だ正式には司教になっていなかったのだが待ちきれずに現地に来てしまったという事情があった。

ちなみに、1642年は、イエズス会のアントニオ・ルビノ神父が他の4人の神父と3人の従者(修道士か同宿と思われる)の合計8人で7月にマニラを発ち、8月に薩摩に上陸した年である。8人は捕縛され、長崎へ連行された後、大村の牢に収監され全員が処刑された。日本の「キリシタン時代」末期の、典型的な出来事である。それは、種子島への「鉄砲伝来」から、ちょうど100年後にあたる。


この第4章に描かれている第一の要素は、スペインの南米植民地のひとつであるチャルカス生まれのフランシスコ会士ベルナルディノ・カルデナスが、野望と狡猾さを駆使して如何に司教の地位にのし上がっていったかである。

第二には、司教カルデナスとパラグアイ総督グレゴリオ・デ・イノストロサの角逐である。この時代のローマ・カトリック教会の海外布教は、王権という国家権力と教会という宗教的権威が教俗一体となって推進することが建前であった。王権が殆ど具体的に影響を及ぼすことのなかった日本等での布教に比べると、南米での布教は、その意味で「理想的な体制」で布教が進められたと見ることもできるのだが、実態はどうだったのか。王権の出先機関である総督と教会側代表である司教の間に何があったかが描かれている。

第三は、司教や総督とイエズス会との関係である。イエズス会が教化村を「理想郷」にも譬えられるものに育てながら、結局はそれが消失し自らも追放される、その宿命の萌芽が司教や総督とイエズス会の関係の中に見られるという意味でそれは重要である。


それでは、以下に第4章の内容をご紹介しよう。



カルデナスの生い立ち

ドン・ベルナルディノ・カルデナスはラ・プラタの町に生まれた。そこは、その頃アルト・ペル-と呼ばれていたボリヴィアのチャルカス地方の首府である。ラ・プラタは、時にはチャルカスと呼ばれ、今日ではスクレとして知られている。

彼の生年月日は、確かではないが、17世紀の初期の頃であったようだ。彼は、幼い時にフランシスコ会に入った。フランシスコ会が新世界での最初の聖人を生んだという栄誉を担ったので、その聖人を見習うことが幼い頃からのカルデナスの夢であったようだ。

この願望に従って、彼は真面目に精進したようであり、生きている間中ずっと聖人の地位の夢に取りつかれていたらしい。彼は、神学の、どちらかと言えばむしろうわべだけの勉強をし、それから説教に没頭したが、そのうち、記憶と自信と流暢さがあれば、目立つ才能の方が内容のある学識より尊重される国で成功することは容易であることを知った、とシャルルボアは語っている。

確かに、確信と記憶と流暢さのない説教者というものは、どこの国でも成功した試しがない。世界の何処の国でも、目立つことの方が非常に深い学識より遥かに尊重されるのである。その上、彼は先見性のある男(神の啓示を受けた人)であり、それは彼が大事にひけらかしたことである。

先見性というものは、一般に聖人たちの場合、魂の眼だけによって何かを見ること(心の中の耳でお告げを聴くこと)である。それ故、もしそれを授けられた者が気付かなければ、損害を被る危険のあるものである。シャルルボアの言葉によれば、彼はかつて生きた者の中で最も夢中になりやすい男であった。


聖人を目指して

最初の成功によって(説教者としてであるか、熱中しやすい者としてであるかは定かではないが)、彼の上長たちは彼をラ・プラタのコレジオの校長に任命したが、直ぐに自分たちの選択を後悔した。また、彼は、布教長に任命された時、直ぐに偉い人のお定まりの経歴として、聖人に指名されることを求めた。

聖人には、様々なレベルがある。そして、カレンダ-を見渡すと、彼らが辛苦して目的を達成した方法が如何に多様であるかに心を打たれる。

フアン・マヌエル王子は、彼の書「守護の聖人たち50人の楽しい話」の前書きの中で語っている。「神は多くの奇妙な事柄をなしたが、特別に素晴らしいことをしたいと考えた。それは、地球上にいる無数の人々の中で、誰ひとりとして、顔が他の誰かに完全に似ている者はいないようにする。」ということだ。彼は、聖人について、また聖人の生き方について、同じことを言っただろう。

ある者は、アシジの聖フランシスコのように、自分の父親を全く侮辱して卑劣に扱ったが、他の創造された人と全ての動物に対しては、まるで兄弟のように振る舞ったのだ。アビラの聖人(聖テレジア)は、修道院を建て商売人と交際しロバに乗ってスペイン中を旅する間に幻影を見た。さらに、もう一人の者は、先住民や日本人に説教し、財産を放棄し、家から家へとパンを求めて歩き、悪魔の代弁者に対し自分に逆らう言い逃れや屁理屈を殆ど許さなかった。そして、最後にあなたは、彼らの状況や性別による「殉教」とか「童貞」とかいう単なる表面的なレッテルを評価しなくなる。


「使徒的宣教師」に選ばれる

ドン・ベルナルディノは、これらの如何なる手順も踏もうとはしなかった。重い十字架を背負い、全ての聖職者を引き連れて、裸の頭や背中に惨めに灰を被り、公然と自分を鍛錬するために、ある日航海に出ることにした。だが、こういう企てが、どこの世界でもできるという訳ではなかった。なぜなら、彼の上長たちは、彼に修道院の門の内側に留まることを命じたからだ。そして、彼は留まったが、彼の伝記に書かれたように、逆にそこでした聖書研究のための黙想が、次に説教をした時には雄弁さで聴衆を魅了するという効果を挙げることになったのだ。

このすぐ後、ラ・プラタの大司教が、彼の教区の先住民の道徳改革を目的として、教区会議を開いた。カルデナスは流暢な話者であったから、「使徒的宣教師」の地位に選ばれた。この時、彼の名声の始まりが刻まれた。

その頃、チャルカスとペル-全般の先住民は、悲惨な境遇に沈まされたまま、殆ど奴隷状態から解放されていなかった。彼らの宗教はキリスト教と異教の混合であり、先住民は、カルデナスの型の流暢な説教者がうまくやっていけるちょうどそういう種類の人々だった。

先見性のある預言者、奇跡を起こす者、神聖な啓示を受けた者としての彼の名声によって、何処においてもより重視され、説教をし、改宗させ、告解を聴き、地方全域に亘って、彼は使徒的な前進を遂げた。彼は、巡礼者のような衣装を着け、裸足で木の十字架を運び、町から町へ先住民の群衆を引き連れるなどして、自分の流儀を通した。

南米における信仰は(カトリックもプロテスタントも)、ヨ-ロッパから見て東方(つまり中東)の元来の形に戻る傾向が常にあった。東方(つまり中東)は、確かにキリスト教が生じた所である。

広大な原野や森林、そして移動のための膨大な距離の影響によって、プロテスタントの間には野外テント集会の活動が導入され、一方、カトリック信者はある種の巡回布教活動をしばしば行った。それは、一つの村の人々が説教者に従って次の村に行くというようなもので、パレスチナで人々が洗者聖ヨハネに従ったのと同様なものだ。


豊かな鉱山の情報を掴んだので

やがて、カルデナスに従っていた先住民が、スペイン人に秘密を洩らさないという条件で豊かな鉱山について彼に語ったという噂が広がった。当時、鉱山の捜索は、ペル-において殆ど狂乱状態の中で行われていたのだ。

今日でさえ、殆ど全ての鉱山の町では、貧しさに打ちひしがれた謎めいた男が、ときどき非常に用心深く、あなたに近寄って来て、油で汚れた紙に包まれた物体をポケットから引き出し、これは紅銀鉱だと示し、また、それが何トンもある所を知っている、と明言するのだ。

メキシコでは、「流浪者」として知られる奇妙な類の鉱夫たちが、つるはしと鍋で武装して、食いしん坊がココア・キャンディ-を探すように鉱山を捜索して生活し、シエラ・マドレの谷を通ってうろついた。もし、彼らが鉱山を発見しても、彼らは決してそれらを操業しようとはせず、僅かな金額で秘密を売って金を飲み尽くし、彼らの黄金郷は未だ先にあるのだからと、アパッチ族の弾丸と弓矢が彼らを止めるまで、アステカ族によって動かされている鉱山を見つけるために、再び出発するのだった。彼らは、彼らのつるはしとシャベルの傍らに、飢え死にした姿で見つけられた。

メキシコでもペル-でも語られるとき、事は大袈裟だった。だから、先住民がカルデナスに語った鉱山の話が巨大なものになっていたとしても、おかしくはない。なぜなら、ついにはコチャバンバ市長が、その話題について、ペル-副王サルヴァティエラ伯爵に話したのだから。

シャルルボアが言うところによれば、あたかも神聖なる宣教師に有利なように全てが動いているようだった。彼は、魂を救うことに満足せず、自分の生れついた土地に利益をもたらそうとしたのだ。

彼は勝利のさなかに、リマに呼び戻されたが、それが偽りの鉱山について副王と協議するためであったことは、誰も疑わなかった。更に、他の者は、司教冠が成功した宣教師に与えられるものと考えた。それ故、多くの者が、極めて貧しい人々までも、彼の前途を助けるための金を供出することを求められた。

彼は、極めて強い使徒的確信を持って、自分に供されたもの全てを受け取った。誰かが考えるように、鉱山は本当の話だから、借りたもの全てを高利と共に返済できると確信して、または他の者が言ったように、事態に無頓着に、そして高利が存在せず、また金が人を堕落させることもない、より良い国で返済すると(勝手に)信じたのか。

副王は殆ど信仰のない男だったから、偽りの鉱山を調べるべく使者を送り、そして、それは存在しないことを知った。


鉱山の情報が嘘だったことが明らかになり、修道院で隠遁生活を送る

カルデナスの上司たちは、フランシスコ修道会の高官たちが南米全体において自分たちが正しいことをしばしば立証してきたように、判断力の確かな人たちだった。それゆえ、彼らはカルデナスに、彼が公衆の面前でむち打ちや十字架を背負った行列をして、多くの人の気分を害しており、とりわけ説教の中で主張したことで検邪聖省の譴責に彼を追い込みかねないところを救ってきたことを伝えた。

リマの修道院が、服従の美徳に基く隠遁と黙想の場として、彼に与えられた。我々が信じても尤もなことであるが、彼が、とりわけ従順に非常に気づかう聖人になる素質を持っていると感じる者は誰もいない。だから、修道院では彼は、自分の罪について黙想する代わりに、インディアス評議会への請願書を書いたり、先住民の中に福音を広める方法についての、まだ途中の意見を提案したりして時間を過ごした。


教化村の人口をめぐる総督たちとイエズス会士との論争

と言っても、先住民への宣教は彼にとってやり易い条件が準備されている訳では決してなかった。洗礼を受けた先住民の各人が、スペイン政府にとってかなり多くの年間収益を意味したのだ。

改宗と課税は密接に関係していた。それ故、先住民は、改宗されていないうちは国庫に何ももたらさずに、有難い‘’永遠の真理‘’を教えてもらったが、改宗された後は自分がキリスト教徒であることを示すために、一人当たり相当の課税をされるようになる、というわけである。そのため、パラグアイの教化村では、先住民各自は一種の人頭税として毎年1ドルを払っていたことが分かっている。

そして、パラグアイ総督たちとイエズス会士との間の論争の大部分は、課税可能な先住民が一体何人いるのかというところから発生したのだった。総督たちはいつも、教化村の人口は、税金逃れのために嘘の数字を回答するイエズス会士のせいで全く増えないと主張していた。


自分は修道会(フランシスコ会)の出身なのに、修道会司祭を擁護せず

カルデナスは、インディアス評議会に対する請願の中で、先住民を正式の司祭(修道会に所属するという意味―当時は修道会に所属する司祭こそ正式な司祭である、と一般に考えられていたのだが)の下に置くことは適切でない、と繰り返し主張している(つまり、その時は、教区司祭を統括する司教の立場で主張していた)が、後に正反対の主張をするようになる。(要するに、ご都合主義だったのだろう。)


司教への昇進

昇進というものは、我々も知っている通り、東からも西からも来るものではなく、彼の場合もその通りで隠遁生活の中に落ちて来た。著名な官僚である、彼の友ドン・フアン・デ・ソロルサノの影響力によってであった。ソロルサノは、グアンカヴェリコの知事であった時、彼の説教を聴いたのだ。カルデナスは、自分自身でパラグアイのアスンシオンの司教を名乗っていた。

この一つの幸運で、彼は修道院を出られることになった。そして、司教職を手に入れる権限を彼に与える教皇教書の到着を待つべく、彼は直ちにポトシへ行った。彼は、修道会の習慣に従って、胸に小さな木の十字架を付け、頭に緑の帽子をかぶって、そこに現われた。その衣装は、彼の新たな地位の威厳にはそれ程相応しくはないにしても、少なくとも先住民の好みには合っていた。


聖人のような謙虚さの蔭で

彼の伝記作家は告げている。誰にも何も言わずに、彼は説教をし、告解を聴くことを始めた、と。全くの根拠も無しに、贖宥やささやかな信心の対象物をばらまく羽目になったが、各説教の終わりに、聴衆の間に緑の帽子を回した。(抜け目なく、献金を催促したのだ。)彼の説教の才能は大いに役立ち、各説教の終わりには贈り物が彼の上に降り注がれ、人々は彼を家に招いた。

ある人々は、司教であるのに単なる司祭としてへり下って勤める彼の振る舞いを、聖人のような謙虚さの証しとして受け取った。大司教の意見は違ったが、ドン・ベルナルディノが多数の信者を得ていることを見て、自分の憤りを隠す方が良策であると考えた。カルデナス自身は、軽率にも自分から大司教に自分を司教職から外す口実を提供してしまった。


行かねばならないアスンシオンに行かず、ただ町を去ったカルデナス

ひとりの金持ちの先住民が、死の床でカルデナスに告解を聴いてもらい1万フランを彼に残した。彼は、それに満足せず、ディエゴ・ヴァルガスという者を動かして遺言を変更し、自分に金を残すようにした。これについて、アスンシオンの大司教は手紙を書き、彼自身の司教管区を管理するよう頼んだ。

彼は行かねばならないことが分かっていたが、ただ町から去った。その町は、彼が殆ど無一文で入って来た所だ。しかし、去る時には、彼は金と銀と家具を運ぶラバの長い行列と一緒だった。


サルタに現われたカルデナス

何故彼が直ぐにアスンシオンに行かなかったのかは、それ程はっきりしない。なぜなら、南米では、ローマから遠く離れているせいで、司教は任命についての国王命令を受け取るとすぐ、彼らの教区総会によって、暫定的に統轄することを選択させられることが習慣になっているからである。それをする代わりに、彼はトゥクマンへ行き、サルタへ行ったが、彼がサルタに着いたのは1641年のことである。

サルタで、彼が最初に訪れたのは、イエズス会のコレジオであり、彼はそこでイエズス会の神父達の前に荷物を置き、彼らに様々な書簡を見せたが、その一つはアントニオ・バルベリニ枢機卿からの1638年のものであり、もう一つは日付けがない国王からのもので、彼をアスンシオン司教に任命するものであった。これら、二つの書簡に基き、彼はイエズス会士に彼の聖職が認められるかどうかを尋ねた。


イエズス会士の反応に怒りまくるカルデナス

シャルルボアは、彼が望んだ仕方で答えることを、あえて拒否しなかった、と主張している。何故、そうであったかを明確にすることは、それ程容易ではない。というのは、たとえ彼の緑の帽子や木の十字架があったとしても、その時彼は恐るべき重要人物には未だ成り得ていなかったからである。

彼は、彼らの書面での意見を直ぐに、コルドバのイエズス会コレジオの校長に送り、彼の意見と大学の博士たちの意見を求めている。回答は、サンティアゴ・デル・エステロに居た彼に届いたが、内容は不都合なものだった。書簡を読むと、カルデナスは非常に聖人らしくない怒りに陥り、誰にも、トゥクマンの司教ドン・メルショ-ル・マルドナードにさえも、その内容を伝えずに破り棄てた。彼は、自分が聖職を授かるについて、この司教を頼りにしていたから、これはおかしくはない。何が問題であるかに関わりなく、彼はトゥクマンの教区でちょうど彼がチャルカスの教区でやっていたように、説教をし、告解を聴き、ミサを挙げ続けた。


気の毒なトゥクマンの司教ドン・メルショ-ル・マルドナ-ド

ドン・メルショ-ル・マルドナ-ドは主張をしない静かな男だったが、彼に手紙を書きその中で言った。
「あなたは、私の教区に聖人であるかのように現われた。神聖さや説教についての評判が、そのようなものであったために、私の信者たちが私に尊敬を払わず、私をありふれた徳と並みの才能しか持っていない男とみなすのだ。私は、妬まないでいたいが、それでも、まだあなたが聖パウロであるかのように振る舞っていることを、あなたに気付いて貰わなければならない。」

ありふれた徳と並みの才能の司教は、もちろん望みのない司教である。そして、充分に考えられることは、気の毒なドン・メルショ-ル・マルドナ-ドは、彼の教区にカルデナスが留まっている間、不快な立場に置かれていたということである。

ドン・ベルナルディノの説得力がそれほどのものだったので、ついに司教は彼を司教に叙階したのだ。司教叙階に反対していることを伝える手紙がコルドバ大学の学長から届いた時、式は未だ終わっていなかった。しかし、パラグアイにとって不運なことに、活動を取り消すには遅過ぎた。そして、カルデナスは今や司教座を手に入れようとしていた。気の毒なトゥクマン司教メルショ-ル・マルドナ-ドは、事の次第に則り、やや急いで候補者の上に手を置き祝福をしてしまった。


トレント宗教会議は不承不承、司教叙階を認めた

トレント宗教会議は、その件について意見を述べて、パラグアイ司教の叙階は、叙階の秘蹟として、及び性格の印象としては有効なものであることを認めた。しかし、威厳に属する役割を果たす能力については無効であったこと、また司教及びその叙階については、教皇の充分な満足に合致する赦免を必要とする、とした。(要するに、形式的には有効であるが、威厳が不足し、教皇の満足に足る水準ではない、という意味であろう。)同宗教会議は、カルデナスによる教区の所有は不法であると、事前に宣言していたのだから、普通の考え方では、彼らの真の見解を把握することは困難である。(常識から考えると、この見解は不可解である。)


ドン・ベルナルディノのサンタ・フェ訪問

コルドバ大学の支持を得られないと分かると、ドン・ベルナルディノはサンタ・フェに向かい、そこから気の毒な学長に侮辱的な手紙を書いた。その手紙が非常に無礼な調子で書かれていたので、トゥクマンの司教は忠告として、もし彼がそのような感情過多に流されるなら、パラグアイで何か特別なことが起きるのを見ることになるだろう、と書いている。

ドン・ベルナルディノのいつもの幸運が、サンタ・フェで彼に幸いした。この町は、首都からは約400マイル(640㎞ 東京から岡山ぐらい)離れていて、その時ブエノス・アイレス教区の一部であった。そして、ブエノス・アイレスの司教座はその時偶々空席だったので、司教座聖堂参事会(議会のようなもの)は、彼が通過しなければならない教区の一部を訪問するよう、カルデナスを招いたのだ。カルデナスは、以前にチャルカスやポトシで示したように、説教の才能を示せることを喜んだ。


コリエンテス訪問

彼がコリエンテスに到着した時、彼の神聖さや才能に対する熱狂は異常なほどだった。コリエンテスでは、ドン・ベルナルディノは、彼の召命と彼に対する神の選択は真に確かなものであることを、初めて感じたようである。彼が到着した時(1642年)には、土地は無知と迷信に沈んでいた。

今日でさえ、コリエンテスには7つの川があり、パラナ川とパラグアイ川がちょうど交差し、名高いイエズス会教化村に近く、殆ど南国的なこの地方に住む住民は典型的な半先住民である。ドン・ベルナルディノの時代にコリエンテスがどんなところであったかは、推測の域を出ないだろう。

鉄兜を被り半ズボンを履き重い火縄銃を持ってぶらついているスペイン軍人の集団がいることと、街に馬が不足していることを除いては、約520年前のスペイン・アメリカの辺境のいくつかの町と、おそらく、それ程大差はないのではないか。

全ての上に垂れ下がる、疑いもなく全く同じ物憂い空気、そして昇る朝日と隅に商標のように固定された自由帽の付いた、現代の青と白色の棒の模様の旗の代わりに、城とライオンの紋章が要塞の旗竿に逆らって重く揺れていた。先住民の女性は全て白で装い、彼女らの髪は額を横切って直角に切られて背中に垂れ下がり、果物と花の籠を持って、市場の中に座っている。

町は現在のように、主に煉瓦で作られ、2~3の木の小屋が点在する、そのデザインは半東洋的だった。教会は、東方の様式に倣って丸天井であり、全ての家は平屋根。そして、全てが、暗い金属のような木製の葉、枝、花を集めた装飾にに対し白くまばゆく輝いていた。街路は、現在のように、砂色の水路であり、それが雨季には水力を抑えるための粗切りされた石の障害物にここそこで遮られている。

夜には、マメイエの大きな葉とオレンジの木の間に蛍がピカピカと光り、そのときチャコ平原から砂漠の夜の不思議な声が上がってくる。そして、町の郊外では、先住民ハラビス族、シェリ-トス族が泣き叫ぶような高い裏声の調子で、割れたギタ-のチリンチリンという音に合わせて歌っていて、今もその頃も、壁の上の兵隊たちの「見張り、注意 !」の鋭い警戒の叫びで夜が破られる。

南太平洋のエロマンゴ島の海岸やパウモトゥス群島の宣教師も行ったことのないどこかに落とされた水兵が感じるように、もしそこに上陸することが出来たなら、人は多くを感じることだろう。


コリエンテスからアスンシオンへ

コリエンテスから乗船して、パラグアイ川を遡り、司教は彼に敬意を表するためにアスンシオンから送られた2隻の船に出会った。夜が近付いたとき、ペル-で大いに役立った一つの作戦を実行することにした。船の周りに、ランチとカヌ-の群れが司教に会おうとして近寄って来た。既に、多くの人々が彼が聖人であると信じていた。

彼は、彼の船から少し離れてくれるよう、彼ら全てに頼んだ。アスンシオンから送られた付き添いの兵士以外は、皆がそうした。真夜中近くに、むち打ちの音が彼らを目覚めさせた。彼を待ち受けている義務のために、準備しようとしているのは彼らの司教だった。続く毎晩、同様のことが起きた。

日中、彼は甲板での司教盛儀ミサを挙げた。汽船の時代以前のパラグアイ川を遡る旅はかなりの時間がかかり、特に毎晩錨を降ろすか、船をしっかり木につなぐことが習慣であったから、尚更であった。

すぐに、第二の聖トマスが彼らを訪問する途上にあるという噂が、アスンシオンに届いた。聖トマスは、言われているように、一度パラグアイを訪れていて、パラグアリと呼ばれる町の近辺にある洞窟は、一度彼が訪ねたことになっているのであるが、今日でも存在し、聖人の通過を証明している。

司教は、彼がどこに行こうと、常にイエズス会士と会うべき運命が決まっていたようだ。船の遅い進行に疲れを感じながら、アスンシオンの下流4リーグ(約20㎞)にあるイエズス会に属する農場の地点で下船した。彼は、イエズス会に対する自分の憤慨を非常に旨く隠したので、誰も彼が彼らに対し悪意を持っていることに気付かなかった。


アスンシオンでの彼の行動

首都アスンシオンに着くと、彼はすぐにサン・ブラスの教会へ行き、それから司教座大聖堂へ行って、ミサを挙げ、説教をし、頭に司教冠を着けた。式の後で人々を散会させて夕食のために家へ帰らせたが、彼自身は目に見えない食べ物と人が知覚することが出来ない飲み物で栄養をつけると言って、である。さらに、「私の食べ物は、私を送った神の仕事と意思を実行するためだけのものである。」と付け加えた。それ故、彼は夕暮れまで祈りと黙想をして残った。そして、その仕事が終わると、叫ぶ群衆に伴われて邸宅へ引き下がった。

彼の立場においては、それらの行動は最も巧妙なものだったのだろう。なぜなら、彼のための教皇教書が未だ到着していなかった故に、彼は法的な地位が全く無かったのだ。そして、それがないために、大衆の同情を得なければならなかったのだから。

聖堂参事総会は、ドン・ベルナルディノのための教皇教書が未だ到着していないのだから、彼が彼らに完全に自分自身を委ねていることを全く疑っていなかった。しかし、彼は、司教座大聖堂で司教盛儀のミサを行う行動が、彼に権力を所有させることになったと考えたようである。そこで彼は、クリストバル・サンチェス某を彼の司教補佐(管理)代理人として任命した。

聖堂参事会のメンバ-の二人、ドン・ディエゴ・ポンセ・デ・レオンとドン・フェルナンド・サンチェスが異議を唱えたが、聖堂参事総会のかなりの部分はカルデナスに味方した。より強硬な党派は、司教座大聖堂を去り、イエズス会に属する教会でミサを立てた。それ故、イエズス会に敵対する第二の理由をカルデナスに与えることになった。


人々に注目されるために

司教は、自分の地位に安心していなかったから、人々の注意を引くためにあらゆる手段に訴えた。断食、鞭打ち、祭壇前の祈り、一日2回のミサ、裸足の行列が順次行われ、彼自身が十字架を運ぶ中心人物であった。アスンシオンからザ・リコレタとザ・カンポ・グランデに向かう、オレンジ園の間の深紅の道路に沿って進むのが常だった。花の冠を付けた先住民を従えて、(彼自身によれば)疫病を祓(はら)い、豊かな収穫を確かなものとするために、通りながら祝福を与えて。


「夜の儀式」

人生が与えた機会に満足せず、死を迎える準備をするために、彼は教会の「夜の儀式」を始めた。やがて、そのような地方で予期されるように、この「儀式」は多大な醜聞の根拠を示すこととなった。そして、それは、人々に「如何にこの世を去るか」を示す代わりに、秘密のうちに人生に多くのものを導き入れる方法となった。

イエズス会コレジオの校長は、司教に報告することが義務だと考えたが、全ての善人がそうするように、彼自身が始めることは何であっても、そこからは何も悪いものは生まれる筈がないと考えることにした。疑いもなく、名利を追う俗物たちが宗教的な組織の弱点を突き止めたときに、善人たちがするように、彼はそれを悪意のせいにしたのだ。しかし、醜聞にもかかわらず、彼は「夜の儀式」を継続した。


パラグアイ総督との関係

その時のパラグアイ総督は、グレゴリオ・デ・イノストロサ某であった。彼は、チリ生まれの役人で、正直で敬虔で、単純な男であり、パラグアイの住民から非常に敬愛されていた。彼が着任したとき、ドン・ベルナルディノは彼を手なずけようとした。不運なことに、司教と友情を結ぶことは、彼の意向に盲目的に服従しなければ、不可能であった。

最初は、互いに機嫌取りに終始していた。ドン・グレゴリオが司教ミサに出席したときは、司教は教会の入り口で彼と顔を合わせた。負けないように、総督は司教の礼儀に同様の流儀で応えたが、しかし彼の好意はそこまでだったから、ドン・ベルナルディノは彼を尊重することを止めた。直ぐに、口論と妬みが起き、ついには、彼らは強く憎み合うようになった。


教区司祭や平信徒との関係

司教は教区司祭たちともそれ程旨く行かなかった。彼らのうちの何人かは、彼の聖人であろうとする自負を笑い、彼を「野心的な陰謀家」と呼んだ。さらに、平信徒の中の多くの者は、一日2回のミサを行う彼の習慣をそれ程理解しなかった。彼は答えた。彼がミサを行なえば、必ず煉獄から魂を救うし、毎日九つのミサを挙げた聖人が居たし、彼自身の教区では、彼が教皇である、と。

これで、彼を中傷する人の裏をかき先手を打つことになった。というのは、アスンシオンのような性格を持った都市では、人々は教会での儀式を日々を何とか送っていくための有難い方法とみなしていたからである。もし、彼が1ダ-スのミサをすれば、彼らは新しい司教に喜ぶだけのことだったからである。


教会回りをして手当を稼ぐ

教会に勤めるだけの充分な司祭がいない、という口実のもと、彼は次第にいくつかの教区を自分の手に入れ。教会から教会へと、そのそれぞれでミサを挙げて歩き、その自分の仕事に対し様々な手当を引き出すことは忘れなかった。しかし、これに満足せず、ラテン語も知らない若者を、そして犯罪者すら、叙階は一種の第二の洗礼であり、それによって全ての罪が清められるという見解を示して、叙階し始めた。それは、極めて便利な考え方であり、これらの堕落した時代に主張された全く考えの足りない見解である。


グアイクル族の反乱

アスンシオンの位置は、もう一つの領域での彼の才能を示す殆ど唯一の種類の機会を彼に与えた。

そのあたりで、約1マイル(約1.6km)の幅になるパラグアイ川を越えると、チャコと呼ばれる地域が広がっている。それは、沼地と森の広大な土地で、その頃は現在と同等に、遊牧民族である先住民が居住していた。市の城壁から、教会の鐘の音を聞きながら、わずか1マイル離れた川を越えて、先住民の野営の煙が見えるのである。

カルデナスの時代の先住民部族の中で、最も獰猛だったのが、グアイクル族である。イエズス会士は、彼らの中で働いたが殆ど無駄に終わっていた。教化村がいくつか建設されたことはあり、それらは、数カ月間か数年間は全て旨く行った。しかし、急に、また理由もなく、グアイクル族は家を焼き、司祭たちを殺し、野生に戻って行ったのだ。

サンタ・フェからマト・グロソ地方まで、彼らは辺境を混乱に陥れ、川を渡り、パラグアイの入植地をイナゴのように食い物にしていくのだった。グアイクル族が、ドン・グレゴリオ・イノストロサと話し合いを持つ意向を知らせて来たのは、彼の到着の少し前のことだった。ドン・ベルナルディノは、失うには勿体ないチャンスだと考え、直ぐに司教として未開人と話し合いをすることは、自分の役割であると宣言した。

式服を着け、総督から提供された護衛付きで、彼は酋長たちに会った。彼らは疑いもなく、彼を新しい祈祷師とみなしていた。通訳を通じて、彼らに説教し、奇妙なことに、言語の助けを借りなかったにもかかわらず、彼らの相当の人数が受洗した。戻ると、彼は国王に手紙を書き、彼の努力によって最も獰猛な先住民をなだめ、陛下の領地に収めたと報告した。ところが、1週間も経たないうちに、グアイクル族は、少し上流にある入植地を奇襲し焼いた。

グアイクル族に対する使徒的地位に満足していなかった司教は、本格的な占領を切望した。しかし、聖霊の直接的権威、つまり論駁のための強い主張以外は何もしなかった。そして、(先住民に)こんなことを許せば、パラグアイにおいてさえ、苦境に至るであろう、という噂を町中にばらまいた。


実質的に認可されていたドミニコ会修道院

ドン・ベルナルディノの到来の数年前、ドミニコ会士がアスンシオンに修道院を建てた。建築の認可を得ていなかったから、彼らは、神の領地における宗教的不法定住者の地位にあったことになる。

市民は、チャルカスの聴訴院に問い合わせたが、それは、南米におけるその類の案件全ての最高司法機関であったが、真にスペイン的な非実用性を有し、南米大陸の最も人里離れた地域に存在していた。

聴訴院は、その件の認可を拒否したが、また10年間検討するとしていたのだった。10年間検討するということは、法的手続きの遅延が一般的に他の如何なる国におけるよりも酷いスペインや南米であっても、認可を与えることと同じ意味を持った。だから、ドミニコ会士たちは、そう解釈し、今更、悩まされるとは夢にも思わなかった。


ドミニコ会修道院の破壊の仕方

ある日、司教は式服を着て、彼の邸宅からドミニコ会修道院に向かい、総督にそこで会いたいと伝えた。修道院の教会に入り、彼は祭壇から聖体を取り出し、その全ての装飾を教会から取り除き、職人の一団に修道院と教会の両方を破壊させた。

作業が終わった時、彼は隣の教会へ行き、そこでは告解を聴かずにミサを挙げ、善男善女に対し、彼には告解をする必要がない、というのは、彼は自分の良心の状態に満足しているからだ、と述べた。ある者は、不平をこぼした。が、大部分の人々は常に自分の評価で聖人を選ぼうとしていたから、彼の行動を喜んだ。


疑念がよぎることがあっても、たぶん満足が勝ったのだろう

疑念が彼の心をよぎったに違いない。というのは、少し後に、彼は、トゥクマンの司教ドン・メルショ-ル・マルドナ-ドに手紙を書き、意見を求めているからだ。その司教はやや辛らつに、「あなたの熱意はイエス・キリストのものよりは、ユリアの熱意のように見え、教会が非常に少ない国では、建設するよりはむしろ取り壊す方が軽率なように見える。」と答えている。そして、「しかしながら、私の明かりは、あなたの領地を照らしている明かりほどには、輝いていない。」と付け加えた。

人が、ひとたび、自分がすること全ては聖霊から来ていると充分に確信したときは、殆ど全てのことに満足できるのだ。


普通の神経では不可解な自殺者に関する彼の行動

自殺者は、それらの時代の風習によって、あたかも、彼らの命が耐えて生きながらえることが出来ないと分かった事実によって、人として考えられる権利から彼らが締め出されたように、聖域への入場が許されなくなった。そのような男が2~3年まえに、聖堂正面の十字路に埋葬された。その件について、特別な啓示がカルデナスの頭に浮かび、しかも、とても奇妙なことに、その特別な啓示は良識の側に立つものだったのだ。この身体は、キリスト教徒のものだ、そして彼の魂は、今、至上の幸福の状態にあると極めて確かに私は感じている、と彼は言った。

彼は、信心深い大部分の人々のように、自分の意見の理由は一切語らなかった。しかし、彼は天国との意思疎通の方法を持っているということなので、殆どの人々は満足した。ところが、彼は、自制心を失って、死体を掘り出し、彼自身が全ての葬儀を行って‘’託身の教会‘’に埋葬した。一つや二つの奇跡では誰も衝撃を受けることはなかっただろうが、自殺者の件に関しては、その場にいた純朴な人々から見ると、彼は度を超していた。


教皇教書がついに到着したので

純朴な信者たちは不平を言った。そして、しばらくの間、司教の権威は危険にさらされていた。しかし、ちょうど良い時に間に合って、彼のための教皇教書がやっと到着した。その教皇教書は、彼と同様フランシスコ会司祭である甥のペドロ・デ・カルデナスが持って来た。これが、彼を救い、そして人々に考えるべき何か新しいことをもたらしたが、同時に新たな心配事を背負わせた。

教書には、もし彼の司教叙階に当たって何らかの規則違反があったのであれば、彼は全ての役割を剥奪されるという法的責任を負う旨の一節があった。公表の目的で書類を翻訳したイエズス会士は、この点を彼に強調した。しかしながら、カルデナスは、それ程小さなことに左右される男ではなかった。彼は、司教座大聖堂で人々に翻訳を読み聞かせ、教皇は彼にパラグアイにおける無制限の権限を、精神面・世俗面の両面にわたり与えたのだ、と説明した。

総督ドン・グレゴリオは式に出席していたが、カルデナスによる世俗権力の掌握について何の抵抗もしなかった。彼は、それに気付いていたが、カルデナスの主張は根拠がないことを彼に示すことを密かに決心した。彼の甥、ドン・ペドロ・カルデナスがその機会を提供してくれた。


甥の不行跡

彼の甥、ドン・ペドロ・デ・カルデナスという若者は、教皇教書を手に入れるためにスペインに送られていた。船旅の間の彼の行動は、充分な妥当性に欠けていたようだ。戻りの際に、まさに「噂の種」の著者の精神を持ったシャルルボアが「見眼麗しい若い女性」と描写した淑女を乗船させていた。

司教の甥は、良心の呵責を感じて俗人の衣服を着けていた。そして、アスンシオンに近付くと、その上に普段の司祭服を着た。あの気候の中で、その二重の衣装は不都合であったに違いない。そして、何故彼が一つの衣服の上にもう一つ余計に着たかは明らかではない。彼の伯父は、やがて来るべき教皇教書の喜びで、彼の外観には殆ど注意を払わなかったのだろう。

彼は、甥を自分の邸宅に泊め、彼を空席であった受禄聖職者(有給の司祭)に任命した。「見眼麗しい若い女性」がどこに泊められたかは定かではないが、アスンシオンの人々が、そのような事柄に、現代社会が慣れているように、寛大であったことは間違いない。たとえ、甥のふしだらな行動が世間の話題になっても、司教は普段の流儀通りに、全てを中傷とみなした。


異端審問所判事補の釈放

この頃、総督は異端審問所(宗教裁判所)判事補であるアムブロシオ・モラレス某を収監していた。彼は、判事と争っていた。カルデナスは、この件の知らせを受け、世俗の事柄について横取りした権力を行使する。そのような、絶好の機会を見逃すわけには、いかなかったのだ。

彼は聖体顕示台を手に持って監獄へ行き、監獄の入り口に聖体顕示台を置いて、囚人に面会を求めた。すると、イエズス会コレジオの校長が来て、彼に忠告して言った。そのような場所に、イエス・キリストの身体を晒すことはふさわしいことではなく、司教自身がそこにいることも上品ではない、と。彼の地位と彼が生きていた時代を考えると、校長はその忠告において思慮深かった。

カルデナスは、囚人が釈放されるまでそこに留まる、と答えた。校長は、彼が雄ラバのように頑固であることを知っていたので、総督の所へ行ってモラレスを解放するよう頼んだ。総督がすぐにその通りにしたので、司教は救助された異端審問官と共に意気揚々と邸宅に戻った。

人々の生活は退屈なものだったから、それが何らかの娯楽の機会になると考えて飛びついた。そして、総督と司教が必ずしも同じ考えでないことは幸運なことである、なぜなら彼らが合意した時には、教会と修道院の破壊が起こり、彼らの間に紛争があるときには、囚人が自由になったからである、と言った。

司教は、この小さな勝利で更に前進するよう励まされた。彼は、モラレスに小さな修道会への入会を許し、剃髪式をしてやり、そしてそれゆえ、彼を世俗権力の上に位置付け、彼が表立って総督に立ち向かうことが出来るようにしてやった。


司教の甥が総督を侮辱

司教の甥は、総督の親切心を弱さと受け取って、彼に対し公然と侮辱する言葉を投げつけ始めた。総督の弟であるイノストラ神父は、威厳を回復するようしきりに勧めたが、総督はそれを断り、どんな犠牲を払っても、平和を望むと答えた。この方針を、司教は受け容れず、全ての譲歩を弱さとみなし、新たな強要と更なる暴力に向かおうとした。


総督から司教への数々の贈り物

総督と共に夕食を摂ったとき、司教は偶々テーブルの上の一対の上品な銀の燭台に気が付いた。カルデナスにとっては、見て欲するということは、頼むということを意味する。そこで、彼は総督にそれらが欲しいという願望を伝えた。総督は、おそらくモラレスに関する厄介な記憶を消し去ろうと思ったのだろう。お世辞と共に、燭台を司教宅へ送った。

司教は贈り物を受け取り、それを持って来た者に向かって、私は君のご主人の家で気が付いた銀の水差しと大型葡萄酒瓶がもしありさえすれば、今非常に満足なのだが、と言った。思うに、総督はこれを聞いて、スペイン人が言う「作り笑い」というのをしただろう。しかし、また「私の家にあるものは、全て司教様に使って頂くための物です。」というメッセ-ジ付きの板を送ったのではないか。

ドン・ベルナルディノは、彼の友人たちが明言するように、「聖人」であったであろうが、確かに紳士には程遠い人柄の持ち主だったから、水差しと葡萄酒瓶のため人を遣わし、総督からの友情溢れる伝言とともに、直ぐにそれらを、受け取った(筈である)。

しかし、この自発的な申し出さえも、平穏は全くもたらさなかった。なぜなら、司教と不運な世俗権力の行使者(総督)との間に、すぐに新たな抗争が発生したからである。


先住民の譲渡をめぐる、司教と総督の抗争

聖餐会は、アスンシオン内または近辺に、エンコミエンダを持っていた。司教は間違いなく自分こそ先住民に教理を教え込むに相応しい存在であるはずだと考え、聖餐会に彼らの先住民を自分へ譲渡させるよう、総督を説得しようとした。

総督は、自分の仲間である同国人を知っていたから、きっぱりと拒絶し、このことでドン・ベルナルディノ司教は、憤怒に陥り総督を酷く非難した。そのため、ドン・グレゴリオ総督もまた分別の限界を超え、「見眼麗しい若い女性」に関する彼の甥の行状について司教を非難した。軽蔑された女性ほどには憤慨しないように「ちくしょう」という言葉が吐いたが、不愉快な気持にさせられた司教は、非常にみごとな見世物を披露することになる。


破門も辞さない司教

ドン・ベルナルディノは、自分に対する侮辱は神に対する挑戦と宗教に対する侵害を伴うものだと考え、自分に反対する主張は、如何なるものであっても神の名誉を攻撃すると考える者の一人であった。だから、司教の甥の行動を非難することは、異端と同様に悪であり、聖職売買より遥かに悪く、それをする者は心の異端者に他ならないことになるのである。

少なくとも、ベルナルディノ司教はそう考えた。なぜなら、蝋燭と鐘と聖書と必要なものを以て、彼は気の毒な総督を破門し、直後に行われた宗教的な祭りにおいて、総督は王室の基準に耐え得る能力がないと宣告した。破門は、少なくとも今日の破産ほどに、その頃は深刻なものだった。もっとも、ラテン・アメリカでは、ヨーロッパ諸国におけるほど、悲惨な結果を伴うものではなかった。

総督は力を使うことを望まず、要点を譲り、行列を妨害することは無かった。彼の穏健な行動は、彼に熱心な支持者を得させ、多くの人々をカルデナスに歯向かわせた。甥のペドロ・デ・カルデナスは、それを総督を公然と侮辱するための良い機会と考えた。そこで、ある日、街で彼に随いて行き、彼の母と親戚の女性の悪口を言った。

ドン・グレゴリオ総督は、全ての南米の先住民のうち最も勇敢なアラウコの先住民に抗して数年間勤めた経験を持つ強者だったので、若いフランシスコ会士に向かって言った。「さらば、神父さん。だけど、もう私を試すなよ。」と。その当時、またそのような場所で、ドン・グレゴリオ・デ・イノストロサのような男が、彼は辺境で暮らした経験があったのだから、また最高権限を持っていたのだから、そのような公然たる侮辱に静かに服そうとは予期されないことであった。そこで、ある晩、彼は兵士を従えて、司教の甥ドン・ペドロを逮捕すべく司教の邸宅に現われた。


総督に破門を宣告する司教

カルデナスがあらわれ、総督と兵士たちに破門を宣告し、ドン・ペドロはピストルを彼の頭に向けた。彼は、彼自身が公然の醜聞を起こすか、ともかく平穏無事に過ごすために、引き籠もらざるを得ないのが分かって身を退いた。勝ち誇った司教は、破門の勅令を公布するとともにその場にいた兵士達に、一人当たり50クラウンの罰金を言い渡した。それ程多数の兵士達を破門にすることは、先住民の攻撃と戦うために彼らが必要とされることを考えると、おそらく賢明でないと思われたので、彼は総督に人を送って、簡単な条件で彼を赦免する用意があると伝えた。

総督は最初の破門を軽く見ていたが、第二の破門令が司教座大聖堂の扉に貼られているのを知って呆然とした。そして、今また喜劇は続く。なぜなら、ドン・グレゴリオは司教の下へ行き、跪いて赦しを請うたからである。不意を襲われた感じで、司教もまた跪き、総督が彼の手に接吻をすると、司教も挨拶を返そうとした。もし、イエズス会コレジオの校長が引き止めなければ、そうしたであろう。シャルルボアが言っているように、跪いている彼らを見ていると、相手の温情を請うているのは、どちらであるのかは誰にも分からなかった。

司教は総督に赦免を与えた。しかし、兵士達の振る舞いは、全く神聖さを汚すものとなった。なぜなら、彼らのひとりひとりは、罰金を払うことを強制されたからだ。


もうひとつの破門

一週間に2件の破門というのは、思うに、教皇を満足させるには充分な程であったが、ポルトガル人ディエゴ・エルナンデス某は、異端審問所の上級執行官に任命され、その官職のお陰で帯刀する権限が与えられたのだが、規則に反して街で帯刀している彼に総督が遭い、収監されたのだった。この男に対し、ドン・ベルナルディノは、もう一つの破門を浴びせたのである。しかし、それは明らかに行き過ぎだった。総督は司教の脅しを笑い、囚人に死刑を宣告した。

司教は、途方に暮れて、使用人を男のところに送り、「何も恐れることは無い。何故なら、もし彼が死を被ることになれば、彼は殉教者になるし、司教自身が彼の葬儀の説教をするのだから。」と伝えさせた。総督は、多分ユーモアのある人だったから、その伝言を笑った。と言うのは、彼の言によれば、その伝言は慰めにになっておらず、彼自身がエルナンデスを、重い保釈金の下に、監獄から解放したからである。破門は、それから免除され、平和が再びアスンシオンを支配した。酒に身を任せないことと同様に、司教が諸事を自分の胸にしまっておく方法を体得することが重要であった。ロレンソ・グラシアンが言い表わしているように、「嘘をついてはいけない、しかしそのためにいつも真実を洗いざらい話してもいけない。」


イエズス会に対する司教の態度

司教と彼の短気を知っている人の誰もが、イエズス会士に対する彼の行動に驚いた。彼の司教叙階に対して、コルドバ大学の学長が取った態度を彼が忘れていようとは、誰も想像しなかった。そして、まだ、他の修道会の会員に対する以上に、アスンシオンのイエズス会士に対し好意を示しているようであった。おそらく、彼は教養のある階層に属する熱心な支持者の不足を感じていたのだろう。というのは、彼と総督との抗争が彼に多くの友人を失わせたからである。確かに、アスンシオンでは、イエズス会士が彼に反対していることを、公然と明言しないことが、ひじょうに重要なことであった。


イエズス会をやたらに褒める司教

彼は説教と会話の中の両方で、鼻につく程イエズス会士を賞賛し、彼らの教会の行列に参加し、公然と際立った配慮で彼らを処遇した。同時代のイエズス会士が記録を残しているように、彼らは、彼の手先ではなかったが、彼が彼らに施す賞賛に沿うよう努めていた。

彼は、国王フィリップ4世に対する手紙の中で、「イエズス会士は、パラグアイ全土に限って言えば、先住民の保護・監督をするのに真に適している。」とまで書いている。更に、「教区司祭の下の先住民も、他の修道会の下の先住民も、ともにその修道会(イエズス会)の保護と指導に移すこと」を彼は国王に忠告したのだ。司教は、たとえ誠実でなかったにしても、この点で、疑いもなく正しかった。


先住民はイエズス会士をスペイン人とみなしていなかった

イエズス会士が先住民の保護に関して有していた適性の一つは、先住民が彼らをスペイン人としてみなしていなかったことだ。マタベレランドで、おそらくドイツ人、フランス人、イタリア人がイギリス人より先住民に嫌われていなかったと同じように、パラグアイでは、先住民は他の修道会よりイエズス会を好んだ。なぜなら、イエズス会には多数のスペイン以外の国の人々がいたからだ。


司教の「褒め倒し」の戦術は的外れ

司教が「褒め倒し」によって民衆にイエズス会士が嫌われるようにしようとしていることを、彼らは直に理解した。先住民に信頼されるような姿勢で仕事に取り組むことは、そもそもセミナリオでの早期の訓練によって体得すべきことであって、司教が採ったような「褒め倒し」戦術は、イエズス会士達が論じているように、カルデナスのような熟達した外交家にこそ実行されるべきものであったのだ。


司教とイエズス会コレジオの校長との駆け引き

しかしながら、司教に関して「言うこととやることは大違い」というスペインの慣用句は殆ど当てはまらなかったのも事実だ。アスンシオンに近いアレカヤという地区の教区司祭が不人気に陥った。司教は彼を教区から外し、イエズス会コレジオの校長に彼の代わりとなる司祭を派遣するよう頼んだ。

彼が受け取った回答は政治的なものだった。それは、「使わずに取っておくことができるイエズス会士は居ないし、もしたとえ居たとしても、教区司祭の任務を侵害することは、如何なるイエズス会士にもふさわしくない。しかしながら、国王がその類の施設に与えた特権を有する新たな教化村を設立する意思がカルデナスにもしあるならば、私自身その仕事を引き受けるための許可を管区長に申請することもやぶさかではない。」という趣旨のものだったのだ。

素晴らしい回答である。そして、そういう回答ができる者は、パラグアイでは能力を発揮できる筈はなく、彼の適所はローマか、少なくともどこかの宮廷であったことがはっきり示されている。

ドン・ベルナルディノは、この種の事柄においては、まさしく校長同様に狡猾であったから、感謝と共に「聖人は望んでいないが、短期間他の司祭の任務を引き受ける司祭が欲しい。」と伝えた。校長は。彼の外交戦術がうまく行かなかったのを見て、イタティネスに居たマンシジャ神父にアレカヤに移動するよう指示し、司教には、マンシジャならばこの場合に適する全てのことをするだろうと確信している旨を書き送った。

司教は、もう既に目的を達していてさらに外交戦術を使う必要は認めていなかったので、こう返答した。「それについて、私は確信している。そして、もし彼が適していなければ、彼を破門に処し、イタティネス地区では職務停止とする。」ドン・ベルナルディノ司教にとって、破門ほどの純然たる楽しみは他に無かったのだろう。彼は、殆ど抵抗なく諸事を進めていたから、彼の司教任期中、アスンシオンではいつも誰かが母なる教会の破門に服していたに違いない。


司教の命令で更に2人のイエズス会士が派遣されたが

校長は、ドン・ベルナルディノが彼に満足していないことを本能的に感じたが、その通りだった。なぜなら、ヴィジャ・リカの近くの教化村の指導を引き受けるべき2人のイエズス会士を送るよう、もう一つの要請が直ぐに来たからだ。その時、イエズス会はヴィジャ・リカの近くには教化村を持っていなかったから、彼にとってその要請は甚だ不愉快なものだった。

最初に、ゴメスとドメネッチの両神父は、彼らの教化村を出てから、原野を長々と旅しなければならなかった。ヴィジャ・リカに着いて、彼らが気付いたことは、住民が彼らを、他人の権益を横取りする「もぐり」の存在として、激しい嫌悪の眼で見ていることだけではなかった。彼らは、住民を指導するべく送られたのだが、その住民が「エンコミエンダ制」の下にあり、その制度は彼らが非とすることを見逃すことを彼らに強制するものだったのである。

2人のイエズス会士達が下した決断は、彼らに大いなる名誉をもたらすものとなった。それは、ヴィジャ・リカの町を出て、森で先住民と暮らすことだった。アスンシオン・コレジオのイエズス会士は状況を敏感に感じ取った。


相も変わらぬ司教の褒め倒し作戦

人々は、他人の精神的領域への侵入に関して、イエズス会士に苦情を言い始めた。そこで、校長は落胆して司教のところへ人を送り、説教の中で彼ら(イエズス会士)を賞賛しないよう頼んだ。カルデナスにとって、約束ほど安いものは無かったから、彼らイエズス会士について二度と話さないことを約束し、次に説教した時には、イエズス会士達がカトリック信者の間のみならず、異教徒やトルコ人の間で、魂を救った驚異を1時間かけて語った。

司教の作戦はひじょうに明白だったので、ついに噂が、トゥクマン司教ドン・メルショ-ル・マルドナ-ドに届いたが、彼はドン・ベルナルディノがいつも恐れていた存在である。ドン・メルショ-ルの書簡は、何らかの方法で公になったが、その中で、彼は、ひじょうに暖かくイエズス会士について語り、校長を賞賛したので、人々は再び彼らイエズス会士の側を向いた。


イエズス会に擦り寄る司教と総督

しかし、ちょうどこの頃、司教と総督の間の眠っていた争いが再び勃発し、それが激しい憤怒を伴ったために、当面の間、注意がイエズス会からそれて両者の抗争に向けられた。ところが、実情は司教も総督もイエズス会に依存していたために、両者が支援を求めてイエズス会に擦り寄ったのだった。



〈つづく〉



























































# by GFauree | 2022-07-27 09:00 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

消えていった或る理想郷 そのⅤ                第3章 際限のない「あくどさ」と「だらしなさ」のはざまで

消えていった或る理想郷 そのⅤ                第3章 際限のない「あくどさ」と「だらしなさ」のはざまで_a0326062_03390325.jpg




Robert Bontine Cunninghame Graham (ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)著『A VANISHED ARCADIA』(『消えていった或る理想郷』)の第3章の内容をご紹介し、私が考えたことを述べたい。



ポルトガルに奪われていくスペイン領

グアイラ地方でイエズス会士を毛嫌いし、可能な時には先住民を奴隷として使っていた身勝手なスペイン人入植者たちは、辛い苦境にあった。奴隷化するべき先住民をもはや見つけられなくなったマメルコスが、ヴィジャ・リカとシウダ・レアルの二つのスペイン人の町を襲い完全に破壊し、住民は逃げて避難せざるを得なくなったからだ。

それ故、グアイラ地方はマット・グロッソやその他いくつかの過去スペイン領土であった(現在はブラジルに属する)地域と同じ道をたどり、ポルトガル化した。非常に奇妙なことは、これらの損失の大部分は、スペインとポルトガルが一人の国王の下に統合されていた時に起きたということだ。

ヨ-ロッパにおいては、スペイン人とポルトガル人は互いに大いに 憎み合っていたが、平和を保たざるを得なかった。しかし、アメリカ大陸においては、彼らは常に戦争状態にあり、それは常にスペインにとって不利な形で終わっていた。

1493年の教皇アレクサンドロ6世の勅令は、それまでに「発見」された、または将来「発見」されるはずの領土を、ポルトガルとスペインに分割するためのものだったが、それによって始まった争いが進行するにつれて、スペインはマット・グロッソ、リオ・グランデ、グアイラ等の地方を徐々にはぎ取られ、気が付いたら、コロニア・デル・サクラメントに関する果てしない議論に引きずり込まれていて、それは争う両陣営にとって多大な血の代償を伴うものとなった。

長期の戦いの中で、おそらく最も奇妙で興味深い事件は「3年戦争」であろう。それは、スペインのフェルディナンド6世とポルトガルのバルバラ夫人とが結婚した後、1750年に始まった。だから、随分後のイエズス会が追放される少し前の話だ。この結婚の時に締結された条約によって、ウルグアイの左岸に在った7つの最も繁栄した教化村は、ラ・プラタ川上流のラ・コロニア・デル・サクラメントと交換にポルトガルへ割譲された。教化村にとって、彼らの最も根深い敵であるパウリスタは、ポルトガルの象徴だったから、彼らはこの統治権の変更に抵抗した。

ヴァルデリリオ侯爵は、彼の興味深い外交文書の中で、この戦争に触れている。しかし、最良の説明は、アイルランド人イエズス会士タデオ・ヘニス神父の好奇心をそそる回顧録であろう。彼は抵抗するグアラニ軍の主力だったのである。

二国の古くからの敵対感情は、ブラジル人、アルゼンチン人、ウルグアイ人などその子孫に継承され、そして、ブラジルはウルグアイ共和国の北部全てを吸収していった。



イエズス会教化村の展開

モントヤの下でのパラナ川を下る「大移動」の後、イエズス会教化村、特にパラグアイ及び現在コリエンテス地方である部分において、しばらくの間、平和と静寂が保たれる期間があり、慣れなかったイエズス会の政策も進展し、1630年から31年にかけて、グアラニ族の間に町が一つずつ立ち上がって行った。しかし、未だモントヤに休息はなかった。彼は墓の中で初めて休むことのできる人の一人だったのだ。

1632年、へレスの町の総督と行政官の求めに応じて、モントヤは、ジャン・ランソニエとマンシジャの両神父を、イタティネスにおける森林居住部族のための教化村を設立するために送った。彼らの領地は湿地であり、天候は悪く、土地全体をインド・ゴムの樹木の林が覆っていた。

デル・テチョとシャルル・ボア両神父は二人とも、彼らがそれで遊んだ「跳ね返りボ-ル」について語っている。それを地面に投げると、あたかも空気が詰まっているかのように、再び飛び上がるのだ。これは、おそらく、インド・ゴムについて述べられた最初の例であろう。



先住民の社会習慣という障壁

イエズス会士たちは、これらの先住民と共生していくことが、とても容易ではないことに気が付いた。というのは、彼らは、イエズス会士の説教はひじょうに喜んで聞くのだが、彼らの社会習慣を変えることは拒否するのだ。彼らが変えようとしない社会習慣の一つが一夫多妻主義である。イエズス会士は、そのせいで教化村の先住民の数が減っていると考えていた。

アメリカ大陸の殆どの先住民と同様に、彼らは一夫多妻主義であった。また、彼らの人種におけるその習慣は、黒人の間での一夫多妻とは異なる作用をしていた。というのは、先住民は増加し繁栄しているように見えたにもかかわらず、実際は減少しており、征服時さえしばしば、既に絶滅しようとする傾向にあったのである。

彼らが、変えようとしないもう一つの社会習慣が殉死である。イタティンの酋長が死んだとき、多数の彼の従者がより良き世界への旅に当たって彼に従って絶壁を飛び降りた。

この殉死と一夫多妻主義はイエズス会士を大いに悩ませたが、彼らは驚くべき忍耐と人間に関する知識に助けられて、これらの問題を次第に克服していった。彼らにとっては、教化村が栄えることが、全てであったが、そんな時に現われたのがブラジル人神父アコスタ某である。


ブラジル人神父アコスタ某

おそらく、パウリスタの仲間であったか、またはおそらくイエズス会士を妬んでいたのだろう。なぜなら、彼はサン・パウロに多数の先住民を連れて行こうとしたのだが、それは、彼によれば、如何に真実の法に従うべきかを先住民に示そうとしたのだ、ということだった。イタティン族は、アコスタの説く「真実の掟」が嘘ではないかと疑ったか、または彼の説教に飽きて、彼を殺したのだ。


二つの奇跡的な出来事

しかし、悪い兆候も出てきた。不信心者の中にイエズス会士に対する冷淡さが育ってきたのだ。ちょうど良く起きた二つの奇跡的な出来事がなかったとしたら、教化村建設は大いに阻害されただろう。

ある酋長が、ある司祭に悪態をついたのだが、直に喉の潰瘍に取りつかれ、それが間もなく彼を殺した。イタティン族たちは、彼らが生活している不健康な気候の影響について、表面的には何も考えていないようだったし、原因を神の業のせいにしていた。

更に、次のことが起きた。もう一人の酋長が、身の程知らずなことに、一人の司祭をあざけっていたのだが、意識不明に陥るほど近くに雷が落ち、死んだ。

これら二つの出来事は、イエズス会士の力を認めさせ、彼らの新たな四つの教化村の繁栄へと事態は動き始めた。

神は、彼ら僕である司祭たちの個人的努力には非常に注意深かったが、全体としての彼らの成功には、不可解なほどに無関心であった。1632年の同じ年、マメルコスが現われ、四つの教化村全てを廃墟にしたので、イエズス会士のそれまでの努力と奇跡は、消失してしまった。1633年、パラグアイ司教とイエズス会士との間で最初の小競り合いがあった。そして、この小競り合いは、少しずつ戦いへと拡大し百年以上続いたが、最後にパラグアイからのイエズス会士の追放で終了したのだった。


先住民を私的労役に使おうとする総督と司教

総督ドン・ルイス・デ・セスペデスは自分の私的労役に、イエズス会教化村の先住民を使うことを求めたが、それは国王の命令と教皇勅書にまさに反する行為であった。司教は、それを機会に10分の一税を搾り取ろうとしたのだ。これは又、教皇勅書と西インド評議会の命令によって等しく禁じられていた。

ロメロ神父は、アスンシオンに行き、教皇勅書と評議会の命令を示し、総督は自分の要求を撤回した。また、司教も幾らか抵抗した後に同様に撤回した。そして、教化村の先住民は全面的にイエズス会に委ねられるべきことを、意味する国王からの命令を携えて、イエズス会の管区長がアスンシオンに到着した。しかし、確かにその時点ではイエズス会は勝利を収めたのだが、将来的にその勝利は彼らにとって高くつくものとなった。

パラグアアイ総督が、教化村の先住民に私的労役を強要するというもくろみに再び戻ったので、管区長はフィリップ4世からの王室命令によってそれを阻止したのだ。

命令は、第4代チンチョン伯爵であるペル-副王に宛てられたものであった。日付け1633年マドリッドの公文書は、非常に強い調子で、全ての(イエズス会教化村内のもの、のみならずペル-及びメキシコのものも含む)私的労役(それは、つまるところ強制労働であるから)は、有罪であると宣告している。国王彼自身の権力と神の絶対的な権力に感動的な自信を加え、善意の王は、彼が既に6カ月前に命令したように、全てがなされることを命ずる文章を添えた。


スペイン人に対する先住民の復讐がイエズス会士に向けられる

総督と司教がパラグアイにおけるイエズス会の最大の敵だった、という訳ではない。

1634年、管区長ボロア神父は、ウルグアイの旅の途次、難破したが、新たに改宗した先住民の献身的な働きによって、唯一救われた。しかし、しばしば、スペイン人植民者による先住民への残虐な扱いの復讐がイエズス会士に向けられたのだ。

グアパラチェスの集団に関わるケースでは、その集団がエスピノサ神父に森で出会った。そして、神父と彼の先住民を襲って殺したのだが、彼らは神父の身体を切り刻み、野獣が食べるように放置したのだった。

もう一つのケ-スでは、メンド-サ神父が待ち伏せに出くわしたが、この場合彼の馬が泥だらけの流れに沈んでしまったために、神父は逃げることが出来なかったのだ。長い時間、彼は先住民の盾で防御していたが、ついに地面に打ち倒され、死んで放置された。

夜の間、彼は生き返り、いくつかの岩のあるところまで這って行った。朝になって、先住民は彼の跡を追い続け、大声で祈っている彼を見つけた。

彼らは彼に、「お前は盲目か、せいぜい無力な神に仕えている。なぜなら、その神は自分に奉仕する者を守るために、何もしないのだから。」と言った。それから、彼を残酷に拷問した後、彼の心臓を取り出し、そして言った。「お前の魂が天国に向かって旅するかどうかを見てみよう。」

これらの未開人が、肉体の破滅の後、魂がどうなるかを解明することに、本当に関心があったようには見えない。なぜなら、彼らは不運な司祭について来た二人の若い先住民という栄養たっぷりの食事を食べたから、である。

彼らは、神父が彼らに洗礼を授けたとき、「洗礼によって、彼らの魂が純化された。」と言うのを聞いていた。そして、メンド-サ神父の最後の言葉は、「私の魂を神に委ねます。」ということだった。


殉教と尊敬

今日のキリスト教徒は、おそらくは多大な理由付けのない信仰を持った純朴な人々の殉教によって、彼らの信条が確立され、パラグアイの森で殺されたクリストファ・メンド-サ神父のような人々のお陰を被っていることを知っているのだろうか、と私は思う。昔の殉教者は時代遅れとなってしまって、今日の信者から忘れられているが、もっと尊敬を払われるべきなのだ。

なぜなら、ある著者が、世間一般には興味を持たれていない何らかのテーマについて研究し、殉教者の血の跡に出会うとしたら、それは幸運以外の何ものでもないからである。(これは、著者カニンガム・グレアム自身のことを言っているのであろう。私もグレアムがこれを書いた気持ちが分かるような気がする。)なぜなら、殉教が世に知られず、また殉教者が味わった苦痛が人々に忘れられようとも、殉教は信心深い人だけでなく信仰そのものに対する侮辱だからである。

1636年、パウリスタの2回目の侵入が起こり、それによってモントヤ神父はディアス・ターニョ神父を伴ってヨーロッパへ行くことになった。スペイン国王とローマ教皇の両者に、先住民の保護を求めるためである。



塹壕を作ることの申請

マメルコスはタペ地方に乱入し、ヘスス・マリア教化村(以前の侵入時に破壊されずに残った数少ない教化村の一つ)は、最も危険にさらされた。そこで、ロメロ神父は地所を守るために、ある程度の塹壕を作ることの許可をラ・プラタ総督に申請した。

これは、この時点で教化村が塹壕を必要とするほど無防備であった可能性があること、また、急迫する危険に直面した時でさえ、イエズス会がそのような基本的防御物を作ることの許可を申請しなければならなかったということが、イエズス会は少なくとも1636年には、彼らに対してしばしば主張されたほどには、主権的(国家)権力を拒む意図を持っていなかったことを証明しているようだ。

総督は承諾したが、防御が充分な状態になる前に嵐が教化村を急襲した。


マメルコス(パウリスタ)の2回目の侵入

教化村司祭アントニオ・ベルナルとフアン・カルデナスは、最前線で先住民を励ましたが、両名とも酷く負傷した。モラとロメロ両神父は、負傷者を世話して動き回ったが、彼ら自身は脱出した。

ついに、マメルコスは、教会に放火し降伏は不可避となり、先住民の主要部分は鎖でつながれて連行された。

サン・クリストバル教化村には、ロメロ神父が幾人かの逃亡者と共にヘスス・マリアから避難していたが、もし人々と神父がサンタ・アナ教化村へ急遽避難していなければ、サン・クリストバル教化村にはヘスス・マリアと同様の運命が降りかかっただろう。

しかし、サンタ・アナ教化村にも、彼らは長い間安全に居られた訳ではなく、イグアイ川を下る、もう一つの危険な旅に取り掛からなければならなかった。ここで、マメルコスを見過ごしてしまった一団があり、彼らは待ち伏せの罠に嵌まり、みじん切りにされた。(おそらくは、神の眼のまえで。)

マメルコスは前進し続け、事態はモントヤ神父が「その地方の全ての教化村は焼かれねばならない。」と考えるところまで来た。住民は極めて盲目的に彼を信じていたから、彼らの家を焼き始めようとするところであったが、管区長の命令で、彼がその場に表われるまでそうすることを思いとどまった。彼が到着し、追い散らされた先住民を出来るだけ集め、まだ破壊されたいなかったいくつかの教化村に彼らを安全に配置した。そして、彼自身はパラグアイ総督からの援助を要請するべく出発した。

パラグアイ総督からもラ・プラタ総督からも援助が得られないことが分かると、モントヤはコリエンテへ向かったが、そこでも非常に無礼に迎えられた。失望した彼は、そこから教化村先住民部隊を武装化し、マメルコスと戦うべく進むことを決めた。すると、マメルコスはブラジルに退却し、彼の手の届く範囲を超えてしまった。


モントヤ、ヨーロッパへ

スペイン人総督たちからは何も得られないことを観て、彼はこの問題をインディアス評議会にかけるべく、ポルトガル行きの船で書類箱を送った。が、その書類箱はリスボンの近くで、イエズス会の敵である何者かによって海に投げ込まれた。しかし、波によって用心深く洗い上げられ、奇跡的に発見されて、スペイン国王に届けられたと、モントヤとシャルルボアが報告している。書かれた通りのことが起きたのかどうかは、誰も知らない。

酷い苦境の中で、(自由な人間の精神による知識の進歩と共有が信じられるようになった)百科全書派以前の時代に、もし善人であれば、自分の主義を持続するための奇跡なしでいられただろうか。翌年(1637年)、モントヤとターニョ両神父はヨーロッパに向けて、彼らの教化村から発った。そして、モントヤには先住民保護に代わって、彼の才能を示す新たな分野が開かれた。


グアイラ地方の3つの教化村に対するマメルコスの襲撃

モントヤ神父がスペインにいる間に、管区長は彼の位置に、アルファロ神父を指名した。すると、彼は騒然とした時期を経験することとなった。なぜなら、マメルコスがグアイラ地方に残った3つの教化村を襲撃するための準備をしていたからである。3つの教化村の防御は不可能であったから、村々を立ち退き、ウルグアイの諸地方へ避難することが決定された。

彼らが出発しようとしたサンタ・テレサには、他の教化村の住民たちも集められていたが、クリスマスの直前、そこにマメルコスが現われた。先住民たちは奴隷として連れ去られた。そして、マメルコスは彼らの日頃の人間的感覚で、クリスマスの日には手に蝋燭を持ち罪を悔いる者としてミサに出席し、信仰心を高めるかのように説教を聴いていた。司祭は彼らの残虐さを叱り、彼らは敬虔にそれを聴いた後、合唱隊の二人の少年を解放して静かに教会を去った。

イエズス会士はついに、教化村の先住民が晒されている危険によって向こう見ずになり、マメルコスを襲撃した。予期された通り、反武装化されただけの先住民は充分に武装化され訓練されたパウリスタ隊によって直ぐに打ち負かされた。それから、イエズス会士は、グアイラから全面的に撤退し、パラナ川とウルグアイ川の間に移動することを決定した。


第二の「大移動」

3つの大隊で構成された先住民は、第二の「大移動」を開始した。その困難は、パラナ川を下った以前の「大移動」ほどではなかった。しかし、未開な状態からちょうど脱け出たばかりで、女子供を連れて、全ての所有物を担って、荒野を越えていく移動であり、しかも途中で充分に武装した敵の攻撃に晒されるのである。そんな状態で、数千人の先住民を移動させることは、容易なことではなかった。

クリストバル・アレナス神父は彼らを3つの部分に分け、第一の部分を彼が率いた。しかし、管区長が組織化の大部分を担ったようだ。なぜなら、シャルルボアは言っている。彼の勇気と細心さと変わることのない思いやりを考えると成功は当然の事だったと。勇気と細心さと変わることのない思いやりは、世の中を最も感動させてきた徳である。そして、最後の変わることのない思いやりこそ、最も効き目のあることであった。人が将来、それら三つのうちただ一つだけを望むとしたら、望むのはそれだろう。

20,000人の先住民(女子供を数に入れず)は、このようにしてウルグアイ川とパラナ川の間の豊かで肥沃で、そして2つの川の間の距離が約5~20マイル(8~32km)と狭いため、ある程度攻撃しにくく、殆ど難攻不落にも容易になり得る地域に導かれたのだ。


先住民への武器供与について

誰も人の心の中を見ることは出来ない。そして、神はそれを見ることは出来ても、そこに何があるかは言わない。だから、我々は他人の行動を見つけたとき、その行動について判断し動機を探ることを全知全能の神に委ねざるを得ない。

それぞれ急迫する問題に直面し、先住民をパラナ川下りに導いた者も、ウルグアイ川とパラナ川の間のメソポタミアへの移住へと彼らを仕向けた者も、どちらのイエズス会士も利益の考えに駆り立てられてはいなかった。そして、もしイエズス会士が、彼の日常のふるまいのほんの細部の裏にでも、何らかの後ろ暗い企てを持っていたとしたら、これらの男たちは、それを彼らの魂の非常に奥深くに隠しただろうから、彼らの最も鋭い敵たちがどんなに探しても、それを明るみに出すことは出来なかっただろう。

新たな家に落ち着いてからでさえ、先住民はマメルコスに対して無防備だった。というのは、先住民には銃の使用を許容すべきではないというのがスペイン宮廷の国家的原理だったからだ。これは、疑いもなく、賢明な予防策であった。というのは、エンコミエンダ制によってスペイン人は周囲に住む先住民に私的労役(つまりは、強制労働)をさせていた。だからスペイン人は周囲に先住民を住まわせる必要があったのだ。しかし、もし先住民に武器保有を許容すれば、その武器によって何時反乱を起こされるか分からない危険を抱えることになったのだ。

ところが、教化村の先住民にとって武器は、自分たちを奴隷狩り部隊マメルコスから守るための、生活必需品だったのである。それ故、モントヤがマドリッドに向けて発つ前に、管区長は彼に、インディアス評議会と国王に接近し、彼らに、「もし先住民に武器が与えられることが許容されないならば、マメルコスに抗して教化村の存続を保証することは不可能である。」と述べるよう念押しした。モントヤ神父には、様々な改革を求めることが託されたのだが、特にこの点を強く念が押されたのだ。


武器の調達費用も射撃訓練指導もイエズス会の負担で

モントヤは、国王に「先住民は彼ら自身が武器を保有することを許容されないことになっているが、武器は平時にはイエズス会によって保有され、攻撃の際に先住民に供給されることになる」こと、また「武器は国庫に一切負担を掛けず、イエズス会によってその目的で集められる義援金によって全て賄われる」ことを話すことになっていた。

最後に、これはイエズス会の方針の輝かしい実践のひとつだが、先住民に射撃方法を教えるために、俗界で兵士として働いていた、然るべきイエズス会士をチリから連れて来ること、を話すことになっていた。

彼らは、アラウカニアの前線から、またアンデス越えの村の部隊からの、半見習い聖職者や半下士官や即席の祈禱者のような人たちであり、むきになったブルドック・テリアのような雰囲気を漂わせ、辺境の町にふさわしいタイプの司祭であり、それもイエズス会士の中にだけ見かけられるような人たちであった。



パラグアイ総督の出過ぎた行為

この(1639年)頃、マメルコスの3回目の侵入が行われ、アルファロ神父、彼はウルグアイとパラナの教化村を任され残っていたのだが、マメルコスに石弓で撃たれ落馬して死んだ。パラグアイ総督はそれを聞いて一部隊とともに進軍し、マメルコスの2~300人を殺し、残りの捕虜を捕らえて、アスンシオンに送り返した。

そこで、全てのイエズス会歴史家が嫌悪するところであるが、総督は神罰で軍隊を脅かし、彼らを行かせたのだ。教会人の感情は、自分の特権がそのように強奪されるときは、自分の隠れ場に侵入されるのを見る厳格な禁猟者の感情と似たようなものらしい。そういう場合、実際に与えられる損害は、彼の自尊心が苦痛を感じる個人的侮辱や屈辱程には大したことのないものなのだが。

また、この年、教化村の先住民は、国家に対して初めての武力的労役を提供したが、国家は後にしばしば、その必要性から彼らに頼りながら、非常に粗末に扱った。


スペイン人総督たちの失敗

ブエノス・アイレスの総督ドン・ペドロ・エステバン・ダビラは、イベラ湖の島々に避難した先住民の部族に対する遠征に着手しようとしていた。先住民80人が送られ、良く従い武装化し、成功に向かって相当に貢献した。翌年、第2次派遣団がトゥクマンの総督から求められて、堅固に彼を助力するために送られた。

歴史は、それ自体を繰り返すようである。そして愚かな兵士たちは、決して経験から学ぶということがない。というのは、(デル・テチョ神父が、彼の著書「パラグアイの歴史」の中で、我々に語っていることであるが)総督はフランドル地方の戦いの経験があったので、同じ手法がアメリカの戦争では適用できないことに決して納得できなかったのだ。

従って、彼は整然と出発したが、斥候を送ることを怠り、結果的に、湿地の中の強固な塹壕に囲まれたカルチャキ族のただ中に落ち込み、直ぐに彼らを攻撃したために多くを失い、トゥクマンに退却せねばならなかった。

この間ずっと、モントヤとディアス・ターニョの両神父は、ローマとマドリッドで、教皇と国王に抗して奮闘していた。


ディアス・ターニョ神父の行動

当時の世界のキリスト教部分にとっての「神の代理人」である教皇ウルバヌス8世は、ディアス・ターニョを温かく迎え、彼が言わねばならなかったことを関心を持って聞き、彼に助力を約束し、神の怒りでマメルコスを脅かすべく教皇書簡を彼に与えた。ターニョ神父は、ローマからマドリッドへ行き、そこからリスボンへ、またそこから若々しく熱心な司祭たちの集団に伴われて航海をした。

リオ・デ・ジャネイロに着くと、彼は教皇書簡の内容を発表し、イエズス会の教会とコレジオの扉に貼り付けた。このとき、彼はイエズス会士の最も重要な徳である用心深さに欠けていたようだ。または、少なくとも彼を取り巻く人々の性格を誤解していたようだ。マメルコスと関係のあった大部分のポルトガル人植民者たちは憤慨し、暴徒がコレジオと教会の扉を打ち壊した。


リオ・デ・ジャネイロの暴動

暴動が非常に深刻になってきたので、総督は議会を招集し、ターニョ神父を召喚した。彼は来て、その場の主要な人々の面前で彼の主張を申し立てた。しかし、多数は道理をさほど考慮せず(人類愛などは全く考えもせず)さらに怒り狂ったが、最後に教皇に抗議して送られた請願によってなだめられた。

これ程のことが、リオ・デ・ジャネイロで起きているのだから、マメルコスの中心地であるサン・パウロでの人々の憤激は如何ばかりのものだったか。


暴徒に抵抗する補佐司教

そのとき、補佐司教がドン・ペドロ・アルボヌスの命令によって暴動を沈静化させるための声明を発表した。人々は直ちに立ち上がって、「もしすぐに声明を撤回しないなら、即刻死を与える。」と補佐司教をおどした。

補佐司教は、跪かせられ喉元に裸の剣を突き付けられても、声明を撤回することを拒否した。彼の勇気は暴徒を静まらせた。そこで、彼らは要求書を作成し、強いて補佐司教に署名させようとしたが、彼は再び拒絶した。暴徒は声明を要求し、それはイエズス会のコレジオにあると言われた。

彼らは、大急ぎでそこに向かい、祭服を着て手に聖体を持った修道院長に途中で出迎えられた。彼が話すと、彼らの大部分は神の身体(聖体)の前で地面にひれ伏した。他の者は直立したまま「聖なる秘蹟を全霊で崇める以上は、彼らの主要な財産である奴隷が自由の身になるとしても、問題にしない。」と言った。無神論者(または、ある種の新教徒)は司祭を撃てと叫んだが、同調する者は居なかった。

修道院長は、それから、声明の写を彼らに渡し、彼らは補佐司教の方を向いて、彼らが受けるであろうカトリック教会の何らかの譴責に関する赦しを求めた。しかし、彼は3回に亘って頑固に彼らを罪の中にのたうち回らせた。

革命によって、ポルトガルがスペインから解放されたとのニュースがちょうど町に届き、イエズス会士は、自分たちに対し怒り狂い、パラグアイへの侵入を進めることを以前にも増して固く決意している(リオ・デ・ジャネイロの)ポルトガル人市民から逃れて、そこから退却しなければならなかった。マメルコスの侵入までの時間が迫っていたのだ。


ルイス・モントヤの活動の成果(ついに、自衛への火器使用が容認されるが、それがスペイン人の不満の因となる)

ルイス・モントヤ神父はマドリッドで成功し、その探求の旅に出発するときに望んだ以上のものまでを獲得した。4カ月にわたる成功の旅の後にマドリッドに着くと、国王(フィリップ4世)を訪問し、国王と、海外領土及びカスティ-リャから選ばれた代理人たちの前に以下の点を提案した。

1.如何なる先住民も、正当な戦争で捕らえられたものでなければ、奴隷としてはならないと定めた1611年の法を有効にすべきこと。
2.同様の規定を含む、パウロ3世とクレメンス8世の小勅書の内容を教皇と相談すべきこと。
3.これらの指図に従わなかった者たちは、審判されるべく異端審問所に引き渡されるべきこと。
4.パウリスタによって奴隷化された先住民は直ちに自由にされ、侵略者は罰せられるべきこと。

国王は、審議の後全ての点を容認し、そしてさらに先住民が払うべき年貢を制定した。
(これは、教化村の先住民は、国王に税金を払わなかったという噂を広める人たちの悪意を証明するようだ。)

これら全てを制定することは容易だった。しかし、他の大部分の法律と同様に有効化することは容易ではなかった。その上、ポルトガルをスペインから引き離す革命がちょうど起き、マメルコスに対する全スペインの非難は、わずかに考慮されるに過ぎないものになっていた。モントヤはマメルコスに対する自衛に火器を使用することの許可に対する要求を進めた。国王は審議の後、この最後の点を容認し、その時から、パラグアイ及び教化村地域全体へのマメルコスの侵入は停止した。

また、その時が、王権に対してかくも良き労役を提供するイエズス会市民軍の始まりであったのだが、それによって教化村先住民が、マメルコスからだけでなく、スペイン人植民者からも守られることとなったために、スペイン人からの多大な不平不満の原因となった。


モントヤの最後

モントヤ神父は二度とパラグアイへ戻らなかった。しかし、パラグアイではかれは長い間戦い、貧しい先住民のために実に多くのことをなした。彼は、自分の全ての努力の結果を見るべきであったが、それは出来なかった。というのは、セビリャでペル-に向けて乗船し、その後、会の業務でリマに引き留められたのだ。

それから、彼はトゥクマンへ行き、リマに戻り70歳で死んだ。彼が生涯共に戦い続けた副王と聴訴院の主要メンバーは彼の遺体と共に墓まで付き添った。いくつもの奇跡によって、彼が天国で享受している栄光が示されている。

それは、そうなのであろう。そして、もしそれらの奇跡が実際に起きたのであれば、それらは起きて当然だったのだ。それだからか、彼の名前は、多くの埃まみれのラテン語やスペイン語の本の忘れられたページに、神聖なものとして残っているのに、パラグアイにおいてさえも、もはや人々に記憶されていない。

モントヤ、ディエス・ターニョ両神父がヨ-ロッパにいた間に、イエズス会にとって深刻な危険が大きく育っていた。


フランシスコ会士がパラグアイ司教に任命されたので

「新世界」が発見された頃、フランシスコ会は海外布教を進める修道会の中で
第一位の存在だった。ある者はコロンブスに付き添い、ある者はメキシコでコルテスと共に居た。ペル-の征服者たちアルマグロとピサロの主人役は、フランシスコ会士である軍隊付き司祭であった。アルバル・ヌニェスは、彼の記録の中で、ブラジルでどのようにいくつかの修道会と出会ったかを報告している。最後に、「新世界」の全ての聖人のうちで最初の人は、フランシスコ会士であった。

1638年、現在のアルゼンチンにあるフフイ地方で、フランシスコ会士がある教化村に対する権利についてイエズス会士と争った。デル・テチョ神父によれば、「熟したトウモロコシに鎌を入れた(自分たちが育てた作物を横取りした)」と非難して、ということである。もし、それが本当なら、それより苛立たしいことは滅多にないだろうが。

紛争はフフイからパラグアイへ拡がった。パラグアイで、フランシスコ会はユティからカサパへ拡がるいくつかの教化村を持っていたのだが、それらはティベクアリ川東岸のサンタ・マリア地区にあるイエズス会伝道所の殆ど範囲内でもあったのだ。

もし、パラグアイ司教の地位へのフランシスコ会士の任命が、激しく炎を揺らめかせることがなければ、これらの怨恨は燻り続けることはあっても、決して燃え上がりはしなかった。もし、扇動者に争いをそそのかせようとするなら、まさにその時パラグアイ司教職に任命されたドン・ベルナルディノ・カルデナス以上の適任者は居なかったに違いない。



[私が考えたこと]


消えていった或る理想郷 そのⅤ                第3章 際限のない「あくどさ」と「だらしなさ」のはざまで_a0326062_21304251.png
              出典:Wikimedia Commonsより Sudamerika 1650.png




1.気が付いたら超大国になっていたポルトガル領ブラジル

先ず、上の南米地図をご覧頂きたい。地図に引かれた2本の縦線のうち、東側(右側)が「教皇子午線」である。これは、1492年のコロンブスによる「インド発見」の知らせを受けて、ロ-マ教皇アレクサンドロ6世が1493年に発布した教皇勅書「インテレ・カエテラ」によって規定されたポルトガル・スペイン両国の勢力分界線である。

ところが、両国はその教皇勅書の内容を考慮することなく交渉を進め、「教皇子午線」の代わりに、その線の西側(左側)に境界線を設け、その線の東側(右側)に新たに発見された全ての土地をポルトガルのものとする条約を1494年に締結した。それがトルデシリャス条約である。

そこで気が付くことは、ポルトガル領であるブラジルは、これら「教皇子午線」や「トルデシリャス境界線」を遥かに超えてスペイン領を侵食し拡大していったということである。これについては、一般的には、1500年にポルトガル人であるペドロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」したため、現在のブラジルにあたる領土がポルトガルに与えられたと説明されているが、ポルトガル領以外はスペイン領だったのだから、それだけスペイン領が侵食されたということである。現在ブラジルは南米大陸全体の約半分の面積を占め、残りの半分を旧スペイン領11か国で分ける形になっているのだ。(スリナムとガイアナはそれぞれ、オランダ領・イギリス領であったが。)


2.「あくどさ」と「だらしなさ」

それでは、なぜポルトガルはスペイン領を大きく浸食することが出来たのか。通常国力を示すと思われる国の面積と人口について言えば、スペインはポルトガルの約5倍である。しかも、ちょうどこの時期1580年から1640年の60年間、スペイン国王はポルトガル国王を兼ね、ポルトガルは実質スペインに併合されていた。しかし、それでも海外領土では、スペインはポルトガルにやられ続けたと言われている。

この本を読んでいて、その要因の二つが分かるような気がした。

その第一の要因は、ブラジルのマメルコス、パウリスタ、バンデイランテの行動に見られるポルトガルの「あくどさ」である。狙った獲物は捕りつくす残忍さである。また、その「あくどさ」はリオ・デ・ジャネイロで暴動を起こした市民が示してくれている。前回の記事に書いたことだが、マカオに居留して日本へザビエル等宣教師を運んで来たポルトガル商人というのも、そういう人たちだったかも知れない。


そこで、思い出したのが、1608年有馬晴信の朱印船の乗員がマカオで起こした騒乱事件である。その原因を日本の歴史学者までが、当時の日本人の粗暴さにあったかのように説明しているのだが、私はどうも納得がいかなかったのだ。キリシタン大名晴信がマカオのポルトガル人を強く恨んで、2年後に長崎で自軍に焼き討ちをかけさせポルトガル船をカピタン・モールもろとも自爆させたのだが、何故それほど晴信は恨んだのか。それが、今回やっと納得できた気がする。おそらく、それほどマカオのポルトガル人に「あくどい」ことをされたのだろう、ということである。


また、さらに思い出したことは、マカオのポルトガル人の「あくどさ」は、ペル-から日本へ渡来したスペイン人商人フアン・デ・ソリスが秀吉に訴えていたことである。



もう一つポルトガルがスペイン領土を侵食できたことの要因は、スペインの「だらしなさ」である。スペインの戦闘と外交交渉の稚拙さはこの本の随所に書かれている。そして、私が思い出したのが、秀吉の脅迫外交に脅え、家康の浦賀誘致に応えられずにもたもたしているうちに時勢が変わってしまったフィリピンのマニラ政庁である。日の沈むことのない大帝国スペインの官僚・軍人は世界のあらゆる所で、恥も外聞もなく蓄財に励んでいた反面、要領の悪さと無責任さと臆病ぶりも遺憾なく発揮していたということのようだ。

とにかく、教会が一体となって世界布教を進めようとしたパートナ-は、こういう「あくどさ」と「だらしなさ」を特徴とする国々だったのだ。しかし、その特徴は余りにも人間的であると考えるべきであって、そう憤慨したり落胆したりする必要は無い。もっと人間的な集団が現われて、その国々に抵抗してくれたのだから。それも、あの時代にである。


3.モントヤについて納得できないこと

アントニオ・ルイス・モントヤ神父について腑に落ちない点が二つある。
一つは、彼はスペイン人を父に、先住民を母にリマでうまれた混血児(メスティソ)であったはずだが、父親について言及されていない。イエズス会士で功績のあった人物の場合、父親について言及されるのが普通だと思うが、そうされないのは何故なのか、知りたいところである。リマにはアントニオ・ルイス・モントヤ大学というのがあるので、そこで訊いてみようかと思う。

もう一点は、モントヤはヨーロッパへ特使として派遣された後、パラグアイに戻らずリマで会内部の業務に就いたそうである。あれほど、企画力・実行力・統率力・指導力に優れた人物を前線から外したのは何故なのか。まさか出来過ぎるので使い辛かったなどという理由ではないでしょうね。


4.フランシスコ会系司教の登場

いよいよ、イエズス会の宿敵フランシスコ会系司教の登場である。カトリック修道会同士の紛争としては、日本でも‘’長崎シスマ‘’と呼ばれる出来事があり、過去それについて記事を書いたので、先ずご参照頂ければ幸いです。



‘’長崎シスマ‘’の場合、どの修道会の司教が良いのか悪いのかよく分からないで困るのだが、パラグアイの場合には悪い司教は誰かははっきりしていて分かりやすいので助かる。その司教が、どんなに悪かったかは、次回以降の記事に書くことになると思う。



〈つづく〉



# by GFauree | 2022-07-02 13:16 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

消えていった或る理想郷 そのⅣ                第2章「強制連行」に付き添い、「大移動」を率いた大馬鹿者たち

消えていった或る理想郷 そのⅣ                第2章「強制連行」に付き添い、「大移動」を率いた大馬鹿者たち_a0326062_09533234.jpg




メスティソ(混血)のイエズス会士たち

1610年、イエズス会は現在のパラグアイを通るパラナ川の流域に初めての教化村ロレトを創設し、それ以降各地での教化村建設を本格化させていく。

その初期に活躍したのが二人の混血(メスティソ)会士、ロケ・ゴンザレスとアントニオ・ルイス・モントヤである。(メスティソとは白人とラテン・アメリカ先住民の混血の者という意味である。)

ロケ・ゴンザレスは、前回の記事に登場した遠征隊の司令官ドン・ペドロ・デ・メンド-サの隊の一員バルトロメ・ゴンザレスを父に、先住民女性マリアを母としてアスンシオンに生まれた。

一方、アントニオ・ルイス・モントヤについては、本書では「スペイン生まれ」とされているが、正しくは、スペイン人男性と先住民女性との間にリマで生まれている。そのスペイン人男性がどういう人物だったのかは、不明である。

多数の教化村の建設と先住民保護に獅子奮迅の働きをしたことは、良く知られているが、彼の残したグアラニ語研究の著書は高く評価され、彼が生きた時代の最も学識のある者のうちの一人ともされている。彼自身の中に、行動する男の性質と、学者・宣教師の性質を併せ持っていたということであろう。

今回採り上げるカニンガム・グレアム著「A Vanished Arcadia」(消えて行った或る理想郷)第2章には、主にそのアントニオ・ルイス・モントヤの事績、特に「先住民12,000人を率いた800キロにわたる大移動」を含む、ブラジルからの奴隷狩り部隊との戦いが語られている。


ある程度までは、成功していたイエズス会の「隔離政策」

教化村建設の殆ど発端から、イエズス会が微妙な立場にあることを、会士自身が自覚していた。それは、常日頃スペイン人入植者たちからは疎んじられていながら、先住民の力がスペイン人のそれに優る時には、イエズス会は頼られるという位置付けである。

イエズス会はスペイン人から嫌われていたから、スペイン人の住む町から遠く離れた所に活動拠点を置かざるを得なかった。また、スペイン人入植者の虐待を警戒する先住民からの信頼を得るために、イエズス会士はスペイン人入植者との接触を出来るだけ稀にせざるを得なかった。

つまり、スペイン人入植者たちは普段はイエズス会士と距離を保つことを望みながら、必要なときは接近したがった。一方、イエズス会士は先住民から信用されるためには、常にスペイン人入植者を遠ざけておく必要があった。だから、先住民をスペイン人から隔てるというこの「隔離政策」は、後年秘密主義の表われであるとしてイエズス会に投げかけられる非難の一つとなったが、当初から必然的に存在していたのだ。

とにかく、以上の理由でイエズス会は人里離れた所へ教化村を建設した。すると、そこに第二の村が必要になるほどの数の先住民が集まった。最初の2~3年の間、イエズス会にとって全ては順調だった。先住民は、一方でスペイン人の虐待から、他方でブラジルからの奴隷狩り部隊(マメルコス、パウリスタ、バンデイランテなどと呼ばれる)の襲撃から逃れられることを喜んで教化村に集まったため、短期間のうちに次から次へと教化村が作られた。

つまり、グアラニ族は最初、ポルトガル人やスペイン人の虐待者から避難する場所として、イエズス会教化村に入ったのだ。ところが、原始林での生活に慣れた人々の常として、そのうちイエズス会の規律にうんざりしてしまい、しばしば森へ逃げ帰った。すると、気の毒な神父たちは、森の奥まで浮遊する新改宗者を追って行き、戻ってくるよう説得せねばならなかった。


奴隷狩り部隊マメルコスとは

イエズス会士が、教化村群の建設を進めている間に、巣窟の鷹が餌にするために太らせた鳩をじっと狙うように、ブラジルの奴隷狩り部隊が教化村に集まった新改宗者たちを捕獲しようと待ち構えていた。約800マイル(1,300キロ)離れたブラジルのサンパウロ市に、奇妙な集団が出没するようになった。ポルトガル人とオランダ人の冒険者と犯罪者に海賊が加わって、ブラジルとパラグアイの無法者の集団となり、マメルコス、パウリスタ、バンデイランテの名のもとに、直ぐにその土地の脅威となった。

彼らは主にブラジル大農園の奴隷として先住民を供給することで、生計を立てていたのだが、直にサンパウロ近辺の先住民を取り尽くし、未知の内陸まで手を延ばしてきた。少しずつ、大河の経路をカヌーで辿り、パラナ川の上流にあるイエズス会居留地に到達した。そこで、彼らは教会を焼き、新改宗者を捕虜とし、神父たちを殺害したのだ。


マメルコス(パウリスタ、バンデイランテとも呼ばれる)の手口

ルイス・モントヤとその他の者たちによれば、マメルコスの手口はつぎのようなものである。

マメルコスの行動は、日曜日にイエズス会教化村を襲うことであるが、それは、子羊たちが教会のミサに与ろうと周囲に集まる時に、神父を殺し改宗者たちを奴隷として連れ去るか、それともイエズス会士に変装して教化村に入り先住民の信頼を得て、それから自分たちの兵士と連絡を取ることである。(その兵士たちは、森の中で待っていたのだろう。)

しかし、これに満足せず、イエズス会士として入り込みミサに参加することをしばしば練習していたので、サンパウロに帰る時のドンチャン騒ぎでの大きな楽しみは、神父のふりをすることだった。つまり、ならず者たちは極悪な行いで儲けるばかりでなく、愚かな行為を大いに楽しんでもいたのだ。

当然のことながら、これら恐るべき陸と海の海賊たちは、イエズス会教化村群において、多くの先住民を一網打尽に捕獲しようと、その機会をひたすら狙っていたのだ。


奴隷狩り部隊マメルコス(パウリスタ)の出現

1628年、エンカルナシオン教化村の前にマメルコスが現われたが、先住民の多くは既に森に避難していた。残った者たちは、羊飼いのいない羊の群れのように、どうすべきかを知らなかった。モントヤ神父は現場に駆け付けた。そして、全てのキリスト教徒に武器を取るように頼んだ。その状況では、疑いもなく彼は正しかった。歴史を読んでいると、如何にしばしば、そして如何に多くの国でキリスト教徒が武力に頼っているかを観て人は当惑する。

難局に対処する前に、モントヤはメンド-サ、ドメネッチ両神父を教化村の主な住民の幾人かと共に、マメルコスと交渉させるべく派遣した。マメルコスは、有名な指導者アントニオ・ラポソの下、町の外に野営していた。

使者がキャンプの領域内に到着すると、マメルコス側はそれを弾丸と弓矢のシャワ-で出迎え、それによって先住民の幾人かが殺され、メンド-サ神父は足に負傷した。その負傷にも拘わらず、神父がキャンプに向かって進み、隊長と話すことを要求したので、マメルコスは彼の勇気に衝撃を受け、前日に捕虜とした先住民の幾人かを彼に解放した。(このあたりの記述は、やや講談調だが、まあ味も素っ気もない教科書調にならないためには仕方ないか。)

翌日、モントヤ神父は、予期していなかったメンド-サ神父の成功に勇気付けられて彼自身が出ていき、パウリスタ隊長と対面し、大胆にも彼らに退却するように迫った。しかし隊長は、それに対する答えとして、部下に対し町に進軍することを命じた。ところが、彼らの固い心が、神父の力強い言葉によって動かされたのか、新改宗者たちが臨戦態勢にあるという事実を知った為か、町の付近に到着したとき、急に進路を変更し、森に向かって進んで行った。

戦闘の一時中断を幸いとして、モントヤは、ディアス・ターニョ神父とフスト・ヴァンスルク・マンシジャ(少し妙な名前だが)神父と共に、当面の間、全ての注意をサンタ・マリア・ラ・マヨ-ル教化村に向けることにした。というのは、その教化村は、当時の全ての教化村の中で最も繁栄した村だったからである。
(因みに、サンタ・マリア・ラ・マヨ-ル教化村には、今日でもなお、建築物と旧教化村の土地に建てられた先住民遺跡とに、当時のイエズス会事業の跡が最も色濃く残されている。)


度重なる奴隷狩りの襲来

1629年、彼らはサン・アントニオ教化村の前に初めて現れ、教会と家々を焼き、奴隷として売るべく先住民を連れ去って、村を完全に破壊した。サン・ミゲルもヘスス・マリアも直に同様の運命を被った。コンセプシオンでは、神父は常に包囲され、兵糧攻めにされた神父と住民たちは、犬、猫、鼠そして蛇さえも食べる羽目となった。

マメルコスは、1630~31年という短い期間に、サン・フランシスコ・ハビエル、サン・ホセ、サン・ペトロ、ラ・コンセプシオンの村々を部分的に破壊した。そして、最初に建設された二つの村サン・イグナシオとロレトは完全に壊滅させられた。


先住民の反応

やりたい放題に振る舞うパウリスタに抗う何の手段も持たないイエズス会に、先住民が深く失望したとしても不思議ではない。そのため、彼らの多くがイエズス会士を呪い、森に逃げっ戻って行き、そのことをイエズス会の神父たちは皆気付いていた。また、キリスト教の洗礼という『毒』によって、パウリスタによる襲撃という『災難』がもたらされた、と先住民が考えたとしても、おかしくはない。孤立したイエズス会士は、自分たちの仔羊である先住民から襲われるという新たな危険に晒されることとなった。

実際に、サン・アントニオの教化村が壊滅した後、モラ神父は先住民にパウリスタの一味ではないかと疑われ、安全のために他の町へ避難せざるを得なくなった。そして、さらに野蛮な先住民の軍勢がサン・アントニオを攻撃するために到着すると、モラ神父が扇動者だったとすぐに考え、かれの追跡に取り掛かり、彼が避難所に到着する前に彼を捕らえようとした。

その様な出来事の中で、確かなことは、イエズス会士たちが、改宗させた先住民に対する義務を果たすべく、彼ら自身が正しいと考える範囲で精一杯行動したということである。


パウリスタによってブラジルに連行される捕虜に付き添って

マセタとマンシジャの両神父は、徒歩で随行者もなくブラジルに向かう15,000人の先住民捕虜に付き添い、死を前にして道に倒れた者たちの告解を聴き、その場で捕虜の解放を懇願した。マセタ神父は、自分自身を辛うじて引きずることしか出来なくなった者の鎖を運ぶことに努めていたが、実は彼自身飢えと絶え間ない身体の苦痛によって半死の状態だったのだ。

彼らは徒歩で、食糧もなく、虫に酷く苦しめられながら、パウリスタの絶えざる暴力と野生動物の危険の中、何を頼りに耐えていたのだろうか。パウリスタは、始終、槍で刺すか頭越しに銃を乱射し、彼らを脅し付けていた。そもそも、世界のその忘れられた片隅の森林の中を旅したことがある人でなければ、推し量ることができない程の大変な苦痛を伴う道程だったのである。

引き裂かれ、赤茶色に日焼けした司祭服を着け、低湿地の中を膝まで水に浸かりながら、人生途上のキリスト教徒のように何度も転び立ち上がって森の道を進み、今や死なんとしている男を見つければ彼の傍らに跪き、野いちごを見つければ道端で食べさせる。そして、自分が通った後に密かに動くジャガ-の姿を見つけるような道行きである。

しかし、彼らは、自分たちの全ての努力が、骨折り苦しんだ大部分の者の努力と同じように無駄になることを実は確信していたようだ。


サン・パウロへ、リオ・デ・ジャネイロへ、そしてグアイラへの長い戻りの旅

森の至る所で度々躓き、開けた平原で日に焼けて、膨らませた牡牛の皮袋にしがみついて川を渡り、漸く捕虜たちとイエズス会士はサンパウロに着いた。そこで、イエズス会士はコレジオを開き、休むことなくすぐに働き始めた。そして、時を選ばず、先住民捕虜を救うため懇願し、嘆願し、説教した。

そして、パウリスタの長の顔に慈悲の色を見出せなかったとき、ブラジルの総領事に会うために、リオ・デ・ジャネイロに向けて出発した。そこで、話をすべき適格な人間は、植民地総督であると言われたが、彼の官邸は5~600キロ(東京から大阪ぐらい)離れたバイアに在った。

少しもひるまず彼らは出発し、バイアでドン・ディエゴ・ルイス・オリヴェイラという多少友好的な人物に会えたが、結局彼は自身の都合を優先させる姿勢を崩さなかった。

それから二人のイエズス会士は、グアイラでパウリスタの更なる侵入が予測されていると聞き出発した。長い戻りの旅である。森を抜け、平原を越え、山岳地帯を横断し、そして湿原とパラナ川流域にある教化村との間に位置する、湿っぽくうすら寒い沼沢地を抜けて歩き続けた。

一方、彼らがバイアで会った植民地総督は、彼らの言葉によって、どうあらねばならないかの意識を目覚めさせられたようである。と言うのは、彼はサン・パウロへの年次訪問時に、入植者たちに対し、彼らの奴隷襲撃に反対する公式発言を行ったが、集会で弾丸が発射され彼は演説を中止せざるを得なかったのだ。教化村の住民は、その時彼に知らせた。彼らにとって正当と思われることや、正当に手に入れた生活手段を諦めるのなら、洗礼取り消しをすることになるだろうと。

以上が、ブラジルの奴隷狩り集団マメルコス(パウリスタ)が奴隷とするべく捕獲した15,000人の先住民が、ブラジルへ連行される際に付き添ったイエズス会士の活動の顛末である。




アントニオ・ルイス・デ・モントヤという男

この(1630年)頃、イエズス会士たちは、気の毒にも先住民の「異教返り」に悩まされていた。そのさなか、殆どいつも原野に駐留していたパウリスタとともに、一人の男が現われ、グアイラからイエズス会士と彼らの新改宗者を連れ出し、豪雨の下でパラグアイの教化村にしっかりと定着させた。それが、アントニオ・ルイス・デ・モントヤである。

彼自身が本の中で語っている。
「私は、30年の全期間をパラグアイで過ごした。(ヨーロッパに特使として派遣された時期を除いて、という意味だろう。)砂漠の中の未開の先住民のために、野生の土地を踏破し連山を横切り、先住民を見つけて、彼らを聖なる教会の真の囲いの中に連れて来るために、また、スペイン国王と天の王とに仕えさせるために。
仲間たちと私は、原野に13の教化村と町を建設した。大いなる不安と飢えと無防備さとしばしば命の危険を感じながら、これをなした。そして、スペイン人と遠く離れて過ごしたこれらの年月は、私を殆ど田舎者にしてしまい、宮廷の洗練された言葉を忘れてしまった。」

彼は、絶えず旅をし続けていたから、逆に担当したグアイラからヤペユまでの地方については、殆ど知らない。また、彼が語っているところによると、旅行のための全備品としては、ハンモックと少しの小麦粉だけだった。そして、彼は普段、サンダルを履くか裸足で徒歩で旅をしており、8~9年の間に一度もパンを食べたことが無かったそうである。


グアイラ地方の宣教のためアスンシオンに旅するモントヤ

1611年から12年頃、モントヤはアスンシオンの管区長からグアイラ地方の宣教を任された。その地方での宣教が順調に進んでいないことが定評となっていたからである。モントヤは、6人の先住民を伴って旅に出たが、今日でも陸路での旅は、最も大胆な旅行者でも卒倒するほど困難なものなのである。

歩き続けて行程の約半分を、彼は独りで歩いて来たことに気が付いた。先住民たちは、後方をだらだらと進んでいたのだ。森の中で夜になり嵐が来た。巨木の根元で空腹を抱えながら、じっとりと湿った夜を過ごし、朝になると関節炎の痛みで足を引き摺って歩いて来たことに気が付いた。そして、それからは腕と膝で這って旅を続けざるを得なかった。

独りぼっちで誰の助けもなく、マラカユと呼ばれる場所まで身体を引き摺って行ったが、カヌーを入手出来ず、あと1リ-グ(約5.5km)進んだ所で死んだように横になった。彼の足はリュ-マチの痛みで巨大に膨らんでいた。その時、聖イグナチオに祈り、イグナチオへの従順の気持ちから荒野を横断する旅に出たことを伝えた。すると、彼は癒され、脚は普通の大きさに戻り、再びアスンシオンへの旅を続けられた。



恩知らずな裏切り者スペイン人入植者たち

1627年、モントヤはグアイラの教化村群の教区長となったが、それは彼に、彼がどういう類の男であるかを示す機会を与えてくれた。この年、グアイラ教化村群に最も近い町である、ヴィジャ・リカ(「美しい村」を意味する名称)のスペイン人入植者たちは、「モントヤが洗礼を授けたタヤオバと呼ばれる先住民首長を侮辱した数人の先住民を罰するため」という名目で遠征隊を送った。遠征隊の真の目的は、奴隷狩りであることをモントヤは良く分かっていた。

彼は充分な理由なしに、先住民に対しなされる如何なる戦いも禁じているスペイン国王の布告を司令官の面前に持って行き、その企ては全て無駄になった。そこで、遠征隊はヴィジャ・リカを離れ荒野に留まった。モントヤは司令官の野望に怒り、サラサ-ル神父と数人の充分に武装した先住民を連れて遠征隊に同行した。

彼がそこにいたことは、スペイン人にとって好運なことだった。と言うのは、第2日目、飛び矢が森から湧き出るように飛んで来て多くの者が負傷したのだ。遠征隊の隊長は退却を命じた。それは、彼らの位置からは見ることのできない敵の射撃に四方を晒されて致命的であることが明白だったからである。

モントヤは、先住民がいる森の縁に立つ何軒かの小屋の前に土塁を積むことを勧めた。彼は、ヴィジャ・リカに援軍を要請する使者を送った。スペイン人は土塁の後ろからさえも圧迫され、身動きが取れなくなった。先住民の数は日増しに増え、3日目には、約4,000人を数えるまでとなり、小屋まで前進して来そうになっていた。

スペイン人隊長は盛り返しを命じ、新改宗者たちはモントヤを連れてその場を離れ、森の隠れ場を手に入れることを望んだ。しかし、モントヤはそれを許さず、兵士を補充し、敵対する先住民を敗走させた。

ところが、スペイン人たちは自分の命が助かったことを感謝するどころか、捕虜(奴隷)を捕まえる望みが消えてしまったことを見て、モントヤが連れて来て直近の戦いで彼らと共に戦ってくれた先住民を捕まえることを望んだ。朝になればスペイン兵たちが新改宗者たちを襲うと聞いたモントヤは、夜陰に乗じて彼らを送り出し、翌朝スペイン人隊長に新改宗者たちを帰らせたことを告げたが、隊長は何も言い返せなかった。

二人の神父は兵士たちが退散するまで辛抱強く待っていて、それから先住民たちを呼びにやり、静かに家へ帰った。



マメルコスのグアイラ地方への侵入とアスンシオン司令官の無為無策

1631年、マメルコスはグアイラ地方へ侵入した。完全な混乱状態の中、モントヤはディアス・ターニョ神父をアスンシオンに送り、司令官ドン・ルイス・デ・セスペデスに彼らに助けを送るよう要請した。彼は、何も出来ないと答え、それ故、グアイラ地方全体を無防備に放置することによって、スペイン王権にとって豊かな地域を失うこととなった。

マメルコスは、ブラジルを本拠地にするポルトガル人の奴隷狩り集団である。1631年の時点で、ポルトガルとスペインは統合されていたが、海外領土では両国は戦争状態だった。そして、ヨーロッパではスペインが両国のうちの強者だったが、ラテン・アメリカではポルトガルが、(後に、ブラジル帝国の一部を形成する)比較的豊かな地方を征服して、むしろ優勢な面もあったのだ。

ドン・ルイス・デ・セスペデスから助力を得ることが出来なかったため、ディエス・ターニョ神父は、事態を王室聴訴院(アメリカ高等裁判所)に訴えるためにチャルカスに派遣された。



アスンシオン司令官の無為無策をなぞるだけのチャルカス王室聴訴院の布告

グアイラ地方を完全な混乱状態に陥れたパウリスタが、その地方の教化村の全てを壊滅させ一掃した頃、ウルグアイでは事業は成功し、ロメロ神父はサン・カルロスとアポストレスとして知られれる二つの教化村を設立した。(1631年)そこで、グアイラで虐げられた新改宗者が直に安全な避難先を見つけられることになる。

ディアス・ターニョ神父はこの時までに、王室聴訴院(高等裁判所)の布告を持ってチャルカスから戻っていた。しかし、その布告は、国王の利益を損なうマメルコスに抵抗してグアイラ地方を守ることが出来なかったドン・ルイス・デ・セスペデスの無為無策を明らかにするに過ぎないものであった。

なお、王室聴訴院は現在のボリビアにあり、アンデス山脈の東側(今のアルゼンチン、パラグアイなど)の住民全てにとって接触するのに極めて不便であった。これが、訴訟を妨げることを意図した政治の傑作であるか、それともスペイン人の無関心または運営の不備であるかは、議論の余地のあるところである。



激しい議論の結果、「大移動」が決定された

とにかく、布告は役立たずであり、ターニョとモントヤは、新たな攻撃に直面するべく、早急に呼び戻された。そして、彼らが到着する前に、サン・フランシスコ・ザビエルとサン・ホセの両教化村は、既に破壊されていた。しかし、まだ破壊されていない3つの教化村があったので、モントヤはグアイラの管区長として、管区のイエズス会士を呼び出し、防御する方策について検討することを要請した。

議論は荒れた。神父たちのある者は、新改宗者たちが徹底的に戦うことを望んだ。繊細な他の者は、充分に武装しておらず訓練も極めて不十分な教化村の住民軍は、彼らの弓では、良く統率され訓練され全員が銃で武装したパウリスタに対して、全く無力であると指摘した。

トゥルヒ-ジョ神父の意見は、先住民を安全な場所へ運ぶことが、より確実だろうということだった。そして、グアイらの大滝の近くで川を渡ることが出来るので、そうすれば襲撃される場合も、彼らとパウリスタの間を分断することが出来るだろう、と指摘した。この忠告は、残りの者にとって、用心深く賢明に思えた。そこで、トゥルヒ-ジョ神父は「大移動」の準備に取り掛かった。



繫栄した六つの村を立ち退いて、安全な移住地を探すという「大移動」計画

絶望の中で、そしてパウリスタとまたそれから逃れて移住していくことの恐怖の中で、新改宗者たちは最良の友としてイエズス会士の方を向き、これから抱えることになる苦痛の全てを彼らに委ねることを決めた。

使者が来て、パウリスタ軍は、ヴィジャ・リカを進んでおり、彼らの強力な派遣隊が南から進んでいる、と伝えた。そこで、モントヤ神父は、最後の決断をして、まだ無傷で残っていた二つの主要な教化村(サン・イグナシオとロレト)からも撤退することを命じた。

それらは、グアイラで最初に建設され、パラグアイにおけるどのスペイン人の町とも同様に重要なものだった。先住民は、モントヤによれば、スペイン人居留地の住民よりも、はるかに良質で彼らの信仰と汚れなさは特に賞賛すべきものだった。彼らは、綿を栽培し、大きな牛の群れを持っていた。そのため、たとえイエズス会の最も厳格な敵であっても、220年の短い時間のうちに多くが成し遂げられたことを、認めるに違いないのである。

1609年にイエズス会がグアイラに来たときには、そこには全く人の手が付いていなかった。そして、1631年に、彼らがそこを去る時、そこはスペイン王権のラテン・アメリカ領土のうち最も繁栄した土地になろうとしていた。他の宣教師たちは、先住民たちを彼らの家から離れるよう説得することは出来ないと考えた。というのは、そこで長い年月彼らが幸福であったからだ。

しかし、モントヤが彼らに自分の計画を説明すると、彼らは皆一斉に同意した。計画は、それによって、イエズス会士というモーゼが彼らの羊をグアイラの荒野の外に導くという点が最も肝要である。かつては、繁栄した六つのイエズス会教化村の最後の立ち退きが、モントヤの命令で行われた後、彼は全てのボート、いかだ、カヌ-を集め、多大な説得の後、パラナ川を下りより安全な移住地を探し付いて行く行くことを全ての住民に了解させた。

六つの教化村の人口は、10万人と推定されたが、その中で1629年から1639年までの間に、数千人がサン・パウロへ捕虜として連行され、数千人が森の中へ離散してしまっていた。


「大移動」の始まり

先住民は、精神的に高揚した状態にあったようである。というのは、幾人かの若者がイエズス会士に、幸せな時代には奇跡を起こす力のあったキリストと聖母の像を荷造りすることを主張し、追放に立ち向かう良い仲間が一緒であれば死さえ天国の前触れとなると明言した。

敵の接近について、彼らに警告するために、彼らが配置していた見張りが警報を鳴らした。モントヤは、直ちにスペイン人の町シウダ・レアルに助けを求めたが、その町自体が既にパウリスタの圧迫を強く受けていて、支援は期待できなかった。イエズス会士が教化村から撤退したことを知ると、パウリスタは原則として教会を焼いた。おそらく、巣が壊されれば、カラスは戻って来ないと考えたのだろう。

大移動の最も困難な部分が今や到来しようとしている。下って行くべきパラナ川の急流と大滝は90マイル(150km)近くに広がり、地域全体に岩が点在し、ツタの絡まる森林の迷路が続く。通り道は無く、土地は砂漠であり、湿った植物を覆って、雲状の水蒸気の水分が、途切れることのない雨の中で吹き上げられていた。

脱落したり逃亡したりする者はいなかった。殆ど糧食も武器もなく、猟の獲物も望めない所で、長旅は始まった。まずいことに、滝の始まり2~3マイル(2~5km)下流に、グアイラのスペイン人が強力な防御柵に囲まれた木製の要塞を築いており、非難してくる先住民を奴隷にしてやろうと待ち構えていたのだ。しかし、これは、巨大な集団全体が静かに森の中に忍び込むことで、通過の跡を殆ど残さなかったために、要塞にいたスペイン人には気付かれずに済んだ。


8日間の彷徨の後の新たな出発

大滝の下流の終点に到達するには8日間を要し、そこから再びパラナ川を航行した。到着すると先ず、糧食と出来るだけ多くのボートを見つける必要があった。しかし、そこには何もなく、彼ら自身の貯えも殆ど使い果たされていた。そして、人々は疲れ果ててもはや歩き続けることは出来なかった。熱病が蔓延し、彼らの多くが死んだ。そして他の者たちは、森で道に迷い、案内人もなく、死が彼らを前進することから解放するまで彷徨うこととなった。しかし、モントヤ神父をはじめ皆、強い気持ちを持って、森から脱出することを諦めなかった。

モントヤ神父は、先住民たちのうちのある者にはカヌ-を作らせ、他の者には、食用のトウモロコシの土地を耕させて働かせ、彼自身は斧と鍬を交互に持ち替えて働き、新改宗者に模範を示した。また、他の者たちは、50フィ-ト(15m)にまで成長した巨大なサトウキビを切り倒し、いかだに組込んだ。このようにして、相当の時間の後、新たな出発のための準備が全て整い、幸運にもパラナ地方の教化村からの糧食が到着した。


モントヤ神父の更なる試練

しかし、モントヤ神父の試練は終わらなかった、何故なら急造されたいかだやカヌ-の多くが、彼の目の前で沈んだからである。先住民の死亡者は多数に上った。しかし、ついに彼らはナティヴィティとサンタ・マリア・ラ・マヨ-ルの教化村に避難所を見つけた。

それから、飢餓が猛威を振るい、非常に多くの人の到着で物資不足が増した。そのため、新来者のうちの600人が一つの教化村で死に、別の教化村で500人が死んだ。さらに、物資不足は膨大になり、気の毒な先住民は果物を拾うために森の中を放浪し、彼らのうちの多くは林の奥まった所で死んだ。

残りの者たちを守る目途が立たず、モントヤは更にフバブルスと呼ばれる小さな川の河岸に彼らを連れて行き、そこに二つの教化村を開設し、また再びロレトとサン・イグナシオと名付けた。その二つの教化村が開設された後、マメルコスは崩壊していた。彼は、国王がグアイラのイエズス会に与えた金から1万頭の牛を買った。そして、いくらかの物を売って、町を経済的崩壊から保護し、先住民たちを牧畜生活に定着させた。それらの先住民たちは全てグアイラでは農耕民だったのである。


こうして、モントヤ達は約12,000人の先住民の人々を、砂漠地帯を経由して500マイル(800キロ:東京・広島間の距離)移動させることに成功し、彼らを彼らの敵から遠く離れた安息地に着地させたのである。尤も、一般的に世間は、この非常に偉大な男たちのことを少しも知ろうとはしないのか、または全く忘れてしまっている。



[私が考えたこと]

1.一筋の光明

今、私が思っていることは、この本を読む前に、スペインによる征服がなされてからの植民地時代に現在のラテン・アメリカ諸国の先住民の人々に対しどんなことが行われたかを知り、またそれが何故であったかを考えておいて良かったな、ということである。特に、ヨーロッパ人が先住民に対して行った搾取・酷使・虐待の理由を考えたことは、正解であった。理由まで理解していれば、多くの人のように、また以前の私のように「そんな搾取・酷使・虐待などは信じ難い。」などととぼけたり、同情するふりをしたりして逃げなくて済むのである。

搾取・酷使・虐待が行われた理由は、単純である。それは、食うや食わずのヨーロッパ人が生き残るための知識や技術を持たずに「移民」という形で絶え間なく流入したからである。それを、ヨーロッパ人は「発見」とか「征服」と称して胸を張った。実は、移民を送り出さねばならない事情がヨ-ロッパ側にあったのである。そして、食うや食わずの人々の流出を国家と教会が奨励し、自分たちもその動きに乗って利益を得ようとしたからである。そのために、南北アメリカの先住民にとって、際限のない地獄絵が展開し続けたということである。

そんな状況を観ると、少しはましな教会人はいなかったのかと探したくなるのが人情である。ほんの僅かではあるが、そういう人たちも確かにいたのである。第2章に書かれている、イエズス会士による教化村建設初期の活動は、ヨーロッパ人による先住民に対する搾取・酷使・虐待の暗黒の歴史の中の一筋の光明である。


2.混血会士の登用

この、イエズス会の教化村運営の初期の活動において中心的役割を果たした二人、ロケ・ゴンザレスとアントニオ・ルイス・モントヤがともに混血(メスティソ)会士であるということを知って、合点がいく気持ちと意外さとを同時に感じた。それは、仕事柄、聖職者にとって現地語を駆使することは必須であり、メスティソであればその可能性が高かったのではと推測できる反面、メスティソの登用には障害があったのではと思うからである。

キリシタンの世紀-ザビエル渡日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著(岩波書店)によると、

イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、ポルトガル領インドにおける人種を次のように分類し、聖職者として教会(イエズス会)内に迎え入れることの是非という観点から評価を与えている。

(一)インド生まれの者 1.原住民
            2.メスティ-ソ(ポルトガル人と原住民の混血者)            
            3.カスティソ(ポルトガル人とメスティ-ソの混血者)
            4.両親ともポルトガル人である者
(二)ポルトガル生まれの者

ヴァリニャ-ノは“原住民”という語を、インド人などの褐色人種に限定しており、日本人などは“白人”として区別している。
(一)の1については、褐色人種は能力・精神共に劣悪ゆえ、一人も入会させてはならない。2、3とも、入会は極力抑えねばならない。

ただ、これはあくまでもアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノ個人の意見であって、南米では適用されなかったということなのか。ただ、彼らを登用したことは、単に言語の問題だけでなく教化村事業の運営・発展にとって極めて重要な意味があったことは、その後の事業の展開を観ても間違いのないことだと思う。

これに対して、日本では、日本人による乗っ取りを恐れたという面もあったようだが、「日本人の司祭登用」のみならず、「日本人の入会」自体が日本人の能力不足を口実に制限されていた。その結果、不干斎ハビアンのように、布教活動において重要な役割を果たしていたにも拘わらず棄教する者が出たり、禁教令による外国人宣教師の追放によって即機能不全に陥ったという面があったことは否定できない。

2.やはり日本のイエズス会は緩んでいた

大航海時代叢書 「イエズス会と日本一」高瀬弘一郎 訳・注(岩波書店)より

1614年10月31日付 ジェロニモ・アンジェリスのイエズス会総会長宛て書簡
管区長ヴァレンティン・カルヴァ-リョについて
「彼は自分がいる個室に七、八種類の砂糖菓子をおき、果物の時期には彼の個室は果物で一杯になる。二、三種類の葡萄酒もおいている。管区長が居酒屋のように、個室にこういった物をそなえ、それを勝手に個室で食べたりするのは慎みがない。事実彼は通常、いな少なくともしばしば、自分の個室で、物を食べるのを常としている。
同パードレは、すでに管区長になる前に、他のパ-ドレたちや上長たちに、上述の欠点があるのを指摘したのであるから、いま彼自身がそういった欠点を持っているとは、まさに予言が的中したと言えよう。
それによってひき起こされた躓きは非常に大きく、立誓修士の司祭が全員ある協議会で一緒になった際、そのうちの一人が、彼に面と向かって上述の欠点を指摘した。
それゆえ、もしも猊下が彼に対して、そのようなことをしないよう明確な命令を与えないと、(われわれは~)各人が自分の個室に食べ物や飲み物の戸棚をおくことになろう。」

この書簡の日付け、1614年10月と言えば、キリシタン教会に壊滅的打撃を与えたとされている前年1月の全国的禁教令を受けて、多くの宣教師や高山右近などの主だったキリスト教徒がマカオやマニラに追放される僅か1カ月前である。危機に瀕していた筈のこの時期に、この様な内容の報告がなされていたのである。


これと対照的に、幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折 伊藤滋子著 (同成社)に、ロケ・ゴンザレスと共にパラナ地方の教化村の建設に従事したバリェの同年(1614年)の年間報告があるので引用したい。

「この教化村(サン・イグナシオ・グアス)の教会や各施設の建設はロケ・ゴンザレス神父の並々ならぬ努力に負うところが大きい。彼自身が建築家であり、大工であり、左官であり、自ら斧をもって木を切り、それを牛につないで現場まで運んだ。……(われわれは)一日中汗をかいて働きづめだったので着ていたシャツがぼろぼろになってしまった。洗濯する時間がなく、三週間も同じシャツを着たままだったからだ。このような労働の合間にも、馬が死んでしまったので日に何十キロと歩かねばならないこともある。瀕死の者に洗礼を授けるためである。」

要するに、日本では本気を出していなかったということか。先住民が従順な日本では、本気を出す必要はない、と考えたのだろうか。信者には殉教の仕方を教えて自分たちは……。


3.ブラジルからの奴隷狩り集団につて

マメルコス、パウリスタ、バンデイランテと呼ばれた奴隷狩り部隊は、ブラジルのサンパウロ市で、ポルトガル人とオランダ人の冒険者と犯罪者に海賊が加わって、ブラジルとパラグアイの無法者の集団となったものだという話を読んで、先ずフランシスコ・ザビエルのことを思い出した。

彼を日本に運んできたポルトガル船の船長は、マカオに在留していたポルトガル人商人グル-プの一人だったはずである。商人グル-プと言っても、必要があれば武器を持って戦ったはずである。つまり、マカオに居たポルトガル人も、サンパウロに居た人たちもそう変わらない人だったのではないか、ということである。だから、ザビエルやその他の宣教師を運んできた人たちは、結構危ない人だった可能性もあるのである。それで、ザビエルを運んで来た船長が善良で敬虔な信者であったと、不自然なまでに強調されている理由が分かるような気がする。聖人を運んで来た船長が、マカオ在留の危ない人では困るのである。

それと、もう一つ思い出したのは、伝説の名医修道士ルイス・デ・アルメイダである。ポルトガル船貿易商人として蓄積した莫大な財産を持参金にイエズス会に入り、医師としての知識を医療と病院建設・運営に注ぎ込んだとされているが商人としての成功を投げ打って聖職に転身した理由がどうも想像が付かなかった。しかし、彼が属していたであろうマカオの商人グル-プの性格が上記のようなものあれば、所詮長く続ける仕事ではないと考えたということではないか、ということが推測できるのである。


4.彼らは「大馬鹿者」だったのか

奴隷狩り集団マメルコスによって先住民は捕虜となって、サン・パウロへ15,000人が強制連行された。直線距離で1,300キロ(東京から宮崎の距離)を歩かされてである。それに、イエズス会士は大変な苦痛を抱えながら付き添った。武器を持って戦えない以上、そうするしかなかった。さらに、奴隷狩りの襲撃を逃れて、イエズス会士は、12,000人の先住民を率いて800キロ(東京から広島の距離)を様々な危険の中で移動した。

こういう「付き添い」や「大移動」の困難さを洞察するためには、パラグアイ、ブラジル、アルゼンチンなど南米の奥地の密林、原野、河川、大滝などの地理・気候風土の厳しさを知る必要があることを今回痛感した。著者カニンガム・グレアムは探検家としての経験もあるから、その意味で適材だったようだ。

ところで、イエズス会士たちは、自分たちの全ての努力が無駄になることを確信していたようだ、とカニンガム・グレアムは書いている。しかし、私は、イエズス会士たちは自分たちの努力がたとえ無駄に見えても、全て意味があると確信していたと思う。信仰によって当然そう考えることができる人たちだった筈だからである。

しかし、そういう彼らを、ヨーロッパ社会は理解できず、意味のないことをする「大馬鹿者」であると罵ったただろうと思う。何故なら、300年の植民地時代を通じ、先住民に対する搾取・酷使・虐待は当たり前のことであり、先住民のために働こうなどと考えるヨーロッパ人は殆どいなかったからである。しかし、大馬鹿者と罵られても、あくまでも信者に尽くすという言わば当たり前のことをやり通そうとしたイエズス会士には心を動かされる。


〈つづく〉

















# by GFauree | 2022-06-20 07:59 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

消えていった或る理想郷 そのⅢ 第1章 前史

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São Miguel das Missões, Rio Grande do Sul - Brazil
出展 Wikimedia Commons



イギリス人政治活動家カニンガム・グレアム著「 A Vanished Arcadia」(消えていった或る理想郷)の第1章を読んだ。内容は、後年イエズス会教化村群が現れる以前のアルゼンチン・パラグアイ地域に何が起きていたのか、いわば前史である。

それは、フランシスコ・ザビエル来日(1549年)の約30年前ぐらい(ということは、1520年頃)から、マカオからのポルトガル船がキリシタン大名有馬晴信軍に攻撃され自爆した(1610年)頃までの約90年間に、南米パラグアイ・アルゼンチン辺りで起きていた出来事の歴史である。


1610年に有馬晴信軍の攻撃を受け自爆したポルトガル船については、以下の記事をご参照頂きたい。


ザビエルの渡来以降、カトリック教会内外での政治力を駆使して他の修道会を排除し、独占的に日本のキリシタン教会を主導していたイエズス会は、同時期に地球の裏側の南米のパラグアイ・アルゼンチン地域で画期的な事業を展開しようとしていた。

それは、先住民という本来の「南米人」に対しスペイン帝国によって押し付けられた奴隷制である『エンコミエンダ制』に抗して展開された数少ない活動の一つ、「先住民教化村群の運営」である。

その事業は、18世紀半ばの「イエズス会追放」まで約150年間にわたり継続され発展したが、突如幻の如く消滅してしまった。私は、その事業の推移を見つめることで、逆に日本の「キリシタン時代史」に何かが見えてくるのではないか、と期待しているのである。


まずその前史の内容を要約しようと思ったが、歴史というものは要約などをすると教科書のように味も素っ気も無くなってしまって面白くも何ともなくなってしまうものである。そこで、原則的には要約をしないことにしたら、やたら冗長になってしまった。

そうなると、肝心な私の考えなどは読んで頂けないのではないかと心配になって来た。そこで、歴史の経緯の説明の前に、私の考えを書いてしまうことを思いついた。後述する歴史(前史)の経緯についても、内容をまとめた見出しを付けてみたので、目を通して頂けたらと思う。


【南米教化村群前史を読んでー私の考え】


1.イエズス会士に関する風評について

イエズス会については、18世紀の末以降、フランス革命以上に論争の的となってきたらしい。スペイン及びその海外領土から追放されながら、その理由が明らかにされず、それがかえって更なる憶測を生んで燻り続けたことで、より一層、人々の関心を強く引いたらしい。

しかも、その問題にされ方が特殊なのである。イエズス会士が、他のどの修道会士よりも勤勉に働き、偉大な業績を上げたことは認められながら、一方で人々の憎悪と恐怖による中傷にさらされてきたのは確かなことのようだ。その、イエズス会に対して人々が抱く複雑な印象は、イエズス会を批判する出版物やイエズス会に関して囁かれる決まり文句に表われている。

「すべてはより大いなる神の栄光のために」
これは、創立者イグナティウス・デ・ロヨラの座右の銘であり、会が旗印とした言葉だといわれているが、この「神」を「自己」に置き換えると、「すべては自己の利益のために」ということになる。だから、この言葉は「イエズス会は利己主義者の集団だから気をつけろ」という警句としても囁かれているらしい。しかし、もしそれが本当のことだとしても、「イエズス会も他の人間的組織と変わらない集団だ」というだけのことではある。

「イエズス会士が首をくくれば、それに値する元を取る」
これは、「転んでもただでは起きない」という意味だろう。良く取れば、強い精神力とか根性とかがあるという意味になるのだろうが、強欲だとかがめついとかの悪口の意味もあったのだろう。

「裕福だから迫害された」
教化村群からイエズス会士が追放されたとき、金が埋蔵されているとの噂があり捜索したが全く見つからなかったと言われている。日本でも、マカオからのポルトガル船貿易で儲けたイエズス会士が贅沢三昧な暮らしをしていた、という話がある。このように、イエズス会とお金の話は枚挙にいとまがないのである。

誰かが、イエズス会から資産や収益機会を取り上げるために迫害を誘導したということも考えられる。日本での迫害の狙いは他のことだったと考えられているようだが、案外日本でもイエズス会の利権を狙った人がいたのかも知れない。

ただ、この決まり文句は、単純に「金儲けがうま過ぎたから、迫害されたんだ」という妬み半分の意味で言われてきたようだ。

「他の者は色々手を出すが、イエズス会はひとつにまとまる」
種々毀誉褒貶はあるが、布教・改宗・教育事業などいわば本来業務を遂行する能力は、他の修道会と比較すると確かに群をぬいていたようだ。


2.教化村が開始されるまでの征服者たちについて


きっかけは肉を美味しく食べるため
スペインの遠征隊が南米のアルゼンチン・パラグアイ地域に到達したきっかけは、インドネシアの香料諸島に向けて南米大陸の大西洋側から太平洋への抜け道を探してラプラタ川に迷い込んだことだった。つまり、肉食のための香辛料確保を狙った遠征隊だったわけで、最初の動機そのものに、その時代のヨーロッパ人の強い飢餓感が漂ってくるようである。

「ならず者の集団」だから
だから、遠征隊だ軍隊だと言っても、どうも秩序も組織も未成熟な「ならず者の集団」でしかなかったようである。そのため、司令官にとってさえ兵士に愛されることが自分を守るための唯一の手段であり、紛争を起こした副官を処刑した司令官は一挙に人気を失うなど、下剋上の内紛は日常茶飯事だったらしい。

ヨ-ロッパ人の正義感
部下の兵士の人気取りに汲々とした司令官は、先住民に対しては絶対的優越感を持っていた。文明と有難いキリスト教を与えるのだから、無償で糧食の供与を受けるのは当然と考え、糧食提供を拒んだ先住民に対しては、「ヨーロッパ人の正義感」を遺憾なく発揮して直ちに攻撃の鉄槌を加えたのだ。何と幼稚で自己中心的な人たちだろう。

軍隊としての規律なども無いに等しかったらしく、中には、先住民から受け取るものには対価を支払えという指示を出した司令官もいたが、そんな指示は失脚につながった。だから、ペル-、メキシコを征服したピサロやコルテスも先住民からの物資供与に対価を支払うことなど考えもしなかったらしい。遠征中に部下が先住民女性を船に連れ込むことを禁じた司令官は決定的な打撃を受けた。

以前の記事に、遠征のために国王から受けた支援金を、収益の半額献上という形で早期に返済しなければならなかった故に、先住民に対する搾取・酷使・虐待が激化したのではないか、と書いたが、そもそも遠征隊の費用を自己負担することを条件に遠征隊の司令官・現地の総督になった男がいた。アルバル・ヌニェス・デ・バカである。ヌニェスは、司令官と総督の地位を買ったのである。なるほど、そうすれば遠征隊の結果がどうなろうと、国王の腹は痛まない。国王はさぞかし勝手に自分の臣下とした先住民を思いやるような空虚な発言を繰り返していたのだろう、と想像する。

ヌニェスは、先住民と共に生活するという特異な経験をしていた為か、先住民側に立って考えることのできる唯一の総督だった。先住民から受け取るものには対価を支払えと指示をしたのも、部下が先住民女性を船に連れ込むことを禁じたのも、彼である。それらによって、彼は、自分の立場を決定的に不利にした。


フランシスコ会士は
ヌニェスは、また反乱を起こした先住民を焼き討ちしてさらに復讐しようとするフランシスコ会士2人の熱情を抑えようとして、アメリカ中のフランシスコ会士を敵に回してしまった。

その頃、ペル-からパラグアイまで旅をして、南アメリカ初の聖人となったフランシスコ会士がいる。フランシスコ・ソラノである。世界史上最も難しいとされる先住民の言語を(たちまちのうちに)習得し、キリスト教の複雑な教義を説明して数十万人の先住民を改宗させたという彼の逸話は、もちろんいつもの与太(でたらめ)話であろう。

結局、アルバル・ヌニェスは先住民の反乱と部下の兵士や国王の送った役人たちやフランシスコ会士たちの敵意に囲まれ失脚した。彼が失脚した1545年ごろから、イエズス会士が教化村群の建設を開始した17世紀初頭までの50年間に本来の南米人である先住民側に立った司令官・総督は一人もいない。


自分のアイデンティティーを掴みにくい社会
私は70歳を過ぎてから、やっと自分の親の人生を冷静に考えられるようになった。そして、もっと若い頃から、親の人生について知るべきだった、と思うようにもなった。それは、親だけにとどまらない。祖父母についても、また出来れば、その何代か前の祖先についても、知っておくべきだったと思うのである。何故なら、自分の人格形成に親と何代か前の祖先の人生が当然影響を与えていることに遅まきながら気が付いたからだ。

ある時、この国の友人にその話をした。すると、その友人はやや感情的になって答えた。この国では、親までならともかく、祖父母以前の祖先については、大部分の人が知りたがらない。それは、どんな不都合な過去が露わになるか心配だからだ。

それに、自分の祖先がこの国に来たのは、この国の独立後であったと大半の人が思いたがる。何故なら、スペイン人の渡来後の植民地時代に来た人々の質に疑問があることは定評だからだ。

それを聞いて、私は唖然とした。私だって、自分の親や祖先の人生がそんなに立派なものだったとは思っていない。しかし、自分の人生に影響を与えているはずの親や祖先の人生が、私が知りたくないほど悪質なものだったとは思っていないのである。そして、大多数の人が、自分の祖先の人生を知りたくないと思うような社会では、落ち着いて自分にふさわしい人生を考えることなど出来ないのではないかとも思う。

それは、「自分は何処から来て、何処へ行くべき存在なのか」という問いにも関係している。さらに、何かによって、自分の人生を強く認め肯定する必要も出てくるのではないか、そこにキリスト教が関係しているのではないか、とも思う。




【南米教化村群前史】


1.イエズス会に関する風評

「フランス革命に匹敵するほどの論争の種」

フランス革命は例外として、スペイン・ポルトガル及びその植民地領土からのイエズス会の追放ほど、18世紀の末に広範な論争を引き起こした出来事はおそらく無かったのではないか。少なくともスペインでは、イエズス会士達に対し、明確な告発は未だになされておらず、国王カルロス3世はその理由を隠し保留し、その証拠を特別扱いし続けており、ラテン・アメリカにおけるスペイン領土からの彼らの追放の真の理由についての好奇心は、ある程度までしか満足されていない。

前世紀(18世紀)半ばから比較的最近の時期までのイエズス会に関し、普通の人が持った感覚を今日理解することは殆ど不可能である。イエズス会によってなされた真に偉大な業績の全ては忘れ去られたようであり、彼らに対する偏見に基いて捏造されることが可能なあらゆる下品な作り話が様々な場で了解されようと待ち構えていた。見境のない悪口といわれのない憎悪が恐怖と混ぜ合わされ、全ての人の心を占めた。

日本からボリビア奥地まで、イエズス会士が勤勉に働かなかった国は殆どない。それらの国で、彼らは報酬を望むこともなく存分に血を流した。ヨーロッパにおいて、殆どすべての言語で、彼らの努力を皮肉っぽく中傷することで逆なでするような出版物のリストを数え上げるためには、多くの時間と長々とした一覧表を要したことだろう。

「全ては自己の利益のために」
これらの中で、おそらく最も有名なのは、元イエズス会士メルショ-ル・インショファ-神父による『利己主義者の君主制』であろう。彼はイエズス会を最悪の言葉で描いた。それは、主に1615年から1648年当時の教皇クレメンス8世、フランシスコ・スワレス、クラウディオ・アクアヴィヴァなどの著名な人々が、簡単に特定できるような仮名で隠して描かれて面白い読み物になっている。

筆者の意図は、題名が示しているように、「イエズス会士達が全てを自己の利益に変えることに尽力したこと」を示すことである。この点、もしそうなら、彼らは世俗のものであろうと、聖職であろうと全ての他の人間の組織体と大きく異なることはないことになる。


「転んでもただでは起きない」

スペインの有名な格言に、「イエズス会士が首をくくれば、それに値する元を取る」とある。その意味は、「イエズス会士は首をくくる時でさえ、そこから何か得になることを手に入れようとする」である。それは、イエズス会士と同様に、他の学究的な職業に就く人たちに言えることだが。


「裕福だから迫害された」

世間は貧困によって人目を引く人を迫害するることは殆どなかったし、もし迫害しても永い間そうすることは滅多になかった。スペインの異端審問は、富裕なユダヤ人や裕福なイスラム教徒に対して過酷であったが、貧しいジプシ-に関心を持つことは無かった。しかし、同時に「ジプシ-の身体のように哀れだ」という言い方が、スペインでは、昔も今も一般的にされてきたのだ。(つまり、ジプシ-は貧しい故に同情されるべき存在の象徴だったのだ。)

テンプル騎士団の場合のように、彼らを迫害する価値があるようになったときに、イエズス会に対する迫害は始まっただけのことである。イグナティウス・ロヨラやフランシスコ・ザビエルやディエゴ・ライネスは説教したり教えたりだけをしている限りは、充分に安全だったのだ。

神学論争の歴史は、血なま臭く人間性というものに不信を起こさせるような出来事に事欠かないが、実はカルヴァンやトルケマダのような謂わば「純粋な迫害者」は数少ないのだ。一般には、迫害者というものは凶暴で狭量な悪意と自分が真実と考えることに熱中しているために無慈悲であったと思われがちだが、実は迫害に金銭目当ての動機があったことは、もっと考慮されるべきなのだ。


「隔離政策」

全ての先住民部族は、もしヨーロッパ人と接触するようになれば、早晩消える運命にあったことは、経験的に確かなことだ。これに対し、イエズス会は教化村の先住民をスペイン人植民者から隔離することを方針に掲げた。そして、その隔離が機能するか否かについては、明確な根拠が無かった。

さらに、彼らが「隔離政策」を実践しようとした故に、(組織の実態が隠され)彼らの規則や資産に関して広がっていた無茶な中傷が信じられてしまった、という面も否定できない。彼らと当局の間、つまり聖俗の間に起きた最初の衝突はこの「隔離政策」によるものであった。


「他の者は色々と手を出すが、イエズス会はひとつにまとまる」

17世紀におけるラテン・アメリカでは、イエズス会は(他の修道会より)比較的高く評価されており、それは当時流行っていたこの格言に示されている。この格言の意味は、「他の修道会は出来ることは何でも手に入れようとするが、イエズス会は、唯一の目的(先住民の改宗)に結集する。」である。



ラテン・アメリカとくにパラグアイ及びボリビアにおけるイエズス会の立場を明確に理解するためには、ラプラタ川征服初期の歴史を簡単に一瞥することが必要である。

2.ラプラタ川征服初期の歴史の底に流れるもの

ラテン・アメリカの発見は、ヨーロッパにとってそして特にスペインにとって、それ以前の時期にも、それ以降の時期にも比類を観ないような、国土の拡大と個人の進出の機会をこじ開けることを意味した。

レコンキスタによってイスラム勢力を排除した直後だった
小国の集団であったものが、自己の土壌の上で強大な敵(イスラム勢力)に対し生存をかけて闘い、ほんの数年の間に、スペインは世界最大の帝国となった。その結果、冒険の精神と富裕への欲望を全ての階級が持つことになった。

支えとなった残忍で無責任な異教撲滅の考え方
これに加えて、征服の最初の数年間の中に、アメリカにいたスペイン人たちは皆、ある程度は征服者のみならず宣教師として自分自身を考えるようになったらしい。(世俗権力と教会の一体化)今や、宣教師と征服者は、概して殆どの如何なる階級の人間よりも、自らの重要性と神聖さをより多く吹き込まれた。しかし、それと同時に、こんなことをすれば、どのような結果がもたらされるかは、殆ど考えもしない人間になっていったのだ。

この二つが一つに結合したことによって、アメリカの征服者たちは、自分たちが如何に先住民を残酷・非道に扱おうと、真の信仰を知ればそれによって祝福され、その祝福によって全ての償いがなされることになると想像する傾向を持つことになったのである。

真の教えを伝えるのだから何をしても良い
もし人が世界について説いている多くの信仰の中で、どれが真の信仰であるかを正確に決めることが出来るならば、真の信仰を持つ人はそれを広めるために適正に行動している、ということになる。

アメリカを征服するためにスペインを発った様々な軍隊の中の最も平凡な兵隊であれば、そのことに全く疑いを持たなかっただろう。そういう兵隊であった男が書いた本のひとつに、次の一節がある。

「しかし、銘記されるべきことは、彼ら先住民を発見し、彼らを征服したのは、『神の後に』我々であり、それ故に我々が真の征服者だいうことだ。そして、我々は彼らの偶像を取り上げ、我らの神聖な教義を教えた。だから、その全てについての報酬と名声は、他のあらゆる人々(例えそれが教会人であろうと)に先んじて、我々に払われるべきなのだ。なぜなら、最初が良かったので中間も終わりも良くなったからである。私は最初に手を下し、事態をそのままに残すだろう。そして、『神の後に』我らの組織によってメキシコの先住民にもたらされる恩恵を告げるだろう。」

神の意思で征服した後には、自分の財産作りを
「神の後に」という決まり文句は、殆ど全てのアメリカの征服者の記述に繰り返し現れるものだ。そして、「神の後に」(神の意思に従って)アメリカを征服した征服者の最初の行動は、自分の財産作りに取り掛かることだった。メキシコやペル-のように、金や銀を産出する国では、彼らは先住民の労働によって鉱山を稼働させたが、その苦痛や虐待によって先住民の数は激減し、先住民は絶滅の危機に追いやられた。パラグアイには鉱山は無かったが、先住民から金を巻き上げる方法は他にもあった。


3.征服者の群像


・フェルディナンド・マゼラン
香辛料への渇望はここでも強い動機となった
現在のインドネシアに位置する香料諸島を目指したフェルディナンド・マゼランがスペイン帝国の艦隊を率いて大西洋を南下し、南米大陸の南端を太平洋側に抜ける海峡を発見しマゼラン海峡と名付けたのは、1520年のことである。

マゼランは翌年、フィリピン諸島に到達し先住民との戦闘で死亡したが、艦隊を引き継いだ部下が1522年にスペインに戻り史上初の世界周航が達成されたから、マゼランの名は世界に知れ渡った。


・フアン・デ・ソリス
大西洋から南米大陸の南端を回って太平洋上の香料諸島を目指すという遠大なマゼランの航海の目的は肉食に欠かせない香辛料の原産地を確保することだった。肉の腐敗を抑えて、より美味しく食べたいというヨーロッパ人の欲求は止まるところを知らなかったということだ。だから、大西洋から南米大陸の南端を回るという気の遠くなるような経路を辿って香料諸島を目指そうとした探検者はマゼランだけではなかった。

ラプラタ川河口は、大洋と間違えるほど広かったので
マゼランの死の5年前(1516年)、同じくポルトガル生まれのフアン・デ・ソリスはブラジル沖を南下してきて広大な水路に入り、それが太平洋への出口であることを期待したが、それは大きな川の河口であることが直に分かった。そのくらい幅の広い川だったのである。それでも、ソリスは川を逆のぼり続けマルティン・ガルシア島で上陸し先住民チャナ族に殺され、彼の遠征隊は故国へ帰った。やがて、その川は、上流に大量の銀があるとの噂からラプラタ(La Plata:銀)川と名付けられた。


・セバスチャン・カボット
マゼランの死の5年後(1526年)、ヴェネツィア生まれのセバスチャン・カボットは、3隻の小さな船とカラベル船で、マゼラン同様、モルッカまたは香料諸島に到着することを目的にスペインを発った。

カボットもラプラタ川を太平洋だと思った
航海の途上、糧食の不足によってルートを諦めねばならなくなり、広大な水路に入った彼の艦隊は、太平洋への他の経路を発見したとの印象を抱きながら、それを逆のぼった。そして、直に誤りに気付いた彼は、周囲の地域を探検し始める。確かに彼はカラカラ川の流域までには到達しているが、それは現在のサンタ・フェ地方である。

居留地エスピリトゥサントの建設とペル-・ボリビア鉱山の情報
彼はそこに、エスピリトゥサントと名付ける居留地を建設した。南米のその地域で初めてのスペイン人入植地である。エスピリトゥサントから数多の探検隊がその地域を捜索するために送られた。その中の一隊、セサルという名の兵士の指揮下の者が戻らなかった。数年後、その一人が戻り、「冒険者たちが、大西洋沿岸からペル-の鉱山へのルートを探している。」と語った。

カボットは、現在のアスンシオンを過ぎて川を逆のぼり、北から来た先住民に出会い、ペル-とボリビアにある鉱山について聞いたが、実は彼はその鉱山について既に知っていたのだ。4年後、カボットはスペインに帰った。そして、ペル-の鉱山から流れ込む富を狙いに銀の川を目指す他の遠征隊がスペインから出発することになる。


・ドン・ペドロ・デ・メンド-サ
その「銀の川」を目指した遠征隊の司令官がドン・ペドロ・デ・メンド-サである。
ドン・ペドロはイタリア戦争に従軍した勇敢な人格者だったようだが、思慮分別に欠け植民地創設に必要な機転にも欠けていた。

副官オソリオの処刑で人気は一挙に地に落ちた
1534年に遠征隊は出発したが、殆ど最初から不運だった。ドン・ペドロと彼の副官フアン・デ・オソリオとの間に紛争が起きた。オソリオに対して行われた軍法会議において、オソリオに対する即時処刑の命令が下った。この殺害または処刑によって、ドン・ペドロは全艦隊からの人気を一挙に失った。兵士に愛されるということは、その頃のスペインの将官にとって、自分を守るための唯一の有効な手段だった筈である。

空気がきれいなだけの居留地ブエノス・アイレスの創設
1535年、遠征隊はラプラタ川に入った。ここで、メンド-サはいつもの判断力の不足から、居留地を設ける地点として、現在のブエノス・アイレスの位置を選んだ。町を設ける場所として、これ以上不都合な所を選ぶことは難しかっただろう。

ブエノス・アイレスの海抜は、ラプラタ川の水深とほぼ同じだった。それは、非常に浅く、大型船は16~24㎞より近くには接近することができなかった。港がなく、船を繋いでおく投錨地は、パムペロスの名で知られている南西の強風の目一杯の猛威にさらされた。

しかし、場所は悪くても空気は良かった。少なくとも、そのようだ。なぜなら、遠征隊の司令官は上陸に当たって叫んでいるのだから。「何ときれいな空気だろうか」( ¡Que buenos aires! )そして、その名前がついた。

新しく生まれたこの居留地に、あらゆる種類の災難が到来した。

糧食をただで供出しない先住民は殲滅して良いという「ヨーロッパの正義」
パンパ(大平原)の先住民について記録者はグアラニ族と言う名前で知っていたようだが、彼らは最初は友好的だった。ほんのしばらく後、彼らは糧食を持って来るのをやめてしまった。そこで、司令官ドン・ペドロ・デ・メンド-サは、先住民に対し弟ドン・ディエゴ・デ・メンド-サを遠征隊とともに派遣した。

ドン・ペドロ・メンド-サには、考えもつかなかったことのようだが、もし先住民の首長がスペインに上陸したなら、対価の支払いを受けることなしに、一日たりとも彼に糧食を届ける者など一人もいないだろうということを。

しかし、ドン・ペドロは「文明とキリスト教」をもたらすためにアメリカに来た。そして、それ故、他の征服者と同様に、先住民がそれ以上の物資の供給を拒絶すれば、その1~2日後には、彼自身の道徳的価値観により憤慨することが正当であると信じて疑わなかったのである。スペイン人と先住民の間に戦闘が行われ、派遣されたドン・ディエゴ・デ・メンド-サは数人の者と共に殺された。

この「ヨーロッパの正義」の前触れの後に、先住民が新たに建設された街を包囲し、そこに大いなる苦境がもたらされた。そのため、3人の男が馬を盗んだ廉で絞首刑にされた後で、朝のうちに切り刻まれ食われたのが見つかった、と言われている。


・フアン・デ・アヨラス
この絶望的な状況の中、ドン・ペドロは糧食を手に入れるために、次にフアン・デ・アヨラスを送り出した。ドン・ペドロは、ティムブ族からいくらかのトウモロコシを得て、コルプス・クリスティと呼ばれる小さな居留地に100名ばかりの部下を残し、カボットが建設した居留地エスピリトゥ・サントを閉鎖した。彼は、そこから500人の男たちを取り戻したが、彼らは全て彼がカディスから一緒に渡航してきた2,630人のうち残った者だったのだ。馬は平原に放置した。その馬の子孫は、今日でも、この国の大放牧場に飼われている。

フアン・デ・アヨラスは、コルプス・クリスティから河川を探検し、ペル-の鉱山に至る永らく捜し求められてきた水路を発見するべく送られた。しかし、結局彼はペル-へは到達せず、コルプス・クリスティへも戻っては来なかった。

ドン・ペドロ・デ・メンド-サに審判が下って
メンド-サは一年待った。それから、スペインへ帰った。彼は1年分の糧食と共に守備隊を残した。その糧食は一日一人当たり僅か1ポンドのパンだった。そして、もし残された者たちが、それ以上望むのであれば、自分で入手しなければならなかった。故郷への帰途、彼は狂気となって死んだ。信心深い人の意見では、それは、フアン・デ・オソリオ殺害について、彼に下った審判だということである。


・ドミンゴ・マルティネス・デ・イララ
アヨラスを捜して
ドン・ペドロは、乗船する前にコルプス・クリスティに居たゴンサロ・デ・メンド-サに連絡し、スペインから糧食と補充兵を送るよう要請した。ゴンサロは、ブラジルで糧食を入手し。コルプス・クルスティへ戻り、そこからサラサ-ル・エスピノサと共に、フアン・デ・アヨラスを捜索して川を逆のぼる遠征隊を率いて行った。

フアン・デ・アヨラスはドン・ペドロの後継に指名された人物である。彼らと共にドミンゴ・マルティネス・デ・イララが行った。彼はパラグアイの征服で重大な役割を占めることになる男である。

遠征隊は、パラグアイをフォート・オリンピオの近くまで逆のぼった。それは、アスンシオンの上流約500kmの地点である。ここで、彼らはアヨラスを捜して全ての方向に探検隊を送り出したが、成功しなかった。

アスンシオンの創設
イララはフォート・オリンピオに100人近くの男たちと共に残った。ゴンサロ・デ・メンド-サは帰途、町として適したその場所のながめに心惹かれて上陸し、1537年8月15日に、アスンシオンを創設した。

グアラニ族との遭遇
ここで、スペイン人は初めてグアラニ族に会った。彼らは数年後、イエズス会による改宗者となり、またイエズス会によって彼らの有名な教化村に組み込まれる運命にあったのだ。

彼らは、また、チキ-トス地方に2~3の町を持っており、チリグアナスの部族は彼らから分派したものである。ブラジルでは、彼らは奴隷とされるか、あるいはアフリカ系黒人と混血してしまったので、純粋の種族は殆ど完全に失われてしまった。ただ、言語は Lingoa Geral の名のもとに残り、そこから capim や capira のような多くの言葉が、ブラジル人によって話されるポルトガル語に導入された。


・サン・フランシスコ・ソラノ(フランシスコ会士)
パラグアイは、後にかなり完全にイエズス会国家になることになるが、彼らはそこへ始めて行った修道会ではなかった。殆ど全てのアメリカの場合に、最初の征服者たちを伴った教会人はフランシスコ会士である。

イエズス会は彼らの修道会が創設された10年後に、ブラジルのバイアへ二人の神父を送ったと言われている。しかし、ブラジル、パラグアアイのどちらにもフランシスコ会士は既に居たのだ。

最初のアメリカの聖人
サン・フランシスコ・ソラノは宣教師として非常に注目された教会人だが、1588年から89年にかけてペル-からパラグアイまでチャコを通る著名な旅をしたフランシスコ会士である。それ故、フランシスコ会は彼らの中に最初のアメリカの聖人が居たことの名誉を有しているのである。ただし、彼についてあまり芳しくない評価をしたらしい上司によって、パラグアイから呼び戻されたことは、注目すべきではあるが。

最高級難度の言語を直ぐに習得してを説教した?
ソラノが、彼自身について語っているところによれば、チャコを通過する際にいくつかの部族の言語を学び、彼ら自身の言葉で、生・死・キリストの変容・三位一体の神秘・全室変化・キリストの贖罪について彼らに説教し、教会の象徴・聖ペトロ以降の教皇の継承を説明した。そして、数千、数万、数十万人もの先住民に教義を教え、彼らは涙と痛悔の中に信心を得ることとなった。もちろん、今日これらの申し立てに論駁することは、たとえしたくても不可能である。(なにしろ元々明確な根拠の無い話だから。)

ただし、チャコ先住民が話した言葉は、人類によって話された言葉の中で、習得するのが最も難しいものなので、ドブリゾファ-神父は「Abiponesの歴史」の中に、チャコ先住民が生み出す音は人間のものとは全く似ておらず、くしゃみをしたり、どもったり、せきをしているようなのだ、と書いている。


・ルイス・デ・ガラン
ゴンサロ・デ・メンド-サと共に、フアン・デ・アヨラスを捜索して川を逆上ったサラサ-ル・デ・エスピノサは、コルプス・クリスティに戻り、更にブエノス・アイレスに戻ったが、そこに小さな部隊が残っていた。この部隊は、ケランディス族などパンパの先住民との絶え間ない闘いに疲れ、アスンシオンに向けて船出する。

イララはガランに捕らえられたが釈放されてフォート・オリンピオに戻り、先住民と闘う
イララは、フォート・オリンピオで数カ月待った後、アスンシオンに戻り、そこでルイス・デ・ガランが司令官として活動しているのを発見する。彼らの間に直ぐに紛争が始まり、イララは収監された後、フォート・オリンピオに戻ることを許される。そこで、彼はパヤグア族が反乱を起こしているのを見た、そして継続する闘いの中で、彼自身の手で、彼らのうちの7人を殺したと報告されている。彼は、さらにフアン・デ・アヨラスに対する捜索を続けたが成功はしなかった。

ガランはブエノス・アイレスに戻り、コルプス・クリスティでティムブ族を虐殺する
ガランはブエノス・アイレスに戻った。さらにコルプス・クリスティに留まり、その機会を利用して、友好的で疑うことを知らない先住民ティムブ族を襲撃し、彼らの多数を虐殺した。何故そんなことをしたのかは、極めて不可解である。というのは、ティムブ族はコルプス・クリスティ駐屯地に常に糧食を供給していたからである。糧食の質が悪かったことが考えられるが、記録者たちもその点について報告はしていない。

ガランは、「勝利」の後で、コルプス・クリスティに100人の兵士と共にアントニオ・デ・メンド-サを残し、ブエノス・アイレスに渡航した。ある日。部隊の約半数が狩りをしているときに、先住民が襲撃し、一人残らず殺戮した。もし、2隻の船の幸運な到着がなければ、駐屯地は破壊されていただろう。しかし、多くのスペイン人は殺され、アントニオ・デ・メンド-サはその一人となった。

ブエノス・アイレスからの完全撤退
ガランとエスピノサが、ブエノス・アイレスに残存する居住者を引き連れてアスンシオンに戻って来た。アスンシオンには、イララがアヨラスを発見することなく再び戻っていた。イララは、アヨラスが戻って来ない場合に備えた許可状の中の条項に基き司令官に選ばれた。彼の最初の行動は、ブエノス・アイレスからの完全撤退を命令することだった。


・再び、ドミンゴ・マルティネス・デ・イララ
イララのアスンシオン創設
非常に興味深いことは、数多の遠征の残留者たちが、成り行きで合流して、ラプラタ川の地域の最初の恒久的都市をアスンシオンに創設したことだ。ブエノス・アイレスにではなく、1000マイル(東京から沖縄ぐらいの距離)離れた内陸で、彼らの試みがとても成功しそうもなかった所にである。

アスンシオンを構成する異質の要素を統括するために、ドミンゴ・マルティネス・デ・イララが選ばれた。彼はビスカヤ人であり、ローマ人もムーア人も制服することが出来なかった古い部族の一員であった。彼の祖先については、何も知られていない。彼が、バスク地方に沢山いた数えきれないほど多くの小豪士の息子だった可能性がないとは、言えない。小さな町の殆ど全ての家は、今日でもドアに盾の紋章を付けている。全ての住民は貴族であると主張し、カルロス5世の時代には、ヨーロッパとアメリカで評判になった兵士を多数輩出した。

イララの「懐柔」政策とは
イララの統率は、先住民を征服するというより懐柔する為のものであった。スペインからの航海の長さによって、あらゆる種類の救援から隔離され、反乱時に支援を受けることは全く期待できなかったから、「懐柔」というのは自分たちの身を守るために彼が頼ることのできる唯一の手立てであった。全くの最初から、彼は兵士たちに、土地の女性と結婚することを勧め、それによって、彼らを土地に縛り付ける絆を作ろうとしたのだ。


パラグアイの人種の混合という特殊な社会事情
アスンシオンの創設時、スペイン人女性はパラグアイへは誰も行かなかったようだ。そのため、アメリカにおけるスペイン領土、例えばチリやメキシコとは、異なる社会事情がそこに発生した。チリでもメキシコでも、先住民女性と結婚したスペイン人は殆どいなかったのだ。

チリやメキシコで先住民女性と結婚したのは、まず最上階級の一員である。稀にではあるが、政治的動機から地位のある先住民女性と結婚する者までいた。また、最下級のスペイン人の中にも、先住民女性と結婚する者がいたが、その場合、一世代後には、彼らの子供は殆ど先住民になった。

ところが、パラグアイでは、全く逆で、先住民の母とスペイン人の父の孫も次の世代も殆どスペイン人と考えられた。実際に、1861年から1868年の時期には、上流階級に残存していた少数のパラグアイ人は殆ど全てイララの部下と先住民とが結婚した者の子孫であった。

しかし、その後の圧政やブラジルやアルゼンチンとの悲惨な戦争の結果、白人の家柄への密やかな自負を持った古い血統のパラグアイ人は、殆ど根絶されてしまったと言われている。

また、人種の混合については、次のようなことが言われている。
彼らは、一般に、偉大な精神を持つ勇敢な良き兵士であり、武器特にマスケット銃使用の専門家であった。
女性たちは、一般に貞節で美しく穏やかな気質の持ち主である。ただ、女性の貞節については、貞節というものが、多くの場合、「しきたり」の問題なので、そのような問題には言及しないほうが賢明であろう。


・アルバル・ヌニエス・カベサ・デ・バカ
イララが、パラグアイのグアラニ族を懐柔している間、スペイン王カルロス5世はブエノス・アイレスという新たな入植地を完全撤退という形で放棄したことを忘れていなかった。多くの調査の後、カルロスはアルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカを新たな司令官にするべく選んだ。

アルバル・ヌニェスがおそらくは新世界の全てのスペイン人征服者のうちで最も注目すべき存在であり、先住民に関する彼の政策が殆ど後のイエズス会の政策になったことを考えると、彼の経歴のうちいくつかの事実を挙げておいても、見当違いにはならないだろう。

ヌニェスの特異な経験
1529年、彼は、パンフィロ・デ・ナルヴァエスの不運な遠征隊と共に航海し、難破し、ボートでスペイン居留地に戻ろうとしたその時、嵐によって完全に着の身着のままで投げ出され、たった3名の同僚と共に名も知らぬ島に上陸した。先住民に捕らえられ、奴隷にされ、行商人にまた医者になり、遂には酋長となって不思議な力により祭祀を行った。

最後は、ヌエバ・エスパーニャの領地に捕虜としてではなく、数百人の先住民の指導者として徒歩で辿り着いた。その先住民は、まるで彼が彼らの首長として生まれたかのように、彼を慕い彼の命令に従っていたのだ。4カ月の間、漫遊し、しかし常に先住民を引き連れていた。彼はついにスペインの騎兵に出会うが、その騎兵は彼に近寄って声を掛け、彼が、先住民と共に10年間生活している間に、殆どスペイン語を忘れていることに気が付いた。スペイン語を徐々に思い出し始めた頃、彼が最初にスペイン人に懇願したことは、彼に従っている先住民を困らせることが無いように、ということであった。

先住民の処遇改善と遊牧民の農耕生活への転換は実現したか
それに加えて、彼は、先住民自身に、遊牧生活をやめて土壌を耕すことを勧めた。しかし、どちらについても彼は成功しなかった。というのは、スペイン人は他の全てのヨーロッパ人と同様、先住民を犬から少しでも引き離しておこう、などとはしなかったのである。そして、先住民の方も、現在でもわずかに残っている人々でさえ、新世界発見の頃と同じぐらいに、古い遊牧生活に愛着をもっているからだ。


費用自己負担の遠征隊司令官
10年間の捕虜生活に満足せず、故郷に戻った3年後、ドン・ペドロ・デ・メンド-サ(メンド-サは、ブエノス・アイレスで、物資不足と先住民によって厳しく圧迫されていた)を支援する遠征隊と(自己負担で)航海するべく、或る取り極めを国王と交わした。「8,000ドゥカドと馬、武器、兵士、糧食を彼が供出し、その見返りに、彼がリオ・デ・ラ・プラタの総督と軍隊及び艦隊の司令官になる」という取り極めである。

1537年11月2日、彼は艦隊と共に出港したが、その艦隊はカラベル船と2隻のフル装備の船から成っていた。そして、非常に危険な航海の後フリオ岬を超えた所で、小さな港に着いた。そこに、総督は上陸し彼の旗を掲げ、国王陛下の領土とした。遠征隊は、ブラジルのサンタ・カタリナで下船した。

先住民虐待を抑えようとして、全アメリカの修道士と司祭を敵に回す
憎悪を掻き立てるための悪評・汚名は直ぐに総督にとって重い負担となった。二人のフランシスコ会士が、かなりの先住民の家を焼き討ちした。先住民が二人のキリスト教徒を殺したことにに対し、野蛮な方法で復讐したのだ。人々が憤慨しているので、総督は修道司祭たちを呼び出して警告し、彼らに熱情を抑えるよう命令した。これは、かれが行った最初の間違った対処だった。それによって、アメリカ中の全ての修道士と司祭を敵に回してしまった。

サンタ・カタリナでブエノス・アイレスが殆ど放棄されたと聞き、また入植者たちがパラグアイにアスンシオンの町を創設したと聞いて、アルバル・ヌニェスは陸伝いに対岸に進軍して、パラグアイ川を逆のぼることを決めた。

二人のフランシスコ会士には、残って先住民を教化することを命じたが、彼らはこれを拒否し、アスンシオンでスペイン人の中に居住することを望んだ。もしイエズス会士だったら、十中八九彼らは残ったであろう。なぜなら、全ての修道会中で、イエズス会士だけは進んで全てのリスクを取ったからである。

先住民から受取る物には対価を払えという指示が失脚につながる
進軍に当たり、総督は、全ての良き政策や前例に反して先住民に対して当然なされるべき支払いをすることなく、何も取ってはならないと、命じた。これを確かなものとするために、彼自身が全ての糧食の代金を支払い、それを軍隊に分配した。これが、二人のフランシスコ会士に対する処遇が修道会士の間で彼を不人気にしたと同じ程度に、兵士の間で彼を不人気にした。

先住民は、ピサロやコルテスやアルマグロやその他の征服者たちが、何の代金も支払おうとはしない男たちであったことを、きっと知っていたのだろう。彼らは、総督のやり方に感謝したようだ。というのは、総督が彼らに与えた良き処遇の知らせが広がると、彼らは花で飾られた非常に豊かな糧食を軍隊に届けたと語られているからだ。総督は最後まで自分の振る舞いにこだわっていたのだろう。そして、そのことが彼自身を失脚させることとなった。

1541年11月2日に沿岸からアスンシオンに向けて出発し、1542年3月2日に到着した。そこに至るために、2,000マイル(3,200km、東京からマニラまでより遠い距離)の行軍を成し遂げていた。しかも、その間一人たりとも兵士を失うこともなく、一人の先住民を殺すこともなかった。しかし、アスンシオンに着いた時、彼は全ての側から反目されていることに気付かない訳にはいかなかった。

先住民の反乱と部下役人の敵視に囲まれて
先住民は、完全に反乱の状態にあり、ブエノス・アイレスの入植地は殆ど廃墟となっていた。そして、王室税を取り立てるべく国王によって指名された役人たちは、一人残らず全て彼を敵視していた。

先住民攻撃は教区司祭の了解の下行われ、遠征隊に教区司祭が同行した
「新たに創設した街を襲撃したグアイクル族を攻撃することが合法的である」と教区司祭が考えているか否かを知るために、彼らに相談してみると、「それは、合法的であるのみならず、的確でさえある」との見解を彼は得た。それ故、彼はグアイクル族に対する遠征隊を送り出したが、その遠征隊には、グアイクル族がキリスト教徒となってスペイン国王を認めることを要求するべく教区司祭が含まれていた。

キリスト教の教義を知り改宗することは、先住民にとっては無理なことのようであった。というのは、大いにあり得ることだが、先住民はキリスト教が与える利益を知らず、そのうえ、スペイン国王について聞くのは、おそらくそれが初めてのことだったからである。

総督は、教区司祭の人間性に疑問を持っていたのだろう。他の会議を開催して、前述の見解を確認させた。実は、非常に興味深いことに、教区司祭の反応は彼にとってとても意外なことだった。なぜなら、彼は教区司祭は遠征隊に同行すれば、彼ら自身戦わざるを得なくなるだろうと考え、まさか教区司祭が戦うことを了解するとは思っていなかったのだ。そもそも地球上でかつて流された最初の血が宗教の違いによるものだったことなどは、彼にとって当然過ぎて思い出しもしなかったのだろう。

2人のフランシスコ会士と35名の「黒い洗礼志願者」
遠征隊が出発する直前、サンタ・カタリナから彼と一緒に来た2人のフランシスコ会士が行方不明となっていることが判明した。彼らは、全員で35名の先住民女性の一団を引き連れて、沿岸方面に引き返していたことが、そのとき明らかになった。彼らは、追われ、連れ戻され、そして「総督を訴えるために、スペインへ行く途中であった」と説明した。35名の「黒い洗礼志願者」については、説明のないままとなり、人々は今一度あきれた。

チャコ平原とパラグアイ川遠征の風景
総督は、それからグアイクル族に向かって出発した。チャコ平原とパラグアイ川の西岸を知っている者だけが、その遠征隊がどんなものであったに違いないかについて、僅かなりとも考えを持つことができる。今日でさえ、チャコ平原では、世界の始まり以来の変化はほんの僅かしか無いのである。

汽船が岸に沿って進むにつれて、何マイルも沼地以外は何も見えない。水のよどみと交差する沼地である。そこには、ワニや電気ウナギやトゲのあるエイなどが横たわっている。目の届く限り、遥かに沼地、沼地、そしてさらに沼地であり、平原の波打つ草のうねりである。住民は、総督自身が最初に彼らに会った時と同様、殆ど残忍で手に負えない。天候は曇って湿っぽく、空気はうすら寒く、ブラジル・サシガメや蚊やブヨと呼ばれる小さく黒く悪魔のような小虫がいる。

道も通りも目印もなく、ただ、そこには何リ-グ(4.8㎞)もの間隔ごとに、森の中の開拓地があり、そこにいくつかの散在する入植地が存在し、非常に稀に、廃墟となったイエズス会教化村の家々と教会の城壁がまだ残っている。駝鳥、鹿、虎、カピバラ、バク、野牛のように荒っぽい牛の群れは、ときたま見られる。しばしば、槍を持った先住民が、船が通るのを眺めて馬の背にじっと座っている。外部からの侵入に対して荒野を守る番人である。

アルバル・ヌニェスは、彼の「解説」に書いているように、400人の兵隊と1,000人の友好的な先住民と共に出発したが、先住民は全員が充分に武装し塗料を塗っていて、日光が反射して敵が恐怖心を抱くように頭に金属板を付けていた。馬を守るために、馬は船に乗せていたが、先住民は岸に沿って行進し船について行ったのだ。

不慣れで不快なことばかりであったが、宗教を広め財産を作るという快適な気分で軍隊は進む
それから、現在と同様、パラグアイでは時間というものは、全く重要ではなく、馬を良い状態に保つために、毎日馬を下船させ、駝鳥や鹿を追わせていた。ちょうど、思慮深い男が一緒に行進したがるある種の軍隊のように、食べさせるには兵隊の数は多過ぎず、宗教を広め財産を作るためなのだという快適な気分で進んで行った。兵士にとって寂しく感じさせる不快な特徴は付いてまわったが。(それは、総督が指示した糧食のための支払いの制度である。)全ては新しく不慣れなことばかりであった。世間はそんなものだ。

毎晩、総督は几帳面に日記をつけて、今や、何頭かの良馬の死を、または先住民の死を記録し、果物や魚や動物や木などカスティリャのものとは異なる被創造物について解説している。

時折、グアサラポス族やパガユアス族との戦闘があったが、大したことは無かった。常に将来遭遇するはずの金鉱の話があった。遠征隊は、ついに現在コルンバの町があるところから、そう遠くない地点に来た。そこに、アルバル・ヌニェスはレイエスと名付けた町を創設した。かれは、探検して金を探させるべく2人の大尉を送り出し、彼らの帰りを2,3カ月待ったが、病床に伏し四日熱に苦しんだ。結局、噂の金鉱を発見することに失敗し、再びアスンシオンに向かった。出発する直前、彼は衰えている人気に最後の打撃を与えてしまった。

部下が先住民女性を船に連れ込むのを禁じたことで決定的な打撃を被る
彼の部下の何人かが、先住民女性を捕らえて乗船させ船に隠した。彼はそれを知った時、直ちに禁止し、少女たちの親を呼びにやり、彼らに彼らの子供を返してやった。彼の言うところでは、先住民たちはこれを非常に喜んだが、スペイン人たちは怒りと失望とを表わし、その理由で私を嫌ったということである。

何よりも至極当然な事である。同じ理由でパラグアイのスペイン人は、この賢明な総督が始めた政策を実行しようとしたイエズス会を嫌ったのだから。


・ドミンゴ・デ・イララ
臨時総督イララは、ヌニェスが奴隷化した先住民を取り上げると言って、スペイン人入植者を脅した
1543年4月8日、総督はアスンシオンに戻った。消耗しマラリア熱に病んでいた。彼はそこで全面的な混乱を見出していた。ヌニェスが到着する以前に、臨時総督であったビスカヤ出身の賢く野心的な兵士ドミンゴ・デ・イララが人々を統治していた。彼は、「ヌニェスは、彼らの財産を取り上げようとしている。」と語った。彼らの主な財産は、彼らが奴隷化した先住民であったから、イララのその発言は、ヌニェスを非常に不人気にした。そして、イエズス会がパラグアイにおける奴隷制度を公然と非難したときにイエズス会に向けられたと同様の主張がイララに対してなされた。

ヌニェスは拘束された
しかし、全ての不満の訴えは、あらゆる種類の横暴や非道がなされる時と同様に、自由の名においてなされた。
アルバル・ヌニェスは、彼の「解説」の中で語っている。アベ・マリアの祈りの時間になると、10~12人の先導的な人々が、彼が病でベッドに横たわっている家に入って来て、皆で「自由を」と叫び、自分たちが「愛国者」であることを立証するために、その連中のうちの一人ハイメ・レスキンがヌニェスの傍らで曲がった石弓を構え、彼をベッドから起き上がらせた。そして、全員が「自由を」と叫ぶ群衆の中で彼を監獄へ連れて行った。

真の自由の友人たち(反対側の人々)は救出を試みた。しかし「愛国者」たちは強過ぎた。そこで、「非愛国的」である総督は、重い足枷を嵌められて独房に投げ込まれたが、実はそこの場所を空けるために、死を待っていた一人の殺人者が放免されたのだった。アルバル・ヌニェスが断言して語っているところによれば、急いで自分のマントを取り、それから直ぐ通りに出て、「自由を」と叫んでいたそうだ。

全ては、手順良く行われたのだろう。愛国者たちは、総督の全ての持ち物を押収し、彼の資料を取り上げ、彼が暴君だったから、彼らがそのように行動したという宣言を公表した。

先住民の反応
不運なことに、先住民は如何なる解説も残していないが、アルバル・ヌニェスの「暴政」について、どう考えていたのかは興味をそそるところである。最もあり得ることは、パラグアイからのイエズス会追放に当たってイエズス会教化村の先住民が考えたと同じように彼らが考えていただろうということである。また、それはブエノス・アイレスの総督に対し、サン・ルイスの教化村の人々から1768年に提出された興味深い請願書にあらわされているのと同じ内容であろう、ということである。そこでは、人々の意思に反してイエズス会士と引き換えに派遣されてきた托鉢修道会司祭に替えてイエズス会士が残されることが請われているのだ。

総督を監獄に入れて、「愛国者」たちはもう一人の首長を選んだが、選択は当然ドミンゴ・デ・イララの上に下った。彼は、臨時総督だった男だが、初めから絶えず策略をめぐらしていた。彼は、全ての総督たちのやり方に習って、早速友人たちを公職に就けた。

アルバル・ヌニェスの友人たちは、世間の習わしで永く是認されてきた通常のスペイン形式で、抵抗して宣誓した。つまり、彼らは土地を歩き回り、彼らの自由への愛は、権力を持っている者のそれと丁度同じぐらいに強いということを、窃盗と殺人によって証明したのだ。直に、誰も夜間には外出できなくなった。掠奪するグアイクル族は、郊外を焼き払い町を攻撃すると脅した。

ヌニェス自身は、一日中閉鎖された監獄で短剣で武装した四人の男に監視されていた。彼自身が語っているところでは、彼がいた監獄は、彼の健康には良くなく、見たり読んだりするためには、昼も夜も蝋燭を燃やし続けねばならず、草がベッドの下で伸び放題で、健康のため一級の足枷をつけていたのだった。

主任看守として、彼らはエルナンド・デ・ソ-サという者を確保していたが、彼は先住民を襲った廉でヌニェスが拘置していた男だった。監獄の門では、守衛が常に見張っていたが、それにもかかわらず、彼は殆ど邪魔されることなく外部の友人たちと意思疎通をとることが出来た。彼の方法は実に無邪気なものだった。彼の食べ物は先住民の女性が運んで来ていた。彼が国王に連絡を取りはしないかという「愛国者」たちの恐れは非常に強かったので、「愛国者」たちは彼女を監獄の中で裸で歩かせて料理を運ばせ、彼女の頭は剃られていた。にもかかわらず、彼女は一片の紙をつま先に隠してうまく持って来た。

「自由党」は、ヌニェスが友人たちと連絡を取り合っているのではないかと疑って、先住民の若者を引き入れ、少女と性交渉をさせ秘密を聞き出そうとした。しかし、彼は失敗した。と言うのはおそらく、彼女の剃った頭のせいで、彼の性愛のテクニックが確信に欠けてしまったからである。

ヌニェス、スペインに護送される
結局、イララと彼の仲間たちは、総督を捕らわれの身でスペインへ送ることを決定した。もちろん念のため事実を捻じ曲げ国王に偏見を持たせるために、事前に連絡係を送った。

しかしながら、ヌニェスの仲間は、真の事実を述べる報告書の箱を船に乗せて、うまく密かに隠した。真夜中に火縄銃の打ち手の一団が、11カ月の収監の後に彼をベッドから引きずり出したが、彼の語るところでは、殆ど手に蝋燭を握った状態で(つまりは、瀕死の状態で)あった。監獄を出た時、彼はひざまずき、自分にもう一度天国の空気を感じさせてくれたことを神に感謝し、それから「私は自分の後継者として、大尉フアン・デ・サラサ-ル・デ・エスピノサを指名する。」と大きな声で叫んだ。

この時、ガルシア・バルガスという者が、短剣を持って彼に駆け寄り、彼の言葉を取り消せ、さもないと直ちに殺すと言った。彼はそうすることを止められ、ヌニェスは船に急がせられ、梁にしっかりと鎖でつながれた。乗船すると、彼は彼らが自分を毒殺しようとしていると語った。しかし、これは疑わしい。というのは、もし彼らがそうしようとしたのであれば、それを防ぐことは全く不可能だったからである。

荒れた航海の後で、スペインに到着し、ヌニェスは裁判を受けすぐに保釈され解放された。そして、彼の告発者は8年間のうちにすべて死んでしまい、彼は彼に対して掛けられた全ての罪状について、無罪を宣告された。しかしながら、裁判というものが、今も昔も常に盲目であることの証として、国王はパラグアイの政府を彼に返還することは無かった。そして、ヌニェスが語っているように、彼が勤務中に費やしたものを彼に払い戻すことは忘れ去られた。

アルバル・ヌニェスと共に、先住民が自由な処遇を得るための唯一の機会は失われた。なぜなら、彼の時代から、総督というものは、くだらない悪意に乗っかった俗世間の人間である代わりに、国境紛争に従軍して極めて当然の事として先住民を敵とみなす将校から選ばれるか、宮廷で策略を凝らしている大臣たちによって指名された者から選ばれるようになったからである。

アルバル・ヌニェスの死からイエズス会教化村の開始まで、先住民側に立って現れた者は一人もいない。そして、彼の政策が広まっていれば、パラグアイの布教地には先住民が住民として残ったであろう。何故なら、世俗権力である総督がイエズス会と協力していれば、イエズス会追放時に起きたような先住民の分散は起こらなかっただろうからだ。

・再びドミンゴ・マルティネス・デ・イララ
それ故、ドミンゴ・マルティネス・デ・イララが唯一の統率者としてパラグアイに残された。彼は当然の事として、スペインと連絡を取ることなしに得るべきものを全て手に入れた。彼がそう出来たのだから、アルバル・ヌニェスに関して彼が演じた役割は明らかである。しかしながら、彼は、ある程度良い性質と豊富な勇気と怪力と自分を抑える力を持っていた。

鉱山を発見するためにペル-方面に遠征するが、何も発見できず数千人の先住民捕虜を率いて戻る
スペインに対し、自らの立場を正当化するために最も確かな方法は、鉱山を発見することだった。そこで、フランシスコ・デ・メンド-サを自分の代理に任命し、彼自身は350人の兵士と2,000人の先住民を連れて、パラグアイを出発した。多くの困難の後、ペル-との国境に到達したが、太平洋側から征服された国を見出しただけのことだった。

そして、賢明な大統領(実際は、リマ・アウディエンシア長官)であるラ・ガスカに会った。ラ・ガスカは、イララに戻るように命令し、彼の代わりにパラグアイ総督としてディエゴ・センテノという者を指名した。センテノは、総督職を引き受ける前に死んだ。だから、イララが統率者であり続けることは、定められた運命であったようだ。

金も富も発見しなかったが、1年半後、数千人の先住民を奴隷として連れて、彼はパラグアイに戻った。イララは、先住民を比較的親切に扱ったことで有名だが、パラグアイに戻った際には、非常に多くの先住民を捕虜として率いていた事を憶えておくことが肝要である。

アスンシオンは反乱が進行中
アスンシオンに着くと、反乱が進行中であったが、それはスペイン人総督が任地を離れるときには、頻繁に起きていたことである。彼の代理であるフランシスコ・デ・メンド-サはディエゴ・デ・アブレウという者に殺されてしまっていた。アスンシオンの事態を鎮めた後、パラグアイ川の上流に町を見つけるために、大尉の一人ヌフロ・デ・チャベスを送り出した。

その頃の他の隊長たちと同様に、「権力からは極力独立していたい」というのがチャベスの考えだった。そこで、彼は内陸に向かい、ボリビアにサンタ・クルス・デ・ラ・シエラの町を開いた。それから、多くの冒険の後、先住民によって殺されたが、その先住民は彼が兜をかぶらずに座って食事をしている時に、こん棒で彼を襲ったのだった。

イララは、1557年小さな村で死に、アスンシオンのカテドラルに埋葬されたが、そのカテドラルはその時建てられていたものだ。彼と共に、富を征服する兵士たちの世代は終了したが、彼らはイタリア戦争で教育され、アメリカに旧世界のいくらかの善と全ての悪をもたらしたのだった。

混血スペイン人支配の始まり
彼の後に、スペイン・アメリカ共和国(ラテン・アメリカ諸国)の現代の占有者の先駆者である混血スペイン人の支配が始まった。イララの死から、通例となった争い、それは、これまで300年の間、スペイン・アメリカ(ラテン・アメリカ)の全ての部分の名を汚してきたが、それが始まったのだ。そこに入っていく事は、不必要なことだ。なぜなら、自らを従わせる最小の能力を示した殆ど唯一のパラグアイ総督は、イララと共に死んだからだ。

先住民である副総督サアベドゥラが宣教師派遣を要請
充分に本当であると言えることは、パラグアイの先住民であり、トゥクマン総督ラミレス・デ・ベラスコの下副総督であったアリアス・デ・サアベドゥラは、ある程度の能力と知性を示した、ということだ。彼こそ、スペインに対し先住民を改宗させるための宣教師を送ることを最初に求めた人物だ。

イエズス会士たちの動向
アルバル・ヌニェスとイララが、ヌフロ・デ・チャベス及び他の指導者と共に、町を征服し建設している間に、イエズス会士は荒野で伝道をし、先住民部族を統率していた。彼らの修道会の創設から10年足らずの後、つまり1550年頃、イエズス会士がブラジルのサン・サルバドル・デ・バイアへ上陸した。

イエズス会に対し宣教師派遣を要請したサンチャゴの司教フランシスコ・ビトリアの求めに応じて、1586年アルフォンソ・バルセナとアングロ等の神父たちがボリビアのサンタ・マリア・デ・ラス・チャルカスの町を出発した。彼らは、グアイラ地方に到着し、働き始めた。

少しの後、エステザン・グラオ、フアン・ソラノ、トマス・フィールズ等の神父が加わった。ソラノとフィ-ルズは、チャコ地方のベルメホ川流域の遊牧民部族をのいくつかを既に訪れていた。1593年、フアン・ロメロ、ガスパル・モンロイ達が到着した。その、僅かな後、アスンシオンにコレジオが開設された。その頃、オルテガとベラルナオ等はチリグアナスの山々に分け入り、先住民に対する福音宣教を開始した。

1602年、イエズス会第五代総長アクアヴィヴァは、共同活動の必要性を考慮して、今後の方針を審議するためにサルタでの会議へ、パラグアイとラプラタ川地域に散在する全てのイエズス会士を招集した。

1605年、ディエゴ・トルレス神父がパラグアイ及びチリ管区長に指名された。それによって、当時の南米におけるイエズス会士の不足と、対応していた国々の巨大さについてローマの総長が抱いていた理解の少なさ、の双方が分かる。トルレスは15人の神父と共にリマを訪れたが、それと同時に幾人かがブエノス・アイレスに到着した。そして、どちらの集団もパラグアイに向かった。

既に中傷の餌食に
既に、イエズス会は中傷の餌食になっていることが分かった。トゥクマンでも、パラグアイでも先住民の奴隷化に手を貸すことを期待されていたのだ。チリでは、バルビディア神父がサンチャゴから追放され、トゥクマンに避難した。そこで、彼は事態が耐え難いものとなっていることを認識し、国王の臣下である先住民に対するフィリップ3世の保護を懇請するためにマドリッドへ行った。

1608年、国王フィリップは、イエズス会に対しグアイラ地方の先住民の改宗に関する王室許可状を交付した。司教と総督アリアス・デ・サアベドゥラ(生まれつきのパラグアイ人)は反対しなかった。そして、植民地化計画は直ちに同意された。それ故、イエズス会はアメリカで最初の公式の立場を得たことになる。

1609年10月10日、シモン・マセタとホセ・カタルディノ(両方ともイタリア人)の神父たちは、アスンシオンを発って、16010年2月にパラナパネ川の河岸に到着した。

そこで、彼らはフィールズとオルテガが働き始めた相手である先住民に会った。そして、そこにロレトの教化村を創設したが、それはグアラニ族の中にイエズス会によって開設された初めての恒久的な組織である。それ故、パラグアイの森の中に、今日でも殆ど知られていないパラナ川の支流に、イエズス会は彼らの名高い教化村の最初の基礎を築いたことになる。彼らの修道会創設から僅か50年後までに、教化村はそこまで到達したのだが、全てが廃墟となってしまった今日では、そこはおそらく世界で最も辺鄙な片隅となってしまった。

彼らは、そこに、彼らの名が永遠に結び付けられるような組織を築き、その組織は、アラブの部族のように不安定で他のどの種族よりも疑り深い流浪の先住民部族を2百年にわたり統率し得たのだが、突如跡形もなく消えてしまい、今となっては、世界の何処を探しても類似するものは全く見付けられない。


〈つづく〉





















# by GFauree | 2022-05-10 07:20 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

消えていった或る理想郷 そのII 著者前書き

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江戸時代初期、本格的な「禁教・鎖国」令によって、イエズス会士をはじめとする宣教師たちの日本からの追放が徹底されようとしたちょうどその頃、イエズス会は南米の広範な地域において、「教化村」(「イエズス会国家」)を建設しつつあった。それを論じたのが、イギリス人政治活動家・作家であるRobert Bontine Cunninghame Graham (ロバ-ト・ボンタイン・カニンガム・グレアム)の著書『A VANISHED ARCADIA』(『消えていった或る理想郷』)である。

今回は、その書の冒頭の「著者前書き」から、著者の観点や考え方を抽出してみようと思う。



イエズス会とは

我らがイエズス会士は、”野鳥”(「奔放かつ鋭敏であり時には獰猛にもなる」という意味か)のような存在であることが、世に知られている。ロ-マ教皇の近衛兵であり、多くの破壊をもたらした(過激な)修道会であり、神学上の新たな概念‘’中間知‘’の発案者を育てた組織でもある。それは、‘’教義‘’というものが流行らなくなった時代に、‘’単なる信仰‘’にすがる姿勢を批判し、‘’行い‘’または‘’事業‘’というものを重んずることを意味した。

先入観に満ちた世界で、予め与えられた考え方に代えて新たな福音をもたらすことが出来た者は彼ら以外に居なかったのではないか。(神の恩寵の意味を絶対化し、人間の非力さを強調する、つまり極めて厳格な)ジャンセン主義者でさえ、フランシスコ・ザビエルの主張を認めたに違いない。(それ程、イエズス会は純粋性を認められた集団なのだ。)


彼らの「教化村」建設をどう評価するか

私は個人的には、彼らの「国家」の政治的側面、またはそれがスペイン植民地において如何なる役割を果たしたか、つまり、それが結果的にスペイン王室の利益となったか、イエズス会の仕業とされた野望の罪や責任は嘘だったのか、はたまた本当だったのか、などには殆ど関心がない。

この件に関する私の唯一の関心は、イエズス会による統治が如何に先住民に作用したか、それが彼らを幸福にしたのかどうか、スペイン国家またはスペイン植民地副王庁の総督によって直接統治されていた先住民に比べてより幸福だったのか、そうではなかったのか、ということである。


イギリス人から見たスペイン人

Anglo Saxon族(であるイギリス人)に言わせれば、「スペイン人征服者は血に飢えた殺し屋のようなものなのだから、スペイン植民地の先住民たちは、多数のグレ-ハウンド種の猟犬の中に放たれた野兎のようなものだった」ということになる。だから、先住民に献身し尽したイエズス会のルイス・モント-ヤ神父のようなタイプの人間を植民地のスペイン人の中に見つけることは、殆ど不可能なことだったことになるのだ。


理想郷であった「教化村」が消滅したあとに起きたこと

イエズス会がスペイン及びその海外植民地から追放された後の論争においては、あらゆる類の悪口がイエズス会士に対して投げつけられた。しかし、パラグアイにおける彼らの統治の間の活動に関しては、少数の元イエズス会士以外は誰も悪意をもってそれらを語ることはなかったのだ。

イエズス会退去後に関して確かなことは、ウルグアイとパラナの間では、退去から2~3年後以降からは、全くの混乱状態に陥ってしまったということだ。20数年の間に、大部分の「教化村」は見棄てられ、30年が過ぎる頃には、過去の繁栄の痕跡は跡形も無くなっていた。

イエズス会が導入した半共産主義は一掃され、「教化村」の収入は減り、全てが腐敗した。

総督ドン・フアン・ホセ・ヴェルティスが副王に報告しているように、政府が送った教区司祭たちは大酒飲みであり喧嘩屋であり、コートの下に武器を携行していた。盗みは蔓延し、先住民たちは毎日数百人ずつ村を捨て森へ還って行った。

イエズス会によってパラグアイに莫大な「富」が貯め込まれていた、という報告は全て噓であることが明らかになった。どの「教化村」からも、重要なものは何も発見されなかった。イエズス会士には、追放について事前に何も通報されていなかったし、捜索に対して準備をしたり「金」を隠匿したりする時間は与えられなかったにもかかわらず、である。


彼らは「教化村」で何を実現しようとし、どのように去って行ったか

イエズス会士たちは、先住民に対しまるで神のような考え方に立ち、世俗権力が行使することが出来たであろうものより遥かに強大な武力を有していたけれども、彼らは抵抗しなかった。そして、彼らの支援と勤勉さによって育ててきた豊かな土地から静かに離れた。

正しかろうが、間違っていようが、彼らの思想によって彼らは、彼らが生きた時代のヨーロッパの進歩の最良の部分の全てを先住民に教えることに努め、商業主義との接触から先住民を保護し、先住民を奴隷として扱うスペイン人入植者と先住民との間に(盾となって)立ったのである。こういうことが、彼らの罪とされたのだ。

人の心の中に‘’野望‘’があるとかないとかを詮索して、人の心の内を探る権利など誰にもない。イエズス会士たちがヨーロッパにいる上司から何を期待されていたかなど、考える必要もないことではないか。


戦い済んで日は暮れて

全てが語られ、なされた今、彼らの勤めは終わり、彼らの働きは全て無駄になった。(私心のない者の努力に対し、常に起こるように。)スペイン王権の全てのアメリカ領土の名を汚す奴隷制度に抗して、約2世紀の間耐えねばならない程の、どんな酷い罪を彼らが犯したというのだろうか。

敢えて真実を語ろうとすることは最大の悪であり、進歩的で参加するためには多大な税負担を要する(高級なヨーロッパ)社会においては、自分の真の考えを実践しようとすることは、社会の面汚しということになるのだ。

約2百年間、彼らは努力した。そして、かつて人が集住しよく耕作された彼らの領地は、砂漠でないにしても、アメリカ亜熱帯植物の生命力の凄まじいなり放題に身を任せている。(その亜熱帯植物は、まるで自分が成長しているその土地の所有をめぐって人間と争っているようにさえ見える。)


物事は全て、最も良い形で起こる

「この世に起こることは全て、最も良い形で起こる」ということは些かも疑うべきでない。疑うな、なぜなら、もし一旦疑えば、あなたは見るもの全てについて疑うことになるからである。我々の人生、我々の進歩、そして自分自身の絶対的確実性を。

これは万難を排して守るべきことである。



〈つづく〉

# by GFauree | 2022-03-07 13:09 | イエズス会教化村 | Comments(0)