【大航海時代のおと】

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長崎奉行長谷川左兵衛はそんなに悪い奴だったのか

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1610年に発生した「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」は、日本のキリシタン教会の屋台骨であったマカオ⇔長崎間貿易の担い手であるポルトガル船を「キリシタン大名」有馬晴信の軍勢が攻撃したという異常な事件である。前回、その事件を説明するものとして、「アンドレ・ペッソアが1609年[日本]航海カピタン・モ-ルとして来航したナオ、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号焼亡に関する報告書」(以下、「報告」と略して表記する。)の内容を要約した。当時のイエズス会日本(準)管区長付秘書ジョアン・ロドリゲス・ジランが作成し本部に送られたものである。

この事件は上に書いたように特異なものであるけれど、逆にキリシタン教会の組織の実態をよく示す出来事でもある。ところが、あまり取上げられることが無いようにも私は感じてきた。またその理由として、他のキリシタン関係の出来事と同様、そもそも根拠となる資料が少ないのではないかなどと推測していた。それだけに、日本語訳にして40ペ-ジと相当のボリュ-ムのあるこの「報告」を読めば、この事件がかなり理解できるのではと期待した。


すっきりしない「報告」


ところが、結果は期待外れであった。読んでみて確かに詳しく書かれてはいるが、どうもすっきりと理解できたとは言えないものが残ったのである。そして気が付いたことは、「報告」の多くの部分を使って長崎奉行長谷川左兵衛が一方的に非難されていることである。

実際に前回の記事に書いた「報告」の内容から、長谷川左兵衛に関する記述を抽出してみると以下のようになる。


「報告」の中の長谷川左兵衛に関する記述

先ず、奉行長谷川左兵衛は貪欲さから代官村山等安と結託して、従来ポルトガル船に許容されていた特権と自由を剥奪し新たな貿易管理制度を強制した。

左兵衛は自分に非難が及ぶのを避けるために、ポルトガル人に対し「マカオ騒乱事件」について家康に報告させまいとした。しかし、結局ポルトガル商人の代表が駿府に送られたとき、多額の謝礼など自分にとって好都合な事柄が約束されてから、左兵衛はポルトガル人に協力を申し出たのだった。

ところが、ポルトガル人商人たちが特権の回復と、「マカオ騒乱事件」の説明と左兵衛等を告発することを目的として、カピタン・モ-ルであるアンドレ・ペッソアを駿府に派遣しようとすると、それを妨害した。

さらに、左兵衛は有馬晴信と手を握り、家康のポルトガル人への怒りを煽るよう働きかけた。しかし、左兵衛はポルトガル人に対し用いようとした晴信の策略に水を差し、密かにペッソアに対しその内容を告げた。

ポルトガル船が焼け落ちた後、左兵衛は等安とともに、ポルトガル人に対し通商再開の条件を提示し多額の賄賂を要求した。



「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」の原因は左兵衛の悪辣な性格?


「報告」は、先ず左兵衛が自らの地位を利用してポルトガル船貿易で利益を上げ、ついには貪欲さから自分に都合が良いように貿易の慣行をねじ曲げ、新たな管理制度をポルトガル船に押し付けたとしている。そして、左兵衛の貪欲さや狡猾さを示すような行状をこれでもかこれでもかと列記し、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」が左兵衛個人の性格の悪さによって惹き起こされたものであることを裏付けようとしているようである。


奉行の職務自体が「輸入品購入」から「貿易管理」に変わりつつあったのだ


そもそも、江戸時代初期の長崎奉行の役割は貿易品の購入つまり家康の輸入品買い物係だったのである。その上、これは「報告」に書かれていることであるが、次のような事情があったらしい。

左兵衛には俸禄(給料)が支払われず、その代わりに家康から金が貸し付けられ、左兵衛はその金で輸入品を買い収益を出さねばならなかった。左兵衛が収益を差し出すと家康はそれを報酬として彼に与えたということである。(つまり、左兵衛はポルトガル船のもたらす商品を安く買えばそれだけ儲けることができるようになっていたし、それは家康も了解のうえでのことだったのだ。)

確かに、有利な輸入品を優先的にまた関税免除で購入する特権は長崎奉行に莫大な利益をもたらした。加えて関係する町人や商人からの献金という役得もあり、後に「一度長崎奉行を務めれば、子々孫々まで安泰な暮らしが出来る。」といわれたほどであったという。

1603年、江戸幕府開府の年、家康は小笠原一庵を、翌年長谷川重吉を奉行に任命、左兵衛は1606年から1614年まで奉行を勤めた。江戸時代初期の奉行の役務も秀吉時代と同様貿易品の購入が主であり交易が終了すれば江戸に戻っていたということである。

そこで、考えられることは、幕府がポルトガル船貿易開始以来の長い間の自由放任の方針を転換していよいよ貿易の管理に乗り出したことをきっかけとして事件が発生したのではないかということである。ポルトガル船貿易が開始されてから70年近く経ったこの時期になってやっと、明確な貿易管理制度が制定されようとしたということである。

それにしても、なぜ「報告」は全てが左兵衛個人の悪辣な性格によるものであるかのように書いているのだろうか。


全てを左兵衛個人の悪辣な性格に帰するような「報告」が書かれたわけ

先ず、この「報告」は日本イエズス会から本部になされた内部報告である。従って、公明正大な内容としなければならないとか、客観的な事実のみを記述しなければならないという決まりはないのである。この「報告」を歴史を知るための資料として読む者としては事実のみがもれなく書かれてあって欲しいが、書く方はそんなことにお構いなく自分に都合の良いことは書き、都合の悪いことは省いているはずなのである。


左兵衛が大悪人であると書くことの必要性

それでは、なぜ左兵衛が大悪人であるかのように書く必要があったのか。それは、キリシタン対策が長崎奉行の主要な任務の一つだったからである。信仰の敵は大悪人というわけである。そんな大悪人と闘いながら布教活動を展開していることを本部にアピ-ルする機会として考えたのかも知れない。

もう一つの理由は、家康を悪く書けないからである。イエズス会側としては、誰が左兵衛を動かしているかは充分わかっていたはずである。しかし家康を悪く書けば、日本イエズス会は今を時めく日本の最高権力者と闘っていることになる。権力との協調を活動方針の原則とする組織内においては、たとえ本部に対する報告の中であっても権力批判はやりにくかったはずである。

官僚である左兵衛は批判しやすい

「報告」に書かれた左兵衛の行状は以下のようなものである。

先ず、新たな貿易管理制度の導入によって、私腹を肥やしポルトガル船貿易の展開を阻害した。そして、家康へ伝えるべき情報を自己の保身のために握り込んだ。また、様々な機会に自己の立場を利用して不正な利得を得ようとしている。

しかし、考えてみれば戦国時代直後、江戸時代初期の話である。その時期に官僚的立場に立った者のその程度の行為は、取り立てて言うほどのことではないような気もする。

なにしろ、官僚の役得と言えば、ほんの30年前の昭和のバブル時代頃までは、日銀総裁や大蔵官僚の株のインサイダ-取引なども野放しだったのである。それと、権力者の無言の意向を「忖度(そんたく)」し実は自己の利益を図ろうとする官僚が今でもはびこっていることは最近我々が見聞きさせられたことである。

左兵衛の場合、妹が家康お気に入りの側室であり、それによって取り立てられた一族の一人であったことから、自己の権益と保身にしがみつく貪欲かつ狡猾な官僚というイメ-ジを貼り付け易かったのではないかとも思う。


ついでに、「マカオ騒乱事件」について言えば

「マカオ騒乱事件」は、マカオに寄港した有馬晴信の朱印船の乗員がマカオ市内で暴力行為に及び結局数人のマカオ市民と40人近い日本人が殺害された事件である。

これについては、当時マカオ当局は「寄港した日本人が居丈高な態度で市内を闊歩し、傍若無人な振る舞いをした」ことがきっかけだとした。そして現在でも、戦国時代末期から江戸時代初期に海外へ出て行った日本人の好戦的な傾向を根拠としてそれが定説となっているようである。しかし、私は少し違った見方をしている。

と言うのは、寄港した有馬晴信の朱印船は最初からポルトガル人とマカオ市民にとって歓迎されざる客だったはずだからである。マカオ市民とはポルトガル船貿易を展開するポルトガル人とそれに協力する中国人たちである。彼等にとって、日本の朱印船は彼らの市場への参入者であり競争相手であり排除すべき存在であったことは確かだ。

だから、寄港した船や乗員に対して最初から冷淡に更には敵対的に接したはずである。それを察した日本人は緊張したであろうしその態度は好戦的に見えたかも知れない。加えて言語の壁もあって意思疎通も思うに任せなかったことは当然想像出来る。そうであれば、事件の原因の一端はマカオ市民の側にもあったと考えられ、抵抗した40人近い日本人を皆殺しにしたマカオ当局の対応は行き過ぎであったとも考えられるのである。

したがって、現地において直接事件への対応を指揮した責任がありながら船団を率いて来日し堂々と申し開きしようとしたカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアに対し有馬晴信が強い反感を持ち、家康の了解の下自己の軍勢を使ってダ・グラサ号を攻撃したことには、一理も二理もあると言えるのである。


結局、「報告」で何が分ったのか

「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」の原因として、「ポルトガル船を率いてきたマカオのカピタン・モ-ルであるアンドレ・ペッソアと長崎奉行長谷川左兵衛との間の取引を巡る争い」という言われ方がよくされるように思う。これまで、その「取引を巡る争い」というのがよく分らなかったが、今回概略は掴めたような気がする。

それは、事件の原因は「長崎奉行が幕府の意向に基き永年の課題であったポルトガル船貿易の管理に着手し自らの利害もあって強力に進めようとしたが、従来の慣行に固執するポルトガル船団側の抵抗に遭い紛糾した」ことにあったとということである。長谷川左兵衛個人の性格とはあまり関係ないのである。

「フランシスコ・ザビエルの活動を妨害したマラッカ長官は、生きながらに身体が腐敗し人々から見捨てられ、名誉も財産も失って死んだ」と、通辞ジョアン・ロドリゲスが「日本教会史」に書いている。「生きているうちから身体の腐ってしまった」惨めなマラッカ長官と、「死後60年経っても右腕が腐らず鮮血がほとばしり出る」奇跡を起こしたザビエルはみごとなコントラストを成すように語られているのである。(https://iwahanjiro.exblog.jp/21873459/

イエズス会関係の資料の解釈については、よほど注意してかからねばならないことを改めて感じている。


〈つづく〉



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# by GFauree | 2018-10-31 00:33 | ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件 | Comments(0)

ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件の経緯



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今回は、前回の記事に書いた「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」のうち、事件の経緯が説明されている「アンドレ・ペッソアが1609年[日本]航海カピタン・モ-ルとして来航したナオ、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号焼亡に関する報告書」の内容を要約してみた。約40ペ-ジに及ぶ報告なので全ての内容を網羅することはできないし、内容もあくまでイエズス会内部の報告という制約はあるが、キリシタン大名がポルトガル船を焼打ちにしたというこの異常な事件の概要を掴むことだけは出来るのではないかと思う。



[事件の経緯]




厳格になったポルトガル船貿易の管理

1609年6月、マカオからのポルトガル船が入港すると、奉行長谷川左兵衛は船内に監視人を配置し、商品の陸揚げ、乗員の上陸には監視人の登録と許可が必要であるとの命令を出した。ポルトガル船のカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアはその命令に抵抗したが、結局商品の検査や売買は殆ど左兵衛の命令通りにポルトガル人にとって不利な形で行われた。

従来、ポルトガル船に対しては、多くの特権と自由と免除が容認されていた。それは、外国人であるポルトガル人に対し敬意を払うという考え方とポルトガル船貿易から得られる収益によるものであった。しかし、奉行長谷川左兵衛と代官村山等安は貪欲さから結託し、新しい制度を定め、ポルトガル船が享受してきた特権と自由を奪おうとしたのだ。この二人は、ポルトガル人を誹謗して家康のポルトガル人に対する怒りを誘おうとし、家康は二人の屁理屈を受け容れてしまった。


ポルトガル人に対して、こうした取扱いがされるようになった理由の一つとして、1608年11月マカオで発生した日本人の騒乱事件があるが、その内容は以下のようなものである。


マカオ騒乱事件


占城(チャンパ)国へ派遣されたキリシタン大名有馬晴信の朱印船が日本への帰途マカオに寄港し、乗員が我が物顔に市内を歩き回り街を荒そうとした。これを鎮めようとマカオ当局が動いたが、日本人達は逆に数人のポルトガル人を殺傷し、一軒の家に立てこもり抵抗を続けたため約40人が殺害された。その際に、マカオ側の指揮を執ったのがカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアなのである。

事件を家康に報告させまいとする左兵衛

今回のポルトガル船到着後、マカオ側は事件の調書を持参し家康にその報告をするよう左兵衛に要請した。しかし、左兵衛は、マカオ騒乱事件について知れば家康は怒るだろうし、家康を怒らせることはポルトガル人の利益にならないだろうから報告をすべきではないと断り、ポルトガル人は左兵衛に従った。

左兵衛は、事件の報告をしたいとするポルトガル人の意図の中に、ポルトガル人に対し以前のような特権を求め左兵衛達を非難しようとする考えがあるのでは、と疑っていたのだ。その考えに気付いた左兵衛はポルトガル人を冷遇し始めたが、ポルトガル人はこれを耐え忍ばねばならなかった。それは、ポルトガル船到着の翌月の初め、2隻のオランダ船が到着したからである。


オランダ船問題と左兵衛・ポルトガル間の和解

家康はオランダ船の来航を喜んだ。それによって、好意を持っていないポルトガル人に依存しないで済むようになると考えたからであり、直ちにオランダ人達を保護すると語った。

オランダ船の出現によって、無事にマカオに戻ることが出来なくなったポルトガル人達は、左兵衛と手を結び、逆にオランダ船を捕獲するように左兵衛を通じて家康に働きかけようとした。ポルトガル人達と左兵衛の間にイエズス会が仲立ちをして和解が成立した。左兵衛は家康にオランダ船を捕獲させるとポルトガル人達に約束した。

そこで、オランダ船問題とポルトガル人の特権回復を交渉するために、ポルトガル商人の代表者が駿府に送られた。左兵衛は弟の忠兵衛藤継を送り、家康の有力な側近たちに支持を依頼する信書を送った。彼がそうしたのは、ポルトガル人達の謝礼と様々な約束事、さらには名誉と名声が期待できたからである。

一方、平戸に着いたオランダ人達は、ポルトガル人に先行して駿府に行き交渉しようとした。同時に長崎に幹部を送り、左兵衛を訪問させ自分たちを優先させようと図り、自分たちの意図を伝えた。左兵衛はこれを聞き大いに喜んで、オランダに全面的に協力する旨を語ったが、既にポルトガル人達と和解していたのだから、これはうわべの事であった。

このような状況の中で、左兵衛と等安はカピタン・モ-ルとポルトガル商人の代表者に伝言を送り、今後は双方共に全くだまし合うことなどなく交流し、マカオ事件につきポルトガル人達が希望していたことを家康が認めてくれるよう働きかけると述べた。ただし、それはマカオ側が左兵衛達に対する告発を断念するとの条件付きであり、またマカオ騒乱事件について家康に話さないことが改めて求められた。


家康は先ずオランダ人と会いポルトガル人は後回しにされた

ポルトガル商人の代表者は、オランダ人達より先に駿府に到着した。しかし、その時点で家康は、ポルトガル人が注文していた織物を直ぐに届けなかったことで、自分を無視しているとして酷く憤慨していた。実は、注文品を直ぐに届けられなかったことには已むに已まれぬ事情があったのだが。その憤慨のためポルトガル人との会見は延期され、その間にオランダ人が迎えられ、請願された通商も許可され平戸商館開設も決定された。

ところが、家康はオランダ人の後でポルトガル人とも会い、要請に従って日本人がマカオに寄港することを禁ずる朱印状を与えた。ただし、オランダ人との約束は破棄するつもりはなく、「日本に来たいと思うものには、誰でもすべての者に日本は解放されており、日本の港では争いがあってはならないので、海上では各自が警戒を怠らないように」との型通りの回答があるばかりであった。



ポルトガル人達はペッソアを駿府に送ることを決定し、左兵衛はその意図に激高する


ポルトガル人の代表者が駿府に向けて出発した後、彼らは善後策を協議しペッソアを駿府に送ることを全員一致で決定した。その目的は、従来からの自由を回復し、マカオ騒乱事件を説明し、それと左兵衛達を告発することであった。これは、イエズス会が介在することなく、彼ら独自に決めたことである。左兵衛はこの決定に激昂しあらゆる手段を用いてペッソアが駿府へ行くことを阻止しようとした。左兵衛はペッソアに対する非難を訊き集め、マカオ騒乱事件について別の調書を作成させた。

イエズス会は、次の理由からペッソアが駿府に行くことに反対した。
・左兵衛に対する家康の信頼は絶大であること
・幕府において援助を期待できるものは全て左兵衛と手を握っていること
・告発されようとしている左兵衛の行動には家康の考えに基ずくものが多いこと
・駿府への交通手段が確保できないこと
・家康自身のポルトガル人に対する憎悪と反発など
・左兵衛にオランダ問題への対処を放棄させないことの方が重要であること



左兵衛は晴信と手を結び、家康は晴信にポルトガル人殺害を命ずる

結局、ペッソアは駿府行きを断念したが左兵衛の憤怒は収まらず、有馬晴信と手を握り、マカオ騒乱事件の際に二人の家臣がペッソアに殺害されたとして家康に訴えさせた。さらに晴信は、これが家康にも加えられた凌辱であると言って、これに対する正当な復讐をしたいと家康に懇願した。その他にも、左兵衛と晴信は家康のポルトガル人への怒りを煽るようなことを言った。そして、ついに家康はペッソアをポルトガル人全員とともに殺害し船を積荷ごと没収することを決定し、晴信にその全てを実行させることとした。


左兵衛がペッソアの首を斬らざるを得ないと言い始めたことが伝わり、ペッソアは出航の準備を始め、それに気付いた左兵衛は駿府に通報した。すると、家康は後藤象三郎に司教やイエズス会士宛てに書簡を書かせた。その内容は、ペッソアは赦免されるのだから駿府に赴いても危険はない、というものだった。しかし、ペッソアはいかないことに決めた。


晴信の策略

有馬晴信は、家康の命令を実行しようとしたが、ペッソアが出航の準備をしていることに気付いたため、策略を用いることにした。生糸の価格を協議することを名目に、ペッソアにイエズス会の司祭館に来させることだったが、ペッソアはその策略には乗らなかった。


こうして、有馬の武装した兵士、火縄銃兵、弓兵を乗せたおよそ30隻の船とポルトガル船との戦闘が開始された。

戦闘開始から三日目、晴信はポルトガル船が他の港へ行かないことを条件に、生糸の値決め交渉をするべく人質を差し出す旨伝えた。ペッソアは、晴信の子息イグナシオ、左兵衛の甥、等安の息子を人質として受け入れる旨回答した。

左兵衛、晴信の策略に水を差す

一方左兵衛は、晴信にはこの件に関する権限が無いのだから、その類の伝言も協定も認められないと言った。更に四日目の朝、左兵衛は次のことをペッソアに伝えた。

晴信は生糸価格の値決めを口実にペッソアを騙そうとしており、これを伝えるのは自分が偽りに反対するものだからである。
ペッソア救済の方法は家康の望む価格で生糸全部を家康に提供する以外にない。ペッソアがそれを受け入れるなら自分が駿府へ連れて行く。それで、赦されるかどうかは保証できないが、自分のとりなしで救われるかも知れない。



戦闘の最後は、一ポルトガル人兵士が手に持って投げようとしていた火薬の入った入れ物に一発の弾丸が命中したことだ。その器物は壊れ、その兵士の足許にあった火薬入りの他の器物の上に落ちて炎上した。ペッソアは火薬庫に火を放つことを命じた。


戦い済んで

陸上には、生存者及び死者の商品と銀が多く残ったが、その全ては帳簿に記載されて家康のために没収された。左兵衛、等安は、長崎に残留したポルトガル人に対し通商再開の条件を提示し、多額の賄賂を要求した。

家康は、残ったポルトガル人全員を殺害してその財産を没収し、全イエズス会士を日本から追放するよう命じた。しかし、穏やかになったとき晴信に対し、宣教師が残れるように請願させ、それを聞き容れる形で宣教師の残留を許した。彼は、ポルトガル人達に憤慨していたとは言え、自分が通商継続を希望していることをよく理解していた。

左兵衛は、ポルトガル人達に対して通商の糸を切断しないように依頼し、また彼等が来年にはせめても何らかの小船舶をマカオから派遣するように言い、またナオ(ポルトガル船)が引き続き来航するよう要請した。




[報告を読んで思うこと]


1.
前回の記事に書いたことだが、この報告は日本イエズス会の本部への報告であるから、彼等にとって不都合なことは書かれていないことは考えてみれば当然である。例えば、(これも前回書いたが)ポルトガル船団の代表が駿府を訪れた際、通辞ジョアン・ロドリゲスが一行を引率したことは全く触れられていない。一行が家康から日本人のマカオ寄港禁止の朱印状を引き出し、それが後にこの事件の混乱の原因とされた(これは、左兵衛、等安の陰謀だったという説があるが)ようであるから、ロドリゲスの行動は結果的にイエズス会にとって不都合なものとなったと判断され捨象されたのだろうか。

一方、「キリシタン大名」有馬晴信については、彼のポルトガル船攻撃を思い留まらせるような動きをイエズス会が採ったというような記述もない。そもそも、キリシタン布教活動をマカオからのポルトガル船貿易が様々な面で支えていたことは明らかであり、船が沈没し渡航が絶えるようなことになれば、イエズス会が財政的に多大な損失を抱え運営が困難になることが予測されるにもかかわらず、会が関係者に対し何の働きかけもしなかったとは考え難い。

ポルトガル船攻撃が最高権力者家康の意向に沿うものであったために、仮にこれを抑止するような動きを実際にはしていたにしても報告には記さなかったということなのだろうか。


2.
ところで、この報告の中の有馬晴信は「キリシタン大名」であるにもかかわらずポルトガル船攻撃に何のためらいもなく、左兵衛と軌を一にして戦闘に邁進したようである。私は過去の記事の中で、晴信は「キリシタン大名」だったのだからポルトガル船攻撃には消極的であったのではないかと書いたことがある。しかし、この報告書によれば、晴信自身が自ら積極的に攻撃をひきうけたようだ。。

徳川新体制の中での生き残りを図るばかりでなくあわよくば勢力を拡大しようとまでした晴信が、マカオ騒乱事件の恨みを根拠に最高権力者家康に迎合し、ポルトガル船攻撃を絶好の機会と捉えたとも考えられる。そうなると、結局最後には「岡本大八事件」で足をすくわれることになる晴信が哀れでもある。


3.
このポルトガル船焼打ち事件の発端はカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアと奉行長谷川左兵衛との間の取引上の争いであったという言われ方がされている。カピタンと奉行との取引上の争いとはどういうことなのか、この報告を読む前には想像が付かなかったが、今回報告の内容から私なりに筋道が読めてきたような気がする。

しかし、それは「取引上の争い」とは少しニュアンスが違うようである。そして、それはこの報告に悪の権化のように書かれている左兵衛の実像とも関係がある。

その点については、次回の記事で考えたい。


〈つづく〉






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# by GFauree | 2018-07-26 04:28 | ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件 | Comments(0)

1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打ちに関する報告書

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どうもよく分からない「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」と「岡本大八事件」


1609年6月から1610年1月にかけての「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」ほど日本のキリシタン教会に多大な打撃を与えた出来事はなかった、とよく言われる。その打撃の内容については、過去の記事「名前はよく出て来るけれど、なぜか顔の見えない『キリシタン大名』有馬晴信」(https://iwahanjiro.exblog.jp/21320097/)、「背教者クリストヴァン・フェレイラ [その5]」(https://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)に書いた。

その記事を書きながら気付いたことは、受けたとされる打撃の内容から、逆に平常時には見えにくいキリシタン教会の持っていた本質的な性格のようなものが透けて見えるということである。

「岡本大八事件」は「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」に端を発し1612年3月及び1613年1月の禁教令の契機となり、キリシタン教会を壊滅的な状況に追い込んだとされる事件である。この事件についても、2つの記事「何だか怪しい『岡本大八事件』」(https://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)、「『岡本大八事件』はどうも気になるので」(https://iwahanjiro.exblog.jp/23712614/)を書いた。

こうして、両事件に関して記事を書いてきて、各々の内容がはっきりイメ-ジできたかと言うとそんなことはなく、どちらもどうも本当の所がよく解からないという感じが残った。



ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件の概略


「岡本大八事件」については、真相が不明であるにも拘わらず単純な贈収賄事件として片付けられてきたのではないかということを記事に書いた。一方、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」は、概略次のように説明されている。

長崎奉行長谷川左兵衛とマカオから渡来した定航船のカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアとの間に取引に関する争いが生じた。そこに、前年に自分の朱印船がマカオに立ち寄った際起きた争乱により乗組員が殺害されたことに恨みを持つ「キリシタン大名」有馬晴信が絡んできた。晴信は家康の了承を得てポルトガル船を攻撃し、それがアンドレ・ペッソアもろとものダ・グラサ号自爆に繋がった。

とこう書いてくると、ダ・グラサ号事件も単純な焼打ち事件に見えるが、そうではない。第一、「キリシタン大名」がキリシタン布教活動の源泉であるポルトガル船を攻撃したのだから異常な事態である。加えて関係する話を読んでいると色々と複雑な経緯があるらしいのである。


オ-ルスタ-全員集合の事件


しかもその経緯には、その時期のキリシタン史上代表的な人物が続々登場する。まずは、マカオのカピタン・モ-ル、アンドレ・ペッソアである。カピタンといってもただの船長ではない。マカオの通商・軍事のみならず行政・司法までを司っていた知事と言うより総督といっても良いほどの大物なのである。

日本側は先ず長崎奉行長谷川左兵衛、そしてその上というか背後に自らポルトガル船貿易に手を染めていた家康と腹心本多正純が見え隠れする。次に、長崎代官村山等安、自身で朱印船を出していた「キリシタン」大名有馬晴信等々。さらに、こういう話題になると嫌でも出て来るのが、イエズス会の通辞ジョアン・ロドリゲスと司教ドン・ルイス・セルケイラ。

まるで往年のお正月映画のように(古いたとえで恐縮だが)オ-ルスタ-豪華総出演である。



歴史探索の楽しみのひとつは資料の入手


こうなるとやはり、先ず「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」についてその内容をしっかり固めなければ、と考えざるを得なかった。ところが、いざその段になって気付いたことは、有名なはずのその事件を詳しく説明した解説書が見当たらない事である。

が、そのうち「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」という論文が書かれて約40年前に発表されていたことを知った。ただ、高価な資料なのでいきなり飛び付くわけにも行かず2年ぐらい放っておいたがそれ以上は我慢できずついに最近入手した。

(なぜ、こんなことを縷々述べているかというと、歴史上の出来事の解説書というものは、いざとなると入手するのは意外に難しく、入手できると結構嬉しいものだということをお伝えしたかったからである。歴史探索にはそんな楽しみもあることを、私は自分でやってみて初めて知った。逆に、「そんなことはインタ-ネットで検索すれば直ぐ分るでしょ」なんて言われると、実にがっかりと言うか神経を逆なでされたような気がする。そんなことを言う人は、歴史上の出来事を本当に知りたいと思い、自分なりに調べてみようと思ったことがないに違いない。インタ-ネットの情報は目次のようなもので便利ではあるが、それ以上ではない。)



「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」の内容


「マ-ドレ・デ・デウス号」は「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号」の別名である。(以前はそう呼ばれていた。)イエズス会日本準管区長付秘書であったジョアン・ロドリゲス・ジランが作成した報告書が五野井隆史氏によって翻訳され、1976年刊行の「キリシタン研究」第十六輯(吉川弘文館)に収められていた。なお、ジョアン・ロドリゲス・ジランは通辞(通訳)ジョアン・ロドリゲスと同名であるが別人である。ありふれた名前なのだろう。

報告されている内容であるが、かなり詳しい。なぜこんなことまで分るのかというようなことまで書かれている。イエズス会がよほどの情報提供者を抱えていたということなのか、そうでなければ報告筆者の想像の産物である。よく言えば洞察力が駆使されたということになるが、悪く考えれば捏造である。


いつも通り都合の悪いことは書かれていない


逆に、あくまでイエズス会内部の報告であるから、日本イエズス会にとって都合の悪い事柄はいつも通りしっかり省かれているというか、伏せられている。例えば、活躍(暗躍?)したはずの通辞ジョアン・ロドリゲスの行動については、一切触れられていない。

彼は、当時イエズス会のプロクラド-ル(財務管理責任者)兼ポルトガル船貿易仕切り役及び家康との政治折衝役であったのだから、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号が渡来してから自爆するまでの過程で何らかの働きをしていたことは間違いない。


過去記事「キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その3]」(https://iwahanjiro.exblog.jp/23147187/)に記したことであるが、実際は、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号」船団の代表団長マテオ・レイタンが長崎来航の翌月駿府を訪れており、この時ロドリゲスは通辞として代表団一行を引率している。

一行は家康に謁見し、家康から「日本人のマカオ渡航を禁止する」命令(朱印状)を出す旨の約束を得ている。つまりロドリゲスはその朱印状を引き出すための裏工作に関与していたのである。そして、彼は事件の起こした混乱の責任を問われて2カ月後マカオに追放されている。


この報告書の内容をできるだけ活かすために


このように過剰と思われる部分と欠けている部分とがある報告ではあるが、限られた資料のひとつであることは確かである。書かれてあることを盲信せず、しかし軽視もせず出来るだけ活かして、実情はどうであったかを推測するにはどうすれば良いかを考えた。

そして、或る観点を軸に報告されている事柄を整理することを思い付いた。例えば、以下のような観点である。

1.“ごますり”左兵衛の言動について考える
2.結局、家康の真意はどこにあったのか
3.どのような環境のもとに、ポルトガルからオランダへの切り換えが行われたのか

次回から、以上の観点で報告を整理してみようと思う。


〈つづく〉










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# by GFauree | 2018-06-25 07:29 | ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件 | Comments(0)

インド副王使節の贈り物 [その2]

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                                          (写真撮影 三上信一氏) 







イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが、京都聚楽第においてインド副王使節として秀吉に謁見したのは、1591年3月3日のことである。そして、その約一年半後秀吉はフィリピン総督が派遣した使節一行と名護屋(現在の唐津市)で接見している。


このフィリピン総督の使節については、過去「ペル-からパナマ・マカオ経由日本へ行き、秀吉に会った男がいた?」[その1]という記事を書いたのでご参照頂きたい。(https://iwahanjiro.exblog.jp/20646027/

フィリピン総督の使節一行とは、ドミニコ会司祭フアン・コ-ボとその中国人従者アントニオ・ロペス、船長ロペ・デ・リャ-ノ、それとペル-を出てマカオ経由来日していたスペイン人商人フアン・デ・ソリスとその従者である日本人(と思われる)通訳ルイスである。

1591年、秀吉は服属を要求する書面をフィリピンへ送った。そこで、フィリピン総督が秀吉の真意を探るために送って来たのがフアン・コ-ボとロペ・デ・リャ-ノなのである。

ただ、このフィリピン総督使節による秀吉謁見の日付は不思議な事に明確にされていない。しかし、「日本巡察記」松田毅一(東洋文庫)の解題Ⅰに、「フアン・コ-ボが秀吉に謁見した後2週間ほど経た8月29日に寺沢志摩守広高を長崎奉行に任命し・・・」とあるので、ここではその日付は(1592年)8月15日頃だったとしておこう。



さて、この「インド副王使節」と「フィリピン総督使節」という二つの使節について気付くことは、相互に種々対立抗争の種を含んだものであったことである。。



1.隣国同士はどこでも仲が悪い


「インド副王使節」は前回述べたように、ポルトガル国のインド(ゴア)駐在の副王が派遣したものという意味であり、「フィリピン総督使節」はスペイン国のフィリピン(マニラ)総督が派遣したものという意味である。つまり、互いに異なる隣国の進出拠点から派遣されたものである。ただし、ポルトガルは1580年から60年間スペインによって実質上併合されていたのだから、同じ国同士のようなもので対立など無かったと考えがちである。ところが実際はその逆で両国民の間には近親憎悪的な強い緊張関係があったと考えた方が当たっている。実情はいずこも同じである。

ポルトガルの居留地であるマカオとスペインの植民地であるマニラの関係には、1580年の併合当時から一触即発の微妙なものがつきまとった。また、ペル-出身のスペイン人商人フアン・デ・ソリスがマカオにおいて船や銀を差し押さえられたうえ様々な面でポルトガル人たちの虐待を受けたことの背景には、ソリスの行動がスペイン領であるペル-の銀を直接ポルトガル領マカオに運ぶという王室勅令に違反するものであったこと以外に、両国民の対立感情があったと考えても間違いはないようである。



2.ポルトガル系のイエズス会とスペイン系の托鉢修道会(ドミニコ会など)との縄張り争い


フランシスコ・ザビエル渡航以来のイエズス会の布教実績に基き日本にはポルトガルの布教保護権が及ぶ旨、法的に定められていた。すなわち、1575年のローマ教皇大勅書によって、日本のキリシタン教会にポルトガル国王布教保護権が及ぶこと、従ってその保護者がポルトガル国王であることが決定されていた。ということは、カトリック教会およびその海外布教を支えていた国家においては、日本は潜在的にポルトガル領として認められていたのである。

前回[その1]の記事の中で、アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノがインド副王使節として派遣されることになった背景には、イエズス会上層部からポルトガルのインド副王に対し日本へ使節をおくるよう要請がなされていたことがあると書いたが、何故イエズス会がそのような要請をしたのか見当が付かなかった。


しかし、日本にポルトガル国王の布教保護権が及ぶ、つまりポルトガル国王(副王)が日本への布教責任の一端を担っているのだから、インド副王は布教推進を促すべく秀吉新政権に使節を送るべきだとイエズス会は考えたのだろうということに思い至った。また、当時の教俗一体の布教体制を当然のことのように考えていたヴァリニャ-ノは、国家権力の使い走りとして派遣されることに何の抵抗も感じないばかりか、むしろ自らの存在の権威付けの機会と考えたのだろう。


反面、この教皇勅書に裏付けされたポルトガル国王布教保護権はイエズス会以外のスペイン系(托鉢)修道会を日本への布教活動から排除するはたらきをしていた。従って、逆に托鉢修道会は様々な機会に日本への参入を狙う必要があった。そういう意味で、強硬な秀吉のフィリピン外交は、ドミニコ会にとって自らの主張を日本の最高権力者に直接訴えることのできる絶好の機会と成り得るものであった。使節を派遣したフィリピン総督が及び腰であったようであるのに比べ、ドミニコ会は千載一遇のチャンスと捉え喜々としてコーボ神父を送り出したことが想像される。



3.ペル-から来たスペイン人商人フアン・デ・ソリスは火付け役


フアン・デ・ソリスがどんな背景を抱えた人物であったかは、冒頭に挙げた記事を読んで頂きたいが、彼については、種々不明、不可解な点がある。

そもそも彼がアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノと同時に来日し、それにもかかわらずそれについて何の説明もないことが不自然である。ソリスは、マカオで船と金銭を差し押さえられたばかりでなく虐待までされているところをヴァリニャ-ノに救われたと言われているのである。なぜ、彼がヴァリニャ-ノに預けた金を返して貰おうと、ヴァリニャ-ノを追ってきたとか、そうではなく他の理由で来たとかが言われていないのだろうか。それが謎である。

それに、ソリスについて、目を引くことは「薩摩で建造していた船の航海士が変死し、船そのものも失った」という事件である。これを読んで、私は[その1]に書いたアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノにとって不都合な策謀を企てた準管区長ガスパル・コエリョの突然死を連想した。一方はポルトガル人商人の集団、他方はイエズス会が関係している。この時代においては、邪魔な存在を文字通り抹殺するということが今よりもはるかに身近な問題解決策であっただろうことを考えさせる。

ソリスは、ドミニコ会司祭フアン・コ-ボに随行し秀吉に謁見した際、秀吉に対し「ポルトガル人が他国(つまりスペイン)船の日本への渡航を妨害し、また金銭を奪った」と訴えた。そのため、秀吉は長崎の教会を全て破壊しその用材を名護屋に送るよう命令し実行させた。これについて、イエズス会のルイス・フロイスは「しかも、そうした物質的な損失の外、この教会と修道院の破壊は、種々の理由から、近年、しばしば生じた迫害のうちで、我らが今まで堪えて来た最大の精神的損失と悲哀であった。」と書いている(が、この“大迫害”について、いわゆる「日本史」の中ではあまり言及されることがないように感ずるが何故だろうか)。とにかく、フロイスはソリスのいわれのない誹謗中傷によって“大迫害”の苦しみを味わうことになったと嘆いてみせているのである。




このように明らかに対立する要素があったために、二つの使節の発言や報告や証言には互いの使節に対する様々な批判的主張が含まれていて、それがまた二つの修道会の間の対立抗争の実態を浮き彫りにしている。それは、まるで泥仕合である。


1.
フアン・デ・ソリスが秀吉謁見の場を利用して上記の訴えをしただけでなく、イエズス会にとって不利な事を秀吉に暴露するとまで公言したとルイス・フロイスは伝えている。イエズス会にとって不利な事とは、「インド副王使節」は虚構のものであったとか、追放令の後も宣教師を匿(かくま)っている大名の名前とかである。


2.
フアン・コ-ボも、秀吉謁見の席上、「『インド副王使節』が関白秀吉に対し贈り物を進呈したが、偉大な君主であり無数の国々を有するスペイン国王が何者かに服従するということはあり得ない。」と述べている。(「インド副王使節」の秀吉への贈り物は、スペイン国王が秀吉に服従すると誤解させるためのものだったとの解釈に基く、やや早とちりに感じられる見解ではあるが、「インド副王使節」の意図がコ-ボの言う通りではなかったとも言い切れない。)

フアン・コ-ボの従者アントニオ・ロペスは、「このフアン・コ-ボの発言によって、秀吉は『インド副王使節』に騙されたと怒り長崎の教会を破壊することを命じた」と、秀吉の怒りは、前述のフアン・デ・ソリスの訴えによるものではなく、「インド副王使節」の欺瞞性を知らされたことによるものだとする証言を後にフィリピンでしている。


3.
ルイス・フロイスは「日本史」の中で、「関白はルソンから使節が到着したと聞くと、それはかつてのインド副王使節と同様に盛大なものであろうと思っていたところ、後になって様子が違っていることを知ると、非常に不機嫌になった。」と記している。そして、さらにフアン・コ-ボについて、「この『お人好しの司祭』は経験と情報(の)不足から、自分が関白に向かってポルトガル人のことを悪く話したことを弁解し・・・。」と述べている。


この相手使節への非難の応酬を読んでいるうちに見えてきたことがある。それは、使節の秀吉謁見に関して、「贈り物」が非常に重要な要素だったらしいということである。コ-ボは「贈り物」を恭順の意思の表れと考えた。フロイスが、「秀吉はルソンの使節が盛大でなかったために非常に不機嫌になった」とうのは「贈り物」のことを言っているのではないか。さらに、コ-ボのことを「お人好しの司祭」と揶揄するような表現をしているのは、豪華な「贈り物」をする知恵がなかったと言いたいのではないか、と思われるのである。



ここで、改めて「贈り物」の金額について書かれている事柄を拾い上げてみよう。

フアン・ヒル著「イダルゴとサムライ」には次の記述がある。

1.ルソンの(フィリピン・ルソン島の、つまり「マニラの」という意味)官吏の会計帳簿の記録として

(1)コーボ神父が日本に持参するために、681ペソ7トミン3グラムの値がある金の鎖とこの値以上の現金がレアル貨で授与された。これを皇帝(秀吉)のところに向かう使節に持たせて総督は日本に送った。(これが、どのくらいの価値を持つものかが不明なため、これによって何を言いたいのかは不明であるが。)
(2)日本に向かったコ-ボ神父に200ペソを渡す。7月20日の項が明らかにするように、大麻購入のため。(気になる内容である。)

2.イエズス会系の証言(フランシスコ・デ・エロルデゥイ・デ・オニャ-テ)

アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは7千から1万ドゥカド相当の贈り物を贈ったために、秀吉に歓迎された。

7千から1万ドゥカドという金額がどのように算定されたものかは分からないが、この頃、つまり「バテレン追放令」が発布された直後の日本イエズス会の年間経費が1万ドゥカドと言われている。(高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」)。信者数が20万から30万人と推定される宗教団体の年間経費であるから、相当な金額である。

そこで、思い出すのがフアン・デ・ソリスがマカオで取り上げられヴァリニャ-ノに預けたまま返して貰えなかった金額が6千ドゥカドである。たしか、「インド副王使節」の秀吉への贈り物は殆どが貰い物だったはずである。貰い物なら原価はただである。7千から1マドゥカドという金額にはその貰い物の価値を算定した金額が含まれているのか、それとも貰い物はただとして、貰い物以外に7千から1万ドゥカド相当のものを贈ったというのか。まさか、ソリスから預かった金が秀吉に贈られたということはなかったのだろうか。



以前、「ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その5]」と題した記事(https://iwahanjiro.exblog.jp/21719190/)の中で、「ザビエルは日本へ渡航するに当たり、マラッカ長官から最良の胡椒5.7トンの贈与を受け、これを日本に持って来て売り経費に充てた可能性が高い」という話を書いた。貴金属並みであった当時の良質胡椒の価格と5.7トンという相当な量を考えると、胡椒を現金化して得た多額の金は一体何に使われたのかという疑問を 持ったからだ。鹿児島・島津貴久、平戸・松浦隆信、山口・大内義隆からの布教許可が存外円滑に得られたのは、この良質胡椒の効果ではなかったのか。

同様なことは、「インド副王使節」についても起きていたのではないだろうか。この類のことは、記録や報告には残りにくい。贈る方、贈られる方双方にとってこの類は明確にし難いことは明らかである。贈る方にとって、贈る以上は効き目があるものを贈りたい。贈られる方は現金に近いものであればある程、受け取ったことは公にしたくない。

この場合、いくら秀吉が珍しいもの好きであったにせよ、盛んに豪華であると言い羅列されている貰い物では、秀吉は本当には喜ばなかったのではないかと私には思えてならない。そんな珍品を高価なものであると言い募って、だから秀吉が喜んだと無理に強調しているところが、実に怪しい。


〈完〉



〈参考文献〉

Fernando Iwasaki Cauti著 [Extremo Oriente y el Peru en el sglo XVI](16世紀の極東とペル-)
「完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ」    (中公文庫) 第三二章
日本巡察記-ヴァリニャ-ノ 東洋文庫229  (平凡社)解題Ⅰ 第二次日本巡察
イダルゴとサムライ フアン・ヒル著      (法政大学出版局)第一章 剣と刀 五
キリシタンの世紀 高瀬弘一郎         (岩波書店)

                                               

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# by GFauree | 2018-05-29 01:59 | インド副王使節 | Comments(0)

インド副王使節の贈り物 [その1]

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                                          (写真撮影 三上信一氏) 







インド副王使節の聚楽第訪問


天正遣欧使節を企画したイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、少年たちと共に日本出発から8年後に帰国(ヴァリニャ-ノにとっては再入国であるが)する。入国の際、ヴァリニャ-ノは「インド副王使節」と名乗り、その後「インド副王使節」として少年たちを伴い京都聚楽第で秀吉に謁見する。

(「インド副王」というと、インド国王を補佐する立場の者を想像しがちだが、実際はポルトガル国王によって任命されたインド駐在のポルトガル人の最高級官僚である。) 

この「インド副王使節」一行の秀吉謁見については、その行列の様子、謁見の際の秀吉の態度、帰国した少年たちへの秀吉の言葉などが語られることが多いようだ。従来は、ヴァリニャ-ノにとって必要不可欠な行動だったであろうことを思うだけで、特に違和感を感ずることはなかったのだが、改めて見直してみると色々気になる点が浮かんできた。



そこで今回は先ず、天正遣欧使節の帰国から「インド副王使節」の秀吉謁見に至る経緯を整理してみることにした。




終始少年たちと行動を共にしたわけではなかったヴァリニャ-ノ

1582年1月末
アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、後に天正遣欧使節と呼ばれることになる少年たちの一団を率いて、長崎を出航した。しかし、ヴァリニャ-ノはこの使節の旅の全行程を引率したわけではない。往路、1583年3月に一行がインドのゴアに到着すると、ヴァリニャ-ノは同地に留まり、少年使節たちは同じイエズス会の司祭ヌ-ノ・ロドリゲスに引率されゴアを出発して行った。ヴァリニャ-ノには、管区長としてインドに留まるよう会の指令が出されていたからである。



使節一行は帰路インドでヴァリニャ-ノと合流し、さらにマカオで2年間を過ごす

1587年4月、日本への帰路にあった使節一行はインド・ゴアに到着し、ヴァリニャ-ノと再会する。一行がゴアからマラッカ経由マカオに到着したのは、1588年6月の事である。そして、彼らがマカオを発ったのは1590年6月であるから、2年間マカオに滞在していたことになる。何故それ程の期間をマカオで過ごさねばならなかったのか。それは、彼らのマカオ到着の約1年前、1587年7月に秀吉によって「バテレン追放令」が発布されていたからである。


そのため、ヴァリニャ-ノは「バテレン追放令」が発布された後の動向を伺って月日を過ごし、また中国のジャンクに託して日本在住のイエズス会士に書簡を送り、秀吉がインド副王使節一行としてであれば入国を認めるか否かを打診しなければならなかった。秀吉の入国許可がマカオに届いたのは1589年10~11月ごろである。風力頼みの帆船の時代である。マカオを発って日本へ向かうには、約半年間南風が吹く時期を待つ必要があったのである。



秀吉謁見を果たすには更に8カ月を要した

ヴァリニャ-ノとしては、「バテレン追放令」によって壊滅状態に陥ったキリシタン教会を建て直し、あわよくば更に教勢を回復・拡大させたいとの考えがあっただろうから、早期に秀吉への謁見を果たすべく種々の工作を企てたことは想像に難くない。しかし、京都 聚楽第での秀吉謁見が実現したのは1591年3月、長崎到着から8カ月後のことである。



秀吉謁見の行われ方

一行のメンバ-は、インド副王使節としてアレッサンドロ・バリニャ-ノ、彼以外には神父と修道士が二人ずつ、そしてヨーロッパ帰りの4人の少年使節である。この時、日本語に堪能な通訳・記録・報告係として既に実績のあったルイス・フロイスはメンバ-から外されている。

フロイスは、ヴァリニャ-ノが来日する前に画策された日本イエズス会の武装計画を準管区長ガスパル・コエリョと共に積極的に押し進めたことが知られており、用心深いヴァリニャ-ノがフロイスをこの場のメンバ-に加えることは考えられない。

というのは、ヴァリニャ-ノはコエリョ及びフロイスが中心となって進めようとした武装計画に従って軍事的支援を要請する目的でヨ-ロッパへ向かおうとしていたベルチョ-ル・デ・モ-ラ神父とマカオで会い、その策動を辛くも抑えたという事情があったのである。

フロイスに代わって通訳として登用されたのが、ジョアン・ロドリゲスである。彼は、後に通辞ロドリゲスと自ら名乗り、秀吉・家康という二代にわたる最高権力者の外交顧問と目され、イエズス会と政治権力との折衝に力をふるうことになる人物である。


準管区長コエリョの急死

なお、武装計画の首謀者準管区長コエリョはヴァリニャ-ノが来日する前に急死したとされているが、その死因は不明である。(これは、何を意味するのだろうか?)




「インド副王使節」に関する疑問


1.ヴァリニャ-ノが「インド副王使節」として日本へ再入国することをインド・ゴアで決めた、というのは本当か


松田毅一によれば、ヴァリニャ-ノが「インド副王使節」として日本へ再入国することを決めたのは、帰国途上の少年使節たちとインド・ゴアで合流した時点であるということである。その根拠として、秀吉に対しインド副王使節を送るよう、既にイエズス会上層部からインド副王に要請がなされていたということが挙げられている。だから、インド副王の秀吉宛ての書状は、使節一行がゴアに到着する前に用意されていたというのである。

私は、ヴァリニャ-ノが「インド副王使節」としての日本再入国を決めたのは、マカオ到着後に秀吉の「バテレン追放令」発布を知り、帰国する少年使節たちと自らの安全を確保するためであったと考えたが、そういうことではなかったらしい。

しかし、日本到着から8カ月後京都聚楽第訪問にあたってのヴァリニャ-ノの狙いは、首尾よく入国を果たした以上単にインド副王の使節として秀吉に表敬するだけではなく、「バテレン追放令」によって壊滅状態に瀕している教会勢力の早期回復の契機とすることであったことも間違いないだろう。



2.「インド副王使節」の秀吉への贈り物は、ヨ-ロッパからの土産とインド副王が用意しとと言われるものだけだったのか



秀吉との会見を果たしたインド副王使節一行は、様々な贈り物をしたことが知られている。アラビア馬とか野営の天幕、北イタリアでマントバ公から贈られた金飾りのついた白く光る甲冑、珍しい太刀、銃砲、油絵の掛布などである。贈り物は全て、少年使節たちがヨ-ロッパで贈られ持ち帰った品々と、インド副王デゥアルテ・デ・メ-ゼスが用意したものであると伝えられている。秀吉への贈り物のための新たな金銭的負担はなかったということが、やけに強調されているように見える。そして、珍品であるとは言え、貰い物ばかりである。

3年前の「バテレン追放令」は中央政権による初の布教に対する公的な規制である。この秀吉謁見はそんな窮状に在った教会勢力を立ち直らせる絶好の機会となり得るはずある。このような機会に、そんなガラクタにも見られかねない貰い物ばかりの贈り物をしたというのは本当なのだろうか。案の定、贈り物はそれだけではなかったという話も一部にはある。

その贈り物について、また「インド副王使節」の真偽についても語られていることがあるので、それらについて次回書いてみようと思う。



〈つづく〉


[参考文献]
天正遣欧使節 松田毅一 講談社学術文庫


                                           

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# by GFauree | 2018-05-14 01:26 | インド副王使節 | Comments(0)