【大航海時代のおと】

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1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打ちに関する報告書

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どうもよく分からない「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」と「岡本大八事件」


1609年6月から1610年1月にかけての「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」ほど日本のキリシタン教会に多大な打撃を与えた出来事はなかった、とよく言われる。その打撃の内容については、過去の記事「名前はよく出て来るけれど、なぜか顔の見えない『キリシタン大名』有馬晴信」(https://iwahanjiro.exblog.jp/21320097/)、「背教者クリストヴァン・フェレイラ [その5]」(https://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)に書いた。

その記事を書きながら気付いたことは、受けたとされる打撃の内容から、逆に平常時には見えにくいキリシタン教会の持っていた本質的な性格のようなものが透けて見えるということである。

「岡本大八事件」は「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」に端を発し1612年3月及び1613年1月の禁教令の契機となり、キリシタン教会を壊滅的な状況に追い込んだとされる事件である。この事件についても、2つの記事「何だか怪しい『岡本大八事件』」(https://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)、「『岡本大八事件』はどうも気になるので」(https://iwahanjiro.exblog.jp/23712614/)を書いた。

こうして、両事件に関して記事を書いてきて、各々の内容がはっきりイメ-ジできたかと言うとそんなことはなく、どちらもどうも本当の所がよく解からないという感じが残った。



ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件の概略


「岡本大八事件」については、真相が不明であるにも拘わらず単純な贈収賄事件として片付けられてきたのではないかということを記事に書いた。一方、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」は、概略次のように説明されている。

長崎奉行長谷川左兵衛とマカオから渡来した定航船のカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアとの間に取引に関する争いが生じた。そこに、前年に自分の朱印船がマカオに立ち寄った際起きた争乱により乗組員が殺害されたことに恨みを持つ「キリシタン大名」有馬晴信が絡んできた。晴信は家康の了承を得てポルトガル船を攻撃し、それがアンドレ・ペッソアもろとものダ・グラサ号自爆に繋がった。

とこう書いてくると、ダ・グラサ号事件も単純な焼打ち事件に見えるが、そうではない。第一、「キリシタン大名」がキリシタン布教活動の源泉であるポルトガル船を攻撃したのだから異常な事態である。加えて関係する話を読んでいると色々と複雑な経緯があるらしいのである。


オ-ルスタ-全員集合の事件


しかもその経緯には、その時期のキリシタン史上代表的な人物が続々登場する。まずは、マカオのカピタン・モ-ル、アンドレ・ペッソアである。カピタンといってもただの船長ではない。マカオの通商・軍事のみならず行政・司法までを司っていた知事と言うより総督といっても良いほどの大物なのである。

日本側は先ず長崎奉行長谷川左兵衛、そしてその上というか背後に自らポルトガル船貿易に手を染めていた家康と腹心本多正純が見え隠れする。次に、長崎代官村山村山等安、自身で朱印船を出していた「キリシタン」大名有馬晴信等々。さらに、こういう話題になると嫌でも出て来るのが、イエズス会の通辞ジョアン・ロドリゲスと司教ドン・ルイス・セルケイラ。

まるで往年のお正月映画のように(古いたとえで恐縮だが)オ-ルスタ-豪華総出演である。



歴史探索の楽しみのひとつは資料の入手


こうなるとやはり、先ず「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」についてその内容をしっかり固めなければ、と考えざるを得なかった。ところが、いざその段になって気付いたことは、有名なはずのその事件を詳しく説明した解説書が見当たらない事である。

が、そのうち「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」という論文が書かれて約40年前に発表されていたことを知った。ただ、高価な資料なのでいきなり飛び付くわけにも行かず2年ぐらい放っておいたがそれ以上は我慢できずついに最近入手した。

(なぜ、こんなことを縷々述べているかというと、歴史上の出来事の解説書というものは、いざとなると入手するのは意外に難しく、入手できると結構嬉しいものだということをお伝えしたかったからである。歴史探索にはそんな楽しみもあることを、私は自分でやってみて初めて知った。逆に、「そんなことはインタ-ネットで検索すれば直ぐ分るでしょ」なんて言われると、実にがっかりと言うか神経を逆なでされたような気がする。そんなことを言う人は、歴史上の出来事を本当に知りたいと思い、自分なりに調べてみようと思ったことがないに違いない。インタ-ネットの情報は目次のようなもので便利ではあるが、それ以上ではない。)



「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」の内容


「マ-ドレ・デ・デウス号」は「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号」の別名である。(以前はそう呼ばれていた。)イエズス会日本準管区長付秘書であったジョアン・ロドリゲス・ジランが作成した報告書が五野井隆史氏によって翻訳され、1976年刊行の「キリシタン研究」第十六輯(吉川弘文館)に収められていた。なお、ジョアン・ロドリゲス・ジランは通辞(通訳)ジョアン・ロドリゲスと同名であるが別人である。ありふれた名前なのだろう。

報告されている内容であるが、かなり詳しい。なぜこんなことまで分るのかというようなことまで書かれている。イエズス会がよほどの情報提供者を抱えていたということなのか、そうでなければ報告筆者の想像の産物である。よく言えば洞察力が駆使されたということになるが、悪く考えれば捏造である。


いつも通り都合の悪いことは書かれていない


逆に、あくまでイエズス会内部の報告であるから、日本イエズス会にとって都合の悪い事柄はいつも通りしっかり省かれているというか、伏せられている。例えば、活躍(暗躍?)したはずの通辞ジョアン・ロドリゲスの行動については、一切触れられていない。

彼は、当時イエズス会のプロクラド-ル(財務管理責任者)兼ポルトガル船貿易仕切り役及び家康との政治折衝役であったのだから、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号が渡来してから自爆するまでの過程で何らかの働きをしていたことは間違いない。


過去記事「キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その3]」(https://iwahanjiro.exblog.jp/23147187/)に記したことであるが、実際は、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号」船団の代表団長マテオ・レイタンが長崎来航の翌月駿府を訪れており、この時ロドリゲスは通辞として代表団一行を引率している。

一行は家康に謁見し、家康から「日本人のマカオ渡航を禁止する」命令(朱印状)を出す旨の約束を得ている。つまりロドリゲスはその朱印状を引き出すための裏工作に関与していたのである。そして、彼は事件の起こした混乱の責任を問われて2カ月後マカオに追放されている。


この報告書の内容をできるだけ活かすために


このように過剰と思われる部分と欠けている部分とがある報告ではあるが、限られた資料のひとつであることは確かである。書かれてあることを盲信せず、しかし軽視もせず出来るだけ活かして、実情はどうであったかを推測するにはどうすれば良いかを考えた。

そして、或る観点を軸に報告されている事柄を整理することを思い付いた。例えば、以下のような観点である。

1.“ごますり”左兵衛の言動について考える
2.結局、家康の真意はどこにあったのか
3.どのような環境のもとに、ポルトガルからオランダへの切り換えが行われたのか

次回から、以上の観点で報告を整理してみようと思う。


〈つづく〉










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# by GFauree | 2018-06-25 07:29 | ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件 | Comments(0)

インド副王使節の贈り物 [その2]

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                                          (写真撮影 三上信一氏) 







イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが、京都聚楽第においてインド副王使節として秀吉に謁見したのは、1591年3月3日のことである。そして、その約一年半後秀吉はフィリピン総督が派遣した使節一行と名護屋(現在の唐津市)で接見している。


このフィリピン総督の使節については、過去「ペル-からパナマ・マカオ経由日本へ行き、秀吉に会った男がいた?」[その1]という記事を書いたのでご参照頂きたい。(https://iwahanjiro.exblog.jp/20646027/

フィリピン総督の使節一行とは、ドミニコ会司祭フアン・コ-ボとその中国人従者アントニオ・ロペス、船長ロペ・デ・リャ-ノ、それとペル-を出てマカオ経由来日していたスペイン人商人フアン・デ・ソリスとその従者である日本人(と思われる)通訳ルイスである。

1591年、秀吉は服属を要求する書面をフィリピンへ送った。そこで、フィリピン総督が秀吉の真意を探るために送って来たのがフアン・コ-ボとロペ・デ・リャ-ノなのである。

ただ、このフィリピン総督使節による秀吉謁見の日付は不思議な事に明確にされていない。しかし、「日本巡察記」松田毅一(東洋文庫)の解題Ⅰに、「フアン・コ-ボが秀吉に謁見した後2週間ほど経た8月29日に寺沢志摩守広高を長崎奉行に任命し・・・」とあるので、ここではその日付は(1592年)8月15日頃だったとしておこう。



さて、この「インド副王使節」と「フィリピン総督使節」という二つの使節について気付くことは、相互に種々対立抗争の種を含んだものであったことである。。



1.隣国同士はどこでも仲が悪い


「インド副王使節」は前回述べたように、ポルトガル国のインド(ゴア)駐在の副王が派遣したものという意味であり、「フィリピン総督使節」はスペイン国のフィリピン(マニラ)総督が派遣したものという意味である。つまり、互いに異なる隣国の進出拠点から派遣されたものである。ただし、ポルトガルは1580年から60年間スペインによって実質上併合されていたのだから、同じ国同士のようなもので対立など無かったと考えがちである。ところが実際はその逆で両国民の間には近親憎悪的な強い緊張関係があったと考えた方が当たっている。実情はいずこも同じである。

ポルトガルの居留地であるマカオとスペインの植民地であるマニラの関係には、1580年の併合当時から一触即発の微妙なものがつきまとった。また、ペル-出身のスペイン人商人フアン・デ・ソリスがマカオにおいて船や銀を差し押さえられたうえ様々な面でポルトガル人たちの虐待を受けたことの背景には、ソリスの行動がスペイン領であるペル-の銀を直接ポルトガル領マカオに運ぶという王室勅令に違反するものであったこと以外に、両国民の対立感情があったと考えても間違いはないようである。



2.ポルトガル系のイエズス会とスペイン系の托鉢修道会(ドミニコ会など)との縄張り争い


フランシスコ・ザビエル渡航以来のイエズス会の布教実績に基き日本にはポルトガルの布教保護権が及ぶ旨、法的に定められていた。すなわち、1575年のローマ教皇大勅書によって、日本のキリシタン教会にポルトガル国王布教保護権が及ぶこと、従ってその保護者がポルトガル国王であることが決定されていた。ということは、カトリック教会およびその海外布教を支えていた国家においては、日本は潜在的にポルトガル領として認められていたのである。

前回[その1]の記事の中で、アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノがインド副王使節として派遣されることになった背景には、イエズス会上層部からポルトガルのインド副王に対し日本へ使節をおくるよう要請がなされていたことがあると書いたが、何故イエズス会がそのような要請をしたのか見当が付かなかった。


しかし、日本にポルトガル国王の布教保護権が及ぶ、つまりポルトガル国王(副王)が日本への布教責任の一端を担っているのだから、インド副王は布教推進を促すべく秀吉新政権に使節を送るべきだとイエズス会は考えたのだろうということに思い至った。また、当時の教俗一体の布教体制を当然のことのように考えていたヴァリニャ-ノは、国家権力の使い走りとして派遣されることに何の抵抗も感じないばかりか、むしろ自らの存在の権威付けの機会と考えたのだろう。


反面、この教皇勅書に裏付けされたポルトガル国王布教保護権はイエズス会以外のスペイン系(托鉢)修道会を日本への布教活動から排除するはたらきをしていた。従って、逆に托鉢修道会は様々な機会に日本への参入を狙う必要があった。そういう意味で、強硬な秀吉のフィリピン外交は、ドミニコ会にとって自らの主張を日本の最高権力者に直接訴えることのできる絶好の機会と成り得るものであった。使節を派遣したフィリピン総督が及び腰であったようであるのに比べ、ドミニコ会は千載一遇のチャンスと捉え喜々としてコーボ神父を送り出したことが想像される。



3.ペル-から来たスペイン人商人フアン・デ・ソリスは火付け役


フアン・デ・ソリスがどんな背景を抱えた人物であったかは、冒頭に挙げた記事を読んで頂きたいが、彼については、種々不明、不可解な点がある。

そもそも彼がアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノと同時に来日し、それにもかかわらずそれについて何の説明もないことが不自然である。ソリスは、マカオで船と金銭を差し押さえられたばかりでなく虐待までされているところをヴァリニャ-ノに救われたと言われているのである。なぜ、彼がヴァリニャ-ノに預けた金を返して貰おうと、ヴァリニャ-ノを追ってきたとか、そうではなく他の理由で来たとかが言われていないのだろうか。それが謎である。

それに、ソリスについて、目を引くことは「薩摩で建造していた船の航海士が変死し、船そのものも失った」という事件である。これを読んで、私は[その1]に書いたアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノにとって不都合な策謀を企てた準管区長ガスパル・コエリョの突然死を連想した。一方はポルトガル人商人の集団、他方はイエズス会が関係している。この時代においては、邪魔な存在を文字通り抹殺するということが今よりもはるかに身近な問題解決策であっただろうことを考えさせる。

ソリスは、ドミニコ会司祭フアン・コ-ボに随行し秀吉に謁見した際、秀吉に対し「ポルトガル人が他国(つまりスペイン)船の日本への渡航を妨害し、また金銭を奪った」と訴えた。そのため、秀吉は長崎の教会を全て破壊しその用材を名護屋に送るよう命令し実行させた。これについて、イエズス会のルイス・フロイスは「しかも、そうした物質的な損失の外、この教会と修道院の破壊は、種々の理由から、近年、しばしば生じた迫害のうちで、我らが今まで堪えて来た最大の精神的損失と悲哀であった。」と書いている(が、この“大迫害”について、いわゆる「日本史」の中ではあまり言及されることがないように感ずるが何故だろうか)。とにかく、フロイスはソリスのいわれのない誹謗中傷によって“大迫害”の苦しみを味わうことになったと嘆いてみせているのである。




このように明らかに対立する要素があったために、二つの使節の発言や報告や証言には互いの使節に対する様々な批判的主張が含まれていて、それがまた二つの修道会の間の対立抗争の実態を浮き彫りにしている。それは、まるで泥仕合である。


1.
フアン・デ・ソリスが秀吉謁見の場を利用して上記の訴えをしただけでなく、イエズス会にとって不利な事を秀吉に暴露するとまで公言したとルイス・フロイスは伝えている。イエズス会にとって不利な事とは、「インド副王使節」は虚構のものであったとか、追放令の後も宣教師を匿(かくま)っている大名の名前とかである。


2.
フアン・コ-ボも、秀吉謁見の席上、「『インド副王使節』が関白秀吉に対し贈り物を進呈したが、偉大な君主であり無数の国々を有するスペイン国王が何者かに服従するということはあり得ない。」と述べている。(「インド副王使節」の秀吉への贈り物は、スペイン国王が秀吉に服従すると誤解させるためのものだったとの解釈に基く、やや早とちりに感じられる見解ではあるが、「インド副王使節」の意図がコ-ボの言う通りではなかったとも言い切れない。)

フアン・コ-ボの従者アントニオ・ロペスは、「このフアン・コ-ボの発言によって、秀吉は『インド副王使節』に騙されたと怒り長崎の教会を破壊することを命じた」と、秀吉の怒りは、前述のフアン・デ・ソリスの訴えによるものではなく、「インド副王使節」の欺瞞性を知らされたことによるものだとする証言を後にフィリピンでしている。


3.
ルイス・フロイスは「日本史」の中で、「関白はルソンから使節が到着したと聞くと、それはかつてのインド副王使節と同様に盛大なものであろうと思っていたところ、後になって様子が違っていることを知ると、非常に不機嫌になった。」と記している。そして、さらにフアン・コ-ボについて、「この『お人好しの司祭』は経験と情報(の)不足から、自分が関白に向かってポルトガル人のことを悪く話したことを弁解し・・・。」と述べている。


この相手使節への非難の応酬を読んでいるうちに見えてきたことがある。それは、使節の秀吉謁見に関して、「贈り物」が非常に重要な要素だったらしいということである。コ-ボは「贈り物」を恭順の意思の表れと考えた。フロイスが、「秀吉はルソンの使節が盛大でなかったために非常に不機嫌になった」とうのは「贈り物」のことを言っているのではないか。さらに、コ-ボのことを「お人好しの司祭」と揶揄するような表現をしているのは、豪華な「贈り物」をする知恵がなかったと言いたいのではないか、と思われるのである。



ここで、改めて「贈り物」の金額について書かれている事柄を拾い上げてみよう。

フアン・ヒル著「イダルゴとサムライ」には次の記述がある。

1.ルソンの(フィリピン・ルソン島の、つまり「マニラの」という意味)官吏の会計帳簿の記録として

(1)コーボ神父が日本に持参するために、681ペソ7トミン3グラムの値がある金の鎖とこの値以上の現金がレアル貨で授与された。これを皇帝(秀吉)のところに向かう使節に持たせて総督は日本に送った。(これが、どのくらいの価値を持つものかが不明なため、これによって何を言いたいのかは不明であるが。)
(2)日本に向かったコ-ボ神父に200ペソを渡す。7月20日の項が明らかにするように、大麻購入のため。(気になる内容である。)

2.イエズス会系の証言(フランシスコ・デ・エロルデゥイ・デ・オニャ-テ)

アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは7千から1万ドゥカド相当の贈り物を贈ったために、秀吉に歓迎された。

7千から1万ドゥカドという金額がどのように算定されたものかは分からないが、この頃、つまり「バテレン追放令」が発布された直後の日本イエズス会の年間経費が1万ドゥカドと言われている。(高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」)。信者数が20万から30万人と推定される宗教団体の年間経費であるから、相当な金額である。

そこで、思い出すのがフアン・デ・ソリスがマカオで取り上げられヴァリニャ-ノに預けたまま返して貰えなかった金額が6千ドゥカドである。たしか、「インド副王使節」の秀吉への贈り物は殆どが貰い物だったはずである。貰い物なら原価はただである。7千から1マドゥカドという金額にはその貰い物の価値を算定した金額が含まれているのか、それとも貰い物はただとして、貰い物以外に7千から1万ドゥカド相当のものを贈ったというのか。まさか、ソリスから預かった金が秀吉に贈られたということはなかったのだろうか。



以前、「ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その5]」と題した記事(https://iwahanjiro.exblog.jp/21719190/)の中で、「ザビエルは日本へ渡航するに当たり、マラッカ長官から最良の胡椒5.7トンの贈与を受け、これを日本に持って来て売り経費に充てた可能性が高い」という話を書いた。貴金属並みであった当時の良質胡椒の価格と5.7トンという相当な量を考えると、胡椒を現金化して得た多額の金は一体何に使われたのかという疑問を 持ったからだ。鹿児島・島津貴久、平戸・松浦隆信、山口・大内義隆からの布教許可が存外円滑に得られたのは、この良質胡椒の効果ではなかったのか。

同様なことは、「インド副王使節」についても起きていたのではないだろうか。この類のことは、記録や報告には残りにくい。贈る方、贈られる方双方にとってこの類は明確にし難いことは明らかである。贈る方にとって、贈る以上は効き目があるものを贈りたい。贈られる方は現金に近いものであればある程、受け取ったことは公にしたくない。

この場合、いくら秀吉が珍しいもの好きであったにせよ、盛んに豪華であると言い羅列されている貰い物では、秀吉は本当には喜ばなかったのではないかと私には思えてならない。そんな珍品を高価なものであると言い募って、だから秀吉が喜んだと無理に強調しているところが、実に怪しい。


〈完〉



〈参考文献〉

Fernando Iwasaki Cauti著 [Extremo Oriente y el Peru en el sglo XVI](16世紀の極東とペル-)
「完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ」    (中公文庫) 第三二章
日本巡察記-ヴァリニャ-ノ 東洋文庫229  (平凡社)解題Ⅰ 第二次日本巡察
イダルゴとサムライ フアン・ヒル著      (法政大学出版局)第一章 剣と刀 五
キリシタンの世紀 高瀬弘一郎         (岩波書店)

                                               

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# by GFauree | 2018-05-29 01:59 | インド副王使節 | Comments(0)

インド副王使節の贈り物 [その1]

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                                          (写真撮影 三上信一氏) 







インド副王使節の聚楽第訪問


天正遣欧使節を企画したイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、少年たちと共に日本出発から8年後に帰国(ヴァリニャ-ノにとっては再入国であるが)する。入国の際、ヴァリニャ-ノは「インド副王使節」と名乗り、その後「インド副王使節」として少年たちを伴い京都聚楽第で秀吉に謁見する。

(「インド副王」というと、インド国王を補佐する立場の者を想像しがちだが、実際はポルトガル国王によって任命されたインド駐在のポルトガル人の最高級官僚である。) 

この「インド副王使節」一行の秀吉謁見については、その行列の様子、謁見の際の秀吉の態度、帰国した少年たちへの秀吉の言葉などが語られることが多いようだ。従来は、ヴァリニャ-ノにとって必要不可欠な行動だったであろうことを思うだけで、特に違和感を感ずることはなかったのだが、改めて見直してみると色々気になる点が浮かんできた。



そこで今回は先ず、天正遣欧使節の帰国から「インド副王使節」の秀吉謁見に至る経緯を整理してみることにした。




終始少年たちと行動を共にしたわけではなかったヴァリニャ-ノ

1582年1月末
アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、後に天正遣欧使節と呼ばれることになる少年たちの一団を率いて、長崎を出航した。しかし、ヴァリニャ-ノはこの使節の旅の全行程を引率したわけではない。往路、1583年3月に一行がインドのゴアに到着すると、ヴァリニャ-ノは同地に留まり、少年使節たちは同じイエズス会の司祭ヌ-ノ・ロドリゲスに引率されゴアを出発して行った。ヴァリニャ-ノには、管区長としてインドに留まるよう会の指令が出されていたからである。



使節一行は帰路インドでヴァリニャ-ノと合流し、さらにマカオで2年間を過ごす

1587年4月、日本への帰路にあった使節一行はインド・ゴアに到着し、ヴァリニャ-ノと再会する。一行がゴアからマラッカ経由マカオに到着したのは、1588年6月の事である。そして、彼らがマカオを発ったのは1590年6月であるから、2年間マカオに滞在していたことになる。何故それ程の期間をマカオで過ごさねばならなかったのか。それは、彼らのマカオ到着の約1年前、1587年7月に秀吉によって「バテレン追放令」が発布されていたからである。


そのため、ヴァリニャ-ノは「バテレン追放令」が発布された後の動向を伺って月日を過ごし、また中国のジャンクに託して日本在住のイエズス会士に書簡を送り、秀吉がインド副王使節一行としてであれば入国を認めるか否かを打診しなければならなかった。秀吉の入国許可がマカオに届いたのは1589年10~11月ごろである。風力頼みの帆船の時代である。マカオを発って日本へ向かうには、約半年間南風が吹く時期を待つ必要があったのである。



秀吉謁見を果たすには更に8カ月を要した

ヴァリニャ-ノとしては、「バテレン追放令」によって壊滅状態に陥ったキリシタン教会を建て直し、あわよくば更に教勢を回復・拡大させたいとの考えがあっただろうから、早期に秀吉への謁見を果たすべく種々の工作を企てたことは想像に難くない。しかし、京都 聚楽第での秀吉謁見が実現したのは1591年3月、長崎到着から8カ月後のことである。



秀吉謁見の行われ方

一行のメンバ-は、インド副王使節としてアレッサンドロ・バリニャ-ノ、彼以外には神父と修道士が二人ずつ、そしてヨーロッパ帰りの4人の少年使節である。この時、日本語に堪能な通訳・記録・報告係として既に実績のあったルイス・フロイスはメンバ-から外されている。

フロイスは、ヴァリニャ-ノが来日する前に画策された日本イエズス会の武装計画を準管区長ガスパル・コエリョと共に積極的に押し進めたことが知られており、用心深いヴァリニャ-ノがフロイスをこの場のメンバ-に加えることは考えられない。

というのは、ヴァリニャ-ノはコエリョ及びフロイスが中心となって進めようとした武装計画に従って軍事的支援を要請する目的でヨ-ロッパへ向かおうとしていたベルチョ-ル・デ・モ-ラ神父とマカオで会い、その策動を辛くも抑えたという事情があったのである。

フロイスに代わって通訳として登用されたのが、ジョアン・ロドリゲスである。彼は、後に通辞ロドリゲスと自ら名乗り、秀吉・家康という二代にわたる最高権力者の外交顧問と目され、イエズス会と政治権力との折衝に力をふるうことになる人物である。


準管区長コエリョの急死

なお、武装計画の首謀者準管区長コエリョはヴァリニャ-ノが来日する前に急死したとされているが、その死因は不明である。(これは、何を意味するのだろうか?)




「インド副王使節」に関する疑問


1.ヴァリニャ-ノが「インド副王使節」として日本へ再入国することをインド・ゴアで決めた、というのは本当か


松田毅一によれば、ヴァリニャ-ノが「インド副王使節」として日本へ再入国することを決めたのは、帰国途上の少年使節たちとインド・ゴアで合流した時点であるということである。その根拠として、秀吉に対しインド副王使節を送るよう、既にイエズス会上層部からインド副王に要請がなされていたということが挙げられている。だから、インド副王の秀吉宛ての書状は、使節一行がゴアに到着する前に用意されていたというのである。

私は、ヴァリニャ-ノが「インド副王使節」としての日本再入国を決めたのは、マカオ到着後に秀吉の「バテレン追放令」発布を知り、帰国する少年使節たちと自らの安全を確保するためであったと考えたが、そういうことではなかったらしい。

しかし、日本到着から8カ月後京都聚楽第訪問にあたってのヴァリニャ-ノの狙いは、首尾よく入国を果たした以上単にインド副王の使節として秀吉に表敬するだけではなく、「バテレン追放令」によって壊滅状態に瀕している教会勢力の早期回復の契機とすることであったことも間違いないだろう。



2.「インド副王使節」の秀吉への贈り物は、ヨ-ロッパからの土産とインド副王が用意しとと言われるものだけだったのか



秀吉との会見を果たしたインド副王使節一行は、様々な贈り物をしたことが知られている。アラビア馬とか野営の天幕、北イタリアでマントバ公から贈られた金飾りのついた白く光る甲冑、珍しい太刀、銃砲、油絵の掛布などである。贈り物は全て、少年使節たちがヨ-ロッパで贈られ持ち帰った品々と、インド副王デゥアルテ・デ・メ-ゼスが用意したものであると伝えられている。秀吉への贈り物のための新たな金銭的負担はなかったということが、やけに強調されているように見える。そして、珍品であるとは言え、貰い物ばかりである。

3年前の「バテレン追放令」は中央政権による初の布教に対する公的な規制である。この秀吉謁見はそんな窮状に在った教会勢力を立ち直らせる絶好の機会となり得るはずある。このような機会に、そんなガラクタにも見られかねない貰い物ばかりの贈り物をしたというのは本当なのだろうか。案の定、贈り物はそれだけではなかったという話も一部にはある。

その贈り物について、また「インド副王使節」の真偽についても語られていることがあるので、それらについて次回書いてみようと思う。



〈つづく〉


[参考文献]
天正遣欧使節 松田毅一 講談社学術文庫


                                           

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# by GFauree | 2018-05-14 01:26 | インド副王使節 | Comments(0)

「忍ぶ川」と「少年賛歌」

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「忍ぶ川」についての思い出



「忍ぶ川」は、昭和35年(1960年)下期の芥川賞を受賞した三浦哲郎の作品である。私はそのとき小学校6年生だったがかなり世間の話題になっていた(と思う)。

その約10年後、どんなきっかけだったか覚えていないが、まだ学生だった私は「忍ぶ川」を読んだ。そして、その頃家庭教師をしていた家に、その文庫本を置き忘れたことがあった。次に行ったとき、教えていた子の母親がそれを私に返しながら、「三浦さんは、こんな小説を書いていたのね。」というようなことを言った。

私は、そんな感想が意外だったこともあるが、何と受け答えして良いか分からずどぎまぎした。そのくらい、小説の内容がわかっていなかったのだ。それにしても、もう50年近く前のことなのに、妙なことを覚えているものである。

その「忍ぶ川」の文庫本を、よく行く日系人会館の図書室で最近見つけた。若い時に読んで理解できなかった本が分ったりすると嬉しいものだ。さっそく借りて読んでみた。



小説「忍ぶ川」の内容



昭和35年と言えば、「日米安保闘争」の年であり戦後の高度成長の始まりの頃である。世の中が政治的対立と経済復興に沸き返っていたような時期である。けれど、この小説の登場人物は政治にも経済にも無縁である。

学生である「私」と、学生寮の近くにある料亭「忍ぶ川」で働く志乃という女性が知り合い、「私」の故郷で結婚するまでの話である。短編であり複雑な筋書きもない、まるでお伽噺のような物語である。

作者が何を言いたいのか分からないと思ったのはその所為かもしれない。しかし、今回読んでみて気付いたことがある。


作者は「忍ぶ川」で何が言いたかったか



「私」は東北地方の旧家の出であるが、六人兄弟のうち二人の姉が自殺、二人の兄が失踪し残っているのは姉一人と自分だけである。志乃は深川遊郭の射的屋の娘として育った。重篤な病で衰えた父と中学を出て間もない弟と妹、それにもう一人面倒を見るべき小学生の妹を抱えている。家族は栃木に疎開したまま、住むところが無いために神社の御堂で暮らしている。

「私」も志乃も、自分の境遇の困難さを意識していないわけではない。しかし、それを苦にはしていないようだし、相手に対して隠そうともしない。相手の困難な境遇についても、それを恐れたり、逆に無視したりもせず、そのまま受け容れているようである。

若い頃の私は、結婚する程の間柄であればそれは当然のことのように考えていた。しかし、その後見聞きし自分でも経験したことによって、たとえ結婚する程の間柄であっても自分と相手の境遇の困難さを受け容れるということが、殆ど不可能と言えるほど難しいことであると思わざるを得なくなった。

それを考えたとき、この小説は自分と相手の困難な境遇をあるがままに受け容れ、その上にひたすら自分らしい人生を築いていこうとする人たちの姿を描いたものではないかと思えてきた。結婚までの余りに順調な展開がお伽噺のように見えたのも、この殆ど不可能な条件を前提としているからではないかとも思う。

そうしてみると、この小説は自分の経験を語った「私小説」に見えて、実は自分の実体験とは別物の作者の「夢」とも「願い」とも言えるフィクションを語ったものではないかとも考えられる。歳を取ると色々なことが考えられるものだと我ながら思う。




さて、その「忍ぶ川」の作者三浦哲郎が「少年賛歌」という小説を書いている。天正遣欧少年使節を描いて、昭和50年から57年にかけて約6年間にわたって文藝春秋に連載されたものである。「少年賛歌」が連載され始めたのは「忍ぶ川」の芥川賞受賞から15年後である。

「忍ぶ川」と「少年賛歌」では題材が全く違うように見える。「少年賛歌」には一体どんなことが書かれているのだろうか。そんな言わば好奇心から「少年賛歌」も借りて来て読んでみた。


「少年賛歌」について


インド、アフリカ廻りで、ポルトガル、スペインからイタリアまでを往復する、壮大な旅行記が従者コンスタンチノ・ドラ-ドの眼から描かれている。

16世紀の事である。航海の辛さ、病気の苦労も少年たちにとって相当なものであったに違いない。また、ヨ-ロッパの街の歓迎ぶりや、王侯貴族、ロ-マ法王や教皇庁高官との接触など、400年以上前の日本人の少年達が直接経験したことと考えると強く興味をそそられるものがある。

ただ、少年達の輝かしい経験を読めば読むほど、その壮大な旅を成り立たせたものを思わざるを得ない。巡察師ヴァリニャ-ノの先鋭な企画力とイエズス会の膨大な組織力である。しかし、その企画力も組織力も帰途少年たちがマカオに到着した頃から、破綻を見せ始める。

前年秀吉によって伴天連追放令が布達されていることが判明したため、一行の帰国が危ぶまれれるようになったのである。

イエズス会の存在にとって、政治権力との良好な関係は必須である。伴天連追放令は関係の悪化どころか、イエズス会が主導するキリシタン教会に存亡の危機をもたらすものだったのである。

他にも様々な側面の綻びが露わになる。少年達は日本人女性の奴隷を見かけ、それをミゲルは外国人神父たちが、自分たちにとって不都合なものをひた隠しにしてきたことの証だと決めつける。

使節たちは自分たちの知己でもあるひとりの外国人神父が、遣欧使節の欺瞞性を告発したことも知る。

副管区長コエリョがヨーロッパへ軍事的支援を要請するべく派遣したモ-ラ神父は、きわどいところでヴァリニャ-ノによってマカオで抑えられた。


帰国後の使節たちは、インド副王使節一行という名目で秀吉との謁見を果たすが、それは薄氷を踏むような危うい会見であった。


ここまで来ても、私が最初に抱いた疑問にたいする答は見つかっていなかった。それは、あの「忍ぶ川」の作者が、一体「少年賛歌」で何を言いたかったのだろう、ということである。

その答は最後の最後に浮かんできた。



使節たちのその後の足取り




その後の使節たちが辿った足取りは実に多様である。

千々石ミゲルは、イエズス会を脱会、棄教し、従兄の大村喜前に仕えた。
伊東マンショは、有馬のセミナリオでラテン語の教師をした後司祭となり、43歳のとき長崎のコレジオで歿した。
原マルチノは司祭になった後、家康の切支丹禁令で故国を去ってマカオに赴き60歳で病没した。
中浦ジュリアンはマンショ、マルチノとともに司祭になったが布教に献身し国内に潜伏、65歳の時殉教した。
コンスタンチノ・ドラ-ドはマカオで司祭となり、セミナリオの院長を勤めていた時55歳で亡くなった。


そこに作者が言いたかったことが


それぞれが多難な人生を歩み、一生の終え方も終えた場所も様々である。

ということは、同じ少年使節とは言いながら、ひとりひとりが自分に与えられた境遇を受け容れ、与えられた人生をただひたすらに全うして行ったということではないかと思えてきた。作者はそれを讃えたかったということではないだろうか。

この使節たちの姿は「忍ぶ川」の二人の主人公にもつながる。使節たちの晩年の姿が「忍ぶ川」の二人のそれからの姿を暗示しているという意味である。

そういえば、三浦哲郎の代表作の一つ「白夜を旅する人々」のテ-マもそういうことだったような気がする。



〈おわり〉




















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# by GFauree | 2018-04-10 12:49 | 千々石ミゲル | Comments(0)

シドッティに与えられた本当の使命はこれだった


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1.長助・おはる夫婦の不自然さ



前回の最後に、私はシドッティに付けられた従僕長助・おはる夫婦の振舞いに不自然なものを感じると書いた。長助・おはる夫婦が十字架を身に付けていたのが発覚し、さらにシドッティから洗礼を授けられたと進んで自白したという話が、あまりに出来過ぎで取って付けたように感じたからである。

彼ら二人は、キリスト教信仰が禁制の事柄であることを承知していた筈である。であるのに、何故十字架を身に付けるというような、簡単に発覚してしまう危険のある、また発覚した際に申し開き出来ないようなことをしていたのか。そのうえ、シドッティから洗礼を受けたことを強制的に自白させられたというより、自分から進んで自白したように伝えられている。この確信犯のような態度はいったい何処から来るのか。

そう考えて来たときに気付いたことがある。それは、この事件が発生した1714年の2年前、白石が有していた絶大な影響力の後ろ盾であった第六代将軍家宣(いえのぶ)が亡くなり、幕府内での白石の地位が凋落しつつあったということである。

白石の失脚を狙う勢力にとって、シドッティが異例の条件で厚遇され幽閉されていることは、これまでの白石の判断と影響力の象徴と考えられたのではないか。シドッティを処刑せず幽閉するという穏便な処分の根拠は、シドッティ来航の目的が布教を実践することではないということだった。しかし、シドッティが従僕夫婦に洗礼を授けたということが「事実」だということになれば、シドッティを厚遇の下に幽閉するとした判断は根拠を失い誤りだったことになる。そこで、私は長助・おはる夫婦の件が白石の失策を印象付けるために捏造されたものだったのではないかと考えたのである。


そんなことから、今回は長助・おはる夫婦について考えてみる必要があると思ってそれをしてみたのだが、その結果は意外なことになった。



2.長助・おはる夫婦が育った環境 切支丹屋敷



まず、この二人は、現在の文京区小日向にあった切支丹屋敷で育ったと言われている。彼らが育ったとされる切支丹屋敷という環境がどんなものであったのか、そこにどんな人たちが暮らしていたのかというところから観てみることにした。



(この点については、クリストヴァン・フェレイラに関する過去の記事に書いたことがある。
http://iwahanjiro.exblog.jp/22612547/ http://iwahanjiro.exblog.jp/22662467/
そのため、一部繰り返しになってしまうが、以下にその内容を整理してみたので目を通して頂きたい。)


1642年
、イエズス会日本管区長・シナ準管区長・巡察師を兼ねていたアントニオ・ルビノ神父はマニラから日本への渡航を目指す二つのイエズス会士のグル-プを組成した。


第一のグル-プ
は、ルビノ神父当人を含む5人の司祭と3人の従者の合計8人である。
このグル-プは、1642年8月に薩摩に上陸、逮捕されて長崎に連行された後、大村の牢に収監され全員が殺害された。


第二のグル-プは、日本副管区長ペドロ・マルケス神父やジュゼッペ・キアラ神父を含む4人の司祭と6人の従者の合計10人である。

ジュゼッペ・キアラ神父はシドッティと同じイタリアシチリア島パレルモの生まれ。日本人死刑囚の未亡人を妻として娶らされ、その死刑囚の姓名岡本三右衛門を名乗り、幽閉40年後の1685年、83歳で死亡した。遠藤周作の小説「沈黙」の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルである。

第二グル-プのキアラ以外の3名の司祭が辿った運命は様々である。
先ず、日本副管区長という格で来日したペドロ・マルケス神父は80余歳で病死するまで幽閉生活を生き延びた。
アドンゾ・デ・アロヨ神父は、棄教した後にキリスト教の信仰に立ち返る意志を見せたために、女牢に入れられたが絶食して20日ほどで衰弱死した。
フランシスコ・カッソラ神父は女牢に入れられ女囚と通じたことを白状し、まもなく病死した。


切支丹屋敷とはこういう人たちが、こういう風に終生監禁されていた場所なのである。



次に、新井白石著「西洋紀聞」に長助・おはる夫婦について記された部分があるので、それを抜き出し現代語で書いてみた。



3.「西洋紀聞」に書かれた長助・おはる夫婦



「切支丹屋敷には、既に年老いた長助・おはるという夫婦ものがいて、奉行所の人々を迎えた。二人とも親が亡くなり身寄りのない孤児となったため、そこに引き取られたのであろう。そして、収監されているかつてキリシタンであった者たちの身の回りの世話をする奴婢として働いていたところ、然るべき年齢となり夫婦となった。

元々彼ら自身がキリシタンの信仰を持ち洗礼を受けたという訳ではないが、キリシタンであった者たちに幼いころから仕える身であったことを考慮すると、一般社会に出すわけにも行かず、奉行所が衣食を与えて切支丹屋敷の中で生活させてきたのである。

正徳4年(1714年)の冬、棄教し仏教徒となった元司祭(シドッテイ)の奴婢である長助・おはる夫婦が自首した。彼らの自供内容は以下のようなものである。


『以前に二人の主人であったもう一人の元司祭(キアラ)が存命であった折、彼によって秘かに洗礼を授けてもらった。ところが、当時はそれが国の掟に背くことであるとの自覚もないまま、キリシタン信仰の有無を試される都度、平気で「踏絵」を踏んでみせるようなことまでしてきた。つまり、自分たちに与えられた信仰が禁じられたものであることも知らなかったし、信仰の内容を考えたこともなかったのである。

ところが、今の御主人(シドッティ様)がその信仰のために身の危険をかえりみず、遥かかなたのこの国にまで来て捕われているのを身近に目にすることになった。そうしてみると、もうさほどの年月もない短い命を惜しんで、長く地獄に堕ちるようなことをしてきた自分たちの考えが如何に浅薄なものであるかを思わない訳にいかなくなった。

そこで、それら全てをシドッティ様に告白し、再び洗礼を受け信徒にして頂いた。しかし、一方でこれらのことをお奉行に申し上げなければ、国からの恩義に背くことになるとも考え自首することにしたのである。従って、法に従って如何ように罰して頂いても構わない。』

以上を聴取した奉行所は、まず二人を別々の場所に留置した。」



(長助・おはる夫婦がキアラの従僕となった経緯)

「密行 最後の伴天連シドッティ」では、1676年(長助・おはる夫婦が自首する約40年前)の切支丹屋敷内の出来事として、キアラの従僕 角内が聖ペトロの像を身に付けていたことが発覚し処刑されたことが挙げられ、その従僕 角内の代りに長助とおはるとが新たにキアラの従僕となったとされている。ただ、それがどんな書物に記されているのかの説明はない。




さて、「西洋紀聞」に書かれた長助・おはる夫婦について皆様はどんな印象を持たれただろうか。私の場合、冒頭に書いた「疑惑」のようなことは吹き飛んでしまったという感じである。それは、「西洋紀聞」に書かれたことを、次のように解釈したからである。



4.長助・おはる夫婦についての私の解釈


二人とも親が罪人であったため切支丹屋敷に引き取られ、収容されている元キリシタンに仕える奴婢となるべく育った。しかも、自分たちがキリシタンであったわけでもないのに、元キリシタンを世話していたからという理由で、生涯切支丹屋敷の外へ出ることは禁じられるという、理不尽かつ苛酷な扱いを受けていたのである。

何時でも何処でも、階級と差別というものは付いて回るものである。切支丹屋敷もその例外ではない。何人扶持という手当や従僕まで付けられた元司祭から、終生奴婢として働くことを運命付けられた者まで、その階級差別は厳然としてあったようだ。

二人は元司祭ジュゼッペ・キアラの教えによって洗礼を受けたらしい。しかし、彼らにキアラの教えを理解する力がなかったのか、キアラにそういう彼らを導く力がなかったのか、彼らが堅持すべき信仰を持つに至らなかったことは確かである。だから、「踏絵」を踏むようなことにも何のためらいもなかったようだ。

それが、シドッティとの場合は違っていた。遥かかなたのこの国に来てまで捕われている姿を見て心を動かされたと言っているが、それだけではなかったのだろう。彼らは、シドッティの人柄に触れ、それに感化されそして教えを受けた。そうなって、自分の過去を振り返ると、与えられた人生や信仰というものへの自分の理解がなんと浅薄なものであったかと強く思われたのだろう。

自分たちは、キリスト教徒にしてもらったが、一人の国民としても正しく生きたいと思っているので、包み隠さず正直に話した。だから、法に従って如何ように処罰されようとも不服はない。その考え方もシドッティから教えられたことだったのではないか。


5.シドッティに与えられた使命


前回の記事の最後に私は「従僕 長助・おはる夫婦の不自然な振舞いに感じた疑惑のようなものが膨らんでいる。」と書いた。今回冒頭に書いたように、「長助・おはる夫婦の自白」と「シドッティの死」が「白石の失脚」と関係しているのではという思い付きに飛び付いたからである。しかし、長助・おはる夫婦について「西洋紀聞」に書かれている事柄を読んで私なりの解釈を考えているうちに、その政治的要因を絡めた思い付きがあまり意味のないもののように思われてきた。

長助・おはる夫婦というあまりに理不尽で悲惨な人生を背負ってきた人たちとシドッティがどう関わったかということの方が、「白石の失脚」というような一見大きな政治的な事柄より重く感じられるようになってきたからである。

長助・おはる夫婦は、その不幸な生い立ちから何の望みもなく社会の片隅で死んでいくことを運命付けられたような人たちである。一方、シドッティはキリスト教社会の中の選ばれたエリ-トとして育ち、高度な教養を身に付け自らの意思で異教世界へ飛び込んできた人間である。この両者が出遭ったとき、互いの心の中に何が起きたかは厳密には分からない。

しかし、長助・おはる夫婦はシドッティの中に今まで接触してきた「転びバテレン」たちとは違う何かを感じたのではないか。そしてシドッティと言葉を交わすうちに、幼い頃から一度も経験したことのない感動を味わう。辛くみじめな事ばかりが続く希望とは無縁の自分たちの人生だったが、この世での命はもう尽きようとしている。シドッティによれば、今からでも正しい道を歩んでいけば死後、永遠の生命が与えられるということである。それを考えたとき、ひとかけらの望みすら抱くことのなかった毎日を生きることにさえ喜びと勇気が湧いてくる気がしたのではないか。

そんな彼らの変わりように周囲の者が気付かぬ筈がない。自分より不幸であると信じていた者が幸福そうにしているとき、それを自分のことのように喜べる人は少ない。嫉妬・羨望の感情が湧くのが普通である。長助・おはる夫婦が本当に「手作りの木の十字架」を身に付けていたかどうかは分からない。もし通報者がいれば彼らの精神的変化を切支丹屋敷の監視者が知ることは簡単なことである。

一方、地下牢に監禁され少量の食事しか与えられなくなったシドッティの胸に去来したものは何だったのか。彼が日本潜入にあたり極刑に処されることまで覚悟していたであろうことを考えると、自分に対する処置を静かに受け容れる心境だったと考えることは容易だが実はそう単純でないようにも思う。

まず身の危険に対する恐怖感や身体的苦痛は当然のこととしてあったはずである。また、カトリック世界のエリ-トとして養成され、いわばその世界の代表として異教徒世界に乗り込んだからには、日本でのキリスト教復活に赫々たる成果を上げることを周囲もまた自分自身も大いに期待していたことだろう。数千人、数万人の信者が日本の教会に復活することを当然夢見ていたはずである。が、その望みは絶たれた。

ただ、だからこそまた、シドッティは長助・おはる夫婦に教えを棄てさせたくなかった。それ故、地下牢では大声を上げて二人を励まし続けた。自分が永遠の生命を得ることのできる存在であることに気付いた二人が再び絶望の淵に沈むことのないように。そして、それこそが、天が彼に与えた使命であることを確信して。



6.「西洋紀聞」に書かれた長助・おはる夫婦とシドッティの最期


明年三月、ヲヽランド人の朝貢せし時、其通事して、ロ-マ人の、初申せし所にたがひて、ひそかに、この夫婦のものに、戒さづけ罪を糺されて、獄中に繋がる。

ここに至て、其眞情敗レ露はれて、大声をあげて、のゝしりよばゝり、彼夫婦のものの名をよびて、其信を固くして、死に至て志を變ずまじき由をすゝむる事、日夜に絶ず。

かくて此年の冬十月七日に、彼奴なるものは病し死す。五十五歳と聞えき。
其月の半より、ロ-マン人も身病ひすることありて、同じき弐一日夜半に死ぬ。其年は、四十七歳にやなりぬべき。



〈完〉















 



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# by GFauree | 2018-02-25 10:14 | ジョバンニ・バッティスタ・シドッティ | Comments(0)