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「慶長遣欧使節」支倉常長 [その2]

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-遠藤周作『侍』に描かれた支倉常長-



1.男はつらい


小説の中で、支倉常長は『侍』長谷倉六衛門として描かれています。
六衛門は、侍とは言え農民とさほど変わりのない家に住み、家族とともに畑で働き、領主に年貢を納める生活を送っています。

考えてみれば、戦国時代が終わり戦いが無くなれば、武術で生活を立てることは出来ないのですから、ほとんどの武士は彼のように地方政府(藩)の官吏として働きながら農業を兼業するような地味で質素な生活を送っていた筈です。

ですから、描かれた六衛門の生活は現実的です。
今で言えば、農家の長男が農業をするかたわら役所に勤めているような感じなのでしょう。つまり、六衛門は、家を大事に思いひたすら我慢を重ねる忍耐強い村役場の役人のような男なのです。

その男が、領主の名代として言葉の通じない外国へ行き貿易開始のための交渉を進める役割を与えられたのです。そんなに重要な役割が何故自分のような身分の低い者に与えられたのか、彼にも分りません。

しかし、彼としては是非その役目を無事に果たして戻りたいと考えます。
それは、もしその使命を果たすことが出来れば、先祖が失った自家の領地を返して貰えるかもしれないという期待があるからです。

通訳としてポ-ロ会の宣教師ベラスコ(史実では、フランシスコ会のルイス・ソテロ)が、随行します。

そもそも、この派遣は領主に対するベラスコの強い働きかけから生まれたものですから、ベラスコがこの旅に自分独自の狙いをもっていることは、明らかでした。

その懸念通り、ベラスコは次第に通訳・仲介役の立場を超えて、自分本位に使節団を振り回し始めます。
しかし、ベラスコのはたらきがなければ、使節団は行動することも交渉することも出来ないのですから、六衛門はつらい立場に耐え続けるしかありません。

ここまで読んでいただけば、お気付きでしょう。
描かれている六衛門の立場や辛さは、現代の多くの男たちが味わっているものと、大して変わらないものなのです。



2.「キリシタン時代史」の研究が発展したおかげで


この小説は、1980年に発表されました。以前に書きましたように、「日本のキリシタン時代史」の研究は、1970年代の初めごろから、大きく変わりました。より客観的な研究・分析が進められるようになったため、その時代をより現実的に理解・把握できるようになったと言っても良いとおもいます。

こう書いてしまうと、簡単なようですが、実際はこれは大変なことです。
そして、その研究発展の成果がこの小説にも反映されていると私は思います。
その分、同じ作家によって書かれ1966年に発表され高い知名度を得ている「沈黙」より、この作品の方により強い現実味があるように感じられるのです。

「慶長遣欧使節」の性格を考えると当然必要だったことかも知れませんが、作者はこの作品のなかで、それまであまり露わにされることのなかったカトリック教会内部の歴史的問題を大きく切り開いて見せてくれました。その問題とは、カトリック修道会同士の勢力争いです。

大航海時代のカトリック教会内部で、修道会同士とくにイエズス会とフランシスコ会などの托鉢修道会との間に世界的に勢力争いがあったことは、周知の事実です。

日本でも、1614年以降その対立抗争が激化し、14~15世紀に複数の教皇が同時に立ったヨ-ロッパの「教会大分裂(シスマ)」になぞらえて「長崎シスマ」と呼ばれる事態があった程なのです。

ところが、日本で「長崎シスマ」について触れられることはほとんどありませんでした。
ただ、宣教開始以来布教を独占していた形のイエズス会に対しフランシスコ会・ドミニコ会が善玉であるような話が一方的にあって、それがそのまま放置されてきたような感じを何度か受けたことがあります。

この小説では、ペテロ会・ポーロ会という名で描かれたイエズス会・フランシスコ会がマドリッド司教会議の場で、日本での布教に対する見方をめぐって対決する場面が、山場のひとつになっています。



3.人間社会の酷い(むごい)現実、そしてその救いは何処に・・・


「使節派遣」に関係した者それぞれが、自分の野望や願望を賭けて奮闘しもがいたように見えました。領主はノベスパニア(メキシコ)との交易開始を、ベラスコは司教の座獲得を、六衛門は先祖が失った領地回復を。

ただ、いつの時代も、大きな組織が目論んだ企て(くわだて)が失敗に終わったとき、最初に犠牲を求められるのは、より身分の低いものです。

漸く帰国したにもかかわらず、キリシタンに改宗したことを責められながら六衛門は聞かされます。

江戸幕府の狙いは、藩を使って、大船の作り方・動かし方・航路を知ることだったこと。
侍たちは、藩が差し出した囮(おとり)だったこと。
囮だから、身分の高い者でなく、どこで朽ち果てようと一向に構わない身分の低い者が選ばれたこと。

「もしかして、自分は六衛門とあまり変わらない経験をしたのかな。」と、私は自分の勤め人としての経験を苦い気持ちで振り返りました。

六衛門が仕えてきた寄親(上級家臣)である老人は語ります。
「それが、治政というものであり、人と人との間はそのように冷たく、むごいものであることを、よう考えてな。」と。

六衛門は、自身の無力さに何度も失望させられてきました。人々の身勝手さにもかろうじて耐えてきたのですが、ついに頼みにしていた領主の冷たい意図を知って失望させられます。最後に、人間社会の酷い(むごい)現実に決定的な絶望を味わいます。

ところが、その絶望の淵で、「人間のこころのどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを、求める願いがあること」に六衛門は気付きます。使節としての使命を果たすために便宜的にキリシタンになったはずの彼が、ときおり、キリストのことを考えるようになるのです。


宣教師ベラスコは、殺されると知りながらエルサレムへ行ったキリストに倣って、マニラから日本へ渡り捕えられ処刑されます。それも、あれほど憎み合ったペテロ会(イエズス会)の神父と伴に。(これは、史実です。)

その処刑の直前、六衛門が仕置きされたことがベラスコに告げられます。

                                            完










by GFauree | 2014-12-25 05:37 | 支倉常長 | Comments(0)  

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