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なぜ「ペトロ岐部カスイ」は挫けなかったか [その3]

 
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               (写真撮影 三上信一氏)







前回、「『ペトロ岐部カスイ』が1615年の出国前に、既に相当な困難を経験しそれを克服することが彼の強靭な人格を形成していったのではないか」と書きましたが、
それを、これから3回にわたって、幼少期・セミナリオ時代・同宿時代に分けて説明させて頂きます。


1.幼少期


(1)バテレン追放令の影響


・彼の生まれた1587年に、豊臣秀吉がバテレン追放令を出すと岐部一族の主君にあたる大友義統(よしむね)は棄教し、家臣・領民にたいしても棄教を命じています。

これに対し岐部の父親は「その2年後、一族の領袖 岐部左近太夫の妻の受洗を助けた」との記録があることから棄教の命令に従わず、その13年後に岐部がセミナリオに入学していることからも、父親自身の信念が変わることはなかったと考えられています。


・実は、この追放令は南蛮貿易を維持したかった秀吉自身の「見て見ぬふり」によって実態的に緩和されます。しかし、緩和されることはあっても撤回されたわけではありません。

この時から、キリスト教が最高権力者によって布教を禁じられる宗教となったことが、信者であり続けようとした人々に及ぼした影響は見逃すべきではないでしょう。

私は、岐部親子と 主君の命令に従順に従った周囲との間の緊張が次第に強まり、公式には許容されていないキリスト教の信者であるゆえの周囲からの圧迫も増していったのではないかと想像します。



(2)主君 大友義統の改易と石垣原の敗戦の結果



・これに加え、1593年主君大友義統が秀吉によって改易され、岐部一族は所領を失い近辺に土着して農業に従事するに至ったと推測されています。岐部父子はそれまでの信教に起因する周囲との緊張に加え、これ以降は自ら食住を確保していかなければならない生活上の苦労も増していったと思われます。


・さらに、1600年 関ケ原の役の後、大友義統が石垣原の合戦に敗れ、
岐部一族は住み慣れた国東半島を離れて肥後に移らざるを得なくなったと伝えられています。
これにより、岐部と家族の生活はさらに困窮の度を深めていったのではないでしょうか。


以上、「ペトロ岐部カスイ」が幼少期からすでに味わったであろう苦難を挙げてみました。


岐部が弟とともに長崎の神学校(セミナリオ)に入学したとき、彼は13歳で今の日本で言えば中学1年生です。もし、ひとりの中学1年生が既に幾多の苦難を経験しながら健全で優秀な少年に育っていたとすれば、それはその少年の家族と彼自身の不屈の努力の結果ではないかと私は先ず思います。


次回はセミナリオ時代です。


〈つづく〉













by GFauree | 2015-03-31 14:29 | ペトロ岐部カスイ | Comments(0)  

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