「天正遣欧使節」千々石ミゲルは、なぜ離脱したのか [その1]
2015年 06月 29日
(撮影 迎田恒成氏)
「天正遣欧使節」は、禁教・迫害・殉教といった暗く重いイメ-ジのキリシタン関係の出来事の中で、珍しく明るい印象を与えてきた話題ではないかと思います。
私自身はというと、少年たちが自力でヨ-ロッパに行って国王やロ-マ法王に会ったりできるわけがないし、その時代の九州の大名たちにそれを手配する能力があったとも思えず、そもそもその旅自体がそれほど意義のあることだとは思えないまま、それ以上「天正遣欧使節」について考えることはありませんでした。
そんな私ですが、その後、以下に書くような「使節派遣」の真相に関わる事柄を知るに及んで、やっとそれが現実に起きた出来事であると感じられるようになってきたように思います。
〈「使節派遣」の真相に関わる事柄〉
1.ひとつは、この「使節派遣」が飽くまでイエズス会の東インド巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノによって企画されたものだったということ。
また、ヴァリニャ-ノの狙いは、日本でのイエズス会の布教の成功をヨーロッパ・キリスト教世界に誇示し、日本の教会への支援を要請し、併せて将来日本のキリシタン教会の指導者となるべき日本人自身にヨ-ロッパ・キリスト教世界を見聞させその素晴らしさを心底から理解させ、またそれを日本人に伝えさせること、であったと考えられること。
2、第二に、同じイエズス会の司祭ペドゥロ・ラモンが、次の内容を総会長宛てに内部告発的に報告していること。
・「大友宗麟の名代として派遣されたとされる主席使節 伊東マンショは宗麟の甥でも何でもなく、遠い親戚に過ぎないこと。
・宗麟が『何のために、あの子供たちをポルトガルへ遣るのか』と自分に尋ねたこと。
・他の少年たちも、身分の低い貴族、貧しい殿の子息たちであること。
3.第三に、使節がヨ-ロッパに携行した日本文の書状(ローマ・イエズス会文書館や京都大学に現存する)は、長崎でヴァリニャ-ノが日本人に書かせたものであって、大友・大村・有馬三侯のものとは言えないものであること。
さて、このところ有馬晴信に関わってきたためか、4人の使節のなかでは、千々石ミゲルに親近感を感ずるようになっています。
千々石ミゲルは、有馬晴信(鎮貴)の従兄弟(いとこ)であり、大村純忠の甥(おい)にあたります。
(晴信の父有馬義貞と大村純忠、それにミゲルの父千々石直員(なおかず)とは兄弟ですが、純忠、直員は、大村家、千々石家の養子となったため、それぞれの苗字を名乗っているのです。)
伊東マンショが宗麟の「妹の娘の夫の妹の子」という遠縁に過ぎなかったのに対し、千々石ミゲルは有馬晴信・大村純忠という「キリシタン大名」の近親者であったのですから、上に述べたラモンの内部告発も必ずしも正確ではなかったということです。
四人の使節の中で、原マルチノと中浦ジュリアンが「副使」の位置付けであったのに対し、千々石ミゲルは伊東マンショと並んで「正使」の地位を与えられていました。
ところが、その千々石ミゲルだけが帰国の数年後、イエズス会を離脱しているのです。
離脱の理由は明らかにされていません。イエズス会の内部の個々の会員に関する情報は公開されていないので、彼に関してどのような評価や報告が組織内でなされていたかも不明だそうです。
繊細だったとか病弱だったからという説はありますが、それは決め手にはならないような気がしました。そうするうちに、使節一行が帰国したときに刊行されている書物の中に、彼の離脱に関係あるのではと思われるものがあることに気が付きました。
別に証拠とかがあるという話ではないのですが、その書物の内容は彼の離脱のきっかけに充分成り得たものだと私には思えます。
まずは、四人の使節とアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの帰国後の足跡を辿ったうえで、その書物については、次回、書かせて頂きます。
〈「少年使節」帰国後の足跡〉
1590年 7月 ヴァリニャ-ノら使節一行、長崎へ帰着。
(ペル-からマカオに来たスペイン人商人フアン・デ・ソリスも、この時、使節一行とともに、長崎に到着している。)
1591年 3月 ヴァリニャ-ノら使節一行、京都・聚楽第で関白秀吉に謁見。
1592年10月 ヴァリニャ-ノ長崎を出港、以降マカオに駐留し中国の伝道に専念。語学・哲学・神学を修めるコレジオをマカオに新たに設置。
1593年 7月 四名とも、天草にて2カ年の修練期を終える。イエズス会修道士として誓願をたてる。
1595年 3月 ヴァリニャ-ノ、インド・ゴアに戻る。
1598年 8月 ヴァリニャ-ノ、日本巡察師を命ぜられ、長崎へ到着。
1601年 司祭として養成されるべく、17名の修道士がマカオに派遣され、伊東マンショと中浦ジュリアンはこれに含まれたが、千々石ミゲルと原マルチノは含まれず。
1603年 ヴァリニャ-ノ、離日。
1604年 伊東マンショ・中浦ジュリアン、長崎に戻る。
1605年末 スペイン人ドミニコ会司祭2名が、千々石清左衛門(ミゲル)に逢う。ミゲルは、還俗し大村喜前侯に召し抱えられ、清左衛門と称し妻を娶っていた。虚弱体質であった彼は殆ど手足が麻痺していたという。
1606年 ヴァリニャ-ノ、マカオにて病死。(六十六歳)
大村喜前、領内からバテレンを追放し、自らは法華宗に改宗。
1608年 伊東マンショ・原マルチノ・中浦ジュリアン、司祭に叙階さる。
1612年 伊東マンショ、長崎で病没。(四十三歳)
1629年 原マルチノ、マカオにて病死。(六十歳)
1630年 中浦ジュリアン、長崎にて殉教。
〈つづく〉
by GFauree | 2015-06-29 13:22 | 千々石ミゲル | Comments(0)