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ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その3]



ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その3]_a0326062_03150204.jpg



さて、やっとザビエルと一緒に来た神父コスメ・デ・ト-レスの話をする段になりました。


(Ⅰ)1510年から1548年まで

この人の人物像を掴もうとするとき、まず気付くことは、ザビエルに遭う以前の経歴がもう既に普通でないことです。


・司祭になるまでは順調だった

ト-レスは1510年に生まれ、1534年に司祭職を授けられています。ということは、24歳で神父になったということです。これは、神父になる年齢としては、普通より少し若いと私は感じます。

何歳で司祭に叙階されるかは、人によって実に様々ですが、私がこれまでに見聞きした限りでは、若くてもせいぜい26~28歳ぐらいです。

私が何を言いたいかと言うと、ト-レスという人は、スペインの一地方都市バレンシアの宗教的環境の中で素直に成長し、平穏で順調な生活を送っていたのではないかということです。


・司祭になる頃から迷い始めた

教区司祭として叙階されれば、教区の教会の助任司祭として主任司祭や信者のために働きながら、聖職者としての知識や経験を積んでいくのが普通でしょう。

ところが、ト-レスは、地中海沿岸のバレンシア・バルセロナ対岸のマジョルカ島やバレンシア近辺の小都市で、(「文法の」というのは「ラテン語の」という意味でしょうか)教師(「神学校の」ということでしょうか)をして3~4年を過ごします。

そして、1538年、一フランシスコ会士の誘いに応じて、セビ-リャからメキシコへ渡ります。

メキシコでも、フランシスコ会への入会を勧められたり、現地政府高官や家族からそこへ留まることを請われたりしたのに、それらを振り切って、1542年ビリャロボスの艦隊に乗り組み太平洋探検航海の一員となります。

なぜ、司祭に叙階された後の8年余りをこのように過ごしたのか、についてト-レス自身は「心の中に自分でも理解できない問題があり、常に安らぎがなかった」と述べています。

要するに、「自分が何のために生まれて来たのか、何のために生きるべきなのか」という疑問に取りつかれて、将来に向かって積極的に進んでいくことが出来なかったということなのでしょう。

こういう状態に陥ることは現代でも珍しくないことはご承知の通りです。そして、こういう状態は「モラトリウム」とか「青い鳥症候群」とか呼ばれて、否定的に論じられる場合が多いようです。

ですが、私はそれに同調することは出来ません。それは、私自身が還暦を過ぎるまでその状態を続けてしまったからです。傍からは、甘えてみえたりするのでしょうが、本人にとっては、とても苦しく、仕事などの社会生活は続けていくことはできるのですからそれを壊すわけにもいかず、年数が経てば経つほどその苦しさは深く強くなっていくのです。


・ト-レスが変わった


1546年
3月、アンボイナでザビエルに遭ってから、トーレスの心の不安は次第に解消していきます。翌年、ゴアに到着し教区司祭を勤めた後、「霊操」と呼ばれる精神修養を行い、イエズス会へ入会します。そして、1549年、ザビエルとともにゴアを出発します。

そのト-レスの変貌ぶりについて、一般的には、それがザビエルに感化されたためのものであると考えられています。そこで、改めて気付くことは、ザビエルにはそういう話が多いのです。

ザビエルを日本に連れてきた男、アンジロ-は日本で人を殺し海外に逃れている疾しさに苦しんでいたところ、知り合いのポルトガル人船長からザビエルを紹介され、感銘を受けそのまま行動を共にするようになったということです。

そのアンジロ-をザビエルに紹介したポルトガル人船長ジョルジュ・アルヴァレス自身も、故在ってザビエルに深く心服していたようです。

1551年、ポルトガル船が入港したとの知らせを受けて豊後に向かったザビエルの謁見を受けた大友宗麟もそれまで陥っていた人間不信から救われるような深い感動をザビエルから受けたと言われています。

このように、ザビエルが多くの人に与えた感銘とは、また彼が多くの人を引き付けた力とは、一体何だったのかが知りたくなってきます。けれども、それを知ることはそう容易ではなさそうです。ザビエルが「聖人」だったから、と言ってしまえば簡単ですが、それでは、答えにならないような気がしました。そこで、さらに考え続けていて、あることに気付きました。


・皆が悩んでいた

それは、ザビエルに遭って救われたとされている人たちに共通していることです。それは、人間としては当たり前のことかも知れませんが、この人たちが深い苦悩や不安を抱えながらも、それを何とか克服して生きていきたいと強く願っていたと考えられることです。

アンジロ-も、ポルトガル人船長も、大友宗麟も、そしてト-レスもそうです。

「大航海時代」という名称から、この時代の人々に対してはどこか勇ましく力強いイメ-ジを抱きがちです。でもよく考えてみると、その時代は、日本では百年近く続いた内戦に国中が疲弊し、世界的にも大きな変動の中で人々が不安と苦悩から何とか脱け出ようとして救いを求めた時代でもあったのです。

そう考えれば、ザビエルが奇跡を起こすような特殊な超能力を持った「聖人」であったか否かには関係なく、彼が人々の不安や苦悩に誰よりも真摯に向き合い寄り添う考えと能力を持ちそれを実践していたとすれば、多くの人に感銘を与え、多くの人を引き付けたのは当然のことだったと思えてきます。


・トーレスの人生観を大きく変えた経験


ト-レスの場合、ザビエルとの出遭いが、司祭になった頃から10年以上続いていた心の迷いに決着を付ける機会となったことは多くの人が認めることでしょう。

けれどもよく見直してみると、トーレスがザビエルと出遭う前に、おそらくは大きく人生観を変えさせられるような経験をしていることに気が付きました。

それは、ビリャロボスの艦隊の一員であった時のことです。
ルソン島・サマ-ル島・レイテ島に到達し、国王フェリ-ペ2世を称えて、フィリピン諸島と命名したのは、この艦隊です。

ところがその後、この艦隊は敵対する先住民によって島から追い出され、飢餓や難破に見舞われ、メキシコへの帰路の航路を捜索しながら彷徨します。そして漸く、モルッカ諸島に到達してからもポルトガル人との争いに敗れます。そもそも、[その2]に書きましたように、モルッカ諸島は1529年のサラゴサ条約によって、ポルトガルに売却してしまっているのです。

ビリャロボスは、1544年アンボイナの牢屋で死亡し、残った乗組員は1545年11月ポルトガル側に投降します。こうして、離散に追い込まれた艦隊の末路は食糧の確保すらできない凄惨なものであったことが想像されます。

こういう時こそ、人間や集団の脆さ・醜さが余すところなく露呈するものです。
この経験の直後、1546年3月ト-レスはアンボイナでザビエルと出遭ったのです。

逆に、その苛酷な経験がなければ、例え出遭うことがあっても、あれ程ザビエルに強く惹かれ、新たな人生を切り開く決断をつけるまでに至ることもなかったのではないか、と私は考えます。


・それでも、ト-レスは肥っていた


ところで、このように神父になってから10年以上経ち、35歳を過ぎてもまだ、人生如何に生きるべきかと悩み抜いて、スペインからメキシコそしてモルッカ諸島まで来てしまったトーレスという男は、一体どんな風貌をしていたのでしょう。

そもそも、まじめそうな神父さんだし、人生問題にそんなに長いこと悩んでいた上に、乗り組んだ艦隊が離散してしまうような悲惨な経験をしていたと聞くと、痩身・白皙とは言わないまでも、そう堂々たる体格をしていたとは考えられないところです。

ところが、実際のト-レスはかなり肥っていたらしく、「トルレス布教長は、来日当時は、あんなに肥って元気だったのに・・・。」と同僚の神父が書いているほどなのです。肥っているうえに長身でもあったということですから、もしかすると日本に来るまでは、気は優しくて力持ちのお相撲さんのような人だったのではと想像することもできます。

ただし、日本に来てから、肉食・大食を嫌い軽蔑する当時の日本人に合わせ、肉を食べず粗食に徹しているうちに痩せてしまったそうです。


と、ここまで書いてきて、やっとインドのゴアから日本へ渡航するところまでたどり着きました。
長くなってしまったので、ここで一旦区切らせて頂いて、日本への到着後については、また次回と致します。



〈つづく〉



[参考図書]

長崎を開いた人-コスメ・デ・ト-レスの生涯- パチェコ・ディエゴ著 中央出版社




















by GFauree | 2015-09-09 12:57 | ザビエルとト-レス | Comments(0)  

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