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ペル-・イエズス会士二人の遥かな旅路 [その2]

     
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                 〈リマ・カリャオ港沖のサン・ロレンソ島〉





〈スペイン植民地ペル-側の事情〉



前回[その1]では、1591年に(現在のボリヴィア)ポトシ産の銀を満載した船のペル-からマカオへの航海を、それがキリシタン時代のマカオと日本にどんな波紋を惹き起こしたかという観点から眺めることになったように思います。

今回は、この船に関するスペイン植民地・ペル-側の事情を知ることで、その航海の背景をより深く探ってみようと考えました。

参照したのは、「1592年、豊臣秀吉に会った『ペル-商人』フアン・デ・ソリス」の記事を書いた時にお世話になった「Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI(16世紀の極東とペル-)」という本です。これは、日系ペル-人作家 Fernando Iwasaki Cauti(フェルナンド・イワサキ・カウティ)氏によって、1992年に大学院修士課程の論文として書かれ、2005年にペル-・カトリカ大学から出版されたものです。



〈銅の調達は口実だった〉



前回の記事に、例の船がペル-からマカオへ直行した事情に関して、船が送られた目的は「大砲製造のための資材である銅を求めること」、とされているのは実は口実で、本当は「ペル-副王の儲け仕事として、中国商品を仕入れること」であった、とイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが総会長に報告していることを書きました。

また、背景として、この時代のスペイン植民地官僚には、在任期間中にその地位と機会を精一杯利用して、私的財産の蓄積に励む人が少なくなかったらしいということを挙げました。

上記のイワサキ氏の著書は、世界中に展開して「日の沈むことなき帝国」と呼ばれたスペイン植民地各地に派遣され、それを統治する立場にあった官僚たちの実態や体質をよく伝えてくれていると思います。


そこで、マカオへ船を送ったペル-副王や同時代のフィリピン総督の行動について、その本に書かれてある内容を以下にご紹介します。



ところで、これまでは、南米ペル-とアジアとの間を太平洋を超えて直接航海した船として、1588年にペル-からパナマ経由マカオに行ったフアン・デ・ソリスの船と、1591年ペル-・カリャオからマカオに行った第8代副王ガルシア・デ・メンド-サの船を話題にしてきました。

けれども、実はと言うか、当然と言うか、アジアとペル-の間を直接航行した船は他にもあるのです。



〈フィリピン総督の船とガレオン船〉


それは、1581年フィリピン総督ゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサが、フィリピン・マニラからペル-・リマに送った船です。

ついでに、フィリピンとメキシコの間について言えば、ガレオン船の航行がありました。

フィリピン諸島は、1565年にミゲル・ロペス・デ・レガスピの遠征隊がセブ島に根拠地を築き、また太平洋横断帰路を発見して、ヌエヴァ・エスパ-ニャ(メキシコ)のアカプルコに帰着したことにより、スペイン植民地とされます。その後、フィリピン・マニラとメキシコ・アカプルコ間の船の往来と交易(マニラ・ガレオン船貿易)が常軌化されたのです。


〈リマの街では、400年以上前から安い中国製品が売られていた〉


従って、この時代、中国商品は通常アカプルコ経由でペル-へも運ばれていたのです。
1590年代のペル-では、中国製の絹織物はスペイン製の約1/9の値段で販売されていたということですが、それは絹織物だけではなかったでしょう。リマの街に安い中国製品があふれているというのは、昨日今日の話ではなく、400年以上前からのことだったのです。



さて、ここからは、16世紀後半のスペイン植民地官僚たちが、その在任期間に如何に個人の蓄財のために涙ぐましい努力を払っていたかのお話です。



〈スペイン植民地官僚たちの涙ぐましい蓄財努力〉


1.フィリピン総督ゴンサロ・ロンキリョのケース


・新任ペル-副王の手数料稼ぎの話


まず、第4代ペル-副王の話です。第4代ペル-副王ディエゴ・ロペス・デ・ズニガ・イ・ヴェラスコ(ニエヴァ伯爵)は、1561年の着任時、50人の使用人を同行する許可を受けていましたが、実際は118人を同行しています。

当時、スペイン本国から南米植民地への渡航は制限されていました。スペイン本国の窮迫した経済状況を反映し、新世界に活路を求めた人々が殺到したのでしょう。ところが、その多くは植民地で生活する技術も資材も持たない人たちであったため、当然、現地で浮浪者化し、それが治安悪化の一因となったのです。

そこで、新任副王が赴任するにあたっても、渡航させる随員には許可を必要とすることとなっていました。しかし、それにしても、一人の副王の使用人の数として、118人は多過ぎます。

恐らく、副王は、赴任の際に渡航希望者を募り、渡航を許可されている者に加えて自分の使用人として随行させ、その人たちから手数料を徴収していたのでしょう。

つまり、植民地の統治者である副王自らが、着任時からそれも規定破りをしてちゃっかり手数料稼ぎをしていたということです。


・将来のフィリピン総督がペル-副王の使用人?


第4代副王ヴェラスコが、着任時に手数料稼ぎをした相手の中には、国王審議官メルカド・デ・ペニャロサの息子たち、ドン・ペドロ・デ・メルカドとゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサ(後のフィリピン総督)も含まれていました。

しかし、この高級官僚の息子たちが、新副王の使用人であるわけがありません。この息子たちは、新副王へ支払う手数料を負担してくれた父親のおかげで、いわば研修生として、植民地政府の役人の手口を実地で学んだのでしょう。

彼らが、父親である国王審議官や第4代ペル-副王からも多くを学んだことは、あとではっきり分ります。

ゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサは、1561年のペル-研修旅行の翌年、スペインへ戻り、1567年、親の七光りで、メキシコ知事となって赴任します。そして、その10年後、フィリピン総督に指名されます。



・フィリピン総督がキャリアの中で見聞したこと



(1)1561~62年、ペル-研修旅行の間に

首都リマの治安を脅かすスペイン人浮浪者問題
ペル-市場に中国製品に対する強い需要があること


(2)1567~77年、メキシコ知事時代

・1573年、マニラからの最初のガレオン船到着時、中国製品によってアカプルコに生じた衝撃


(3)1577年~80年、フィリピン総督指名から現地赴任までの間に

・1578年、ペル-沿岸が英国の海賊フランシス・ドレイクの攻撃をうけたことから、防衛のための大砲他兵器の需要がペル-にあること



・フィリピン総督に指名されたとき、最初に考えたこと、そしてその障害は


ゴンサロ・ロンキリョが、フィリピン総督に指名されたとき、最初に考えたことは、おそらく、その新しいポストで如何に金儲けをするか、ということだったでしょう。

そのとき、まず頭に浮かんだのは、ペル-市場の中国製品に対する需要だった筈です。そのため、フィリピンから中国製品を満載した船をペル-へ送ることを考えます。

ところが、スペイン王室は、1573年にガレオン船によってマニラからアカプルコへ運ばれた中国製品の一部が積み換えられ、ペル-に向けて送られ、最終、リマの店舗に陳列されていたことはしっかり認識していたようです。

そして、もしマニラからの中国製品が恒常的に直接ペル-へ送られるようになると、アカプルコ(メキシコ)の御用商人は商売の機会を失い、スペイン王室は関税収入を確保するためにまた別の手段を講じなければならないことになります。そこで、中国製品の流通はあくまで従来のマニラ-アカプルコ経由に限定することが考えられたのでしょう。

1579年4月、「本国独占」の方針に反するものとして、ペル-・フィリピン間の直接貿易を禁止する勅令が発布されます。


・金儲けのための船を送る口実


それに対し、ゴンサロ・ロンキリョは、ペル-へ船を送る口実を考えます。
直ぐに思い付いたことは、「浮浪者問題」「海賊対策としての大砲の需要」だったのでしょう。

そこで、ゴンサロ・ロンキリョはフィリピン赴任前の1580年2月、手回しよくパナマから国王へ書簡を送り次のことを伝えます。

・フィリピンでは、より多くの植民者を必要としているので、ペル-の浮浪者をフィリピンへ船で移送したい。ついては、国王からペル-副王に対し、フィリピンへ送るべき浮浪者集めに協力するよう要請してほしい。

更に、1580年6月、今度はマニラから国王へ書簡を送り、ペル-第5代副王フランシスコ・アルヴァレス・デ・トレドの任期中に英国海賊ドレ-クが襲来したことから、ペル-副王には英国海賊と交戦するための大砲の需要がある筈だとして、「当地には、大量の良質な大砲があるので、容易かつ低価格で提供できる」旨、申し出ています。


・限りなく疑わしい船は、確かに送られたが


1580年7月に2隻の船がマニラからペル-・カリャオ港に向かったようですが、その2隻は3カ月後にフィリピンに戻ってしまい、1581年6月再度、船が送られたようです。

最終的には、1582年6月、メキシコで最初の捜査がおこなわれ、1583年1月、航海士や乗船者が陳述のために召喚されました。

その結果、途方もなく疑わしい商取引の内容が明らかにされました。可笑しなことに、わずか1/2トンの大砲とともに、300トンの絹・胡椒・陶磁器が送られて来ていたということです。(大砲のためでなく、商品搬送のために船を送ったことは、誰が見ても明らかです。)


2.ペル-第8代副王ガルシア・ウルタ-ド・デ・メンド-サのケ-ス


・着任早々から、中国との直接取引の許可を国王にはたらきかける


第8代副王は、着任早々の1590年2月、国王に書簡を送り、中国との商売を直ぐに始めたいとの願望を表明しています。

その内容は、まず、防衛のための要塞構築と艦隊船舶保有の必要性から始まります。
その費用は、防衛によって恒常的な中国商品の輸入が可能となるので、それに関税を課することによる莫大な関税収入によって賄うことができるだけでなく、余剰さえ生ずるというのです。また、その船によって、艦隊に必要な大砲を全てもって来ることも可能だ、としています。

また、どこかで 聞いたことのある「大砲の口実」が使われていますが、副王が本気で大砲を持って来ようとしていたとは考えられません。

1591年1月に受け取った、評議会の回答は否定的なものでしたが、そんなことにはお構いもなく、副王は中国へ船を送る準備を進めたようです。


・お決まり通り、自分の周囲を縁戚者で固める


1.イエズス会司祭である弟のペル-転任

1588年、ペル-副王に指名された直後、ガルシア・メンド-サは、自分の弟であるイエズス会司祭エルナンド・デ・メンド-サが、ペル-へ転任するようにイエズス会総会長クラウディオ・アクアヴィヴァに圧力をかけます。

アクアヴィヴァはガルシア・メンド-サに対し、会士に対しては商取引に関与しないように指示がされており、またその旨副王に伝えられている筈だ、との手紙を送りましたが、どうやら、副王は総会長の警告を無視したようです。

弟エルナンド・デ・メンド-サは、兄である副王の権威に従わねばならず、二人の会士を中国向けの船に乗せるために尽力したようです。


2.甥を中国向けの船の船長に起用


翻訳語では、甥ということになりますが、実際は従兄弟(いとこ)の息子である(日本語では正確にはどう呼んだら良いのでしょうか)ロドリゴ・デ・コルドバ・イ・メンド-サを、中国・マカオに向けて送った船の船長に起用しています。



「スペイン植民地官僚が如何に任期中に個人財産の蓄積に励んだか」という話を長々と書いてしまいました。日本でも、最近でこそ「インサイダ-取引」などと言って、厳しく監視されるようになりましたが、一昔前までは日銀総裁でも株式投資をしていたように記憶しています。あまり、よその国や過去の時代のことを笑えません。

それと、どうも権力志向の強い人は、お金への執着も人一倍だと考えて間違いはないようです。



副王の甥(とされている)ロドリゴ・デ・コルドバと、同じく中国向けの船に乗った二人のイエズス会士のマカオ到着後の行方については、次回に致します。


〈つづく〉


[参考図書]

Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI, Fernando Iwasaki Cauti, Pontfica Universidad Católica del Perú

「キリシタン時代対外関係の研究」  高瀬弘一郎著   吉川弘文館

講座/世界史 1 世界史とは何か 2 フィリピンとメキシコ 菅谷成子 東京大学出版会


























by GFauree | 2016-01-23 13:12 | リマからマカオへ行った船 | Comments(0)  

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