なぜどのようにして、大量の日本人奴隷が世界中に拡散してしまったのか [その1]
2017年 11月 26日
(中央はイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノ)
大航海時代に世界に散在したと言われる日本人奴隷に関し、その惨状を語るとしてよく引用される書物がある。
それは、1590年マカオで印刷、刊行された「日本使節の見聞対話録」(ラテン語)であり、その日本語訳は「デ・サンデ天正遣欧使節記」(新異国叢書-雄松堂)として出版されている。その書物について、私は少年使節の一人であった千々石ミゲルのキリシタン離脱の原因を示唆するものではないかと考え、過去の記事で採り上げた。
(http://iwahanjiro.exblog.jp/21407726/)
(http://iwahanjiro.exblog.jp/21418363/)
その書物が書かれた経緯については、以下のような解説がされている。
「日本使節の見聞対話録」が書かれた経緯
1582年遣欧使節派遣を企画・断行し少年たちを引率したイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、往路インドにおいてローマ本部からの指示によって少年たちと離れその地に留まってインド管区長の職に就いた。そして、5年後の1587年5月ヨーロッパから戻って来た少年使節たちとインドのゴアで再会し、その翌年1588年8月マカオに到着した。
その際、一行から見聞や体験を聴取し、旅先での記録として整理しマカオ滞在中に編纂して、同じイエズス会の司祭ドゥアルテ・デ・サンデにラテン語で書かせた。それが、「日本使節の見聞対話録」であり、その内容は、千々石ミゲルが二人の従兄弟(いとこ)リノ(大村喜前の弟)、レオ(有馬晴信の弟)を相手に帰国後に旅先での見聞を語る「対話録」の形式で書かれている。
「対話録」の虚構性
この「対話録」は上述の通り、日本にいたはずの従兄弟たちとまだ帰国前の千々石ミゲルがあたかも面談し語り合っているかのように書かれているという点で既に虚構(フィクション)である。従って、そこに書かれてある事柄もそのまま歴史的事実と考え論ずることは出来ない筈のものである。ところが、大航海時代に世界に散在したと考えられる日本人奴隷の惨状が論ぜられる際に、この「対話録」の内容がそのまま引用されることが少なくない。
私の場合、実際に「対話録」の日本語訳である「使節記」を読んでみたところ、キリシタン関係の書物にありがちな恭(うやうや)しい言葉の羅列と気取ったようなものの言い方が鼻について、読み続けるのに苦労した覚えがある。また、表現のされ方以前に、書かれている事項の信憑性に疑問があるものであるにもかかわらず、何故そのような文書が日本人奴隷に関する議論の根拠として引用されることが多いのかという疑問と不満を感じ続けてきた。
「見聞対話録」(ラテン語)・「遣欧使節記」(日本語訳)の抜粋
とは言え、「対話録」・「使節記」にどのようなことが書かれているかを先ず確かめて頂くことが肝要だと思うので、「使節記」のうちの日本人奴隷に関する記述(p.232~235)を以下に抜粋したので先ず目を通して頂きたい。
レオ ちょうどよい機会だからお尋ねするが、捕虜または降参者はどういう目に遭わされるのだろう。わが日本で通例やるように死刑か、それとも長の苦役か。
ミゲル キリスト教徒間の戦争で捕虜となったり、やむをえず降伏する者は、そういう羽目のいずれにも陥ることはない。つまり、すべてこれらの者は先方にも捕虜があればそれと交換されるとか、また釈放されるとか、あるいはなにがしの金額を支払っておのが身を受け戻すのだ。というのも、ヨ-ロッパ人の間では、古い慣習が法律的効力を有するように決められ、それによってキリスト教徒は戦争中に捕われの身となっても賤役を強いられない規定になっているからだ。
だがマホメット教徒、すなわちサラセン人に属する者に対しては、別の処置が取られる。これらの者は野蛮人でキリストの御名の敵だから、交戦後も捕えられたまま、いつまでも賤役に従うのである。
レオ そうすると、キリスト教徒なら、その教徒間では戦争中に捕虜となっても、賤役に従えという法律に拘束される者は一人もいないわけだな。
ミゲル そうしたことで市民権を失った者はただの一人もない。それはまた今もいったように、古来の確定した習慣で固くまもられている。
それどころか、日本人には慾心と金銭への執着がはなはなだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨ-ロッパ人はみな、不思議に思っているのである。
そのうえ、われわれとしてもこのたびの旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語を同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった。
マルチノ まったくだ。実際わが民族中のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫(さら)って行かれて売り捌かれ、みじめな賎役に身を屈しているのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。
単にポルトガル人に売られるだけではない。それだけならまだしも我慢ができる。というのはポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、彼らにキリスト教の教条を教え込んでもくれるからだ。
しかし日本人が贋の宗教を奉ずる劣等な諸民族がいる諸方の国に散らばって行って、そこで野蛮な、色の黒い人間の間で悲惨な奴隷の境涯を忍ぶのはもとより、虚偽の迷妄をも吹き込まれるのを誰が平気で忍び得ようか。
レオ いかにも仰せのとおりだ。実際、日本では日本人を売るというのような習慣をわれわれは常に背徳的な行為として非難していたのだが、しかし人によってはこの罪の責任を全部、ポルトガル人や会のパドレ方へ負わせ、これらの人々のうち、ポルトガル人は日本人を慾張って買うのだし、他方、パドレたちはこうした買入れを自己の権威でやめさせようともしないのだといっている。
ミゲル いや、この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。何といっても商人のことだから、たとえ利益を見込んで日本人を買い取り、その後、インドやその他の土地で彼らを売って金儲けをするからとて、彼らを責めるのは当たらない。
とすれば、罪はすべて日本人にあるわけで、当たり前なら大切にしていつくしんでやらなければならない実の子を、わずかばかりの代価と引き替えに、母の懐から引き離されていくのを、あれほどこともなげに見ていられる人が悪い。
また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガル王から勅令をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。
しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人は、これをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。
だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。さればといって、日本人がこうい賎役に陥るきっかけをみずからつくることによって蒙る汚点は、拭われるものではない。したがってこの罪の犯人は誰かれの容赦なく、日本において厳重に罰せられてよいわけだ。
レオ 全日本の覇者なる関白殿が裁可された法律がほかにもいろいろある中に、日本人を売ることを禁ずる法律は決してつまらぬものではない。
ミゲル そうだ。その法律はもしその遵守に当たる下役人がその励行に目を閉じたり、売り手を無刑のまま放免したりしなかったら、しごく結構なものだが。だから必要なことは、一方では役人自身が法律を峻厳に励行するように心掛け、他方では権家なり、また船が入ってくる港々の寵なりがそれを監視し、きわめて厳重な刑を課して違反者を取り締ることだ。
レオ それが日本にとって特に有益で必要なこととして、あなた方から権家や領主方にお勧めになるとよい。
ミゲル われわれとしては勧めもし諭しもすることに心掛けねばなるまい。しかし私は心配するのだが、わが国では公益を重んずることよりも、私利を望む心の方が強いのではなかろうか。実際ヨ-ロッパ人には常にこの殊勝な心掛けがあるものだから、こうした悪習が自国内に入ることを断じて許さない。
「対話録」の内容とその背景
1.1570年、ポルトガル国王は日本人奴隷取引禁止の勅令を布告している。これは、1567年以前に平戸・横瀬浦・福田経由日本人が輸出されていたことに対し、「布教に支障をきたす」としてイエズス会がポルトガル国王へ働きかけたことによるものと考えられている。
ところが、その勅令はその後実施・履行されなかった。その理由のひとつとしては、イエズス会の考え方が、自己の布教事業に不都合であるというだけで、奴隷売買自体が社会倫理に反するという強固なものでなかったことがあげられている。さらに、それだけでなくイエズス会士自身が奴隷貿易に関与していたことも指摘されている。
2.天正15年6月(1587年7月)、秀吉は日本の中央政権として初めて正式なキリシタン禁令を発布するが、その直前にイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョのもとに使者を送り詰問を突き付けた。その中に「何故にポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷としてその国に連れ行くか。」という内容が含まれていた。
これに対するコエリョの回答は、「日本側の諸領主に対し禁止を勧告すべし。」というものだった。つまり、「奴隷を売る者(日本人)がいるから買う者(ポルトガル人)も出て来るのだから、日本の当局が奴隷を売ることを禁止すればよい。」とコエリョは秀吉に反論したことになる。「対話録」でのミゲルの発言は、そのコエリョの回答をそのままなぞっているのである。
3.上記の「キリシタン禁令」の条令文としては、天正15年6月18日付け「覚」と翌日6月19日付け「定」と呼ばれる二通りの内容のものが残されており、その内容はかなり異なるがどちらも正文であると認められている。
「覚」には、日本人を海外に売却することを咎め日本人奴隷の売買を禁止する条項があり、「定」には、宣教師に20日間以内に国外退去を求める条項がある。
1588年6月、アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノと少年使節たちはマカオに到着し、前年7月の秀吉による「キリシタン禁令」発布を知らされる。その時点からマカオを出発する1590年5月までの約2年間、ヴァリニャ-ノは少年使節たちと自身の日本への再入国を安全に果たすとともに、危機に瀕しているキリシタン勢力を挽回するための方策を必死で探ることを余儀なくされる。特に、「キリシタン禁令」に示された「日本人奴隷売買問題」と「宣教師国外退去要求」はヴァリニャ-ノに重くのしかかったことだろう。当然、「対話録」の内容にはそれが色濃く反映されたはずである。
1590年7月、ヴァリニャ-ノは少年使節たちと共に長崎に帰着し、翌年3月ポルトガル国インド副王使節として京都聚楽第において関白秀吉に謁見する。
「対話」の内容について思うこと
1.ヨーロッパ社会を理想的なものとし、日本人の考え方や行動を恥ずべきものとする発言は、現在でも時々出くわす日本社会や日本人を日本人自身が卑下する意見に似ていて面白い。また、そういう考え方、言い方が400年前からあったということも興味深い。
その時代の宣教師たちは、日本人が日本人の国民性とでも呼ぶべきものに引け目を感じて、自分たちにとって都合の良い考え方になびいてくれることを望んでいたということだろうか。
その他の「対話」の内容も、そもそもこの「対話録」が当時のイエズス会の立場を擁護し弁明するために書かれたものである以上、その意図を臆面もなく表しただけのことであり、それをいちいち採り上げることは余り意味がなさそうである。そこで、彼らの勝手な一方的見解と思われる部分には下線を引くだけにした。すると、かなりの部分に下線が付いてしまった。
2.ただ、ヴァリニャ-ノが「日本人奴隷売買問題」について、イエズス会主導のキリシタン教会にとって有利な理解を日本人信徒たちから得ようとしたことは当然ではあっても、日本人信徒も甘く見られたものだと思うと気分は良くない。当時は日本人信徒が内外の情勢を知る機会は極端に乏しかっただろうと考えると、なおさら彼らが哀れである。
3.それにしても、「対話」において世界各地での日本人奴隷の悲惨な状況を印象付けるような発言をここまでさせている点は意外であった。と言っても、常に権謀術数に満ちていたであろうヴァリニャ-ノの言動を考えれば、彼が日本人奴隷の真実の姿を伝えようとしたなどと考える訳にはいかないことは言うまでもない。
それでは、何のためにこのような悲惨さを強調するような発言がされたように書かせたのか。
4.日本人奴隷拡散の規模とその境遇の悲惨さを日本人が知るための客観的な資料は、その時代はもちろん、つい最近までほとんど無かった。私にしても、インタ-ネットなどで「戦国時代のキリシタン大名が弾薬と引き替えに何十万人に及ぶ奴隷を輸出していた。」等の記述に接し、その可能性も否定できないけれど、もしかして誇張ではなどと思うしかなかった。
しかし、今回改めて「対話録」を読んで、日本人奴隷拡散の規模・程度が世界的に周知の事実となっている以上、もはやこれを日本人に対して隠し通すことは不可能であり、キリシタン教会の組織防衛の観点からそれを認めたうえでの反論を用意したということではないかということに思い至った。誕生した豊臣統一政権にそれだけ圧力を感じ危機感を募らせたということかもしれない、とも思う。
私がそう考えるに至った理由は、実は『大航海時代の日本人奴隷(アジア・新大陸・ヨ-ロッパ)』(ルシオ・デ・ソウザ 岡 美穂子著)中公叢書 という本を読んだからである。
そこで、次回はその本についてお話したい。
(つづく)
〈参考文献〉
デ・サンデ天正遣欧使節記 泉井久之助 他 訳 新異国叢書5 雄松堂
キリシタンの世紀 ザビエル渡日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著 岩波書店
天正遣欧使節 松田毅一著 講談社学術文庫
by GFauree | 2017-11-26 06:03 | 日本人奴隷 | Comments(2)
わくわくドキドキ早る気持ちを抑えながら読み進めました。
歴史の背景をこのように、当時の現実と人間の心理を丁寧にさらいながら考えてみるということをしたことのない私は、今回もまた目を開かされるような気持ちで拝読致しました。
岩井さまの着眼点と語り口に、胸に響くものを感じます。
どうかくれぐれも御身お大切にされながら、お続け頂けましたら嬉しく存じます
暖かい励ましの御言葉を有難うございます。
仰るように、資料や立証された事実は出来るだけ調べ尊重しながら、極力自分なりの考えを出す様に努力しています。自分の考えを出そうとすると、日頃は隠している“ひがみ根性”や人間や社会に対する“見方の浅さ”なども露わになってしまいますが、とにかく自己表現にはなるので楽しみにもなっています。お陰さまで続けていく力が湧いてきました。
岩井