【大航海時代のおと】

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「最後の伴天連」シドッティ

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1.「最後の伴天連」シドッテイ




1708年10月
のことである。「島原の乱」が終結しポルトガルとの国交が断絶され、禁教・鎖国体制が完成したと考えられる時期から既に約70年の歳月が流れていた。小説「沈黙」の主人公セバスティアン・ロドリゴのモデルとなったジュゼッペ・キアラ(日本名 岡本三右衛門)が江戸の切支丹屋敷に40年間幽閉された上83歳で死亡してからも20年以上が経っていた。

九州最南端から約60キロの屋久島で、月代(さかやき)に剃り上げ侍の装束を身に着けたひとりの外国人が地元の住民に発見された。それが、ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティである。彼は直ちに捕えられ2か月後長崎に送られた。そして、翌年10月江戸へ護送され、切支丹屋敷に収容され訊問を受けた。

訊問を行ったのがその年就任した第六代将軍家宣の最高顧問として幕政に強い影響力を及ぼしつつあった儒学者新井白石であった。白石はシドッティの本国送還を具申したが、幕府は切支丹屋敷へ終生幽閉することを決定する。

シドッティには、宣教禁止の条件付ではあるが「年に金二十両五人扶持の手当て、さらに毎日二汁五采の食事」が与えられ、長助・はるという夫婦が従僕として付けられることになった。「拷問や棄教を強いられることもなく、祈祷書など書籍類の携帯と祈りさえも公然と許されるというかつてない厚遇での幽閉であった。」

シドッティが切支丹屋敷に幽閉されてからおよそ4年が経った頃、従僕長助・はる夫婦が木を削って作った十字架を胸にかけていることが発覚し、二人はシドッテイに感化され彼から洗礼を受けたことを告白した。シドッテイは両名と共に屋敷内の地下牢に監禁され、10カ月後の1714年10月46歳で死亡した。死因は衰弱死とされている。




2.シドッテイを身近に感じるには時間がかかった



シドッテイの件は、開府から百年以上経ち鎖国体制の固まった後の江戸時代中期の話である。確かにキリスト教宣教に関する出来事ではあるが、キリシタン時代の宗教や文化の交流や政治・交易に関わった人々と社会をリアルに感じたいという動機で探索を始めた私にとって縁遠い話題だった。ところが、それが長い時間をかけてだんだん身近になってきた。歴史探索にはそんな楽しみもあるんだと思うと少し嬉しい。


(1)新井白石の取り調べ

いつ頃か忘れてしまうぐらい前のことだが、鎖国時代の日本に潜入しようとしたイタリア人司祭を新井白石が取り調べた、ということを何かで読んだことがある。シドッティのことである。白石の狙いは、得られる情報から広く世界の情勢を把握し禁教・鎖国体制を客観的に見直すことにあったらしい。それは、歴史に疎く江戸時代の日本にいた知的な人々のことなど考えたこともなかった私にとって全く新しい観点だった。


(2)シドッテイの墓の発掘

2014年7月、茗荷谷(みょうがだに)の切支丹屋敷跡地の発掘調査が行われたとの報道があり、3体の人骨が見つかりうち一体がシドッテイのものと特定された。

この遺骨をもとにシドッテイの頭部の復元像が製作され、2016年11月に公開された。残りの2体は、一人が日本人、もう一人はDNAが残っていないため分析不能とされている。


(3)木製の十字架

2017年1月公開されたマ-ティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」の最後のシ-ン。火葬される主人公セバスチャン・ロドリゴ(モデルはシドッティが幽閉される24年前切支丹屋敷で死去したジュゼッペ・キアラであることは冒頭に書いた。)の遺骸の掌の中には、日本人妻が密かに握らせた藁作りの十字架があった。

キアラに関して、それが史実であるとの記録は無論ない。一般的にキアラは幕府の禁教政策に協力的な姿勢で40年間の幽閉生活を送り「転びバテレン」としての生涯を受け容れ全うした人物とされている。しかし、そういうキアラであっても、実は日本人妻という自分に最も近い存在を宗教的に感化するという自分の務めを忘れることはなかったのではないかというスコセッシ監督の思いがそこに表現されているのでは、と私は思う。

おそらく、その創作部分は「従僕長助・はる夫婦が木製の十字架を身に付けていたことから、シドッティが彼らを感化し洗礼を授けていたことが発覚した」とされていることがヒントになって発想されたものだろう。




3.「密行 最後の伴天連シドッテイ」古居智子著(新人物往来社)について


相当精緻な探求のもとに書かれた本のようだが、それによって瑣末主義に陥らないよう抑えられ良く整理された内容である。解り易く言えば、書かれていることは信頼できるが詳し過ぎないので助かるという意味である。

特に、シドッティを送り出した当時のカトリック教会の事情として、スペイン・ポルトガル両国による海外進出と一体となった布教体制への反省から生まれたロ-マの布教聖省の存在などが簡潔・的確に説明されている。(布教聖省については、以前クリストヴァン・フェレイラに関する記事で触れたことがあるので、ご参照頂きたい。http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/


また、新井白石がシドッテイに対し訊問を行うには、事前に長崎において通辞(通訳)今村源右衛門他による問答が行われていたこと。さらに江戸での白石による吟味の場にも、今村他通辞が同席していたとの指摘は重要である。

白石の著書「西洋紀聞」の内容は、「シドッティから聞いた世界諸国の地理、歴史および政治、文化、風俗などの海外事情」から「シドッティが日本布教を志した動機やキリスト教の教義」まで複雑かつ多岐にわたるものである。そんな内容を白石がひとりで聞きだせる訳がない。「白石とシドッティの知的対決」も有能な通辞の助力なしにはあり得なかった、という世間で余り言われて来なかった当たり前のことをこの書は教えてくれた。


実は、この書を読みながら割り切れないと感じだんだん膨らんできた疑惑のようなものがある。それは「老僕 長助・おはる夫婦の振舞いの不自然さ」である。そこで、次回はその点だけを採り上げてみることにしたい。


〈つづく〉









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by GFauree | 2018-02-13 06:46 | ジョバンニ・バッティスタ・シドッティ | Comments(0)