【大航海時代のおと】

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「忍ぶ川」と「少年賛歌」

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「忍ぶ川」についての思い出



「忍ぶ川」は、昭和35年(1960年)下期の芥川賞を受賞した三浦哲郎の作品である。私はそのとき小学校6年生だったがかなり世間の話題になっていた(と思う)。

その約10年後、どんなきっかけだったか覚えていないが、まだ学生だった私は「忍ぶ川」を読んだ。そして、その頃家庭教師をしていた家に、その文庫本を置き忘れたことがあった。次に行ったとき、教えていた子の母親がそれを私に返しながら、「三浦さんは、こんな小説を書いていたのね。」というようなことを言った。

私は、そんな感想が意外だったこともあるが、何と受け答えして良いか分からずどぎまぎした。そのくらい、小説の内容がわかっていなかったのだ。それにしても、もう50年近く前のことなのに、妙なことを覚えているものである。

その「忍ぶ川」の文庫本を、よく行く日系人会館の図書室で最近見つけた。若い時に読んで理解できなかった本が分ったりすると嬉しいものだ。さっそく借りて読んでみた。



小説「忍ぶ川」の内容



昭和35年と言えば、「日米安保闘争」の年であり戦後の高度成長の始まりの頃である。世の中が政治的対立と経済復興に沸き返っていたような時期である。けれど、この小説の登場人物は政治にも経済にも無縁である。

学生である「私」と、学生寮の近くにある料亭「忍ぶ川」で働く志乃という女性が知り合い、「私」の故郷で結婚するまでの話である。短編であり複雑な筋書きもない、まるでお伽噺のような物語である。

作者が何を言いたいのか分からないと思ったのはその所為かもしれない。しかし、今回読んでみて気付いたことがある。


作者は「忍ぶ川」で何が言いたかったか



「私」は東北地方の旧家の出であるが、六人兄弟のうち二人の姉が自殺、二人の兄が失踪し残っているのは姉一人と自分だけである。志乃は深川遊郭の射的屋の娘として育った。重篤な病で衰えた父と中学を出て間もない弟と妹、それにもう一人面倒を見るべき小学生の妹を抱えている。家族は栃木に疎開したまま、住むところが無いために神社の御堂で暮らしている。

「私」も志乃も、自分の境遇の困難さを意識していないわけではない。しかし、それを苦にはしていないようだし、相手に対して隠そうともしない。相手の困難な境遇についても、それを恐れたり、逆に無視したりもせず、そのまま受け容れているようである。

若い頃の私は、結婚する程の間柄であればそれは当然のことのように考えていた。しかし、その後見聞きし自分でも経験したことによって、たとえ結婚する程の間柄であっても自分と相手の境遇の困難さを受け容れるということが、殆ど不可能と言えるほど難しいことであると思わざるを得なくなった。

それを考えたとき、この小説は自分と相手の困難な境遇をあるがままに受け容れ、その上にひたすら自分らしい人生を築いていこうとする人たちの姿を描いたものではないかと思えてきた。結婚までの余りに順調な展開がお伽噺のように見えたのも、この殆ど不可能な条件を前提としているからではないかとも思う。

そうしてみると、この小説は自分の経験を語った「私小説」に見えて、実は自分の実体験とは別物の作者の「夢」とも「願い」とも言えるフィクションを語ったものではないかとも考えられる。歳を取ると色々なことが考えられるものだと我ながら思う。




さて、その「忍ぶ川」の作者三浦哲郎が「少年賛歌」という小説を書いている。天正遣欧少年使節を描いて、昭和50年から57年にかけて約6年間にわたって文藝春秋に連載されたものである。「少年賛歌」が連載され始めたのは「忍ぶ川」の芥川賞受賞から15年後である。

「忍ぶ川」と「少年賛歌」では題材が全く違うように見える。「少年賛歌」には一体どんなことが書かれているのだろうか。そんな言わば好奇心から「少年賛歌」も借りて来て読んでみた。


「少年賛歌」について


インド、アフリカ廻りで、ポルトガル、スペインからイタリアまでを往復する、壮大な旅行記が従者コンスタンチノ・ドラ-ドの眼から描かれている。

16世紀の事である。航海の辛さ、病気の苦労も少年たちにとって相当なものであったに違いない。また、ヨ-ロッパの街の歓迎ぶりや、王侯貴族、ロ-マ法王や教皇庁高官との接触など、400年以上前の日本人の少年達が直接経験したことと考えると強く興味をそそられるものがある。

ただ、少年達の輝かしい経験を読めば読むほど、その壮大な旅を成り立たせたものを思わざるを得ない。巡察師ヴァリニャ-ノの先鋭な企画力とイエズス会の膨大な組織力である。しかし、その企画力も組織力も帰途少年たちがマカオに到着した頃から、破綻を見せ始める。

前年秀吉によって伴天連追放令が布達されていることが判明したため、一行の帰国が危ぶまれれるようになったのである。

イエズス会の存在にとって、政治権力との良好な関係は必須である。伴天連追放令は関係の悪化どころか、イエズス会が主導するキリシタン教会に存亡の危機をもたらすものだったのである。

他にも様々な側面の綻びが露わになる。少年達は日本人女性の奴隷を見かけ、それをミゲルは外国人神父たちが、自分たちにとって不都合なものをひた隠しにしてきたことの証だと決めつける。

使節たちは自分たちの知己でもあるひとりの外国人神父が、遣欧使節の欺瞞性を告発したことも知る。

副管区長コエリョがヨーロッパへ軍事的支援を要請するべく派遣したモ-ラ神父は、きわどいところでヴァリニャ-ノによってマカオで抑えられた。


帰国後の使節たちは、インド副王使節一行という名目で秀吉との謁見を果たすが、それは薄氷を踏むような危うい会見であった。


ここまで来ても、私が最初に抱いた疑問にたいする答は見つかっていなかった。それは、あの「忍ぶ川」の作者が、一体「少年賛歌」で何を言いたかったのだろう、ということである。

その答は最後の最後に浮かんできた。



使節たちのその後の足取り




その後の使節たちが辿った足取りは実に多様である。

千々石ミゲルは、イエズス会を脱会、棄教し、従兄の大村喜前に仕えた。
伊東マンショは、有馬のセミナリオでラテン語の教師をした後司祭となり、43歳のとき長崎のコレジオで歿した。
原マルチノは司祭になった後、家康の切支丹禁令で故国を去ってマカオに赴き60歳で病没した。
中浦ジュリアンはマンショ、マルチノとともに司祭になったが布教に献身し国内に潜伏、65歳の時殉教した。
コンスタンチノ・ドラ-ドはマカオで司祭となり、セミナリオの院長を勤めていた時55歳で亡くなった。


そこに作者が言いたかったことが


それぞれが多難な人生を歩み、一生の終え方も終えた場所も様々である。

ということは、同じ少年使節とは言いながら、ひとりひとりが自分に与えられた境遇を受け容れ、与えられた人生をただひたすらに全うして行ったということではないかと思えてきた。作者はそれを讃えたかったということではないだろうか。

この使節たちの姿は「忍ぶ川」の二人の主人公にもつながる。使節たちの晩年の姿が「忍ぶ川」の二人のそれからの姿を暗示しているという意味である。

そういえば、三浦哲郎の代表作の一つ「白夜を旅する人々」のテ-マもそういうことだったような気がする。



〈おわり〉




















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by GFauree | 2018-04-10 12:49 | 千々石ミゲル | Comments(0)