【大航海時代のおと】

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インド副王使節の贈り物 [その2]

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                                          (写真撮影 三上信一氏) 







イエズス会のアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが、京都聚楽第においてインド副王使節として秀吉に謁見したのは、1591年3月3日のことである。そして、その約一年半後秀吉はフィリピン総督が派遣した使節一行と名護屋(現在の唐津市)で接見している。


このフィリピン総督の使節については、過去「ペル-からパナマ・マカオ経由日本へ行き、秀吉に会った男がいた?」[その1]という記事を書いたのでご参照頂きたい。(https://iwahanjiro.exblog.jp/20646027/

フィリピン総督の使節一行とは、ドミニコ会司祭フアン・コ-ボとその中国人従者アントニオ・ロペス、船長ロペ・デ・リャ-ノ、それとペル-を出てマカオ経由来日していたスペイン人商人フアン・デ・ソリスとその従者である日本人(と思われる)通訳ルイスである。

1591年、秀吉は服属を要求する書面をフィリピンへ送った。そこで、フィリピン総督が秀吉の真意を探るために送って来たのがフアン・コ-ボとロペ・デ・リャ-ノなのである。

ただ、このフィリピン総督使節による秀吉謁見の日付は不思議な事に明確にされていない。しかし、「日本巡察記」松田毅一(東洋文庫)の解題Ⅰに、「フアン・コ-ボが秀吉に謁見した後2週間ほど経た8月29日に寺沢志摩守広高を長崎奉行に任命し・・・」とあるので、ここではその日付は(1592年)8月15日頃だったとしておこう。



さて、この「インド副王使節」と「フィリピン総督使節」という二つの使節について気付くことは、相互に種々対立抗争の種を含んだものであったことである。。



1.隣国同士はどこでも仲が悪い


「インド副王使節」は前回述べたように、ポルトガル国のインド(ゴア)駐在の副王が派遣したものという意味であり、「フィリピン総督使節」はスペイン国のフィリピン(マニラ)総督が派遣したものという意味である。つまり、互いに異なる隣国の進出拠点から派遣されたものである。ただし、ポルトガルは1580年から60年間スペインによって実質上併合されていたのだから、同じ国同士のようなもので対立など無かったと考えがちである。ところが実際はその逆で両国民の間には近親憎悪的な強い緊張関係があったと考えた方が当たっている。実情はいずこも同じである。

ポルトガルの居留地であるマカオとスペインの植民地であるマニラの関係には、1580年の併合当時から一触即発の微妙なものがつきまとった。また、ペル-出身のスペイン人商人フアン・デ・ソリスがマカオにおいて船や銀を差し押さえられたうえ様々な面でポルトガル人たちの虐待を受けたことの背景には、ソリスの行動がスペイン領であるペル-の銀を直接ポルトガル領マカオに運ぶという王室勅令に違反するものであったこと以外に、両国民の対立感情があったと考えても間違いはないようである。



2.ポルトガル系のイエズス会とスペイン系の托鉢修道会(ドミニコ会など)との縄張り争い


フランシスコ・ザビエル渡航以来のイエズス会の布教実績に基き日本にはポルトガルの布教保護権が及ぶ旨、法的に定められていた。すなわち、1575年のローマ教皇大勅書によって、日本のキリシタン教会にポルトガル国王布教保護権が及ぶこと、従ってその保護者がポルトガル国王であることが決定されていた。ということは、カトリック教会およびその海外布教を支えていた国家においては、日本は潜在的にポルトガル領として認められていたのである。

前回[その1]の記事の中で、アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノがインド副王使節として派遣されることになった背景には、イエズス会上層部からポルトガルのインド副王に対し日本へ使節をおくるよう要請がなされていたことがあると書いたが、何故イエズス会がそのような要請をしたのか見当が付かなかった。


しかし、日本にポルトガル国王の布教保護権が及ぶ、つまりポルトガル国王(副王)が日本への布教責任の一端を担っているのだから、インド副王は布教推進を促すべく秀吉新政権に使節を送るべきだとイエズス会は考えたのだろうということに思い至った。また、当時の教俗一体の布教体制を当然のことのように考えていたヴァリニャ-ノは、国家権力の使い走りとして派遣されることに何の抵抗も感じないばかりか、むしろ自らの存在の権威付けの機会と考えたのだろう。


反面、この教皇勅書に裏付けされたポルトガル国王布教保護権はイエズス会以外のスペイン系(托鉢)修道会を日本への布教活動から排除するはたらきをしていた。従って、逆に托鉢修道会は様々な機会に日本への参入を狙う必要があった。そういう意味で、強硬な秀吉のフィリピン外交は、ドミニコ会にとって自らの主張を日本の最高権力者に直接訴えることのできる絶好の機会と成り得るものであった。使節を派遣したフィリピン総督が及び腰であったようであるのに比べ、ドミニコ会は千載一遇のチャンスと捉え喜々としてコーボ神父を送り出したことが想像される。



3.ペル-から来たスペイン人商人フアン・デ・ソリスは火付け役


フアン・デ・ソリスがどんな背景を抱えた人物であったかは、冒頭に挙げた記事を読んで頂きたいが、彼については、種々不明、不可解な点がある。

そもそも彼がアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノと同時に来日し、それにもかかわらずそれについて何の説明もないことが不自然である。ソリスは、マカオで船と金銭を差し押さえられたばかりでなく虐待までされているところをヴァリニャ-ノに救われたと言われているのである。なぜ、彼がヴァリニャ-ノに預けた金を返して貰おうと、ヴァリニャ-ノを追ってきたとか、そうではなく他の理由で来たとかが言われていないのだろうか。それが謎である。

それに、ソリスについて、目を引くことは「薩摩で建造していた船の航海士が変死し、船そのものも失った」という事件である。これを読んで、私は[その1]に書いたアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノにとって不都合な策謀を企てた準管区長ガスパル・コエリョの突然死を連想した。一方はポルトガル人商人の集団、他方はイエズス会が関係している。この時代においては、邪魔な存在を文字通り抹殺するということが今よりもはるかに身近な問題解決策であっただろうことを考えさせる。

ソリスは、ドミニコ会司祭フアン・コ-ボに随行し秀吉に謁見した際、秀吉に対し「ポルトガル人が他国(つまりスペイン)船の日本への渡航を妨害し、また金銭を奪った」と訴えた。そのため、秀吉は長崎の教会を全て破壊しその用材を名護屋に送るよう命令し実行させた。これについて、イエズス会のルイス・フロイスは「しかも、そうした物質的な損失の外、この教会と修道院の破壊は、種々の理由から、近年、しばしば生じた迫害のうちで、我らが今まで堪えて来た最大の精神的損失と悲哀であった。」と書いている(が、この“大迫害”について、いわゆる「日本史」の中ではあまり言及されることがないように感ずるが何故だろうか)。とにかく、フロイスはソリスのいわれのない誹謗中傷によって“大迫害”の苦しみを味わうことになったと嘆いてみせているのである。




このように明らかに対立する要素があったために、二つの使節の発言や報告や証言には互いの使節に対する様々な批判的主張が含まれていて、それがまた二つの修道会の間の対立抗争の実態を浮き彫りにしている。それは、まるで泥仕合である。


1.
フアン・デ・ソリスが秀吉謁見の場を利用して上記の訴えをしただけでなく、イエズス会にとって不利な事を秀吉に暴露するとまで公言したとルイス・フロイスは伝えている。イエズス会にとって不利な事とは、「インド副王使節」は虚構のものであったとか、追放令の後も宣教師を匿(かくま)っている大名の名前とかである。


2.
フアン・コ-ボも、秀吉謁見の席上、「『インド副王使節』が関白秀吉に対し贈り物を進呈したが、偉大な君主であり無数の国々を有するスペイン国王が何者かに服従するということはあり得ない。」と述べている。(「インド副王使節」の秀吉への贈り物は、スペイン国王が秀吉に服従すると誤解させるためのものだったとの解釈に基く、やや早とちりに感じられる見解ではあるが、「インド副王使節」の意図がコ-ボの言う通りではなかったとも言い切れない。)

フアン・コ-ボの従者アントニオ・ロペスは、「このフアン・コ-ボの発言によって、秀吉は『インド副王使節』に騙されたと怒り長崎の教会を破壊することを命じた」と、秀吉の怒りは、前述のフアン・デ・ソリスの訴えによるものではなく、「インド副王使節」の欺瞞性を知らされたことによるものだとする証言を後にフィリピンでしている。


3.
ルイス・フロイスは「日本史」の中で、「関白はルソンから使節が到着したと聞くと、それはかつてのインド副王使節と同様に盛大なものであろうと思っていたところ、後になって様子が違っていることを知ると、非常に不機嫌になった。」と記している。そして、さらにフアン・コ-ボについて、「この『お人好しの司祭』は経験と情報(の)不足から、自分が関白に向かってポルトガル人のことを悪く話したことを弁解し・・・。」と述べている。


この相手使節への非難の応酬を読んでいるうちに見えてきたことがある。それは、使節の秀吉謁見に関して、「贈り物」が非常に重要な要素だったらしいということである。コ-ボは「贈り物」を恭順の意思の表れと考えた。フロイスが、「秀吉はルソンの使節が盛大でなかったために非常に不機嫌になった」とうのは「贈り物」のことを言っているのではないか。さらに、コ-ボのことを「お人好しの司祭」と揶揄するような表現をしているのは、豪華な「贈り物」をする知恵がなかったと言いたいのではないか、と思われるのである。



ここで、改めて「贈り物」の金額について書かれている事柄を拾い上げてみよう。

フアン・ヒル著「イダルゴとサムライ」には次の記述がある。

1.ルソンの(フィリピン・ルソン島の、つまり「マニラの」という意味)官吏の会計帳簿の記録として

(1)コーボ神父が日本に持参するために、681ペソ7トミン3グラムの値がある金の鎖とこの値以上の現金がレアル貨で授与された。これを皇帝(秀吉)のところに向かう使節に持たせて総督は日本に送った。(これが、どのくらいの価値を持つものかが不明なため、これによって何を言いたいのかは不明であるが。)
(2)日本に向かったコ-ボ神父に200ペソを渡す。7月20日の項が明らかにするように、大麻購入のため。(気になる内容である。)

2.イエズス会系の証言(フランシスコ・デ・エロルデゥイ・デ・オニャ-テ)

アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは7千から1万ドゥカド相当の贈り物を贈ったために、秀吉に歓迎された。

7千から1万ドゥカドという金額がどのように算定されたものかは分からないが、この頃、つまり「バテレン追放令」が発布された直後の日本イエズス会の年間経費が1万ドゥカドと言われている。(高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」)。信者数が20万から30万人と推定される宗教団体の年間経費であるから、相当な金額である。

そこで、思い出すのがフアン・デ・ソリスがマカオで取り上げられヴァリニャ-ノに預けたまま返して貰えなかった金額が6千ドゥカドである。たしか、「インド副王使節」の秀吉への贈り物は殆どが貰い物だったはずである。貰い物なら原価はただである。7千から1マドゥカドという金額にはその貰い物の価値を算定した金額が含まれているのか、それとも貰い物はただとして、貰い物以外に7千から1万ドゥカド相当のものを贈ったというのか。まさか、ソリスから預かった金が秀吉に贈られたということはなかったのだろうか。



以前、「ザビエルと一緒に来たもう一人の神父 コスメ・デ・ト-レス [その5]」と題した記事(https://iwahanjiro.exblog.jp/21719190/)の中で、「ザビエルは日本へ渡航するに当たり、マラッカ長官から最良の胡椒5.7トンの贈与を受け、これを日本に持って来て売り経費に充てた可能性が高い」という話を書いた。貴金属並みであった当時の良質胡椒の価格と5.7トンという相当な量を考えると、胡椒を現金化して得た多額の金は一体何に使われたのかという疑問を 持ったからだ。鹿児島・島津貴久、平戸・松浦隆信、山口・大内義隆からの布教許可が存外円滑に得られたのは、この良質胡椒の効果ではなかったのか。

同様なことは、「インド副王使節」についても起きていたのではないだろうか。この類のことは、記録や報告には残りにくい。贈る方、贈られる方双方にとってこの類は明確にし難いことは明らかである。贈る方にとって、贈る以上は効き目があるものを贈りたい。贈られる方は現金に近いものであればある程、受け取ったことは公にしたくない。

この場合、いくら秀吉が珍しいもの好きであったにせよ、盛んに豪華であると言い羅列されている貰い物では、秀吉は本当には喜ばなかったのではないかと私には思えてならない。そんな珍品を高価なものであると言い募って、だから秀吉が喜んだと無理に強調しているところが、実に怪しい。


〈完〉



〈参考文献〉

Fernando Iwasaki Cauti著 [Extremo Oriente y el Peru en el sglo XVI](16世紀の極東とペル-)
「完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ」    (中公文庫) 第三二章
日本巡察記-ヴァリニャ-ノ 東洋文庫229  (平凡社)解題Ⅰ 第二次日本巡察
イダルゴとサムライ フアン・ヒル著      (法政大学出版局)第一章 剣と刀 五
キリシタンの世紀 高瀬弘一郎         (岩波書店)

                                               

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by GFauree | 2018-05-29 01:59 | インド副王使節 | Comments(0)