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オランダがポルトガルに取って代ろうとしたとき



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通商許可証(徳川家康名朱印状)

オランダ船、日本に渡海の時、何(いずれ)の浦に着岸せしむると謂(いえど)も、相違あるべからず候。
向後、この旨を守り、異議なく往来せらるべく、いささかも疎意あるまじく候也。よって件(くだん)の如し。

慶長14年7月25日(1609年8月24日)   御朱印

ちゃくすくるうんべいけ              

(出展 Wikipedia)








1609年6月29日、マカオからのポルトガル船ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号(以下、ダ・グラサ号と略して表記する。)が長崎に着いた。翌年1月、カピタンモールであるアンドレ・ペッソアを含む乗員と高価な積荷もろとも焼け落ちた船である。



クリストヴァン・フェレイラのこと



この船で日本に渡来した者の中に、その約二十年後日本イエズス会管区長代理を勤めながら棄教し、小説「沈黙」にも登場することになるポルトガル人司祭クリストヴァン・フェレイラがいた。フェレイラは1600年にリスボンを船出し、インド・ゴア、マカオで学んだ後、この時初めて日本の地を踏んだのである。(https://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/

「ダ・グラサ号事件」によって日本のキリシタン教会は実に様々な打撃を受けた。だからフェレイラが、自分の乗船してきた船が焼打ちされた事件を通じて、赴任当初からその教会の抱える現実に気付いていた可能性は少なくない。(https://iwahanjiro.exblog.jp/21320097/

また、「事件」と、その後二十年近くの活動の末結局は棄教し「転びバテレン」として生きなければならなかったフェレイラの人生とを考える時、つい彼の宿命とか不運というものに思いを致してしまうことは感傷的に過ぎるかも知れない。しかし、赴任早々にこの事件に遭遇してしまったことが、彼をしてキリシタン教会の諸問題に目覚めさせ、素直に教えに殉じていった宣教師達とは違う考え方を彼に与えたのではと思うが、どうか。



通辞ジョアン・ロドリゲスのこと



この事件によって運命を左右されたと思われるイエズス会士がもう一人いる。

日本イエズス会のプロクラド-ル(財務管理責任者)を12年間も勤め、会の中の最高の階位「盛式四誓願司祭」に位置付けられ、秀吉、家康の外交顧問と目されポルトガル船貿易に強い影響力を有していたツズ(通辞)ジョアン・ロドリゲスである。(https://iwahanjiro.exblog.jp/23147187/

ロドリゲスは、ダ・グラサ号の長崎到着の翌月、船団の代表一行を率いて駿府を訪れ家康に謁見しており、その行動が事件の混乱を招いたとして、その責任を問われるかたちで事件直後マカオに追放された。追放については、奉行長谷川左兵衛と代官村山等安の策謀だったとの説がある他、ロドリゲスと等安の妻との醜聞も取り沙汰されている。しかし、いずれにしても長崎貿易の新たな管理体制構築のためのポルトガル船及びイエズス会に対する締め付け、排除であったことに間違いはないようだ。

ただし、前々回記事で採り上げたイエズス会内部の報告(以下、「報告」と表記する。)では、ロドリゲスについては船団代表の駿府訪問を引率したことも、事件直後にマカオに追放されたことも一切述べられていない。会にとってそれらは全く取るに足らないほど些細なことだったということなのか、それとも切り捨てねばならないほど都合の悪いことだったのか。



さて、本題に入ろう。

ダ・グラサ号長崎到着の直後である7月初め、2隻のオランダ船が平戸に到着した。
すると、両国の船は長崎奉行を通じて家康に働きかけ、互いに相手の船を捕獲させるべく使節を駿府に送った。


通商許可朱印状

先に駿府に到着したのはポルトガル船の使節であったが、家康はなかなか会おうとはせず、五日後に到着したオランダ船側の使節と先ず接見した。そして、通商を許可する朱印状を与え、平戸商館の開設を認めた。その朱印状が冒頭に掲載したものである。

ポルトガル船の使節にはその後会見し、マカオでの日本人争乱虐殺事件に関して、ポルトガル側が日本船の寄港を禁止するよう要望したのに対し、その要望通りの朱印状を与えた。しかし、オランダ船を捕獲するようにとの要請に対しては、既にオランダに対して通商許可を与えており、それを破棄するつもりはないと回答した。

つまり、オランダとの通商を優先するとの方針はこの時点で既に決定されていたのである。それは、従来自由放任のおそらくは法外にに有利な交易を許容され、自分たちが家康に事情を説明し要望しさえすれば何でも聞き容れられると多寡をくくっていたポルトガル人にとって寝耳に水の話であったようである。



ところで、オランダ船の平戸到着は、なぜポルトガル船の長崎到着(6月29日)の直後(7月1日)だったのか。
「報告」の翻訳の注釈によると以下の事情があったのである。


オランダ船がポルトガル船とほぼ同じ時期に到着したわけ

1607年12月に13隻の商船がオランダを出航、1608年11月マラッカ沖(シンガポ-ル海峡)に投錨して、マラッカ包囲を目論んだが付近の海港ジョホ-ルからの援軍が得られずそれを断念した。(ということは、ジョホ-ルにもオランダ勢力が駐留していたということか。)

11隻はバンタンに航行したが、残り2隻には、ポルトガル船の捕獲又は、日本での交易開始が指示された。この2隻は台湾と中国本土の間で数日間ポルトガル船を待ち伏せた。ところが、濃霧のためポルトガル船は発見されることなく通過し、それに気付いた2隻のオランダ船はやむなく日本まで追跡して来たのだった。


これらの経緯を観て、私には二つの事柄が印象に残った。


第一に、まるで海賊のようなオランダ船の行動


もともと、日本に来た2隻は物理的なマラッカ包囲、シンガポ-ル封鎖を企図してオランダを出航した13隻の大船団の一部であったこと。2隻はまず台湾海峡でポルトガル船を待ち伏せし、濃霧で見失ったために追いかけて来たものであること等を聞くと、商船とはいえまるで戦艦か海賊かとの感がある。

しかし、考えてみれば、これはオランダに始まったことではない。アフリカ、中東、インド、マラッカ、マカオ等の拠点を押さえ進められてきた十五世紀初以来のポルトガルの海外進出の歴史も海賊まがいの行動の集積であったと想像してもそれほど間違ってはいない筈である。


第二に、ポルトガルは、もうこの時期からかなり追い込まれていたということ

日本とポルトガルとの国交は、「島原の乱」の後1639年に発布された第五次鎖国令によって断絶したとされている。そのため、その30年も前のダ・グラサ号事件の時点では、ポルトガル船貿易はまだ安泰であったと考えがちである。しかし、この時点でポルトガルは既にアジアの制海権をオランダに奪われ、ダ・グラサ号のマカオ帰還も覚束ないほど追い込まれていたのである。


しかし、ポルトガル船貿易を苦境に立たせた要因は、オランダによる海賊ばりの捕獲作戦だけではなかった。


新たな貿易管理制度の導入

まず、前回の記事に書いたように、奉行長谷川左兵衛や代官村山等安による貿易管理制度の導入があって、従来のような自由な活動が許容されなくなったこと。


朱印船貿易の隆盛

次に、40人余りの日本人が虐殺された「マカオ争乱事件」で表面化したように、日本の朱印船貿易が隆盛となりポルトガル船の商圏を侵食するまでになっていたこと。

私は、「マカオ騒乱事件」でのポルトガル人の強硬な対応が、どうも従来抱いていた柔軟で腰の低いポルトガル商人のイメ-ジにそぐわないと感じていた。また、40人余りの日本人の殺戮を指示していながら、それを堂々と家康に申し開きできると考えたアンドレ・ペッソアの考え方にも合点がいかなかった。

しかし、そもそも「マカオ騒乱事件」の遠因が日本の朱印船の台頭に対するポルトガル人や関係する中国人の羨望または怨恨にあり、カピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアの強硬な対応は朱印船を送り出す日本に対する彼らの反感に突き上げられてのものだった筈であることに気付いた。

だとすれば、ペッソアとしては度を超した強硬な対応と考えられることも指示せざるを得なかったのかも知れない。そして、対応を指示した責任に見合う面目を保つために、あくまで家康に直接釈明することにこだわったのではないか。それは、軍人出身者らしい一見強気な自信ある態度にみえたようだが、追い込まれた苦し紛れの心境が逆に彼を強気に見せていたのではないか、とも思わせる。


マニラからのスペイン船の参入

さらに、これは「報告」に書かれていることであるが、奉行長谷川左兵衛が「フィリピンのスペイン人からマニラ・長崎間の貿易を持ちかけられている」と語ったということである。この時代ポルトガルはスペインと同一の君主を拝し、実質はスペインに併合されていたのだが、そのスペインさえ競争者として参入しようとしていたということを意味する。

実際に、1606年には7~8隻、1609年には5隻マニラからのスペイン船が来航し、大量の生糸をもたらしたために、生糸価格を大幅に下落させている。

さらに、ポルトガル人にとって不運なことに、ダ・グラサ号の長崎到着の三月後の9月末、フィリピン臨時総督であったスペイン人 ロドリゴ・デ・ビベロの乗った船が、マニラからアカプルコへの途次、千葉岸和田海岸に漂着した。救助されたビベロは、それを好機として家康との間に貿易協定締結を進めようとしていた。


ポルトガル人が長崎交易に固執した理由

それにしても、これほどの悪材料がありながら、なぜマカオのポルトガル人達は長崎との交易に固執し、その後三十年も続けようとしたのか。実際、国交が断絶された年の翌年1640年には、貿易再会を嘆願する使節が派遣されたが全員が捕えられ処刑されたほどなのである。

人は一旦覚えた蜜の味がどうしても忘れられなくなるとよく言われる。それほど特権と自由に守られ放任されていた長崎貿易は旨味があったということなのだろう。そしてまた、奉行左兵衛、代官等安が見透かしていたように、長崎貿易なしではマカオというポルトガル人居留地の経営自体が成り立たなくなってしまっていたのであろう。


ポルトガル船貿易はなぜそれほど脆(もろ)かったのか

ザビエル渡来以来の90年間、キリスト教布教がポルトガル船貿易に支えられていたという見方を認めたがらない人は少なくないが、そう間違ってはいないのではないかと私は思う。そして、ポルトガル船貿易がキリシタン教会にもたらした経済的基盤は一見強固なものだったように見える。しかし、その基盤は国交断絶の約30年前からすでに崩れかかっていたのである。

ポルトガル船貿易が、実はなぜそれほど脆いものだったのか。考えてみれば、ポルトガル船の主要商品は絹、織物、陶磁器それに香料である。全て中国や東南アジアの産品であり、ポルトガル船でなければ扱えない商品などないのである。そうであれば、ポルトガルの地位に取って代る勢力が現われれば、比較的容易に新しい勢力に挿げ替えられるような性質のものだったということも言えるのである。


「鎖国」にはキリシタン禁圧以外の目的があった


「ダ・グラサ号事件」の時点でポルトガル船貿易が抱えていた問題を数え上げてきたが、それらはまたポルトガル船貿易が衰退し消滅していった要因でもある。しかし逆に考えてみると、これだけの要因がありながら、なぜその後三十年間もポルトガル船貿易を存続させたのかが不思議である。

通説では、「鎖国」はキリシタン禁圧を徹底するための政策だったということになっている。そうであるならば、早いに越したことは無い筈である。これだけ条件が揃っていた時点ですぐにでもポルトガルを排除し、禁教を徹底すべきだったのではと思える。ところが、実際にはそうはされなかった。

ポルトガルとの国交断絶によって禁教を徹底することは、幕府にとってそれほど急ぐ必要のあることではなかったのだろうか。

実は、当時の幕府にとって、対外取引に関して、解決せねばならない問題が他にもあったと言われている。それは、対ポルトガル船も含む対外的な貿易によって銀が大量に流出していたことである。当時、流通経済の中枢である大阪は銀本位制であり、流出によって大阪の銀が不足すれば流通経済に支障をきたし、物価騰貴などの経済的混乱が全国に波及しかねなかった。1600年代の初め、江戸時代の初期に物価が高騰していたことが指摘されている。

そのため、ポルトガルとの国交断絶等の「鎖国」政策の真の目的は、「貿易による銀の流出」を防ぐことであって、「キリシタン禁制」は名目または副次的な目的に過ぎなかった、という見方さえあるのである。ただ、もしそれほど「貿易による銀の流出」が深刻で早期に解決すべき問題であったのであれば、なぜポルトガルとの国交断絶がもっと早期になされなかったのかという疑問は残る。

実際にポルトガルとの国交を禁じた法令は1639年の「鎖国令」であるが、それが発布された理由は、1637年から38年にかけての「島原の乱」の平定に手を焼いたことだと言われることが多いようである。

結局真相は、幕府は「キリシタン禁制」や「貿易による銀の流出防止」の課題を抱えながら、ポルトガルとの国交については事態を見守り続け「島原の乱」を契機に断行に踏み切った、ということのようだ。なんだか月並みで面白みのない結論になってしまったが、「歴史」というものはその方が本当らしいという気もする。

(最後の部分は当初の記事を少し冷静になって考え書き直しました。)




〈完〉




[参考文献]

「キリシタン研究」 第十六輯「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」 五野井隆史  吉川弘文館

アンドレ・ペッソアが1609年に〔日本〕航海カピタン・モ-ルとして来航したナオ、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号焼亡に関する報告書 日本イエズス会準管区長付き秘書ジョアン・ロドリゲス・ジラン神父

「キリシタン研究」 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」          Hubert Cieslik S.J.   吉川弘文館

通辞ロドリゲス   マイケル・ク-パ-著 松本たま訳          原書房
鎖国とシルバ-ロ-ド 世界の中のジパング 木村正弘       サイマル出版会
うめぼし博士の逆・日本史[2]       樋口清之       NONBOOK


by GFauree | 2018-11-23 09:11 | ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件 | Comments(2)  

Commented by 小糸 at 2018-12-31 22:57 x
いつも興味深く拝見致しております。こんなに詳細で生きた記事をお書きになるには、どんなにご労力とお時間をお掛けになるのかと毎回思わず嘆息してしまいます。

最近はご体調はいかがでしょうか。どうぞお御身お大切にお過ごし下さいますよう。 
どうぞ良いお正月をお迎え下さいませ。
来年もこちらのブログを読ませて頂けるのを楽しみに致しております。
Commented by GFauree at 2019-01-01 06:22
小糸様
暖かいコメントを有難うございます。
自分なりの見方というものを持ち表現したいと思って書いています。それが楽しみですから、そのために調べることもやめられません。
体調に関して、老化は闘うものでなく慣れるものということを去年学びました。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。 岩井
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