【大航海時代のおと】

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イギリスが消えた

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                         (写真撮影 三上信一氏)
         




渡辺京二著「バテレンの世紀」が読売文学賞(評論・伝記賞)を受賞した。自分が注目した書物が広く採りあげられることは、それだけより多くの人と楽しみを共有できるような気がして嬉しい。

ところで、渡辺が「研究業績にはならないため、一般向けの詳しい通史を書きたがらない」とした研究者や、私が前回の記事に「こういう本は書きにくいのでは」と書いた教会関係者は、この本についてどう考えているのだろうか。改めて訊いてみたいところである。



さて、本題に入ろう。

江戸時代の初め、イギリスが対日貿易に参入しようとしたことは、どこかで聞いたことがあるような気がする。実際、イギリスは平戸に商館を開いたのだが、それがその後どうなったのかははっきりしない。そして、ポルトガルとの国交が断絶され「鎖国」体制が完成したときに残ったのはヨーロッパ諸国の中ではオランダだけだった。

いったいイギリスはどうなったのだろう。オランダが選択される過程で何があったのか。
「バテレンの世紀」から、その点に関する事項を拾ってみた。




1613年1月、イギリス東インド会社の司令官ジョン・セ-リスが率いるグロ-ブ号はジャワ島のバンタムを発ち、6月に平戸に到着した。平戸では、藩主の祖父にあたる実権者松浦鎮信がこの英国船一行を歓待した。セ-リスは松浦鎮信・隆信や彼らの重臣たちと親交を重ね、無論手厚い贈物をした。その甲斐あってか、商館開設は円滑に進んだ。

一方、平戸にはオランダ商館があったから、セ-リスは商館長ヘンドリック・ブロ-ワ-に対し「双方が所有する織物の価格を協定し、それ以下では売らぬことにしよう」と申し入れたが、ブロ-ワ-はこれを拒否し、翌日手持ちの織物を大幅に値引きして方々へ送り出した。

このオランダ商館との角逐以外にも、イギリス商館を悩ます要因が控えていた。当初ばかりは、松浦家から一方的に贔屓(ひいき)して貰えるように見えたものの、その蜜月も長続きしなかったのである。

平戸藩主は、幕閣に対しては商館の保護者であったが、同時に商館に贈物や融資を強要する厄介な金食い虫でもあったのだ。


日本と商売をするためには、日本人が欲しがるものを日本に齎(もたら)さねばならない。日本人が欲しがったのは、生糸と絹織物、それと鹿皮と蘇木。生糸と絹織物は、インドシナで中国船から入手する必要がある。鹿皮と蘇木の産地も、インドシナやシャムだった。

そこで、1614年春、要員をインドシナに派遣したが現地でトラブルが発生し、要員も資金も失う破目となった。続いてその年の12月、購入した和船をシャムに向かわせたが、途中暴風雨や日本人船員の反抗に見舞われ、結局翌年6月に船は平戸に戻った。

その船の船長を務めたのが、ウィリアム・アダムズである。アダムズは、漂着したオランダ船の航海士であった英国人で、家康に取り立てられ側近の家臣となったことで、広く知られている。

元々、英国東インド会社には、インドシナ・シャムでの商品仕入れの手がかりが無く、またその商圏に参入するとすれば、日本の朱印船と競合しなければならなかった。具体的には、日本に売るための商材となる生糸・絹織物はインドシナから入手できたが、結局は日本の朱印船にかなわなかったのだ。

このように、イギリスが苦戦している横で、オランダは東インド会社の方針として、マカオからのポルトガル船と、マニラへの中国船の拿捕・掠奪に専ら注力していた。特に、生糸を満載しているマカオからの定航船を狙っていた。只で強奪した商品を安値で売るのだから、よく売れたし常に儲かった筈である。

1618年、オランダ船は香料諸島で今度はイギリス船を捕獲し始めた。平戸のイギリス商館は、オランダの「海賊行為」を幕府に訴えたが採り上げて貰えなかった。

1619年10月には、イギリスとオランダは平戸の街中で乱闘事件を起こし、オランダ人水夫によってイギリス商館が襲撃された。

しかし、オランダがスペイン・ポルトガル両国と結んでいた12年間の休戦協定が終了しようとしていた。両国に加えて英国まで敵に廻すわけにはいかない。そこで、1619年オランダは英国との間に防衛同盟条約を結び、その条約に基き両国が同数の船を出し合って、10隻の防御艦隊を組織し、ポルトガル船・中国船を拿捕することとなった。


1620年7月、マニラからコーチシナ・マカオ経由日本に向かっていた平山常陳というキリシタンの率いる船が、台湾海峡で英船エリザベスに捕えられた。平山船は日本の朱印船であるが、渡航朱印状の行先がコ-チシナであるのにマカオに行っていたこと、そして、船底に二人のスペイン人宣教師を隠していたことを理由に拿捕されたものであり、防衛同盟条約に基いてオランダ船に引き渡された。

これが、後に55人の殉教者を出す「元和の大殉教」の引き金となった「平山常陳事件」の発端である。

1622年8月
、英蘭防御艦隊は解散した。
1623年5月、平戸のイギリス商館の閉鎖が決議された。
実は、この年3月、後に「アンボイナの虐殺」として喧伝されオランダ・イギリス両国間の外交問題ともなった事件が発生している。モルッカ諸島の南にあるアンボイナ島で、オランダによって英人10名、日本人9名が斬首された事件である。

イギリスは結局オランダに圧倒され、17世紀後半にはジャワ島から撤退し、インド経営に専念することになる。
                             


私の考えたことなど


1.ウィリアム・アダムズについて、その存在がイギリスの日本市場進出に当然有利に働いたのではないかと私は勝手に推測していた。しかし、実情としては彼が活用されることは余りなかったようである。

確かに上述のように、船長としてシャムとの間を往復するようなことは何回かはあったが、それによって平戸商館の業績が大きく伸びるというようなものではなかったらしい。

アダムズは、何よりも東インド会社司令官ジョン・セ-リスとの間に信頼関係を築くことができず、報酬を巡ってもひと悶着があったようだ。一旦は帰国を決意し家康の了解まで取りながら帰国せず日本で一生を終えることになったのだから、祖国に対するよほどの失望があったのではないかと推測する。

ただ、このようなことは一人アダムズに限ったことではないと私は思っている。
「鎖国」の時代、乗っていた船が漂流したために、救助してくれた外国に永く滞在せざるを得ず、結果として欧米で経験を積んだり教育を受けたりした、大黒屋幸太夫やジョン万次郎といった人たちのことである。彼らの伝記を読むと、帰国した後の彼らは、一様に深い失望を味あわされたようである。

彼らは、当然自らの苦難に満ちた経験とそこから得られた知識を活かす場を求めるが、彼らを受け入れる側は彼らを警戒し、彼らに信頼を寄せることも、活躍の場を与えることもしないのが普通だったようである。残念な事ではあるが、自分にない知識・経験を有する人を容易に認め受け容れるほど世の中は寛容ではないのである。


2.「平山常陳事件」について、「バテレンの世紀」に書かれている事柄を読んで、「キリシタン史」とは言え、その政治的・経済的背景を知ることが必要であることを改めて感じさせられた。と言うのは、以前この事件を知ったときには、その背景が掴めなかったために、何故この事件がキリシタン史上重要なのかが正直なところ分らなかったのである。

(1)第一に「なぜ、オランダは捕えた二人のスペイン人が宣教師であることを立証しようとして、二人をオランダ商館に監禁し、拷問を加えるまでしたか」である。幕府のキリシタン取締りのお先棒を担ごうとしただけではないのである。

まず、イギリス・オランダはポルトガル船でも中国船でもない日本の朱印船を拿捕したことを正当化する必要があったのである。

加えて、朱印船による交易が増加すれば、それだけキリスト教宣教師が潜入するなどの危険が増すとして幕府に警告し、自分たちと競合する朱印船の交易活動を抑制させようとしたのである。


(2)第二に「なぜ、長崎奉行長谷川権六は、自身がキリシタンであると疑われる危険を冒してまで、捕えられた二人のスペイン人が宣教師であることを否定したのか」である。

まず、権六はそのスペイン人二人のうちの一人ズニガをかつて逃したことがあり、その一件が露見することを恐れたのである。
また、権六自身が朱印船貿易に出資しており、その活動を抑制するような動きには加担する訳にはいかなかったのである。


(3)「バテレンの世紀」には、「近世対外交渉史家の永積洋子は、(二人のスペイン人司祭が宣教師であると認定されるに際し)トマス荒木が権六を説得して抵抗をやめさせた、としている」と書かれている。

確かに、永積洋子著「朱印船」(吉川弘文館)には「ズニガが宣教師であることを認めるよう、荒木が権六を説得し、権六も自分自身がキリシタンの疑いをかけられていると脅されて、これを承認したものと思われる。」とある。

実はこのブログの過去の記事で、私はトマス・アラキとこの事件との関わりについて触れたことがある。(https://iwahanjiro.exblog.jp/23508763/)しかし、私は、どうして、アラキがそこまで権六を説得したとされているのか、その根拠が知りたい。アラキが権六に対しそれほど発言力があったというのだろうか。


3.オランダと言えば、ひたすら幕府の意向に我慢強く従い対日貿易の市場に残った国との印象を持ってきたが、「バテレンの世紀」を読むとどうもそうでもないらしい。

拿捕と掠奪によってポルトガルに取って代っただけでなく、それを交易の手法として押し通しイギリスまでも東アジアの海から蹴散らした強面(こわもて)の面があったようである。

次回は、そのオランダと日本との間でどんなことが起きていたかを、見てみようと思う。



〈つづく〉
                    
                               

by GFauree | 2019-02-12 03:03 | バテレンの世紀 | Comments(0)