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消えていった或る理想郷 そのⅣ                第2章「強制連行」に付き添い、「大移動」を率いた大馬鹿者たち

消えていった或る理想郷 そのⅣ                第2章「強制連行」に付き添い、「大移動」を率いた大馬鹿者たち_a0326062_09533234.jpg




メスティソ(混血)のイエズス会士たち

1610年、イエズス会は現在のパラグアイを通るパラナ川の流域に初めての教化村ロレトを創設し、それ以降各地での教化村建設を本格化させていく。

その初期に活躍したのが二人の混血(メスティソ)会士、ロケ・ゴンザレスとアントニオ・ルイス・モントヤである。(メスティソとは白人とラテン・アメリカ先住民の混血の者という意味である。)

ロケ・ゴンザレスは、前回の記事に登場した遠征隊の司令官ドン・ペドロ・デ・メンド-サの隊の一員バルトロメ・ゴンザレスを父に、先住民女性マリアを母としてアスンシオンに生まれた。

一方、アントニオ・ルイス・モントヤについては、本書では「スペイン生まれ」とされているが、正しくは、スペイン人男性と先住民女性との間にリマで生まれている。そのスペイン人男性がどういう人物だったのかは、不明である。

多数の教化村の建設と先住民保護に獅子奮迅の働きをしたことは、良く知られているが、彼の残したグアラニ語研究の著書は高く評価され、彼が生きた時代の最も学識のある者のうちの一人ともされている。彼自身の中に、行動する男の性質と、学者・宣教師の性質を併せ持っていたということであろう。

今回採り上げるカニンガム・グレアム著「A Vanished Arcadia」(消えて行った或る理想郷)第2章には、主にそのアントニオ・ルイス・モントヤの事績、特に「先住民12,000人を率いた800キロにわたる大移動」を含む、ブラジルからの奴隷狩り部隊との戦いが語られている。


ある程度までは、成功していたイエズス会の「隔離政策」

教化村建設の殆ど発端から、イエズス会が微妙な立場にあることを、会士自身が自覚していた。それは、常日頃スペイン人入植者たちからは疎んじられていながら、先住民の力がスペイン人のそれに優る時には、イエズス会は頼られるという位置付けである。

イエズス会はスペイン人から嫌われていたから、スペイン人の住む町から遠く離れた所に活動拠点を置かざるを得なかった。また、スペイン人入植者の虐待を警戒する先住民からの信頼を得るために、イエズス会士はスペイン人入植者との接触を出来るだけ稀にせざるを得なかった。

つまり、スペイン人入植者たちは普段はイエズス会士と距離を保つことを望みながら、必要なときは接近したがった。一方、イエズス会士は先住民から信用されるためには、常にスペイン人入植者を遠ざけておく必要があった。だから、先住民をスペイン人から隔てるというこの「隔離政策」は、後年秘密主義の表われであるとしてイエズス会に投げかけられる非難の一つとなったが、当初から必然的に存在していたのだ。

とにかく、以上の理由でイエズス会は人里離れた所へ教化村を建設した。すると、そこに第二の村が必要になるほどの数の先住民が集まった。最初の2~3年の間、イエズス会にとって全ては順調だった。先住民は、一方でスペイン人の虐待から、他方でブラジルからの奴隷狩り部隊(マメルコス、パウリスタ、バンデイランテなどと呼ばれる)の襲撃から逃れられることを喜んで教化村に集まったため、短期間のうちに次から次へと教化村が作られた。

つまり、グアラニ族は最初、ポルトガル人やスペイン人の虐待者から避難する場所として、イエズス会教化村に入ったのだ。ところが、原始林での生活に慣れた人々の常として、そのうちイエズス会の規律にうんざりしてしまい、しばしば森へ逃げ帰った。すると、気の毒な神父たちは、森の奥まで浮遊する新改宗者を追って行き、戻ってくるよう説得せねばならなかった。


奴隷狩り部隊マメルコスとは

イエズス会士が、教化村群の建設を進めている間に、巣窟の鷹が餌にするために太らせた鳩をじっと狙うように、ブラジルの奴隷狩り部隊が教化村に集まった新改宗者たちを捕獲しようと待ち構えていた。約800マイル(1,300キロ)離れたブラジルのサンパウロ市に、奇妙な集団が出没するようになった。ポルトガル人とオランダ人の冒険者と犯罪者に海賊が加わって、ブラジルとパラグアイの無法者の集団となり、マメルコス、パウリスタ、バンデイランテの名のもとに、直ぐにその土地の脅威となった。

彼らは主にブラジル大農園の奴隷として先住民を供給することで、生計を立てていたのだが、直にサンパウロ近辺の先住民を取り尽くし、未知の内陸まで手を延ばしてきた。少しずつ、大河の経路をカヌーで辿り、パラナ川の上流にあるイエズス会居留地に到達した。そこで、彼らは教会を焼き、新改宗者を捕虜とし、神父たちを殺害したのだ。


マメルコス(パウリスタ、バンデイランテとも呼ばれる)の手口

ルイス・モントヤとその他の者たちによれば、マメルコスの手口はつぎのようなものである。

マメルコスの行動は、日曜日にイエズス会教化村を襲うことであるが、それは、子羊たちが教会のミサに与ろうと周囲に集まる時に、神父を殺し改宗者たちを奴隷として連れ去るか、それともイエズス会士に変装して教化村に入り先住民の信頼を得て、それから自分たちの兵士と連絡を取ることである。(その兵士たちは、森の中で待っていたのだろう。)

しかし、これに満足せず、イエズス会士として入り込みミサに参加することをしばしば練習していたので、サンパウロに帰る時のドンチャン騒ぎでの大きな楽しみは、神父のふりをすることだった。つまり、ならず者たちは極悪な行いで儲けるばかりでなく、愚かな行為を大いに楽しんでもいたのだ。

当然のことながら、これら恐るべき陸と海の海賊たちは、イエズス会教化村群において、多くの先住民を一網打尽に捕獲しようと、その機会をひたすら狙っていたのだ。


奴隷狩り部隊マメルコス(パウリスタ)の出現

1628年、エンカルナシオン教化村の前にマメルコスが現われたが、先住民の多くは既に森に避難していた。残った者たちは、羊飼いのいない羊の群れのように、どうすべきかを知らなかった。モントヤ神父は現場に駆け付けた。そして、全てのキリスト教徒に武器を取るように頼んだ。その状況では、疑いもなく彼は正しかった。歴史を読んでいると、如何にしばしば、そして如何に多くの国でキリスト教徒が武力に頼っているかを観て人は当惑する。

難局に対処する前に、モントヤはメンド-サ、ドメネッチ両神父を教化村の主な住民の幾人かと共に、マメルコスと交渉させるべく派遣した。マメルコスは、有名な指導者アントニオ・ラポソの下、町の外に野営していた。

使者がキャンプの領域内に到着すると、マメルコス側はそれを弾丸と弓矢のシャワ-で出迎え、それによって先住民の幾人かが殺され、メンド-サ神父は足に負傷した。その負傷にも拘わらず、神父がキャンプに向かって進み、隊長と話すことを要求したので、マメルコスは彼の勇気に衝撃を受け、前日に捕虜とした先住民の幾人かを彼に解放した。(このあたりの記述は、やや講談調だが、まあ味も素っ気もない教科書調にならないためには仕方ないか。)

翌日、モントヤ神父は、予期していなかったメンド-サ神父の成功に勇気付けられて彼自身が出ていき、パウリスタ隊長と対面し、大胆にも彼らに退却するように迫った。しかし隊長は、それに対する答えとして、部下に対し町に進軍することを命じた。ところが、彼らの固い心が、神父の力強い言葉によって動かされたのか、新改宗者たちが臨戦態勢にあるという事実を知った為か、町の付近に到着したとき、急に進路を変更し、森に向かって進んで行った。

戦闘の一時中断を幸いとして、モントヤは、ディアス・ターニョ神父とフスト・ヴァンスルク・マンシジャ(少し妙な名前だが)神父と共に、当面の間、全ての注意をサンタ・マリア・ラ・マヨ-ル教化村に向けることにした。というのは、その教化村は、当時の全ての教化村の中で最も繁栄した村だったからである。
(因みに、サンタ・マリア・ラ・マヨ-ル教化村には、今日でもなお、建築物と旧教化村の土地に建てられた先住民遺跡とに、当時のイエズス会事業の跡が最も色濃く残されている。)


度重なる奴隷狩りの襲来

1629年、彼らはサン・アントニオ教化村の前に初めて現れ、教会と家々を焼き、奴隷として売るべく先住民を連れ去って、村を完全に破壊した。サン・ミゲルもヘスス・マリアも直に同様の運命を被った。コンセプシオンでは、神父は常に包囲され、兵糧攻めにされた神父と住民たちは、犬、猫、鼠そして蛇さえも食べる羽目となった。

マメルコスは、1630~31年という短い期間に、サン・フランシスコ・ハビエル、サン・ホセ、サン・ペトロ、ラ・コンセプシオンの村々を部分的に破壊した。そして、最初に建設された二つの村サン・イグナシオとロレトは完全に壊滅させられた。


先住民の反応

やりたい放題に振る舞うパウリスタに抗う何の手段も持たないイエズス会に、先住民が深く失望したとしても不思議ではない。そのため、彼らの多くがイエズス会士を呪い、森に逃げっ戻って行き、そのことをイエズス会の神父たちは皆気付いていた。また、キリスト教の洗礼という『毒』によって、パウリスタによる襲撃という『災難』がもたらされた、と先住民が考えたとしても、おかしくはない。孤立したイエズス会士は、自分たちの仔羊である先住民から襲われるという新たな危険に晒されることとなった。

実際に、サン・アントニオの教化村が壊滅した後、モラ神父は先住民にパウリスタの一味ではないかと疑われ、安全のために他の町へ避難せざるを得なくなった。そして、さらに野蛮な先住民の軍勢がサン・アントニオを攻撃するために到着すると、モラ神父が扇動者だったとすぐに考え、かれの追跡に取り掛かり、彼が避難所に到着する前に彼を捕らえようとした。

その様な出来事の中で、確かなことは、イエズス会士たちが、改宗させた先住民に対する義務を果たすべく、彼ら自身が正しいと考える範囲で精一杯行動したということである。


パウリスタによってブラジルに連行される捕虜に付き添って

マセタとマンシジャの両神父は、徒歩で随行者もなくブラジルに向かう15,000人の先住民捕虜に付き添い、死を前にして道に倒れた者たちの告解を聴き、その場で捕虜の解放を懇願した。マセタ神父は、自分自身を辛うじて引きずることしか出来なくなった者の鎖を運ぶことに努めていたが、実は彼自身飢えと絶え間ない身体の苦痛によって半死の状態だったのだ。

彼らは徒歩で、食糧もなく、虫に酷く苦しめられながら、パウリスタの絶えざる暴力と野生動物の危険の中、何を頼りに耐えていたのだろうか。パウリスタは、始終、槍で刺すか頭越しに銃を乱射し、彼らを脅し付けていた。そもそも、世界のその忘れられた片隅の森林の中を旅したことがある人でなければ、推し量ることができない程の大変な苦痛を伴う道程だったのである。

引き裂かれ、赤茶色に日焼けした司祭服を着け、低湿地の中を膝まで水に浸かりながら、人生途上のキリスト教徒のように何度も転び立ち上がって森の道を進み、今や死なんとしている男を見つければ彼の傍らに跪き、野いちごを見つければ道端で食べさせる。そして、自分が通った後に密かに動くジャガ-の姿を見つけるような道行きである。

しかし、彼らは、自分たちの全ての努力が、骨折り苦しんだ大部分の者の努力と同じように無駄になることを実は確信していたようだ。


サン・パウロへ、リオ・デ・ジャネイロへ、そしてグアイラへの長い戻りの旅

森の至る所で度々躓き、開けた平原で日に焼けて、膨らませた牡牛の皮袋にしがみついて川を渡り、漸く捕虜たちとイエズス会士はサンパウロに着いた。そこで、イエズス会士はコレジオを開き、休むことなくすぐに働き始めた。そして、時を選ばず、先住民捕虜を救うため懇願し、嘆願し、説教した。

そして、パウリスタの長の顔に慈悲の色を見出せなかったとき、ブラジルの総領事に会うために、リオ・デ・ジャネイロに向けて出発した。そこで、話をすべき適格な人間は、植民地総督であると言われたが、彼の官邸は5~600キロ(東京から大阪ぐらい)離れたバイアに在った。

少しもひるまず彼らは出発し、バイアでドン・ディエゴ・ルイス・オリヴェイラという多少友好的な人物に会えたが、結局彼は自身の都合を優先させる姿勢を崩さなかった。

それから二人のイエズス会士は、グアイラでパウリスタの更なる侵入が予測されていると聞き出発した。長い戻りの旅である。森を抜け、平原を越え、山岳地帯を横断し、そして湿原とパラナ川流域にある教化村との間に位置する、湿っぽくうすら寒い沼沢地を抜けて歩き続けた。

一方、彼らがバイアで会った植民地総督は、彼らの言葉によって、どうあらねばならないかの意識を目覚めさせられたようである。と言うのは、彼はサン・パウロへの年次訪問時に、入植者たちに対し、彼らの奴隷襲撃に反対する公式発言を行ったが、集会で弾丸が発射され彼は演説を中止せざるを得なかったのだ。教化村の住民は、その時彼に知らせた。彼らにとって正当と思われることや、正当に手に入れた生活手段を諦めるのなら、洗礼取り消しをすることになるだろうと。

以上が、ブラジルの奴隷狩り集団マメルコス(パウリスタ)が奴隷とするべく捕獲した15,000人の先住民が、ブラジルへ連行される際に付き添ったイエズス会士の活動の顛末である。




アントニオ・ルイス・デ・モントヤという男

この(1630年)頃、イエズス会士たちは、気の毒にも先住民の「異教返り」に悩まされていた。そのさなか、殆どいつも原野に駐留していたパウリスタとともに、一人の男が現われ、グアイラからイエズス会士と彼らの新改宗者を連れ出し、豪雨の下でパラグアイの教化村にしっかりと定着させた。それが、アントニオ・ルイス・デ・モントヤである。

彼自身が本の中で語っている。
「私は、30年の全期間をパラグアイで過ごした。(ヨーロッパに特使として派遣された時期を除いて、という意味だろう。)砂漠の中の未開の先住民のために、野生の土地を踏破し連山を横切り、先住民を見つけて、彼らを聖なる教会の真の囲いの中に連れて来るために、また、スペイン国王と天の王とに仕えさせるために。
仲間たちと私は、原野に13の教化村と町を建設した。大いなる不安と飢えと無防備さとしばしば命の危険を感じながら、これをなした。そして、スペイン人と遠く離れて過ごしたこれらの年月は、私を殆ど田舎者にしてしまい、宮廷の洗練された言葉を忘れてしまった。」

彼は、絶えず旅をし続けていたから、逆に担当したグアイラからヤペユまでの地方については、殆ど知らない。また、彼が語っているところによると、旅行のための全備品としては、ハンモックと少しの小麦粉だけだった。そして、彼は普段、サンダルを履くか裸足で徒歩で旅をしており、8~9年の間に一度もパンを食べたことが無かったそうである。


グアイラ地方の宣教のためアスンシオンに旅するモントヤ

1611年から12年頃、モントヤはアスンシオンの管区長からグアイラ地方の宣教を任された。その地方での宣教が順調に進んでいないことが定評となっていたからである。モントヤは、6人の先住民を伴って旅に出たが、今日でも陸路での旅は、最も大胆な旅行者でも卒倒するほど困難なものなのである。

歩き続けて行程の約半分を、彼は独りで歩いて来たことに気が付いた。先住民たちは、後方をだらだらと進んでいたのだ。森の中で夜になり嵐が来た。巨木の根元で空腹を抱えながら、じっとりと湿った夜を過ごし、朝になると関節炎の痛みで足を引き摺って歩いて来たことに気が付いた。そして、それからは腕と膝で這って旅を続けざるを得なかった。

独りぼっちで誰の助けもなく、マラカユと呼ばれる場所まで身体を引き摺って行ったが、カヌーを入手出来ず、あと1リ-グ(約5.5km)進んだ所で死んだように横になった。彼の足はリュ-マチの痛みで巨大に膨らんでいた。その時、聖イグナチオに祈り、イグナチオへの従順の気持ちから荒野を横断する旅に出たことを伝えた。すると、彼は癒され、脚は普通の大きさに戻り、再びアスンシオンへの旅を続けられた。



恩知らずな裏切り者スペイン人入植者たち

1627年、モントヤはグアイラの教化村群の教区長となったが、それは彼に、彼がどういう類の男であるかを示す機会を与えてくれた。この年、グアイラ教化村群に最も近い町である、ヴィジャ・リカ(「美しい村」を意味する名称)のスペイン人入植者たちは、「モントヤが洗礼を授けたタヤオバと呼ばれる先住民首長を侮辱した数人の先住民を罰するため」という名目で遠征隊を送った。遠征隊の真の目的は、奴隷狩りであることをモントヤは良く分かっていた。

彼は充分な理由なしに、先住民に対しなされる如何なる戦いも禁じているスペイン国王の布告を司令官の面前に持って行き、その企ては全て無駄になった。そこで、遠征隊はヴィジャ・リカを離れ荒野に留まった。モントヤは司令官の野望に怒り、サラサ-ル神父と数人の充分に武装した先住民を連れて遠征隊に同行した。

彼がそこにいたことは、スペイン人にとって好運なことだった。と言うのは、第2日目、飛び矢が森から湧き出るように飛んで来て多くの者が負傷したのだ。遠征隊の隊長は退却を命じた。それは、彼らの位置からは見ることのできない敵の射撃に四方を晒されて致命的であることが明白だったからである。

モントヤは、先住民がいる森の縁に立つ何軒かの小屋の前に土塁を積むことを勧めた。彼は、ヴィジャ・リカに援軍を要請する使者を送った。スペイン人は土塁の後ろからさえも圧迫され、身動きが取れなくなった。先住民の数は日増しに増え、3日目には、約4,000人を数えるまでとなり、小屋まで前進して来そうになっていた。

スペイン人隊長は盛り返しを命じ、新改宗者たちはモントヤを連れてその場を離れ、森の隠れ場を手に入れることを望んだ。しかし、モントヤはそれを許さず、兵士を補充し、敵対する先住民を敗走させた。

ところが、スペイン人たちは自分の命が助かったことを感謝するどころか、捕虜(奴隷)を捕まえる望みが消えてしまったことを見て、モントヤが連れて来て直近の戦いで彼らと共に戦ってくれた先住民を捕まえることを望んだ。朝になればスペイン兵たちが新改宗者たちを襲うと聞いたモントヤは、夜陰に乗じて彼らを送り出し、翌朝スペイン人隊長に新改宗者たちを帰らせたことを告げたが、隊長は何も言い返せなかった。

二人の神父は兵士たちが退散するまで辛抱強く待っていて、それから先住民たちを呼びにやり、静かに家へ帰った。



マメルコスのグアイラ地方への侵入とアスンシオン司令官の無為無策

1631年、マメルコスはグアイラ地方へ侵入した。完全な混乱状態の中、モントヤはディアス・ターニョ神父をアスンシオンに送り、司令官ドン・ルイス・デ・セスペデスに彼らに助けを送るよう要請した。彼は、何も出来ないと答え、それ故、グアイラ地方全体を無防備に放置することによって、スペイン王権にとって豊かな地域を失うこととなった。

マメルコスは、ブラジルを本拠地にするポルトガル人の奴隷狩り集団である。1631年の時点で、ポルトガルとスペインは統合されていたが、海外領土では両国は戦争状態だった。そして、ヨーロッパではスペインが両国のうちの強者だったが、ラテン・アメリカではポルトガルが、(後に、ブラジル帝国の一部を形成する)比較的豊かな地方を征服して、むしろ優勢な面もあったのだ。

ドン・ルイス・デ・セスペデスから助力を得ることが出来なかったため、ディエス・ターニョ神父は、事態を王室聴訴院(アメリカ高等裁判所)に訴えるためにチャルカスに派遣された。



アスンシオン司令官の無為無策をなぞるだけのチャルカス王室聴訴院の布告

グアイラ地方を完全な混乱状態に陥れたパウリスタが、その地方の教化村の全てを壊滅させ一掃した頃、ウルグアイでは事業は成功し、ロメロ神父はサン・カルロスとアポストレスとして知られれる二つの教化村を設立した。(1631年)そこで、グアイラで虐げられた新改宗者が直に安全な避難先を見つけられることになる。

ディアス・ターニョ神父はこの時までに、王室聴訴院(高等裁判所)の布告を持ってチャルカスから戻っていた。しかし、その布告は、国王の利益を損なうマメルコスに抵抗してグアイラ地方を守ることが出来なかったドン・ルイス・デ・セスペデスの無為無策を明らかにするに過ぎないものであった。

なお、王室聴訴院は現在のボリビアにあり、アンデス山脈の東側(今のアルゼンチン、パラグアイなど)の住民全てにとって接触するのに極めて不便であった。これが、訴訟を妨げることを意図した政治の傑作であるか、それともスペイン人の無関心または運営の不備であるかは、議論の余地のあるところである。



激しい議論の結果、「大移動」が決定された

とにかく、布告は役立たずであり、ターニョとモントヤは、新たな攻撃に直面するべく、早急に呼び戻された。そして、彼らが到着する前に、サン・フランシスコ・ザビエルとサン・ホセの両教化村は、既に破壊されていた。しかし、まだ破壊されていない3つの教化村があったので、モントヤはグアイラの管区長として、管区のイエズス会士を呼び出し、防御する方策について検討することを要請した。

議論は荒れた。神父たちのある者は、新改宗者たちが徹底的に戦うことを望んだ。繊細な他の者は、充分に武装しておらず訓練も極めて不十分な教化村の住民軍は、彼らの弓では、良く統率され訓練され全員が銃で武装したパウリスタに対して、全く無力であると指摘した。

トゥルヒ-ジョ神父の意見は、先住民を安全な場所へ運ぶことが、より確実だろうということだった。そして、グアイらの大滝の近くで川を渡ることが出来るので、そうすれば襲撃される場合も、彼らとパウリスタの間を分断することが出来るだろう、と指摘した。この忠告は、残りの者にとって、用心深く賢明に思えた。そこで、トゥルヒ-ジョ神父は「大移動」の準備に取り掛かった。



繫栄した六つの村を立ち退いて、安全な移住地を探すという「大移動」計画

絶望の中で、そしてパウリスタとまたそれから逃れて移住していくことの恐怖の中で、新改宗者たちは最良の友としてイエズス会士の方を向き、これから抱えることになる苦痛の全てを彼らに委ねることを決めた。

使者が来て、パウリスタ軍は、ヴィジャ・リカを進んでおり、彼らの強力な派遣隊が南から進んでいる、と伝えた。そこで、モントヤ神父は、最後の決断をして、まだ無傷で残っていた二つの主要な教化村(サン・イグナシオとロレト)からも撤退することを命じた。

それらは、グアイラで最初に建設され、パラグアイにおけるどのスペイン人の町とも同様に重要なものだった。先住民は、モントヤによれば、スペイン人居留地の住民よりも、はるかに良質で彼らの信仰と汚れなさは特に賞賛すべきものだった。彼らは、綿を栽培し、大きな牛の群れを持っていた。そのため、たとえイエズス会の最も厳格な敵であっても、220年の短い時間のうちに多くが成し遂げられたことを、認めるに違いないのである。

1609年にイエズス会がグアイラに来たときには、そこには全く人の手が付いていなかった。そして、1631年に、彼らがそこを去る時、そこはスペイン王権のラテン・アメリカ領土のうち最も繁栄した土地になろうとしていた。他の宣教師たちは、先住民たちを彼らの家から離れるよう説得することは出来ないと考えた。というのは、そこで長い年月彼らが幸福であったからだ。

しかし、モントヤが彼らに自分の計画を説明すると、彼らは皆一斉に同意した。計画は、それによって、イエズス会士というモーゼが彼らの羊をグアイラの荒野の外に導くという点が最も肝要である。かつては、繁栄した六つのイエズス会教化村の最後の立ち退きが、モントヤの命令で行われた後、彼は全てのボート、いかだ、カヌ-を集め、多大な説得の後、パラナ川を下りより安全な移住地を探し付いて行く行くことを全ての住民に了解させた。

六つの教化村の人口は、10万人と推定されたが、その中で1629年から1639年までの間に、数千人がサン・パウロへ捕虜として連行され、数千人が森の中へ離散してしまっていた。


「大移動」の始まり

先住民は、精神的に高揚した状態にあったようである。というのは、幾人かの若者がイエズス会士に、幸せな時代には奇跡を起こす力のあったキリストと聖母の像を荷造りすることを主張し、追放に立ち向かう良い仲間が一緒であれば死さえ天国の前触れとなると明言した。

敵の接近について、彼らに警告するために、彼らが配置していた見張りが警報を鳴らした。モントヤは、直ちにスペイン人の町シウダ・レアルに助けを求めたが、その町自体が既にパウリスタの圧迫を強く受けていて、支援は期待できなかった。イエズス会士が教化村から撤退したことを知ると、パウリスタは原則として教会を焼いた。おそらく、巣が壊されれば、カラスは戻って来ないと考えたのだろう。

大移動の最も困難な部分が今や到来しようとしている。下って行くべきパラナ川の急流と大滝は90マイル(150km)近くに広がり、地域全体に岩が点在し、ツタの絡まる森林の迷路が続く。通り道は無く、土地は砂漠であり、湿った植物を覆って、雲状の水蒸気の水分が、途切れることのない雨の中で吹き上げられていた。

脱落したり逃亡したりする者はいなかった。殆ど糧食も武器もなく、猟の獲物も望めない所で、長旅は始まった。まずいことに、滝の始まり2~3マイル(2~5km)下流に、グアイラのスペイン人が強力な防御柵に囲まれた木製の要塞を築いており、非難してくる先住民を奴隷にしてやろうと待ち構えていたのだ。しかし、これは、巨大な集団全体が静かに森の中に忍び込むことで、通過の跡を殆ど残さなかったために、要塞にいたスペイン人には気付かれずに済んだ。


8日間の彷徨の後の新たな出発

大滝の下流の終点に到達するには8日間を要し、そこから再びパラナ川を航行した。到着すると先ず、糧食と出来るだけ多くのボートを見つける必要があった。しかし、そこには何もなく、彼ら自身の貯えも殆ど使い果たされていた。そして、人々は疲れ果ててもはや歩き続けることは出来なかった。熱病が蔓延し、彼らの多くが死んだ。そして他の者たちは、森で道に迷い、案内人もなく、死が彼らを前進することから解放するまで彷徨うこととなった。しかし、モントヤ神父をはじめ皆、強い気持ちを持って、森から脱出することを諦めなかった。

モントヤ神父は、先住民たちのうちのある者にはカヌ-を作らせ、他の者には、食用のトウモロコシの土地を耕させて働かせ、彼自身は斧と鍬を交互に持ち替えて働き、新改宗者に模範を示した。また、他の者たちは、50フィ-ト(15m)にまで成長した巨大なサトウキビを切り倒し、いかだに組込んだ。このようにして、相当の時間の後、新たな出発のための準備が全て整い、幸運にもパラナ地方の教化村からの糧食が到着した。


モントヤ神父の更なる試練

しかし、モントヤ神父の試練は終わらなかった、何故なら急造されたいかだやカヌ-の多くが、彼の目の前で沈んだからである。先住民の死亡者は多数に上った。しかし、ついに彼らはナティヴィティとサンタ・マリア・ラ・マヨ-ルの教化村に避難所を見つけた。

それから、飢餓が猛威を振るい、非常に多くの人の到着で物資不足が増した。そのため、新来者のうちの600人が一つの教化村で死に、別の教化村で500人が死んだ。さらに、物資不足は膨大になり、気の毒な先住民は果物を拾うために森の中を放浪し、彼らのうちの多くは林の奥まった所で死んだ。

残りの者たちを守る目途が立たず、モントヤは更にフバブルスと呼ばれる小さな川の河岸に彼らを連れて行き、そこに二つの教化村を開設し、また再びロレトとサン・イグナシオと名付けた。その二つの教化村が開設された後、マメルコスは崩壊していた。彼は、国王がグアイラのイエズス会に与えた金から1万頭の牛を買った。そして、いくらかの物を売って、町を経済的崩壊から保護し、先住民たちを牧畜生活に定着させた。それらの先住民たちは全てグアイラでは農耕民だったのである。


こうして、モントヤ達は約12,000人の先住民の人々を、砂漠地帯を経由して500マイル(800キロ:東京・広島間の距離)移動させることに成功し、彼らを彼らの敵から遠く離れた安息地に着地させたのである。尤も、一般的に世間は、この非常に偉大な男たちのことを少しも知ろうとはしないのか、または全く忘れてしまっている。



[私が考えたこと]

1.一筋の光明

今、私が思っていることは、この本を読む前に、スペインによる征服がなされてからの植民地時代に現在のラテン・アメリカ諸国の先住民の人々に対しどんなことが行われたかを知り、またそれが何故であったかを考えておいて良かったな、ということである。特に、ヨーロッパ人が先住民に対して行った搾取・酷使・虐待の理由を考えたことは、正解であった。理由まで理解していれば、多くの人のように、また以前の私のように「そんな搾取・酷使・虐待などは信じ難い。」などととぼけたり、同情するふりをしたりして逃げなくて済むのである。

搾取・酷使・虐待が行われた理由は、単純である。それは、食うや食わずのヨーロッパ人が生き残るための知識や技術を持たずに「移民」という形で絶え間なく流入したからである。それを、ヨーロッパ人は「発見」とか「征服」と称して胸を張った。実は、移民を送り出さねばならない事情がヨ-ロッパ側にあったのである。そして、食うや食わずの人々の流出を国家と教会が奨励し、自分たちもその動きに乗って利益を得ようとしたからである。そのために、南北アメリカの先住民にとって、際限のない地獄絵が展開し続けたということである。

そんな状況を観ると、少しはましな教会人はいなかったのかと探したくなるのが人情である。ほんの僅かではあるが、そういう人たちも確かにいたのである。第2章に書かれている、イエズス会士による教化村建設初期の活動は、ヨーロッパ人による先住民に対する搾取・酷使・虐待の暗黒の歴史の中の一筋の光明である。


2.混血会士の登用

この、イエズス会の教化村運営の初期の活動において中心的役割を果たした二人、ロケ・ゴンザレスとアントニオ・ルイス・モントヤがともに混血(メスティソ)会士であるということを知って、合点がいく気持ちと意外さとを同時に感じた。それは、仕事柄、聖職者にとって現地語を駆使することは必須であり、メスティソであればその可能性が高かったのではと推測できる反面、メスティソの登用には障害があったのではと思うからである。

キリシタンの世紀-ザビエル渡日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著(岩波書店)によると、

イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、ポルトガル領インドにおける人種を次のように分類し、聖職者として教会(イエズス会)内に迎え入れることの是非という観点から評価を与えている。

(一)インド生まれの者 1.原住民
            2.メスティ-ソ(ポルトガル人と原住民の混血者)            
            3.カスティソ(ポルトガル人とメスティ-ソの混血者)
            4.両親ともポルトガル人である者
(二)ポルトガル生まれの者

ヴァリニャ-ノは“原住民”という語を、インド人などの褐色人種に限定しており、日本人などは“白人”として区別している。
(一)の1については、褐色人種は能力・精神共に劣悪ゆえ、一人も入会させてはならない。2、3とも、入会は極力抑えねばならない。

ただ、これはあくまでもアレッサンドロ・ヴァリニャ-ノ個人の意見であって、南米では適用されなかったということなのか。ただ、彼らを登用したことは、単に言語の問題だけでなく教化村事業の運営・発展にとって極めて重要な意味があったことは、その後の事業の展開を観ても間違いのないことだと思う。

これに対して、日本では、日本人による乗っ取りを恐れたという面もあったようだが、「日本人の司祭登用」のみならず、「日本人の入会」自体が日本人の能力不足を口実に制限されていた。その結果、不干斎ハビアンのように、布教活動において重要な役割を果たしていたにも拘わらず棄教する者が出たり、禁教令による外国人宣教師の追放によって即機能不全に陥ったという面があったことは否定できない。

2.やはり日本のイエズス会は緩んでいた

大航海時代叢書 「イエズス会と日本一」高瀬弘一郎 訳・注(岩波書店)より

1614年10月31日付 ジェロニモ・アンジェリスのイエズス会総会長宛て書簡
管区長ヴァレンティン・カルヴァ-リョについて

「彼は自分がいる個室に七、八種類の砂糖菓子をおき、果物の時期には彼の個室は果物で一杯になる。二、三種類の葡萄酒もおいている。管区長が居酒屋のように、個室にこういった物をそなえ、それを勝手に個室で食べたりするのは慎みがない。事実彼は通常、いな少なくともしばしば、自分の個室で、物を食べるのを常としている。

同パードレは、すでに管区長になる前に、他のパ-ドレたちや上長たちに、上述の欠点があるのを指摘したのであるから、いま彼自身がそういった欠点を持っているとは、まさに予言が的中したと言えよう。それによってひき起こされた躓きは非常に大きく、立誓修士の司祭が全員ある協議会で一緒になった際、そのうちの一人が、彼に面と向かって上述の欠点を指摘した。

それゆえ、もしも猊下が彼に対して、そのようなことをしないよう明確な命令を与えないと、(われわれは~)各人が自分の個室に食べ物や飲み物の戸棚をおくことになろう。」

この書簡の日付け、1614年10月と言えば、キリシタン教会に壊滅的打撃を与えたとされている前年1月の全国的禁教令を受けて、多くの宣教師や高山右近などの主だったキリスト教徒がマカオやマニラに追放される僅か1カ月前である。危機に瀕していた筈のこの時期に、この様な内容の報告がなされていたのである。


これと対照的に、幻の帝国 南米イエズス会士の夢と挫折 伊藤滋子著 (同成社)に、ロケ・ゴンザレスと共にパラナ地方の教化村の建設に従事したバリェの同年(1614年)の年間報告があるので引用したい。

「この教化村(サン・イグナシオ・グアス)の教会や各施設の建設はロケ・ゴンザレス神父の並々ならぬ努力に負うところが大きい。彼自身が建築家であり、大工であり、左官であり、自ら斧をもって木を切り、それを牛につないで現場まで運んだ。……(われわれは)一日中汗をかいて働きづめだったので着ていたシャツがぼろぼろになってしまった。洗濯する時間がなく、三週間も同じシャツを着たままだったからだ。このような労働の合間にも、馬が死んでしまったので日に何十キロと歩かねばならないこともある。瀕死の者に洗礼を授けるためである。」

要するに、日本では本気を出していなかったということか。先住民が従順な日本では、本気を出す必要はない、と考えたのだろうか。信者には殉教の仕方を教えて自分たちは……。


3.ブラジルからの奴隷狩り集団につて

マメルコス、パウリスタ、バンデイランテと呼ばれた奴隷狩り部隊は、ブラジルのサンパウロ市で、ポルトガル人とオランダ人の冒険者と犯罪者に海賊が加わって、ブラジルとパラグアイの無法者の集団となったものだという話を読んで、先ずフランシスコ・ザビエルのことを思い出した。

彼を日本に運んできたポルトガル船の船長は、マカオに在留していたポルトガル人商人グル-プの一人だったはずである。商人グル-プと言っても、必要があれば武器を持って戦ったはずである。つまり、マカオに居たポルトガル人も、サンパウロに居た人たちもそう変わらない人だったのではないか、ということである。だから、ザビエルやその他の宣教師を運んできた人たちは、結構危ない人だった可能性もあるのである。それで、ザビエルを運んで来た船長が善良で敬虔な信者であったと、不自然なまでに強調されている理由が分かるような気がする。聖人を運んで来た船長が、マカオ在留の危ない人では困るのである。

それと、もう一つ思い出したのは、伝説の名医修道士ルイス・デ・アルメイダである。ポルトガル船貿易商人として蓄積した莫大な財産を持参金にイエズス会に入り、医師としての知識を医療と病院建設・運営に注ぎ込んだとされているが商人としての成功を投げ打って聖職に転身した理由がどうも想像が付かなかった。しかし、彼が属していたであろうマカオの商人グル-プの性格が上記のようなものあれば、所詮長く続ける仕事ではないと考えたということではないか、ということが推測できるのである。


4.彼らは「大馬鹿者」だったのか

奴隷狩り集団マメルコスによって先住民は捕虜となって、サン・パウロへ15,000人が強制連行された。直線距離で1,300キロ(東京から宮崎の距離)を歩かされてである。それに、イエズス会士は大変な苦痛を抱えながら付き添った。武器を持って戦えない以上、そうするしかなかった。さらに、奴隷狩りの襲撃を逃れて、イエズス会士は、12,000人の先住民を率いて800キロ(東京から広島の距離)を様々な危険の中で移動した。

こういう「付き添い」や「大移動」の困難さを洞察するためには、パラグアイ、ブラジル、アルゼンチンなど南米の奥地の密林、原野、河川、大滝などの地理・気候風土の厳しさを知る必要があることを今回痛感した。著者カニンガム・グレアムは探検家としての経験もあるから、その意味で適材だったようだ。

ところで、イエズス会士たちは、自分たちの全ての努力が無駄になることを確信していたようだ、とカニンガム・グレアムは書いている。しかし、私は、イエズス会士たちは自分たちの努力がたとえ無駄に見えても、全て意味があると確信していたと思う。信仰によって当然そう考えることができる人たちだった筈だからである。

しかし、そういう彼らを、ヨーロッパ社会は理解できず、意味のないことをする「大馬鹿者」であるとして、さぞかし罵(ののし)ったことだろうと思う。何故なら、300年の植民地時代を通じ、先住民に対する搾取・酷使・虐待は当たり前のことであり、先住民のために働こうなどと考えるヨーロッパ人は殆どいなかったからである。しかし、大馬鹿者と罵られても、あくまでも信者に尽くすという言わば当たり前のことをやり通そうとしたイエズス会士には心を動かされる。


〈つづく〉

















by GFauree | 2022-06-20 07:59 | イエズス会教化村 | Comments(0)  

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