【大航海時代のおと】

iwahanjiro.exblog.jp

カテゴリ:日本人奴隷( 3 )

なぜどのようにして、大量の日本人奴隷が世界中に拡散してしまったのか [その3]


a0326062_02010603.jpg
               書記官ミゲル・デ・コントレラスによる人口調査に基くペル-・リマ市の住民台帳(1613年)の表紙




今回は、ルシオ・デ・ソウザ 岡美穂子著 『大航海時代の日本人奴隷』(以下本書を『日本人奴隷』と略して表示する。)の「第二章 スペイン領中南米地域」に書かれている事項を見ることにする。

以下の通り、この時代南米の各地に在住した日本人奴隷が挙げられている。


1.メキシコ  



メキシコへは、1610年、1613年に徳川家康や伊達政宗によって公式に派遣された者とそれに随行した人々の集団があり、そのうち相当数の者が現地に残ったと考えられている。『日本人奴隷』には、これら渡航する際に奴隷でなかったことが明らかな者についても言及されているが、ここでは奴隷であったことが明らかな者のみを抽出した。


(1)序章で語られている件であるが、改宗ユダヤ人商人ルイ・ロペスによって長崎で買われたガスパ-ル・フェルナンデスと、同じくマニラで買われたミゲル・ジェロニモ、ヴェントゥ-ラという3人の日本人奴隷。
また、メキシコでルイ・ペレスの息子を見掛けて告発した長崎生まれの日本人奴隷トメ・バルデス。

(2)1604年、ゴア出身の奴隷ウルスラとの結婚を願い出た日本人奴隷ミン。

(3)17世紀初め、元奴隷であることで差別的扱いを受けることは不当であると裁判所に訴えた日本人女性カタリ-ナ・バスチ-ドス。

(4)ドミニコ会修道士に仕えていた日本人奴隷ドミンゴ・ロペス・ハポン。

(5)伊達政宗が派遣したとされている慶長遣欧使節の随行員としてメキシコに到着し現地に残留したとみられるルイス・デ・エンシオ(福地源右衛門)の娘マルガリ-タと結婚したフアン・デ・パエス。彼は1608年に大阪で生まれ、1618年わずか10歳でメキシコに到着したとされていることから、奴隷か奉公人として売られたと考えられている。



2.アルゼンチン



コルドバ市在住の改宗ユダヤ人でポルトガル人である奴隷商人ディエゴ・ロペス・デ・リスボアから神父ミゲル・ジェロニモ・デ・ポラスに売られた日本人奴隷フランシスコ・ハポン。

フランシスコは、1575頃日本で生まれたと推測される。彼は1579年、奴隷身分からの解放を求める訴訟を起こした。そして、彼の身分は奴隷でないという判決を得たようである。


3.ペル-


ペル-については、1613年に行われた人口調査からリマ市に20人の日本人が在住していたことが記されている。その人口調査の記録が1968年国立サン・マルコス大学によって復刻されており『日本人奴隷』ではその復刻版が索引に挙げられている。偶々当地在住の日本人研究者の方からそのコピ-を以前頂いていた私は3年前「1613年、ペル-のリマ市に日本人が20人いた。」という記事を書いた。
http://iwahanjiro.exblog.jp/20544054/

従って、『日本人奴隷』に書かれた「リマの住民台帳」の内容はここでは書かない。ただ『日本人奴隷』を今回読んで私の記事の誤りや不足している点が分ったのでそれを挙げておくことにする。(自分で記事を書くと、こういう答え合わせのような楽しみもあることを今回知った。)


サン・アグスティン通りに襟加工の店をもっている日本人男性の「妻アンドレア・アナはポルトガルのマンカサ・カストの出身である。」と書いたが、「ポルトガルのマンカサ」は現在のインドネシア(旧ポルトガル領)のマサッカルであるとのことである。

またカストという言葉も、社会的な階層とか集団をあらわすというより、出身地を属性として表わしたものということである。

『日本人奴隷』にはスペイン人の父と日本人の母を持つマカオ生まれの混血児のことが書かれているが、私はその人物に関する記述を見つけられなかった。


リマの20人の日本人について改めて思うこと


(1)どのようなル-トで

『日本人奴隷』では、大西洋経由(インド・ゴア⇒リスボン⇒ブラジル⇒ペル-)と太平洋経由(長崎⇒マカオまたはマニラ⇒メキシコ・アカプルコ⇒ペル-)の二つの可能性を挙げたうえで、複数の種類の航路を経たものと推測されている。

私は、当初「人口調査記録」を読んだとき、出身地としてポルトガル領であることが強調されているという印象受けた。そしてその理由としてこの調査がスペイン人官僚の指示のもとに行われているものであるため、奴隷売買への関わりが深かったのはポルトガルであると言いたかったのではなどと推測した。しかし、『日本人奴隷』を読んでみてそもそも奴隷取引とポルトガルとの関係の深さは強調する必要もないほど当然のことのようにも思えてきた。

したがって、ルートについて以前はマニラ・アカプルコ間のガレオン船の存在から、マニラ・メキシコ経由を当然のように考えていたが、奴隷貿易へのポルトガルの関わりの深さから考えるとインド・ポルトガル・ブラジル経由であった可能性がむしろ高いのではないかと今は思う。


(2)どのような経緯で

同様に以前は、マニラ・メキシコ経由の可能性を高く考えていたので、当時マニラ等から日本人が移動しなければならない事情を推測してみたことがある。すると、17世紀の初頭にマニラから日本人が追放されるような情勢が確かにあったらしい。

しかし、「17世紀の初頭、リマではたくさんのポルトガル人が活発な商いを営み、商業界をほぼ独占する勢いで生活していた」(インカとスペイン帝国の交錯 網野徹哉著 講談社)という話もある。多くのポルトガル人商人が日本人奴隷をインドやマラッカや現在のインドネシア諸島などポルトガル領からリマに連れて行った可能性があるのである。日本からメキシコへ移動せざるを得なかった日本人奴隷の例から見ても、ポルトガル商人の商売の展開や生活上の理由による移動と重なっていたと思われるのである。


(3)安穏ではなかったであろう人々の生活

なかには、「自身の店舗を経営し」「26歳で妻を身請けして家庭を築くほどに、十分な経済力を持っていた」者もいた様であるが、じっくり考えてみるとその生活が厳しいものであったことは間違いない。

単に生活の資を得ることが困難なだけでなく、『日本人奴隷』に示されているように、何時言われもなく奴隷の身分に(再び)落とされようと国家などの公的保護が得られる可能性は全くない中で生活を築いていかなければならなかったのである。

スペイン人官僚によって進められたこの人口調査によって「住民台帳に記載されている残りの日本人は、調査官が訪ねた際、主人の家にいなかった。」とされている。しかし、何時足元をすくわれるか分からない不安定な境遇にあった人たちが、危険を冒してまで自分の背景や経歴をありのままに語るとは考え難い。もちろん、そうすることが出来た人もいただろうけれど。そういう意味で、「いなかった」とされた人の中には意識的に調査官との面談を避けた人たちもいたのではないだろうか。


(4)リマからマカオに銀を運んだ神父・修道士との出遭いは?


1591年にリマからマカオに銀を運んだ船を率いたイエズス会の神父と修道士が、1600年ごろリマに戻り、20人の日本人が住んでいたであろう旧市街近くの神学校と修練院で暮らしていた。(神父が亡くなったのは1613年である。)

マカオに運ばれた銀は差し押さえを受け、そこにイエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが介入し日本などアジアの国々へ聖職者を供給するための養成機関建設に利用したと言われている。

リマの旧市街というのは城壁で囲まれた極く狭い地区である。船を率いた神父や修道士と「20人の日本人」が出遭った可能性があることは、以前の記事に書いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/i14/




〈完〉












[PR]
by GFauree | 2018-01-22 09:23 | 日本人奴隷 | Comments(0)

なぜどのようにして、大量の日本人奴隷が世界中に拡散してしまったのか [その2]

a0326062_03094195.jpg




今回は、「大航海時代の日本人奴隷 アジア・新大陸・ヨ-ロッパ」ルシオ・デ・ソウザ 岡美穂子著 (中公叢書)を読んで考えたことを記したい。



本書の内容
 

〈序章〉改宗ユダヤ人商人と行動をともにした日本人奴隷の話

日本人奴隷ガスパ-ル・フェルナンデスは1577年豊後(大分県)に生まれ、10歳の頃誘拐され、長崎で改宗ユダヤ人であるポルトガル商人ルイ・ペレスに売られた。

ルイ・ペレスは、異端審問所によって祖国ポルトガルを追われ、インド・ゴア、コチン、マラッカ、マカオを転々としたうえ長崎に来航し居住していたのである。

長崎では、改宗ユダヤ人を警戒し毛嫌いする熱心な日本人キリシタン信徒との間に、相当な摩擦があったらしい。そんな中で、良く言えば「純真な」違う言い方をすれば「単純な」日本人信者が、イエズス会上長に改宗ユダヤ人がいることも知らず、ペレス等にひたすら頑な態度をとっていたらしい。

ペレスは、長崎を追われマニラに渡り、そこで5年後に告発を受け逮捕される。ガスパ-ルは、ペレス及び2人の日本人奴隷等と共にアカプルコに送られるが、その船上でペレスは病没する。

その後、ガスパ-ルを含む3人の日本人奴隷はメキシコの異端審問所に対し開放を求める訴訟を起こす。ガスパ-ルがペレスに買われてから、14年が経っていた。ガスパ-ルともう一人の日本人奴隷ヴェントゥ-ラの訴訟の証人となったのは、改宗ユダヤ人ルイ・ペレスの2人の息子たちであった。


〈第1章〉アジア
ここでは、ポルトガル、スペインの拠点であったマカオ、フィリピン、ゴアでの状況が述べられている。

〈第2章〉スペイン領中南米地域
メキシコ、ペル-、アルゼンチンである。
これについては、過去「1613年、ペル-のリマ市に日本人が20人いた。」という記事を書いた(http://iwahanjiro.exblog.jp/20544054/)ので、次回本書の内容に基いてそれを見直したい。

〈第3章〉ヨ-ロッパ 
については、特に目についた箇所を抜き出すと

ポルトガルに関して
「『解放』は実際のところ厄介払いである場合も多かった。奴隷が年をとり仕事ができなくなると厄介者でしかなくなり彼らの面倒をみるのを嫌がる主人は、それらの奴隷を『解放』した。」ということであり、他の地域でもそうであったであろう残酷な現実が語られている。

スペインに関して
ひとつは、「ポルトガルでの日本人奴隷の相場は、日本で売買された価格の100倍以上であったと推定される。」ということである。奴隷は転売を重ねながら移動していくために、遠くへ行けば行くほど付加価値が増していったと考えられるのである。これもまた、日本から遥か彼方まで奴隷が拡散してしまった一つの要因ではないかと私は思う。

もうひとつは、伊達政宗が派遣したと言われる慶長遣欧使節、支倉使節団の武士の中にスペインに残り奴隷のような待遇を受け焼き印まで押されてしまった人がいたということである。滝野嘉兵衛(ドン・トマス)という人物である。滝野は、野間半兵衛(ドン・フランシスコ)という同僚とともに、一旦はフランシスコ界の修道士となったが結局俗人にもどり、奴隷とされてしまったということである。彼については、その後の消息も書かれている。


読んで考えたこと


1.この本を読みながら、二つの話を思い出していた。

まず、子供のときに聴いた童話「安寿と厨子王」、酷く悲しい昔話である。これは、中世の芸能であった「説教節」の演目のひとつで原話は平安時代末期(11~12世紀)のものだということである。

次に、大正から昭和初期にかけて大蔵大臣や総理大臣を勤め、1936年の2・26事件で暗殺された高橋是清のことである。高橋は、明治維新の前年14歳の時英語習得のため渡米したが、ホ-ムステイ先に騙され年季奉公の契約書にサインさせられて、奴隷同然の扱いを受けたということである。

これらから考えられることは、日本国内での人身売買は古くから広く行われていてそれほど珍しい事ではなかったのではないかということと、また海外で日本人が奴隷の扱いを受けるということもつい最近の時代まで頻繁にあったのではないかということである。つまり、国内的にも対外的にも「国家は個人の生活権を保護すべし」というような思想や体制が定着するまでは、人が国内で売買され海外へ輸出されるようなことが容易に起り得たと考えられるのである。

そういう風に考えて来ると、大航海時代に大量の日本人が奴隷として海外へ輸出される土壌は確かに在ったのである。

また、大航海時代にポルトガルが世界で展開した貿易取引において奴隷はその主要商品であったことを考えると、ポルトガル船貿易が大量の日本人奴隷を世界中に拡散させたと言っても間違いではないだろう。しかし、奴隷という商品の取引量増加のためには、供給・物流・販売がともに拡大することが必要である。仮に当時内戦に敗れた側の兵士が虜囚となり奴隷とされることが稀であったとしても、戦国時代の相次ぎ長引く内乱によって民衆が疲弊しきっていたことが、先ず国内の人身売買を増大させていたという側面があっただろう。

そういう日本国内事情による供給と、輸出という物流手段と、外国という大口販売先とを得て、大航海時代に人身売買⇒奴隷取引が飛躍的に増大してしまったと見ることもできる。

こうしてみると、あの時代には日本人奴隷を大量に発生させる要因が集中していたようである。そして、その量と拡散の度合いは唯一内外の情勢を熟知する立場にあったイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノにとって、日本の権力者や信者たちに対し隠しおおせる程度を遥かに超えるものになっていたということではないだろうか。

だからこそ、前回[その1]の記事で言及した「日本使節の見聞録」を編纂するに当たり、イエズス会にとって不都合であり出来ることなら捨象したかった「日本人奴隷問題」を、敢えて採り上げざるを得ないと判断し、逆に公明正大さをアピ-ルすることを狙ったのではないか、と私は考える。


2.
この本を通じて、実に数多くの日本人奴隷の厳しい生涯の一端が垣間見せられる。

前回、[その1]で書いたように、1587年の「バテレン追放令」発布の直前、秀吉はイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョに使者を送り詰問を突き付けたと言われている。

イエズス会士ルイス・フロイスが編纂した『日本史』によると、秀吉はその際次のような要求をしたという。

・これまでにインドその他の遠隔地に売られていった日本人すべてを日本に返還するよう努力してもらいたい。
・もし、あまりにも距離があるため実行不可能な場合には、少なくとも現在の時点でポルトガル人が買い取ったためポルトガル人の所有になっている日本人奴隷を解放してもらたい(自分はその費用を立て替える)。

以前これを知ったときは、秀吉らしい余り現実的でない威嚇的な“ふっかけ”要求だなどと思ったのだが、今回奴隷として売られた多くの人々の悲惨な境遇の一端に触れることによって、私の印象も変わってきた。秀吉の要求は当然のことであり、最高権力を有する為政者としてむしろそうあるべき妥当なものだったと思えてきたのである。


3.〈序章〉の日本人奴隷ガスパ-ルの話は、異端審問所に追われ続けポルトガルの拠点を転々としたあげく長崎にたどり着いたた改宗ユダヤ人商人がおそらくは複数存在していたことを示唆している。

改宗ユダヤ人商人は、宗教上のまた商売上の理由によって移動を重ねるうちに、彼らが使役しまた商品とする日本人奴隷と出会う。改宗ユダヤ人商人と日本人奴隷の人生はそこで交差しまたその後軌跡が重なっていくこともあったということである。

改宗ユダヤ人商人ルイ・ペレスとともにマニラ、メキシコへと渡航せざるを得なかったガスパ-ルたちの例は、日本人奴隷拡散の一つの要因を示している。改宗ユダヤ人商人の抱えた事情によって移動を重ねなければならなかった日本人奴隷が他にもいたことは当然考えられる。

ところで、祖国ポルトガルからもその海外拠点からも追われ転々と移動してきた改宗ユダヤ人商人を日本のキリシタン信者は、どのように迎えたのだろうか。どうも、教会で教えられた通り、固く冷たい対応をしたらしい。

だから、日本人の宗教や人間に対する考え方や態度は狭く底が浅いなどとは思いたくないし、言いたくない。しかし、メキシコでガスパ-ルたち日本人奴隷が解放のために起こした訴訟で、自らの危険を冒してまで法廷で証言したペレスの二人の息子たちの行動は、長崎でペレスたち改宗ユダヤ人を目の敵(かたき)にした、おそらくは教会の教えに従順な日本人キリシタン信者たちと、対照をなしているようである。



4.従来、「大航海時代の日本人奴隷問題」については、その細部にまで立ち入った研究がなかったようであるがその理由として、著者は2点を挙げている。それは、16~17世紀の国内外の資料に該当するものが極めて少ないことと、彼らの売られていった経緯と状況を具体的に示す事例に欠けていた(少ない資料から抽出される情報の中に、という意味と思われる)ことである。要するに、頼りになる資料が不足しているということであろう。

そもそも、儲けたい一心で行われた取引である。記録を残す余裕などなかったであろう。加えて、一部に禁止する動きもあったのだから後ろ暗い行為である。できるだけ形跡を残さず、隠蔽しようとして当然なのだから、資料は少ない筈である。

しかし、研究が進展しなかった理由はそれだけではないだろう。逆に頼るべき資料が少ないということにあぐらをかく研究者がいたということはなかったのだろうか。それを示すのが、「はじめに」の中で筆者が述べている、ポルトガル人による日本人の人身売買について「そんな話は聞いたことがない。捏造ではないか。」というような発言を公開の場で(おそらくは、平然と)した、世界的に著名な研究者の存在である。

今から約40年前、「キリシタン時代史」の研究が一部の研究者の大変な努力によってやっと歴史研究として認められるものとなり、多くの人にとっても興味深いものとなったという教訓を思い起こすべきである。(極論すれば、それまでのほとんどの「キリシタン研究」は歴史研究の域に達していなかったのである。)その努力には既存の権威・権力への挑戦という要素も含まれる。研究者としてなすべきことをしないのであれば、「社会的責任」が問われることは言うまでもない。


5.本書はルシオ・デ・ソウザの著書『16・17世紀の日本人奴隷貿易とその拡散』の一部だということである。そして、日本イエズス会の奴隷貿易との関わりなど重要な問題は、その著書の残りの部分に含まれているということである。ということは、その残りの部分の内容が、昭和11年(1936年)に発行され名著と言われてきた岡本良知「十六世紀 日欧交通史の研究」を引き継ぎまたそれを超えるものとなるということである。

したがって、今回出版された部分は大部になる筈の残りの部分(本編)のいわば予告編だったということになる。作りの良い予告編を見ると、直ぐに本編を見たくなるのが普通だ。本編の翻訳も既に完成しているとのことなので、早期に出版されることを期待する。


〈つづく〉








[PR]
by GFauree | 2017-12-06 01:07 | 日本人奴隷 | Comments(2)

なぜどのようにして、大量の日本人奴隷が世界中に拡散してしまったのか [その1]


                                 
a0326062_05190056.jpg
          
                           天正遣欧少年使節肖像画 1586年 アウグスブルグ
                           (中央はイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノ)



日本人奴隷に関し、よく引用される「日本使節の見聞対話録」と「デ・サンデ天正遣欧使節記」(日本語訳)


大航海時代に世界に散在したと言われる日本人奴隷に関し、その惨状を語るとしてよく引用される書物がある。
それは、1590年マカオで印刷、刊行された「日本使節の見聞対話録」(ラテン語)であり、その日本語訳は「デ・サンデ天正遣欧使節記」(新異国叢書-雄松堂)として出版されている。その書物について、私は少年使節の一人であった千々石ミゲルのキリシタン離脱の原因となったものではないかと考え、過去の記事で採り上げた。
http://iwahanjiro.exblog.jp/21407726/
http://iwahanjiro.exblog.jp/21418363/

その書物が書かれた経緯については、以下のような解説がされている。


「日本使節の見聞対話録」が書かれた経緯


1582年遣欧使節派遣を企画・断行し少年たちを引率したイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、往路インドにおいてローマ本部からの指示によって少年たちと離れその地に留まってインド管区長の職に就いた。そして、5年後の1587年5月ヨーロッパから戻って来た少年使節たちとインドのゴアで再会し、その翌年1588年8月マカオに到着した。

その際、一行から見聞や体験を聴取し、旅先での記録として整理しマカオ滞在中に編纂して、同じイエズス会の司祭ドゥアルテ・デ・サンデにラテン語で書かせた。それが、「日本使節の見聞対話録」であり、その内容は、千々石ミゲルが二人の従兄弟(いとこ)リノ(大村喜前の弟)、レオ(有馬晴信の弟)を相手に帰国後に旅先での見聞を語る「対話録」の形式で書かれている。

「対話録」の虚構性

この「対話録」は上述の通り、日本にいたはずの従兄弟たちとまだ帰国前の千々石ミゲルがあたかも面談し語り合っているかのように書かれているという点で既に虚構(フィクション)である。従って、そこに書かれてある事柄もそのまま歴史的事実と考え論ずることは出来ない筈である。ところが、大航海時代に世界に散在したと考えられる日本人奴隷の惨状が論ぜられる際に、この「対話録」の内容がそのまま引用されることが少なくない。

私の場合、実際に「対話録」の日本語訳である「使節記」を読んでみたところ、キリシタン関係の書物にありがちな恭(うやうや)しい言葉の羅列と気取ったようなものの言い方が鼻について、読み続けるのに苦労した覚えがある。また、表現のされ方以前に、書かれている事項の信憑性に疑問があるものであるにもかかわらず、何故そのような文書が日本人奴隷に関する議論の根拠として引用されることが多いのかという疑問と不満を感じ続けてきた。




「見聞対話録」(ラテン語)・「遣欧使節記」(日本語訳)の抜粋



とは言え、「対話録」・「使節記」にどのようなことが書かれているかを先ず確かめて頂くことが肝要だと思うので、「使節記」のうちの日本人奴隷に関する記述(p.232~235)を以下に抜粋したので先ず目を通して頂きたい。




レオ ちょうどよい機会だからお尋ねするが、捕虜または降参者はどういう目に遭わされるのだろう。わが日本で通例やるように死刑か、それとも長の苦役か。

ミゲル キリスト教徒間の戦争で捕虜となったり、やむをえず降伏する者は、そういう羽目のいずれにも陥ることはない。つまり、すべてこれらの者は先方にも捕虜があればそれと交換されるとか、また釈放されるとか、あるいはなにがしの金額を支払っておのが身を受け戻すのだ。というのも、ヨ-ロッパ人の間では、古い慣習が法律的効力を有するように決められ、それによってキリスト教徒は戦争中に捕われの身となっても賤役を強いられない規定になっているからだ。

だがマホメット教徒、すなわちサラセン人に属する者に対しては、別の処置が取られる。これらの者は野蛮人でキリストの御名の敵だから、交戦後も捕えられたまま、いつまでも賤役に従うのである。

レオ そうすると、キリスト教徒なら、その教徒間では戦争中に捕虜となっても、賤役に従えという法律に拘束される者は一人もいないわけだな。

ミゲル そうしたことで市民権を失った者はただの一人もない。それはまた今もいったように、古来の確定した習慣で固くまもられている

それどころか、日本人には慾心と金銭への執着がはなはなだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れをかぶせているのを、ポルトガル人やヨ-ロッパ人はみな、不思議に思っているのである

そのうえ、われわれとしてもこのたびの旅行の先々で、売られて奴隷の境涯に落ちた日本人を親しく見たときには、道義をいっさい忘れて、血と言語を同じうする同国人をさながら家畜か駄獣かのように、こんな安い値で手放すわが民族への義憤の激しい怒りに燃え立たざるを得なかった

マンショ まったくだ。実際わが民族中のあれほど多数の男女やら、童男・童女が、世界中の、あれほどさまざまな地域へあんな安い値で攫(さら)って行かれて売り捌かれ、みじめな賎役に身を屈しているのを見て、憐憫の情を催さない者があろうか。

単にポルトガル人に売られるだけではない。それだけならまだしも我慢ができる。というのはポルトガルの国民は奴隷に対して慈悲深くもあり親切でもあって、彼らにキリスト教の教条を教え込んでもくれるからだ。

しかし日本人が贋の宗教を奉ずる劣等な諸民族がいる諸方の国に散らばって行って、そこで野蛮な、色の黒い人間の間で悲惨な奴隷の境涯を忍ぶのはもとより、虚偽の迷妄をも吹き込まれるのを誰が平気で忍び得ようか。

レオ いかにも仰せのとおりだ。実際、日本では日本人を売るというのような習慣をわれわれは常に背徳的な行為として非難していたのだが、しかし人によってはこの罪の責任を全部、ポルトガル人や会のパドレ方へ負わせ、これらの人々のうち、ポルトガル人は日本人を慾張って買うのだし、他方、パドレたちはこうした買入れを自己の権威でやめさせようともしないのだといっている。

ミゲル いや、この点でポルトガル人にはいささかの罪もない。何といっても商人のことだから、たとえ利益を見込んで日本人を買い取り、その後、インドやその他の土地で彼らを売って金儲けをするからとて、彼らを責めるのは当たらない。

とすれば、罪はすべて日本人にあるわけで当たり前なら大切にしていつくしんでやらなければならない実の子を、わずかばかりの代価と引き替えに、母の懐から引き離されていくのを、あれほどこともなげに見ていられる人が悪い

また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心して、ポルトガル王から勅令をいただかれる運びになったが、それによれば日本に渡来する商人が日本人を奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい

しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人はいたって強慾であって兄弟、縁者、朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力や詭計を用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込み、ポルトガル人を哀願なり、値段の安いことで奴隷の買入れに誘うのだ。ポルトガル人は、これをもっけの幸いな口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種の暴力が日本人の執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して、自分の犯した罪を隠すのである。

だがポルトガル人は日本人を悪くは扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教の教義を教えられるばかりか、ポルトガルではさながら自由人のような待遇を受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。さればといって、日本人がこうい賎役に陥るきっかけをみずからつくることによって蒙る汚点は、拭われるものではない。したがってこの罪の犯人は誰かれの容赦なく、日本において厳重に罰せられてよいわけだ

レオ 全日本の覇者なる関白殿が裁可された法律がほかにもいろいろある中に、日本人を売ることを禁ずる法律は決してつまらぬものではない。

ミゲル そうだ。その法律はもしその遵守に当たる下役人がその励行に目を閉じたり、売り手を無刑のまま放免したりしなかったら、しごく結構なものだが。だから必要なことは、一方では役人自身が法律を峻厳に励行するように心掛け、他方では権家なり、また船が入ってくる港々の寵なりがそれを監視し、きわめて厳重な刑を課して違反者を取り締ることだ。

レオ それが日本にとって特に有益で必要なこととして、あなた方から権家や領主方にお勧めになるとよい。

ミゲル われわれとしては勧めもし諭しもすることに心掛けねばなるまい。しかし私は心配するのだが、わが国では公益を重んずることよりも、私利を望む心の方が強いのではなかろうか。実際ヨ-ロッパ人には常にこの殊勝な心掛けがあるものだから、こうした悪習が自国内に入ることを断じて許さない。




「対話録」の内容とその背景
 


1.1570年、ポルトガル国王は日本人奴隷取引禁止の勅令を布告している。これは、1567年以前に平戸・横瀬浦・福田経由日本人が輸出されていたことに対し、「布教に支障をきたす」としてイエズス会がポルトガル国王へ働きかけたことによるものと考えられている。

ところが、その勅令はその後実施・履行されなかった。その理由のひとつとしては、イエズス会の考え方が、自己の布教事業に不都合であるというだけで、奴隷売買自体が社会倫理に反するという強固なものでなかったことがあげられている。さらに、それだけでなくイエズス会士自身が奴隷貿易に関与していたことも指摘されている。


2.天正15年6月(1587年7月)、
秀吉は日本の中央政権として初めて正式なキリシタン禁令を発布するが、その直前にイエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョのもとに使者を送り詰問を突き付けた。その中に「何故にポルトガル人は多数の日本人を買い、奴隷としてその国に連れ行くか。」という内容が含まれていた。

これに対するコエリョの回答は、「日本側の諸領主に対し禁止を勧告すべし。」というものだった。つまり、「奴隷を売る者(日本人)がいるから買う者(ポルトガル人)も出て来るのだから、日本の当局が奴隷を売ることを禁止すればよい。」とコエリョは秀吉に反論したことになる。「対話録」でのミゲルの発言は、そのコエリョの回答をそのままなぞっているのである。


3.上記の「キリシタン禁令」の条令文としては、天正15年6月18日付け「覚」と翌日6月19日付け「定」と呼ばれる二通りの内容のものが残されており、その内容はかなり異なるがどちらも正文であると認められている。

「覚」には、日本人を海外に売却することを咎め日本人奴隷の売買を禁止する条項があり、「定」には、宣教師に20日間以内に国外退去を求める条項がある。

1588年6月、アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノと少年使節たちはマカオに到着し、前年7月の秀吉による「キリシタン禁令」発布を知らされる。その時点からマカオを出発する1590年5月までの約2年間、ヴァリニャ-ノは少年使節たちと自身の日本への再入国を安全に果たすとともに、危機に瀕しているキリシタン勢力を挽回するための方策を必死で探ることを余儀なくされる。特に、「キリシタン禁令」に示された「日本人奴隷売買問題」と「宣教師国外退去要求」はヴァリニャ-ノに重くのしかかったことだろう。当然、「対話録」の内容にはそれが色濃く反映されたはずである。

1590年7月、ヴァリニャ-ノは少年使節たちと共に長崎に帰着し、翌年3月ポルトガル国インド副王使節として京都聚楽第において関白秀吉に謁見する。



「対話」の内容について思うこと


1.
ヨーロッパ社会を理想的なものとし、日本人の考え方や行動を恥ずべきものとする発言は、現在でも時々出くわす日本社会や日本人を日本人自身が卑下する意見に似ていて面白い。また、そういう考え方、言い方が400年前からあったということも興味深い。

その時代の宣教師たちは、日本人が日本人の国民性とでも呼ぶべきものに引け目を感じて、自分たちにとって都合の良い考え方になびいてくれることを望んでいたということだろうか。

その他の「対話」の内容も、そもそもこの「対話録」が当時のイエズス会の立場を擁護し弁明するために書かれたものである以上、その意図を臆面もなく表しただけのことであり、それをいちいち採り上げることは余り意味がなさそうである。そこで、彼らの勝手な一方的見解と思われる部分には下線を引くだけにした。すると、かなりの部分に下線が付いてしまった。

2.ただヴァリニャ-ノが「日本人奴隷売買問題」について、イエズス会主導のキリシタン教会にとって有利な理解を日本人信徒たちから得ようとしたことは当然ではあっても、日本人信徒も甘く見られたものだと思うと気分は良くない。当時は日本人信徒が内外の情勢を知る機会は極端に乏しかっただろうと考えると、なおさら彼らが哀れである。

3.それにしても、「対話」において世界各地での日本人奴隷の悲惨な状況を印象付けるような発言をここまでさせている点は意外であった。と言っても、常に権謀術数に満ちていたであろうヴァリニャ-ノの言動を考えれば、彼が日本人奴隷の真実の姿を伝えようとしたなどと考える訳にはいかないことは言うまでもない。

それでは、何のためにこのような悲惨さを強調するような発言がされたように書かせたのか。
私は、そういう表現を選んだというより、そのように描写せざるを得ないとヴァリニャ-ノに判断させるような状況が展開していたということではないかと思うのである。それくらい、相当数の日本人奴隷が世界中に拡散してしまい、彼らの境遇が悲惨を極めていることが既に世界中に知られており、日本人に対してももはや隠しようがないと考えたのではないかということである。

4.日本人奴隷拡散の規模とその境遇の悲惨さを日本人が知るための客観的な資料は、その時代はもちろん、つい最近までほとんど無かった。私にしても、インタ-ネットなどで「戦国時代のキリシタン大名が弾薬と引き替えに何十万人に及ぶ奴隷を輸出していた。」等の記述に接し、その可能性も否定できないけれど、もしかして誇張ではなどと思うしかなかった。

しかし、今回改めて「対話録」を読んで、日本人奴隷拡散の規模・程度が世界的に周知の事実となっている以上、もはやこれを日本人に対して隠し通すことは不可能であり、キリシタン教会の組織防衛の観点からそれを認めたうえでの反論を用意したということではないかということに思い至った。誕生した豊臣統一政権にそれだけ圧力を感じ危機感を募らせたということかもしれない、とも思う。

私がそう考えるに至った理由は、実は『大航海時代の日本人奴隷(アジア・新大陸・ヨ-ロッパ)』(ルシオ・デ・ソウザ 岡 美穂子著)中公叢書 という本を読んだからである。

そこで、次回はその本についてお話したい。
 

(つづく)



〈参考文献〉

デ・サンデ天正遣欧使節記   泉井久之助 他 訳   新異国叢書5      雄松堂
キリシタンの世紀  ザビエル渡日から「鎖国」まで   高瀬弘一郎著     岩波書店
天正遣欧使節                      松田毅一著  講談社学術文庫


[PR]
by GFauree | 2017-11-26 06:03 | 日本人奴隷 | Comments(2)