【大航海時代のおと】

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カテゴリ:ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件( 2 )

ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件の経緯



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今回は、前回の記事に書いた「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」のうち、事件の経緯が説明されている「アンドレ・ペッソアが1609年[日本]航海カピタン・モ-ルとして来航したナオ、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号焼亡に関する報告書」の内容を要約してみた。約40ペ-ジに及ぶ報告なので全ての内容を網羅することはできないし、内容もあくまでイエズス会内部の報告という制約はあるが、キリシタン大名がポルトガル船を焼打ちにしたというこの異常な事件の概要を掴むことだけは出来るのではないかと思う。



[事件の経緯]




厳格になったポルトガル船貿易の管理

1609年6月、マカオからのポルトガル船が入港すると、奉行長谷川左兵衛は船内に監視人を配置し、商品の陸揚げ、乗員の上陸には監視人の登録と許可が必要であるとの命令を出した。ポルトガル船のカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアはその命令に抵抗したが、結局商品の検査や売買は殆ど左兵衛の命令通りにポルトガル人にとって不利な形で行われた。

従来、ポルトガル船に対しては、多くの特権と自由と免除が容認されていた。それは、外国人であるポルトガル人に対し敬意を払うという考え方とポルトガル船貿易から得られる収益によるものであった。しかし、奉行長谷川左兵衛と代官村山等安は貪欲さから結託し、新しい制度を定め、ポルトガル船が享受してきた特権と自由を奪おうとしたのだ。この二人は、ポルトガル人を誹謗して家康のポルトガル人に対する怒りを誘おうとし、家康は二人の屁理屈を受け容れてしまった。


ポルトガル人に対して、こうした取扱いがされるようになった理由の一つとして、1608年11月マカオで発生した日本人の騒乱事件があるが、その内容は以下のようなものである。


マカオ騒乱事件


占城(チャンパ)国へ派遣されたキリシタン大名有馬晴信の朱印船が日本への帰途マカオに寄港し、乗員が我が物顔に市内を歩き回り街を荒そうとした。これを鎮めようとマカオ当局が動いたが、日本人達は逆に数人のポルトガル人を殺傷し、一軒の家に立てこもり抵抗を続けたため約40人が殺害された。その際に、マカオ側の指揮を執ったのがカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアなのである。

事件を家康に報告させまいとする左兵衛

今回のポルトガル船到着後、マカオ側は事件の調書を持参し家康にその報告をするよう左兵衛に要請した。しかし、左兵衛は、マカオ騒乱事件について知れば家康は怒るだろうし、家康を怒らせることはポルトガル人の利益にならないだろうから報告をすべきではないと断り、ポルトガル人は左兵衛に従った。

左兵衛は、事件の報告をしたいとするポルトガル人の意図の中に、ポルトガル人に対し以前のような特権を求め左兵衛達を非難しようとする考えがあるのでは、と疑っていたのだ。その考えに気付いた左兵衛はポルトガル人を冷遇し始めたが、ポルトガル人はこれを耐え忍ばねばならなかった。それは、ポルトガル船到着の一か月後、2隻のオランダ船が到着したからである。


オランダ船問題と左兵衛・ポルトガル間の和解

家康はオランダ船の来航を喜んだ。それによって、好意を持っていないポルトガル人に依存しないで済むようになると考えたからであり、直ちにオランダ人達を保護すると語った。

オランダ船の出現によって、無事にマカオに戻ることが出来なくなったポルトガル人達は、左兵衛と手を結び、逆にオランダ船を捕獲するように左兵衛を通じて家康に働きかけようとした。ポルトガル人達と左兵衛の間にイエズス会が仲立ちをして和解が成立した。左兵衛は家康にオランダ船を捕獲させるとポルトガル人達に約束した。

そこで、オランダ船問題とポルトガル人の特権回復を交渉するために、ポルトガル商人の代表者が駿府に送られた。左兵衛は弟の忠兵衛藤継を送り、家康の有力な側近たちに支持を依頼する信書を送った。彼がそうしたのは、ポルトガル人達の謝礼と様々な約束事、さらには名誉と名声が期待できたからである。

一方、平戸に着いたオランダ人達は、ポルトガル人に先行して駿府に行き交渉しようとした。同時に長崎に幹部を送り、左兵衛を訪問させ自分たちを優先させようと図り、自分たちの意図を伝えた。左兵衛はこれを聞き大いに喜んで、オランダに全面的に協力する旨を語ったが、既にポルトガル人達と和解していたのだから、これはうわべの事であった。

このような状況の中で、左兵衛と等安はカピタン・モ-ルとポルトガル商人の代表者に伝言を送り、今後は双方共に全くだまし合うことなどなく交流し、マカオ事件につきポルトガル人達が希望していたことを家康が認めてくれるよう働きかけると述べた。ただし、それはマカオ側が左兵衛達に対する告発を断念するとの条件付きであり、またマカオ騒乱事件について家康に話さないことが改めて求められた。


家康は先ずオランダ人と会いポルトガル人は後回しにされた

ポルトガル商人の代表者は、オランダ人達より先に駿府に到着した。しかし、その時点で家康は、ポルトガル人が注文していた織物を直ぐに届けなかったことで、自分を無視しているとして酷く憤慨していた。実は、注文品を直ぐに届けられなかったことには已むに已まれぬ事情があったのだが。その憤慨のためポルトガル人との会見は延期され、その間にオランダ人が迎えられ、請願された通商も許可され平戸商館開設も決定された。

ところが、家康はオランダ人の後でポルトガル人とも会い、要請に従って日本人がマカオに寄港することを禁ずる朱印状を与えた。ただし、オランダ人との約束は破棄するつもりはなく、「日本に来たいと思うものには、誰でもすべての者に日本は解放されており、日本の港では争いがあってはならないので、海上では各自が警戒を怠らないように」との型通りの回答があるばかりであった。



ポルトガル人達はペッソアを駿府に送ることを決定し、左兵衛はその意図に激高する


ポルトガル人の代表者が駿府に向けて出発した後、彼らは善後策を協議しペッソアを駿府に送ることを全員一致で決定した。その目的は、従来からの自由を回復し、マカオ騒乱事件を説明し、それと左兵衛達を告発することであった。これは、イエズス会が介在することなく、彼ら独自に決めたことである。左兵衛はこの決定に激昂しあらゆる手段を用いてペッソアが駿府へ行くことを阻止しようとした。左兵衛はペッソアに対する非難を訊き集め、マカオ騒乱事件について別の調書を作成させた。

イエズス会は、次の理由からペッソアが駿府に行くことに反対した。
・左兵衛に対する家康の信頼は絶大であること
・幕府において援助を期待できるものは全て左兵衛と手を握っていること
・告発されようとしている左兵衛の行動には家康の考えに基ずくものが多いこと
・駿府への交通手段が確保できないこと
・家康自身のポルトガル人に対する憎悪と反発など
・左兵衛にオランダ問題への対処を放棄させないことの方が重要であること



左兵衛は晴信と手を結び、家康は晴信にポルトガル人殺害を命ずる

結局、ペッソアは駿府行きを断念したが左兵衛の憤怒は収まらず、有馬晴信と手を握り、マカオ騒乱事件の際に二人の家臣がペッソアに殺害されたとして家康に訴えさせた。さらに晴信は、これが家康にも加えられた凌辱であると言って、これに対する正当な復讐をしたいと家康に懇願した。その他にも、左兵衛と晴信は家康のポルトガル人への怒りを煽るようなことを言った。そして、ついに家康はペッソアをポルトガル人全員とともに殺害し船を積荷ごと没収することを決定し、晴信にその全てを実行させることとした。


左兵衛がペッソアの首を斬らざるを得ないと言い始めたことが伝わり、ペッソアは出航の準備を始め、それに気付いた左兵衛は駿府に通報した。すると、家康は後藤象三郎に司教やイエズス会士宛てに書簡を書かせた。その内容は、ペッソアは赦免されるのだから駿府に赴いても危険はない、というものだった。しかし、ペッソアはいかないことに決めた。


晴信の策略

有馬晴信は、家康の命令を実行しようとしたが、ペッソアが出航の準備をしていることに気付いたため、策略を用いることにした。生糸の価格を協議することを名目に、ペッソアにイエズス会の司祭館に来させることだったが、ペッソアはその策略には乗らなかった。


こうして、有馬の武装した兵士、火縄銃兵、弓兵を乗せたおよそ30隻の船とポルトガル船との戦闘が開始された。

戦闘開始から三日目、晴信はポルトガル船が他の港へ行かないことを条件に、生糸の値決め交渉をするべく人質を差し出す旨伝えた。ペッソアは、晴信の子息イグナシオ、左兵衛の甥、等安の息子を人質として受け入れる旨回答した。

左兵衛、晴信の策略に水を差す

一方左兵衛は、晴信にはこの件に関する権限が無いのだから、その類の伝言も協定も認められないと言った。更に四日目の朝、左兵衛は次のことをペッソアに伝えた。

晴信は生糸価格の値決めを口実にペッソアを騙そうとしており、これを伝えるのは自分が偽りに反対するものだからである。
ペッソア救済の方法は家康の望む価格で生糸全部を家康に提供する以外にない。ペッソアがそれを受け入れるなら自分が駿府へ連れて行く。それで、赦されるかどうかは保証できないが、自分のとりなしで救われるかも知れない。



戦闘の最後は、一ポルトガル人兵士が手に持って投げようとしていた火薬の入った入れ物に一発の弾丸が命中したことだ。その器物は壊れ、その兵士の足許にあった火薬入りの他の器物の上に落ちて炎上した。ペッソアは火薬庫に火を放つことを命じた。


戦い済んで

陸上には、生存者及び死者の商品と銀が多く残ったが、その全ては帳簿に記載されて家康のために没収された。左兵衛、等安は、長崎に残留したポルトガル人に対し通商再開の条件を提示し、多額の賄賂を要求した。

家康は、残ったポルトガル人全員を殺害してその財産を没収し、全イエズス会士を日本から追放するよう命じた。しかし、穏やかになったとき晴信に対し、宣教師が残れるように請願させ、それを聞き容れる形で宣教師の残留を許した。彼は、ポルトガル人達に憤慨していたとは言え、自分が通商継続を希望していることをよく理解していた。

左兵衛は、ポルトガル人達に対して通商の糸を切断しないように依頼し、また彼等が来年にはせめても何らかの小船舶をマカオから派遣するように言い、またナオ(ポルトガル船)が引き続き来航するよう要請した。




[報告を読んで思うこと]


1.
前回の記事に書いたことだが、この報告は日本イエズス会の本部への報告であるから、彼等にとって不都合なことは書かれていないことは考えてみれば当然である。例えば、(これも前回書いたが)ポルトガル船団の代表が駿府を訪れた際、通辞ジョアン・ロドリゲスが一行を引率したことは全く触れられていない。一行が家康から日本人のマカオ寄港禁止の朱印状を引き出し、それが後にこの事件の混乱の原因とされた(これは、左兵衛、等安の陰謀だったという説があるが)ようであるから、ロドリゲスの行動は結果的にイエズス会にとって不都合なものとなったと判断され捨象されたのだろうか。

一方、「キリシタン大名」有馬晴信については、彼のポルトガル船攻撃を思い留まらせるような動きをイエズス会が採ったというような記述もない。そもそも、キリシタン布教活動をマカオからのポルトガル船貿易が様々な面で支えていたことは明らかであり、船が沈没し渡航が絶えるようなことになれば、イエズス会が財政的に多大な損失を抱え運営が困難になることが予測されるにもかかわらず、会が関係者に対し何の働きかけもしなかったとは考え難い。

ポルトガル船攻撃が最高権力者家康の意向に沿うものであったために、仮にこれを抑止するような動きを実際にはしていたにしても報告には記さなかったということなのだろうか。


2.
ところで、この報告の中の有馬晴信は「キリシタン大名」であるにもかかわらずポルトガル船攻撃に何のためらいもなく、左兵衛と軌を一にして戦闘に邁進したようである。私は過去の記事の中で、晴信は「キリシタン大名」だったのだからポルトガル船攻撃には消極的であったのではないかと書いたことがある。しかし、この報告書によれば、晴信自身が自ら積極的に攻撃をひきうけたようだ。。

徳川新体制の中での生き残りを図るばかりでなくあわよくば勢力を拡大しようとまでした晴信が、マカオ騒乱事件の恨みを根拠に最高権力者家康に迎合し、ポルトガル船攻撃を絶好の機会と捉えたとも考えられる。そうなると、結局最後には「岡本大八事件」で足をすくわれることになる晴信が哀れでもある。


3.
このポルトガル船焼打ち事件の発端はカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアと奉行長谷川左兵衛との間の取引上の争いであったという言われ方がされている。カピタンと奉行との取引上の争いとはどういうことなのか、この報告を読む前には想像が付かなかったが、今回報告の内容から私なりに筋道が読めてきたような気がする。

しかし、それは「取引上の争い」とは少しニュアンスが違うようである。そして、それはこの報告に悪の権化のように書かれている左兵衛の実像とも関係がある。

その点については、次回の記事で考えたい。


〈つづく〉






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by GFauree | 2018-07-26 04:28 | ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件 | Comments(0)

1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打ちに関する報告書

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どうもよく分からない「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」と「岡本大八事件」


1609年6月から1610年1月にかけての「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」ほど日本のキリシタン教会に多大な打撃を与えた出来事はなかった、とよく言われる。その打撃の内容については、過去の記事「名前はよく出て来るけれど、なぜか顔の見えない『キリシタン大名』有馬晴信」(https://iwahanjiro.exblog.jp/21320097/)、「背教者クリストヴァン・フェレイラ [その5]」(https://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)に書いた。

その記事を書きながら気付いたことは、受けたとされる打撃の内容から、逆に平常時には見えにくいキリシタン教会の持っていた本質的な性格のようなものが透けて見えるということである。

「岡本大八事件」は「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」に端を発し1612年3月及び1613年1月の禁教令の契機となり、キリシタン教会を壊滅的な状況に追い込んだとされる事件である。この事件についても、2つの記事「何だか怪しい『岡本大八事件』」(https://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)、「『岡本大八事件』はどうも気になるので」(https://iwahanjiro.exblog.jp/23712614/)を書いた。

こうして、両事件に関して記事を書いてきて、各々の内容がはっきりイメ-ジできたかと言うとそんなことはなく、どちらもどうも本当の所がよく解からないという感じが残った。



ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件の概略


「岡本大八事件」については、真相が不明であるにも拘わらず単純な贈収賄事件として片付けられてきたのではないかということを記事に書いた。一方、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」は、概略次のように説明されている。

長崎奉行長谷川左兵衛とマカオから渡来した定航船のカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアとの間に取引に関する争いが生じた。そこに、前年に自分の朱印船がマカオに立ち寄った際起きた争乱により乗組員が殺害されたことに恨みを持つ「キリシタン大名」有馬晴信が絡んできた。晴信は家康の了承を得てポルトガル船を攻撃し、それがアンドレ・ペッソアもろとものダ・グラサ号自爆に繋がった。

とこう書いてくると、ダ・グラサ号事件も単純な焼打ち事件に見えるが、そうではない。第一、「キリシタン大名」がキリシタン布教活動の源泉であるポルトガル船を攻撃したのだから異常な事態である。加えて関係する話を読んでいると色々と複雑な経緯があるらしいのである。


オ-ルスタ-全員集合の事件


しかもその経緯には、その時期のキリシタン史上代表的な人物が続々登場する。まずは、マカオのカピタン・モ-ル、アンドレ・ペッソアである。カピタンといってもただの船長ではない。マカオの通商・軍事のみならず行政・司法までを司っていた知事と言うより総督といっても良いほどの大物なのである。

日本側は先ず長崎奉行長谷川左兵衛、そしてその上というか背後に自らポルトガル船貿易に手を染めていた家康と腹心本多正純が見え隠れする。次に、長崎代官村山等安、自身で朱印船を出していた「キリシタン」大名有馬晴信等々。さらに、こういう話題になると嫌でも出て来るのが、イエズス会の通辞ジョアン・ロドリゲスと司教ドン・ルイス・セルケイラ。

まるで往年のお正月映画のように(古いたとえで恐縮だが)オ-ルスタ-豪華総出演である。



歴史探索の楽しみのひとつは資料の入手


こうなるとやはり、先ず「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」についてその内容をしっかり固めなければ、と考えざるを得なかった。ところが、いざその段になって気付いたことは、有名なはずのその事件を詳しく説明した解説書が見当たらない事である。

が、そのうち「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」という論文が書かれて約40年前に発表されていたことを知った。ただ、高価な資料なのでいきなり飛び付くわけにも行かず2年ぐらい放っておいたがそれ以上は我慢できずついに最近入手した。

(なぜ、こんなことを縷々述べているかというと、歴史上の出来事の解説書というものは、いざとなると入手するのは意外に難しく、入手できると結構嬉しいものだということをお伝えしたかったからである。歴史探索にはそんな楽しみもあることを、私は自分でやってみて初めて知った。逆に、「そんなことはインタ-ネットで検索すれば直ぐ分るでしょ」なんて言われると、実にがっかりと言うか神経を逆なでされたような気がする。そんなことを言う人は、歴史上の出来事を本当に知りたいと思い、自分なりに調べてみようと思ったことがないに違いない。インタ-ネットの情報は目次のようなもので便利ではあるが、それ以上ではない。)



「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」の内容


「マ-ドレ・デ・デウス号」は「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号」の別名である。(以前はそう呼ばれていた。)イエズス会日本準管区長付秘書であったジョアン・ロドリゲス・ジランが作成した報告書が五野井隆史氏によって翻訳され、1976年刊行の「キリシタン研究」第十六輯(吉川弘文館)に収められていた。なお、ジョアン・ロドリゲス・ジランは通辞(通訳)ジョアン・ロドリゲスと同名であるが別人である。ありふれた名前なのだろう。

報告されている内容であるが、かなり詳しい。なぜこんなことまで分るのかというようなことまで書かれている。イエズス会がよほどの情報提供者を抱えていたということなのか、そうでなければ報告筆者の想像の産物である。よく言えば洞察力が駆使されたということになるが、悪く考えれば捏造である。


いつも通り都合の悪いことは書かれていない


逆に、あくまでイエズス会内部の報告であるから、日本イエズス会にとって都合の悪い事柄はいつも通りしっかり省かれているというか、伏せられている。例えば、活躍(暗躍?)したはずの通辞ジョアン・ロドリゲスの行動については、一切触れられていない。

彼は、当時イエズス会のプロクラド-ル(財務管理責任者)兼ポルトガル船貿易仕切り役及び家康との政治折衝役であったのだから、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号が渡来してから自爆するまでの過程で何らかの働きをしていたことは間違いない。


過去記事「キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その3]」(https://iwahanjiro.exblog.jp/23147187/)に記したことであるが、実際は、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号」船団の代表団長マテオ・レイタンが長崎来航の翌月駿府を訪れており、この時ロドリゲスは通辞として代表団一行を引率している。

一行は家康に謁見し、家康から「日本人のマカオ渡航を禁止する」命令(朱印状)を出す旨の約束を得ている。つまりロドリゲスはその朱印状を引き出すための裏工作に関与していたのである。そして、彼は事件の起こした混乱の責任を問われて2カ月後マカオに追放されている。


この報告書の内容をできるだけ活かすために


このように過剰と思われる部分と欠けている部分とがある報告ではあるが、限られた資料のひとつであることは確かである。書かれてあることを盲信せず、しかし軽視もせず出来るだけ活かして、実情はどうであったかを推測するにはどうすれば良いかを考えた。

そして、或る観点を軸に報告されている事柄を整理することを思い付いた。例えば、以下のような観点である。

1.“ごますり”左兵衛の言動について考える
2.結局、家康の真意はどこにあったのか
3.どのような環境のもとに、ポルトガルからオランダへの切り換えが行われたのか

次回から、以上の観点で報告を整理してみようと思う。


〈つづく〉










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by GFauree | 2018-06-25 07:29 | ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件 | Comments(0)