【大航海時代のおと】

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シドッティに与えられた本当の使命はこれだった


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1.長助・おはる夫婦の不自然さ



前回の最後に、私はシドッティに付けられた従僕長助・おはる夫婦の振舞いに不自然なものを感じると書いた。長助・おはる夫婦が十字架を身に付けていたのが発覚し、さらにシドッティから洗礼を授けられたと進んで自白したという話が、あまりに出来過ぎで取って付けたように感じたからである。

彼ら二人は、キリスト教信仰が禁制の事柄であることを承知していた筈である。であるのに、何故十字架を身に付けるというような、簡単に発覚してしまう危険のある、また発覚した際に申し開き出来ないようなことをしていたのか。そのうえ、シドッティから洗礼を受けたことを強制的に自白させられたというより、自分から進んで自白したように伝えられている。この確信犯のような態度はいったい何処から来るのか。

そう考えて来たときに気付いたことがある。それは、この事件が発生した1714年の2年前、白石が有していた絶大な影響力の後ろ盾であった第六代将軍家宣(いえのぶ)が亡くなり、幕府内での白石の地位が凋落しつつあったということである。

白石の失脚を狙う勢力にとって、シドッティが異例の条件で厚遇され幽閉されていることは、これまでの白石の判断と影響力の象徴と考えられたのではないか。シドッティを処刑せず幽閉するという穏便な処分の根拠は、シドッティ来航の目的が布教を実践することではないということだった。しかし、シドッティが従僕夫婦に洗礼を授けたということが「事実」だということになれば、シドッティを厚遇の下に幽閉するとした判断は根拠を失い誤りだったことになる。そこで、私は長助・おはる夫婦の件が白石の失策を印象付けるために捏造されたものだったのではないかと考えたのである。


そんなことから、今回は長助・おはる夫婦について考えてみる必要があると思ってそれをしてみたのだが、その結果は意外なことになった。



2.長助・おはる夫婦が育った環境 切支丹屋敷



まず、この二人は、現在の文京区小日向にあった切支丹屋敷で育ったと言われている。彼らが育ったとされる切支丹屋敷という環境がどんなものであったのか、そこにどんな人たちが暮らしていたのかというところから観てみることにした。



(この点については、クリストヴァン・フェレイラに関する過去の記事に書いたことがある。
http://iwahanjiro.exblog.jp/22612547/ http://iwahanjiro.exblog.jp/22662467/
そのため、一部繰り返しになってしまうが、以下にその内容を整理してみたので目を通して頂きたい。)


1642年
、イエズス会日本管区長・シナ準管区長・巡察師を兼ねていたアントニオ・ルビノ神父はマニラから日本への渡航を目指す二つのイエズス会士のグル-プを組成した。


第一のグル-プ
は、ルビノ神父当人を含む5人の司祭と3人の従者の合計8人である。
このグル-プは、1642年8月に薩摩に上陸、逮捕されて長崎に連行された後、大村の牢に収監され全員が殺害された。


第二のグル-プは、日本副管区長ペドロ・マルケス神父やジュゼッペ・キアラ神父を含む4人の司祭と6人の従者の合計10人である。

ジュゼッペ・キアラ神父はシドッティと同じイタリアシチリア島パレルモの生まれ。日本人死刑囚の未亡人を妻として娶らされ、その死刑囚の姓名岡本三右衛門を名乗り、幽閉40年後の1685年、83歳で死亡した。遠藤周作の小説「沈黙」の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルである。

第二グル-プのキアラ以外の3名の司祭が辿った運命は様々である。
先ず、日本副管区長という格で来日したペドロ・マルケス神父は80余歳で病死するまで幽閉生活を生き延びた。
アドンゾ・デ・アロヨ神父は、棄教した後にキリスト教の信仰に立ち返る意志を見せたために、女牢に入れられたが絶食して20日ほどで衰弱死した。
フランシスコ・カッソラ神父は女牢に入れられ女囚と通じたことを白状し、まもなく病死した。


切支丹屋敷とはこういう人たちが、こういう風に終生監禁されていた場所なのである。



次に、新井白石著「西洋紀聞」に長助・おはる夫婦について記された部分があるので、それを抜き出し現代語で書いてみた。



3.「西洋紀聞」に書かれた長助・おはる夫婦



「切支丹屋敷には、既に年老いた長助・おはるという夫婦ものがいて、奉行所の人々を迎えた。二人とも親が亡くなり身寄りのない孤児となったため、そこに引き取られたのであろう。そして、収監されているかつてキリシタンであった者たちの身の回りの世話をする奴婢として働いていたところ、然るべき年齢となり夫婦となった。

元々彼ら自身がキリシタンの信仰を持ち洗礼を受けたという訳ではないが、キリシタンであった者たちに幼いころから仕える身であったことを考慮すると、一般社会に出すわけにも行かず、奉行所が衣食を与えて切支丹屋敷の中で生活させてきたのである。

正徳4年(1714年)の冬、棄教し仏教徒となった元司祭(シドッテイ)の奴婢である長助・おはる夫婦が自首した。彼らの自供内容は以下のようなものである。


『以前に二人の主人であったもう一人の元司祭(キアラ)が存命であった折、彼によって秘かに洗礼を授けてもらった。ところが、当時はそれが国の掟に背くことであるとの自覚もないまま、キリシタン信仰の有無を試される都度、平気で「踏絵」を踏んでみせるようなことまでしてきた。つまり、自分たちに与えられた信仰が禁じられたものであることも知らなかったし、信仰の内容を考えたこともなかったのである。

ところが、今の御主人(シドッティ様)がその信仰のために身の危険をかえりみず、遥かかなたのこの国にまで来て捕われているのを身近に目にすることになった。そうしてみると、もうさほどの年月もない短い命を惜しんで、長く地獄に堕ちるようなことをしてきた自分たちの考えが如何に浅薄なものであるかを思わない訳にいかなくなった。

そこで、それら全てをシドッティ様に告白し、再び洗礼を受け信徒にして頂いた。しかし、一方でこれらのことをお奉行に申し上げなければ、国からの恩義に背くことになるとも考え自首することにしたのである。従って、法に従って如何ように罰して頂いても構わない。』

以上を聴取した奉行所は、まず二人を別々の場所に留置した。」



(長助・おはる夫婦がキアラの従僕となった経緯)

「密行 最後の伴天連シドッティ」では、1676年(長助・おはる夫婦が自首する約40年前)の切支丹屋敷内の出来事として、キアラの従僕 角内が聖ペトロの像を身に付けていたことが発覚し処刑されたことが挙げられ、その従僕 角内の代りに長助とおはるとが新たにキアラの従僕となったとされている。ただ、それがどんな書物に記されているのかの説明はない。




さて、「西洋紀聞」に書かれた長助・おはる夫婦について皆様はどんな印象を持たれただろうか。私の場合、冒頭に書いた「疑惑」のようなことは吹き飛んでしまったという感じである。それは、「西洋紀聞」に書かれたことを、次のように解釈したからである。



4.長助・おはる夫婦についての私の解釈


二人とも親が罪人であったため切支丹屋敷に引き取られ、収容されている元キリシタンに仕える奴婢となるべく育った。しかも、自分たちがキリシタンであったわけでもないのに、元キリシタンを世話していたからという理由で、生涯切支丹屋敷の外へ出ることは禁じられるという、理不尽かつ苛酷な扱いを受けていたのである。

何時でも何処でも、階級と差別というものは付いて回るものである。切支丹屋敷もその例外ではない。何人扶持という手当や従僕まで付けられた元司祭から、終生奴婢として働くことを運命付けられた者まで、その階級差別は厳然としてあったようだ。

二人は元司祭ジュゼッペ・キアラの教えによって洗礼を受けたらしい。しかし、彼らにキアラの教えを理解する力がなかったのか、キアラにそういう彼らを導く力がなかったのか、彼らが堅持すべき信仰を持つに至らなかったことは確かである。だから、「踏絵」を踏むようなことにも何のためらいもなかったようだ。

それが、シドッティとの場合は違っていた。遥かかなたのこの国に来てまで捕われている姿を見て心を動かされたと言っているが、それだけではなかったのだろう。彼らは、シドッティの人柄に触れ、それに感化されそして教えを受けた。そうなって、自分の過去を振り返ると、与えられた人生や信仰というものへの自分の理解がなんと浅薄なものであったかと強く思われたのだろう。

自分たちは、キリスト教徒にしてもらったが、一人の国民としても正しく生きたいと思っているので、包み隠さず正直に話した。だから、法に従って如何ように処罰されようとも不服はない。その考え方もシドッティから教えられたことだったのではないか。


5.シドッティに与えられた使命


前回の記事の最後に私は「従僕 長助・おはる夫婦の不自然な振舞いに感じた疑惑のようなものが膨らんでいる。」と書いた。今回冒頭に書いたように、「長助・おはる夫婦の自白」と「シドッティの死」が「白石の失脚」と関係しているのではという思い付きに飛び付いたからである。しかし、長助・おはる夫婦について「西洋紀聞」に書かれている事柄を読んで私なりの解釈を考えているうちに、その政治的要因を絡めた思い付きがあまり意味のないもののように思われてきた。

長助・おはる夫婦というあまりに理不尽で悲惨な人生を背負ってきた人たちとシドッティがどう関わったかということの方が、「白石の失脚」というような一見大きな政治的な事柄より重く感じられるようになってきたからである。

長助・おはる夫婦は、その不幸な生い立ちから何の望みもなく社会の片隅で死んでいくことを運命付けられたような人たちである。一方、シドッティはキリスト教社会の中の選ばれたエリ-トとして育ち、高度な教養を身に付け自らの意思で異教世界へ飛び込んできた人間である。この両者が出遭ったとき、互いの心の中に何が起きたかは厳密には分からない。

しかし、長助・おはる夫婦はシドッティの中に今まで接触してきた「転びバテレン」たちとは違う何かを感じたのではないか。そしてシドッティと言葉を交わすうちに、幼い頃から一度も経験したことのない感動を味わう。辛くみじめな事ばかりが続く希望とは無縁の自分たちの人生だったが、この世での命はもう尽きようとしている。シドッティによれば、今からでも正しい道を歩んでいけば死後、永遠の生命が与えられるということである。それを考えたとき、ひとかけらの望みすら抱くことのなかった毎日を生きることにさえ喜びと勇気が湧いてくる気がしたのではないか。

そんな彼らの変わりように周囲の者が気付かぬ筈がない。自分より不幸であると信じていた者が幸福そうにしているとき、それを自分のことのように喜べる人は少ない。嫉妬・羨望の感情が湧くのが普通である。長助・おはる夫婦が本当に「手作りの木の十字架」を身に付けていたかどうかは分からない。もし通報者がいれば彼らの精神的変化を切支丹屋敷の監視者が知ることは簡単なことである。

一方、地下牢に監禁され少量の食事しか与えられなくなったシドッティの胸に去来したものは何だったのか。彼が日本潜入にあたり極刑に処されることまで覚悟していたであろうことを考えると、自分に対する処置を静かに受け容れる心境だったと考えることは容易だが実はそう単純でないようにも思う。

まず身の危険に対する恐怖感や身体的苦痛は当然のこととしてあったはずである。また、カトリック世界のエリ-トとして養成され、いわばその世界の代表として異教徒世界に乗り込んだからには、日本でのキリスト教復活に赫々たる成果を上げることを周囲もまた自分自身も大いに期待していたことだろう。数千人、数万人の信者が日本の教会に復活することを当然夢見ていたはずである。が、その望みは絶たれた。

ただ、だからこそまた、シドッティは長助・おはる夫婦に教えを棄てさせたくなかった。それ故、地下牢では大声を上げて二人を励まし続けた。自分が永遠の生命を得ることのできる存在であることに気付いた二人が再び絶望の淵に沈むことのないように。そして、それこそが、天が彼に与えた使命であることを確信して。



6.「西洋紀聞」に書かれた長助・おはる夫婦とシドッティの最期


明年三月、ヲヽランド人の朝貢せし時、其通事して、ロ-マ人の、初申せし所にたがひて、ひそかに、この夫婦のものに、戒さづけ罪を糺されて、獄中に繋がる。

ここに至て、其眞情敗レ露はれて、大声をあげて、のゝしりよばゝり、彼夫婦のものの名をよびて、其信を固くして、死に至て志を變ずまじき由をすゝむる事、日夜に絶ず。

かくて此年の冬十月七日に、彼奴なるものは病し死す。五十五歳と聞えき。
其月の半より、ロ-マン人も身病ひすることありて、同じき弐一日夜半に死ぬ。其年は、四十七歳にやなりぬべき。



〈完〉















 



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by GFauree | 2018-02-25 10:14 | ジョバンニ・バッティスタ・シドッティ | Comments(0)

「最後の伴天連」シドッティ

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1.「最後の伴天連」シドッテイ




1708年10月
のことである。「島原の乱」が終結しポルトガルとの国交が断絶され、禁教・鎖国体制が完成したと考えられる時期から既に約70年の歳月が流れていた。小説「沈黙」の主人公セバスティアン・ロドリゴのモデルとなったジュゼッペ・キアラ(日本名 岡本三右衛門)が江戸の切支丹屋敷に40年間幽閉された上83歳で死亡してからも20年以上が経っていた。

九州最南端から約60キロの屋久島で、月代(さかやき)に剃り上げ侍の装束を身に着けたひとりの外国人が地元の住民に発見された。それが、ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティである。彼は直ちに捕えられ2か月後長崎に送られた。そして、翌年10月江戸へ護送され、切支丹屋敷に収容され訊問を受けた。

訊問を行ったのがその年就任した第六代将軍家宣の最高顧問として幕政に強い影響力を及ぼしつつあった儒学者新井白石であった。白石はシドッティの本国送還を具申したが、幕府は切支丹屋敷へ終生幽閉することを決定する。

シドッティには、宣教禁止の条件付ではあるが「年に金二十両五人扶持の手当て、さらに毎日二汁五采の食事」が与えられ、長助・はるという夫婦が従僕として付けられることになった。「拷問や棄教を強いられることもなく、祈祷書など書籍類の携帯と祈りさえも公然と許されるというかつてない厚遇での幽閉であった。」

シドッティが切支丹屋敷に幽閉されてからおよそ4年が経った頃、従僕長助・はる夫婦が木を削って作った十字架を胸にかけていることが発覚し、二人はシドッテイに感化され彼から洗礼を受けたことを告白した。シドッテイは両名と共に屋敷内の地下牢に監禁され、10カ月後の1714年10月46歳で死亡した。死因は衰弱死とされている。




2.シドッテイを身近に感じるには時間がかかった



シドッテイの件は、開府から百年以上経ち鎖国体制の固まった後の江戸時代中期の話である。確かにキリスト教宣教に関する出来事ではあるが、キリシタン時代の宗教や文化の交流や政治・交易に関わった人々と社会をリアルに感じたいという動機で探索を始めた私にとって縁遠い話題だった。ところが、それが長い時間をかけてだんだん身近になってきた。歴史探索にはそんな楽しみもあるんだと思うと少し嬉しい。


(1)新井白石の取り調べ

いつ頃か忘れてしまうぐらい前のことだが、鎖国時代の日本に潜入しようとしたイタリア人司祭を新井白石が取り調べた、ということを何かで読んだことがある。シドッティのことである。白石の狙いは、得られる情報から広く世界の情勢を把握し禁教・鎖国体制を客観的に見直すことにあったらしい。それは、歴史に疎く江戸時代の日本にいた知的な人々のことなど考えたこともなかった私にとって全く新しい観点だった。


(2)シドッテイの墓の発掘

2014年7月、茗荷谷(みょうがだに)の切支丹屋敷跡地の発掘調査が行われたとの報道があり、3体の人骨が見つかりうち一体がシドッテイのものと特定された。

この遺骨をもとにシドッテイの頭部の復元像が製作され、2016年11月に公開された。残りの2体は、一人が日本人、もう一人はDNAが残っていないため分析不能とされている。


(3)木製の十字架

2017年1月公開されたマ-ティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」の最後のシ-ン。火葬される主人公セバスチャン・ロドリゴ(モデルはシドッティが幽閉される24年前切支丹屋敷で死去したジュゼッペ・キアラであることは冒頭に書いた。)の遺骸の掌の中には、日本人妻が密かに握らせた藁作りの十字架があった。

キアラに関して、それが史実であるとの記録は無論ない。一般的にキアラは幕府の禁教政策に協力的な姿勢で40年間の幽閉生活を送り「転びバテレン」としての生涯を受け容れ全うした人物とされている。しかし、そういうキアラであっても、実は日本人妻という自分に最も近い存在を宗教的に感化するという自分の務めを忘れることはなかったのではないかというスコセッシ監督の思いがそこに表現されているのでは、と私は思う。

おそらく、その創作部分は「従僕長助・はる夫婦が木製の十字架を身に付けていたことから、シドッティが彼らを感化し洗礼を授けていたことが発覚した」とされていることがヒントになって発想されたものだろう。




3.「密行 最後の伴天連シドッテイ」古居智子著(新人物往来社)について


相当精緻な探求のもとに書かれた本のようだが、それによって瑣末主義に陥らないよう抑えられ良く整理された内容である。解り易く言えば、書かれていることは信頼できるが詳し過ぎないので助かるという意味である。

特に、シドッティを送り出した当時のカトリック教会の事情として、スペイン・ポルトガル両国による海外進出と一体となった布教体制への反省から生まれたロ-マの布教聖省の存在などが簡潔・的確に説明されている。(布教聖省については、以前クリストヴァン・フェレイラに関する記事で触れたことがあるので、ご参照頂きたい。http://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/


また、新井白石がシドッテイに対し訊問を行うには、事前に長崎において通辞(通訳)今村源右衛門他による問答が行われていたこと。さらに江戸での白石による吟味の場にも、今村他通辞が同席していたとの指摘は重要である。

白石の著書「西洋紀聞」の内容は、「シドッティから聞いた世界諸国の地理、歴史および政治、文化、風俗などの海外事情」から「シドッティが日本布教を志した動機やキリスト教の教義」まで複雑かつ多岐にわたるものである。そんな内容を白石がひとりで聞きだせる訳がない。「白石とシドッティの知的対決」も有能な通辞の助力なしにはあり得なかった、という世間で余り言われて来なかった当たり前のことをこの書は教えてくれた。


実は、この書を読みながら割り切れないと感じだんだん膨らんできた疑惑のようなものがある。それは「老僕 長助・おはる夫婦の振舞いの不自然さ」である。そこで、次回はその点だけを採り上げてみることにしたい。


〈つづく〉









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by GFauree | 2018-02-13 06:46 | ジョバンニ・バッティスタ・シドッティ | Comments(0)