【大航海時代のおと】

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1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打ちに関する報告書

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どうもよく分からない「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」と「岡本大八事件」


1609年6月から1610年1月にかけての「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」ほど日本のキリシタン教会に多大な打撃を与えた出来事はなかった、とよく言われる。その打撃の内容については、過去の記事「名前はよく出て来るけれど、なぜか顔の見えない『キリシタン大名』有馬晴信」(https://iwahanjiro.exblog.jp/21320097/)、「背教者クリストヴァン・フェレイラ [その5]」(https://iwahanjiro.exblog.jp/22692161/)に書いた。

その記事を書きながら気付いたことは、受けたとされる打撃の内容から、逆に平常時には見えにくいキリシタン教会の持っていた本質的な性格のようなものが透けて見えるということである。

「岡本大八事件」は「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」に端を発し1612年3月及び1613年1月の禁教令の契機となり、キリシタン教会を壊滅的な状況に追い込んだとされる事件である。この事件についても、2つの記事「何だか怪しい『岡本大八事件』」(https://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)、「『岡本大八事件』はどうも気になるので」(https://iwahanjiro.exblog.jp/23712614/)を書いた。

こうして、両事件に関して記事を書いてきて、各々の内容がはっきりイメ-ジできたかと言うとそんなことはなく、どちらもどうも本当の所がよく解からないという感じが残った。



ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件の概略


「岡本大八事件」については、真相が不明であるにも拘わらず単純な贈収賄事件として片付けられてきたのではないかということを記事に書いた。一方、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」は、概略次のように説明されている。

長崎奉行長谷川左兵衛とマカオから渡来した定航船のカピタン・モ-ル アンドレ・ペッソアとの間に取引に関する争いが生じた。そこに、前年に自分の朱印船がマカオに立ち寄った際起きた争乱により乗組員が殺害されたことに恨みを持つ「キリシタン大名」有馬晴信が絡んできた。晴信は家康の了承を得てポルトガル船を攻撃し、それがアンドレ・ペッソアもろとものダ・グラサ号自爆に繋がった。

とこう書いてくると、ダ・グラサ号事件も単純な焼打ち事件に見えるが、そうではない。第一、「キリシタン大名」がキリシタン布教活動の源泉であるポルトガル船を攻撃したのだから異常な事態である。加えて関係する話を読んでいると色々と複雑な経緯があるらしいのである。


オ-ルスタ-全員集合の事件


しかもその経緯には、その時期のキリシタン史上代表的な人物が続々登場する。まずは、マカオのカピタン・モ-ル、アンドレ・ペッソアである。カピタンといってもただの船長ではない。マカオの通商・軍事のみならず行政・司法までを司っていた知事と言うより総督といっても良いほどの大物なのである。

日本側は先ず長崎奉行長谷川左兵衛、そしてその上というか背後に自らポルトガル船貿易に手を染めていた家康と腹心本多正純が見え隠れする。次に、長崎代官村山等安、自身で朱印船を出していた「キリシタン」大名有馬晴信等々。さらに、こういう話題になると嫌でも出て来るのが、イエズス会の通辞ジョアン・ロドリゲスと司教ドン・ルイス・セルケイラ。

まるで往年のお正月映画のように(古いたとえで恐縮だが)オ-ルスタ-豪華総出演である。



歴史探索の楽しみのひとつは資料の入手


こうなるとやはり、先ず「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」についてその内容をしっかり固めなければ、と考えざるを得なかった。ところが、いざその段になって気付いたことは、有名なはずのその事件を詳しく説明した解説書が見当たらない事である。

が、そのうち「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」という論文が書かれて約40年前に発表されていたことを知った。ただ、高価な資料なのでいきなり飛び付くわけにも行かず2年ぐらい放っておいたがそれ以上は我慢できずついに最近入手した。

(なぜ、こんなことを縷々述べているかというと、歴史上の出来事の解説書というものは、いざとなると入手するのは意外に難しく、入手できると結構嬉しいものだということをお伝えしたかったからである。歴史探索にはそんな楽しみもあることを、私は自分でやってみて初めて知った。逆に、「そんなことはインタ-ネットで検索すれば直ぐ分るでしょ」なんて言われると、実にがっかりと言うか神経を逆なでされたような気がする。そんなことを言う人は、歴史上の出来事を本当に知りたいと思い、自分なりに調べてみようと思ったことがないに違いない。インタ-ネットの情報は目次のようなもので便利ではあるが、それ以上ではない。)



「1610年長崎沖におけるマ-ドレ・デ・デウス号焼打に関する報告書」の内容


「マ-ドレ・デ・デウス号」は「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号」の別名である。(以前はそう呼ばれていた。)イエズス会日本準管区長付秘書であったジョアン・ロドリゲス・ジランが作成した報告書が五野井隆史氏によって翻訳され、1976年刊行の「キリシタン研究」第十六輯(吉川弘文館)に収められていた。なお、ジョアン・ロドリゲス・ジランは通辞(通訳)ジョアン・ロドリゲスと同名であるが別人である。ありふれた名前なのだろう。

報告されている内容であるが、かなり詳しい。なぜこんなことまで分るのかというようなことまで書かれている。イエズス会がよほどの情報提供者を抱えていたということなのか、そうでなければ報告筆者の想像の産物である。よく言えば洞察力が駆使されたということになるが、悪く考えれば捏造である。


いつも通り都合の悪いことは書かれていない


逆に、あくまでイエズス会内部の報告であるから、日本イエズス会にとって都合の悪い事柄はいつも通りしっかり省かれているというか、伏せられている。例えば、活躍(暗躍?)したはずの通辞ジョアン・ロドリゲスの行動については、一切触れられていない。

彼は、当時イエズス会のプロクラド-ル(財務管理責任者)兼ポルトガル船貿易仕切り役及び家康との政治折衝役であったのだから、ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号が渡来してから自爆するまでの過程で何らかの働きをしていたことは間違いない。


過去記事「キリシタン活動の性格と展開を決定付けたもの [その3]」(https://iwahanjiro.exblog.jp/23147187/)に記したことであるが、実際は、「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号」船団の代表団長マテオ・レイタンが長崎来航の翌月駿府を訪れており、この時ロドリゲスは通辞として代表団一行を引率している。

一行は家康に謁見し、家康から「日本人のマカオ渡航を禁止する」命令(朱印状)を出す旨の約束を得ている。つまりロドリゲスはその朱印状を引き出すための裏工作に関与していたのである。そして、彼は事件の起こした混乱の責任を問われて2カ月後マカオに追放されている。


この報告書の内容をできるだけ活かすために


このように過剰と思われる部分と欠けている部分とがある報告ではあるが、限られた資料のひとつであることは確かである。書かれてあることを盲信せず、しかし軽視もせず出来るだけ活かして、実情はどうであったかを推測するにはどうすれば良いかを考えた。

そして、或る観点を軸に報告されている事柄を整理することを思い付いた。例えば、以下のような観点である。

1.“ごますり”左兵衛の言動について考える
2.結局、家康の真意はどこにあったのか
3.どのような環境のもとに、ポルトガルからオランダへの切り換えが行われたのか

次回から、以上の観点で報告を整理してみようと思う。


〈つづく〉










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by GFauree | 2018-06-25 07:29 | ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件 | Comments(0)