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お知らせ

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                                          (写真撮影 三上信一氏)



諸々の事情で、記事の更新をお休みさせて頂いております。今暫くお休みさせて頂く必要がありそうです。どうぞ宜しくお願い致します。

# by GFauree | 2017-09-28 06:55 | Comments(4)  

「鼻のない男の話」 [その3]

 
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                          (写真撮影 三上信一氏)



前々回[その1]ではこの小説のあらすじを、前回[その2]ではこの小説を読みながら考えたことを書いたが、今回はこの小説を通じて作者は何を言いたかったのかについて、考えてみた。


この物語は、人生の岐路において目先の栄達や感情に引きずられ、愚かな選択を重ねたあげく、苛酷な運命に弄(もてあ)ばれてしまった男の悲劇とでも呼ぶべきものでは、と最初私は思った。しかし、色々考えているうちに、もっと違う意味があるのではと思うようになってきたので、それをお話しよう。


1.人生の選択


(1)主人公フェルナノ・ロペスは、学校では良く出来た神経質で知的な青年だった。その彼が、親友ジュアノ・Dの従妹ロ-ザを彼から奪う。フェルナノの無理は、もうそこから始まっていた(ような気が私にはする)。

ところが、恋人を奪われた失意の末遠征隊に加わり成功者として戻って来たジュアノが持ち帰った財宝、そしてそれによって彼を見直す人々、更には彼がロ-ザに贈った頸飾りが、フェルナノを平静ではいられなくした。

性格が向いていないとして心配する妻ロ-ザの反対を押し切って、フェルナノはインドへの遠征隊に加わる。結果から見ると、ロ-ザの見方は当たっていたようだ。


(2)フェルナノは、ゴアの大虐殺の夜、一人の舞妓を見逃す。その後、現地人の男によってその舞妓アイシャと引き合わされ、フェルナノは我を忘れた。リスボンを出てから5年間、海と戦闘と血と掠奪しか見て来なかった彼には、たとえそうすることに危険を感じたとしても自分を抑えることはできなかったのだろう。フェルナノの心は、キリスト教からも故国ポルトガルからも次第に離れて行き、やがて彼は叛乱軍に加わることになる。


(3)マラッカ攻略から戻ったポルトガル副王ダブルケルケは、フェルナノを含む叛乱軍の棄教者たちに対し「右手首と左拇指を切り落とし両耳と鼻を削ぐ」刑罰を与えた。刑の執行後、棄教者たちは見せしめのためポルトガルに送られたが、フェルナノはその恥辱を免れゴアに残された。

2年後アイシャが病気になると、フェルナノは乞食の身となり土民から蔑(さげす)まれたが、半年後アイシャが一時的に回復するとまた彼女に庇護された。しかし、その年の末アイシャは死に、ロペスはまた自活しなければならなくなる。彼が頼み込んでポルトガル行の船に乗せて貰ったのは、その翌年の秋のことである。


2.後悔の念


作者きだみのる は、自選集のあとがきの中で「自分のことを語るのは、いつもつらいことだ。自己は厭うべく憎むべき存在だ。」と述べている。何故か物語の中ではあまり触れられていないが、強い後悔の念が主人公フェルナノを苦しめ続けたはずだ、と私は思う。

まず、回教徒に対する襲撃・掠奪・破壊の繰り返しの日々の中で、ポルトガルを出たときには予想すらしていなかった危険な環境に置かれてしまったことを後悔したことがあったかも知れない。しかし、何と言っても強烈な後悔の念に苛(さいな)まれるようになったのは、棄教した叛乱軍の一味として処罰され、それも酷(むご)い刑罰によって不自由な身となり、それまで自分より下に見ていた土民からすら、蔑(さげす)まれるようになってからではないか。


フェルナノは何を後悔したのだろうか。

なぜ、叛乱軍に加わってしまったのか。なぜ、棄教してしまったのか。なぜ、アイシャに対する熱情の虜(とりこ)になってしまったのか。なぜ、大虐殺の夜、アイシャを見逃したのか。そして、なぜ、インド遠征隊に加わったのか。なぜ、ジュアノが持ち帰った財宝に目を眩(くら)ませてしまったのか。なぜ、親友だったジュアノからロ-ザを奪ってしまったのか。

人にとって、人生の節目のたびに自分がしてきた選択の全てが、後悔の種になり得る。だから、後悔の種は、誰もが心の中に抱えていて、心が弱ってくると容赦なく自分を痛めつけかねないもののようだ。そして、後悔の念ほど、激しく人の心を傷つけるものはないのではないだろうか。


ただ、フェルナノの場合、それほど後悔の念に苛(さいな)まれながら、妻ローザ、舞妓アイシャ、娘アンジェリカへの思いだけは変わることがなかったようだ。後悔だらけの人生ではあったけれど、彼女らが自分に与えてくれたものだけは、無にしたくなかったということだろうか。それとも、生き延びるためには、自分を大切に思ってくれた彼女たちの面影にすがる他なかったというだけのことなのか。


3.人間への恐れ


ポルトガル行の船に頼み込み乗せて貰ったフェルナノは、またもや決定的な後悔を味わう。

同船者の示す軽蔑や彼を眺める視線や彼を避けたり憐れんだりする態度が、自分の行先に絶望を感じさせた。彼の知らない人々である同船者さえ、かれをそのように扱う。ポルトガルに戻れば、自分を既に知っている人々の社会に背教者、裏切者として組み込まれなければならないのである。

フェルナノは人間の残酷さを思い、「どんな猛獣より人間は猛獣だ。」と嘆息した。しかし、彼はその人間の残酷さを既に自分の中に見出していた筈である、と私は思う。

この小説は僅か30数ペ-ジの短編であるが、そのうち4~5ペ-ジを割いてポルトガルの遠征隊の行状が描かれている。回教徒に対する残忍な襲撃・掠奪・破壊の反復である。なぜ作者はそれをそれほど詳しく語ったのだろうか。

その疑問を考えているとき、その描写はポルトガルの遠征隊自体が「猛獣の集団」であったことを示していることに私は思い当たった。ということは、遠征隊を派遣し襲撃・掠奪・破壊による収益を吸い上げていたポルトガル国家も「猛獣の集団」であったことになる。作者がそこまで考えていたかどうかは分らないが、そう考えれば祖国の社会に対するフェルナノの絶望感はいよいよ救いがたいものであったことになる。


4.無人島で独りになったときに始まった、彼の本当の人生


無人島に仮泊した船から逃れ独りになったとき、フェルナノは完全に自由を感じ、烈しい空腹を覚えた。-鼻かけ男の大宴会-である。それから、食糧と住居を確保し、平和で静かな日々を着々と築いていった。

10年経った頃、島に着いた船から逃げ出した奴隷を3カ月で追い払うと、また孤独と平和が戻って来た。島に来る船員たちと接触することによって、人に対する異常な恐怖も失くなっていった。


5.棄教の罪


更に10年の月日が流れ、彼は死を意識するようになり、棄教の罪を気にかけるようになった。恐らくは、人間に対する恐怖が消え静かな生活を送る中で、自分に与えられた運命を全うすることこそ、自分に課せられた使命であると考えるようになったのではないか。そして、その使命を自分に与えた神を裏切った罪に対する呵責の念がふくらんできて、許しを得たいと思うようになったのではないか、と私は考える。

ロ-マへ行き法王から許しを得たのち、また無人島へ戻り、さらに10年余を生きることが出来た。


6.作者は何が言いたかったか


よく若い頃のことを思い出して懐かしがる人がいるが、私はそんな人を羨ましい気持ちで眺めて来た。実は、私にとっては、若い頃どころか中年・壮年と言われる時期を思い出すことすら恐ろしい。

今考えると、学校を終えて働き始めたころは、人間についても、社会についても、仕事についても、まるで分かっていなかった。そんな肝心なことが分からずに働いているのだから、目先の損得や功名心にかられて、いつも欲の皮を突っ張らせるしかなかったのである。

しかも、自分の性格や能力を考えて欲求を抑えるという賢明さも持ち合わせていなかったのだから、ほとんど薄氷を踏むような危なっかしい日々を送っていたことになる。そして、それを中年・壮年期まで続けてしまった。だから、そんな自分を思い出すのは、恐ろしいことなのだ。ただ、最近知ったことは以前の自分を思い出したくないと考えている人は、決して少なくないらしいということである。

私は、作者の「自己は厭うべく憎むべき存在だ。」という言葉をそういう風に受け留めている。そして、人生は生きれば生きるほど過ちを犯しかねない危ういものではあることは間違いないと思う。ただ最近になって、それを生き切ることに救いもあり得るのではと考えられるようになった。それで、作者もそう言いたかったのではと思う。


7.主人公と作者の最期


主人公の最期について小説では、「1547年の春、仮泊した船の乗員が彼(フェルナノ)が死んでいるのを発見した。」とされているだけである。

作者きだみのるは、この作品を発表した当時、58歳前後でありそれはほぼフェルナノが死んだとされる年齢である。そして、きだは80歳で亡くなっている。きだの最期については、発表された遺作の解説に子息と思われる方の書かれた次のような文章があることを、山口瞳が書いている。

「最後は病院で憧れの女性(であり続けた妻)に手を取られて息をひきとった。顔には満足したような、やさしいほのかな微笑を浮かべていた。」

山口瞳は、「フェルナノはきだ自身であり、ローザは彼の妻であり、アイシャは彼と暮らしていた若い女性であり、アンジェリカはその女性との間にできた幼い娘である。」としている。





〈おわり〉



[参考文献]

男性自身 英雄の死   鼻のない男の話 山口 瞳著     新潮文庫    新潮社
きだみのる自選集    第一巻 鼻かけ男の話              読売新聞社
                                          


# by GFauree | 2017-06-18 08:43 | 鼻のない男の話 | Comments(3)  

「鼻のない男の話」 [その2]

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                                       (写真撮影 三上信一氏) 




1.作者と小説の効用について



・作者きだみのる について


私が聞いたことがあったのは、せいぜい、型にはまることを嫌い奔放な生活を送った人柄を示すような逸話ぐらいのことだ。パリに留学した後、アテネ・フランセでフランス語とギリシャ語を教えていた経歴なども全く知らなかったし、山口瞳の『男性自身』を読むまでは小説「鼻かけ男のはなし」のことも、勿論知らなかった。


だから、山口瞳の『男性自身』でその小説の粗筋(あらすじ)を読んだときは、何だか儲けものをしたような気になった。


・「大航海時代」に関する本は少ない

と言うのは、「大航海時代」の歴史に興味を持ち始めて、この20年、出来るだけこの時代に関する本を読んできたのだが、私にとって面白そうで、かつ重過ぎなさそうな本というのは、ありそうで実はなかなか無い。そもそも、「大航海時代」に関する本は、著書も読者も驚くほど限られている。


・インタネットの情報は「目次」のようなもの

要するに、読者が殆どいないのだから、仕方がないということなのだろう。以前は、歴史というもの自体に全く関心の無かった私には、実情がよく分る。それで、ある勉強会のような所でその話をしたら、「インタ-ネットがあるじゃないですか」みたいなことをしたり顔で言われて、愕然とした。

そんなことを言う人は、インタ-ネットの「検索」で得られるような知識しか必要としたことがないのだろう。インタ-ネットの「検索」で得られる情報は、概ね本の「目次」のようなものである。「目次」が必要なこともあるが、それは必要な知識の骨と表皮の一部に過ぎず、肝心な知識の中身とは別物である。だから、適当な本を探して手に入れることが、結局必要なのだ。


・だからこそ、“やめられない、とまらない”本探し

それで、この20年間、自分にも面白く読めそうな本を探し続けてきた言って良い。逆に、そんな本を見つけて読むときの楽しさは、おいしい料理に出会ったときと同様、何とも応えられないものがある。そんなこともこの「大航海時代史」に関する読書趣味が“やめられない、とまらない”理由のひとつになっていると思う。



2.この小説のどんなところに興味をそそられたか


ところで、この小説に私が興味をそそられたのは、「発見・征服」を教会と国家が教俗一体の体制で推進した、まさに「大航海時代」のポルトガルの国内外の情勢を背景に、そこに生きた人々の人生が描かれていることであった。そして、さらにそのような小説が、日本の、それも歴史小説とはあまり縁のないような作家によって戦後間もない頃に書かれているということであった。

作者きだみのるは、「『鼻かけ男の話』は、最初イギリスのヨット狂の貴族の自販本でその存在を知り、ほかの地理発見の冒険誌二、三を読んで補いながら書いたものだ。」と、自選集の「あとがき」に書いている。




・何故かあまり明かされていない、ポルトガルによる「発見・征服」の進め方

前回、粗筋(あらすじ)にも書いたが、ポルトガル・スペイン両国は1494年、トルデシリャス条約を締結して、大西洋上の一地点を通る子午線を境界線とし、その東側をポルトガル領、西側をスペイン領とすることを協定した。


(1)スペインの「発見・征服」

その境界線から西側に遠征したスペインは、北米の南部と、ブラジルを除く南米全域そしてフィリピン諸島を征服した。

その征服の仕方は、対象となる地域全体を先住民を含めて植民地支配することを原則とするものであり、先住民に対する支配の仕方は苛烈を極めた。ヨ-ロッパから持ち込まれた疫病が猛威を振るったためとも言われているが、先住民は実際にほとんどが激減または絶滅させられた。


・「黒い伝説」

このスペインによる新大陸征服と植民地支配の記録は、「黒い伝説」と呼ばれ、他国のスペインに対する攻撃のプロパガンダのために、徹底的に利用された。「黒い伝説」は、今では一般的に客観性を欠いた歴史的資料だとされている。しかし、一部事実に基く部分がある以上、全面的に否定できるものでもない。

先住民擁護運動の旗手と目されるバルトロメ・デ・ラス・カサス(スペイン人ドミニコ会士)の著作は、直ちに各国で翻訳・出版され、「黒い伝説」としてスペイン批判の材料として利用された。因みに、日本のキリシタン迫害の歴史を記した、フランス人日本史家レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』(岩波文庫にあり)も、第二次大戦中日本攻撃のための「黒い伝説」として欧米諸国に利用されたと言われている。



(2)ポルトガルの「発見・征服」

一方、ポルトガルの「発見・征服」については、それほど悪く言われてない(ようだ)。「ようだ」と言うのは、それについて日本語で書かれたものが少ないために、そう見えるのかも知れないと考えるからだ。外国語で書かれ、日本語に翻訳されていない本は沢山あるのかも知れない。もしそうだとしても、私には原書を読む能力も体力もないから、そういう本の存在や内容を知る方法は殆どないので、実際の所どうなっているのかは判らないのだが。

私が、ポルトガルについて上に書いたような印象を持った理由として、「ポルトガルは相手国の領土と先住民を植民地支配する考えはなく、ただ『発見・征服』によって交易の拠点を得ようとしただけだ」と、何処かで読んだような気がする。ただし、奴隷が世界的に展開されたポルトガル貿易の主要商品の一つだったというのは、既に“常識”のようである。



歴史小説においては、史実を含め全てを作者が表現のために改変し、創作しても構わないことになっている。従って小説に書いてあることは、何であっても「過去の事実」と考えるべきではない。しかし、良い小説ほど人間や社会に関する洞察力に溢れているから、語られてこなかった「真の史実」を示唆してくれるのではないかという期待が、私にはある。そこで、この小説に書かれた、ポルトガルによる「発見・征服」に関する描写を抜粋してみた。



・この小説からの抜粋と気付くこと


(下記括弧内が小説「鼻かけ男の話」からの抜粋)

一番根本的な目標は、香料貿易を独占的に行っている回教徒をインド洋沿岸から追い払ってポルトガルのためこの貿易を独占・確保することであった。

とすれば、平和的に「発見・征服」を進めたなどということはあり得ないことになる。

この目的達成には、回教徒の商船を襲撃することも、貿易基地や寄港地の回教徒の破壊も、また回教徒に味方してポルトガルの目的を妨げる都市を懲らすことも必要であった。

そのために、海沿いの町を次々に襲撃し、市街を焼き、掠奪し、住民を皆殺しにした。黄金の都市ゴア攻略の際は、先住民の守備兵9千人と回教徒6千人を皆殺しにした。東アジアの交易の中心で富裕な町マラッカ(現在のシンガポ-ル付近)を攻撃し掠奪した、ことも書いてある。


・以上についてさらに私が思うこと


(1)中東からインドにかけての「発見・征服」は、香(辛)料貿易を奪い独占するための、回教徒と彼らを支持する勢力への、襲撃・掠奪・破壊を意味した。
(香辛料貿易を奪い独占するためには、回教徒の殲滅が必要だったということだろう。)

その掠奪等を正当化する役を、「教俗一体」体制の下に教会が引き受けた。教会のお墨付きを得たポルトガル遠征隊は、異教徒の財産・生命をどうしようと構わなかった。その代りにポルトガル人であっても、キリスト教を棄てた者は反逆者ということになったのだろう。

(2)ここで、気付くことは、遠征隊が攻撃し、占領したゴア(インド)もマラッカ(シンガポ-ル付近)も、後にイエズス会が、フランシスコ・ザビエルが、活動拠点とした都市である。

ポルトガルはマラッカ攻略後、マカオ(中国)に拠点を設け、その経路は日本へと伸びて行った。つまり、日本へのキリスト教伝来は、ポルトガルの襲撃・虐殺・掠奪の延長線上にあったというわけだ。

(3)イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノ(イタリア人)は、ザビエルの後継者として日本キリシタン史上最も大いなる活動をした人物とされている(松田毅一)。

彼は1582年12月、フィリピン総督(スペイン人官僚)に送った書簡の中で以下の主旨を述べている。

「シナを征服することは、スペインに益するところ大である。
日本は武力征服を企てても成功の見込はなく、しかも物質的に益するところが少ない。
それ故、シナの武力征服において、日本の軍事力を利用すことを提唱する。」


私は、この書簡の内容から「死の商人」という言葉を連想した。
それは、本来「武器を売る者」つまり「武器を売らんがために、死をもたらす者」という意味だろう。とすれば、ヴァリニャ-ノは「宗教を広めんがために、布教国日本の軍事力を利用した戦いすら提唱した者」ということになる。
これについてもまた、それは「時代の常識」だったと考えるしかないのだろうか。




3.「大航海時代」のポルトガルの国家と人々の実情は、日本の戦後のそれに重なる


山口瞳は、「とにかく、余人は知らず、私はこの小説に痺(しび)れた。当時の国情と、日々の私の気持ちがぴったりとこの小説に合ってしまった。」と書いている。


・日本の戦後

この小説は昭和28年(1953年)文芸雑誌『群像』に発表された。昭和28年と言えば、米国他連合軍との戦争終結から8年後であり、その3年前に勃発した朝鮮戦争が休戦に至った年である。

ちなみに、NHKテレビの本放送(「試験放送ではない」という意味)が開始されたのもこの年である。ついでに言えば、その頃はNHKでも“英雄”力道山のプロレスを実況中継していた。当然、一般家庭に高価なテレビは無かったから、新橋駅前や渋谷駅ハチ公前に設置された受像機を見るために人々が殺到した。そのために、群衆が広場や道路にあふれ都電が不通となったこともあったということだから、如何に多くの人が集まったかが想像できる。

朝鮮戦争による特需が日本経済にもたらした好景気は“神武景気”と呼ばれ、戦後の高度成長の始まりとされている。

日本の軍人・一般人併せて約3百万人の犠牲者を出した戦争が終わってから、わずか8年しか経っていない時期である。都市の多くは、広島・長崎はもとより東京・大阪でも焼野原だらけであったはずである。

ところが、大衆はもう新しい娯楽に飛びついている。そんな中にあって、気の利いた者は、既に新しい時代の潮流に乗ろうとしているかに見えただろう。そうでない者は、ひたすら焦り自分の不甲斐なさを責めていたかも知れない。


・大航海時代」ポルトガル国内の実情

よく、「大航海時代」にヨーロッパ諸国から国外へ流出した人々について、「雄飛した」などと言って勇壮さが強調されることがある。海難事故で彼らのうちの何割かは命を失ったと言われているから、風を動力とする船しか輸送手段の無い当時、海外に出ることは相当に危険であり、確かに勇気の要ることだった。だからこそ、もし国内に留まれるものならば、そうしたかった筈である。端的に言えば、要するに食えないから海外へ出ざるを得なかったということである。

これは、明治以降日本から海外へ移住した人々についても、言えることである。彼らを尊重しようとすることが、逆に彼らの途方もない苦労を見えなくさせている。私は、こちらに来て初めて、その移住した人々がどれ程の辛酸を嘗めねばならなかったを知った。


通辞ジョアン・ロドリゲスの例

さて、当時ポルトガルを出国した人々の実情であるが、そのよい例がイエズス会の通辞ジョアン・ロドリゲスである。

時々、「当時のイエズス会の宣教師は皆、ヨ-ロッパの祖国ではエリ-トだった。」などと、言ったり書いたりする人がいるが、それは大嘘である。当時の日本人には、「彼らが祖国で食えないがために、遥かかなたの日本まで来たのでは」と賢明にも推察した人が少なくなかったことを、宣教師自身が「日本人の猜疑心の強さ」として嘆いているのである。確かに、カトリック教会には宗教改革によって失った教勢を回復するために、海外布教に組織の存在を賭けざるを得ない事情があった。

ロドリゲスは、最高権力者であった秀吉に寵愛され、家康によって見事に失脚させられ国外追放されたことが知られているが、イエズス会の中でも異例の出世を遂げていた。時勢に、権力に迎合することが巧みな者は、教会(修道会)の中でも出世する可能性が高かったのだろう。現在はどうなのかは、教会(修道会)が人間の集団であることから推して知るべしである。

彼は、元々ポルトガル北部の寒村の出身で、10歳になるかならないうちに出国し、日本に渡来したときは、宣教師か商人の使用人だったらしい。自分の生年月日すら、正確には知らなかったと言われている。


要するに、年齢を問わず、食えない故に国外に出ざるを得ない者が多くいたということだろう。また、国外に出たことで成功した者が僅かにいて、帰国した彼らを羨望の目で見る人々が周囲に少なからずいたということは、当然あったのだろう。

そう考えて来ると、山口瞳の言うように、当時のポルトガル国内と終戦直後の日本とに共通したところがあったことは確かなようである。



今回は、この小説のどんな点に興味をそそられたのかを中心に述べて来た。
次回は、この小説を通じて作者は何が言いたかったのか、について考えてみたい。



〈つづく〉




[参考文献]

男性自身 英雄の死   鼻のない男の話 山口 瞳著     新潮文庫    新潮社
きだみのる自選集    第一巻 鼻かけ男の話              読売新聞社
「キリシタン時代の研究 第3章 キリシタン宣教師の軍事計画 高瀬弘一郎著 岩波書店
「ヴァリニャ-ノとキリシタン宗門」    松田毅一著作選集         朝文社
                                               

# by GFauree | 2017-06-02 03:28 | 鼻のない男の話 | Comments(2)  

「鼻のない男の話」 [その1]

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                                        (写真撮影 三上信一氏)





山口瞳の『男性自身』から


山口瞳は、「週刊新潮」に『男性自身』と題するコラムを1963年から31年間連載し続けた。その『男性自身』は「男性自身シリ-ズ」として新潮社から刊行されているが、そこからセレクトした作品を収めた作品集が何冊か文庫本になっている。

『男性自身』は週刊誌のコラムだけあって、サントリ-・ウィスキ-の宣伝でよく目にしたことのある漫画的な(独特の味のある)柳原良平の挿絵が添えられていて、一見読み易そうであるが、内容はかなり濃かったり深い含蓄があったりするものが多い。

正直に言うと、山口がそれを執筆した年齢の頃の私には理解できず、最近になってやっと意味が分ったりすることが結構ある。「あれは、こういう意味だったのか」というその感じが私は楽しみで、今でも時々図書館から借りて来て読んでいる。


きだみのる の小説

その文庫本の中の一冊、男性自身 「英雄の死」(新潮文庫)に、「鼻のない男の話」は収められている。これは、きだみのる の小説「鼻かけ男の話」について書かれた一文である。原題「鼻かけ男の話」が「鼻のない男の話」とされているのは、身体的欠陥をあけすけにいうことを避けるという配慮のためだろうと思う。

この小説の梗概(あらすじ)は、山口瞳のコラムの中に書かれているが、その内容をお伝えしなければ話が進まない。かと言って、そこに書いてある梗概を全て丸写しにする訳にもいかない。そこで、拙いことは承知で私なりにあらすじをまとめてみたので、先ずは目を通して頂きたい。一部どうしても丸写しになってしまったことは、ご容赦頂きたい。


「鼻かけ男の話」梗概(あらすじ)

1.時は、15世紀の終わりから16世紀の初めにかけて、ポルトガルがスペインとの間に世界分割を協定したトルデシリャス条約を結び、アフリカ沿岸経由で東に向かって盛んに「発見・征服」を進めていたころの話である。

主人公フェルナノ・ロペスはリスボン生まれ、ギリシャ語を貴族の子弟たちに教える文学趣味のどちらかと言えばひ弱で地味な青年だった。が、彼は、親友ジュアノ・Dが好意を抱く美しい彼の従妹(いとこ)ローザに思いを寄せ、ついには彼から奪ってしまう。

傷心のジュアノ・Dは、インド航路を発見しリスボンに戻って来たヴァスコ・ダ・ガマの第二回の遠征に身を投じる。5年後に戻って来た彼は夥しい財宝を持ち帰り、ローザに大きなダイアモンドの垂れた金の頸飾りを贈る。

フェルナノはジュアノが持ち帰った財宝に幻惑された。ジュアノとは性格が違うというロ-ザの反対を押し切って、フェルナノはインドへ赴く遠征隊に加わった。彼の出発の5か月前に娘のアンジェリカが生まれていた。


2.ロペスの乗り組んだ船隊は、海沿いの町を次々に襲撃し、市街地を焼き、掠奪し、全ての住民を殺して進んでいった。ポルトガル王は掠奪品総額の2割を徴収することを引き換えに掠奪を公認し、香料を王室の専売品とし、インドから運ばれた商品に対しては品物によって62.5%までの輸入税を徴収していたのだ。つまり、遠征隊が掠奪を進めれば進める程、ポルトガル王室が莫大な利益を得る仕組みになっていた。ポルトガル王室こそ遠征隊という名の盗賊の元締めだったことになる。

遠征隊は、苦戦の末、ついにはインドの“黄金の都市”ゴアをも占領し、守備兵9千人、回教徒6千人を皆殺しにした。この虐殺に参加したロペスは、ある建物の中で若い女に出遭い、彼女を見逃した。大虐殺の夜、ポルトガルの軍人に見逃して貰った美貌の舞妓がいたことが噂になる。


3.ポルトガル兵の中には、土地の娘と結婚し、棄教し、雑貨屋の主人になった者も居た。その雑貨屋と取引のある現地人のロサルカッドという男が、ロペスと問題の舞妓との再会を手引きした。ロペスは、舞妓アイシャに対する熱情の虜(とりこ)となった。

ある時、ポルトガル軍の隊内で棄教の疑いのある者たちが責め立てられ、棄教者たちは土民兵とともに反乱を起こした。教会と国家とが一体となった体制のなかで、ポルトガル人であってもキリスト教を棄てた者は国家への反逆者とみなされ、ロペスもその中の一人だった。ロサルカッドは彼らを助け守備隊長となった。


4.
マラッカ(シンガポ-ル付近)の平定に向かっていた副王ダブルケルケがインドに戻って来た。彼は叛乱軍である守備隊に対し降伏勧告を行い、棄教ポルトガル人の無条件引き渡しを要求した。ロペスは叛乱軍の発起人と見られていた。ダブルケルケは棄教者たちの右手首と左拇指を切り落とし、両耳と鼻を削いだ。そして、彼らを見せしめのためにポルトガルに送ったが、ロペスだけはこの運命を免れた。

1516年秋、ゴアからリスボンに向かって出発したサン・ミカエル号に鼻のない男ロペスが頼み込み乗船した。同船者たちは彼を悪魔の使であるかのように眺め、「どんな猛獣よりも人間は猛獣だ」とロペスに思わせた。彼は、アイシャの遺品である頸飾りを船長に渡し、娘のアンジェリカに届けるように頼んだ。

船が、アフリカから2,800km離れた南大西洋に浮かぶセント・ヘレナと呼ばれる無人島に仮泊したとき、ロペスは姿を消した。


5.ロペスが無人島に暮らして10年が経った頃、彼は本国中に広く知られる存在となり、「ロペスは今年もセント・ヘレナ島で生きているかどうか」が賭(かけ)にされるようにさえなった。

更にそれから10年の歳月が流れたころ、ロペスはリスボン行きの便船に乗った。王宮に行き王と妃に会い、ロ-マに行って法王から棄教の罪に対する赦(ゆるし)を貰った。

そして、法王に懇願して国王宛てにセント・ヘレナ行の船に乗れるよう手紙を書いて貰ったので、国王は彼をセント・ヘレナに送った。法王によって良心の咎を拭われ、彼の心は軽くなり人間に対する恐怖も鎮まっていた。


6.鼻のない男は、その後無人島でさらに10年ばかり生きたようだ。

1815年、ナポレオンがセント・ヘレナ島に着いたとき、ロペスの飼っていた家畜の子孫が野生に戻って生存しているのを発見したと言われている。



この小説について私が考えたことは、次回お伝えしたい。



[参考文献]

男性自身 英雄の死    鼻のない男の話 山口 瞳著 新潮文庫 新潮社
きだみのる自選集 第一巻 鼻かけ男の話           読売新聞社






                                            


# by GFauree | 2017-05-20 03:53 | 鼻のない男の話 | Comments(0)  

「岡本大八事件」はどうも気になるので

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「岡本大八事件」
は、以前龍造寺氏に奪われた旧領の返還を求める「キリシタン大名」有馬晴信と、家康の側近である老中本多正純の家臣岡本大八との間の贈収賄事件として知られている。賄賂を贈ったのが有馬晴信、受け取ったのが岡本大八である。

この事件は1613年1月の全国的な禁教令発布の重要な契機の一つとして、よく挙げられている。しかし、一見単純明白なこの汚職事件の展開には種々不自然な点がある。にもかかわらず、一般にその点はあまり追及されず、ほぼ同時期の大奥の女中「おたあジュリア追放」の件と並べて、ただ全国的な禁教令発布のきっかけとされてきたように、私には思えた。


そして、その種々不自然な点について考えているうちに、この事件は実は家康・正純による「キリシタン大名潰し」の謀略だったのではと考えるようになり、そのことを記事に書いた。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21362563/)約400年前のこの事件についても、御多分に漏れず、同時代及びそれ以降の権力や権威にとって都合の悪いことは隠蔽・抹消されてきたであろうから、それが不自然な説明に現われているのではないか、と思ったからだ。

すると、そんな記事を書いた所為で、事件について他の人はどんなことを言っているのかとか、何処かに何か決め手になるようなことが書いてありはしないかとかが、いつも気になるようになった。また、どうも、この事件は私だけでなく多くの人にとって気になる出来事であるらしいことも分かってきた。



最近、たまたま「カルヴァ-リョ弁駁書」という文書を読んでいて、その中に「岡本大八事件」に関して書かれた箇所があるのを見つけた。
(その文書の日本語訳は、大航海時代叢書「イエズス会と日本 二」に収められている。)


「カルヴァ-リョ弁駁書」
は、正式には、「フランシスコ会パ-ドレ・フレイ・セバスティアン・デ・サン・ペドロによって作成された、日本の皇帝が彼の諸王国からすべてのパ-ドレを追放するに至った諸原因の摘要、と題された論文への弁駁と回答」という長々とした題名が付けられているだけあって、日本語訳の分量も約300ページと長大な文書である。

内容は、江戸幕府によるキリシタン禁教の原因がイエズス会の布教方針にあったとするフランシスコ会士セバスティアン・デ・サン・ペドロの主張に、イエズス会日本管区長ヴァレンティン・カルヴァ-リョが反論したものである。


その主張・反論の中に、有馬晴信・直純親子の関係やイエズス会の関与などそれまでに私が知らなかったこの事件の様々な背景や展開が語られている。もちろん、デ・サン・ペドロの主張もカルヴァ-リョの反論も、日本における布教方針をめぐって当時激しく対立していた各修道会の立場から書かれたものである。また、書かれていることの情報の出所や根拠も示されていないから、それをそのまま真に受ける訳にはいかない。

しかし、そこには事件の当事者に近かった者であるゆえに知り得たと思われる事柄が種々述べられている。また、対立する二者の主張と反論によって、少なくとも事件の状況がよりリアルに浮かび上がる面があるようにも感じられる。そんなことから、両者の主張と反論及び付されている解説のうち「岡本大八事件」に触れた部分を抽出して整理してみた。
(なお、一部人名や表現は解り易くするために、日本語訳原文のものから変えてある。)




[セバスティアン・デ・サン・ペドロが主張する事件の経緯]


恩賞として家康の曾孫を与えられた息子直純
有馬晴信はマカオからのガレオン船を攻撃し自爆させるという軍功を立てた。そこで、家康はその恩賞として、晴信の息子直純に自分の曾孫(ひまご)国姫を与え、キリシタンとして教会での婚姻をしていた妻マルタ(小西行長の姪)と離縁させた。

賄賂の目的
晴信は、肥前の国の藤津という、自分の領国に隣接する地方が与えられることを願い、家康の側近本多正純の家臣岡本大八に賄賂を贈った。

追い込まれていた晴信
晴信はイエズス会に対してのみならず、自分の主要な家臣たちにも、手に入る筈の領地からの収入や土地を配分する約束をしてしまっていた。

長崎奉行に訴えた直純
藤津割譲の件が一向に進まないため、晴信が本多正純に進捗を訊き合わせると、家康はその土地を与えると言った覚えはないとの回答があった。そこで、息子直純は、この件は不正であるとして、長崎奉行長谷川左兵衛に訴えた。左兵衛はイエズス会の敵であるばかりか、他の修道会の者も含め宣教師全員を追放した人物である。

直純・左兵衛を殺害しようと図るに至った晴信
岡本大八は、晴信とイエズス会に対し、直純が左兵衛にこの件を通報したために、事がぶち壊され、もはや手の打ちようがないと知らせた。このため、晴信は息子直純と左兵衛に対し激怒し、両者を殺害しようと図るに至った。この事に関し、晴信は大八に何通かの手紙を書き、それは事件が発覚した後に大八自身から示された。

イエズス会は修道士を派遣した
イエズス会京都地区長パ-ドレ(ペドロ・モレホン)が日本人修道士レオイン・パウロを派遣して、晴信と大八を和解させた。左兵衛はその地区長パ-ドレに腹を立てついにはマニラに追放した。

父晴信と大八の和解は、直純にとって不都合なものであり、過去晴信が自分を殺そうとした経緯もあったことから、直純はイエズス会を手酷く非難した。また、友好関係にあった長谷川左兵衛と協力して、一部始終を本多正純や家康自身に知らせた。


家康は全ての顛末を知った

家康は事の顛末を知り驚き、更に次のことを知った。
晴信が自分の息子を殺そうとしていること。その全てがイエズス会のパ-ドレたちの手で操られてきたこと。さらに、二人を和解させるためと、家康自身は出そうとも考えていなかった(藤津割譲のための)勅令について交渉するために、修道士レオイン・パウロが駿河に赴いたことである。

その結果、家康はその関係者全員に対して激怒し、左兵衛と既に自分の曾孫(ひまご)の夫になっている直純の意見を大幅に取り入れ、晴信と大八を駿河に呼び寄せ取り調べた。晴信は、直ちに一部始終を語り、イエズス会パ-ドレたちと彼の妻がそれを企んだと付け加え、大八ばかりでなく修道士レオイン・パウロにまでも罪を着せた。

「これは悪魔の法である」
家康はそのような陰謀を知り、パ-ドレたちやキリスト教徒たちにに対し、激しい非難の言葉を浴びせた。ことを企んだのが皆キリスト教徒だと知ったからである。特に、晴信が息子の、それも家康自身が純粋無垢と考えていた者を殺そうとしていたことが確かになったので、「これは悪魔の法である」と左兵衛に向かって言った。そして、激しい怒りを見せて、直ちに大八を火刑に、晴信を斬首に処することを命じた。



[カルヴァ-リョの反論]


有馬晴信が望んだもの

デ・サン・ペドロは、有馬晴信が藤津を望んだと述べているが、本当はそれ以上を、つまり彼の父親(有馬義貞)が肥前の領主(龍造寺隆信)によって奪われた土地を望んでいたのだ。だから、晴信の望みは正当なものだった。

さらに、晴信がイエズス会のパ-ドレたちを仲介にして大八と交渉したと述べているが、パ-ドレたちがその件に加わったことはなかった。晴信がイエズス会のパードレたちと結託して定収入や土地の配分をしたと言うが、パ-ドレたちは決してそのような配分に関与していなかった。

家康や正純がこのことを知らなかったかどうか
また、家康はその件を知らなかったと述べているが、我々は(その点について)知っていることを述べる訳にはいかない。
本多正純についても、そのことを知らなかったと述べているが、それも我々としては、時が来れば真実が分るであろうと申し述べておく。

イエズス会パ-ドレに操られたと言っていること
デ・サン・ペドロは、晴信が自分の息子を殺そうと企てたこと、およびこれが全てイエズス会のパードレたちの手で操られたことを確認するに至ったと述べているが、それらは全くのでっち上げである。

修道士が動いた理由と直純の反応について
修道士レオイン・パウロは、晴信の要請を受け、京都地区長パ-ドレの許可を得て、左兵衛には知らせずに、大八に会いに行った。修道士がその件に介入したのは、両者の間の和睦のためであった。けれども、晴信の息子直純は、父親の領土をわが物にしようとしていたので、腹を立てたのだ。



[解説に挙げられている事項]


岡本大八・本多正純とイエズス会の関係
大八はもと長谷川左兵衛の家臣で、長崎に住んでいたか、または頻繁に長崎を訪れ、長崎で海外貿易に携わり利を上げていた人物である。
正純も長崎貿易に深く関わっており、家臣である大八を介してポルトガル船による委託貿易を行わせていた可能性は充分ある。
このことから、両者ともイエズス会とは元々親密な関係であったと考えられる。


1605年の長崎換地の件
「長崎天領と大村領との交換問題」である。

(これについては、解説に書かれてある内容が当初私にはよく理解できず、そのまま放置していたのだが、たまたま最近読んだ小説「NAGASAKI 夢の王国」で採り上げられていた。そして、どこかで読んだことがある気がしてきて探してみると、青山敦夫著「天正遣欧使節 千々石ミゲル」〈朝文社〉にも書かれていた。そこで、それらを総合してみると、以下のようなことのようだ。)


大村純忠が寄進したイエズス会領は秀吉に没収され、後に幕府の天領となっていた。ところが、秀吉に没収されず周辺に残されていた大村領の土地の方が、開発が進み町として栄えるようになった。


通辞ロドリゲスの関与
そこで、大村領を外町の一部として長崎に組み込み、その代わりに浦上村とその周辺のまだ開発されていない天領を大村に与えるという、幕府に都合の良い案を、イエズス会の通辞ジョアン・ロドリゲスが家康に提案し了承を得たと言われている。
(イエズス会は、これを強く否定しているが、ロドリゲスが幕府方に長崎の図面を提供したことは認めているのだから、彼が全く関与しなかったということでもなさそうである。)

大村喜前(よしあき)の激怒
この案は、圧倒的に大村側に不利なものだったから、これを一方的に通告された大村喜前は激怒し、全てはイエズス会の陰謀であるとして、棄教を宣言し領内からの宣教師追放を命じた。これにより、キリシタン教会はその時まで残っていた「キリシタン大名」二人の内一人を失い、有馬晴信一人を残すのみとなった。

ロドリゲスと等安の結託
他方、この案は長崎町政上の混乱を除去し、長崎外町を支配する代官村山等安を利するものであったから、当然ロドリゲスと等安が結託して推進したものと考えられている。後に、敵対することになる等安とイエズス会の関係は、この1605年当時は未だ良好であったということであろう。

ロドリゲス失脚・追放へ
この領地交換問題にロドリゲスが関与し、結果的にかつては有力な後ろ盾であったキリシタン大名の支持を失ったことは、イエズス会内部でも深刻に捉えられたようである。以後、急速にロドリゲスに対する批判が増していき、5年後の「ノッサ・セニョ-ラ・ダ・グラサ号事件」直後に彼はマカオに追放される。因みに、その際ロドリゲスの失脚・追放を工作したのが、奉行長谷川左兵衛と代官村山等安だったと言われている。



[私の思うこと、考えること]


1.フランシスコ会士の主張する経緯は幕府側発表に手を加えたもの

フランシスコ会士デ・サン・ペドロが主張するこの事件の経緯は、概ね世間に流布されていた情報を基にしたものであるためか、不自然さは余り感じられない。幕府側から意図的に流されたものに、イエズス会の関与という事項を組み入れると、このような経緯になるのではないだろうか。



2.カルヴァ-リョの反論は面白い

むしろ、興味深いのはイエズス会のカルヴァ-リョの反論である。


(1)イエズス会の関与について

修道士レオイン・パウロを派遣したのは、単に晴信・大八両者の和解のためだと述べているが、信者同士の争いごとを収めるだけのために、直純と共にこの件を不正として暴く立場をとる筈の奉行左兵衛に断わりもなく派遣したというのは不自然である。ということは、自分たちの関与が疑われる危険を冒してまでも、是非和解させておかねばならない理由があったのである。

それは、デ・サン・ペドロが言う「手に入る筈の領地からの収入や土地を配分する約束」があったと疑われても仕方がないということである。つまり、この事件の端緒、贈収賄の発生時点から、既にイエズス会の関与があったと考えられるのである。そうだからこそ、カルヴァ-リョは「贈収賄の目的である晴信の望み(旧領の返還)は正当なものだった」と述べる必要があったのだろう。


(2)皆、イエズス会を媒介にした金儲け仲間だった

そこで、興味を引くのは解説に挙げられている、岡本大八・本多正純とイエズス会の関係である。大八も、その主家である正純もポルトガル船貿易に深く関わっていたから、元々イエズス会とは密接な関係があったということである。

しかし、そもそも、家康も生糸や金・銀や香木の取引でポルトガル船貿易に関わり、蓄財に励んでいたということは知られており、イエズス会と経常的な接触はあったのである。ということは、有馬晴信はもちろん、大八も正純も家康も、皆、ポルトガル船貿易に手を染めイエズス会と浅からぬ関係を持った仲間なのである。

それを考えると、家康、正純がこの件を知っていたか否かについて、カルヴァ-リョは言葉を濁したような妙な言い方をしているが、要するに両者とも事件が公に発覚する前に既に知っていたということだろう。

イエズス会を媒介にした仲間なのだから知っていて不思議はないのである。というよりむしろ、どの段階でかは定かではないが、それを知ったイエズス会が、絶対的権力を持ちつつある正純・家康に対する組織防衛のために、かなり早い段階で知らせたとも考えられる。

そして、正純・家康は、事件の発生を知りながら、晴信を泳がせ、その後どのように彼の抹殺を進めるかを考えたのではないだろうか。そこから、手前味噌になるが私が以前の記事に書いた「最後のキリシタン大名」抹殺のための謀略に繋がっていくことになるようだ。




3.有馬直純は徹底的に利用された


晴信の息子直純は、15歳のときから家康に側近として仕えた。それは、晴信が関ヶ原の戦いで西軍惨敗の報を聞くなり東軍に寝返り旧領を安堵された年、1600年のことだから彼は自分の勢力伸長を助けるものとして、息子を駿府に送り込めたことにさぞかし満足し、期待したことだろう。

しかし、結果的に直純の存在を徹底的に利用したのは、家康の方だった。
まず、この息子は、父親と大八を長崎奉行に訴え、奉行左兵衛と組んでイエズス会を非難し、一部始終を報告してくれた。お蔭で、家康・直純はある程度知っていた有馬晴信・岡本大八の動きの裏付けをとることが出来た。

ただ、あくまでも、家康・正純にとって晴信・大八はともにポルトガル船貿易で儲けた仲間である。特に、家康は晴信の貿易事業家としての手腕を高く評価していたと言われている。つまり、晴信に随分儲けさせてもらった義理もあるのである。しかし、国内政情の安定化(つまり豊臣方対策)と幕府の貿易独占推進のためには、キリシタン大名抹殺は喫緊の課題である。

そこで、家康が持ち出したのが、伝家の宝刀「人倫の道」である。

晴信と大八は、互いにそして周囲の者までに罪をなすり付ける醜態を演じてくれている。その上、晴信は罪なき自分の息子を殺そうとまでしている。それらの者どもがキリシタンであることから、「キリシタンは、人の道を外れた『悪魔の法』である」と言えるのである。

実は、家康自身、織田信長との提携関係を守るために、長男信康に切腹させたという経験があるのである。
自分の場合は、やむを得ない事情があったと考えたのであろう。そのくらいでないと、天下は取れないということか。

ともかく、家康は義理もある金儲け仲間たちを抹殺する大義名分を、晴信・直純の親子関係に見出したのである。そして、いつもそういう場合にしてきたように、怒り心頭に発したふりをして抜け目なく、素早く二人を処刑した。



4.家康がイエズス会を非難したもう一つの理由


しかし、この機会に家康がキリシタンを、特にイエズス会を公然と非難しておかねばならない理由が他にもあったのである。
それは、領地問題へのイエズス会の介入を牽制する必要である。

解説で挙げられている「長崎換地の件」への通辞ジョアン・ロドリゲスの介入は、考えてみればとんでもないことである。この時代、幕府が大名に領地を分け与え治めさせることが「封建制」という社会制度の根幹であった筈である。したがって、大名に対して如何に領地を与えるかは、幕府以外の何者も踏み込んではならない聖域なのである。その侵すべからざる領域に、あろうことか一宣教師如きが介入してきたのである。

ただ、通辞ロドリゲスの提案は幕府にとって有利なものであったために受け入れられたのだろう。結果として、大村喜前の怒りを買いイエズス会内部にもロドリゲスを批判する声が上がったということであるが、当然幕府内部にもこれは看過すべきではないという意見があったとは考えられる。が、それは聞こえてこない。幕府としては、領地問題という幕藩体制の根幹に触れるような問題に踏み込まれたことを大々的に取り上げる訳には行かなかったのではないだろうか。

「岡本大八事件」も発端は、「旧領の返還」という領地問題であり、そこに当初からイエズス会の関与があったことは濃厚である。幕府関係者にとっては、またかという思いがしたことだろう。と同時に、そこまでイエズス会の影響力が浸透していることに改めて危機感をつのらせたのではないか。しかし、今回も一宗教勢力が社会制度の根幹に触れるような問題への影響力を持ち始めていることを認める訳にはいかない。

「岡本大八事件」の結末が、「悪魔の法」であるキリシタンの為せる業として、家康がいきなり倫理・道徳の問題を持ち出して処理したように語られていることに違和感を覚える私は、そんな理由を考えている。



5.全国的禁教令の契機になった理由について


「岡本大八事件」を「おたあジュリア追放」と並べ、これらが全国的禁教令発布の契機となった理由として、周囲が皆キリシタン関係者であることに家康が愕然として、というような言われ方がよくされるが、それは殆どあり得ない。

まず、上に述べたように、家康自身ポルトガル船貿易で儲けたイエズス会仲間だったのだから、周囲がキリシタン関係者であろうと驚く筈がない。そして、幕藩体制の根幹であり、幕府・諸大名にとって最大の関心事である領地問題にイエズス会が噛み込んできたことに、家康は何よりも脅威を感じ、豊臣勢対策の一環としてもキリシタン早期一掃の必要性を改めて強く意識し、それが全国的禁教令発布の一つの契機になったとは言える、と私は考える。それが、今回の結論である。



〈おわり〉







































# by GFauree | 2017-03-12 07:33 | 有馬晴信 | Comments(2)