【大航海時代のおと】

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ペル-からパナマ・マカオ経由日本へ行き、秀吉に会った男がいた?[その2]

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Photo by Juan Goicochea

               

[その1]で、秀吉に会った男フアン・デ・ソリスの経験を書きました。

その経験を取り巻く事情について色々考えていると、その男の人生がよりはっきり想像できて楽しいような気がします。そこで、それら諸々の事情について私が読んだり考えたりしてきたことを書いてみたいと思います。


1.フアン・デ・ソリスの船は何故マカオで差し押さえられたか

  

の流れと東西インド間の交易の禁止

1545年に(現在のボリビアの)ポトシで発見されたの生産は1560年代に急増します。そしてこの銀が、やがて太平洋航路を経て中国大陸に流入することになります。しかし、が流入すれば、中国大陸の物価が高騰し中国商品を仕入れて貿易取引をするポルトガル商人の利益が薄くなります。そのため、ポルトガル人商人の働きかけによって、東西インド間(つまりポルトガル・スペイン両国の領地間-例えば、マカオ・メキシコ間)の交易を禁ずるスペイン・ポルトガル国王の勅令が1586年以降、繰り返し発せられました。

フアン・デ・ソリスの船も、第8代副王ガルシア・デ・メンド-サの船も、ペル-またはパナマというスペイン領地からマカオというポルトガル領地へ直行していて、南米のを中国大陸の入り口マカオに運んでいるのですから、まさに国王の勅令に違反しています。そのため、これらの船にマカオ当局が強い姿勢で臨んだのは当然かも知れません。そういう意味で、ソリスのマカオと日本での日々は最初から密貿易船の船長としての苦難が運命付けられていたとも言えます。



2.フアン・デ・ソリスが扱った金額のスケ-ルはどれくらいのものだったか


秀吉が権力を掌握するきっかけとなった本能寺の変の頃(1582年)から秀吉のキリシタン禁教令の頃(1587年)までの、日本キリシタン教会の年間経費は1万から1万5千ドゥカドと推定されています。この時期のキリシタン信徒の数は20~30万人と言われています。

まず、ソリスがイエズス会の金庫に預けて返して貰おうとした金額が6千ドゥカドと言われています。ということは、ソリスは信者20~30万人を抱える宗教団体の年間経費の約半分を預けたことになり、かなりの多額です。

それから、ソリスの船が仕入れのためにパナマから積んできた銀の金額ですが、それは分りません。ただ、第8代副王の船がペル-から積んできた銀は20万ドゥカドと言われていますので、それに近いかも知れません。ということは、日本キリシタン教会の年間経費の約20倍の金額相当のを持って来て仕入れをしようとしていたことになりそれも莫大な金額です。

こういうことを見ていると、ソリスが日本でしようとした中国大陸との取引も相当な規模のものが想定されていたと考えられ、供託金の差し押さえなど、ポルトガル人商人の異常ともいえる警戒心や反応も根拠のあることだったと考える方が自然でしょう。


3.なぜソリスは驚異的な奮闘が出来たか


商人にしろ、宣教師にしろ、この「大航海時代」と呼ばれる時期の人々の精神面・肉体面の活力には驚くことが多いのですが、マカオ・日本で過ごした3年間だけでも、フアン・デ・ソリスについて同じことが言えます。

歴史上の人物にレッテルを貼って納得したような気持ちになることは、なるべく避けたほうが良いのですが、ソリスの場合に「ペルレ-ロ」という名称がつい頭を掠めてしまいます。

1560年代に生産が急増した銀を背景に、スペイン本国との貿易や国内取引で多額の儲けを挙げ富を蓄積したペル-商人たちがいました。やがて、彼らはスペイン本国でも銀で商品の買い付けを行うようになり、「ペルレ-ロ」と呼ばれるようになりました。本国の商人たちは自分の既得権益を侵食するペルレ-ロを駆逐しようとしましたが成功せず、ペルレ-ロはイギリス・フランス船との密貿易によって生き延びて行きます。そもそも、アカプルコ・マニラ間の貿易の有利さに気付き、アジアに銀を輸出しだしたのは「ペルレ-ロ」だと言われています。

ソリスが単なる密貿易船の船長であるとしたら、ポルトガル商人とイエズス会という既得権益を享受してきた一大勢力に立ち向かうような無謀ともいえるようなことが何故できたのか不思議に思います。しかし、彼が実は「ペルレ-ロ」と呼ばれる世界的に活躍していたペル-出身の商人の一人であったと考えれば納得できるような気がします。


4.秀吉は舌なめずりをして喜んだ


(1)
ソリスやフアン・コーボがポルトガル人やイエズスス会の非道や正体を暴露をしたので、秀吉はイエズス会に不信を抱くようになったという当時の歴史家の言葉や著者の考えが書いてある本があります。私はそういう証言や解説を読むと、正直なところ一種の苛立ちさえ感じてしまいます。

それは、天下を取った秀吉がいまさらポルトガル人やイエズス会に警戒感を抱いたなどということはあり得ないことだからです。そもそも、秀吉は信長の臣下であった時期から、イエズス会士たちを見知っています。そして、戦国時代を生き抜いた抜群の戦略家である彼は、彼らの背景が国家政策の一環として活動する世界的な勢力であることを察知し、彼らを猜疑の眼で見ていたはずです。

そのため、自身の権力維持に必須である貿易の権益確保と国内秩序安定のために、ポルトガル商人・キリスト教徒という大勢力の窓口であるイエズス会を、ときには脅かしたり叩いたりしながら、またそのための材料を探しながらうまく操縦していこうとしていたのだろうと私は考えます。

権力者というものは支配するべき者を叩く機会を常に狙っているものです。しかし、有能で狡猾な権力者であればあるほど、決して理不尽だと言われる叩き方はしないものです。自己の権力を脅かすものを叩きながら、自分が支配する社会の秩序は維持していかなければならないのですから、彼の攻撃には大義名分が必要なのです。


(2)
1587年のバテレン追放令発布の前に「多数の日本人がポルトガル人によって奴隷として海外へ売られていること」を知り秀吉が激怒したという話がありますが、私は秀吉は激怒などしていないと思います。むしろ、イエズス会を攻撃する確かな材料をつかんで喜んだと思うのです。「全ての人間は神の前で平等である」と説いている宗教団体にとって奴隷売買にかかわっていることが大変な弱みになることを見透かしていたのだろうと思います。国家の最高権力者として、自国内に食い込もうとする外部勢力の窓口を叩く願ってもない大義名分ですから見逃すはずがありません。


(3)
1596年に漂着したサン・フェリ-ペ号の水先案内人が「イスパニアの広大な領土と征服の進め方を自慢した」のを聞いて秀吉が怒ったという話があります。これも、秀吉は怒ってなどいないと思います。そもそも、スペインがどのような形でペル-の征服を進めそこに教会がどう関わっていたのかを秀吉はとっくに知っていたという話があります。また教会勢力を叩いて脅かせる材料が掴めたと喜んだのでしょう。その結果が、「26聖人処刑(殉教)」による脅かしです。今度脅かす相手は、イエズス会ではなく、フランシスコ会・ドミニコ会などの托鉢修道会です。その証に、「処刑」されて「殉教」させられた26人中23人は托鉢修道会系の聖職者・信者だったのです。


(4)ソリスやフアン・コ-ボの発言に対しても、秀吉は烈火の如く怒って長崎の教会打ち壊しを命令したという話がありますが、私はそれもおかしいと思います。

秀吉は信長に仕えていた時期から散々宗教勢力との接触を経験して、宗教団体にとって内部対立が如何に弱みになるかを知っていたはずだからです。ちょうど、同じ年1592年に本願寺宗主顕如が死去し、秀吉は顕如の未亡人如春尼から申し出を受けて後継者に関する裁定を下し本願寺の内部対立に決着をつける動きをしています。

その秀吉にとって、教会内部の対立の情報を齎してくれるソリスやフアン・コ-ボは「有難いお客さん」であったに違いありません。しかも、折あらば攻め込もうとまで考えているフィリッピンについても、反ポルトガル・イエズス会勢力としておだてれば、有効な情報が得られるかも知れません。「茶の湯の接待」だろうとなんであろうと喜んでしたでしょう。そして、結果は大義名分のある「長崎イエズス会施設打ち壊し」です。

そういう意味で、「秀吉にたいへん歓迎された。」というソリスの証言は表面的には間違いではありませんが、客観的に見れば「秀吉にうまく利用された。」というのが本当のところではないかと思います。

そして、「ソリスがイエズス会神父たちのことを訴えるために京都に行き秀吉に謁したことがある」などと、ソリスが秀吉に何度もあったような話がありますが、それは、ソリスの影響力を強調するためのフィリピン・ドミニコ会系の言辞ではないかと私は思います。

秀吉はソリスやフアン・コ-ボを歓迎するそぶりをみせながら、結局のところ、「日本の最高権力者として在留外国人間の争いに関与しないとの方針を踏み外すことはなく、ポルトガル・イエズス会とスペイン・托鉢修道会間の紛争には実際には干渉しなかった」と考えるほうがより自然ではないかと考えます。

以上


[参考文献]


ペル--太平洋とアンデスの国  増田義郎/柳田利夫著 中央公論新社
キリシタンの世紀 ザビエル渡日から「鎖国」まで  高瀬弘一郎著  岩波書店
なぜ太平洋戦争になったのか  北原惇著 TBSブリタニカ
日本の歴史 14 鎖国   岩生成一著  中公文庫
Extremo Oriente y el Peru en el siglo XVI      Fernando Iwasaki Cauti著
キリシタンの時代-その文化と貿易  岡本良知著          八木書店

                                              

                                                

























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# by GFauree | 2015-01-09 05:48 | フアン・デ・ソリス | Comments(0)

ペル-からパナマ・マカオ経由日本へ行き、秀吉に会った男がいた?[その1]


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                           (撮影:島田利治氏)


その男の名前はフアン・デ・ソリスと言います。

最初にソリスの話を聞いたのは、「20人の日本人が記録された、1613年のリマ市の人口調査」の本を大学の図書館から借り出して下さった日本人研究者の方からです。

当地で出版された Fernando Iwasaki Cauti著 [Extremo Oriente y el Peru en el sglo XVI](16世紀の極東とペル-)という本に書いてあるということでした。

豊臣秀吉の時代ということであれば、1613年よりさらに20年以上前になります。そんな時期に日本にいて、しかも秀吉と面談したとはどういうことなのか。その男は、何故日本まで来て、何をしていたのか、私の好奇心は膨らみました。


1.日本へ来るまで

(1)フアン・デ・ソリスは渡航者名簿によると、1569年に第5代副王フランシスコ・トレドの使用人として、スペインからペル-へ渡航していますが、その後のペル-での足どりについては何も分りません。

後に、1593年マニラで陳述した証言の末尾に38歳と記載しているので、1555年生まれということになります。すると、ペル-へ渡った時は14歳ということになります。

1588年、秘密裏に第7代副王コンデ・デル・ヴィジャ-ルの船がパナマ経由中国・マカオに向かった形跡があります。そして、その船の船長としてフアン・デ・ソリスが現れます。

実は、この頃に、ペル-からマカオに向かった船はこの第7代副王のものだけではありません。1590年、第8代副王ガルシア・デ・メンド-サの船もまたマカオに向かっています。

(2)マカオに着くと、ソリスの船は、東西インド間(つまり、スペイン・ポルトガル領地間)の直接取引を禁じた王室勅令によって差し押さえられてしまい、船も積んできた銀も取り上げられ、乗組員はインドのゴアに送られてしまいます。

ところが、当時マカオにいたイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが、ポルトガル当局に掛け合い、日本イエズス会の金庫にソリスの金を預ける換わりに彼の身柄を解放するよう取り計らいました。

ヴァリニャ-ノは1582年に出発した「少年使節」たちとともに、1587年に秀吉によって伴天連追放令の出された日本への再入国の機会を窺っていたのです。

ここで、目につくことは1590年にペル-を出港した第8代副王の船もマカオで差し押さえに遭っているということ,さらに,この船の場合もヴァリニャ-ノが関与していることです。


2.日本に着いてから

(1)長崎へ

1590年7月、ソリスはヴァリニャ-ノとともに長崎に渡来しました。

その後の経過を見ると、この時なぜソリスがヴァリニャ-ノと一緒に来たのか疑問が残ります。

ただ、ヴァリニャ-ノはソリスが一緒だったことを知らなかったと言われています。また、同時に2隻の船が到着したので別々に来ただけだろうという話もあります。

私は、ソリスが「日本イエズス会の金庫に預けた金の返却を日本で迫ろう」としてヴァリニャ-ノに知らせず付いて来たということではないかと考えます。罰金として徴収されたのであれば返却はされないでしょうが、保証金や保釈金なら条件が満たされれば返されても良いはずです。

ところが、長崎に来てみると、イエズス会やポルトガル人は預けたつもりの金を返す気が全くないことが分りました。加えて、彼が国外に出ることも許されなかったそうです。

そこで、ソリスは何とか国内で事業を展開しようとしたのでしょう。しかし、結果は思わしくなく、日本の商人と紛議を起こしたり、ポルトガル人と利害関係で争うことになりました。

当時、長崎には メキシコ・フィリピン経由渡来したスペイン人商人が数人いたようです。ソリスはそういうスペイン人商人の一部とともに薩摩へ移ります。

(2)薩摩でのソリス

ソリスは、中国へ渡り買い付けた商品を日本へ売るというような貿易取引を繰り返すことによって資金を貯め、ペル-へ戻ることを考えます。そのために必要な船を造ろうとします。

また、その貿易取引についてポルトガル人に供託金を差し入れました。
おそらく、その貿易がポルトガル人の商圏を侵害しないことを保証する必要があったのでしょう。

ところが、その供託金がまたしてもポルトガル人に差し押さえられたのです。差し押さえの理由として、ソリスが企てた取引が、幾度も日中両国間の貿易を行うというような大規模なものだったからではないかと考えられています。

(3)消えた反撃の機会

1590年、ポルトガル定航船が長崎に入った後に、長崎代官 鍋島直茂がマカオから載せてきた黄金全部を秀吉の命令で独占して安く買おうとし強圧的手段を取ったことが、ポルトガル人との間で争議となっていました。

ソリスたちはこの動きをポルトガル人への反撃の機会としようと考えました。

代官に上記(2)の供託金差し押さえ問題を訴え出て、更に加藤清正にまで援助を要請しました。ルイス・フロイスによれば、莫大な金額の贈賄までしたそうです。加藤清正と言えば、有力なキリシタン大名小西行長の競争相手であり、フロイスから「神(デウス)の大敵」と呼ばれた存在です。

ところが、秀吉は、金の独占購入問題でポルトガルの主張を認めざるを得なかったため、ソリス等の供託金返還の訴えに対しても、ポルトガルが正当との決定を下したのです。

ポルトガル勢に有利なものとなったこれらの決定に対し、アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの存在が強く影響していた可能性は高いのですが、ソリス等はそのヴァリニャ-ノの権威にすら頼ろうとしたという話もあります。

ルイス・フロイスによれば、イエズス会側の協力が得られないと分ると、イエズス会に不利なことを秀吉に暴露するとまでソリスは公言するようになったとのことです。イエズス会に不利なこととは、つぎのようなことです。

1591年、京都聚楽第で秀吉に謁見したインド副王の使節は虚構のものであること(ソリスの主張)
1587年、追放令の出た後でどの大名が宣教師をかくまっているか、など

このようなことをフロイスが書いていること自体、イエズス会側のソリスに対する敵意も相当強くなっていたことを感じさせます。

(4)追い打ちをかける出来事

死活問題とも言える「供託金差し押さえ」について、長崎代官などへの工作も、イエズス会への協力要請も進めることが出来なくなったソリスに、更に追い打ちをかけるような出来事が起きます。

ひとつは、ソリスの相談相手でもあり有力な同士でもあったメキシコから来た老スペイン人が病に倒れたこと。
もうひとつは、薩摩で造っていた船の航海士が変死したことと船そのものを失ったことです。加えて、中国沿岸の商売で得た金を交換しようとして妨害されたこともあったようです。


3.長崎教会打ち壊し事件


(1)フィリピン使節に随行して

1591年、秀吉がフィリピンの服属を要求する書面を原田孫七郎に持たせて送ったため、フィリピン総督は秀吉の真意を探るため、1592年夏ドミニコ会の神父フアン・コ-ボとカピタン・ロペ・デ・リャ-ノを使節として送ってきました。

このフアン・コ-ボ一行が薩摩に着いたため、そこでソリスと出会い、ソリスは朝鮮の役のために名護屋(現在の唐津市)に来ていた秀吉に謁見する使節に随行することとなります。

ソリスは、その機会を利用して、ポルトガル人が他国船の渡日を妨害し、また金銭を奪ったと秀吉に訴えました。

また、席上フアン・コ-ボは「2~3年前、スペイン国王が関白に対して服従を表明するために派遣したと言い立てて、イエズス会の巡察師(アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノ)が関白に贈り物を贈呈したが、そのようなことはあり得ない。というのは、偉大な君主であり無数の国々を有するスペイン国王が何者かに服従するということはあり得ないことだからだ。」と述べたとの証言があります。

(2)秀吉の怒り

その会見から2週間後、秀吉は寺沢広高を奉行に任命し、教会を悉く破壊しその用材を名護屋に送るように命令しましたので、豪華だった長崎のイエズス会の修院や教会は打ち壊されました。

しかし、ソリスの供託金返還事件については、ルイス・フロイスによると、奉行寺沢の調査にによってソリスの訴えが必ずしも正しくないことが判明したとされています。

(3)秀吉の「茶の湯」のもてなし

会見の翌年、ソリスはマニラで行った証言のなかで、フアン・コーボが(ソリスと共に)「茶の湯」のもてなしを秀吉から受けたことを述べています。

その証言の趣旨は、フアン・コ-ボ一行はイエズス会が主張するような冷淡な処遇を秀吉から受けたわけではないということでしょう。

「フアン・コ-ボ神父は知らなかったかも知れないけれど、日本で3年暮らした自分は、フアン・コ-ボ神父に捧げられた名誉が、如何なる外国人にも日本人にも決して与えられることのないほどのものであることを、かの地の慣習や決まりごとを知っているものとして述べているのです。」とソリスは証言しています。

4.その後のソリス

フアン・コ-ボは1592年11月頃、マニラへ向かい、途中台湾沖で難破してしまい土民に殺されてしまいましたが、ソリスは別の船でマニラへ向かいました。

翌年1593年5月、ソリスはイエズス会側の予想に反して積極的にマニラ政庁の審問に応じて注目すべき証言も行っています。

マニラでの証言の後ですが、自分の船を造り上げペル-に戻るために薩摩に戻ったという話がありますが、本当のところは分りません。

5.まとめ

簡潔に書きたかったのですが、要約や省略を仕切れず長々となってしまいました。本によって書いてあることが違うので、自分で妥当だと思う事柄を集める感じで書いて出来るだけ矛盾はないようにしたつもりです。

次回は、このフアン・デ・ソリスについて私が考えることを書いてみようと思います。



〈つづく〉



この記事を書くために以下の本を参照しました。


Fernando Iwasaki Cauti著 [Extremo Oriente y el Peru en el sglo XVI](16世紀の極東とペル-)
「完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ」    (中公文庫) 第三二章
日本巡察記-ヴァリニャ-ノ 東洋文庫229  (平凡社)解題Ⅰ 第二次日本巡察
イダルゴとサムライ フアン・ヒル著      (法政大学出版局)第一章 剣と刀 五
キリシタンの時代 その文化と貿易 岡本良知著 (八木書店)4 フアン・デ・ソリス事件
キリシタン時代対外関係の研究  高瀬弘一郎著    第三章 キリシタン教会の貿易活動
伊達政宗と慶長遣欧使節      高木一雄著 (聖母文庫)





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# by GFauree | 2015-01-04 15:21 | フアン・デ・ソリス | Comments(0)

「慶長遣欧使節」支倉常長 [その2]

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-遠藤周作『侍』に描かれた支倉常長-



1.男はつらい


小説の中で、支倉常長は『侍』長谷倉六衛門として描かれています。
六衛門は、侍とは言え農民とさほど変わりのない家に住み、家族とともに畑で働き、領主に年貢を納める生活を送っています。

考えてみれば、戦国時代が終わり戦いが無くなれば、武術で生活を立てることは出来ないのですから、ほとんどの武士は彼のように地方政府(藩)の官吏として働きながら農業を兼業するような地味で質素な生活を送っていた筈です。

ですから、描かれた六衛門の生活は現実的です。
今で言えば、農家の長男が農業をするかたわら役所に勤めているような感じなのでしょう。つまり、六衛門は、家を大事に思いひたすら我慢を重ねる忍耐強い村役場の役人のような男なのです。

その男が、領主の名代として言葉の通じない外国へ行き貿易開始のための交渉を進める役割を与えられたのです。そんなに重要な役割が何故自分のような身分の低い者に与えられたのか、彼にも分りません。

しかし、彼としては是非その役目を無事に果たして戻りたいと考えます。
それは、もしその使命を果たすことが出来れば、先祖が失った自家の領地を返して貰えるかもしれないという期待があるからです。

通訳としてポ-ロ会の宣教師ベラスコ(史実では、フランシスコ会のルイス・ソテロ)が、随行します。

そもそも、この派遣は領主に対するベラスコの強い働きかけから生まれたものですから、ベラスコがこの旅に自分独自の狙いをもっていることは、明らかでした。

その懸念通り、ベラスコは次第に通訳・仲介役の立場を超えて、自分本位に使節団を振り回し始めます。
しかし、ベラスコのはたらきがなければ、使節団は行動することも交渉することも出来ないのですから、六衛門はつらい立場に耐え続けるしかありません。

ここまで読んでいただけば、お気付きでしょう。
描かれている六衛門の立場や辛さは、現代の多くの男たちが味わっているものと、大して変わらないものなのです。



2.「キリシタン時代史」の研究が発展したおかげで


この小説は、1980年に発表されました。以前に書きましたように、「日本のキリシタン時代史」の研究は、1970年代の初めごろから、大きく変わりました。より客観的な研究・分析が進められるようになったため、その時代をより現実的に理解・把握できるようになったと言っても良いとおもいます。

こう書いてしまうと、簡単なようですが、実際はこれは大変なことです。
そして、その研究発展の成果がこの小説にも反映されていると私は思います。
その分、同じ作家によって書かれ1966年に発表され高い知名度を得ている「沈黙」より、この作品の方により強い現実味があるように感じられるのです。

「慶長遣欧使節」の性格を考えると当然必要だったことかも知れませんが、作者はこの作品のなかで、それまであまり露わにされることのなかったカトリック教会内部の歴史的問題を大きく切り開いて見せてくれました。
その問題とは、カトリック修道会同士の勢力争いです。

大航海時代のカトリック教会内部で、修道会同士とくにイエズス会とフランシスコ会などの托鉢修道会との間に世界的に勢力争いがあったことは、周知の事実です。

日本でも、1614年以降その対立抗争が激化し、14~15世紀に複数の教皇が同時に立ったヨ-ロッパの「教会大分裂(シスマ)」になぞらえて「長崎シスマ」と呼ばれる事態があった程なのです。

ところが、日本で「長崎シスマ」について触れられることはほとんどありませんでした。
ただ、宣教開始以来布教を独占していた形のイエズス会に対しフランシスコ会・ドミニコ会が善玉であるような話が一方的にあって、それがそのまま放置されてきたような感じを何度か受けたことがあります。

この小説では、ペテロ会・ポーロ会という名で描かれたイエズス会・フランシスコ会がマドリッド司教会議の場で、日本での布教に対する見方をめぐって対決する場面が、山場のひとつになっています。



3.人間社会の酷い(むごい)現実、そしてその救いは何処に・・・


「使節派遣」に関係した者それぞれが、自分の野望や願望を賭けて奮闘しもがいたように見えました。領主はノベスパニア(メキシコ)との交易開始を、ベラスコは司教の座獲得を、六衛門は先祖が失った領地回復を。

ただ、いつの時代も、大きな組織が目論んだ企て(くわだて)が失敗に終わったとき、最初に犠牲を求められるのは、より身分の低いものです。

漸く帰国したにもかかわらず、キリシタンに改宗したことを責められながら六衛門は聞かされます。

江戸幕府の狙いは、藩を使って、大船の作り方・動かし方・航路を知ることだったこと。
侍たちは、藩が差し出した囮(おとり)だったこと。
囮だから、身分の高い者でなく、どこで朽ち果てようと一向に構わない身分の低い者が選ばれたこと。

「もしかして、自分は六衛門とあまり変わらない経験をしたのかな。」と、私は自分の勤め人としての経験を苦い気持ちで振り返りました。

六衛門が仕えてきた寄親(上級家臣)である老人は語ります。
「それが、治政というものであり、人と人との間はそのように冷たく、むごいものであることを、よう考えてな。」と。

六衛門は、自身の無力さに何度も失望させられてきました。人々の身勝手さにもかろうじて耐えてきたのですが、ついに頼みにしていた領主の冷たい意図を知って失望させられます。最後に、人間社会の酷い(むごい)現実に決定的な絶望を味わいます。

ところが、その絶望の淵で、「人間のこころのどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを、求める願いがあること」に六衛門は気付きます。使節としての使命を果たすために便宜的にキリシタンになったはずの彼が、ときおり、キリストのことを考えるようになるのです。


宣教師ベラスコは、殺されると知りながらエルサレムへ行ったキリストに倣って、マニラから日本へ渡り捕えられ処刑されます。それも、あれほど憎み合ったペテロ会(イエズス会)の神父と伴に。(これは、史実です。)

その処刑の直前、六衛門が仕置きされたことがベラスコに告げられます。

                                            完










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# by GFauree | 2014-12-25 05:37 | 支倉常長 | Comments(0)

「慶長遣欧使節」支倉常長 [その1]

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1.大航海時代を象徴する出来事だったとは

私が初めて支倉常長の名前を見たのは、中学2年の歴史の教科書の中ですから、今から50年以上前です。

前にも書きましたが、私は若いころ歴史に全く興味を感じませんでした。私以外の大部分の方も同じようなものかも知れませんが、歴史は仕方なく試験のために年号を覚えたりするだけの科目でした。

そんな私でしたが、支倉常長についての記述は何か引っかかるものがありました。教科書の小さなスペ-スに書かれていた「支倉常長」の名前と、「1613年」という年号と、「メキシコ」という国名が記憶にあります。私は、「そんな時代に遠い外国へ冒険旅行に出かけた日本人がいた」という趣旨の記述かと思ったのです。

おそらく、戦国末期・徳川初期の様々な出来事の中に、「冒険旅行」のような記述があったために何か違和感を感じたのでしょう。でも、私はそれ以上追及はしませんでした。そして、「支倉常長・1613年・メキシコ」という全く断片的な知識だけが私の中に残りました。

ところが、50歳頃からこの時代の歴史に興味を持つようになって、それが単なる「冒険旅行」ではなかったことを知りました。それどころか、その旅は、大航海時代と呼ばれるこの時代の日本の内外の状況を象徴する出来事だったのでは、と思うようになったのです。

教科書に出ているぐらいですから、この出来事についてご存知の方は多いと思いますが、この機会にその概略をまとめてみました。それを見ながら、この出来事について考えてみたいと思います。


2.「慶長遣欧使節」の経緯

(大泉光一 著 支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇 中公新書)
(高木一雄 著 伊達正宗と慶長遣欧使節    聖母文庫)


〈1609年9月〉 
フィリピン・マニラ~メキシコ・アカプルコ間のガレオン船「サン・フランシスコ号」上総国夷隅郡岩和田(千葉県)に漂着。
幕府は乗船していた臨時フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロ・イ・ベラスコと協議を開始。
1603年から日本で布教活動を行っていたフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロが仲介役を果たした。   

〈1610年8月〉 
幕府建造の小型帆船「サン・ブエナベンツ-ラ号」によりロドリゴ・デ・ビベロをメキシコへ送還。
使節フランシスコ会宣教師アロンソ・ムニョス、京都の商人田中勝介他23名の「日本人使節団」同乗。

〈1611年6月〉
答礼使節セバスチャン・ビスカイノ他の一行と田中勝介他の「日本使節団」を乗せた「サン・フランシスコ号」浦川(浦賀)に入港。

〈1613年10月〉 
支倉常長他仙台藩士12名、セバスチャン・ビスカイノ一行40名、ルイス・ソテロ他神父3名、さらに商人・従僕を含め総勢約180名が「サン・フアン・バウチスタ号」で、仙台領牡鹿郡(現在の宮城県石巻市)月ノ浦を出帆。

〈1614年1月〉 メキシコ・アカプルコ入港。
      3月  メキシコ市入り。
      6月  ベラクルスのサン・フアン・デ・ウルア港を出港。
      7月  キュ-バのハバナ港着。 8月 ハバナ港を出港。
     10月  スペイン南部 サン・ルカ-ル・デ・バラメダに入港。
     12月  スペイン首都マドリッドに入る。

〈1615年1月〉 支倉ら使節、スペイン国王フェリッペⅢ世に謁見。
      8月  マドリッドを出発。
     10月  使節、ロ-マ到着。
     11月  支倉、ソテロらローマ教皇パオロⅤ世に謁見。
           ローマ市民権証書を授与される。

〈1616年1月〉 使節、ロ-マを出発、再びスペインへ。

〈1618年3月〉 メキシコまで戻り、アカプルコを出帆。
      6月  ルソン島 マニラに到着。支倉、息子勘三郎へ書状送る。

〈1620年8月〉 支倉ら仙台領牡鹿郡荻ノ浜に上陸。

〈1622年7月〉 支倉死去。
      8月  ルイス・ソテロ薩摩国に潜入。
      9月  ルイス・ソテロ長崎で捕まる。

〈1624年8月〉 ルイス・ソテロ大村にて火刑に処せられ死亡。


3.経緯をみて思うこと


(1)この使節派遣が、当初は日本人だけでも100人以上の人員を送り出し往復に7年もかける規模の大きなものであったにも拘わらず、その目的や責任者であるはずの家康や政宗の関わり方について決定的な記録が足りないと感じるのは私だけではないでしょう。

実際に、日本国内ではほとんど忘れ去られていたところ、明治維新直後の岩倉使節団がヨーロッパで使節の事跡に遭遇しその存在が国内でも光があてられるようになったという経緯があります。

禁教・鎖国について、私は確かにその必要性はあったと思っています。
でも、その為に過去の記録を全て抹消してひたすら保身を図らなければならないような体制が250年も続いていたことには正直なところ背筋が寒くなる気がします。

(2)使節団の旅程を見ると、長期間にわたって大変な距離を移動しています。また、この時代の航海は非常に危険度が高く健康を害することが多かったと聞いています。

フランシスコ・ザビエルがヨ-ロッパに送った二人の日本人のうち、一人はヨーロッパに着く前に、もう一人はヨ-ロッパには着いたけれど若いうちに亡くなっています。

逆に、歴史の教科書に出てくるフランシスコ・ザビエルの顔はいかにも聖人らしく弱々しくさえあるように描かれていますが、本当はどんな厳しい旅や航海にも耐えられる運動選手のような強靭な肉体の持ち主であったに違いありません。

また、「天正少年遣欧使節」が少年でなければならなかった理由の一つは長く危険な航海に耐えるには少年であることが必要だったからだと言われています。

それらのことを考えると、この「慶長使節」の特に支倉は、よほど強靭な精神と肉体を持っていたのではと想像します。
通訳としても仲介役としても頼るべきルイス・ソテロが、同国人のロドリゴ・デ・ビベロにも嫌われるほどのあくの強い人間であった(推測ですが。そういう人はどこの国にも多いので)ことを考えるとなおさらです。この精神と肉体の強靭さは、私が惹かれた大航海時代の人々の特徴です。

そういう意味で、支倉はまさに「大航海時代の人物」だったと言えるでしょう。

(3)日本のキリシタン時代は、マカオのポルトガル商人・イエズス会・長崎というラインで進行しました。
それに対しこの「慶長遣欧使節派遣」は、マニラ/アカプルコのスペイン人・フランシスコ会・仙台領または浦川(浦賀)へと既存の路線を変更することを意味しました。

スペインは1580年から1640年までの60年間ポルトガルを事実上併合していました。と言っても、南米ブラジルでのポルトガルの拡大・膨張をみるとこの時代のポルトガルの勢力を甘く見るべきではありません。
でも、スペインがポルトガルより強大であったことは確かでしょう。

そういう意味で、日本が鎖国へと大きく舵を切る前に家康と政宗はより難しい相手を試すことになったと考えると少し面白い気がします。

こういうことを全て総合すると、「慶長遣欧使節派遣」はやっぱり大航海時代を象徴する出来事だったと言えそうですが、如何でしょうか。



次回は、私が「慶長遣欧使節」を深く知りたいと思うきっかけになった遠藤周作の小説「侍」について、思うことを書かせて頂きます。上記の経緯に挙げた事柄のなかで、よく話題になる支倉の死やルイス・ソテロの殉教についてもその中で書こうと思っておりますので、どうぞ目を通して頂きたくお願い致します。



















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# by GFauree | 2014-12-22 14:44 | 支倉常長 | Comments(0)

1613年、ペル-のリマ市に日本人が20人いた。[その2]

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Photo by Juan Goicochea



前回、「20人の日本人」が「1613年のリマ・インディオの人口調査」に記載されていて、
その調査記録は国立サン・マルコス大学文学部によって古文書解読され1968年に出版されていたことを書きました。


そこで、「20人の日本人」に関してそこに書かれてあることを抜き出してみました。


〈20人の構成〉


             既婚    独身    少年      計
        男     4     4     1      9
        女     4     7     0     11



〈属性〉 属性について記載があるのは以下9名だけで、残りの11人については記載はありません。


1.男・独身・襟職人
  

政府長官の住んでいる通りに、日本生まれでディエゴと名乗る男が居る。
当市在住3年、継ぎ当てと襟加工の仕事を持ち、24歳独身で子供も資産もない。

2.男・独身
  

1.と同じ店に日本出身だという、もう一人のインディオが働いていた。
当市在住は1年、継ぎ当ての仕事をし独身、18歳である。

3.男・既婚(ポルトガル領出身のインディオ女性と結婚)
  

サン・アグスティン通りの教会正面に襟加工の店を持っている。
マンガサテと呼ばれる日本の町出身である。そこには、カシケ(地主)も征服地支配者もいない。
副王マルケス・デ・モンテスクラ-ロ殿が来た年(1607年)から当市に居り、襟職人であり26歳だと言っている。
  

アンドレア・アナという女性と結婚している。
彼女はポルトガルのマンカサ(これは出身町の名称)カストの出身で、当市に10年在住し、ペトロ・テノリオの奴隷であったが、今は自由の身である。彼女の夫が300ペソで彼女を身請けしたからである。

彼らに子どもは居らず、彼女は24歳。

4.既婚の日本インディオ 男・女
  

ジュゼッペ・デ・リベラ殿の家に使用人として、ゴア市の日本カスト生まれだという、ポルトガル領インド出身のインディオが居た。
名前はトマス、顔に焼印がされている。
前述のポルトガル領ゴア・カスト出身の日本人インディオ女性と結婚している。彼らには、7歳のフランシスコという息子がいる。
彼らは全てジュゼッペ殿の奴隷である。彼は28歳ぐらいだろう。

5.二人の独身女性
  

アナ・メヒア未亡人に二人の日本インディオ女性が仕えている。

6.日本インディオ女性・独身
  

エンカルナシオン通りのディエゴ・デ・アヤラ殿の家で、アントニアという名の日本カスタ出身のインディオ女性が仕えている。


【思うこと】


1.
この「20人の日本人」が、どういう経路で何故リマにたどり着いたのか、そしてリマでの暮らしはどのようなものだったのか、を知りたい所ですが「1613年の人口調査」に書いてあるのは上記のことまでです。


2.
「日本人インディオ」とか「ポルトガル(領)のインディオ」という言葉に引っ掛かりを感じますが、この時代のスペイン人・ポルトガル人は、アジア・アメリカの先住民と、自分たちの領土の中のアジア・アメリカに出自を持つ住民をすべて「インディオ」と呼んでいたのですから仕方のないことなのでしょう。


3.
上記3.男・既婚の欄に「マンガサテと呼ばれる日本の町」と書きましたが、これはナガサキのことではないかという見解を読んだことがあります。

16世紀末、長崎はポルトガル船貿易の拠点でしたから、そこから海外に運ばれた人だったということは、大いに考えられます。

また、「そこには、カシケ(地主)も征服地支配者もいない」という記述については、当時のスペイン植民地を支配していたのは、先住民地主(カシケ)か(スペイン人)支配者でしたから、「マンガサテでは先住民地主も征服地支配者もいない」と聞いて奇異に感じ書き留めたと考えられます。

それとも、単に、そこが植民地でないという意味かも知れません。


4.
コメントされている9人のうちに、奴隷身分の女性(アンドレ・アナ)を身請けし結婚している男性と顔に焼印のある男性(トマス)がいるという記載があるために、「日本人インディオ」の多くが奴隷であったような印象が残ります。

ポルトガルが世界的に展開していた貿易取引において奴隷が主要な商品であったことを考えると、「日本人インディオ」のアジアからリマへの移動に奴隷売買が関係していた可能性は充分にあります。

けれども同時に、日本国内の戦国末期・江戸初期の権力も財力もない民衆の生活が、海外に売られた奴隷に比べてどうであったかも考えてみる必要があると思います。「奴隷として海外に出ることでやっと活路を見出したということがあったのではないか」ということを思うのです。


5.また、出身地に関して、「ゴア市の日本カスト生まれ」だとか「ポルトガル領ゴア・カスト出身」だとかの表現があります。

この表現の意味するところは、当時ポルトガル領インドの都市ゴアには、日本に出自を持つ人々が集住していて、社会階層のひとつを形成していたということでしょう。

その階層が奴隷に相当するものであったか否かは、その時期のゴアの歴史を探れば答えが出るかも知れません。

ポルトガルにとって、1510年に陥落したゴアは海洋帝国展開上の重要な拠点であり、そこに日本人が集住していて、その人たちが何らかの理由でペル-・リマまで渡ったということになります。


6.
この時代に、南米に居た日本人の記録として「リマの20人」以外では以下の人たちについて聞いたことがあります。

(1)1597年、アルゼンチンのコルドバ市で「自分が奴隷として売買される謂れはなく自由を要求する」として訴訟を起こし勝訴した人。

(2)1600年代初め頃、メキシコ・グアダラハラで活躍した商人ルイス・デ・エンシオと その娘婿で後にグアダラハラ大聖堂財産管理人となったフアン・デ・パエス。(二人とも外国人名ですが、日本からメキシコへ渡った人たちであることは確実なようです。)

(3)1585年、8歳のとき長崎でポルトガル商人ペレスに売られたガスパ-ル、1594年スペイン領マニラでポルトガル奴隷商人からペレスに売られたミゲル、来歴不明なベントゥ-ラ、の3人。
3人は、ペレスが隠れユダヤ教徒として逮捕されたため、1597年に異端審問のためマニラからアカプルコへペレスとともに移送された。


7.
これらの人たちと比べると、「1613年の人口調査」に書かれているリマの人たちの生活が落ち着いていたのではないかと思うのは、私のひいき目というものでしょうか。

「1613年の人口調査」のコメントを見ると、彼らはまだ若いけれど職人や使用人としての仕事を着々とこなしながら、結婚もし子どももいる安定した生活を目指していたのではないかなどと想像します。



2回にわたって「1613年、リマ市の日本人20人」について書いてきましたが、
次回は、同じ1613年に日本からメキシコに向かった使節団の団長「支倉常長」について書いてみたいと思います。









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# by GFauree | 2014-12-18 14:18 | リマ市20人の日本人 | Comments(0)