背教者 クリストヴァン・フェレイラ [その3]
2016年 03月 18日
[評判になった小説「沈黙」]
棄教したポルトガル人司祭クリストヴァン・フェレイラは、「転びバテレン」または「キリシタン目明し」沢野忠庵として、すでに江戸時代から、世間の好奇の目を引く存在であったらしい。しかし、近年彼に対して多くの人々の関心が寄せられるようになったのは、遠藤周作の小説「沈黙」によるものではないかと、考えられる。
小説「沈黙」が発表されたのは今から50年前の1966年、私が高校3年のときである。新聞の書評に採り上げられ、「谷崎潤一郎賞」を受賞し、一般社会的な話題にもなった。未だ戦後の「唯物論的進歩主義知識人」が言論界をリ-ドし、「大学紛争」が端緒をみせかけていたような時期で、宗教だのカトリックだのが話題になることは希少だったにも拘わらず、小説「沈黙」は意外なほど評判になっていた、と私は思う。私自身も遠藤周作が「カトリック作家」であることぐらいは知っていたから、とにかく関心はあった。
[私も読んではみたけれど]
というより、カトリックの家庭環境に育った者として、棄教したカトリック司祭について書かれた小説を読んだこともないというのはまずいという見栄の気持ちがあったから、目を通してみたことはある。しかし、書かれている登場人物の置かれた状況や心理が容易に納得できず、つまり書いてあることがさっぱり分らず、面白くもなくてすぐに投げ出してしまった。今になって考えると、キリシタン史やその時代の殉教や棄教について、ほとんど知識もなくまた考えたこともなかったのだから、何も分らず面白くないのも当然だったのである。
その頃、それほどキリスト教関係に関心があるように見えなかった友人が、小説「沈黙」が凄いと言って感激しているので理由を訊いてみた。彼が言うには、潜伏し捕縛されるまでの緊迫感や棄教を迫られて次第に追い詰められていくときの恐怖感が凄いということだった。彼は小説「沈黙」が持っているはずで、私がさっぱり理解できなかった宗教的思想性のようなものに感激したのではなく、「優れたサスペンス性」とでもいうような小説の造りに感激していたのだ。私は、「そんな読み方もあるんだ」と感心するような、拍子抜けするような気持ちを味わったが、今にして思えば、そういう風にして一気に読ませてしまうことも、作者の狙いとか手腕のひとつだと考えるべきなのかも知れない。
今回、この記事を書くために、改めて「沈黙」を読んでみた。若い時とは違って、「キリシタン史」にも親しむようになってきたから、少しは楽に読めるようになったのでは、という期待があったのだが、私にとっての読み難(にく)さは相変わらずだった。ただ、だいぶ冷静に読めるようにはなっているようで、何点か特徴的なことに気付いたので、それを挙げることから始めてみよう。
[小説「沈黙」の特徴的なこと]
1.史実を改変した筋書きが設定されている
小説「沈黙」の主人公はクリストヴァン・フェレイラではなく、ポルトガル人司祭セバスチャン・ロドリゴである。
小説の中では、フェレイラの棄教という教会の不名誉の雪辱を果たすため、迫害下の日本へ潜伏し布教するという計画をたてた、ルビノ神父を含む四人の神父の一団がロ-マにあり、ポルトガルにも別の一団があった。
ポルトガルの一団は、かつて神学生としてフェレイラの教えを受けた三人の若い司祭たちであり、「フェレイラが華々しい殉教をとげたのならば兎も角、犬のように屈従したとはどうしても考えられず、事の真相をつきとめよう」と、日本への渡航・潜伏を計画していた。
その中のひとりが、主人公セバスチャン・ロドリゴである。
フェレイラは、小説のクライマックスで主人公ロドリゴに棄教を勧める役を演じている。
史実はこうだった。
1638年、インドからマカオへ派遣されたイエズス会のアントニオ・ルビノ神父は、1639年、日本管区長・シナ準管区長・巡察師に任命された。
1640年、ルビノ神父は、他の神父とともにマカオから日本への渡航を試みたが、嵐によってコチンシナ(ベトナム)沿岸に流されマカオへ戻った。
1642年、ルビノ神父は、マカオからマニラへ渡り、日本への渡航を計画し二つのグル-プが組成される。
第一のグル-プは、ルビノ神父を含む5人の神父と3人の従者(修道士か同宿と思われる)の合計8人である。このグル-プは、1642年7月マニラを発ち、8月に薩摩に上陸、逮捕され長崎へ連行された後、大村の牢に収監され全員が殉教した。
第二のグル-プは、日本副管区長ペドロ・マルケス神父やジュゼッペ・キアラ神父を含む4人の神父と6人の従者の合計10人である。このグル-プは、1643年6月、筑前国(現在の福岡県西部)大島に上陸し捕縛された。8月に江戸に到着し、取り調べ・尋問・拷問を受け全員が棄教した。そして、その棄教者たちは、現在の文京区・小日向にあった切支丹屋敷に送られ、死ぬまでそこに拘禁された。
ジュゼッペ・キアラ神父は、イタリアのシチリア島パレルモの生まれ。棄教した後は、岡本三右衛門という死刑囚の未亡人を妻として娶って岡本三右衛門と名乗り、幽閉四十年後の1685年に83歳で死去した。
このキアラ神父が小説「沈黙」の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルである。
フェレイラは、キアラ神父等の上記第二グル-プが江戸で取り調べを受けた際、通訳を務めたと言われている。
なぜ作者は、史実を改変してこのような設定をしたのだろうか。
私は次のように推測した。
1.「フェレイラ棄教という教会の不名誉の雪辱を果たそうと、マカオ・マニラを拠点とするルビノ神父のグル-プだけでなく、カトリック教会の本拠地であるヨ-ロッパのロ-マやポルトガルからも、日本に渡航・潜伏しようとした人々がいた」とすることで、如何にフェレイラ棄教がカトリック教会全体にとって衝撃的なことであったかを印象付けようとしたのではないか。
2.「セバスチャン・ロドリゴを含む三人が若いポルトガル人司祭であった」としているのは、フェレイラが如何に優れた神学者かつ恩師として尊敬される存在であったかを表わそうとしたのではないか。
実際のフェレイラは、20歳の時にリスボンを船出しインドに向かっているのだから、ポルトガルで学生を指導する立場にはなかったし、優れた神学者であるか否かを示す段階に至ってもいなかった。
巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの登場
その他、史実と異なる筋書きとして、「日本渡航を目指す三人のポルトガル人司祭がマカオで巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノからきびしい注意をうける」という設定がある。史実では、ヴァリニャ-ノは30年以上前の1606年に没しているのである。
ここで、ヴァリニャ-ノを登場させていることについて、平穏に布教を進めることのできた時代と対比させることで、迫害下の時代の厳しさを浮き彫りにしようとしたのでは、という見方がある。
歴史小説を読むときに、一度でも読んだり聞いたりしたことのある人物の名前(特に、外国人の名前)は受け入れやすいものである。だから、読者が一度でも触れた可能性のある人物の名前を作者が持ち出してきただけなのではないか、と私は考えている。
「歴史小説は作者が自分の思想を表わすために歴史的材料を用いて創造するもの」なのだから、材料である史実を作者が如何に改変して設定しようと自由である。作者はより効果的な表現とか、読者の理解を得やすくすることを狙って史実を改変するものなのだろう。いずれにしても、読者の知識や思考の内容や質を考慮しているはずである。
今まで見てきた、この小説の中での史実の改変のされ方を観ると、作者はどのような読者に対して、何を訴えようとしていたのかが見えてくるような気がする。
「教父」という言葉の使われ方
もうひとつ気になっていることに、「教父」という言葉がある。「沈黙」のまえがきの2行目に、「クリストヴァン・フェレイラ教父」という言い方がされている。一見、神父とか尊師とかと同様、敬称のようであるが、私はこういう使われ方は耳にしたことがない。
wikipediaには、「古代から中世初期、2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、とくに正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々」とされている。フェレイラがこの定義に該当する訳がない。
それでは、なぜ作者は、この言い方をしたのか。まえがきに書かれているように、「稀にみる神学的才能に恵まれ、迫害下にも司祭と信徒を統率してきた長老」に重みを付けようとして「教父」と呼んだだけのことかも知れない。
ただし、棄教した時点のフェレイラは、まだ53歳だから、「長老」と呼ばれるほどの年齢ではなかった。ただ、「人生五十年」の時代だったから、もう老境に差し掛かっていたとは言えるし、宣教師の多くが追放され、残った者の中で最長老の存在になっていたのかも知れない。
2.嫌なものを日本人に突き付けてくる小説「沈黙」
(1)卑屈な日本人キチジロ-
「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パ-ドレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに」
「わしは弱か。わしはモキチやイチゾウごたっ強か者(もん)にはなりきりまっせん」
「俺は生まれつき弱か。心の弱か者には、殉教(マルチルノ)さえできぬ。どうすればよか。ああ、なぜ、こげん世の中に俺(おい)は生れあわせたか」
「この世にはなあ、弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、俺(おい)のように生れつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ・・・・・・」
主要な登場人物であり、裏切者でありながらどこまでもロドリゴについてくる卑屈な日本人キチジロ-のせりふである。このせりふを読んで、普通はどんな感じがするのだろうか。
自分が苦しみを受けるいわれはないと言い募る。
自分の弱さを表に出し、居直りの素振りさえ見せる。
殉教できないことを自分の弱さのせいにして、迫害下に生まれたことを嘆いてみせる。
世の中には、必ず強者と弱者がいて、自分のような弱者は棄教を強いられれば、それを受け容れるしかない、とうそぶく。
このせりふの、いかにも甘ったれた考え方や馴れ馴れしい言い方が何度読んでもわたしには気持ち良くなかった。こんな、キリスト教信者はいない、なぜ作者はこんなせりふ吐かせるのだろう、と思い続けていた。ところが、今回読み直してみて気付いたことがある。
キチジロ-の言動は従来伝えられ描かれてきた日本人信者のそれと対極にある
それは、この嫌らしいキチジロ-の態度は、ひたすら清く正しく潔く殉教していったとされてきた「キリシタン時代」の日本人信者たちの対極にあるということである。そうして、「極端なまでに生々(なまなま)しくキチジロ-を描かなければ、従来ひたすら美化されてきた『キリシタン時代』の日本人信者象を、拭い去れない」と作者が考えたのではないか、ということに私はやっと思い至った。
私は、従来、日本人信者がひたすら美化されてきたことが、多くの人々を「キリシタン時代」の歴史をリアルに感じることから、遠ざけてきたと考えている。だから、読者に「キリシタン時代」をよりリアルに感じさせるためには、キチジロ-の言動をその時代の日本人信者の実像により近いものにすることが必要だと作者が考え、それが生々しく、ややどぎついものになったとすれば、それは理解できる。
本来、人間と神の関係は「馴れ馴れしい」もの
そうしてみると、キチジロ-の神に対する態度にも苦々しいだけでなく、羨ましくさえ感じさせる要素があることに気が付いた。羨ましいのは、与えられた試練に不平を言いながら、神を身近な存在に感じているらしく、信仰を棄てようなどとは思ってもみない態度である。
そこで、思い出したことがある。初めて、スペイン語の聖書や祈りを読んだとき、意外に思ったことである。それは、神やキリストへの呼びかけや祈りの言葉が、tutearという親しい者同士の間で使う(君・僕というような)話し方で書かれていることである。
例えば、最もよく知られた祈りに「主の祈り」というのがある。その、最初の部分であるが、私が子供のころの日本では「天にまします、われらの父よ」と唱えさせられた。現在では、「天におられる、わたしたちの父よ」と唱えられている。つまり、「まします」とか「おられる」とかの敬語が使われてきた。
それが、スペイン語では「Padre nuestro que estás en el cielo」である。
直訳すると、「天国にいる、うちのお父ちゃん(よ)」という感じである。
私が言いたいことは、ヨ-ロッパでの、キリスト教の人間と神の関係は、日本で教会が指導してきたものより、もっと近しいものだったのではないか、ということである。
遠藤周作は、キチジロ-によって「キリシタン時代」のよりリアルな日本人信者象を再現しようとしたときに、神と信者の関係が日本の教会が指導してきたものよりもっと近しいものであるべきだった、と考えたのかも知れない。そのため、意識的にキチジロ-の態度が馴れ馴れしいものになるように描いたのではないか。日本の教会が指導してきた模範的な信者の言動と正反対のはずのキチジロ-の神に対する姿勢が、ヨ-ロッパの信者のそれに似ているものになったことは、興味深い。
日本語では尊敬や崇拝の気持ちを表すためには、「敬語」という表現方法を使わなければならない、ということに賢明なイエズス会士たちは早くから気が付いていた。だから、神に関しても(自分たちに対しても)信者が「敬語」を使うように指導し、純真な信者たちは真面目にその指導に応えたことだろう。それが、表面的な態度だけでなく、信者の内面的な姿勢にまで影響したことは想像に難くない。
それは、一面で「宣教師の“提灯持ち”をひたすら務める、矜恃を持たない信徒の姿」(高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」)に繋がった。
さらに、それは予想外の成果の要因となる。成果とは、キリスト教徒が迫害されたローマ時代以来の数千人という大量な殉教者である。
(山本博文著「殉教」日本人は何を信仰したか)
そう考えてくると、確かにキチジロ-のようなキリスト教の受け容れ方をすれば、殉教などしないで済むのである。格好は悪いけれど。
(2)日本はどんな苗(なえ)の根も腐らせる沼地
「この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」
これは、「日本人が、ヨ-ロッパ人の神を日本人流に屈折させ変化させ、別のものを作り上げた」としてフェレイラがロドリゴに語る言葉だ。これも、キリスト教を日本にもたらした宣教師たちが考えたであろうことでありながら、意識的にか無意識的にかほとんど明らかにされてこなかった問題である。
遠藤周作は、慶長遣欧使節をモデルにした小説「侍」(1980年発表)のなかで、日本へのキリスト教布教の本質的問題をペテロ会(イエズス会をモデルとする)ヴァレンテ神父に、より詳しく語らせている。
ただ、大航海時代にイベリア両国・国家という世俗権力と教会が一体となって世界的に進めようとしたカトリック布教において、キリスト教と布教地文化との衝突は何処でも当然起きていただろうと私は考える。日本では、スペイン・ポルトガルが武力征服を背景とする強制的改宗を進められなかったために、その文化衝突が露呈してしまったが、多くの地域ではそれが潜在化したかまたは隠蔽されてしまったのではないか、ということである。これは、難しそうだけれど重要かつ興味深い問題である。
3.最後に、「神の声は誰のためのものか」について考える
神は長い「沈黙」の末、ついに主人公ロドリゴに語りかける。ここで、その「神の声」の内容を抜書きした方が考えやすいのだが、抜書きすることは物語の結末をばらしてしまうことになるので、ここには書かないほうが良いと思う。どうぞ、関心のある方は小説「沈黙」を、その部分だけでも読んで頂きたい。
「意外だ、でもこれでいいのかな」
私の感想は、「意外だ、でもこれでいいのかな」ということである。強い神を信じ続けてきたはずのヨ-ロッパ人宣教師が、こんなに優しいことを急に言われて、すぐにそれに従う気になれるのだろうか、という疑問を私は持つ。キリスト教の信者と神の関係は、本来上に述べたように近いけれども、厳しいものだったはずである。
ただ、この「神の声」が「キリシタン時代」の日本人信者に語られたものだとすれば、話は別である。
数千人の殉教者
「わずか二十数年という短期間に確実に四千人を超える大量の殉教者が出た」(松田毅一「日本切支丹と殉教」)と言われている。また、どこに書いてあったか記憶がないが、レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」に記載されている殉教者の数を集計すると五千人以上になる、という話を読んだことがある。
一方、いつも参照している、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」には「シュッテ神父の研究によると、キリシタン時代における殉教者の人数は、せいぜい千数百人であったという。」と書かれてある。「シュッテ神父」とはイエズス会の歴史家ヨゼフ・フランツ・シュッテ氏である。見込んでいる数の少なさに意外な感じがしたが、こういう数字についても、見込みを立てた人がどこの組織に所属しているか、その組織がどんな考えを持っているかを考える必要があるようだ。
さて、日本人殉教者の数だが、概ね数千人と考えて、あまり間違ってもいないのではないかと思う。冷静に考えても、大変な数である。その大変な数の人々が、教会の指導に導かれて自発的にかも知れないが、死の恐怖と闘いながら殉教していったということである。指導のためのマニュアルとして、明治時代に発見された「マルチリオの栞(しおり)」という具体的な冊子もあるが、それがどの程度使われたのかなど、詳細は判らない。判らない方が都合が良いと考える人たちがいるのかも知れない。そして、他にも同様の案内書の類があった可能性がある。
数十万人の地獄の恐怖に震えた人たち
「雄々(おお)しくも潔(いさぎよ)き強者(つわもの)」として賛美され死を選んでしまった数千人の殉教者だけの問題ではない。その時代、数十万人の信者がいたはずである、殉教者以外の数十万人の人たちは殉教する勇気のない自分を責め、地獄の恐怖に震えていたことだろう。
ということは、ロドリゴが聞いた「神の声」は数十万人の日本人信者の皆に語りかけてもらうべきものだった。
数十万人の日本人信者こそ、優しい「神の声」を必要としていたのだ。そのことに、作者・遠藤周作は当然気付いていただろう。
そうでなければ、いけない。もしそうでなければ、数千人を死に導き、数十万人を恐怖に陥れたものに頬かむりを許すことになる。
次回は、棄教後のフェレイラがどのような人生を送ったかを見ていこうと思う。
〈つづく〉
[参考文献]
キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで― 高瀬弘一郎著 岩波書店
殉教 日本人は何を信仰したか 山本博文著 光文社新書429
# by GFauree | 2016-03-18 08:21 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(7)