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背教者 クリストヴァン・フェレイラ [その3]




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[評判になった小説「沈黙」]


棄教したポルトガル人司祭クリストヴァン・フェレイラは、「転びバテレン」または「キリシタン目明し」沢野忠庵として、すでに江戸時代から、世間の好奇の目を引く存在であったらしい。しかし、近年彼に対して多くの人々の関心が寄せられるようになったのは、遠藤周作の小説「沈黙」によるものではないかと、考えられる。

小説「沈黙」が発表されたのは今から50年前の1966年、私が高校3年のときである。新聞の書評に採り上げられ、「谷崎潤一郎賞」を受賞し、一般社会的な話題にもなった。未だ戦後の「唯物論的進歩主義知識人」が言論界をリ-ドし、「大学紛争」が端緒をみせかけていたような時期で、宗教だのカトリックだのが話題になることは希少だったにも拘わらず、小説「沈黙」は意外なほど評判になっていた、と私は思う。私自身も遠藤周作が「カトリック作家」であることぐらいは知っていたから、とにかく関心はあった。


[私も読んではみたけれど]

というより、カトリックの家庭環境に育った者として、棄教したカトリック司祭について書かれた小説を読んだこともないというのはまずいという見栄の気持ちがあったから、目を通してみたことはある。しかし、書かれている登場人物の置かれた状況や心理が容易に納得できず、つまり書いてあることがさっぱり分らず、面白くもなくてすぐに投げ出してしまった。今になって考えると、キリシタン史やその時代の殉教や棄教について、ほとんど知識もなくまた考えたこともなかったのだから、何も分らず面白くないのも当然だったのである。

その頃、それほどキリスト教関係に関心があるように見えなかった友人が、小説「沈黙」が凄いと言って感激しているので理由を訊いてみた。彼が言うには、潜伏し捕縛されるまでの緊迫感や棄教を迫られて次第に追い詰められていくときの恐怖感が凄いということだった。彼は小説「沈黙」が持っているはずで、私がさっぱり理解できなかった宗教的思想性のようなものに感激したのではなく、「優れたサスペンス性」とでもいうような小説の造りに感激していたのだ。私は、「そんな読み方もあるんだ」と感心するような、拍子抜けするような気持ちを味わったが、今にして思えば、そういう風にして一気に読ませてしまうことも、作者の狙いとか手腕のひとつだと考えるべきなのかも知れない。

今回、この記事を書くために、改めて「沈黙」を読んでみた。若い時とは違って、「キリシタン史」にも親しむようになってきたから、少しは楽に読めるようになったのでは、という期待があったのだが、私にとっての読み難(にく)さは相変わらずだった。ただ、だいぶ冷静に読めるようにはなっているようで、何点か特徴的なことに気付いたので、それを挙げることから始めてみよう。


[小説「沈黙」の特徴的なこと]


1.史実を改変した筋書きが設定されている

小説「沈黙」の主人公はクリストヴァン・フェレイラではなく、ポルトガル人司祭セバスチャン・ロドリゴである。

小説の中では、フェレイラの棄教という教会の不名誉の雪辱を果たすため、迫害下の日本へ潜伏し布教するという計画をたてた、ルビノ神父を含む四人の神父の一団がロ-マにあり、ポルトガルにも別の一団があった。

ポルトガルの一団は、かつて神学生としてフェレイラの教えを受けた三人の若い司祭たちであり、「フェレイラが華々しい殉教をとげたのならば兎も角、犬のように屈従したとはどうしても考えられず、事の真相をつきとめよう」と、日本への渡航・潜伏を計画していた。
その中のひとりが、主人公セバスチャン・ロドリゴである。

フェレイラは、小説のクライマックスで主人公ロドリゴに棄教を勧める役を演じている。


史実はこうだった。



1638年
、インドからマカオへ派遣されたイエズス会のアントニオ・ルビノ神父は、1639年、日本管区長・シナ準管区長・巡察師に任命された。

1640年、ルビノ神父は、他の神父とともにマカオから日本への渡航を試みたが、嵐によってコチンシナ(ベトナム)沿岸に流されマカオへ戻った。

1642年、ルビノ神父は、マカオからマニラへ渡り、日本への渡航を計画し二つのグル-プが組成される。

第一のグル-プは、ルビノ神父を含む5人の神父と3人の従者(修道士か同宿と思われる)の合計8人である。このグル-プは、1642年7月マニラを発ち、8月に薩摩に上陸、逮捕され長崎へ連行された後、大村の牢に収監され全員が殉教した。

第二のグル-プは、日本副管区長ペドロ・マルケス神父やジュゼッペ・キアラ神父を含む4人の神父と6人の従者の合計10人である。このグル-プは、1643年6月、筑前国(現在の福岡県西部)大島に上陸し捕縛された。8月に江戸に到着し、取り調べ・尋問・拷問を受け全員が棄教した。そして、その棄教者たちは、現在の文京区・小日向にあった切支丹屋敷に送られ、死ぬまでそこに拘禁された。

ジュゼッペ・キアラ神父は、イタリアのシチリア島パレルモの生まれ。棄教した後は、岡本三右衛門という死刑囚の未亡人を妻として娶って岡本三右衛門と名乗り、幽閉四十年後の1685年に83歳で死去した。

このキアラ神父が小説「沈黙」の主人公セバスチャン・ロドリゴのモデルである。
フェレイラは、キアラ神父等の上記第二グル-プが江戸で取り調べを受けた際、通訳を務めたと言われている。


なぜ作者は、史実を改変してこのような設定をしたのだろうか。
私は次のように推測した。

1.「フェレイラ棄教という教会の不名誉の雪辱を果たそうと、マカオ・マニラを拠点とするルビノ神父のグル-プだけでなく、カトリック教会の本拠地であるヨ-ロッパのロ-マやポルトガルからも、日本に渡航・潜伏しようとした人々がいた」とすることで、如何にフェレイラ棄教がカトリック教会全体にとって衝撃的なことであったかを印象付けようとしたのではないか。

2.「セバスチャン・ロドリゴを含む三人が若いポルトガル人司祭であった」としているのは、フェレイラが如何に優れた神学者かつ恩師として尊敬される存在であったかを表わそうとしたのではないか。

実際のフェレイラは、20歳の時にリスボンを船出しインドに向かっているのだから、ポルトガルで学生を指導する立場にはなかったし、優れた神学者であるか否かを示す段階に至ってもいなかった。


巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノの登場

その他、史実と異なる筋書きとして、「日本渡航を目指す三人のポルトガル人司祭がマカオで巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノからきびしい注意をうける」という設定がある。史実では、ヴァリニャ-ノは30年以上前の1606年に没しているのである。

ここで、ヴァリニャ-ノを登場させていることについて、平穏に布教を進めることのできた時代と対比させることで、迫害下の時代の厳しさを浮き彫りにしようとしたのでは、という見方がある。

歴史小説を読むときに、一度でも読んだり聞いたりしたことのある人物の名前(特に、外国人の名前)は受け入れやすいものである。だから、読者が一度でも触れた可能性のある人物の名前を作者が持ち出してきただけなのではないか、と私は考えている。


「歴史小説は作者が自分の思想を表わすために歴史的材料を用いて創造するもの」なのだから、材料である史実を作者が如何に改変して設定しようと自由である。作者はより効果的な表現とか、読者の理解を得やすくすることを狙って史実を改変するものなのだろう。いずれにしても、読者の知識や思考の内容や質を考慮しているはずである。

今まで見てきた、この小説の中での史実の改変のされ方を観ると、作者はどのような読者に対して、何を訴えようとしていたのかが見えてくるような気がする。


「教父」という言葉の使われ方

もうひとつ気になっていることに、「教父」という言葉がある。「沈黙」のまえがきの2行目に、「クリストヴァン・フェレイラ教父」という言い方がされている。一見、神父とか尊師とかと同様、敬称のようであるが、私はこういう使われ方は耳にしたことがない。

wikipediaには、「古代から中世初期、2世紀から8世紀ごろまでのキリスト教著述家のうち、とくに正統信仰の著述を行い、自らも聖なる生涯を送ったと歴史の中で認められてきた人々」とされている。フェレイラがこの定義に該当する訳がない。

それでは、なぜ作者は、この言い方をしたのか。まえがきに書かれているように、「稀にみる神学的才能に恵まれ、迫害下にも司祭と信徒を統率してきた長老」に重みを付けようとして「教父」と呼んだだけのことかも知れない。

ただし、棄教した時点のフェレイラは、まだ53歳だから、「長老」と呼ばれるほどの年齢ではなかった。ただ、「人生五十年」の時代だったから、もう老境に差し掛かっていたとは言えるし、宣教師の多くが追放され、残った者の中で最長老の存在になっていたのかも知れない。



2.嫌なものを日本人に突き付けてくる小説「沈黙」


(1)卑屈な日本人キチジロ-

「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パ-ドレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに」
「わしは弱か。わしはモキチやイチゾウごたっ強か者(もん)にはなりきりまっせん」
「俺は生まれつき弱か。心の弱か者には、殉教(マルチルノ)さえできぬ。どうすればよか。ああ、なぜ、こげん世の中に俺(おい)は生れあわせたか」
「この世にはなあ、弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、俺(おい)のように生れつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ・・・・・・」

主要な登場人物であり、裏切者でありながらどこまでもロドリゴについてくる卑屈な日本人キチジロ-のせりふである。このせりふを読んで、普通はどんな感じがするのだろうか。

自分が苦しみを受けるいわれはないと言い募る。
自分の弱さを表に出し、居直りの素振りさえ見せる。
殉教できないことを自分の弱さのせいにして、迫害下に生まれたことを嘆いてみせる。
世の中には、必ず強者と弱者がいて、自分のような弱者は棄教を強いられれば、それを受け容れるしかない、とうそぶく。

このせりふの、いかにも甘ったれた考え方や馴れ馴れしい言い方が何度読んでもわたしには気持ち良くなかった。こんな、キリスト教信者はいない、なぜ作者はこんなせりふ吐かせるのだろう、と思い続けていた。ところが、今回読み直してみて気付いたことがある。

キチジロ-の言動は従来伝えられ描かれてきた日本人信者のそれと対極にある

それは、この嫌らしいキチジロ-の態度は、ひたすら清く正しく潔く殉教していったとされてきた「キリシタン時代」の日本人信者たちの対極にあるということである。そうして、「極端なまでに生々(なまなま)しくキチジロ-を描かなければ、従来ひたすら美化されてきた『キリシタン時代』の日本人信者象を、拭い去れない」と作者が考えたのではないか、ということに私はやっと思い至った。

私は、従来、日本人信者がひたすら美化されてきたことが、多くの人々を「キリシタン時代」の歴史をリアルに感じることから、遠ざけてきたと考えている。だから、読者に「キリシタン時代」をよりリアルに感じさせるためには、キチジロ-の言動をその時代の日本人信者の実像により近いものにすることが必要だと作者が考え、それが生々しく、ややどぎついものになったとすれば、それは理解できる。

本来、人間と神の関係は「馴れ馴れしい」もの

そうしてみると、キチジロ-の神に対する態度にも苦々しいだけでなく、羨ましくさえ感じさせる要素があることに気が付いた。羨ましいのは、与えられた試練に不平を言いながら、神を身近な存在に感じているらしく、信仰を棄てようなどとは思ってもみない態度である。

そこで、思い出したことがある。初めて、スペイン語の聖書や祈りを読んだとき、意外に思ったことである。それは、神やキリストへの呼びかけや祈りの言葉が、tutearという親しい者同士の間で使う(君・僕というような)話し方で書かれていることである。

例えば、最もよく知られた祈りに「主の祈り」というのがある。その、最初の部分であるが、私が子供のころの日本では「天にまします、われらの父よ」と唱えさせられた。現在では、「天におられる、わたしたちの父よ」と唱えられている。つまり、「まします」とか「おられる」とかの敬語が使われてきた。

それが、スペイン語では「Padre nuestro que estás en el cielo」である。
直訳すると、「天国にいる、うちのお父ちゃん(よ)」という感じである。

私が言いたいことは、ヨ-ロッパでの、キリスト教の人間と神の関係は、日本で教会が指導してきたものより、もっと近しいものだったのではないか、ということである。

遠藤周作は、キチジロ-によって「キリシタン時代」のよりリアルな日本人信者象を再現しようとしたときに、神と信者の関係が日本の教会が指導してきたものよりもっと近しいものであるべきだった、と考えたのかも知れない。そのため、意識的にキチジロ-の態度が馴れ馴れしいものになるように描いたのではないか。日本の教会が指導してきた模範的な信者の言動と正反対のはずのキチジロ-の神に対する姿勢が、ヨ-ロッパの信者のそれに似ているものになったことは、興味深い。

日本語では尊敬や崇拝の気持ちを表すためには、「敬語」という表現方法を使わなければならない、ということに賢明なイエズス会士たちは早くから気が付いていた。だから、神に関しても(自分たちに対しても)信者が「敬語」を使うように指導し、純真な信者たちは真面目にその指導に応えたことだろう。それが、表面的な態度だけでなく、信者の内面的な姿勢にまで影響したことは想像に難くない。

それは、一面で「宣教師の“提灯持ち”をひたすら務める、矜恃を持たない信徒の姿」(高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」)に繋がった。
さらに、それは予想外の成果の要因となる。成果とは、キリスト教徒が迫害されたローマ時代以来の数千人という大量な殉教者である。
(山本博文著「殉教」日本人は何を信仰したか)

そう考えてくると、確かにキチジロ-のようなキリスト教の受け容れ方をすれば、殉教などしないで済むのである。格好は悪いけれど。



(2)日本はどんな苗(なえ)の根も腐らせる沼地


「この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」

これは、「日本人が、ヨ-ロッパ人の神を日本人流に屈折させ変化させ、別のものを作り上げた」としてフェレイラがロドリゴに語る言葉だ。これも、キリスト教を日本にもたらした宣教師たちが考えたであろうことでありながら、意識的にか無意識的にかほとんど明らかにされてこなかった問題である。

遠藤周作は、慶長遣欧使節をモデルにした小説「侍」(1980年発表)のなかで、日本へのキリスト教布教の本質的問題をペテロ会(イエズス会をモデルとする)ヴァレンテ神父に、より詳しく語らせている。

ただ、大航海時代にイベリア両国・国家という世俗権力と教会が一体となって世界的に進めようとしたカトリック布教において、キリスト教と布教地文化との衝突は何処でも当然起きていただろうと私は考える。日本では、スペイン・ポルトガルが武力征服を背景とする強制的改宗を進められなかったために、その文化衝突が露呈してしまったが、多くの地域ではそれが潜在化したかまたは隠蔽されてしまったのではないか、ということである。これは、難しそうだけれど重要かつ興味深い問題である。



3.最後に、「神の声は誰のためのものか」について考える


神は長い「沈黙」の末、ついに主人公ロドリゴに語りかける。ここで、その「神の声」の内容を抜書きした方が考えやすいのだが、抜書きすることは物語の結末をばらしてしまうことになるので、ここには書かないほうが良いと思う。どうぞ、関心のある方は小説「沈黙」を、その部分だけでも読んで頂きたい。

「意外だ、でもこれでいいのかな」

私の感想は、「意外だ、でもこれでいいのかな」ということである。強い神を信じ続けてきたはずのヨ-ロッパ人宣教師が、こんなに優しいことを急に言われて、すぐにそれに従う気になれるのだろうか、という疑問を私は持つ。キリスト教の信者と神の関係は、本来上に述べたように近いけれども、厳しいものだったはずである。

ただ、この「神の声」が「キリシタン時代」の日本人信者に語られたものだとすれば、話は別である。

数千人の殉教者

「わずか二十数年という短期間に確実に四千人を超える大量の殉教者が出た」(松田毅一「日本切支丹と殉教」)と言われている。また、どこに書いてあったか記憶がないが、レオン・パジェスの「日本切支丹宗門史」に記載されている殉教者の数を集計すると五千人以上になる、という話を読んだことがある。

一方、いつも参照している、高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」には「シュッテ神父の研究によると、キリシタン時代における殉教者の人数は、せいぜい千数百人であったという。」と書かれてある。「シュッテ神父」とはイエズス会の歴史家ヨゼフ・フランツ・シュッテ氏である。見込んでいる数の少なさに意外な感じがしたが、こういう数字についても、見込みを立てた人がどこの組織に所属しているか、その組織がどんな考えを持っているかを考える必要があるようだ。

さて、日本人殉教者の数だが、概ね数千人と考えて、あまり間違ってもいないのではないかと思う。冷静に考えても、大変な数である。その大変な数の人々が、教会の指導に導かれて自発的にかも知れないが、死の恐怖と闘いながら殉教していったということである。指導のためのマニュアルとして、明治時代に発見された「マルチリオの栞(しおり)」という具体的な冊子もあるが、それがどの程度使われたのかなど、詳細は判らない。判らない方が都合が良いと考える人たちがいるのかも知れない。そして、他にも同様の案内書の類があった可能性がある。

数十万人の地獄の恐怖に震えた人たち

「雄々(おお)しくも潔(いさぎよ)き強者(つわもの)」として賛美され死を選んでしまった数千人の殉教者だけの問題ではない。その時代、数十万人の信者がいたはずである、殉教者以外の数十万人の人たちは殉教する勇気のない自分を責め、地獄の恐怖に震えていたことだろう。

ということは、ロドリゴが聞いた「神の声」は数十万人の日本人信者の皆に語りかけてもらうべきものだった。
数十万人の日本人信者こそ、優しい「神の声」を必要としていたのだ。そのことに、作者・遠藤周作は当然気付いていただろう。
そうでなければ、いけない。もしそうでなければ、数千人を死に導き、数十万人を恐怖に陥れたものに頬かむりを許すことになる。


次回は、棄教後のフェレイラがどのような人生を送ったかを見ていこうと思う。


〈つづく〉


[参考文献]

キリシタンの世紀―ザビエル渡日から「鎖国」まで― 高瀬弘一郎著 岩波書店
殉教 日本人は何を信仰したか            山本博文著 光文社新書429





















# by GFauree | 2016-03-18 08:21 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(7)  

背教者 クリストヴァン・フェレイラ [その2]

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              ポルトガル リスボン市内ジェロニモス修道院聖堂



クリストヴァン・フェレイラは、ポルトガル人イエズス会士。
1596年、16歳で入会、1609年来日後キリシタン迫害が激化する中、常に日本イエズス会のエリ-ト幹部として活動し、1632年管区長代理に任ぜられた。翌33年、拷問を受け背教して以降、沢野忠庵と名乗った。

そのフェレイラが、1621年3月18日付の書翰をイエズス会総会長あてに送っている。その日付けは、彼の来日から12年後であり、また棄教する12年前である。その内容は、その時期の彼の考えや、またその後の彼の行動を説明すると考えられる部分もあるので、ここにご紹介したい。



[フェレイラ書翰の内容]


1.日本人修道士の不正・追放について

日本人修道士イグナシオ・カト-という者が、商業行為を行い堕落し、イエズス会から追放された。修道士が誘惑に克てなかったことの理由の一つは、神父たちが迫害によって追放され、修道士を管理・監督する者が不足していることだ。その結果、修道士が隠れて取引を行い、蓄えが出来ると、誘惑に駆られイエズス会を去るのである。


2.将軍が迫害を行う理由について


「将軍が行っている迫害は国是(国家理性―Reason of State)に基くものだ」と、我々(イエズス会司祭たち)は考えているので、これが今後どのように進んでいくかについて、強い懸念を感じている。将軍は、我々が福音宣教によって、国を奪おうと企んでいると思い込んでいるのである。

この考えは、既に以前から将軍が持っていたものに加え、さらにオランダ人から吹き込まれたものであるが、将軍はオランダ人のその忠告に感謝さえしていると言われている。

以前イエズス会の修道士であった日本人背教者ファビアンの著書(破堤宇士)によって、「福音の宣教によって、宣教師たちが日本を奪い、我々の国王に服従させようと企んでいる」ということが、更に強く確信されるようになった。


3.迫害が止む可能性について

もし神が、特別の意志(摂理)によって、我々を救って下さらない限り、迫害が止む可能性は殆どない。
ただ、私はこれほど多くの殉教者たちが血を流しているのだから、きっと神が救いの手を差し伸べて下さるものと信じている。

実際、聖職者たちを護ることに関しては、神はその意志をよく表わして下さっている。
というのは、裏切りや密告が横行する中で、もし神の特別な意志がなければ、もう既に聖職者全員が捕えられているはずだからである。


4.日本人のイエズス会入会を認めることについて

非会員の日本人同宿で捕縛された者のうち、不撓不屈の立派な振舞いをする者については、殉教する可能性が高いのだから、入会を認めて頂きたい。

他の修道会は、この場合入会を許しているのだから、イエズス会が入会をみとめないと、それは会にとって不名誉なことになる。近年、会からの多くの離脱者を生んだ原因は、日本人はイエズス会に受け入れられないということが明らかになってしまったことである。

死亡時には、彼らを入会させるということにすれば、多くの者が会から離れて行くことはないし、生存中に入会させることによって起るような不都合は生じない。



[フェレイラ書翰について考えること]


1.日本人修道士の不正・追放について

この書翰に採り上げられた他の事項が、「幕府が迫害を行う理由」や「迫害が止む可能性」など、キリシタン教会を取り巻く広範な状況に関するものであるのに比較すると、この事件は個別的な事象でありやや場違いな印象を受ける。
何故この件を、フェレイラは書いたのだろうか。

〈プロクラド-ルだったフェレイラ〉

イエズス会の運営に関わる重要な職務のなかに、資金・資産の管理を行う財務担当者である「プロクラドール」と呼ばれる役割があった。( このプロクラド-ルについては、「南蛮医アルメイダ」に関する記事のなかで言及したことがあるので、ご参照頂きたい。)
 http://iwahanjiro.exblog.jp/21914656/ 

フェレイラは、1618年12月にカルロ・スピノラ神父が逮捕されたため、その後任として長崎でプロクラド-ルの任に就き、それは1621年10月に上(近畿)地区の副地区長として大坂に赴任するまで続いた。

本来、日本以外の地では、原則、財務担当プロクラド-ルに最高の階級である盛式四誓願司祭が起用されることはなかった。ところが、日本では高度の政治的・経済的能力が要求される地位であることを理由として、盛式四誓願司祭が任ぜられるようになっていた。それだけ、日本のキリシタン教会では経済的要素が重んぜられたということであろう。

前回の記事に書いたように、フェレイラは1617年7月、盛式四誓願司祭の資格を与えられていたから、1618年12月にプロクラド-ルの職に就くことができたのである。

〈フェレイラには不正をした修道士に対する監督責任があったのでは〉

書翰によれば、日本人修道士イグナシオ・カト-が追放されたのは、前回の書翰が書かれた1620年11月から、今回の書翰が書かれた1621年3月の間である。

イグナシオ・カト-は職務として商業行為を行ううちに不正に手を染めたということだから、財務プロクラド-ルであるフェレイラを補佐する立場にあったのではないか。そうであれば、フェレイラは、上司として1618年12月からイグナシオ・カト-に対する管理・監督責任を負っていたことになる。

以上を勘案すると、フェレイラは、一般的な状況の厳しさを伝えるためよりは、むしろ、上司として部下の不祥事を釈明する必要からこの書翰を書いたのではないかと私は考える。

この不祥事の原因としてフェレイラが挙げているのは、迫害が激しくなり、パ-ドレたちが追放された結果、管理者が不足してきて担当者が誘惑を受けやすくなってきたことである。フェレイラは、この理由付けによって、不正を行った本人への咎(とがめ)や管理者への責任追及を少しでも和らげようとしたのではないだろうか。

また、この書翰が書かれた翌年、1622年には長崎で55名が処刑された「元和の大殉教」があり、さらにその翌年、1623年には江戸・芝で50名が処刑されている。この時期、客観情勢は明らかに厳しさを増していただろう。

一方で、たとえ捕縛・拷問・処刑等の迫害を逃れたとしても、司祭の不足によって、組織的活動がいよいよ困難になってきたことを、この件に関する報告を通じてフェレイラが伝えようとしたとは、考えられる。

客観的な情勢の厳しさに加え、キリシタン教会はその構成員の規律が乱れ、内部からの崩壊も確実に進行していったことが、この部分から伺われるのである。


2.将軍が迫害を行う理由について

〈秀吉バテレン追放令発布の理由〉

1587年の関白秀吉によるバテレン追放令発布は、1549年の「ザビエル渡来」から90年続いたキリシタン時代の、およそ半ばの時期に行われた国家権力による初めての本格的弾圧であった。

その理由の一つとして、秀吉が助言者であった施薬院全宗に「器量が良く、かつ身分のある家の娘たち」を調達するように指示したところ、キリシタンである女性たちに抵抗された、ということが挙げられることがある。私もそういう説明を読んだことがある。

しかし、今回改めて、その件に関してルイス・フロイスが執筆した『イエズス会日本年報』と『日本史』の該当箇所を読んでみたが、「施薬院全宗が女性たちに抵抗されて怒った」とは書いてあるが、秀吉の反応がどうであったかは書かれていないのである。ということは、私の読み間違い・勘違いか、私が読んだ解説が間違っていたのである。

しかし、どちらにも、大坂城内に約300名の女性を置いているなど、秀吉が如何に情欲に狂った生活を送っていたかが描かれていて、そこだけを読むと、女性たちの抵抗がバテレン追放令の原因となったように思えてしまうのである。

何故、そんな書き方をフロイスはしたのだろうか。

〈キリシタン時代の外国人宣教師の性格〉

私はこの時代の外国人宣教師が、肉体的に非常に元気な人たちであったことを、念頭に置いて考える必要があると思っている。

ザビエルがヨ-ロッパで勉強させようとインドへ連れ帰った日本人のうち、一人はヨ-ロッパへ着く前に、もう一人はヨーロッパへ着いてから間もなく亡くなっている。それ程、その時代、日本とヨ-ロッパの間を航海することは、体力を極限まで消耗させる行動であったらしい。天正遣欧使節として少年たちを選抜した理由のひとつとして、苛酷な航海に耐えるためには少年であることが必要だったことが挙げられている。

逆にヨ-ロッパから日本へ来て、活発に行動していた宣教師たちは、よほど強靭な身体の持ち主であったのだろう。それに、聖職者という職種は、“生ける車輪”ルイス・デ・アルメイダのように布教地を走り回っていたり、迫害に遭って逃亡したりしていない限りは、あまり体力の消耗を必要としない。そして、男は体力があり余ると、どうしても余計なことに考えが行ってしまう。それは、今でも教皇を悩ませている問題でもある。

だから、『日本年報』や『日本史』におけるルイス・フロイスの秀吉の行状に関する念入りな描写を読んでいると、私には、ひょっとしてフロイスという人は秀吉のことを羨ましく思っていたのではないか、とさえ思えて来るのである。

「齢すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い。野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪いとったかにおもわれた。」(完訳フロイス日本史4豊臣秀吉篇Ⅰ)中公文庫より



〈国是(国家理性)について〉

高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」において、同氏は「禁因を単に秀吉の人格的欠陥に求めるような論は、ほとんど取り上げるに足りない。」とされている。そんな「取り上げるに足りない」フロイスの禁教原因の議論に比べると、フェレイラが迫害の原因として挙げている国是(国家理性)は、それなりの背景や根拠があるもののように思える。そこで、同じく高瀬弘一郎著「キリシタンの世紀」に書かれてある内容に沿って、国是(国家理性)について考えてみた。

江戸幕府の禁教令の最も根本的な理由として、何人ものイエズス会士が“国家理性”に基づくとしている。国家理性は国家利益とほぼ同義だと考えてよい。国家というものは「自己の存立を主張し、拡大を求めて行動する」ものである、という考え方である。

在日イエズス会士の考え方には、『国家理性論』を著し、国家理性を「国家を建設し維持し、かつ大ならしめるにふさわしい手段の認識」と定義したイエズス会士ジョバンニ・ボテロの思想が影響を与えていたと考えられる。

〈エリザベス朝イングランドによって排除されたカトリック勢力〉

エリザベス一世は“教皇至上権”を否定し、“国王至上権”を確立することによって、ナショナリズムを表明し、“イングランドの教会”を樹立した。そして、“かくれキリシタン”となった国内カトリック信徒のために、近隣カトリック諸国からイングランドへ宣教師が送り込まれ、その多数が処刑された。

スペイン国王フェリペ二世は、教皇の説得もあってイングランド侵攻を図ったが、結局1588年スペイン無敵艦隊は敗北し、“異端者”エリザベス女王の追放を図ったカトリック勢力の企ては挫折した。

ほぼ同時代に、ユ-ラシア大陸の東端と西端に接する二つの島国である日本とイギリスで、国是(国家理性)に基づきカトリック勢力が排除される動きがあったこと、またそれを、その時代に日本に居た宣教師たちが認識していたと考えられることは興味深い。

そして、そこまで考えたときに、江戸幕府の禁教やそれによってフェレイラたちが置かれた状況が、単なる権力者の横暴や闇雲な信教の自由の否定の結果としてではなく、歴史的必然の一環として、やっとリアルに認識できるような気がする。

さらに、幕府によるキリシタン迫害が国是(国家理性)によるものであることを認識していた以上、エリザベス朝イングランドの例から見ても宣教師たちは、これを止めることも、それに勝利することもほとんど不可能であることを感付いていたのではないか、と私は考える。


3.迫害が止む可能性について

〈理屈に合わず、「危ない」考え方〉

書翰の中のこの部分を読んで、私は意外な感じを受けた。ここには、フェレイラの正直な心情が吐露されているように感ずるが、その内容は理屈に合わない。

そもそも、迫害も救いも全て神の意志によるものである筈ではないか。聖職者たちを守ることであれ何であれ、全ては神の遺志である筈である。

多くの殉教者が血を流しているから神が救ってくれる、というのも「危ない」考え方である。救って貰えることを期待して血を流すが、神は応えてくれない。すると今度は、沈黙し続ける神になぜ救ってくれないのかと訴えなければならないことになる。

遠藤周作は小説「沈黙」の筋書きの着想を、フェレイラ書翰のこの部分から得たのではないかと私は思う。「沈黙」し続ける神に不足を感ずるとすれば、自分の方から「神の声」を聴いたと考える他はない。

〈「案内書」通りに死んでいった殉教者たち〉

山本博文著 殉教―日本人は何を信仰したか(光文社新書)によれば、当時のイエズス会士が日本に持ち込んだ殉教の勧め「マルチリヨの栞(しおり)」には、次のように書かれている。

殉教者となるためには、人から殺されることを喜んで堪え忍ばなければならない。
なぜ、喜んで堪え忍ぶべきかと言えば、殺されるほどの迫害に遭って、はじめて信者は真実の信仰を示すことができるからである。そして、殉教すれば、神の前で最高の位につくことができる。すべての罪が許され、煉獄の苦しみは免除され、天国では光背を頭にいただき、受けた傷は光り輝くからである。

私が見聞きしてきた日本人殉教者の姿は、迫害の苦しみを喜んで堪え忍び通した、というものばかりである。ということは、多くの日本人殉教者は、宣教師の持って来て教えた「案内書」通りに死んでいったということである。それに対して、外国人宣教師の中には、自分たちが習い覚え、信者たちに教えてきた生き方・死に方を受け容れきれず煩悶する人たちがいて、フェレイラはその一人だったのかも知れない。

この書翰が書かれたのは、棄教する12年前のことだが、一面で、フェレイラはもうそこまで追い詰められていたということなのであろう。


4.日本人のイエズス会入会を認めることについて

フランシスコ・カブラル(1596年)

「私は日本人ほど傲慢・貪欲・無節操かつ欺瞞に満ちた国民を見たことがない。日本人は(正式なイエズス会員でない)同宿として用いるべきである。」

ジョアン・ロドリゲス(1598年)

「私は厳しい選択と調査をせずに日本人を修道士にすることは、わが(イエズス)会のため適正ではないと考える者であります。・・・・・・こうした連中を我がイエズス会に入れることは、良いとは絶対に思われません。」

以上のような外国人宣教師の意見に基き、日本人のイエズス会入会には「総会長の承認が必要」とされていた。と言っても、遥かかなた日本での入会人事を総会長が判断できるわけがないのだから、要するに日本人は原則的には入会させない(修道士や司祭という聖職者にはしない)という方針があったということである。

(この「日本人の入会問題」については、「ペトロ・カスイ・岐部」に関する記事の中で説明させて頂いたので、ご参照頂きたい。)
http://iwahanjiro.exblog.jp/21105197/

〈ペトロ・カスイ・岐部のこと〉

だから、ペトロ・カスイ・岐部はロ-マまで行く必要があったのである。岐部は、6年間のセミナリオでの勉学の後、9年間同宿として働き5年間かけてロ-マへ辿り着いてやっと入会が認められた。ときどき、故意によるものなのか認識不足のためなのか、岐部の経歴のうちのその14年間について触れてもいない解説を見掛けるが、まるで「気の抜けた炭酸飲料」のように私は感ずる。

岐部は、このフェレイラの書翰が書かれる前年の1620年、やっとロ-マで入会を認められる。その岐部が7年かけて日本へ戻り潜伏している間に、棄教した後のフェレイラに会い翻意を促したと言われている。本当であれば、厳しい話である。

それを、岐部の勝利のように言う向きがあるが、私はそうは思わない。「岐部には岐部の、フェレイラにはフェレイラの人生があった」はずだからである。

〈この期に及んでも入会は 認められていなかった〉

それはさておき、今にしてみればキリシタン時代の終焉に差し掛かっていたこの期に及んでも、捕縛されおそらくは拷問をうけながら入会を希望していた日本人同宿の入会を、イエズス会が認めていなかったことを、フェレイラの書翰は露わにしてくれている。

そして、入会を認めてよい理由として、不撓不屈の日本人同宿の努力に報いるためというよりは、他の修道会との競争関係や「どうせ死ぬのだから入会させても、言われているような悪影響はない」ことをフェレイラが抜かりなく挙げているところに、彼の冷淡なエリ-ト官僚的体質のようなものが滲み出てしまっているのを私は感ずる。


以上、1621年、棄教する12年前にフェレイラが書いた書簡の内容を観てきた。
次回は、クリストヴァン・フェレイラの知名度を上げる因となった、遠藤周作の小説「沈黙」でのフェレイラの採り上げられ方について、整理してみたいと思う。


〈つづく〉



[参考文献]

「キリシタン研究」 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」Hubert Cieslik S.J. 吉川弘文館

「イエズス会と日本 二」 29 クリストヴァン・フェレイラのイエズス会総長宛て書翰 大航海時代叢書 岩波書店

「キリシタン時代の研究」 高瀬弘一郎著 第二部 第六章 キリシタン教会の財務担当パ-ドレ 岩波書店 

「キリシタンの世紀」 ザビエル渡日から「鎖国」まで 高瀬弘一郎著 岩波書店

「新異国叢書4 イエズス会日本年報 下 」11 1587年の日本年報 雄松堂書店

遠藤周作文学全集10 評伝1 「銃と十字架」 新潮社  

「殉教 日本人は何を信仰したか」 山本博文著 光文社新書 429













# by GFauree | 2016-03-08 12:21 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(2)  

背教者 クリストヴァン・フェレイラ [その1]

背教者 クリストヴァン・フェレイラ [その1]_a0326062_03495718.jpg

  ポルトガル リスボン市にある大航海時代を表現した「発見のモニュメント」





「人生は18歳で決まる」
これは、最近のNHKテレビの番組タイトルである。番組によると、今の高校生50人にアンケ-トをとったところ、約88%が将来を決めているのだそうだ。また、番組の中で、「将来をきめるのが早いほど、人生は成功する」と、若いパティシエが語っていた。自信ありげにみえた。そこで私は、「おいおい、ちょっと待ってくれよ」と言いたくなった。

確かに、学者とか、お相撲さんとか、職人さんとかは若いうちに一定の業績を残すレベルに到達することが必要らしい。私の親族に学者がいたが、学者として認められるためには28歳ごろまでに相当の業績を残さなければ駄目だと言っていた。初代若乃花も、28歳までに横綱になってしまわないと、その後では難しいと言っていたような気がする。職人についても同じことが言えそうなので、パティシエの方が言っておられることは、彼等の世界では多分正しいのだろう。だが、皆が皆、学者や相撲取りや職人になるわけでもないだろう。

それに、9割近い人が、もう将来を決めているというのは本当なのだろうか。大部分の若い人が、自分が将来職業としてやり続けていくことを具体的に認識し決めているということであれば、それはそれで結構な事だが、少し出来過ぎのような気もするがどうなのか。


私がその年代だった頃、
つまり50年ぐらい前のことだが、『いまはまだ人生を語らず』という唄があったぐらいで、そもそも若い者が人生について語るなどということは、自分の知識・経験の浅さを自覚しない恥ずかしいことである、と考える人が少なくなかった。それに、将来を具体的に決めている人など1割ぐらいだった、と思う。

そういう要因もあって、私は自分探しに手間取ってしまったと思うが、そのことで後悔はしていない。だから、「早く決めれば得られる人生の成功なんてあるのか」と思う。


もう少し詳しく言えば、
16歳頃から自分の道を探し続けたが、これだと思うものを見つけられたのは還暦から数年経ってからだった。私がみつけたものは、社会的地位も収入も名誉も伴わない「人生の成功」とはとても言えそうもない、自分のためだけの生き甲斐のようなものである。

だが、長い年月をかけて私はやっとそれを掴んだ。そんなものは、何の価値もないと考える人がいても別に私は構わない。ただ、正直なところ、それを掴むまでの過程で、気にしない訳にいかない事態が生じてしまった。

ひとつは、そこに至るまでの長い年月の間、中途半端な気持ちで生きてきたために、家族を含め周囲の人々に甚大な迷惑をかけてしまったという面は否定できないこと。もうひとつは、あたりまえのことだが、私自身が随分歳を取ってしまったということだ。ということは、私の場合その生き甲斐を掴むためには、「とにかく、生き延びること」が必要だったということでもある。


そんな私が、心無い人々からは「転び者」と蔑(さげす)まれてきたけれど実は大航海時代を代表すると考えられる人物をこれからご紹介したい。


ポルトガル人であるこの人がイエズス会に入ったのは、16歳の時のことだから、四百年以上前のことだけれど、将来を決めるのは充分早かったことになる。二年後には、順調に大学での勉強を始め、その二年後、20歳のときにインド派遣の望みをかなえてリスボンを船出した。若年でインド布教を志願しそれが叶えられたということは、彼が如何に将来を嘱望された人材であったかを示していると考えられる。


その後、彼はインド、マカオで順調に勉強を続け、1609年に来日する。ちょうど彼の来日の時期を境として、日本のキリシタン教会を取り巻く環境は坂道を転げるように厳しさを増していくが、彼自身は日本イエズス会の幹部としての道を順調に歩み続けているように見えた。1617年、37歳で管区長秘書を務めていたときに、最高の職階である盛式四誓願司祭という資格を与えられる。将来の管区長や修院長などの要職に就けることを約束されたようなものである。一面で、「早く将来を決めた彼が、人生に成功を収めつつある」ように見えたのである。

その彼が、1633年53歳のときに捕えられ拷問を受け棄教する。その時から、彼は成功とも名誉とも無縁の「背教者」としての人生を、日本という異国で過ごさざるを得なくなる。彼を「哀れな転びバテレンの代表」のように捉えた見方は多い。しかし、棄教時から70歳で亡くなるまでの17年間に、彼が残したと言われているものは少なくない。

当然のことだが、その時期の彼には、模範とできるような先人の生き方のようなものは何もなかった筈だから、その暗闇の中を彼は手探りで必死に生き方を求めたのではないだろうか。そしてまた、そうせざるを得なかったゆえに、誰からも礼賛されることはなかったけれど,本当に自分らしい人生を掴むことができたのではないか、と私は思うようになっている。


彼クリストヴァン・フェレイラが管区長マテオ・デ・コ-ロスの秘書を務めていた最後の頃、1621年3月18日付で総会長宛てに送った書簡があり、その書簡から彼がその頃どんなことを考えていたのかを窺い知ることができる。次回はその書簡の内容を説明したい。


〈つづく〉


[参考文献]
キリシタン研究 第二十六輯 「クリストヴァン・フェレイラの研究」Hubert Cieslik S.J.







# by GFauree | 2016-02-27 13:59 | クリストヴァン・フェレイラ | Comments(2)  

ペル-・イエズス会士二人の遥かな旅路 [その3]



                 

ペル-・イエズス会士二人の遥かな旅路 [その3]_a0326062_23443526.jpg
               
           現在のカリャオ特別市の街の夕日(Cortesía Juan Goicochea)


まず写真のご紹介から。

日本語の生徒で空手道場のオ-ナ-であり師範でもある、フアン・ゴイコチェアさんが撮られたものをfacebookで見つけて、許可を頂いて掲載しました。

奥が海岸です。左手、沖のサン・ロレンソ島のシルエットの形と、前回[その2]の写真の島の形を比べてみて下さい。偶々、同じ方向から撮られたために、形が同じです。


さて、今回[その3]では、リマ・カリャオ港から直接マカオへ船を送った第8代ペル-副王とその仲間が自分たちの財産を委ねた、副王の甥ロドリゴ・デ・コルドバと二人のイエズス会士の、マカオに着いてからの行方を追ってみたいと思います。


マカオで船と積んできた銀を差し押さえられた後、現地ポルトガル法廷の決定によって、ロドリゴ・デ・コルドバと二人のイエズス会士は、インド・ゴアに送られます。


〈インド副王の対応〉


・ロドリゴはポルトガルへ

インド副王は、二人の聖職者たちに対してはイエメンで監禁されるように命じ、船長ロドリゴ・デ・コルドバについては、その場で提訴に対する結論を出すことを避け、国王への申し立てを継続させるべく、ポルトガルに向けて出航させることを決定します。


・イエズス会士二人はイエメンへ

レアンドロ・フェリペとゴンサロ・ベルモンテは、イエメンの拘置所へ送られましたが、1592年、ゴアのコレジオ(神学校)を叙階(おそらくは、司祭の資格授与)式の祝賀会のために訪れ、同僚たちのために余興としてケチュア語で説教を行ったという記録があります。
(ということは、監禁が命じられたと言っても、「実際は、それほど厳しい拘束は受けていなかった」ということかも知れません。)


〈戦死したロドリゴ〉


英国人歴史家チャ-ルズ・ラルフ・ボクサ-(C.R.Boxer)によると、1593年、ロドリゴ・デ・コルドバを乗せたポルトガルのガレオン船は、大西洋上のアゾレス諸島沖(リスボンの西約1500キロ)で、英国のカムバ-ランド艦隊によって炎上させられ、ロドリゴは戦死したとのことです。

彼の、死の知らせは、ゴアよりもリスボンに先に届けられ、ポルトガル当局は、ペル-の銀を全てリスボンへ転送することを命じたということですが、ペル-船の金銭はイエズス会士レアンドロ・フェリペによって、既に一文残らず然るべく処理されていた筈です。


〈ペル-副王の復讐〉


絶妙とも言える偶然の一致ですが、戦死したロドリゴ・デ・コルドバの叔父であり例の船の船長として彼を送り出した張本人である副王ガルシア・デ・メンド-サは、1593年頃アタカマ湾(現在のチリ)で、英国の海賊リチャ-ド・ホ-キンスの艦隊に対し、圧倒的な攻撃を行ったということです。ポルトガル沖で惨殺された甥の仇(かたき)をチリ沿岸で討った、というわけです。



次に、イエズス会士二人の、その後の行方を追う前に、マカオ行の船に乗る前の二人の経歴を確認しておきたいと思います。


〈イエズス会士たちの経歴〉


・レアンドロ・フェリペ神父

1544年頃、スペイン・セビリャ生まれ
1565年、(21歳)ペル-へ渡航した際の乗船客名簿によれば、職業は商人
1568年、(24歳)イエズス会に入会。その後、パナマの上長を勤めた。

・ゴンサロ・デ・ベルモンテ修道士

1540年頃、スペイン・セビリャ司教区内モゲ-ル村生まれ
1577年、(37歳)イエズス会に入会。助修士で、ペル-管区のプロクラド-ル(財務担当者)であった。


(その他)

・フェリペとベルモンテは、リマとラ・パス(現ボリヴィア)で共に過ごしたことがある。

・会の厳格な評価では、両名とも「従順である」とされている。

マカオ行きの船に乗船した経緯

事務長(副王の甥ロドリゴ・デ・コルドバを指すと思われます)が、イエズス会ペル-管区長フアン・デ・アティエンサに対し、乗組員を霊的に援助するための神父・修道士各1名を航海に同行させることを要請し、二人が指名された。


〈レアンドロ神父入会の頃のイエズス会の状況〉


参考のために、レアンドロ・フェリペ神父が入会した当時の、ペル-・イエズス会の状況を概観してみました。


1567年、スペインから8名の会士が初めてペル-へ派遣される。

1568年、イエズス会ペル-管区が創設される。
      リマに、サン・パブロ学院が開設され、スペイン領アメリカ最古の学院となる。

1570年、ホセ・デ・アコスタを含む第三次宣教団が派遣される。
      アコスタは、南米大陸カトリック教会史上の重要人物の一人と目され、
      『インディオ救霊論』『新大陸自然文化史』の著者として知られる。


アコスタらの第三次宣教団は、リマ大司教区内のクリオ-リョやメスティ-ソ、スペイン本国生まれの入会志願者を養成する人材として派遣されたとされています。

クリオ-リョとは、通常、ヨ-ロッパ人を両親とする植民地生まれの人を指しますが、この場合、特に南米生まれのスペイン人(白人)という意味でしょう。メスティ-ソとは、先住民と白人の混血の人を指します。

レアンドロ・フェリペは、スペイン本国生まれの入会志願者に該当します。

イエズス会は、ペル-での布教を進めるに当たり、先住民でなく、現地在住のスペイン人または混血の者を、聖職者として養成しようと考え、レアンドロは、その方針に沿って司祭を目指し入会した志願者だったということになります。



〈その後、ペル-副王の船が各方面に惹き起こした波紋〉


スペイン
では、
1594年の初め、国王フィリップ2世は、インド副王マティアス・デ・アルブケルケに手紙を送り、スペイン人密輸業者の船のマカオ到着を知らせています。

ペル-では、
船をマカオに送った第8代副王は、1594年頃には、自分のかねを取り戻すことの希望を全く失っており、またペル-・イエズス会は、中国に向けて出発した会士たちは、もう死んだものとみなしていたようです。

東洋の地でのペル-商人の運の強さや、取引の実行・管理を委ねられていたレアンドロ・フェリペの商売上の駆け引きの腕を知らなかったのでしょう。実際には、そのときレアンドロは、商取引のやりとりのまっただ中に居たと考えられるのですが。


〈混乱収拾のために、総巡察師ピメンタ神父が派遣された〉


総巡察師の提案は、二人が、ペル-のかねを放棄してインド管区に残るか、それとも、フィリピンに向けて直ちに出発し、マニラ経由リマに戻るか、でした。

レアンドロ・フェリペは、当然、第二案を選びました。それは、1597年の4月頃のことですから、二人が初めてアジアの地を踏んでから7年が過ぎていました。


〈ゴアからマラッカまで〉


航海は、先ず、インド・ゴアからマラッカ(シンガポ-ル)に向けて行われたと考えられますが、それは、カリカット、コチン、コロンボというポルトガルの貿易拠点を経由するものだったでしょう。


〈マラッカからは、8人の黒人奴隷を連れて〉


ゴンサロ・デ・ベルモンテが、後にリマから総会長に宛てた報告によると、やっとマラッカ(シンガポ-ル)へ着いたのち、フィリピン諸島行きの船を1年間待たねばならず、その間、彼はコレジオ(神学校)で働いていました。

そこへ、運良くフィリピン諸島の船が来て、レアンドロと8人の黒人奴隷と共に、そこから出発することが出来たということです。

イワサキ氏は、「二人のイエズス会士たちが、絹や香辛料や銀を抱えていなかったとしたら、8人の黒人奴隷というのは、多過ぎるのではないか」と指摘しています。


〈マニラにて〉


マニラでは、イエズス会コレジオの仕事に従事しながら、1年間、アカプルコ行きのガレオン船を待ちます。

例によって、野心的なゴンサロ・デ・ベルモンテは、従兄弟である聴訴官アルバロ・ロドリゲス・サムブラノに働きかけ、入手した商品と8人の黒人奴隷をメキシコへ運ぼうとしたようです。

フィリピン総督は、1598年6月、「富裕なペル-商人」に関する不平を述べた書簡を国王に送っています。


〈メキシコからペル-へ〉


二人は、1600年の初めにメキシコに着きましたが、メキシコ・アカプルコ⇒ペル-・カリャオ間の航路が海賊に制圧されていたため、それが解放されるまでに4か月待たねばなりませんでした。


〈ようやく、リマへ〉


二人の到着は、リマにおいて、特に遠征に参加した者たちの家族や出資者たちの間に、大きな衝撃を起こしたに違いありません。

けれども、アジアへ送った銀に関わる訴訟や申し立てなどがあった形跡はないのです。
かろうじて、イエズス会自体が、彼らの同僚を受け入れ歓迎したことを示す資料があるだけです。


〈二人の、その後〉


レアンドロ・フェリペは、サン・パブロ学院に閉じこもったまま祈りの年月を過ごした後に、1613年頃亡くなりました。

(ちなみに、その年リマで行われた人口調査に日本人20人が記録されています。)(http://iwahanjiro.exblog.jp/20544054/

20人の日本人が住んでいたと考えられる旧市街は、レアンドロ神父のいたサン・パブロ学院や、ゴンサロ修道士が幽閉されていた修練院のすぐ近くです。日本人たちが、日曜日の教会のミサやその他何かの機会に、神父や修道士をみかけることがあったかも知れません。

しかし、その神父や修道士が管理責任者として乗り組んだ船によってマカオへ運ばれたペル-銀が、自分たちが遥かな故郷として意識している日本のキリシタン教会の財政難を救ったり、マカオに計画されていた聖職者養成機関の建設に役立った可能性があるなどということは、20人の日本人にとって思いもかけないことだったでしょう。



ゴンサロ・デ・ベルモンテは、幽閉されていた修練院から脱出するべく、総会長クラウディオ・アクアヴィヴァに働きかけたようです。ベルモンテは、最後の年月を家族と過ごすために、スペインへ戻ることを望んでいたのです。

そして彼の望みを叶えようと、彼の家族も良く結束していました。セビリャ出身の甥が彼を救うためにインドへ赴き、マニラでは従兄弟である聴訴官が彼を支援したことは、既に書いた通りです。今回は、修道女である妹が、彼のために総会長に働きかけました。

しかし、結局、彼とその家族の望みが叶えられることはなかったようです。



イエズス会は、自らのイメ-ジを傷付けるような噂を打ち消す浄化キャンペ-ンを始め、それによって、次期副王ルイス・デ・ヴェラスコの好意を得ることに成功します。




[マカオに行った船と二人のイエズス会士について、私が考えること]



1.「密輸船」と呼ばれると


16世紀の末、ペル-銀を満載してマカオへ直行した船は、当時植民地に派遣されたスペイン人官僚が、その立場を利用して、いかに個人の蓄財に励んだか、その涙ぐましい努力のひとつの現れではないか、と書きました。

けれども、その船が「密輸船」と呼ばれると、私は少し抵抗を感じます。

確かに、その船は、ペル-・マカオ間の航行を禁止した国王勅令という法令に違反して送られたものではありますが、「密輸」という言葉の、後ろ暗く重大な犯罪というイメ-ジとは、ちょっと違う印象を持っているからです。

そもそも、ペル-・マカオ間の航行を禁止した国王勅令が発せられた理由ですが、

ひとつは、ペル-船が積載して行く銀が、マカオで中国商品購入の対価として支払われ、これが現地の価格上昇を招き、マカオのポルトガル商人の利幅を縮小させた、つまりあまり儲からなくなったということがあります。

もうひとつは、ペル-船が持ち帰る中国商品の圧倒的な低価格が、従来ペル-で独占的に販売されてきたスペイン本国の商品や、マニラ・アカプルコ経由輸入される中国商品の販売を脅かした、つまりあまり売れなくさせたから、ということだったのでしょう。

要するに、マカオのポルトガル人商人や、スペイン本国の商人やヌエヴァ・エスパニャ(メキシコ)のスペイン人商人たちが、従来享受してきた既得権が失われる危険が生じたために王室に圧力をかけた結果が、国王勅令なのです。

これら商人の既得権は、不利な交易条件に甘んずるという、植民地側の犠牲の上に成り立っていたものです。

植民地官僚の私利私欲の行動が、「植民地からの収奪⇒本国側の利益独占」という構造を脅かしたというところが、皮肉でもあり、また面白いところではないかと思います。

その点を考慮すると、この船に「密輸船」というレッテルは似合わない感じがします。


2.二人のイエズス会士について


〈消極的だった?イエズス会〉

そもそもは、(おそらくは)第8代副王の甥から、管区長が強引に派遣を要請され、不承不承引き受けた、という話があります。

その船がマカオ・イエズス会の協力を見込んで送られたと考え、イエズス会側も積極的だったのではないかという推測もあります。

けれども、副王ガルシアが弟である司祭エルナンド・デ・メンド-サのペル-転任を要請したときの総会長の反応は、金儲け主義にイエズス会士を巻き込みかねない副王の性向を警戒している様子でしたから、ペル-管区長も副王とは距離を保つ方針だったのだろうと、思いますが、結局は現地当局との関係を考慮して、要請を呑まざるを得なかったのでしょう。

本部方針では否決されていることを、出先機関は現地当局との関係上受け容れざるをえず、受け容れ決定については出先機関の責任とされたということです。大きな組織では、よくありがちなことです。


〈「従順」という評価〉


その結果選ばれた二人の評価は、「従順」ということでした。

中世以降の、修道会士の行動基準が「清貧・貞潔・従順」であったことは、世界史の教科書に出ていたような気がします。つまり、「従順」は修道会士として当然の条件であり、それだけでは、「特に言うべきことがない、何の取り柄もない人」という意味になるでしょう。

特に、イエズス会内で、有能と認められるためには、例えば学問や芸術(美術・音楽)や技術的知識(建築や財務会計など)や語学(布教地の言語)や政治力などで、他に秀でた才能を見せることが必要だったようです。

そういう組織の中で、「従順」という評価は、レアンドロとゴンサロが船に乗った時点ではそれぞれ、もう46歳、50歳であったことも考えると、かなり辛く厳しいものだと考えられます。


〈二人の経歴と性格〉

・神父レアンドロ・フェリペ
には、先に書いたこと以外に、特に記録はありません。

・修道士ゴンサロ・デ・ベルモンテは、37歳で入会し、プロクラド-ル(財務担当者)だったということですから、入会前に商人としての経験があったのかも知れません。

この人に関しては、メンデス・ピントを思い出します。
ピントは、「インドで最も金を蓄えた者の一人である」と言われたほどの有力な商人でしたが、インドで「日本宣教団」に出資すると同時に参加しイエズス会にも入会しましたが、4年後に退会しています。(http://iwahanjiro.exblog.jp/21876411/

私は、ピントは宗教的情熱以外の動機で入会したのではないか、と思っています。そして、ゴンサロにも、似たような要素を感じます。

ゴンサロも「従順」であった筈ですが、マカオ・ゴアで時間が経過するに従って本性が出てきたのでしょう。資金の運用方法を巡ってレアンドロと衝突したようです。

レアンドロは司祭ですから、修道士であるゴンサロより権限があった筈です。
ところが、年齢はゴンサロの方が4歳上で、またゴンサロの出身の家柄のほうが有力だったというような要素からゴンサロがレアンドロを甘く見たのかも知れない、と私は思っています。上司を甘く見たツケは、後で廻ってきます。


〈二人の衝突〉


既に、書きましたように、二人は差し押さえを免れた分の資金の運用方法を巡って対立します。

ゴンサロ修道士は、リスクの高い運用方法を主張したと言われています。ゴンサロは、何故この期に及んで、出資者という他人の資金をわざわざリスクの高い方法で運用しようなどと考えたのでしょうか。

私は、彼はもうペル-には戻らず別の仕事に就くことを考え、自分のこれからにとって有利な条件を提供してくれる相手に貸し付けようとしていたのではないかと考えています。

ゴンサロが貸し付けようとした相手は、インド副王―ポルトガル商人、つまりバリニャ-ノに対立するライン、の人物だったかも知れません。

一方、レアンドロ神父は、ペル-に戻ることを前提としていたのでしょう、極力早期にペル-副王を含む出資者に返金しようと考えます。その方法は、ヴァリニャ-ノかそのグル-プの誰かが、自分たちにとって都合の良い方法をアドバイスしたのでしょう。

結局、レアンドロ神父の方が権限がありますから、レアンドロはヴァリニャ-ノ・グル-プのアドバイスに従い、そのグル-プに、インド向け輸出のメリットを提供する手法でゴアに送金し、またゴアからペル-の出資者に送金しました。

ヴァリニャ-ノは盛んに、レアンドロが有能だったことを強調する報告をしていますが、それは、「レアンドロは、自身の知識と判断で我々のアドバイスも受けずに処理を行ったのであって、決して自分たちが彼を誘導したわけではない。」と、言いたいがためのものであることは言うまでもありません。


〈10年かけて、ペル-に戻ってから〉


10年かけて、ペル-に戻ってから、二人は、それぞれコレジオと修練院で、長い年月を外界と接触せずに過ごすことを余儀なくされたようです。

特に、ゴンサロ修道士には、レアンドロ神父に反抗し「従順の掟」を破ったこと、に対する厳しい処分が待っていたことでしょう。再三にわたる、本人及び家族からのスペインへの帰国許可申請は、当然聞き容れられませんでした。


二人とも、別に自分自身が望んであの船に乗ったわけでは、ありません。もし、船や積み込まれた銀が、マカオで差し押さえられることがなければ、また、その後、マカオやゴアで起きたような混乱や騒動が起きなければ、このような扱いは受けずに済んだのかも知れません。

「結果責任」です。それが、この組織の厳しいところです。


私は、1613年に伊達政宗が派遣したとされる「慶長遣欧使節」支倉常長をモデルとした、遠藤周作の小説「侍」の主人公 六衛門を思い出しました。そういえば、リマのコレジオでレアンドロ神父が亡くなったのも、1613年頃でした。

六衛門は、7年をかけてようやく帰国し、キリシタンに改宗したことを責められながら、「(使節には)どこで朽ち果てようと一向に構わない、身分の低い者が選ばれたことを」聞かされます。

ところが、その絶望の淵で、「人間のこころのどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを、求める願いがあること」に気付きます。使節としての使命を果たすために便宜的にキリシタンになったはずの彼が、ときおり、キリストのことを考えるようになるのです。(http://iwahanjiro.exblog.jp/20581302/


レアンドロ神父とゴンサロ修道士は、コレジオと修練院で、一体、何を誰のことを思っていたのだろうと、私は考えます。
 



〈あと二枚の写真のこと〉


終わりに、あと二枚写真を見て頂きたいと思います。


一枚目は、リマのセントロ(旧市街)にあるペル-国立図書館(BIBLIOTECA NACIONAL)の正面です。

1568年(レアンドロ・フェリペが入会した年)、イエズス会が現地聖職者養成のために、サン・パブロ学院(正式には、El Colegio Máximo de San Pablo)を設立したことと、レアンドロがペル-に戻ってから亡くなるまで、その学院で過ごしたことは先に書きました。

200年後の1767年、スペイン王カルロス3世によりイエズス会が追放され、翌68年サン・パブロ学院の図書館はサン・マルコス大学に移管されます。さらに、1821年の独立直後に創設された国立図書館にそれが引き継がれたのです。その関係で、この国立図書館の建物は旧市街のサン・パブロ学院跡にあるのです。

ゴンサロ・デ・ベルモンテが入っていた(入れられていた?)修練院があったというセルカドというのも同じ地区です。今でもこのあたりに、イエズス会の施設が散在しています。

この建物の前に立ってじっと目をつぶり、四百年前の彼らを思い浮かべました、と言いたいところですが、車も人も往来の激しい所で、そんな雰囲気ではありませんでした。



ペル-・イエズス会士二人の遥かな旅路 [その3]_a0326062_23294645.jpg



二枚目は、この国立図書館と同じブロックの反対側にある,ひじょうに綺麗なイエズス会の聖堂です。
外観はあまり目立ちませんが、内部の装飾は見事です。

正面玄関の上部にある、[IHS]のシンボルが読み取れるでしょうか。これは、いわばイエズス会のロゴです。

その意味は、In Hoc Signo vinces.(この印のもと、汝は勝利するであろう)とも、
Iesus Hominum Salvador.(イエズス、人々の救済者)とも言われています。



ペル-・イエズス会士二人の遥かな旅路 [その3]_a0326062_23462798.jpg




〈完〉



[参考図書]

Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI, Fernando Iwasaki Cauti, Pontfica Universidad Católica del Perú

「キリシタン時代対外関係の研究」  高瀬弘一郎著   吉川弘文館

スペイン帝国と中華帝国の邂逅 十六・十七世紀のマニラ 平山篤子著 法政大学出版局






# by GFauree | 2016-01-28 14:36 | リマからマカオへ行った船 | Comments(1)  

ペル-・イエズス会士二人の遥かな旅路 [その2]

     
ペル-・イエズス会士二人の遥かな旅路 [その2]_a0326062_08152406.jpg
                 〈リマ・カリャオ港沖のサン・ロレンソ島〉





〈スペイン植民地ペル-側の事情〉



前回[その1]では、1591年に(現在のボリヴィア)ポトシ産の銀を満載した船のペル-からマカオへの航海を、それがキリシタン時代のマカオと日本にどんな波紋を惹き起こしたかという観点から眺めることになったように思います。

今回は、この船に関するスペイン植民地・ペル-側の事情を知ることで、その航海の背景をより深く探ってみようと考えました。

参照したのは、「1592年、豊臣秀吉に会った『ペル-商人』フアン・デ・ソリス」の記事を書いた時にお世話になった「Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI(16世紀の極東とペル-)」という本です。これは、日系ペル-人作家 Fernando Iwasaki Cauti(フェルナンド・イワサキ・カウティ)氏によって、1992年に大学院修士課程の論文として書かれ、2005年にペル-・カトリカ大学から出版されたものです。



〈銅の調達は口実だった〉



前回の記事に、例の船がペル-からマカオへ直行した事情に関して、船が送られた目的は「大砲製造のための資材である銅を求めること」、とされているのは実は口実で、本当は「ペル-副王の儲け仕事として、中国商品を仕入れること」であった、とイエズス会巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが総会長に報告していることを書きました。

また、背景として、この時代のスペイン植民地官僚には、在任期間中にその地位と機会を精一杯利用して、私的財産の蓄積に励む人が少なくなかったらしいということを挙げました。

上記のイワサキ氏の著書は、世界中に展開して「日の沈むことなき帝国」と呼ばれたスペイン植民地各地に派遣され、それを統治する立場にあった官僚たちの実態や体質をよく伝えてくれていると思います。


そこで、マカオへ船を送ったペル-副王や同時代のフィリピン総督の行動について、その本に書かれてある内容を以下にご紹介します。



ところで、これまでは、南米ペル-とアジアとの間を太平洋を超えて直接航海した船として、1588年にペル-からパナマ経由マカオに行ったフアン・デ・ソリスの船と、1591年ペル-・カリャオからマカオに行った第8代副王ガルシア・デ・メンド-サの船を話題にしてきました。

けれども、実はと言うか、当然と言うか、アジアとペル-の間を直接航行した船は他にもあるのです。



〈フィリピン総督の船とガレオン船〉


それは、1581年フィリピン総督ゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサが、フィリピン・マニラからペル-・リマに送った船です。

ついでに、フィリピンとメキシコの間について言えば、ガレオン船の航行がありました。

フィリピン諸島は、1565年にミゲル・ロペス・デ・レガスピの遠征隊がセブ島に根拠地を築き、また太平洋横断帰路を発見して、ヌエヴァ・エスパ-ニャ(メキシコ)のアカプルコに帰着したことにより、スペイン植民地とされます。その後、フィリピン・マニラとメキシコ・アカプルコ間の船の往来と交易(マニラ・ガレオン船貿易)が常軌化されたのです。


〈リマの街では、400年以上前から安い中国製品が売られていた〉


従って、この時代、中国商品は通常アカプルコ経由でペル-へも運ばれていたのです。
1590年代のペル-では、中国製の絹織物はスペイン製の約1/9の値段で販売されていたということですが、それは絹織物だけではなかったでしょう。リマの街に安い中国製品があふれているというのは、昨日今日の話ではなく、400年以上前からのことだったのです。



さて、ここからは、16世紀後半のスペイン植民地官僚たちが、その在任期間に如何に個人の蓄財のために涙ぐましい努力を払っていたかのお話です。



〈スペイン植民地官僚たちの涙ぐましい蓄財努力〉


1.フィリピン総督ゴンサロ・ロンキリョのケース


・新任ペル-副王の手数料稼ぎの話


まず、第4代ペル-副王の話です。第4代ペル-副王ディエゴ・ロペス・デ・ズニガ・イ・ヴェラスコ(ニエヴァ伯爵)は、1561年の着任時、50人の使用人を同行する許可を受けていましたが、実際は118人を同行しています。

当時、スペイン本国から南米植民地への渡航は制限されていました。スペイン本国の窮迫した経済状況を反映し、新世界に活路を求めた人々が殺到したのでしょう。ところが、その多くは植民地で生活する技術も資材も持たない人たちであったため、当然、現地で浮浪者化し、それが治安悪化の一因となったのです。

そこで、新任副王が赴任するにあたっても、渡航させる随員には許可を必要とすることとなっていました。しかし、それにしても、一人の副王の使用人の数として、118人は多過ぎます。

恐らく、副王は、赴任の際に渡航希望者を募り、渡航を許可されている者に加えて自分の使用人として随行させ、その人たちから手数料を徴収していたのでしょう。

つまり、植民地の統治者である副王自らが、着任時からそれも規定破りをしてちゃっかり手数料稼ぎをしていたということです。


・将来のフィリピン総督がペル-副王の使用人?


第4代副王ヴェラスコが、着任時に手数料稼ぎをした相手の中には、国王審議官メルカド・デ・ペニャロサの息子たち、ドン・ペドロ・デ・メルカドとゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサ(後のフィリピン総督)も含まれていました。

しかし、この高級官僚の息子たちが、新副王の使用人であるわけがありません。この息子たちは、新副王へ支払う手数料を負担してくれた父親のおかげで、いわば研修生として、植民地政府の役人の手口を実地で学んだのでしょう。

彼らが、父親である国王審議官や第4代ペル-副王からも多くを学んだことは、あとではっきり分ります。

ゴンサロ・ロンキリョ・デ・ペニャロサは、1561年のペル-研修旅行の翌年、スペインへ戻り、1567年、親の七光りで、メキシコ知事となって赴任します。そして、その10年後、フィリピン総督に指名されます。



・フィリピン総督がキャリアの中で見聞したこと



(1)1561~62年、ペル-研修旅行の間に

首都リマの治安を脅かすスペイン人浮浪者問題
ペル-市場に中国製品に対する強い需要があること


(2)1567~77年、メキシコ知事時代

・1573年、マニラからの最初のガレオン船到着時、中国製品によってアカプルコに生じた衝撃


(3)1577年~80年、フィリピン総督指名から現地赴任までの間に

・1578年、ペル-沿岸が英国の海賊フランシス・ドレイクの攻撃をうけたことから、防衛のための大砲他兵器の需要がペル-にあること



・フィリピン総督に指名されたとき、最初に考えたこと、そしてその障害は


ゴンサロ・ロンキリョが、フィリピン総督に指名されたとき、最初に考えたことは、おそらく、その新しいポストで如何に金儲けをするか、ということだったでしょう。

そのとき、まず頭に浮かんだのは、ペル-市場の中国製品に対する需要だった筈です。そのため、フィリピンから中国製品を満載した船をペル-へ送ることを考えます。

ところが、スペイン王室は、1573年にガレオン船によってマニラからアカプルコへ運ばれた中国製品の一部が積み換えられ、ペル-に向けて送られ、最終、リマの店舗に陳列されていたことはしっかり認識していたようです。

そして、もしマニラからの中国製品が恒常的に直接ペル-へ送られるようになると、アカプルコ(メキシコ)の御用商人は商売の機会を失い、スペイン王室は関税収入を確保するためにまた別の手段を講じなければならないことになります。そこで、中国製品の流通はあくまで従来のマニラ-アカプルコ経由に限定することが考えられたのでしょう。

1579年4月、「本国独占」の方針に反するものとして、ペル-・フィリピン間の直接貿易を禁止する勅令が発布されます。


・金儲けのための船を送る口実


それに対し、ゴンサロ・ロンキリョは、ペル-へ船を送る口実を考えます。
直ぐに思い付いたことは、「浮浪者問題」「海賊対策としての大砲の需要」だったのでしょう。

そこで、ゴンサロ・ロンキリョはフィリピン赴任前の1580年2月、手回しよくパナマから国王へ書簡を送り次のことを伝えます。

・フィリピンでは、より多くの植民者を必要としているので、ペル-の浮浪者をフィリピンへ船で移送したい。ついては、国王からペル-副王に対し、フィリピンへ送るべき浮浪者集めに協力するよう要請してほしい。

更に、1580年6月、今度はマニラから国王へ書簡を送り、ペル-第5代副王フランシスコ・アルヴァレス・デ・トレドの任期中に英国海賊ドレ-クが襲来したことから、ペル-副王には英国海賊と交戦するための大砲の需要がある筈だとして、「当地には、大量の良質な大砲があるので、容易かつ低価格で提供できる」旨、申し出ています。


・限りなく疑わしい船は、確かに送られたが


1580年7月に2隻の船がマニラからペル-・カリャオ港に向かったようですが、その2隻は3カ月後にフィリピンに戻ってしまい、1581年6月再度、船が送られたようです。

最終的には、1582年6月、メキシコで最初の捜査がおこなわれ、1583年1月、航海士や乗船者が陳述のために召喚されました。

その結果、途方もなく疑わしい商取引の内容が明らかにされました。可笑しなことに、わずか1/2トンの大砲とともに、300トンの絹・胡椒・陶磁器が送られて来ていたということです。(大砲のためでなく、商品搬送のために船を送ったことは、誰が見ても明らかです。)


2.ペル-第8代副王ガルシア・ウルタ-ド・デ・メンド-サのケ-ス


・着任早々から、中国との直接取引の許可を国王にはたらきかける


第8代副王は、着任早々の1590年2月、国王に書簡を送り、中国との商売を直ぐに始めたいとの願望を表明しています。

その内容は、まず、防衛のための要塞構築と艦隊船舶保有の必要性から始まります。
その費用は、防衛によって恒常的な中国商品の輸入が可能となるので、それに関税を課することによる莫大な関税収入によって賄うことができるだけでなく、余剰さえ生ずるというのです。また、その船によって、艦隊に必要な大砲を全てもって来ることも可能だ、としています。

また、どこかで 聞いたことのある「大砲の口実」が使われていますが、副王が本気で大砲を持って来ようとしていたとは考えられません。

1591年1月に受け取った、評議会の回答は否定的なものでしたが、そんなことにはお構いもなく、副王は中国へ船を送る準備を進めたようです。


・お決まり通り、自分の周囲を縁戚者で固める


1.イエズス会司祭である弟のペル-転任

1588年、ペル-副王に指名された直後、ガルシア・メンド-サは、自分の弟であるイエズス会司祭エルナンド・デ・メンド-サが、ペル-へ転任するようにイエズス会総会長クラウディオ・アクアヴィヴァに圧力をかけます。

アクアヴィヴァはガルシア・メンド-サに対し、会士に対しては商取引に関与しないように指示がされており、またその旨副王に伝えられている筈だ、との手紙を送りましたが、どうやら、副王は総会長の警告を無視したようです。

弟エルナンド・デ・メンド-サは、兄である副王の権威に従わねばならず、二人の会士を中国向けの船に乗せるために尽力したようです。


2.甥を中国向けの船の船長に起用


翻訳語では、甥ということになりますが、実際は従兄弟(いとこ)の息子である(日本語では正確にはどう呼んだら良いのでしょうか)ロドリゴ・デ・コルドバ・イ・メンド-サを、中国・マカオに向けて送った船の船長に起用しています。



「スペイン植民地官僚が如何に任期中に個人財産の蓄積に励んだか」という話を長々と書いてしまいました。日本でも、最近でこそ「インサイダ-取引」などと言って、厳しく監視されるようになりましたが、一昔前までは日銀総裁でも株式投資をしていたように記憶しています。あまり、よその国や過去の時代のことを笑えません。

それと、どうも権力志向の強い人は、お金への執着も人一倍だと考えて間違いはないようです。



副王の甥(とされている)ロドリゴ・デ・コルドバと、同じく中国向けの船に乗った二人のイエズス会士のマカオ到着後の行方については、次回に致します。


〈つづく〉


[参考図書]

Extremo Oriente y el Perú en el siglo XVI, Fernando Iwasaki Cauti, Pontfica Universidad Católica del Perú

「キリシタン時代対外関係の研究」  高瀬弘一郎著   吉川弘文館

講座/世界史 1 世界史とは何か 2 フィリピンとメキシコ 菅谷成子 東京大学出版会


























# by GFauree | 2016-01-23 13:12 | リマからマカオへ行った船 | Comments(0)