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なぜ「ペトロ岐部カスイ」は挫けなかったか [その5]

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          (写真撮影 三上信一氏)






彼の強靭な人格はすでに出国前に形成されていたのではないかと思い付いて、幼少期、セミナリオ時代を見てきました。

前回は「セミナリオ時代」に関し、以前に解釈の付かなかった「イエズス会入会請願文作成」について,考え付いた私の解釈を書かせて頂きました。

今回は、セミナリオ修了時から出国までの「同宿時代」について考えていきます。今回もまた、岐部についての話にはよく出てくるけれど、それが彼にとってどういう意味があったのかはあまり語られていない事柄について、私なりの解釈をお伝えしたいと思います。



3.同宿時代


岐部は、セミナリオ修了時イエズス会への入会が認められず、やむなくイエズス会の正会員である外国人宣教師の手足となって働く「同宿」として生活していきます。

〈同宿とは〉

「同宿」というのは、本来、仏教寺院で僧侶になるために修業する者を呼んだ言葉ですが、キリシタン教会内でもこの言葉を使いました。イエズス会は将来の修道士・司祭候補として彼らと契約して(契約の内容は定かではありませんが)雇用したのです。


彼らの仕事は、聖器室の係、使い走り、茶の湯の接待、ミサの侍者、埋葬や洗礼その他の教会儀式の手伝いをして神父を助けることなどで、キリシタン教会で働いていた看坊・小者と呼ばれていた他の日本人の使用人に比べると、より神父に近い宗教的な活動を担当していたようです。


同宿はカトリック教会が正式に聖職者として認めた神父と同じように祈り、修行、奉仕の生活を送っていたのですが、聖職者ではありませんから結婚することも認められていました。そういう生活の中で、岐部のように修道士・神父になることを希望する者は、いつの日かは聖職者候補として選ばれることを励みとして、独身を守って働いていたことになります。

〈ヴァリニャ-ノは同宿を評価していた〉

ヨ-ロッパ人宣教師のために、その手足となって従順に働く同宿(伝道士)の存在をキリシタン教会が必要としていた状況を、日本管区を監督・指導する立場にあった巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノは、1583年に書いた「日本諸事要録」の中で、次のように率直に認めています。


「第一、当初から今日に至るまで日本人修道士の数は不足しており、言語や風習は我等にとって、はなはだ困難、かつ新奇であるから、これらの同宿がいなければ、我等は日本で何事もなし得なかったであろう。今まで説教を行い、教理を説き、実行された司牧の大部分は彼等の手になるものであり、・・・。」


〈同宿は何人ぐらいいたか〉


それでは、日本のキリシタン時代にどのくらいの数の同宿や看坊・小者などの日本人被雇用者がいたのでしょうか、またそれは布教団全体のどのくらいの割合を占めていたのでしょうか。


五野井隆史著「徳川初期キリシタン史研究」(吉川弘文館)p.369に以下の記載があります。

「1609年11月12日付の『日本イエズス会のカ-ザ、人員、収入、経費に関する短い叙述』によると、イエズス会は、1609年に 神父(65)、修道士(75)、同宿(304)、小者(427)の計871名を扶養していた。看坊についての記載はないが、1604年当時160名であった看坊は、1609年には恐らく若干の増員を見ていたであろう。」

これを基に、1609年のキリシタン教会の布教団構成を推定してみると以下のようになります。

神父(65)、修道士(75)、同宿(304)、看坊(160)、小者(427) 計1,031名

一般的に、キリシタン時代のカトリック教会の活動は、渡来したヨ-ロッパ人宣教師が行ったものというイメ-ジがありますが、実際は、神父はイエズス会の布教団全体の約6%を占めていたに過ぎないのです。

神父・修道士を合わせたイエズス会正会員でも約14%に過ぎず、キリシタン教会の実態は、ヴァリニャ-ノが述べているように、残り86%を占める日本人被雇用者によって運営されていたと言っても過言ではないでしょう。


〈頼りになって便利だった同宿〉


また、同宿は神父の約5倍の人数いただけではありません。日本の言語や習慣を習得することの難しさを考えると、教会の活動において最も重要な要素のひとつと考えられる一般信者との意思疎通は外国人宣教師にはほとんど不可能であったでしょうから、宗教的活動の大部分は同宿によって進められていたと言うことも出来ます。


その上、同宿は同じ日本人被雇用者である看坊・小者とともに正会員でないために、教会を取り巻く状況によっては人員削減の対象になりました。同宿は充分利用価値のある労働力であるとともに、いざというときには、首を切れる便利な存在と考えられたのでしょう。ここでも、何だか現代企業の人の使い方に似ています。


〈なぜ同宿は多くて、修道士・神父は少なかったか〉


そういう事情から、同宿(伝道士)には高い評価が与えられていた一方、同宿を終えてイエズス会に入会した修道士に対しては厳しい評価が下されていました。修道士は、傲慢になって充分に働かないと見られていたのです。日本人は司祭に向かないという評価もヨーロッパ人宣教師によってなされていました。また、そのような評価を根拠にして、日本人の入会が意図的に抑えらたのです。


このような状況の下、岐部は同宿時代を送ります。
書いてきましたように、同宿は教義や祈りや教典・典礼の内容も理解し、教理指導も説教も行って、日本語の不自由な神父を補佐するという重要な役割を果たしていたはずですから、彼も、忙しい中にも充実した毎日を送っていたと考えたいところですが、そんなに事は単純でないのが世の常です。


〈上司との関係〉


まず、上司である外国人宣教師との関係が問題です。

同宿としては、希望通りに入会や昇格を果たすためには、おそらく上司である宣教師に良く評価してもらうことが必須だったでしょうから随分気も使って仕えたことでしょう。

宣教師にすれば、同宿は日本語の不自由な自分に代わって教義指導から説教までこなしてくれるだけでなく、一般信者や教会内の看坊・小者といった日本人使用人との意思疎通も助けてくれる有難い存在でしたが、なまじ専門教育も受けて相応に知識もあるだけに扱い難い面もあり、気の許せない相手でもあったでしょう。

そんな中で、厄介なことやトラブルの責任や業務拡大のノルマはしっかり部下に押しつけ、何か成功があれば自分ひとりの手柄のように本部へ報告するような上司はいなかったのでしょうか。


〈通辞ロドリゲスの正直な見解〉


遠藤周作の『銃と十字架』に引用されている通辞(通訳)ジョアン・ロドリゲスの日本人に対する見方を読むと、よくここまで意地悪な見方ができるものだと感心するとともに、もしこんな上司に仕えなければならないとしたら、さぞかしたいへんだっただろうと思わずにはいられません。

「これらの(神学校を卒えた)日本人の特徴は偽善です。彼等は天性、外側は謙虚で冷静を装えますから、わが会士はそれに幻惑され、この連中の信仰心がヨ-ロッパ人ほど強くなく、修徳も不完全なことを知らず、また見抜けないのです」

通辞ロドリゲスと言えば、『日本大文典』・『日本小文典』を著述するほど日本語に堪能で、豊臣秀吉の外交顧問も務めるほど日本の事情に通じたイエズス会士であったはずです。その人物がこんな言葉を残しているくらいですかから、日本人の神学校卒業生に好意的でない外国人宣教師は少なくなかったどころか支配的であったとさえ言えるのではないかと思います。

もっとも、ロドリゲスは幼い時にポルトガル人商人か宣教師の使用人として来日し、後にイエズス会に入り門閥などのバックもなく手八丁口八丁でのし上がったような人ですから、若い時に会内外の日本人に相当に虐められその恨みを秘かに持っていたのかも知れません。


〈岐部にとっては、どうだったか〉


1606年から1609年までの3年間、秋月のレシデンシアに配置された岐部は、上司としてポルトガル人神父 ガブリエル・デ・マトスに仕え、1609年12月から1615年3~4月までの7年間余りは、イタリア人神父 フランシスコ・エウジェニオに仕えたと考えられています。

この10年の間に、岐部を修道士・神父に昇格させるべく正規の会員とする動きはもちろんありませんでした。だからこそ、後に出国してから5年後にロ-マで会員となる必要があったわけですが。

私は、彼が仕えた二人の上司は要するに通辞ロドリゲスと同じようなヨ-ロッパ人であった、ということではないかと思っています。


〈その他の超えるべき障害〉


先に、キリシタン教会の布教団構成に関して見た報告と同じものと思われますが、
1609年にマカオで作成された報告があります。

その報告には、「秋月(福岡県西部・朝倉市の一部)のレシデンシア(修道院宿舎)には、神父1名、修道士1名、学生つまり同宿5名、小者12名が常駐している」とあります。

この同宿5名のうち1名が岐部であったと考えられますが、1名の上司に対し5名の同宿が仕えていたのですから、同宿間の競争もあったのではないかと思われます。

同宿の中には、既に妻帯している者もいたでしょうから、5人全員で競争していたわけではないかも知れませんが、入会・昇格のために上司エウジェニオ神父の推薦を得ることは相当困難なことだっただろうと想像します。


〈ふたたび、なぜ岐部は目標をあきらめなかったか〉


もし、入会・聖職者という長年の目標をあきらめるのであれば、まず同宿を辞めることが考えられます。また、同宿は続けるとしても、妻帯をし他の目標なり生き甲斐を支えに生きていく道も有り得ます。

しかし、岐部はそういう選択はせず、ひたすら子供のときから抱いていた夢に向かって歩き続けていたようです。

何故でしょうか。

信仰のある方なら、「岐部の信仰がそれほど強いものだったから」とお答えになるかも知れません。しかし、信仰の薄い私はそれでは納得できませんでした。

もっと何か身近に実感できるものがあったのではないかと思ったのです。けれど、それが何であるのか見当が付かないまま、長い時間が過ぎました。

そして、今回この記事を書くために考え直しているうちに、これではないかと思い当たることが出て 来ました。


〈殉教・奇跡・聖遺物〉


それは、岐部に関する本に書かれていて、私も読んだことはあるけれども、苦手な分野のことなので今まで避けてきたことです。

殉教や奇跡や聖遺物に関係することなのです。

私には「信仰というものは、粛然と心の中に抱くべきものだ」という観念が子供のときからあります。目に見える形で表わされる殉教や奇跡や聖遺物はその観念とはどうも、合いません。その言葉を聞いただけで抵抗を感じてしまうのです。

それで、長い間触れないで来たのですが、今回改めて見直してみたというわけです。


〈聖遺物に関するペトロ・カスイの証言〉


岐部の同宿時代の活動を示唆する資料があります。
それは、1620年に彼がロ-マについてから作成した『聖遺物に関するペトロ・カスイの証言』と題する文書です。

その文書には、二つの証言が含まれています。



証言Ⅰ

ひとつは、「至福なるマティアスの指について」の証言です。


マティアスとは、1614年3月筑前(福岡県西部)・秋月で殉教した同地域のキリシタンの中心人物 七郎兵衛のことであることが分っています。

岐部はその遺体を自分の手で墓から取り出し、長崎の司祭の下へ届けましたが、死後20日が経過していたにも拘らず、遺体から新鮮な血が流れていたことと、彼が遺体から指を切り離しロ-マに持参して、ポルトガル管区補佐ヌ-ノ・マスカレニャス神父に渡したことを、証言しているのです。



証言Ⅱ

もうひとつは、「(不思議な小麦の)穂について」の証言です。

1614年12月、肥前(長崎県島原市)・口之津で殉教した24人のうちミゲルという男の蒔いた(麦の)穂を彼の死後妻が耕したところ、麦が一晩に約30センチ伸びたので、人々が集まって来て高い値段で穂が売れた。その麦の穂は摘み取られた後も、何度もすぐに穂が生じてくるので、皆が驚いた。

この奇跡は、日本全体で評判となり、たくさんの人がその穂を大切に保管していた、というものです。


この証言は次のようなことを意味すると言われています。


(1)証言Ⅰが意味すること

・岐部がセミナリオ修了後に、秋月(福岡県西部・朝倉市の一部)のレシデンシア(修道院宿舎)に派遣され、秋月と甘木のキリシタン教会に関わって同地方の宣教活動に従事していたこと。

・「マティアスの指」を出国する際に持ち出したということは、1614年11月に遺体から指を切り離した時点で、既にローマに赴こうという遠大な計画を立てていたのではないかということ。


(2)証言Ⅱが意味すること

1614年11月、宣教師や高山右近と多数の同宿・小者らが、マカオ・マニラ・シャムに向けて出航ししましたが、岐部はこのときは出国せず日本に残っていたこと。


けれども、私はこれら以外に、何か見えてくるものはないかと考えているうちに思い当たることがありました。
それは、岐部がこの証言で何を伝えたかったかということです。


〈岐部はこの証言によって何が言いたかったのか〉



「マティアスの指」のマティアス七郎兵衛は、彼が担当し世話をした信者だったのではないかと私は思います。

だとすれば、彼が言いたかったのは、「こういう敬虔な信者と共に、また彼らの信仰のために自分たちは働いてきた」、また「これら信者と自分たちの信頼と努力が培ってきたキリシタン教会であるからこそ、これだけ殉教や奇跡に恵まれているのだ」ということではないでしょうか。

必ずしも彼に好意的でない上司の指図と厳しい同僚との競争の中にあっても、自分の夢に向かってまた自分の果たすべき使命に忠実に陰日向なく働き続ける岐部に信者たちは気付いていたでしょう。

前回も書きましたが、カトリック信者は神父を特別な人間だと考えているのが普通です。ですから、それだけまた厳しくも見ているのです。キリシタン時代は同宿が神父の働きをしていたのですから、同宿の言動も信者はきっと注意深く見ていたことでしょう。


「マティアスの指」の七郎兵衛は、その地方の有力なキリシタンだったと言われています。“有力”という言葉が何を示すのか定かではありませんが、私はそれは「武士ではないけれど社会的影響力を持った」という意味ではないかと思います。ということは、岐部は同宿としての任務を通じて、担当地域のキリシタンの重要人物から認められ神父を目指す生き方に共感を得ていたかも知れません。


こういう信者たちから得た共感や支持が厳しい境遇に在った岐部をどれだけ力付けたか分りません。きっと、さらに真剣に信者のために尽力しより大きな充実感と喜びを得ようとしたのではないかと私は考えます。

そしてまた、将来、司祭職を得た暁には、この信者たちが自分に示してくれた共感・支持に酬いるために、この信仰心篤い信者たちのことを、必ず本部に伝えようと、岐部は心に誓ったのだろうと思います。


こういう背景を前提とすれば、「なぜ出国する際に『マティアスの指』を持ち出したのか」、「なぜローマで『聖遺物に関する証言』を書いたのか」について説明がつきます。


聖遺物「マティアスの指」の奇跡・「不思議な麦の穂」の奇跡・マティアスとミゲルという二人の殉教者は、彼にとって、彼が同宿時代に日本で担当しまた彼を支持してくれた信者たちとその信者たちの素晴らしさを象徴するものだったのです。


岐部はロ-マに到着してから約半年後、司祭職を授けられ、それから1年4か月後に帰国を決意したと言われています。その決意の理由として、イエズス会の創始者イグナティウス・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの列聖式に参加したことがよく挙げられます。


けれども、もし同宿時代に、信者のために働き、信者から感謝・共感・支持を得て充実感を味わい苦難を乗り越えていくという経験をしていなければ、帰国を決意することはあり得なかったし、それから8年以上をかけて帰国するということも有り得なかったのだろうと私は思います。



次回は、最終回として岐部が残した手紙の内容と、岐部の生涯が語るものについて、考えるところを書かせて頂こうと思っています。


(つづく)


〈参考文献〉

ペトロ岐部カスイ 五野井隆史著 大分県先哲叢書
大航海時代と日本 五野井隆史著 渡辺出版
徳川初期キリシタン史研究 補訂版 五野井隆史著 吉川弘文館
銃と十字架    遠藤周作著  新潮社
日本巡察記    ヴァリニャ-ノ著 松田毅一他訳 東洋文庫


















# by GFauree | 2015-04-10 13:41 | ペトロ岐部カスイ | Comments(0)  

なぜ「ペトロ岐部カスイ」は挫けなかったか [その4]

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               (写真撮影 三上信一氏)






今回は、
「ペトロ岐部カスイ」が13歳のときから6年間在籍したセミナリオとはどんな所であったか、そしてそこで彼がどんな困難に遭遇し、それをどのように克服していったかを考えてみたいと思います。


2.セミナリオ時代


セミナリオとは、カトリック教会の神学校(聖職者養成機関)です。1600年、岐部は長崎のイエズス会のセミナリオに入学し、翌年セミナリオが有馬(現在の長崎県南島原市)へ移転したため残りの5年間を有馬で過ごします。


(1)入学資格


1580年、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノが定めた「セミナリオ規則」には入学資格について次のように述べられています。

・座敷において殿に目通りすることが出来る貴人(武士)や地位ある人の子弟であること。

・教会に長く仕える意志を持って、両親がセミナリオに入学させるか、あるいは教会に捧げようとする者であること。



(2)セミナリオの生活


セミナリオの生活は、朝4時半の起床から夜8時以降の就寝まで、1日10時間程度の勉強と祈りの毎日です。学習の中心はラテン語と日本語であり、特にラテン語教育が重視されましたが、第二外国語としてポルトガル語、上級生になると基礎宗教学や倫理学が加わったという話もあります。


生徒たちは、日本の僧侶と同じように剃髪し、制服である青い着物を、またその上に青か黒のマントを着用し、外出の際は列をつくり二人ずつ並んで歩くことが決められていたように、規律正しい生活を送っていました。


と、こう書いてくると、規律正しい祈りと勉学の毎日を送る育ちの良い利発そうな坊主頭の少年たちの集団が眼に浮かびます。けれども、それはあくまでこの学校を運営する組織が希望する条件であったということも考えてみる必要があると思います。



(3)生徒の構成


まず、入学資格についてですが、「有力な武士や地位のある人の子弟であること」という条件は、将来のキリシタン教会を担う人材を安定的に確保・養成するために、また生徒を通して教会が日本社会の有力者層と強く結びつくために必要だと考えられたものでしょう。


しかし、実際には、安土(現在の滋賀県近江八幡市)の神学校の場合に生徒がなかなか集まらず、高山右近などが半強制的に重臣の子弟を応募させたという話があります。


親として息子に「教会に長く仕える意志を持たせ」たり、息子を「教会に捧げ」たりするということは、「生涯独身を貫く」ことを選択させることになる以上、容易に決断できることではなかったでしょう。まして、1587年にバテレン追放令が出されて、キリスト教布教の基盤の脆弱さが露わになってからは、なおさら息子たちを神学校に入れることをためらう親が増えたことだろうと思います。


このようなことから、生徒として「有力な武士の子弟」を集めることは、それほど容易なことではなかったと思われます。


一方、「武士ではないけれど地位ある人」としては、長崎の有力者が該当します。実際に、長崎頭人(町年寄)総代 後藤宗印の次男ミゲル・後藤や、以前にこのブログで採りあげた長崎代官 村山等安の三男フランシスコ・村山もセミナリオで学び後に司祭になっています。


南蛮貿易を教会が左右していたことを考えると、これら長崎の有力商人にとって教会との結び付きを強めるためにも子弟を聖職者養成機関に送ることは必要なことであったと考えられます。


逆に、学校経営というのは資金を必要とする事業です。イエズス会が常に財政的に窮迫していたことを考えるとこれら富裕な商人の子弟は学校経営にとって必要な存在だったとも考えられます。


次に、直接セミナリオの生徒に関して言及したものではありませんが、布教長であったフランシスコ・カブラルは日本人信者について「彼等が共同の、そして従順な生活ができるとするならば、それは他に何等の生活手段がない場合のみである」と書いています。

また、天正少年使節の首席であった伊東マンショについて、「孤児同然に着の身着のままでいたところを教会に拾われセミナリオに送られた少年である」ことをペドロ・ラモン神父が総長にあてた書状の中で報告しています。



これらのことから、セミナリオの生徒の一部には、戦争のために家や土地を失い生活に窮した侍の子弟や司祭になることで出世を果たそうとした者もいたと考えられています。岐部の場合、このどちらにも該当する可能性があります。


以上、イエズス会としては極力「有力な武士や地位ある人の子弟」を集めたかったところでしょうが、実際には「様々な階層の多様な事情を持った武士や商人の子弟」が集まって来ていたということだろうと思います。




(4)ラテン語・ポルトガル語


ロ-マ・カトリック教会の中で、ラテン語は全ての典書・典礼・聖歌に使われる実質的な公用語でした。ですから、日本でもミサの中の祈りや聖歌は全てラテン語で行われていました。それは、今から50年前の1962~65年の第2バチカン公会議まで続いていたのです。

従って、今もそうかも知れませんが、カトリックの聖職者である司祭になるためには、ラテン語の習得は必須のことだったのです。

日本語で書かれた教科書も辞書もなく、文字も語彙も文法も全く違う言語を学習することは、どれだけ難しかっただろうかと想像します。現在でも日本語で書かれたラテン語の教科書は多くないのですが、学習の難易度について言えば、今の方が当時と比べものにならないほど楽でしょう。

このセミナリオはいわばラテン語の語学校のようなものだったでしょうから、仮にラテン語の授業に随いていけなければ辞める他はなかったでしょう。そして、そのために辞めて行く生徒は少なくなかったのではないかと想像します。

そういう中で、岐部は最後まで残り、後年に彼が書いた書簡をみるとラテン語は相当の水準まで習得できていたのではないかと思われます。

また、ポルトガル語は外国人宣教師との意思疎通のために学ばされたものと思われますが、後年ヨーロッパでの生活で不自由していなかった様子からみるとこれも充分習得できていたと考えられます。

もっとも、ポルトガル語・スペイン語・イタリア語はラテン語の子供のようなものですから、ラテン語に習熟していたのであればポルトガル語習得は苦にならなかったかも知れません。



(5)神父(司祭)になりたいという願望はどのくらい強かったか


次に、彼がどのくらい神父(司祭)になりたかったのか、ということを考えてみたいと思います。

カトリックの司祭は、祭司の権限を持ち、神の恵みを与え罪を許す権威を授けられている特別な人間です。

信者の子供にとって、親よりも学校の先生よりも知識も教養も権威もある偉い人と思われるのが普通です。

従って、カトリックの家庭で育った人の半分以上は一度は神父になることに憧れたのではないかと思います。

岐部の場合は、彼の誕生以来、厳しさを増していく周囲の環境にも耐える敬虔な信者である親の教育を受け、困難に直面するほどそれを克服することで、幼い時からの憧れをより強いものにしていったという感じがします。

ですから、彼の「神父になりたい」という願望は既にセミナリオ時代から「鉄よりも強い」と言えるぐらいのものだったのではないかと思います。



(6)セミナリオにおける岐部の位置付け


書いてきましたように、セミナリオ入学の際の岐部の父親は、主君の敗戦により住み慣れた土地を離れた「牢人」の身であり入学者資格にある「有力な武士」には遠く及ばず、また、長崎の要人たちのように教会を助成する財力も期待できない状況でした。

評価できるものがあるとすれば、15年前に140名の改宗に貢献した実績だけであり、その実績を学校側がどれだけ岐部に対する評価に反映させたかは分りません。


なぜ彼に対する学校の評価を気にするかと言うと、その評価がその後の彼の進路や処遇に影響しただろうと思うからです。評価が高ければ、セミナリオ終了後、正式会員となり更に上級の神学校コレジオに進み修道士や神父になる道が開けるかも知れません。逆に充分評価されなければ、憧れの神父になる道は閉ざされ、正式会員になれずイエズス会に雇用される伝道士(同宿)として働くことになるのです。

彼の親が有力者であるか否かは彼に対する評価のうちのいわば持ち点のようなもので、そこに学業成績の評価が加わる形で評価がなされていたのではないかと思われる節があります。


もうお気付きかも知れませんが、私は彼がラテン語も充分習得し学業の成績が良かったのに、セミナリオ終了後、上級の神学校へ行ったり正規の会員にさせてもらえなかったのは、彼の親の社会的地位や社会的影響力などの持ち点が低かったからではないかと考えているのです。

そして、組織としてはそんな冷徹な評価がなされる一方で、例えば教師たちの中には彼の不撓不屈の努力を認め見守り励まし続けた人がいたのだろうと思えるのです。それが、あとで出てくる請願文の話です。


(7)生徒たち


学課の内容にしろ生活の規律にしろ厳しい学校だっただろうと思います。

特に後半3年間は、今の日本で言えば高校に当たります。前半は皆に遅れないようにと夢中で過ごしたかも知れませんが、後半になれば自分の能力の水準も限界もだいたい分ってきます。

そこで考えるのは、自分に下されるであろう評価と想定されるセミナリオ終了後の進路のことでしょう。
また改めて気付くのは、自分に対する評価は、学課の成績だけではなく、親の社会的地位や影響力など本人の努力だけではどうしようもないものも考慮されて下されるということではないでしょうか。

そういうことを考え、意気消沈して落伍する者もいたかも知れません。また、自分の能力の限界を悟って、「入学したときの神父になるという夢にはこだわらず、伝道士としてそれなりに生きて行こう」というように気持ちを切り換えた者も少なくなかっただろうと思います。

そんな生徒たちの中で、なぜ岐部は自己の目標に向かってひたすら学業に励むことができたのでしょうか。

それは、セミナリオの生活がいくら厳しくても、彼が入学する前に経験してきた生活に比べればはるかに楽だったからではないかと私は考えます。

そして、確信に満ちて冷静に努力し続ける岐部を見守る教師たちの目が確かにあったと思われます。




(8)修養会


セミナリオには、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノノの指示で修養会というグル-プが作られました。このグル-プに選抜された生徒は、自分たちが節約した食事を近辺の町の貧者に届けたり、らい病患者の世話をするなどの社会的奉仕活動を通して謙遜と愛の修業をしていたということです。


これは、遠藤周作が岐部の評伝「銃と十字架」に書いていることです。以前これを読んだときは私は何だか唐突な感じを受けただけで、筆者が何を言いたいのかが分りませんでした。


けれど、今回改めてその部分を読んで気が付きました。
それは、もし岐部がセミナリオ時代に、この修養会活動というものを経験していたとすれば、その経験は後に布教活動を実践する段になって大いにに役立ったのではないかということです。


キリスト教布教活動と社会的奉仕活動とが歴史的にも深い関係をもってきたこと
をご存知の方は少なくないと思いますが、私は7年前に当地に来てからしばしばそれを感じさせられています。


修養会活動の経験によって、岐部のセミナリオ修了後の、同宿(伝道士)としての活動がより広範に、強力に、また彼に大きな喜びを与えるものとなった可能性があると、私は思うのです。




(9)ポルトガル(関係事項担当)顧問マスカレニャス神父作成の請願文


岐部は、1620年11月20日イエズス会に入会し修練院に入る際に「自身の出自と召命に関する小報告」というものを書いています。その中に、イエズス会への入会について次のように記しています。


「入会(を希望すること)の動機は、私自身の意思である。すでに14年前に自発的に望んだことであり、(それを表明するために)ポルトガル担当顧問マスカレヌス神父作成の請願文様式を使用した。」



この請願文の件も、以前に読んだ五野井隆史著「ペトロ岐部カスイ」に書かれてあったのですが、私は、ずっと意味が分りませんでした。


「小報告」に書いてある14年前とは、セミナリオを修了して同宿(伝道士)として働き始めたときですが、
「なぜ、何のためにそんな請願文というものを書いたのか」、


請願文には、決められた様式があったようですが、

「なぜ、請願文の様式が決められていたのか」、


イエズス会入会の際の小報告に関しては、
「なぜ、イエズス会に正式に入会できる段になって、わざわざ14年前に作成した誓願文の様式について書いたのか」、また「なぜ、請願文様式を作成した人の名前を書いたのか」


などと疑問が浮かぶばかりで、どう解釈したらいいのかさっぱり見当が付かなかったのですが、今回やっとひとつの解釈が浮かびました。


それは、こういうことです。


セミナリオを修了したとき、将来はイエズス会に雇用されて働く同宿(伝道士)ではなく、修道士・神父となれるようにイエズス会の正規の会員となることを強く希望していましたが、その望みは叶えられませんでした。


学力的にも人格的にも周囲から相当に高く評価され彼自身も多少の自信があったかも知れません。しかし、彼の入会は認められず、今後も教会のために働くとすれば同宿として雇用される道しかないことになりました。
セミナリオに入学したとき、すでに「牢人」であった父親と家族の境遇がその後どうなったかは確かではありませんが、いずれにしても安易に親の元に戻ることも出来なかったでしょう。


全ては、会が彼に下した評価によることです。なぜそのような評価が下されたのかは分りませんが、私は既に「彼の位置付け」のところに書いたように、彼の学力や人格に対する評価以前に、彼の親の社会的地位や社会的影響力によって彼に与えられていた「持ち点」が低かったためなのだろうと思っています。それ以外に、運営上の、または政策的な理由もあったかも知れません。


こう書くと、何か現代日本企業の人事評価の話をしているようでおかしな気がするのですが、実際、この時代のイエズス会の活動を見ていると現代企業と変わらないと感じさせることがよくあります。そういう意味で、私は自分の企業人としての苦い経験を活かせていると感じるときがあるのですが、それは余談です。


さて、理不尽な評価によって岐部は深い失望を味わい、今後の進路にも迷う苦境に陥ります。その時、有難いことに、彼の苦悩を理解し何とか彼を苦境から救い出したいと考える人がいたのです。それは、ふだんから彼の不撓不屈の努力を見守り励まし続けてきた教師たちの何人かです。


彼らとても、一旦下した決定を容易に覆すことはないこの組織の厳しさを知っています。なにしろ、彼らの組織は「服従」を主要な規範とする修道会の中でもその厳格さは群を抜いているとの定評がある程です。組織の決定に反抗したと見なされれば、今度は自分の立場が脅かされます。それでも、彼らは何とかしたいと知識・経験の豊富な組織内の人物に相談します。


すると、出てきた答えは次のようなものです。


岐部と同じように、学力も人格も優秀と認められ、セミナリオ修了後には当然入会を許可されるものと周囲から思われていた者が何らかの理由で入会を認められなかった例が過去にも少なからずあった。


1592年2月、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャ-ノによって長崎で開催された第1回日本イエズス会管区総会議において、処遇に不満を抱き教会から離れていく日本人の同宿(正規会員でない伝道士)が多いことが問題となり、同時に岐部のように現状は入会が認められていないものの引き続き教会に留まり布教活動に従事させるべきと考えられる者をどう扱うかについても議題に挙げられた。


結局、この件についてはその場で結論の出なかった諸問題と共に、日本管区を代表してヒル・デ・ラ・マタ神父が同年ローマに赴いて本部の指示を仰ぎ、その結果は1598年日本へ持ち帰られた。


持ち帰られた、本部の指示の内容は以下の通り。

セミナリオの修了予定者で、学力・人格とも優秀と認められるが修了時までに会から入会を承認されない者のうち、本人が真に入会を希望しているとセミナリオ責任者が認めるものについては、所定の様式による本人自筆の入会請願書をセミナリオ責任者に対し提出させるものとする。

入会請願書は、日本管区担当アントニオ・マスカレニャス神父作成の様式によるものとする。

入会請願書の性質はあくまで異例のものであり、対象者についてはセミナリオ責任者の責任において厳選し,また提出させた書面の内容を公表することはなく厳重に保管すること。   

岐部のケースもこの過去の本部指示に従って対応してはどうか。』


これを聞いたセミナリオの教師たちは、正直なところ落胆したことでしょう。「入会請願書」と言っても、内容は入会希望者に確かに入会を希望していることを表明(宣言)させるだけのことで、会の側はなにも約束しておらずただ入会希望者自身に宣言させて精神的義務を負わせるためだけのものに思われたのです。

会員として受け入れないとの決定はもはや覆すことができないのは確かでした。しかし、そこでひとつの考えが浮かびます。それは、「将来再び彼の入会が検討されることがないとは言えないのだから、その時のために彼がセミナリオ終了時点で確かに入会を希望していたという跡を残すことは意味があるかも知れない。」ということでした。さらに、「入会請願書」という形を残させることは、入会を誰よりも強く希望してきた彼の努力を改めて認め、励ますことにもなり得ると考えられたのです。


そういう考えのもとに、「入会請願文」提出を岐部に勧めてみると、意外なことに、彼は素直にその勧めに従いました。すでに、会に雇用され伝道士として働くことに気持ちを切り換え始めていたのかも知れません。また、セミナリオに入る前の食うや食わずの生活を思い返して、憧れの司祭職に向かってどんな苦労も乗り超える覚悟を新たにしていたのかも知れません。


教師たちが、自分のことを評価しそこまで気にかけてくれていたことに感じ入り、感謝の念を強く持ったとも考えられます。さらに、自分と同様な境遇にある者に対して種々の考慮を重ねてくれた担当がローマの本部にもいたことを知って心強く感じ、感激し、アントニオ・マスカレニャスというその担当者の名前をしっかり記憶に刻み込んだのではないでしょうか。


私のように信仰薄き者でも、それなりの苦労の後に自分の心に響くような「めぐりあわせ」を感じた時には、神の賜物という言葉が頭に浮かぶことがあります。岐部がロ-マに到着し対応してくれる担当者の名前がヌーノ・マスカレニャスであり、それがアントニオ・マスカレニャスの弟だと知った時の感激はどれほどのものだったでしょうか。


その感激が、ついにロ-マで司祭職を得てイエズス会に入会した際に書いた「小報告」の中に、「(すでに、十四年前に)マスカレニャス神父作成の請願文を使った。」と記させたのだろうと私は考えます。


私がなぜこの「請願文」のことにこだわるかというと、「請願文」を書いたセミナリオ修了時、岐部は18~19歳です。そんな「請願文」を残すというような知識も知恵もまだ持っていなかっただろうと思うのです。ということは、誰かが彼にその対応を教え勧めたのでしょう。


それは、彼の周囲にいて、彼よりは会の内情を知る立場にあって彼に忠告を与え得る人ですから、おそらくは彼を指導してきた教師のうち誰かでしょう。

私が何を言いたいかと言うと、「請願文を残した」という彼の行動は、セミナリオ時代の彼が、周囲の人たちに不撓不屈の努力によって共感や支援を得ていた証しではないかということです。


そして、その「周囲の共感や支援」こそ彼がセミナリオ時代の苦難を克服する原動力だったのではないかと思うのです。この「周囲の共感や支援」は、また次の同宿時代にも彼が苦難を乗り超えるための最大の力となったのでは、と私は考えています。


以上、岐部のセミナリオ時代について書いてきた事のうち特に、セミナリオでの岐部の評価のされ方、入会が否定された理由、「自身の出自と召命に関する小報告」に書かれた内容などについては、下記の参考文献に書かれてある事柄に、私の推測をかなり加えた解釈を書きましたことをご了解頂きたいと思います。


次回は、彼の人格形成の上で、私が一番重要だと思いかつ興味深い「同宿時代」です。この時代の岐部がどのような困難を経験しそれを乗り超えようとしたかについて考えることはまた、日本のキリシタン時代の実情に少しでも近付くことになるのではと、期待もしています。


〈つづく〉



[参考文献]

ペトロ岐部カスイ   五野井隆史著     大分県先哲叢書
大航海時代と日本   五野井隆史著        渡辺出版
銃と十字架       遠藤周作著         新潮社
日本巡察記    ヴァリニャ-ノ著 松田毅一他訳 東洋文庫




















# by GFauree | 2015-04-03 10:43 | ペトロ岐部カスイ | Comments(0)  

なぜ「ペトロ岐部カスイ」は挫けなかったか [その3]

 
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               (写真撮影 三上信一氏)







前回、「『ペトロ岐部カスイ』が1615年の出国前に、既に相当な困難を経験しそれを克服することが彼の強靭な人格を形成していったのではないか」と書きましたが、
それを、これから3回にわたって、幼少期・セミナリオ時代・同宿時代に分けて説明させて頂きます。


1.幼少期


(1)バテレン追放令の影響


・彼の生まれた1587年に、豊臣秀吉がバテレン追放令を出すと岐部一族の主君にあたる大友義統(よしむね)は棄教し、家臣・領民にたいしても棄教を命じています。

これに対し岐部の父親は「その2年後、一族の領袖 岐部左近太夫の妻の受洗を助けた」との記録があることから棄教の命令に従わず、その13年後に岐部がセミナリオに入学していることからも、父親自身の信念が変わることはなかったと考えられています。


・実は、この追放令は南蛮貿易を維持したかった秀吉自身の「見て見ぬふり」によって実態的に緩和されます。しかし、緩和されることはあっても撤回されたわけではありません。

この時から、キリスト教が最高権力者によって布教を禁じられる宗教となったことが、信者であり続けようとした人々に及ぼした影響は見逃すべきではないでしょう。

私は、岐部親子と 主君の命令に従順に従った周囲との間の緊張が次第に強まり、公式には許容されていないキリスト教の信者であるゆえの周囲からの圧迫も増していったのではないかと想像します。



(2)主君 大友義統の改易と石垣原の敗戦の結果



・これに加え、1593年主君大友義統が秀吉によって改易され、岐部一族は所領を失い近辺に土着して農業に従事するに至ったと推測されています。岐部父子はそれまでの信教に起因する周囲との緊張に加え、これ以降は自ら食住を確保していかなければならない生活上の苦労も増していったと思われます。


・さらに、1600年 関ケ原の役の後、大友義統が石垣原の合戦に敗れ、
岐部一族は住み慣れた国東半島を離れて肥後に移らざるを得なくなったと伝えられています。
これにより、岐部と家族の生活はさらに困窮の度を深めていったのではないでしょうか。


以上、「ペトロ岐部カスイ」が幼少期からすでに味わったであろう苦難を挙げてみました。


岐部が弟とともに長崎の神学校(セミナリオ)に入学したとき、彼は13歳で今の日本で言えば中学1年生です。もし、ひとりの中学1年生が既に幾多の苦難を経験しながら健全で優秀な少年に育っていたとすれば、それはその少年の家族と彼自身の不屈の努力の結果ではないかと私は先ず思います。


次回はセミナリオ時代です。


〈つづく〉













# by GFauree | 2015-03-31 14:29 | ペトロ岐部カスイ | Comments(0)  

なぜ「ペトロ岐部カスイ」は挫けなかったか [その2]

なぜ「ペトロ岐部カスイ」は挫けなかったか [その2]_a0326062_08465620.jpg


  (写真撮影 三上信一氏) 





-彼の生涯-



1.幼少期


・1587年、父岐部ロマノと母マリア波多の子として豊後国(現在の大分県)浦辺に生まれる。

父ロマノは、豊後国伊美地方の領主の一人であり、岐部一族の頂点に立つ岐部左近太夫の親族であり臣下であった。岐部左近太夫は大友宗麟の嫡男大友義統(よしむね)に側近として仕えた人物である。

1585年、岐部ロマノが府内(現在の大分市)のイエズス会に対し宣教師派遣を要請し、浦辺地方で140名の改宗が実現されたことが「イエズス会日本年報」の中に報告されている。

岐部の誕生と同年の1587年4月、大友義統は主要な領主・重臣のほぼ全員とともに受洗し、キリスト教に改宗したと伝えられている。ところが、そのわずか3か月後の7月、豊臣秀吉によって伴天連追放令が発令されると義統は一転して棄教し、1588年3月 家臣と領民に対しキリシタン棄教を命じた。

しかし、1589年度「イエズス会日本年報」のルイス・フロイスの報告には「岐部左近殿の妻は夫と善良なキリスト教徒である親族の岐部ロマンから、我らの聖なる教えのことを聞いてキリスト教徒になることを決意し・・・。」とある。


・1593年、秀吉による朝鮮半島への侵略戦争に参戦した大友義統が「臆病者」とされ改易されて豊後国を没収される事態が発生し、岐部氏一族も同時に所領を失ったと考えられている。


・1600年、関ケ原の役の後、大友義統は石垣原において黒田孝高の軍と戦って敗れた。

岐部左近太夫もこの合戦で亡くなり、岐部氏一族は逃れて、伊美・中村の円浄寺跡に隠れ住んだと言われている。


2.セミナリオ時代


・1600年、秋ないし冬に、長崎のイエズス会のセミナリオに入学する。

・1601年、セミナリオが移転したため残りの5年間を有馬で過ごす。

・1606年、セミナリオ修了時、イエズス会への入会を強く希望したが認められず、将来イエズス会に入る決意を表明する意味の誓願書を残したと考えられる。



3.同宿時代



セミナリオ修了後、正式(イエズス)会員ではない伝道士(カテキスタまたは同宿)としてイエズス会に雇用されヨーロッパ人宣教師の指図の下に働く生活を始める。

同年、筑前(現在の福岡県西部)秋月(現在の朝倉市の一部)のレジデンシアに配属される。
・1611年、甘木のレジデンシアに移り、秋月・甘木地方で活動する。



4.長崎-マカオ-ゴア-ダマスカス-エルサレム



1615年、長崎からマニラへ。同年秋、マニラからマカオへ渡る。

マカオでは、「カトリック要綱」やラテン語の講義には参加したものの、司祭になるために必要な哲学は受講させてもらえないなどの扱いに失望した日本人同宿グル-プの中に含まれていたと考えられる。

・1616年 11~12月、ミノエス・ミゲルと小西マンショと共にマカオからマラッカ経由インドに向かう。
1617年5月、ゴアに到着。
1617年 秋、ミノエス・ミゲルと小西マンショはゴアを出帆、リスボンへ向かう。

・1618年 9月以降、岐部、ゴアを出発、ホルムズ島を経由。
・1619年 2月頃までに、岐部、ペルシャ湾岸ウブツラに到着。
       4月半ば~5月、シリア・ダマスカスへ到着。

ダマスカスからゴラン高原を横切り、ヨルダン川沿いにガリラヤ湖岸経由、エルサレムに至る。



5.ローマ-リスボン



・1620年 5月中旬~6月中旬、ロ-マに入る。
       11月15日 「司祭職」を授けられ、ロ-マ教区の教区司祭となる。
       11月20日 イエズス会への入会を許可され、アンドレア修練院に入る。
              
・1622年 3月12日 イエズス会創始者イグナティウス・ロヨラとフランシスコ・ザビエルの列聖式に                    参加し、急遽帰国を決意する。

・1622年 6月6日 ロ-マを出発。
       9月7日 ポルトガル、エボラ着。
            数日後、リスボン着、市内オリヴェテ山修道院に入る。



6.リスボン-ゴア-マニラ-マカオ-シャム-マニラ-坊ノ津-長崎



・1623年3月25日  リスボンを出発 

・1624年5月28日  インド、ゴアに到着。
      8月     マニラに着く。
      10~11月 マカオに着く。

・1627年7月   マカオからマラッカ行の船によりシャムへ渡航。             

(日本に帰航する朱印船や中国船に乗船しようと2年間その機会を待つが、結局その機会は得られず。)

・1629年7月 アユタヤからマニラへ渡る。

・1630年6月20日前後 ルパング島を出発。
      7月中旬    薩摩の坊ノ津へ到着し、長崎へ向かう。




7.潜伏から捕縛、焼殺まで



・1639年5月 仙台藩において捕縛され江戸に護送される。
         尋問と説得の後、「穴吊るし」の拷問が加えられ、焼殺される。





-彼の生涯について、思うこと-





こうして、彼の身に起きた事柄を列挙しそれを俯瞰してみるとき、まず私たちが想うのは、禁教令による出国から聖地エルサレムを経てロ-マに至るまでの5年間の道程の途方もない困難さではないかと思います。

そして、次に想うことは、ついに司祭職を得たロ-マでの晴れがましさの一方で、禁教・迫害の激化する日本へ戻っていくことを決心したときそしてそれからの心の動きでしょう。

さらに、日本へ帰り着くための7年間の波乱に満ちた道程、帰国してからの9年間の潜伏生活、その後の捕縛・尋問・拷問の間に、彼はいったい何をどう思っていたのかということが知りたくなります。

このように、彼の生涯について私が想うことや知りたいことは、出国してから惨殺されるまでの約25年間に集中していましたが、結局それは「その期間の苦難の連続の中でなぜ彼が挫けなかったか」という疑問に関係しています。それが私にとって最大の疑問だったということになります。

そこで、私はその「なぜ挫けなかったか」という疑問について考え始めました。そして、気付いたことは、「彼の苦難は1615年の出国の時点のもっと前からあったのではないか」ということです。

そういう観点から、私は彼の同宿時代・セミナリオ時代・幼少期を見直してみました。
すると、既にそれらの時期から彼が相当の苦難を経験し、またそれを克服することで稀にみる強靭な人格を形成していった可能性があることが見えてきたのです。

それは、資料的な根拠のある話ではありません。そういう意味で「歴史」とは言えない「仮説の塊」みたいなものでしょう。でも、将来どなたかが立証して下さるかも知れません。

次回、それをご説明したいと思います。



つづく



[参考文献]

「大航海時代と日本」 第五 殉教者ペトロ岐部カスイ神父の生涯 五野井隆史著 渡辺出版
「ペトロ岐部カスイ」 五野井隆史著 大分県教育委員会 大分県先哲叢書

        


# by GFauree | 2015-03-24 08:11 | ペトロ岐部カスイ | Comments(0)  

なぜ「ペトロ岐部カスイ」は挫けなかったか [その1]

なぜ「ペトロ岐部カスイ」は挫けなかったか [その1]_a0326062_03510753.jpg


1.「ペトロ岐部カスイ」についての新聞記事


これは、昭和39年8月12日付東京新聞(ラジオテレビ版)記事の切り抜きです。昭和39年つまり1964年の8月と言えば、約50年前の東京オリンピックの2か月前ということになります。

ちなみに、右上の「東京新聞」「第二部」という表示の下の小さな記事は、「フジテレビが翌月からカラ-・テレビの放送を始める」というもので、この時点で「フジテレビはまだカラ-ではなかった」ということが分ります。

さて、問題の記事の内容ですが、「近く“列聖”されることが有力視されている『ペドロ・カスイ岐部』をモデルにしたテレビドラマ制作の注文が放送作家 並河亮氏に、西ドイツ・ケルン・イエズス会から寄せられた」というものです。

今回改めて読んでみて、この記事にはところどころに間違いがあることに気付きました。例えば、「ペドロ・カスイ岐部が近く”列聖”されることが有力視されている」と書かれていることです。


カトリック教会が、信者の死後その徳と聖性を認めて福者(Beato)の称号を与えることは”列福”と呼ばれ、この福者に対し調査を行って聖人(Santo)として認めることを“列聖”というのです。ペトロ岐部カスイが“列福”されたのは、この新聞記事からなんと44年後の2008年のことで、“列聖”の調査はこれからということになります。

それから、“海賊の子でキリシタン武士”などという言葉も興味を引くためのものでしょうが、飛躍がありますしジャ-ナリスティックで鼻につきます。

ただ、どういう事情があったのか、こういう地味な内容がラジオテレビ版とはいえ一般紙で大きく採りあげられていること自体、不思議な感じがします。この時代、日本の社会全体が地味でまじめなものを採りあげる風潮がまだ強かったということなのか、などと考えます。



2.私がこの新聞記事の切り抜きをもっているわけ



この記事が掲載された昭和39年には、私は高校1年生でした。
私が父親から、「ペトロ岐部カスイ」の話を最初に聞いたのは、その前年の中学3年のときです。

父の話は、「江戸時代のはじめに、神父になりたくて独りでロ-マに行った男がいた」ということだったと思います。そのとき、『キリシタン人物の研究』H・チ-スリク著(吉川弘文館)も見せられました。それは、キリシタン時代の岐部を含む3人の日本人司祭の伝記が書かれた本です。

その本の中の岐部自筆のラテン語書簡(1623年2月1日付)の写真も見て、確かにそういう人物がいたらしいことは納得しました。けれども、それ以上考えることはありませんでした。そして、1年後に件の新聞記事を見せられたのです。

その後、遠藤周作が書いた「ペトロ岐部カスイ」の評伝『銃と十字架』が出た1980年ごろ、父のところから上述の『キリシタン人物の研究』を借り出して、それを読んだまま持っていたのです。そして、最近、そこに挟んであった新聞の切り抜きを見つけたというわけです。

私は自分の父親と親しく会話をした覚えというものが殆どありません。この、「ペトロ岐部カスイ」の話以外には父から何か聞いた覚えは余りないのです。でも、それが変なことだとは思っていませんでした。普通の親子というものはそんなものだろうと思っていたのです。

それが、50年以上経った今になって、「どうして父はこと『ペトロ岐部カスイ』については話をしてくれたのだろう」と、ときどき考えるようになっています。



3.キリシタン時代への関心は「ペトロ岐部カスイ」から


私は15~6年前、50歳になった頃からキリシタン時代史に関心を持つようになりました。きっかけは、「ペトロ岐部カスイ」です。

伝えられている「ペトロ岐部カスイ」の生涯を要約すると次のようになると思います。

「大坂の陣」の直前の禁教令を機に1615年頃出国し、5年後にロ-マに到着し司祭となる。3年後にリスボンを出発、その7年後に帰国、9年間 国内潜伏後捕縛され拷問を受け殉教。

これを見てわかるように、彼こそ模範的な信者であり理想的な聖職者であるように思えます。従って彼について語られるときは一般にひたすら最大級の賛辞で飾られることが多く、リアルな人物像が結べず当惑してしまいます。

一方、彼の態度が「“盲目的”信仰に徹することの出来る純粋さ」と評されているケ-スがあります。

さらにはどう評価してよいか苦慮した結果でしょうか、彼を「キリシタン冒険家」と表現しているケ-スさえあるのです。いくら冒険的な生涯であったにせよ、殉教した宗教家に対して「冒険家」はないだろうと思うのです。

こう言う私も、「ペトロ岐部カスイ」をどう考えるかについて、ずっと答えを出せずに来ました。けれど、退職して現役を離れたことや、当地にきたことや、年齢を重ねたせいか、この件についてある程度自分の考えが出来てきたような気がしています。

岐部の生涯についての最大の疑問は、「なぜ彼は幾多の苦難にも挫け(くじけ)なかったか」ということではないかと思います。そこで、今回その疑問に対する答えを考えてみることにしました。「なんだ、そんなことを考えたのか」と言われてしまいそうですが、敢えて私の考えを書いてみよう思います。

そのために、先ずは次回、彼の生涯を簡潔に見直したいと思いますのでお付き合い下さい。


つづく


































# by GFauree | 2015-03-21 11:16 | ペトロ岐部カスイ | Comments(0)